Generic Sentences are Sometimes Dangerous.

(前回の記事の冒頭で、このブログを書いているパソコンがつぶれそうだと述べました。一応パソコンは今でも生きています。でも危ない状態です。)

 

目次

 

先日出たばかりの次の本を、最近拾い読みしています *1

飯田隆  『日本語と論理 哲学者、その謎に挑む』、NHK出版新書、NHK出版、2019年。

この本に、とても興味深く、大切なことが書かれていましたので、既にご存じのことかもしれませんが、ここでそれを紹介してみたいと思います。

上の本の228-245ページの話を、私なりにまとめ直したものが、本日の文章です。総称文の重要性と危険性についてのものです。私の original な主張は何もありませんので、ご了承ください。また、私が間違ってまとめているようなことがありましたら、この文章を読まれている方にも飯田先生にも謝ります。大変すみません。お許しください。

 

総称文

さて、「総称文 (generic sentence)」と呼ばれる文があります。たとえば「カラスは黒い」のような文がそうです。この文では、カラス一般が黒いこと、カラスが一般的に黒いことが述べられています。この他に総称文としては「金持ちはけちだ」などがあります。

このような総称文を前提に含む論証の一つを見てみましょう。

 

金持ちはけちだ。

田中さんは金持ちだ。

故に、田中さんはけちだ。

 

この論証の一番最初の前提が総称文です。このように、総称文を前提に含む論証を「総称文論証」と呼ぶことにしましょう *2

ここで問題です。この総称文論証は正しいでしょうか? ちょっと考えてみてください。

考えてみるとわかると思いますが、この総称文論証は正しくありません。たとえこの論証の、「故に」という表現の前にある二つの前提がともに正しかったとしても、この論証は正しくありません。なぜでしょうか? 総称文の特徴に言及しながら、その論証が正しくない理由を説明してみてください。

総称文とはどんな文なのか、私たちはぼんやりとながら、一定の理解を持っていると思います。そのうっすらとした理解をよく呼び覚ましていただければわかると思いますが、総称文の大きな特徴の一つは、それが一般性を表しながら、しかし例外も許す、ということです *3

総称文「カラスは黒い」について言うと、これはカラス一般が黒いことを述べていますが、albino (先天性色素欠乏症) の白いカラスがいても、今のカラスの総称文は成り立ちます *4

そこで、「カーちゃん」という名の albino の白いカラスがいるとしましょう。このカーちゃんについて、次のような総称文論証を展開してみるならば、それは正しい論証と言えるでしょうか?

 

カラスは黒い。

カーちゃんはカラスだ。

故に、カーちゃんは黒い。

 

お気づきのように、この総称文論証は正しくありません。なぜなら、カーちゃんは確かにカラスですが、黒くない例外的なカラスだからです。

同様に、上の田中さんに関する総称文論証も、それが正しくない理由は、その田中さんが金持ちでありながら例外的な金持ちかもしれず、もしも例外的な金持ちならば、田中さんはけちではない、と言えるからです。

「金持ちはけちだ」という総称文は、例外なく金持ちはけちである、と述べているのではなく、一般的には、あるいは通常は、金持ちはけちだと、その総称文は述べているのであり、例外をまったく排除している、というわけではありません。したがって、「金持ちはけちだ」という総称文を前提とするだけでは、田中さんがその例外である可能性は、特に断りがない限り、排除されない、ということになります。

 

全称文

ここで話を少し変えて、総称文とよく似た「全称文」と呼ばれる文を見てみましょう。

「全称文」と呼ばれる文には、たとえば「どのカラスも黒い」があります。総称文もそうでしたが、全称文も一般性を表し、今のカラスの全称文では、カラスがどれもこれも黒い、あるいはカラスが一つ残らず黒いことを言っています。この他に全称文としては「金持ちはみんなけちだ」などがあります。

このような全称文を前提に含む論証を一つ、見てみましょう。

 

金持ちはみんなけちだ。

田中さんは金持ちだ。

故に、田中さんはけちだ。

 

