Can We Adopt the Rule of Modus Ponens with Suitable Conditional?

先日、次の PR 誌を購入し、拝見させていただきました。

・ 『みすず』、読者アンケート特集、みすず書房、no. 678, 2019年1・2月合併号。

これは、様々な分野の先生方が、2018年に読んだ書物のうち、特に興味を持った本を上げて、その評を記しているものです。ほとんどすべてを読み、とても面白く思いました。

僭越なことですが、私個人も昨年読んだ文献で、特に興味を覚えたものをここで上げ、感じたことを軽く記してみたいと思います。

ただし、私はここ数年、精神的にも肉体的にもひどい状態に置かれ、実際にはほとんど本や論文を読んでいません。それどころかそもそも文献収集をほとんどしていません。

とはいえ、それでもいくつか手に取って見た中で、興味深い文献はありました。何はともあれ、それらを記してみます。以下の三つがそれです。

・ JC Beall  Spandrels of Truth, Oxford University Press, 2009,

飯田隆  『規則と意味のパラドックス』、ちくま学芸文庫筑摩書房、2016年、

・ Romina Padro  ''What the Tortoise Said to Kripke: The Adoption Problem and the Epistemology of Logic,'' CUNY Academic Works, 2015, A Ph.D. Dissertation submitted to the City University of New York, <http://academicworks.cuny.edu/gc_etds/603>.

なお、飯田先生のご高著は全ページ読んだことはありますが、英語の二つの文献は全部読んだわけではありません。

また、これらの文献で先生方が論じている事柄について、私はよく知っているというわけでもありません。

そして以下の私による記述は、徹底的に正確に書いている、というわけではなく、ところどころ緩やかに書いていますので、その点、ご承知おきください。

 

さて、これらの三つの文献ですが、私の中では三つとも、つながっています。これらどの文献も、modus ponens と呼ばれる推論規則について、考察を展開しているという点で関連があります。

Modus ponens というのは、任意の平叙文 p, q について、p ⊃ q と p という前提があれば、q という結論を導き出してよいとする規則です。「p ⊃ q」は条件文と言い、「⊃」は条件法と言って、「p ⊃ q」は「p ならば q」と読みます。たとえば、「明日雨ならば、試合は中止である」と「明日は雨である」という前提があれば、「試合は中止である」という結論を導き出してもよい、というのが modus ponens という規則です。

これは人間にとって、とても基本的で必ず成り立つ規則のように思われます。しかし、ずいぶん前に、「この規則は常に成り立つとは限らない」として、この規則の普遍的な妥当性を疑う意見もあるということを本で読んで知り、とても驚いたことがありました。これほど疑い得ないものを疑うなんて、信じられないと思ったのです。反例があるなんて、私には想像できませんでした。実際に反例があるのかどうか、今も私には確信が持てません。当時読んだのは、sorites paradox に言及していた文献です。この paradox が modus ponens に対する反例を構成しているのか、私にはまだわかりません。

いずれにしても、この modus ponens という規則は、人間にとって、あるいは他の動物も使用している規則なら、他の動物たちにとっても、おそらくとても基本的で、とても重要な規則だと思われます。その妥当性を改めて検討してみる必要があるとするならば、その検討作業は、これもまた大変重要な作業となるでしょう。

上記の Beall 先生の文献では、この modus ponens という規則や、contraction という推論規則の妥当性が検討されています *1

Contraction とは、任意の平叙文 p, q について、前提に p ⊃ (p ⊃ q) があれば、結論として p ⊃ q を導き出してよい、とする規則です。たとえば、「明日雨ならば、明日雨ならばだよ、試合は中止だ」という前提があれば、「明日雨ならば、試合は中止だ」という結論を引き出してよい、とする規則です。

先生は、これらの規則において中心的な役割を果たしている条件文、条件法という、文や論理語の特徴を詳しく検討されています。

先生が何を問題にされているのかを、私に関心のある視点から簡単に敷衍して述べれば、次のような感じになります *2

「真かつ偽である文があることと、排中律/二値原理が成り立つこととを前提とするなかで、ごく基本的で当然妥当だと思われる modus ponens が普遍的に成り立ちながら、Curry's paradox によって発生する triviality を防ぐため *3 、contraction が普遍的には成り立たないような、そのような条件法を含んだ条件文の真理条件が与えられねばならないが、それには条件法に対してどのような意味を付与すればよいだろうか? *4

