Les Monades n'ont point de fenêtres : japonais/français/allemand/anglais.

1週間ほど前に、次の本が出版されました。

ライプニッツ 『モナドジー 他二篇』、谷川多佳子、岡部英男訳、岩波文庫岩波書店、2019年。

さっそく購入させていただきました。

モナドジーと言えば、「モナドには窓がない」ですね。このようなセリフが、上記の書籍に出てきますが、それはどこに出てくるのでしょうか。そしてそこには、どんなことが書かれているのでしょうか。ちょっと興味があります *1

そこで今日は、そのセリフが出てくるところを引用してみたいと思います。出てくるのは第7節ですので、そこを引用します。

それに原文はどうなっているのか、ということにも少し興味を感じます。原文はフランス語ですが、それも引用してみます。ついでにそのドイツ語訳やドイツ語訳に対する註釈、および英訳が手元にありますので、それらも掲げてみましょう。これらを読んでみることで、モナドとその窓について、文字通り、垣間見てみることにします。

具体的には本日の内容は、以下のとおりです。

目次

 

1. モナドには窓がない: 岩波文庫、邦訳二種

さて、もう一度掲げますが、

ライプニッツ 『モナドジー 他二篇』、谷川多佳子、岡部英男訳、岩波文庫岩波書店、2019年、

こちらの第7節に、問題のセリフが出てきますので、下にさっそく提示してみましょう。註を省いて引用します。

7 さらにまた、モナドがどのようにして、その内部をなにか他の被造物によって変質されうるのか、あるいは変化されうるのかも説明の手立てはない。モナドのなかには何も移し入れることはできないし、モナドのなかで内的な運動が引き起こされたり導かれたり増えたり減ったりできるとは、考えられないからだ。そういうことは、部分部分のあいだに変化がある複合体のなかでなら可能であるが。モナドには、何かものが入ったり出たりできるような窓がない。かつてスコラ学者たちが説いた感性的形質のように、偶有性が実体から離れていったり実体の外をさまよったりすることはできない。このように、実体も偶有性も、外からモナドのなかへ入ることはできない。 *2

モナド」と呼ばれるものの内部は、変化しないようですね。「偶有性」と呼ばれるものが「実体」と呼ばれるものの外に出て行くことはない、と言われているみたいですね。そしてモナドは実体の一つですので (第1節)、モナドから偶有性が出て行くことはないということが、モナドには窓はないということみたいな感じがします。

 

この新訳に対し、岩波文庫旧訳はどうなっていたのか、それも掲げてみましょう。次から引きます。

・ ライプニツ  『単子論』、河野与一訳、岩波文庫岩波書店、1951年。

これも註を省いて引用します。

 それから又どうして單子がその内部を何か他の創造物によつて變質されるもしくは變化されることができるかといふことも説明のしやうがない。單子の中へは何も移し入れる譯に行かないし、單子の中で何か内的な運動を惹き起したり操つたり增したり減らしたりすることができると考へる譯にも行かないからである。さういふことは部分部分の間に變化が有る合成體の中でなら可能である。單子には物が出たり入つたりすることのできるやうな窓が無い。昔スコラの人達が説いた感性的形象のやうに附隨性が實體から離れて行つたり實體の外をさまよつたりすることはできない。それと同樣に實體も附隨性も外から單子の中へ入ることはできない。 *3

こちらでは、附随性が偶有性のことみたいです。

 

2. モナドには窓がない: フランス語原文、および語学的註釈

では原文はどうなっていたのか、原文はフランス語ですので、フランス語で引きます。次の本からです。

・ Gottfried Wilhelm Leibniz  Monadologie: Französisch/Deutsch, Übersetzt und herausgegeben von Hartmut Hecht, Universal-Bibliothek, Nr. 7853, Reclam, 1998.

そしてその後に、このフランス語に対し、註釈を付してみたいと思います。とはいえ、私は Leibniz には無知なので、哲学的な註釈は不可能ですから、語学的な註釈を入れてみたいと思います。ただし、いくつかお断りをしておかなければなりません。九つ、お断りさせてください。

 

お断り

(1) まず、私はフランス語ができません。私はフランス語の先生でもなければ、フランス語学の専門家でもありません。そのため、以下の註釈に一切間違いが含まれていないとは断言致しません。もしも間違いが含まれていましたらご迷惑おかけしますし、少し恥ずかしいですが、自分の勉強のためにも、そして原文を読んでみたいと思っておられる方のためにも、ちょっとやってみます。というわけですので、以下の註釈を頭から信用してはいけません。「おや、変だな?」と感じる記述があれば、お手数ですが辞書や文法書でご確認ください。前もって、私の間違いや無理解に対し、お詫び申し上げます。

(2) また、以下の註釈内容は、いわゆる学校文法の範囲内に限ります。それ以上は私には不可能です。最新の言語学的知見が盛り込まれているわけではありません。

(3) この註釈は、フランス語の初級を先日終えたばかりぐらいの方を念頭に置いて書いています。辞書や文法書を引かなくても、原文と突き合せるように読めば、一応内容が読み取れるというように書いているつもりです。

(4) 註釈中の文法用語が、もしかすると統一が取れていないかもしれません。また、英語で使う用語が混じっているかもしれません。それでも取りあえず何のことかは、わかると思います。

(5) 註釈では、フランス語の単語に対する日本語訳を上げていますが、それは参考例です。「たとえばこんな訳があります」とか「これが代表的な訳です」というぐらいのものです。上げられている訳が、フランス語原文を和訳する際の、唯一許される、最も適切な訳だ、この訳以外には使ってはならない、ということではありません。

(6) 接続法について言及している個所があります。よく知られているように、接続法は微妙で難しいところがあります。私のような者には正確で完璧な説明は不可能です。大よそを述べているものとご理解ください。

(7) 私は現代のフランス語に対してもかなり無知ですが、昔のフランス語に関しては、文字通りに何も知りません。にもかかわらず、Leibniz のフランス語原文には、綴りの古い単語がたびたび出てきます。たとえば qvi がそうです。これは現在 qui と書かれるものだと思うのですが、『小学館ロベール仏和大辞典』と白水社の『仏和大辞典』で引いても、これら古い綴りの単語は出てきません。フランス語で書かれた古仏語の辞典を一つ引いてみたのですが、出てきません。(中代仏語辞典みたいなものがあったならば、それを引けばよかったのかもしれませんが。) そこで、辞書で確認が取れたわけではないのですが、qvi が明らかに qui のことだと私のほうで判断した場合には、その旨をいちいち記さずに、端的に qvi = qui などと、註釈に記しました。原文には、この他にも現代とは綴りがかなり違うものや、似ているけれども accent が脱落しているものなどがあります *4

(8) 私はこのブログでは、参照した文献は、できる限りその名を記すようにしています。しかし、以下の語学的註釈では、一部の例外を除き、その名を記すことは控えました。どの註釈事項も初歩的なものばかりですし、その一つ一つを「あの辞書に書いてあった」、「この文法書に載っていた」などと記していけば、極めて煩瑣で、大変な分量になるので、それは避けています。名前は上げませんが、お世話になっている辞書や文法書の執筆者の先生方に、ここで感謝申し上げます。どうか非礼をお許しください。

