前回、Dedekind と Frege に少し触れました。その際、次の本を拾い読みさせてもらったのですが、
・ 足立恒雄 『フレーゲ・デデキント・ペアノを読む』、日本評論社、2013年、
そこに Dedekind と Cantor に関して、興味深いエピソードが書かれていました。それは以下のようなものです。
Cantor は集合論のパラドックスを見つけました。そしてそれを手紙で Dedekind に伝え、見解を求めたのですが、彼が病気だったためか、返事をもらえませんでした。そこで弟子の Bernstein を Dedekind のところにやって、返事を聞いてくるように頼みました。そうして Bernstein が入手した返事によると、Dedekind はパラドックスに関して次のように答えたそうです。上の足立先生の本から先生の翻訳で、その返事を引用してみます。
Dedekind 先生は、パラドックスにいわば人間理性の限界を見たのでしょうか? とても興味を感じます。
私は個人的に、いわゆる論理的なパラドックスに哲学的な含意や教訓が含まれているとすれば、それは何であろうか、という疑問を持っていますので、先生のような偉大な研究者が集合論のパラドックスにどんな哲学的意義を感じていたのか、関心があります。
足立先生の本ではその他に、Bernstein の報告から、Dedekind が集合を閉じた袋としてイメージしていたり、Cantor が集合を深淵としてイメージしていたという話が紹介されていて、大変面白いです。
これらのエピソードは、Dedekind の Gesammelte mathematische Werke の Band 3 に収められているそうで、この著作は現在誰でも無料で internet を使い、見ることができるようです *2 *3 。
実際に調べとみると、すぐに見つかりました。割と短い文章です。そこで今日はそのエピソードをドイツ語原文で引用し、試訳/私訳を付けてみたいと思います。まず出典を記します。
・ Richard Dedekind Gesammelte mathematische Werke, Dritter Band, herausgegeben von R. Fricke et al., Friedr. Vieweg, 1932, S. 449 *4 .
ここで Emmy Noether が注釈として、Bernstein の報告を記しています。それを引きます。なお、原文中の人名がどれも gesperrt されていますが、それは無視し、詰めて引用します。
次に私による和訳を掲げます。最初に直訳・逐語訳を記します。ガチガチの訳なので一読しただけではわからないかもしれません (何度読んでもわからないところがあるかもしれませんが。) その後に意訳を記します *5 。
ドイツ語ができる方は、私の訳を無視してください。和訳で読みたいという方は、意訳を読まれればよいと思います。意訳を読んで私の訳に疑問を感じた方は直訳・逐語訳を参考に、私がどのようにドイツ語を理解し、あるいは誤解しているか、確認してください。意訳だけだとドイツ語の細部がわかっていなくてもごまかすことができますが、直訳・逐語訳だとそうもいきません。手の内を明かしておきます。誤訳していましたらすみません。また誤訳とまではいかなくても、改善したほうがいい点が多々あるかもしれません。それについてもお詫び致します。
また、お断りしておきますが、私は Dedekind, Cantor, 集合論のどれについてもよく知りません。見当違いの訳を作っておりましたらごめんなさい。
なかなか面白いですね。Dedekind の閉じた袋という集合観は常識的な感じで、私たちも抱くような見方ですね。
それに対して Cantor のものは、私たちも集合論を深く勉強すれば抱く見方かもしれませんが、さすがに Cantor らしい見解ですね。
その Cantor が次元の違いの喪失について、'Je le vois, mais je ne le crois pas' と言ったという話は有名ですが *7 、その時の 'le' とは、ひょっとしてひょっとすると、上のドイツ語引用文末尾にあるような Abgrund のことだったのかもしれませんね。この語は「深淵」の他に「奈落」という訳語も持ちますので、Cantor が見たのは、無限のものが無限の階層を、はるか下まで落ち込んでいく暗黒の世界だったのかもしれません。そして Cantor はそのような世界を見ただけでなく、そこに吸い込まれ落下していくような気分を味わったのかもしれません。そのためにその後、精神を病んだのかもしれませんね。
では一転して、Frege は集合をどのように見ていたのでしょうか? それについては、たとえば次の文献を見ていただくことにして、
・ 三平正明 「フレーゲとカントールの対話」、『思想』、no. 954, 岩波書店、2003年、
以下では、Frege が集合について言及した発言のうち、私が若干印象深く思った文章を引いてみましょう *8 。次の遺稿のなかに出てくるものです *9 。
・ G. Frege „Erkenntnisquellen der Mathematik und der mathematischen Naturwissenschaften‟, in Nachgelassene Schriften, zweite, revidierte Auflage, Felix Meiner, 1983, SS. 288-289.