今述べた文章にあるような、真かつ偽である文が、果たして本当にあるのか *5 、また、排中律、たとえば「太郎は花子が好きか、または嫌いである」などが、いつでも成り立つのか、これらの疑問は問わないことにして、Beall 先生がされているように、真かつ偽である文があることと、排中律/二値原理が成り立つことにしておきましょう。

さて、modus ponens, contraction という規則は、条件文からできており、条件文は条件法からできています。通常は、これらの文や論理語は、古典論理というものに従っています。しかし古典論理に従っている限り、真かつ偽である文があることを整合的に説明することはできませんし *6 、modus ponens の普遍妥当性も失われ *7 、contraction を使った Curry's paradox により、すべてが trivial になってしまいます *8

これを回避するには、一つの方法として、条件法、条件文を、古典論理とは違った風に理解してみせることです。実際先生は、Routley star や ternary relation, normal worlds, abnormal worlds などと呼ばれる概念装置を伴った、relevant logic に対する意味論の一つである Routley-Meyer semantics を利用して、条件法や条件文に対し、通常とは異なる理解を示しておられます *9

先生がその際にやって見せているのは、大きく言って次の二つのことです。

1. 否定文の真偽を、この文が評価される世界 (world) ではなく *10 、Routley star という関数を使って *11 、この世界と対になっている世界 (star-mate) と相対的に決めてやります *12古典論理ならば、ある世界 w で否定文 ¬p (p ではない) が真であるのは、その世界で p が偽である時、かつその時に限ります。ところが、Routley-Meyer semantics の場合には、ある世界 w で否定文 ¬p が真であるのは、w とは異なる、w の star-mate w* で p が偽である時、かつその時に限る、というように定義するのです。すると、w で p が真であるとともに、同じ w で ¬p が真であることも可能になります。というのも、その世界 w で ¬p が真なのは、その世界 w で p が偽である必要はなく、w と異なる w* で p が偽であればよいので、w で p を真としつつ、w* で p が偽であれば、w で ¬p も真とすることができるからです。これにより、この私たちの現実の世界で、真かつ偽である文があることが整合的に説明されます。*13

2. 一つの条件文の真理条件を二種類あるものとします。まず、条件文の値踏み (evaluation) の指標 (index) として、世界の集合を二つに分割します。一方は私たちの今いる現実の世界と何らかの意味で *14 同種の世界 normal world の集合、他方は私たちのいる世界と何らかの意味で同種のものではない世界 abnormal world の集合です。そして条件文の真理条件の一種類目として、条件文を normal world w で評価する場合は *15 、normal であれ、abnormal であれ、任意の世界に関し、その世界 w' で条件文の前件が真であるのに条件文の後件が偽であるような、そのような世界が一つもないこととして、定義されます。具体的に言うと、この定義は次のように、条件法 ⊃ を含んだ条件文の真理条件として与えられます。*16

Normal Condition:

w が normal world N に属し、w' が、normal であれ abnormal であれ、任意の世界 W に属する場合、

w で p ⊃ q が真である。 ⇔ w' で p が真である時、w' で q が真である *17

ここまで、条件文の真理条件の一種類目でした。この一種類目は、条件文を normal world で評価する場合でした。

次に二種類目です。今度の二種類目は、条件文を abnormal world w で評価する場合です。この場合では、ternary relation を利用しながら *18 、その abnormal world w と accessible な、任意の二つの世界の対 w', w'' の一方の世界 w' において、条件文の前件が真であるのに、対の他方の世界 w'' において条件文の後件が偽であるような、そのような世界がないこととして、定義されます。

Abnormal Condition:

w が abnormal world W-N に属し、w' と w'' が、normal であれ abnormal であれ、任意の世界 W に属する場合、

w で p ⊃ q が真である。 ⇔ w から accessible なすべての対 <w', w''> について、w' で p が真である時、w'' で q が真である。

以上から、条件文の真偽は、世界に相対的に決まることになります。

この 2. によって、modus ponens の普遍妥当性が確保されながら、しかし contraction の反例を構成することが可能となり、そのことによって contraction の普遍妥当性が否定されます。どうしてそうなるのかを説明してみましょう。ただし、ちょっと話が細かく、かつ長くなりますので、その話は以下に補説という形で box に入れて記します。この話に興味のない方は、box を skip して読み進んでください。

 