(9) 最後に、註釈の様式は、次の著作を参考にさせていただきました。

・ 横山靖  『独文解釈の秘訣 I』、『独文解釈の秘訣 II』、郁文堂、1978年、【注釈】。

ただし、横山先生は、上記著書の【注釈】欄で、ドイツ語の原文に出てくる単語に対し、その同義語、類義語を、多数頻繁に上げておられますが、それは今回しておりません。

以上です。長いお断りをすみません。それではフランス語原文を掲げてみます。やっとですね。

 

 7 Il n'y a pas moyen aussi d'expliqver, comment une Monade puisse etre alterée, ou changée dans son interieur par qvelqve autre creature; puis qv'on n'y sauroit rien transposer, ny concevoir en elle aucun mouuement interne, qvi puisse etre excité, dirigé, augmenté, ou diminué là dedans; comme cela se peut dans les composés, ou il y a du changemant entre les parties. Les Monades n'ont point de fenêtres, par les qvelles qvelqve chose y puisse entrer ou sortir. Les accidens ne sauroient se detacher, ny se promener hors des substances; comme faisoient autres fois les especes sensibles des Scholastiques. Ainsi ny substance ny accident peut entrer de dehors dans une Monade. *5

モナドには窓がない」というセリフは、フランス語では << Les Monades n'ont point de fenêtres >> のようですね。では、註釈です。こまごまとしています。お許し願います。フランス語が読める方は註釈を無視してください。