この論証の最初に出ている前提が、全称文です。このように、全称文を前提に含む論証を、「総称文論証」にならって、「全称文論証」と呼ぶことにしましょう *5

ここで再び問題です。この全称文論証は正しいでしょうか? やはりちょっと考えてみてください。

これはほんのちょっと考えるだけでわかると思います。そうです、正しい論証です。この論証の二つの前提が正しければ、結論も必ず正しくなります。

総称文論証は正しくありませんでした。その理由は、総称文論証の前提を構成する総称文が、通常、例外を許すからです。これに対し、全称文論証は正しくなります。なぜなら総称文と違って、全称文論証の前提を構成している全称文は、例外を許さないからです。全称文は、総称文とは異なり、例外を認めません。総称文は例外があっても成り立ちましたが、全称文は例外が一つでもあると成り立ちません。これが総称文と全称文の大きな違いです。

総称文論証は、それだけでは正しくないものです。それを正しいものにするには、その一つの例として、その論証の前提にある総称文に「みんな」、「すべて」、「どれも」などの全称に関する表現を追加することです。そうやって総称文論証を全称文論証に変換することです。

あるいは、たとえば上の田中さんに関する総称文論証では、「金持ちはけちだ」という総称文の例外に田中さんが当たらないことを、論証中で示しておくことです。具体的にはその論証の前提に「田中さんと食事をすると、どんなに少額の飲み食いでも田中さんは自分の分を払おうとせず、割り勘も拒否し、結局毎回私が全額払わされる羽目になる」というような文を (長いですが) 追加しておくか、または、ずっと手短に「金持ちはけちだ」のあとに「このことに例外はない」と付言しておく必要があります。

 

教訓

総称文も全称文も一般性を表し、全称文は例外を許さず、総称文も全称文みたいなものだと不注意に思ってしまうなら、総称文も例外を許さないものと、ぼんやりと、あるいはあわてて見なしてしまう可能性があります。

総称文は世の中にあふれています *6 。主語に人種名や民族名、性別の名などを取る総称文にもよく出会います。

これらの名を主語に取る総称文を全称文と取り違えることは、時として、その文を口にした人の破滅を招き、差別的な内容の総称文を多くの人が口にするようになれば、その社会の破滅をも招くでしょう。

総称文で「 ○○ 人は ×× である」と negative なことを言うことは、言っている本人も場合によってはこの文を全称文と思い込み、この文を聞く人、読む人も、全称文として意識せずに捉えてしまう可能性が大きいと思います。そうなると偏見が助長されて行くと思います。

大切なことは、総称文と全称文の区別を明確に行い、総称文を見かけたら、「例外はないのか?」と反問することだろ思います。そしてそのように反問するならば、自然と「その総称文を主張する根拠は何なのか? どういう論証や証明をとおして、その文を主張しているのか?」という問いへと導かれるでしょう。そうなってくると問題の総称文に対し、冷静に距離を取って接することができると思います。

 

追記

飯田先生は、先生の本のまえがきで、遠慮がちに、次のようなことを述べておられます。

以下のページで読者が出会うものは、「哲学」という言葉から連想されるようなものとは大幅に違うかもしれない。だが、本来、哲学とは、こうした具体的な話から始まったのだと私は思っている。 *7

たぶん多くの人にとって、「哲学は、難解で深遠で謎めいた文章から成るものだ」という印象があるのではないかと思います。それに比べると今回取り上げている飯田先生の本での語り口は、とても平易、平明で、高級、高踏な印象を与えません。しかしそれでもその本の内容は重要で大切であり、level が高く射程距離の長い議論が展開されているように思われます。

幸い、今先ほどの鍵カッコでくくった文「哲学は、難解で深遠で謎めいた文章から成るものだ」は、総称文でしょう。だとすれば、なにも難解で深遠で謎めいた文で書かれたものだけが哲学であるわけではない、と言えると思います。難解で深遠で謎めいた哲学も必要かもしれませんが、平易、平明な哲学も、どんどんやっていきたいですね。

 