補説

Routley-Meyer semantics により、私たちの現実の世界で modus ponens が普遍的に妥当であることの説明

なぜ以上の道具立てにより、私たちの現実の世界で modus ponens が普遍的に妥当だと言えるのか、そのことを semantical な観点から示してみます。

私たちの現実の世界 @ を normal world の一つとしてみます。そして @ で modus ponens が普遍的に妥当ではなく、その反例があるとするならば、@ で modus ponens の前提である p ⊃ q と p がともに真でありながら、@ で modus ponens の結論である q が偽であることがある、ということになります。

今、@ で p ⊃ q と p が真であるとしてみます。すると、@ で p ⊃ q は trivial に真です。そして @ は normal world の一つですから、@ で p ⊃ q が真であるということは、条件文の真理条件 Normal Condition により、任意の世界で p が真かつ q が偽であることはない、ということになります。任意の世界で p が真かつ q が偽であることはないのですから、@ でも p が真で q が偽であることはない、ということです。これは、- @ での modus ponens の反例は、そこで p ⊃ q と p が真で q が偽である、ということを思い出すならば - どうしても modus ponens の反例を @ で構成し得ない、ということです。

これで、私たちの現実の世界で modus ponens が普遍的に妥当である、と言えることがわかりました *19

ただし、modus ponens の普遍妥当性を @ のような normal world で評価するのではなく、abnormal world で評価するならば、modus ponens はただちに普遍妥当性を失います。Abnormal world では modus ponens の反例が簡単に考えられるからです。

今、w を abnormal world の一つとし、w で p を真、w で q を偽とし、w から accessible な世界の対 <w', w''> がまったくない model を考えるならば、w で p ⊃ q を評価すると、w は abnormal world なので、条件法の真理条件 Abnormal Condition により、w から accessible な世界の対 <w', w''> が一切ないことから、w で p ⊃ q は tirivial に真です。先ほど w で p を真、w で q を偽とし、今しがた w で p ⊃ q は真と判明したのですから、このことは w における modus ponens の普遍妥当性に対する反例となっていることがわかります。このように、abnormal world では modus ponens は、普遍的には妥当ではありません。

ここで振り返ってみましょう。@ のような normal world では modus ponens は普遍的に妥当でしたけれども、abnormal world では modus ponens は普遍的には妥当ではありません。これは normal/abnormal world の両方の世界を考え合わせてみるならば、modus ponens は、結局普遍的には妥当ではない、ということを表しているのでしょうか? それとも、両方の世界を合わせて modus ponens の妥当性を云々することは意味がなく、それは level の違うもの同士を level と無関係に一緒くたにし、ごちゃ混ぜにするような、見当違いなことをやっているのでしょうか? う~む、ちょっと今の私にはよくわかりません。また時間があれば考えてみますけれど...。

 

Routley-Meyer semantics により、私たちの現実の世界で contraction が普遍的には妥当でないことの説明

今度は、なぜ Routley-Meyer semantics により、私たちの現実の世界 @ で、contraction が普遍的には妥当とは言えないのか、そのことを、semantical な観点から、反例を作ることによって示してみます。

Contraction 「p ⊃ (p ⊃ q), 故に p ⊃ q」 を、normal world の一つである @ で妥当ではないようにする、contraction の反例を作るには、Normal Condition により、どこか一つの世界、たとえば abnormal world の w で、contraction の前提 p ⊃ (p ⊃ q) が真なのに、その w で contraction の結論 p ⊃ q が偽になる、そのような model を少なくとも一つ、構成すればよい、ということです。

そこで abnormal world の w において、まず、contraction の結論 p ⊃ q が偽であることを示したければ、Abnormal Condition により、w' で p が真でありながら、w'' で q が偽であるような、w から access できる abnormal world の対 <w', w''> があるとすればよい、ということです。こうして、w' で p が真、w'' で q が偽であるとします。これでまず、contraction の結論を偽とすることができました。

なお、これから先の話では、w から access できる世界の対は、この <w', w''> だけだとしておきます。

さて次に、w で contraction の前提 p ⊃ (p ⊃ q) を真としたければ、Abnormal Condition により、w から access できるすべての対について、ということは、w から access できる世界の対は <w', w''> だけだとしておきましたから、この <w', w''> について、その w' で p が真であり、その w'' で p ⊃ q が真であればよい、ということになります。この「w' で p が真」であるということは、既に先ほど contraction の結論を偽とする際に定めたことですから、それはそれでよいとし、今度は w'' で p ⊃ q が真であるとするにはどうすればよいかと言うと、w'' から access できる世界はまったくない、とすれば、p ⊃ q に対する反例はなくなるので、この式は trivial に真となります。これで contraction の前提を真とすることができました。