【註釈】 Il n'y a pas: il y a (~がある) を否定語 ne ~ pas で否定した表現。「~がない」。Il n'y a pas の n' は ne の e を省いたいわゆる élision. a は、avoir の直説法現在三人称単数。 moyen: 手段。 aussi: ~もまた。 d'expliqver: expliqver = expliquer. de + expliquer をつづめた表現で、élision. expliquer は「~を説明する」。de と合わせて前方の名詞 moyen にかかり、「~を説明する手段」。 comment: 英語の how. 「いかにして、どのように」。expliqver の目的語文となり、間接疑問文を従えている。 une Monade: モナド。女性名詞単数。 puisse: pouvoir の接続法現在三人称単数。なぜここで接続法が使用されているのだろうか。接続法は、総じて、従属節で言われていることに疑念が抱かれていたり、不確実と見なされていたり、非現実と考えられている時に、その従属節で使用されることが多い。接続法の典型的な使用パターンの一つは、主節が認知を表す動詞から成り、その主節に que から始まる従属節が続いて、この従属節の内容が、今述べたように疑念、不確実、非現実の様相を帯びる場合に、その従属節で接続法が現れる。本文のこの個所は、接続法が使われる、この典型的なパターンにぴったり一致するわけではないが、かつしばしば上げられる接続法のその他の典型的使用パターンにぴったり一致するわけではないが、認知に絡む動詞 expliqver の従属節として、comment に始まる間接疑問文が使用され、この疑問文の内容が、expliqver できないと、事実上否定されているので、その内容は現実ではないことが示唆されている。このようなことから、この個所で接続法が使われていると考えられる。 etre alterée: = être altérée. alterée は他動詞 altérer 「変質させる」の過去分詞 altéré に e が付いたもの。être + 過去分詞で受動態を成す。受動態を構成する過去分詞は、主語と、いわゆる性・数を一致させるので、女性単数名詞の主語 une Monade に合わせて、過去分詞 altéré に女性単数の e が付いている。意味は「変質させられる」。 ou: または。 changée: etre changée の etre が省略されている。受動態。changée は他動詞 changer 「変化させる」の過去分詞 changé で、語末に e が付いているのは alterée の時と同様に性・数の一致による。「変化させられる」。 dans son interieur: dans 「~のなかで」、所有形容詞三人称単数男性形 の son 「その(= une Monade)」、単数男性形なのは、この後ろの名詞 interieur が男性単数形だから。そしてその interieur (= intérieur) で、「内部」。合わせて「その内部で」。 par: 「~により」。 qvelqve autre creature: qvelqve は quelque で「何らかの」、autre は「他の」、creature (= créature) は「被造物」。合わせて「何か他の被造物」。 ;: point-virgule. いわゆるセミコロン。フランス語で ; を記入するときは、英語と違い、その前を詰めずに間を空けるが、つまり A; B ではなく、A ; B のように書くが、今回引用している本は、間が空いておらず詰められているので、これ以降の point-virgule もすべて詰めて記す。ここで point-virgule が使われているのは、この前後の文の意味内容が、point (.) ほど切れてはおらず、virgule (,) ほど密接につながっていない、それらの中間ぐらいのつながりを表すために使用されている。 puis qv': = puisque. 理由を述べる接続詞。「というのも~だから」。puis qv' となって、語末の e が省かれているのは élision. puisque と同様、理由を述べる接続詞に parce que がある。この parce que は相手に対し、未知の理由を示し、puisque は既知に理由を示すとしばしば言われる。ところで本文では、人々にとって未知の事柄と思われるモナドの特徴を、まるで既知であるかのように puisque を使って Leibniz が説明しているように見える。このことに対し、奇異の念を感ずるかも知れない。しかし、ここで Leibniz が puisque を使っているのは、parce que と対比させて既知であることを示唆したいがためではなく、単に論証の前提、根拠を示すために使用しているのだと思われる。たとえば、三段論法に次のような例がある。大前提 Tout homme est mortel (人間はみな死ぬ). 小前提 Or Socrate est un homme (ところで、ソクラテスは人間である). 結論 Donc Socrate est mortel (故に、ソクラテスは死ぬ). この論証で、小前提という根拠を提示するのに接続詞の or が使われているが、puisque はこれと類似の使われ方をすることがある。小前提での or は、ことさら既知であることを示そうとしているのではなく、結論に対する根拠を上げることに主眼がある。本文でも puisque は、この語の前に来ている文の根拠を上げるために使われているのだと考えられる。また、puisque は、未知の事柄でも、少し考えれば正しいことがすぐわかるような、ただちに既知に転ずるような未知の事柄を上げるためにも使われる。以上のような puisque の使われ方に関しては、次を参照。伊吹武彦編、『フランス語解釈法』、白水社、2006年、75-77ページ。 on: 不定代名詞。この語は文脈により、様々な人を指すが、この文脈では人一般か、または「私たち」を指す。 n' ~ rien: = ne ~ rien. e が省かれているのは élision. ne ~ rien は英語の nothing. 「何も~ではない」。 y: 後出の transposer (移す) と組んで「どこそこに」という意味を持つ。ここでは「モナドに」。 sauroit: savoir の直説法現在三人称単数の古い綴りか? その場合、savoir + 不定詞で、「~できる」という意味を持つ。ここでは不定詞として直後に出てくる transposer と concevoir が取られている。 n'y sauroit rien transposer: そこ (y = モナド) には何も (rien) 移す (transposer) ことは、でき (sauroit) ない (n'). ny: = ni. 「ne ~ rien A, ni B」で「何ら A もしないし、B もしない」。 concevoir: 他動詞。理解する、想像する。 en elle: en は「~の中で」、elle は強勢形人称代名詞三人称単数女性形。強勢形はしばしば前置詞の後で用いられる。前出の女性名詞を指す。ここでは une Monade を指している。 aucun: 英語の any. 前出の ny と組んで、英語で言えば not ~ any. mouuement: = mouvement. 運動。 interne: 内的な。 ny concevoir en elle aucun mouuement interne: その中では (en elle) 何らの (aucun) 内的な動き (mouuement interne) も考えられ (concevoir) ない (ny). qvi: = qui. 関係代名詞。mouuement を指している。qui は関係節中で主語の役割を果たし、その動詞は、関係代名詞が指している先行詞、ここでは mouuement と性・数が一致する。 puisse: pouvoir の接続法現在三人称単数。三人称単数なのは、先行詞の mouuement が三人称の単数名詞だから。この pouvoir が直説法ではなく接続法になっているのは、この関係節の先行詞 mouuement を直接目的語として取っているのが認知を表す動詞 concevoir であり、この動詞のいわば意味内容となっている関係節内で言われていることが、Leibniz によって事実ではないと示唆されていることから、現実であることを断定する直説法ではなく、現実だとは断定しないで非現実的なことを示唆する接続法になっている。 etre excité, dirigé, augmenté, ou diminué: excité は exciter (興奮させる、励起する) の過去分詞。etre excité で受動態を成す。dirigé, augmenté, diminué は、それぞれ diriger (指導する), augmenter (増やす), diminuer (減らす) の過去分詞。これら三つの過去分詞の前には etre が省略されていて、どれも受動態を成す。結局 etre excité, dirigé, augmenté, ou diminué は「励起、誘導、または増減させられる」。 là dedans: = là-dedans. 「その中で」という副詞。「その中」とはモナドの中。 ;: point-virgule. 前出の説明参照。 comme: 「~のように」という意味の接続詞。 cela se peut: 「それはありうることだ、それはそうかもしれない」という意味の熟語的表現。 dans les composés: dans は「~の中で」という前置詞。les は定冠詞複数形。composés は他動詞 composer (構成する、合成する) の過去分詞 composé が名詞化したもので、「合成体」という意味を持ち、この合成体が複数あることから composé の語末に複数を表す s が付いて、composés となっている。dans les composés は「合成体の中で」。そして comme cela se peut dans les composés は、「合成体の中でなら、そのような励起、誘導、または増減させられる運動がありうるように」。なお cela se peut の peut は pouvoir の直説法現在三人称単数だが、接続法ではなく直説法が取られているのは、合成体の中でなら、実際今言ったような運動があると Leibniz が認めているから。 ou: この ou の後に、前出の comme (~のように) が省略されている。 du: 部分冠詞男性単数。男性単数なのは、後ろの changemant が男性単数名詞だから。 changemant: 変化。changemant という抽象名詞に部分冠詞 du が付くことによって、具体的なものや量が意味されている。 entre: 間で。 parties: partie (部分) に複数の s が付いたもの。「諸部分、部分ども」。 ou il y a du changemant entre les parties: 「または部分間に変化があるように」。 n' ~ point: = ne ~ point = ne ~ pas. ont: avoir の直説法現在三人称複数。「~を持つ」。 de fenêtres: fenêtres は fenêtre (窓) の複数形。de は元々ここでは不定冠詞複数形 des で、de fenêtres は des fenêtres なのだが、ne ~ point という否定語の後で des fenêtres は動詞の直接目的語になっており、このような場合には、不定冠詞と部分冠詞は de に変異するので des が de となっている。 par: 前置詞。~を通って。 les qvelles: = lesquelles. 関係代名詞。lequel という関係代名詞の女性複数形。よって、前に出てくる女性名詞複数形を指す。ここでは fenêtres. par les qvelles で「そこを通って」。 qvelqve chose: = quelque chose. 英語の something. 何か。 y: 後に出てくる entrer (入る) と組んで、「そこに入る」、加えて sortir (出る) とも組んで「そこから出る」。「そこ」とはモナド。 puisse: pouvoir の接続法現在三人称単数。直説法ではなく接続法になっているのは、おおよそ次のとおり。puisse が現れている節は、関係代名詞 les qvelles に始まる関係節であり、この関係代名詞は、その前の fenêtres にかかっていて、しかしこのような fenêtres は存在しないと Leibniz に言われていることで、puisse を含んだ関係節の内容が現実であるとは断定されず、現実ではないものとして示唆されているから。つまり「何かが、モナドの窓を通って、モナドの中に入ったり、モナドから出たりすることができる」ということが、Leibniz によって、現実ではないものとして事実上否定されているので。 accidens: = accidents. 偶有性。accidens はラテン語。 sauroient: savoir の直説法現在三人称複数形の古い綴りか? その場合、savoir + 不定詞で「~できる」。ここではこの不定詞に、直後に出てくる se detacher と se promener が取られている。 se detacher: = se détacher. 代名動詞。離れる。 ny: この ny (= ni) の後に、前に出てきた sauroient が省略されている。 se promener: 代名動詞。散歩する、歩き回る。 hors des: hors de ~ で「~の外に」。des は de + les. 前置詞と冠詞の縮約。この hors des ~ は、前の se detacher と se promener の二つの動詞にかかる。「~の外に離れていったり、外へ出て歩き回ったりする」。 substances: substance の複数形。実体、本質。 ;: point-virgule. 前出の説明参照。 faisoient: faire の直説法現在三人称複数形の古い綴りか? その場合、前に出ている動詞に代わって用いられている。いわゆる代動詞。ここでは se detacher と se promener に代わる。 autres fois: = autrefois. かつて、昔。 les especes sensibles: especes は女性名詞 espèce の複数形。種概念。sensibles は形容詞 sensible の複数形。感覚できる、知覚できる。これらを合わせた les especes sensibles は中世哲学の専門用語のようであり、時に「スペキエス」と訳されているようである。スペキエスについては、後で引用する John Marenbon 先生、清水哲郎先生の文章を参照。 des Scholastiques: de + les Scholastiques. Scholastiques は形容詞 scholastique (スコラ学の) を大文字の S で書き出して名詞化し、複数形にしたものと思われる。les Scholastiques で意味は「スコラ学者たち」。なお、les especes sensibles des Scholastiques が faisoient の主語に当たる。 Ainsi: 副詞。「それゆえ」。 ny ~ ny ~: = ni ~ ni ~ [ne] ~. 原文では、この後の peut の前に ne が抜けている。本来はここに ne が入るようである。ライプニツ、『単子論』、河野与一訳、岩波文庫、1951年、217ページ、訳註 (イ一) で、河野先生により、そのことが指摘されている。意味は「~も~も~でない」。この引用文最後の文の主語は ny ~ ny ~ つまり ni ~ ni ~ だが、この表現が主語の時、対応する動詞は単数でも複数でもどちらでもよい。ここでは単数。 peut: pouvoir の直説法現在三人称単数。「~できる」。 de dehors: 成句。外から。

 