これで本日の文章を終わります。私は総称文の専門家ではないので、以上の話に間違いが含まれていましたらすみません。誤字や脱字、誤解、無理解、勘違いなどにもお詫び致します。

 

補足 2019年10月4日

上の「追記」の節で、次のように書きました。「たぶん多くの人にとって、「哲学は、難解で深遠で謎めいた文章から成るものだ」という印象があるのではないかと思います。」

ところで、この8月に刊行された次の本を、のんびり読んでいますと、

・ 氷上英廣  『ニーチェの顔 他十三篇』、三島憲一編、岩波文庫岩波書店、2019年、

「難解で深遠で謎めいた文章から成る」典型的な哲学の文章を見かけました。それは今の氷上先生の本に収録されている以下の論文に出てきます。

・ 氷上英廣  「ニーチェにおけるヘーゲル像」、初出1970年。

ここで、氷上先生は Hegel の文を、悪文の具体例として引用しておられます。それを次に孫引いてみましょう。

本質における成、その反省的運動、は無から無への、またそれによって自己自身への還帰の運動である。移行または成は、その移行の中で自己を止揚する。この移行の中で成るところの他者は或る有の非有ではなくて、無の無である。そしてこのこと、すなわち無の否定であるということが、有を形成するのである。- 有は、ただ無の無への運動としてのみあり、かくしてそれは本質なのである。しかもこれはこの運動を自分の中にもつのではない。この運動は絶対的仮象そのものとして純粋な否定性である。この純粋な否定性は自己以外には否定する何ものも持たず、ただ自己の否定的なものそのものを否定するにすぎない。しかもその自己の否定的なものはただこの否定することの中にのみある。*8

これはたぶん、Hegel の『大論理学』、第二部本質論の書き出しだと思われます *9 。氷上先生によると、この文は Adorno も途方に暮れたものだそうで *10 、先生ご自身もこの「『大論理学』の一節をつきつけられて、小首をかしげない人は、よほどどうかしている人である」と述べておられます *11

上の Hegel のような文章で哲学することは、それはそれでありかもしれませんが、これで哲学するのは本当に大変ですね。私にはまったく無理です。

ちなみに、氷上先生は今上げた Hegel の悪文は、そんなに心を煩わす必要はないとお考えであり *12 、その文章全体「からにじみでていることが、心底から合点がいくことがだいじなのである」ということです *13

最後に一言。なぜ、いわゆる分析系の私が Nietzsche についての本を読んでいるのかというと、彼の風刺の精神に興味があるからです。氷上先生の「ニーチェにおけるヘーゲル像」では、Nietzsche の風刺の精神が炸裂しています。よい哲学には風刺的な精神が必要かもしれません。すべてのよい哲学には必ずその精神が必要だ、とまでは言いませんが ... 。補足終わり

 

*1:拾い読みしているだけで、通読している/通読したわけではありません。念のため。

*2:飯田先生は「総称文論証」という言葉を使っておりません。念のため記しておきます。

*3:総称文に関するその他の特徴については、飯田先生の本の232-235, 242ページをご覧ください。

*4:多くの総称文は例外を許しますが、例外のない総称文も、なかにはあります。「人間はいつか死ぬ」がそうです。飯田、244ページ。

*5:この「全称文論証」という言葉についても、飯田先生は使っておりません。念のため。

*6:統計を取ったわけではないので、「総称文は世の中にあふれています」というのは、私の印象です。少なくとも全称文よりかは総称文のほうが、よく見かけやすいとは思いますが。

*7:飯田、6ページ。

*8:氷上、「ニーチェにおけるヘーゲル像」、282-283ページ。以下の註で言及する氷上文献は、すべてこの「ニーチェにおけるヘーゲル像」のことです。なお、引用文冒頭の「その反省的運動、は無から無への」において、「その反省的運動は、無から無への」ではなく「その反省的運動、は無から無への」となっているのは、原文のままです。

*9:氷上、284-285ページ。

*10:氷上、282ページ。

*11:氷上、283ページ。

*12:氷上、288ページ。

*13:氷上、282ページ。