以上により、contraction の反例となる model を構成することができました。

振り返ってみると、結局 contraction を normal world の一つである @ で妥当でないとするには、abnormal worlds として、

   w, w', w'',

の三つを用意し、「→」を accessibility relation, 「→ ×」を access できる世界がまったくないことを表すとするならば、

   w → <w', w''> (w から accessible な世界の対は <w', w''> のみ),

   w'' → ×,

   w' で p は真、

   w'' で q は偽、

と定めれば、あとは上に述べたように、自動的に @ で contraction が妥当ではない反例の完成、ということになります。 *20

 

さて、何だか物々しいですが、このようにして条件法、条件文の働きが、Routley-Meyer semantics により、考え直されたと言えるとします。ところで、これは、条件法、条件文に新しい意味が付与された、ということでしょうか? *21 または従来から親しまれている条件法、条件文の意味は、実は本当は上の 2. で与えられるようなものだった、ということでしょうか? もしも、もしもですが、新しく意味が付与されているとするならば、そのような条件法を含んだ modus ponens は、従来からの古典論理による modus ponens とは、厳密に言って、異なる規則だと言えると思います *22

すると、新しい意味の条件法を含んだ modus ponens の方が「よい」規則で、従来の modus ponens は「まずい」規則であると考えるならば、後者の規則を捨てる一方で、前者の規則を採用する必要が出てくると思います。

しかし、そうすると、もしかして私たちが身に付けているかもしれない古典論理に従った、ごく基本的とも見える modus ponens を簡単に捨て去って、代わりに別の論理に従う、それとよく似た規則を苦もなく採用したりするということは、そもそも可能なのでしょうか?

以前には、推論規則を採用したり拒否したりすることには、特に問題は感じられなかったようです。しかし、ごくごく基本的な推論規則を捨てたり採用したりすることが、果たして可能なのかどうかについて、近年、関心が持たれて来ているようです。

今回の話の始めに記した三点の文献のうち、飯田先生、Padro 先生の文献では、Saul Kripke 先生の idea を使って、ごく基本的な推論規則 modus ponens を「採用する」と言うことには問題があると主張し、その理由を提示して論証されています *23 。飯田先生たちによると、modus ponens を「採用する」などと言うことは、整合的には言い得ないことである、基本的な論理を「採用する」という、従来から特に問題のないものとされてきた考え方には筋の通らないところがある、と言うのです *24

Kripke 先生、飯田先生、Padro 先生によるこの言い分が正しいならば、今私たちが使っている modus ponens を捨て、類似の modus ponens を採用しようとしているかのような Beall 先生の上記の project は、果たして見込みのある試みなのでしょうか。もしも Beall 先生が、ごく基本的な規則である modus ponens を捨て、新たに類似の modus ponens を採用しようとしているならば、その場合にはですが、ひょっとすると Kripke, 飯田、Padro 先生方の批判に応える必要が出てくるかもしれません。

いずれにしましても、ここまでの話から、少なく見積もっても言えるだろうことは、modus ponens ほど単純で基本的に見える推論規則でさえ、まだよくわかっていない点があるようだ、ということです。それにしても、modus ponens って何なんでしょうね。わかり切っているようで、そこにはまだ私たちの知らない論点が隠されているのかもしれませんね。

私は Beall 先生、飯田先生、Padro 先生の文献を拝読していまして、以上のようなことを感じました。

ちなみに、Beall 先生は日々進歩されているようなので、今回取り上げた先生のご高著での立場、見解を、今では変更されているかもしれません *25

 

話が長くなってきましたので、これで本日は終わりにしたいと思います。今日の話で誤字、脱字などがありましたらすみません。また、私が何か誤解していたり、勘違いしていたり、無理解な点や浅はかな点がありましたら、すべてお詫び致します。Beall 先生にもお詫び致します。先生の叙述は明快で、すがすがしいところがあり、楽しませてもらっています。本日の私による話は先生を批判しているのではなく、建設的に論を掘り下げようとしているだけですので、私の無理解をどうか気になさらないようにお願い致します。無知、無学な点は、また勉強致します。大変ありがとうございました。