3. モナドには窓がない: ドイツ語訳、および語学的註釈

上で、Reclam 文庫の Leibniz, Monadologie: Französisch/Deutsch からフランス語原文を引きましたが、この本は仏独対訳版ですので、同じ第7節を、ドイツ語訳でも引用してみましょう。そしてそのドイツ語に対し、語学的註釈を入れてみます。なお、この註釈にも、フランス語の註釈に対して掲げた「お断り」が当てはまります。ただし、ドイツ語訳には古い綴りは使われていないようですが。いずれにしましても、間違いが含まれていましたら、申し訳ありません。

 7 Es gibt auch kein Mittel zu erklären, wie eine Modade durch irgendein anderes Geschöpf umgewandelt oder in ihrem Innern verändert werden kann; weil man in ihr weder etwas umstellen noch sich eine innere Bewegung vorstellen kann, die in ihr angeregt, gelenkt, vermehrt oder vermindert werden könnte, wie dies bei Zusammensetzungen möglich ist, bei denen es einen Wechsel zwischen den Teilen gibt. Die Monaden haben keine Fenster, durch die irgend etwas ein- oder austreten könnte. Die Akzidenzen können sich weder, wie seinerzeit die Spezies der Wahrnehmung der Scholastiker, von den Substanzen absondern noch ausserhalb derselben umherwandern. Also können weder Substanz noch Akzidenz von aussen in die Monade hineingelangen. *6

ドイツ語では、「モナドには窓がない」というセリフは、„Die Monaden haben keine Fenster‟ のようですね。では註釈です。格語尾や枠構造の説明などが加わったせいか、フランス語に対する註釈よりも、ずいぶん量が増えています。どうかお許し願います。ドイツ語が読める方は註釈を無視してください。