まず、ドイツ語原文を引用します。その下に、刊行されている邦訳を掲げます。(邦訳のなかのカッコ [ ] は訳者によるものです。)
「屈服させられた」ということばが印象深いですね。要するに Frege は「負けた (unterliegen)」わけです。このように Frege が述べる様子を見ると、「潔いことだ」とも思いますし「悲しいことだ」とも思います。
しかし、Frege がいわゆる Russell の Paradox に遭遇したことは、個人的には悲劇であったとしても、論理学の世界においては強力な springboard を手に入れたことになったので、大局的には悲しいことばかりではなかったと言えます。このような感じのことを、Frege は Russell へ最初に書簡を返信した際に、述べていたと思います。
問題
ところで、上の引用文で Frege は「概念 a の外延 (der Umfang des Begriffes a)」や「概念恒星の外延 (der Umfang des Begriffes Fixstern)」が指しているような対象はない、と述べています。なぜでしょうか?
この問題に対する私なりの答えを別に書いてみたのですが、半分まで書いたものの、長くなりすぎて疲れたので、ここにそれを書き写すのはやめます。(それに最後まで書いたとしても、十全な答えになりそうにありませんでしたし)。
その代わり、以下では私なりの推測を軽く示唆したものを記してみます。詳しい説明は一切省きます。
さて、先の問題に対し、すぐに思いつく答えは、いわゆる研究者の間で「概念馬のパラドックス the Concept Horse Paradox」と呼ばれているものにより、概念の表現 a, Fixstern の前に定冠詞 (der, des, etc. ) を付けると、概念を指すように見えて実は概念を指すことはない、と Frege は考えたことから、問題の表現「概念 a の外延 (der Umfang des Begriffes a)」等も指示する対象を持たないのだろう、とするものです。
私もこれが、問題の表現が指示する対象を持たない理由だろうと一瞬考えたのですが、上に引用した Frege の文のすぐあとを読むと、この理由ではないことがわかります *11 。というのも、今取り上げている問題の表現は、また「別の仕方で in anderer Weise」困難を引き起こすと Frege は述べて、その困難の原因として「概念馬のパラドックス」に関する話を出しているからです *12 。したがって、上の引用文で Frege が、問題の表現が指示対象を持たないとしている理由は、「概念馬のパラドックス」関係とは異なったものであると考える必要があります。(少なくとも、その paradox が直接の理由ではないと考える必要があります。)
では、どんな理由から問題の表現が指示対象を持たないと Frege は考えていたのかというと、推測ですが、大雑把に言うと、「概念の外延」ということばが、そのままだと Russell の Paradox に相当するものにより、矛盾を含意するからだろうと思います。「丸い三角」ということばは矛盾しているので何も指さないように、「概念の外延」ということばも実は矛盾を含んでいるので何も指さず、よって表現「概念 a の外延 (der Umfang des Begriffes a)」や「概念恒星の外延 (der Umfang des Begriffes Fixstern)」も何も指さない、というわけです。
ただし、Frege によると、丸い三角という概念や概念の外延という概念が矛盾しているから、ただちに問題を引き起こすのだ、そんな概念は一掃されるべきだ、というわけではありません。逆説的ですが、学問に矛盾した概念は必要です (背理法のことを思い出してください。このことは、以下で言及する Frege の遺稿で、本人が触れています)。
Frege にとって問題が起きるのは、矛盾を含んだ概念の表現に対し、定冠詞を前置して、そうやってできた表現は単称名だから何か対象を指しているはずだ、と思うことにあります。というか、そうやってできた表現は、文学作品などと違って学問の場では、当然何か指していると思わざるを得ない、ということです。
Frege によると、たとえば「丸い三角」という概念の表現や「概念の外延」という概念の表現が、それだけで悪いというわけではありません。これらの概念の表現、具体的には「概念の外延 Umfang des Begriffes」に、ドイツ語や英語、フランス語で言えば、定冠詞を前置し、「概念のその外延 der Umfang des Begriffes」のように書いて、これを学術的な場面で事実を表す表現として使う場合が、問題を惹き起こすのです。この表現は何かを指しているように見えますが、矛盾を含んでいるので何も指していないのです。
何か指しているように見えて、実はそこでの概念が矛盾していたので何も指していなかった、ということはあり得ます。それこそ、素朴な集合の概念や概念の外延という概念に起こったのがこれだと思います。
Frege も「怪しいな、大丈夫かな? まぁ大丈夫だろう」と思っていた表現「概念の外延」に関し、降ってわいてきたのが Russell の Paradox でした。
というわけで、話がまた長くなってきたので、疲れてきたこともありますし、もうやめます。