*1:と言いますか、 modus ponens は初めから普遍的に成り立つものと、先生は前提されているようですが。

*2:先生がご高著で、この問題しか論じておられない、ということではありません。念のため。

*3:Curry's paradox については、このブログで時々言及しておりますので検索をかけて見ていただければと思います。たとえば、この paradox のわかりやすい説明としては、2017年11月12日、項目「Curry's Paradox: An Intuitive Argument」をご覧ください。なお、2019年1月1日以前の記事は、はてなダイアリーで書き、それを2019年になってから、こちらのブログに引っ越したものです。そのため、2018年年末までの記事のなかには、体裁がひどく崩れ、文字化けを起しているものもあるようです。そのようなページの数が多く、修正するのも難儀なので、そのまま「放置」してあります。「解読不能」のページがありましたら、どうかお許しください。

*4:See Beall, chapters 1 and 2.

*5:真かつ偽である文の典型例は、いわゆる嘘つき文で、このような文をそのまま認めるべきか否かが、ここでは問題になっています。

*6:See Beall, p. 9.

*7:See Beall, p. 10.

*8:See Beall, pp. 26-27.

*9:See Beall, pp. 29-30.

*10:「世界」のことを「状況 (situation)」、または無色透明な「点 (point)」と読み換えても構いません。

*11:世界を引き数に取り、世界を値として返す関数の一つ。以下本文に出てくる operator * がそれです。この関数について、教科書による説明は、次をご覧ください。G. Priest, An Introduction to Non-Classical Logic, 2nd ed., Cambridge University Press, 2008, pp. 151-152, E. Mares, Relevant Logic: A Philosohical Interpretation, Cambridge University Press, 2004, pp. 78-79.

*12:なぜ文の真偽を、値踏み (evaluation) の指標 (index)、たとえば何らかの世界と相対的に決めてやるのか、という疑問について、たとえ話により、その疑問、疑念をいくぶん緩和してやりたいとするならば、次のような例を取り上げるとよいかもしれません。たとえばそのためには、「今」という表現を含んだ以下のような文を考えるといいです。すなわち「今、東京駅前では雨が降っている」。この文は真なのか、偽なのか、どちらなのかを問われたならば、多くの方は「その文の「今」というのはいつのこと?」と、問い返すでしょう。と言うのも、先の東京駅の文の真偽は、その「今」がいつの時点を指すのかによって、相対的に決まってくるからです。このように、平叙文のなかには、何らかの指標と相対的に真偽が決まってくる文が色々とあります。否定文の真偽や、このあと説明される条件文の真偽を、何らかの指標と相対的に決めようという idea は、以上のような例から、一応、あり得る試みであることが、わかると思います。ただし、否定文や条件文を、本当に何らかの指標と相対的に評価すべきなのか、もしもそのように相対化するのがよいとしても、どんな指標に相対化するのが最も適切であるのか、世界に相対的に決めるのが一番いいのか、などの疑問はまだ残りますが。

*13:この 1. での説明については、Beall, pp. 9-10 参照。

*14:「何らかの意味で」というのは、どんな意味でなのかが、ただちに問題となりますが、そもそも Beall 先生は normal world と、このすぐ後に出てくる abnormal world が、それぞれ何であり、互いにどう違うのかについて、詳しい話をされていないようです。そのため「どんな意味で」両世界が違うのか、私もよくはわかりません。ただ normal world は、とにかく真かつ偽である文があり得る世界のようであり (Beall, pp. 10, 105)、abnormal world は真でも偽でもない文があり得る世界 (Ibid.) のようです。なお、先生はご高著で、Routley-Meyer semantics を道具のようなものとして持ち出してきていて、normal/abnormal world などなどが何であるかについては、哲学的な正当化をわざと本格的には与えておられないようです。この点については、Beall, pp. 116-117 参照。