【註釈】 Es gibt: 熟語。「es gibt + 4格」で「4格がある」。es は非人称の形式的な代名詞、gibt は geben の直説法現在三人称単数。 auch: ~もまた。 kein Mittel: Mittel は中性名詞。「手段」。kein は否定冠詞で中性4格。「~ではない」。「Es gibt auch kein Mittel」で、意味は「手段もまたない」。 zu erklären: zu 不定詞。erklären が不定詞。erklären は他動詞で「~を説明する」。この zu 不定詞は形容詞的用法として、前の名詞 Mittel にかかっている。Mittel と合わせて、意味は「~を説明する手段」。 wie: 疑問副詞。「いかにして」。間接疑問文としての副文を構成し、前の erklären の目的語文になっている。副文の前には必ずコンマ (,) を打つ必要があるので、「erklären, wie」のように、wie の前でコンマが打たれている。副文を導くこの wie は、後に出てくる「werden kann」の kann と組んで、いわゆる枠構造を成す。つまりこの wie の副文は、今の kann まで続いているということ。 eine Modade: モナド。女性名詞1格。1格だから、この名詞はこれが現れている副文内で主語となっており、対応する動詞は先ほど述べた kann. durch: 4格支配の前置詞。「~によって」。動作主を意味する。 irgendein anderes Geschöpf: Geschöpf は中性名詞で「被造物」。durch に支配されているので4格。irgendein は分解すると irgend + ein で irgend は「何か」を意味する接頭辞、ein は「或る」で不定冠詞、durch に支配されており、後に中性名詞 Geschöpf を従えているので、この不定冠詞は中性4格、こうして irgendein は合わせて「何かある」という不定冠詞類になっている。anderes は形容詞 ander に格語尾 es が付いたもの。意味は「他の」。この形容詞の前に不定冠詞があるので、この形容詞はいわゆる混合変化をする。4格支配の durch の後にあり、中性名詞 Geschöpf を従えているので、中性4格の es を付けている。こうして「irgendein anderes Geschöpf」の意味は合わせて「何かある他の被造物」。 umgewandelt: 他動詞 umwandeln (変える) の過去分詞。後に出てくる werden と組んでいる。過去分詞 + werden で受動態を成す。よって意味は「変えられる」。 oder: または。 in ihrem Innern: in は3格または4格支配の前置詞。この後に ihrem の -rem が続いているのが見えるので、この in は3格支配。-rem は3格の目印だから。3格の in の意味は「~の中で」。ihrem は所有冠詞 (または所有代名詞とも言われるもの) で、前出の女性名詞を指して「その~」を意味する。「その」とは、ここでは「eine Modade」のこと。ihrem の -rem は、今述べたとおり3格の目印なので ihrem は3格。Innern は「内部の」という意味を持つ形容詞 inner が中性名詞化したもの。(よって先の ihrem は中性3格。) Innern は「内部」という意味。形容詞が中性名詞化すると頭文字を大文字で書き出すので Inner のように I で始まっている。そしてこの中性名詞化した Inner が、不定冠詞類の一つである所有冠詞の3格 ihrem の後に続いているので、混合変化の中性3格語尾 en を付けて Inneren となるのだが、この Inneren の中の後ろの格語尾の e が脱落することで、本文中の Innern という形になっているのだと思われる。(しかしこの e が落ちるのはなぜだろうか。たぶんですが、Inneren の語末では、アクセントを持たない e が連続しているのだと思います。ドイツ語では一般に、アクセントが「弱弱」と続くのを嫌う傾向がありますので、これを避けるため、一方の e を落としているのではないかと推測します。いずれにせよ) 以上合わせて in ihrem Innern の意味は「その (= モナド) 内部で」。 verändert: 他動詞 verändern (変化させる) の過去分詞。後ろの werden と組んで受動態を成す。「変化させられる」。werden: 受動態を作る助動詞。過去分詞 + werden で受動態を構成する。 kann: können (~できる) の直説法現在三人称単数。これが従える不定詞は、前の werden. ;: セミコロン。この前後の文が内容の点で、ピリオド (.) ほど切れているわけではなく、コンマ (,) ほど密接につながっているわけではない、それらの中間ぐらいのつながりがあることを示している。「弱 < 強」とすれば、, < ; < . と記すことができる。 weil: 理由を導く接続詞。「なぜなら~だから」。副文を構成する。この後の vorstellen kann の kann と組んで枠構造を成す。 man: 不定人称代名詞。文脈によりさまざまな人を指すが、ここでは一般的に「人は、みんなは」ぐらいの意味。ただし、この語は特に必要のない限りはあまり訳出されず、本文は能動形の文だが、日本語にする際は、よく受動形で訳されることがある。なお、man が文中に出てくれば、それは必ず主語になる。というのも、man という形は1格でしかあり得ないから。したがってこの副文内でも今の man が主語になっており、対する動詞は先ほど述べた kann である。 in ihr: in は3格または4格支配の前置詞。ihr は人称代名詞女性単数形3格。したがって、ここでの in は3格。「~の中で」。ihr は女性形なので、前出の女性名詞を指す。具体的には「eine Modade」。 weder: この後の noch と組んでいる。weder A noch B で「AでもB でもない」。 etwas: 不定代名詞4格。「何か」。 umstellen: 他動詞、「~を移す」。前の etwas が目的語。 sich: 後の vorstellen と組んでいる。後述。 eine innere Bewegung: Bewegung は女性名詞4格で「動き」。eine は不定冠詞女性4格。「或る」。innere は元々形容詞 inner で、前に不定冠詞の eine があるため、混合変化女性4格の格語尾 e が付いたもの。「内的な」。「eine innere Bewegung」は合わせて「ある内的な動き」。 vorstellen: 前の sich と組んでいる他動詞。sich 3格 + 4格名詞 + vorstellen で「4格を想像する」。 kann: können (~できる) の直説法現在三人称単数。不定詞として、前の umstellen と vorstellen を取っている。 die: 関係代名詞女性1格。副文を構成する。この後の könnte と組んで枠構造を成す。女性形であるため、前の女性名詞を指している。ここでは「Bewegung」。1格であるため、この副文内で主語の役割を果たす。意味は「それ (= Bewegung) が」。この die は、いわゆる制限的用法の関係代名詞なため、Bewegung にかけるように訳出する必要がある。 in ihr: 既出。上記説明参照。 angeregt, gelenkt, vermehrt oder vermindert: oder は「または」。それ以外はどれも他動詞の過去分詞。それぞれの不定形は、anregen (刺激する), lenken (導く), vermehren (増やす), vermindern (減らす). これらはすべてこの後の werden と組んで受動態を成す。「刺激され、誘導され、増やされ、また減らされる」。 könnte: können の接続法第II式三人称単数。関係代名詞に始まるこの副文内で述べられていることが、Leibniz によって事実ではないと考えられているので、非現実なことを表す接続法IIが使われている。「何等かの意味に於て否定されている先行詞の假構的延長 [= 仮定の展開] としての関係文には第二式接續法を用う」(関口存男) wie: 副文を構成する接続詞。「~のように」。この後の動詞 ist と組んで枠構造を成す。 dies: 指示代名詞 dieser の中性1格 dieses の省略形。この副文内での主語で、対する動詞は ist. 前の文の内容を指す。「このことは (= モナドの中では運動が刺激され、誘導され、~されうるというようなことは)」。 bei: 3格支配の前置詞。「~において」。 Zusammensetzungen: 抽象名詞 Zusammensetzung (構成) の複数形3格。抽象名詞が複数形になると具体的なものを表すので、ここでは「構成体たち、構成体ども」。 möglich: 形容詞、「可能な」。この直後の Kopula 動詞 ist の述補語。 ist: sein の直説法現在三人称単数。「~である」。接続法ではなく直接法になっているのは、この副文内で言われていることが Leibniz によって事実であると考えられているので、非現実を表す接続法ではなく、現実を表す直説法が用いられている。 bei: 前掲の説明参照。 denen: 関係代名詞複数3格。副文を構成する。後の gibt と組んで枠構造を成す。複数形なので、前に出てきた複数名詞を指す。ここでは「Zusammensetzungen」。この denen は、制限的用法の関係代名詞で、この関係文を Zusammensetzungen にかけるように、後ろから前に戻るように訳出しなければならない。ist と bei の間に wie や und が省略されているのではない。 es: 後の gibt と組んで熟語になっている。「es gibt + 4格」で「4格がある」。 einen Wechsel: Wechsel は男性名詞、「変化」。einen は不定冠詞男性4格。「einen Wechsel」で「es gibt + 4格」の4格目的語になっている。 zwischen: 3格または4格を支配する前置詞。「~の間」。 den Teilen: den は定冠詞で男性4格か複数3格。Teilen は男性名詞 Teil (部分) の複数3格。よって直前の den は男性4格ではなく複数3格。したがって「zwischen den Teilen」は、zwischen が4格支配の「諸部分の間へ」ではなく、3格支配の「諸部分の間で」。 Die Monaden: 定冠詞複数1格 Die と女性名詞 Monade の複数形 Monaden から成る。 haben: haben の直説法現在三人称複数。「~を持つ」。 keine Fenster: Fenster は中性名詞 Fenster の複数形。つまり単複同形。意味は「窓」。keine は否定冠詞 kein の複数4格。中性名詞の Fenster に不定冠詞類の一つである否定冠詞の keine が前置されているが、この否定冠詞の格語尾を見ると -e となっている。中性名詞の前に格語尾 -e を取る不定冠詞類が来ることはあり得ないので、Fenster は単数の中性名詞ではなく、複数形の1格か4格だと推定でき、しかも4格を目的語に取る他動詞 haben の後に来ているので、結局 Fenster は複数4格だとわかる。 durch: 4格支配の前置詞。「~を通って」。 die: 関係代名詞複数形4格。副文を構成し、後の könnte と組んで枠構造を成す。複数形なので、前方の複数名詞を指す。ここでは「Fenster」。4格なのは4格支配の前置詞 durch の支配下にあるから。この die も制限的用法の関係代名詞。 irgend etwas: irgend は「何か」、etwas は1格で「或るもの」。合わせて「何かあるものが」。対する動詞は könnte. irgend etwas は、新正書法に従えば一語で表記される。つまり、irgendetwas. ein- oder austreten: eintreten oder austreten の略記。ein- は分離前綴りで「中へ」という意味。英語の in. austreten の aus- も分離前綴りで「外へ」。英語の out, from. treten は自動詞「歩む」。これらのことから eintreten は「入る」、austreten は「出る」。ein- oder austreten で「出たり入ったりする」。 könnte: können の接続法第II式。この副文の内容が、現実ではないとされているから使用されている。これも存男 (sondern) 先生の言う「否定的先行詞を受ける仮構的延長形態の関係文における接続法第II式」。 Die Akzidenzen: 女性名詞 Akzidenz の複数形だが、単数であれ複数であれ、その場合、印刷関係の端物、仕事関係で端仕事の意味であり、想定される偶有性という意味が小学館の『独和大辞典』でも出てこない。とはいえ、やはりここでは偶有性の意味だと思われる。なお、ドイツ語では Akzidens が偶有性のこと。 sich: しばらく後に出てくる absondern と組んでいる。後述。 weder: やはりしばらく後に出てくる noch と組んでいる。「weder A noch B」で「AでもBでもない」。 wie: 接続詞。「~のように」。ただし、接続詞ではあるものの、ここでは名詞句のみを従えている。後の Scholastiker までが挿入句になっている。 seinerzeit: 副詞。「以前は、当時」。 Spezies: 女性名詞。単複同形。 「wie ~ die Spezies ~」で、前方の主語 Die Akzidenzen と同格になっている。したがって Spezies は1格。そして主語が複数形なので、この単複同形の Spezies もここでは複数形。通常、女性名詞は複数形になると、Mutter と Tochter の二語のみを除き、どれも語尾が変化し、Mutter, Tochter 以外、語尾が単複同形という女性名詞はないのだが、Spezies は外来語と思われるので、例外的に女性名詞ながら単複同形になっていると考えられる。なお (単) Mutter → (複) Mütter, (単) Tochter → (複) Töchter. Spezies の意味は「種概念」。ただし、中世哲学の専門用語としては「スペキエス」と訳されるようである。スペキエスに関しては、この後の John Marenbon 先生、清水哲郎先生の引用文を参照。 Wahrnehmung: 女性名詞。「知覚」。 Scholastiker: 男性名詞。単複同形。ここでは複数形。なぜなら、もしもこれが男性名詞なら、直前の定冠詞 der は男性2格の des になっていなければならないが、そうはなっておらず、複数2格の der になっているため。こうして Scholastiker の意味は「スコラ哲学者たち、スコラ学者たち」。 von: 3格支配の前置詞。「~から」。 den Substanzen: 女性名詞単数 Substanz (実体、本質) の複数形 Substanzen に、複数3格の定冠詞 den が付いたもの。 absondern: 前に出てきた können sich weder の sich と von den Substanzen の von と組んでいる。sich の4格 + von 3格 + absondern で「3格から離れる、分離する」。 ausserhalb: 2格支配の前置詞。「~の外で」。 derselben: 指示冠詞。(あるいは指示代名詞とも言う。) 分解すると、der + selben. der- は定冠詞変化で、2格支配の前置詞 ausserhalb の後にあるから、女性2格または複数2格。-selben は selbe の変化形で、定冠詞 der の後にあるから、いわゆる弱変化をする。ここでは女性2格または複数2格の -en を付けて -selben となっている。derselben で「その」の意味であり、この語の後ろに既出の名詞が省略されていると考えられる。その省略されているものとは、複数名詞 Substanzen. よって、derselben は女性2格ではなく、複数2格。こうして ausserhalb derselben は「その (= 実体) 外で」。 umherwandern: umher- は分離前綴り。「周囲を」。wandern は自動詞で「ハイキングする、歩き回る」。合わせて「あちこちさまよう、放浪する」。 Also: 副詞。「それゆえ」。 weder: 後の noch と組んでいる。weder A noch B は説明済み。 von aussen: 成句。「外から」。 in die Monade: in は3格または4格支配の前置詞。定冠詞 die は、ここでは女性4格か複数4格。よって先の in は4格、「~の中で」ではなく「~の中へ」の意味。Monade は複数形ではなく女性単数形。したがって die は女性4格。前の von aussen と合わせて「von aussen in die Monade」で「外からモナドの中へ」。 hineingelangen: hinein- は分離前綴り。「(あちらの、向こうの) 中へ」。gelangen は自動詞「到達する」。合わせて「中に達する」。