私がここまで述べた、表現「概念の外延」が指示する対象を持たない理由は、まだ推測の段階にあるものです。絶対に正しい、とは思い込まないでください。そもそも極めて大雑把な記述をしていますので、正確さに大いに欠けていますし。
なお、この件に関して評価される場合は、まず Frege の遺稿「シェーンフリース「集合論の論理的パラドクス」について」に付された訳者岡本賢吾先生の訳註を、どうかお読みください *13 。そこの訳註11末尾、訳註27第1段落と第2段落、訳註36末尾に注意してください *14 。私の推測に対し、岡本先生が反対意見を記しておられます。これらの註を必ずお読みになられてから、私の上の推測を評価してください。
以上、お手間おかけ致しますが、よろしくお願いします。これで本日の話を終わります。私がなしたすべての誤解、無理解、勘違い、無知、無頓着にお詫び申し上げます。特にドイツ語の私による和訳は、細部まで正しい、とは思わないでください。気をつけて訳したつもりですが、「大体あんな感じ」ぐらいに思っておいたほうがいいです。
*1:足立、122-123ページ。
*2:足立、198ページ。
*3:なお、これらのエピソードは、結構有名なのかもしれません。たとえば次の著名な本でも少しだけ言及されています。José Ferreirós, Labyrinth of Thought: A History of Set Theory and its Role in Modern Mathematics, Second Revised ed., Birkhäuser, 2007, p. 292.
*4:URL, <https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN23569441X?tify={%22pages%22:[453],%22view%22:%22toc%22}>.
*5:意訳のなかで、訳者が補足した表現をカッコ [ ] に入れて記しましたが、それは補足した表現の一部です。補足した表現を全部そのカッコに入れて記すと煩雑になるので、一部にとどめています。
*6:集合自身が目に見えず、存在して確定的である以外、何もわからない、というのなら、なんとなく話はわかりますが、集合自身ではなく、その集合に含まれているものが、目に見えず、存在して確定的である以外、何もわからない、というのは、またどうしてなのか、といぶかしく思われるかもしれません。私の推測ですが、Dedekind はここで、含まれているものも集合だと考えているのだろうと思います。だから、集合に含まれているものも目に見えないと言っているのだろうと思います。「数とは何か、何であるべきか」の第3節末尾で、集合に含まれているものとして集合を考えることもできる、という意味のことを述べていますので (デデキント、『数について』、岩波文庫、61ページ、『数とは何かそして何であるべきか』、ちくま学芸文庫、62ページ)。ちなみにドイツ語原文では、存在し確定的である以外、何もわからないもの denen, sie とは、文法上、ここでは前方の複数名詞のことであり、目に見えないもの die も、話の内容から、これと同じ名詞を指していると考えられ、その場合、前方の複数名詞とはただ一つ、Dinge しかないので、目に見えず、存在して確定的である以外、何もわからないものとは Dinge であって、Dinge を含んでいる女性単数名詞 Menge ではありません。念のため。
*7:このセリフについて言及している文献を一部だけ上げるなら、たとえば、Ferreirós, Labyrinth of Thought, p. 171, I. Grattan-Guinness, The Search for Mathematical Roots, 1870-1940, Princeton University Press, 2000, p. 89, 志賀浩二、『集合への30講』、朝倉書店、1988年、178ページ、アミール・D・アクゼル、『「無限」に魅入られた天才数学者たち』、青木薫訳、早川書房、2002年、129ページ、など。
*8:もちろん Russell との書簡のやり取りの際に Frege が言及した集合がらみの発言が、誰でも一番印象深いと思いますが、今回はそれは外します。
*9:この発言も割と有名だろうと思います。著名な入門書に出てきますので。Anthony Kenny, Frege: An Introduction to the Founder of Modern Analytic Philosophy, Blackwell, 1995/2000, p. 176, 邦訳、アンソニー・ケニー、『フレーゲの哲学』、野本和幸他訳、叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、2001年、226ページ。(ただし邦訳書は Blackwell の再発版ではなく、Penguin の original 版からの訳です。)
*10:G. フレーゲ、「数学と数学的自然科学の認識源泉」、金子洋之訳、『フレーゲ著作集 5 数学論集』、野本和幸、飯田隆編、勁草書房、2001年、300-301ページ。
*11:その「すぐあと」の文は、ここでは引用していません。
*12:Frege, „Erkenntnisquellen ... ‟, S. 289, フレーゲ、「数学と数学的自然科学の認識源泉」、301ページ。