*15:一つの条件文の真理条件を、normal world で評価する場合と、この後でなされるように abnormal world で評価する場合の二種類に分けることは、少し前の註で述べた東京駅の例文を取ってみれば、その「気分」がわかるかもしれません。「今、東京駅前では雨が降っている」という文の真偽は、この文のなかの「今」という表現が、いつの時点を指しているのかによって、相対的に決まってきます。その「今」が現在か、過去を指しているならば、東京駅の文が真か偽かは、極めて困難な場合があるものの、原理的には経験的に確認可能と考えることも、あるいはひょっとして、できるかもしれません。しかし「今」が未来のことならば、そもそもまだ未来は生じていませんので、原理的にも経験的にその文の真偽を確認することはできません。予測して確率を出すのがせいぜいのところです。こうしてみると、東京駅の文を値踏みするための指標の時点というものは、過去と現在の時点に対して、未来の時点は、何か質的に異なっていると考えることも可能と思われます。すると、指標としての全時点を、過去と現在と、未来の二つの集合に分けることも、一応、理に適っているでしょう。このような例を念頭に置くならば、条件文の真理条件を normal world の場合と abnormal world の場合に分けて与えることにも、何か一理あるのかもしれない、という「気分」が出てくると思います。ただし、気分だけで済まさないためには、normal world や abnormal world などについて、相当に精緻な分析とその正当化を提示しなければならないでしょうが。

*16:この 2. での説明については、Beall, p. 30 参照。

*17:「⇔」は必要十分条件の記号です。なお、ここで先生は「⊃」の代わりに「→」という記号を使っておられますが、わかりやすさを優先して、「⊃」を使用しておきます。

*18:Ternary relation とは、さしあたり、可能世界意味論の binary accessibility relation を ternary に拡張したものです。教科書での説明は、次をご覧ください。Mares, Relevant Logic, pp. 27-28, Priest, An Introduction to Non-Classical Logic, p. 189. この ternary relation を利用して条件文に真理条件を与える Routley-Meyer semantics が何だか ad hoc な印象を受ける方がおられるなら (私もそんな印象をちょっと受けます)、次の二つの論文を見てみるのがいいかもしれません。Jc Beall et al., ''On the Ternary Relation and Conditionality,'' in: Journal of Philosophical Logic, vol. 41, 2012, G. Priest, ''Is the Ternary R Depraved?,'' in C. Caret and O. Hjortland eds., Foundations of Logical Consequence, Oxfrod University Press, 2015. これらの論文では、ternary relation の有望な解釈を示しながら、この relation を可能世界意味論のような意味論に使うことを、本格的に擁護しています。私はどちらの論文も通読してみたものの、私の力ではわからないところが多々あるので、参考までに名前を上げるだけにして、二つの論文が説得力のある話を展開しているのかどうかについては、論評を控えます。

*19:Routley-Meyer semantics によって、私たちの現実の世界で modus ponens が普遍妥当性を持つことの論証については、Beall 先生のご高著、p. 30 を参照しました。

*20:Routley-Meyer semantics により、私たちの現実の世界において contraction が普遍的には妥当性を欠くという論証は、Beall 先生のご高著、p. 31 を参考にしました。ただし、先生はその論証の際、私がここで提示している contraction ではなく、それと deductively equivalent な別の規則を使って、その規則が普遍的な妥当性を欠くことを論証されておられます。そのため、ここで私が構成した model は、今上げた page におけるBeall 先生の論証のやり方、idea を模倣していますが、model 自身は私のほうで考え出したものです。私の考えた説明が間違っていましたら、大変すみません。

*21:ここではすぐさま「言葉の意味などと言っているが、そもそも言葉の意味とは何なのか? 意味を付与するとはどういうことなのか?」というような問題が上がるかもしれません。このような問題は大昔から論じられていると思いますが、大問題すぎますので、ここではこの問題に答えることは pass させてください。なお、このような、「条件法、条件文に新しい意味が付与されているのか否か」という疑問とは別に、一つの条件法に意味を与えているように見えて、実際は二つの異なる条件法に、異なる意味 (Normal Condition, Abnormal Condition) を与えているのではないか、という批判が Beall 先生に向けて上っているようであり、これに対しては Beall 先生自身、反論されておられます。Beall, pp. 117-118.

*22:先生の条件法 (suitable conditional) は、従来の古典論理に従う条件法 (the hook) とは結局異なることを、先生ご自身、認めておられるように見えます。Beall, p. 119. だとすると、異なる条件法を含んだ modus ponens は、異なる規則である、と言えるように思います。

*23:この論証については、当ブログ、2018年9月2日、項目「If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule of Modus Ponens, Could He or She Adopt the Rule?」を参照。

*24:先生方が件の著作において、modus ponens に関する問題しか論じておられない、ということではありません。念のため。

*25:See JC Beall, [''Philosophy of Logic: 5 Questions,''] in T. Adajian and T. Lupher eds., Philosophy of Logic: 5 Questions, Automatic Press, 2016, p. 4.