 

4. モナドには窓がない: ドイツ語訳註釈およびその試訳/私訳

今回引用している Reclam 文庫には、哲学的な註釈も載っています。それも参考までに引用してみましょう。そして試訳/私訳も付してみます。

ただし、私のドイツ語は極めて怪しいので、和訳を真に受けないようにしてください。しかも、私は Leibniz の哲学に対し、まったく無知であり、その哲学をよくわかった上で訳しているのではないので、もっとうまい訳があるはずですし、誤解しながら訳しているかもしれません。訳の調子としては、一応、あまり意訳せず、直訳、逐語訳に近い形で訳しています。そのほうが、何をどう理解して私が訳しているのか、間違って訳しているなら、どこがどう間違っているのか、読まれる方にとって、わかりやすいだろうと思うからです。

あと、ドイツ語の中の「(GP 3, S. 532)」というような表現に見られる GP とは、いわゆるゲルハルト版ライプニッツ哲学著作集の略記号です。また和訳中の [ ] は、訳者による追加です。

以上、私の訳については、あくまでドイツ語読解のための補助程度にご理解ください。誤訳しておりましたらすみません。

 7 Unter den Spezies der Wahrnehmung (species sensibiles) verstand man in der Scholastik jene Formen oder unstofflichen Bilder, die, indem sie sich von den Gegenständen ablösten, die Wahrnehmungen in der Seele hervorbringen sollten. Die Annahme solcher Spezies war erforderlich, weil nach scholastischer Auffassung die Dinge aufgrund ihrer Materialität nicht unmittelbar die Vorstellungen des Verstandes bewirken konnten. Die Lehre von den Spezies ist mithin als Theorie dieser Vermittlung anzusehen. Sie lässt sich philosophiehistorisch als eine Synthese Demokritischer und Aristotelischer Ansichten verstehen und wird von Leibniz ähnlich wie die okkulten Qualitäten als der rechten Vernunft widerstreitend abgewiesen. Vgl. dazu etwa den Brief an Hartsoeker vom 8. Februar 1712 (GP 3, S. 532).

 Für die Monade muss, da sie keine Teile hat und folglich immateriell ist, das Verhältnis von Substanz und Akzidenz anders bestimmt werden. Jede Substanz umfasst, wie sich Leibniz in der Studie zu einem Brief an den Landgrafen Ernst von Hessen-Rheinfels ausdrückt (GP 2, S. 70), immer alle Akzidenzen, die ihr zukommen und das gesamte Universum ausdrücken. Alles Akzidentelle oder Bewegliche ist daher als eine wesenhafte Modifikation zu begreifen, wie es in dem Brief an de Volder vom 30. Juni 1704 heisst (GP 2, S. 270). Die Monaden bedürfen folglich keiner Fenster. *7

 7 スコラ哲学において、知覚のスペキエス (species sensibiles) とは、これが [知覚される] 対象から離れ [て知覚する者の心に達す] ることにより、心の中で知覚を生み出すとされる、そのような形相または非質料的表象のことであると解されていた。このようなスペキエスなるものを想定することは、必要なことであった。というのも、スコラ哲学者の見解によれば、ものは、それが質料であることに基付いていることから、悟性の表象を直接引き起こすことはできなかったからである。それ故、スペキエスの説は、これらの [ものと心を橋渡しする] 媒介の理論であると見なされうる。この説は、デモクリトスの考えとアリストテレスの考えとを総合したものであると、哲学史的には解されうるのであり、しかしその説は、正しい理性に反した、神秘的な特性 [についての教説] に似ているとして、ライプニッツによって拒絶されている。これについては、たとえば、1712年2月8日の Hartsoeker 宛て書簡を参照。

 モナドに対しては、それが部分を持たず、それ故、非質料的なものなのだから、実体と偶有性の関係とは違ったふうに規定されねばならない。ライプニッツが Ernst von Hessen-Rheinfels 方伯宛ての書簡のための草稿で述べているように、[モナドとしての] どの実体も、その実体が備えるのにふさわしい、宇宙全体を表した偶有性のすべてを、常に含んでいる。そのため、1704年6月30日の de Volder 宛て書簡において言われているように、偶有的である [とされている] すべてのもの、または [実体から分離することで] 可動的である [とされている] すべてのものは、本質的に [外から加わったり、外へと捨て去られるものではなく、それ自身で] 変質するものであると、理解されうるのである。それ故、モナドには窓は必要ないのである。

この引用文の後半の段落では、モナドが含む偶有性は本質的に、変質/変化 (Modifikation) するものであると述べられているようです。しかし原文第7節の冒頭では、モナドの中は変化しない、というようなことが言われているように思われます。モナドの中の偶有性は変化するが、モナドの中は変化しない、ということは、一見整合性が取れていないような気がしますが、今私たちが問題にしている第7節より後の第10~13節を読むと、「それでもやっぱりモナドは変化する」と Leibniz は言っているので、この点を考慮すると、上記引用文は、一応、整合性が取れているということになります。第7節で主として言われているのは、「モナドが外から変化させられることはない」というようなことであって、第10~13節では「モナドは変化するが、それは内発的にである」というような感じのことが述べられています。

 

