Lvov-Warsaw School and Our Philosophies


ニュースを一つ。そしてそれに関して、私見を思い付くままに記してみます*1

哲学、論理学の Lvov-Warsaw School に関心をお持ちの日本人は、その数が極めて少ないと思われますが、この学派の哲学について、興味深い文献が本日刊行されました。それは、以下の雑誌に掲載されています。

  • 『フィカル 分析哲学と文化をつなぐ』、株式会社ミュー発行、vol. 3, no. 2, 2018年。


ここに次の解説と翻訳が載っています。

  • 中井杏奈  「翻訳: ルヴフ=ワルシャワ学派 (解説) 第1回 (全2回)」、
  • トファルドフスキ  「ポーランド国民哲学についてのもうひとつの小論 (1911年)」、中井杏奈訳、
  • トファルドフスキ  「論理の教養について (1920年)」、中井杏奈訳、
  • トファルドフスキ  「もっと哲学を! (1935年)」、中井杏奈訳。


Kazimierz Twardowski の論文をポーランド語から和訳したものに、中井先生が解説を付けておられます。すごいですね。びっくりしました。このような試みはかなり珍しいと思います。昔、藁谷敏晴先生が Lesniewski の重要文献の一部をポーランド語から和訳し、『科学哲学』誌に掲載されていたことが思い出されました。書籍では高松鶴吉先生が Lukasiewicz の論理学の教科書をポーランド語から翻訳しておられたことがありました。ポーランド語重要文献からの和訳は、ぽつぽつとはあったかもしれませんが、ほとんどないに近い状態だったように記憶しています。それを思うとかなり珍しいですね。

少し前に、「間もなく Lvov-Warsaw School に関する翻訳が、雑誌に載るらしい」という情報をキャッチしたのですが、その時、私が思ったのは「かなり前に Wolenski 先生が Synthese Library Series から出された英訳本の抄訳が載るのか、あるいはその改訂フランス語版からの抄訳でも載るのかな?」ということでした。しかし本日ふたを開けてみると、Twardowski のポーランド語原典からの和訳ということで、ちょっと驚きました。直球勝負ですね。

私は Lvov-Warsaw School に少し興味があります (少しだけです。それに、詳しくもありません)。にもかかわらず私はポーランド語がまったくできません。ポーランド語の辞書や文法書は、気が付けば買い揃えているのですが、そのうち勉強しようと思っているものの、まるでやっていません。勉強道具を揃えたまではいいが、その後が続かないという、よくあるパターンですね。そんななか、ポーランド語原典からわざわざ翻訳していただけるのは大変ありがたいです。なかなかできることではないと思います。

中井先生は上記の解説文冒頭で (214ページ)、Lvov-Warsaw School と今回の邦訳論文を掲載している雑誌の方針が、よく似ていると述べておられます。両者とも、厳密な方法で精緻に哲学をする限り、問われる対象の種類や分野は問題ではない、とする態度が似ている、ということです。これに関連して私は次のように思いました。私が Lvov-Warsaw School に興味を持った理由はいくつかあります。そのうちの一つは、こうです。この学派の哲学するスタイルは、広くは分析哲学と同様、きちんと細かいところまで詰めて哲学をするというものなので、一歩一歩読んで行けば、ちゃんとわかるところが好ましい、ということです。これは逆に言えば、きちんと細かいところまで詰めて論証を積み上げて行けば、そのような哲学をしている当人の文化的、社会的、歴史的背景に関わらず、誰にでも実行できる哲学である、というところが好ましい、ということです。実際、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学に触れた私が思ったのは、「これは極東の島国にいる私たち日本人でもできる、世界に通用する哲学だ」ということでした。

西洋の哲学の中には、難解で深遠で秘教的な哲学、思想があります。そのような哲学、思想も重要であり、興味深いところもあるのですが (確かにあります)、なにせ、あまりに難解であり、思弁的であり、観念的であって、そのあまりのことに、私はそのような哲学、思想に触れて、それは私の理解を超えているのみならず、「人間の理解を超えている」と感じることがあります。どのような人間の理解をも超えているので、書いた本人の理解さえ超えているのではないか、と思われるほどです。そのような哲学は「行ってしまっている」と感じられるので、一部の熱狂的な人以外、付いて行けないところがあります。その哲学が神秘主義を明示的に標榜しているのなら、それはそれで構わないのです。しかしやっかいなのは、その哲学が神秘主義を峻拒しているような感じがする一方で、それでも甚だしく神秘的であるところです。その哲学が論証の体をなしていないのに論証の体をなしているかのように言われ、その哲学から明確な論証を取り出せないのに取り出せるかのように言われ、一見口座には多額のお金が預けられているように見えるのに、ほとんど cash out できないというところが、非常に困るのです。(特にこの段落の話は、私個人の主観的印象を述べている側面が強いです。間違っていたらすみません。)

それに対し、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学は、基本的に誰にでもアプローチできるものだとの印象を受けます。(これもまぁ、割と主観的な印象ですが。) この哲学では、哲学に酔ってしまう、あるいは哲学している自分に陶酔してしまうことが、比較的少ないと思います。しっかりと地に足を付けて、浮かれることなく地道に丁寧に正確に哲学を進めることができるという点で、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学には学ぶべきことが多いように感じられます。かつて東欧の辺境から、世界に届く哲学、論理学が生み出されました。私たちもこの学派にならって、極東から世界に届く哲学ができるかもしれません。

とはいえ、無理に世界に届かせようとしなくてもいいのですけれどもね。それは哲学の本質ではないから。それにグローバリゼーションが進んでいる今の時代に、哲学の国籍を言ってもあまり意味がなくなってきていますし。いずれにせよ大切なのは、一人一人がその人なりの哲学の問題をあたため、追究して行くことだと思います。世界に届こうが届くまいが。


さて、最初に上げた中井先生の解説文によると (231ページ)、次回の雑誌の号では Twardowski の「シンボロマニアとプラグマトフォビア (1921年)」、Kotarbinski の「教師のための論理学と数理論理学 (1925年)」の訳を掲載し、解説では、学派の中心が Warsaw に移り、戦後へと至る過程を追跡するそうです。興味深いです。


最後に。本日の日記は私の個人的な好みがかなり出ています。気分を害した方がおられましたらすみません。ある程度、哲学をして行くと、どうしても好みが出てくるのです。どうか気になさらないでください。そして私の記述に誤りがあれば、これもすみません。私見を思い付くままに記したので、文章がよれていたり、流れの悪いところがあったかもしれません。どうかお許しください。

*1:2018年10月2日追記。前回の日記で、次回の日記の内容は、基本的な論理規則が採用できないものならば、研究上、いかなる影響が出てくるのかについて述べるつもりです、と記しました。しかしそれを述べる準備ができていません。永遠にできないかもしれません。とりあえず今回は別の話題を取り上げました。どうもすみません。追記終わり。