補足

私が誤読、誤訳しているかもしれない個所を、一つ注記しておきますと、ドイツ語の第一段落の終り辺りで、

   ähnlich wie die okkulten Qualitäten als der rechten Vernunft widerstreitend (*)

という表現が見られます。この表現 (*) の中の als は、同格の als と私は解釈しました。つまり「A als B」を「B としての A」と解しました。具体的には「die okkulten Qualitäten als der rechten Vernunft widerstreitend」を「正しい理性に反する特性 (Qualitäten) としての神秘的特性」と理解しました。

また「ähnlich wie ~」は「~に似た」でよいと思いますが、

(1) この形容詞 ähnlich を前置詞のようなものと見立て、上記表現全体を副詞句と理解する解釈と、

(2) この形容詞 ähnlich 以降を、主語に対する、いわゆる述語的付加語 (prädikatives Attribut) と理解する解釈

の二つが可能であるように私には思われました。

(1) だと「似ている」のは、理性に反する特性と神秘的な特性であり、(2) だと「似ている」のは、理性に反する特性についての説と神秘的な特性についての説、という違いが出てくると思います。上記の表現 (*) が含まれる文の主語は、前に出てくる Sie であり、これはさらに前の「Die Lehre von den Spezies」を指しているので、問題の (*) が含まれる文の主題となっているのは、学説、教説です。そこで (*) に関し、説にかかわっている解釈 (2) のほうを、私はここで取りました。(1) と (2) のどちらの解釈でも、あまり大きな違いはないのかもしれませんが、私が誤読し、誤訳しているといけませんので、私がこの部分をどう理解してどう訳したのかを、念のためにお伝えしておきます。参考にしていただければと思います。誤訳していましたらすみません。ドイツ語をまた勉強致します。

 

5. スペキエスとは何か: その解説引用文二種

Leibniz のフランス語原文においても、そしてすぐ上のドイツ語訳に対する哲学的註釈においても、スペキエスというものが出てきました。岩波文庫新訳では「感性的形質」、旧訳では「感性的形象」と訳されていたものです。モナドには、いったいなぜ窓がないのか、それを理解するためには、一つには、このスペキエスなるものを理解する必要がありそうです。ではそれは何なのでしょうか? 私には説明できませんので、専門家の方にご登場願います。

 

次に掲げる本に、スペキエスとは何なのか、実に簡にして要を得た説明がありますので、それを見てみましょう。

・ Thomas Mautner ed.  The Penguin Dictionary of Philosophy, 2nd ed., Penguin Books, 2005.

ここから項目「Species」の一部を引用します。

Species (sing. and pl.) (Lat. species appearance, form, kind, from specere to look, to behold) n. [...]

3 In the medieval, especially the Thomist, theory of knowledge, a species is something intermediate, between the external object and the mind. The motivation for this concept is two-fold: (a) the external object is material, but the grasp of the mind is not; and (b) objects are particular, whilst the mind contemplates universals. By means of the species, the act of cognition and the object of cognition can come together. The theory of species was rejected by William of Ockham, who taught that knowledge is of individuals and that we have direct knowledge of them. [...] JM/ed. *8

引用文末尾に「JM/ed.」と記されていますが、この JM とは John Marenbon 先生のことであり、ed. とは編者の Mautner 先生のことのようです。Mautner 先生が Marenbon 先生の原稿に手を入れて成ったのが、上の引用文のようです。これを読むと「なるほど、スペキエスとは大体そういうものなんだ」とわかりますね。

 

スペキエスに関し、これよりもうちょっと詳しくて、しかしわかりやすく書かれている文章が、以下にあります。

清水哲郎  『オッカムの言語哲学』、勁草書房、1990年。

少し長いですが、結構「なるほど」と感じますので、引いてみましょう。註を省略して引用します。

3.2.2  スペキエス

 我々の知性的認識とものとを媒介するものとして、感覚与件を位置付けようとする考えに対してオッカムが対決していることを今まで論じてきた。つぎに、感覚に限らず、ものとその認識の間に何らかの媒介者を立てるという考え方へのオッカム的反論をする。<スペキエス>はまさにこの媒介者として提示されるものである。

 まず、デモクリトス流の当時あった通俗的理解として、もの-感覚-知性という経路を通してスペキエスが対象から知性へと伝わって、認識が成立するという考えがある。すなわち、スペキエスは普遍という性格を備えた存在者であって、まずものにおいてあり、次に感覚の対象となり、ついには知性の対象となる。これはもとよりトマスの批判するところの考えであろうけれども、トマス自身のスペキエス論についての当時の通俗的理解は、多少なりともこのデモクリトス流のバイアスが掛かって受け取られたものであったようだ。オッカムもトマスの理解をこう誤解している節がないでもない。[...]

 では、トマスのスペキエス論はどのようなものであったか - それは大体において、次のように記述できるのではないか [...]。

 スペキエスは単に事物が如何なるものとして認識されるかを決める形相であるばかりでなく、認識という働き自体を成立させる形相である。スペキエスは一方で存在するもの (現実態) において現実化し、これが認識の主たる原因となる。他方、スペキエスは知性においても現実化し得る。知性のかかる可能性のゆえに、事物の存在が原因となって、知性のうちに志向的存在がつくりだされ、その志向的存在によって事物の自然的スペキエスと同一のスペキエスが現実化する (すなわちこれが species intelligibilis) のである。つまり、人間知性は形相としてのスペキエスを自らのうちに初めから有してはおらず、これを事物から受けとることによって「スペキエスが知性のうちにある」ことが成り立つ。

 認識が成立するのは、知性が自らの内に習性として獲得して備えているスペキエスを、それが対象となった事物のスペキエスと適合するように使用することにおいてである。その際、そうした事物は感覚ないし表象能力 (imaginatio) により捉えられるのであるから、知性は自らを感覚的表象 (species sensibilis, phantasma) へと向けることになる。そこで能動知性が感覚的表象からスペキエスを抽象すること、ないしは知性がスペキエスによって感覚的表象においてものの本性を洞察する (inspicere) という仕方で、認識が成立する。 - ここにあるのは、認識が現に成立しているということを如何に根拠付けるかという問題意識であって、認識成立の疑似科学的説明ではない。従って、スペキエスはその根拠として - 知性の現実化とものの現実化の双方を支え、両者の一致を保証する根拠として - 存在を要請されているのである。 *9

清水先生のこの説明で、スペキエスの姿がさらに見えてきました。それとともに疑問も浮かんできます。スペキエスというものは、どうやら species sensibilis とは、厳密には違うもののようですね。これらがそれぞれ何であり、どういう関係にあるのか、そのあたりをより詳しく見ていかなければ、Leibnizモナドはわからないかもしれません。

 

6. モナドには窓がない: 英訳、および注釈

ここまで日本語、フランス語、ドイツ語と来ましたので、締めは英語でいきたいと思います。たぶんですが、比較的人口に膾炙していると思われる、Rescher 先生のご高著から英訳を引用します。

・ Nicholas Rescher  G.W. Leibniz's Monadology: An Edition for Students, Routledge, 1991/2002.

 7. There is, furthermore, no way to explain how a modad could be altered or changed in its inner make-up by some other created being. For one can transpose nothing in it, nor coneive in it any internal motion that could ne excited, directed, increased, or diminished within it, as can happen in composites, where there is change among the parts. Monads just have no windows through which something can enter into or depart from them. Accidents cannot be detached, nor wander about outside of substances, as the sensible species of the Scholastics formerly did. And so, neither substance nor accident can enter a monad from without. *10

英語では、「モナドには窓がない」は、''Monads just have no windows'' と言うようですね。引用文の語学的註釈は、お任せします。そしてこの英訳に対する Rescher 先生の注釈も引用しておきましょう。

 Species (Fr. espèce) is not a kind but the characteristic property or qualitative feature that distinguishes one kind of thing from another. The ''sensible species'' of the Scholastic philosophers are images or immaterial representations of material qualities that could leave their possessors behind to enter into the sensorium in acts of observation. Leibniz rejects any such transactional theory of perception. Since monads are not material things, nothing can make a physical impact upon them. They are altogether impervious; they admit of no causal impact through the agency of others.

 Moreover any idea of an ideational, nonphysical external impact or impetus would also be unintelligible. Nothing can affect monads from without: they are ''windowless.'' Their inner nature (their defining notion or complete individual concept) fixes everything about them. Their changes are the result of inner programming and not of any external causal impetus. (As sec. 11 will insist, all monadic changes are generated internally, ''from within,'' through the chronological exfoliation of the exigencies of their own inner natures.) Any theory that would put substances at the mercy of the causal operation of others would, as Leibniz sees it, be at odds with the self-sufficiency of substances.

 However, while monads cannot act on one another by way of causality, their inner states can be aligned by way of coordination or synchronization which effects a mutual adjustment that is not causal but ideal. (See secs. 51, 81.) Monads are causally independent, but not totally independent because of such a reciprocal coordination through alignment rather than influence.

 Note that Leibniz here reasons: ''There is no way to explain how X can be so; therefore X cannot actually be so.'' It is this commitment to the idea that ''the real must be rational'' (to the ''principle of sufficient reason'') that marks Leibniz as a ''rationalist'' philosopher. *11

この注釈から、モナドの窓に関してわかることは、おそらく次のようなことだと思われます。

第一段落後半によると、モナドは物体 (material things) ではないので、それは物理的な因果関係に入ることはできず、一切物理的なインパクトを受けない。

加えて、第二段落冒頭によると、モナドは外から、物理的ではないようなインパクトも受けない。

こうして、物理的であろうがなかろうが、外から何のインパクトも受けないので、モナドは何かを受け入れるような受け入れ口がない、つまり窓がない、ということのようです。

Rescher 先生のこの解釈が正しいのかどうか、私にはわかりません。確かに第51節において、「モナドは物理的なインパクトを受けない (une Monade creée ne sauroit avoir une influence physiqve sur l'interieur de l'autre) *12」というような主旨のことが語られていますし、第11節において、「外的原因がモナドの内部に作用することはない (une cause externe ne sauroit influer dans son interieur) *13」と言われており、この「外的原因」を、物理的な原因以外の原因も含むというように広く解すれば、モナドは物理的ではないようなインパクトも受けないという解釈も可能かもしれません。

しかし、第二段落冒頭で述べられているように、「外からの、物理的ではないようなインパクト (nonphysical external impact)」とは、そもそもいったい何なのか、判然としませんし、この他にのよくわからないことが多いので、Rescher 先生の解釈はこのままにして、置いておこうと思います。

 

7. 終りに

Leibniz のフランス語原文第7節に従えば、モナドの窓に関しては、次のように言われているように思われます。モナドが実体の一つである (第1節) ことを前提にすると、

「実体 (substance) からは偶有性 (accidens/accident) が離れることはない。故に (Ainsi)、実体であるモナドからは、偶有性は離れない。」

モナドからは偶有性が出て行くことはないので、

モナドには、何かが出て行くような窓がない (Les Monades n'ont point de fenêtres, par les qvelles qvelqve chose y puisse [...] sortir)」

ということになりそうです。

 

正直に言いますと、このようなモナドに関するお話は、何だか「fantastic fairy tale」(B. Russell) のようで、真剣に受け取っていいのかどうか、とまどってしまいます。これは偉い Leibniz 先生が主張されている話であるということを、私たちは知っているから真面目に受け取ることもできますが、さもなければ受け止めようもない話にも感じられます。特に科学や技術が発達した世の中から見れば、それこそ「お伽噺」(河野先生) に映ります。

ですが、学問の専門分化が進んだなかで、あえて専門分野の垣根を取り払い、物理的なものも、物理的でないものも、知覚可能な具体的なものも、知覚不可能な抽象的なものも、物質としての身体も、物質ではない心も、神がいるなら神も含め森羅万象を、何から何まで統一的、体系的に説明しようとするならば、Leibniz の当時も私たちの現代でも、誰でもその説明は、大なり小なり「fantastic fairy tale」になってしまうのではないでしょうか?

専門分野のなかで、その分限を守っている間は、Leibnizモナドジーを「fantastic fairy tale」と言って切り捨てることも可能かもしれませんが、この世界を文字通り全体的に説明しようと試みるならば、そして人間である限り、そのように試みてみたいという衝動をいくらかは抱えているのですから、そうなると、私たちも Leibniz 風にならざるを得ないのかもしれませんし、だとするならば、この際、Leibnizモナドジーから何か学んでみようという気にもなるかもしれません。

世界をまるごと統一的に説明する試みの、一つのモデルとして、何がしかの教訓や興味深いアイデアのヒントを、私たちはモナドジーから得ることができるかもしれません。そのようなことをつらつらと考えてしまいました。

 

今日はこれぐらいにしておきます。ここまで、すべての誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字などに対し、お詫び申し上げます。とりわけ語学的註釈において、初等文法に関し、間違いを犯しておりましたら、誠にすみません。語学の専門家から見れば、色々と稚拙な点もあったかもしれません。すべて私の実力です。今後も語学の勉強に精進致します。どうかお許しください。

*1:モナドには窓がない」とは、そもそもどういうことなのか、「モナドっていったい何だろう?」、「窓がないってどういうことだろう?」という疑問については、ごくごく簡単に、かつて暫定的で近似的な答えを記したことがあります。次がそれです。当ブログ、2015年4月12日、項目「Monads Have No Windows. Why?」。

*2:モナドジー』、15ページ。

*3:『単子論』、215ページ。

*4:なお、u = v であるのは、たぶんですが、ラテン語の絡みからだろうと推測しています。ラテン語では u と v は同じ文字の、異なる書体のような感じで使われていたようですので。次を参照、小林標、『ラテン語の世界 ローマが残した無限の遺産』、中公新書中央公論新社、2006年、15-16ページ。

*5:Monadologie, S.12.

*6:Monadologie, S. 13.

*7:Monadologie, S. 71.

*8:The Penguin Dictionary, pp. 583-584.

*9:『オッカムの言語哲学』、133-134ページ。

*10:Leibniz's Monadology, p. 17.

*11:Leibniz's Monadology, p. 59.

*12:Monadologie, S. 38.

*13:Monadologie, S. 14.