目次
はじめに
前々回のブログでは、Frege によるあからさまで身もふたもない、皮肉を含んだような論証を鑑賞してみました。
そしてそのブログの終わり辺りで、Frege はあからさまなあまり、批判の度を越して、ほとんど暴言を吐かんばかりになることがある、という趣旨の文言を記しました。当日のブログの「終わりに」という最後の節で、「(Thomae 批判)」と書いた部分のことです。
そこで今回は、Frege による、この暴言すれすれの発言を確認してみたいと思います。
とはいえ、これはかなり知られていることだと思いますので、珍しい話ではありません。
それに「暴言すれすれ発言」を確認する際に私が依拠する文献もずいぶん前から知られているはずのものですから、目新しい話ではありません。
さらに言うと、今回は暴言に関する話題なので、あまり愉快な話ではありません。むしろ不愉快なところのある内容であり、ここに記すのが少々ためらわれる話です。
前もってこれらのことをお伝えしておきます。また、私が何か間違ったことを書いておりましたらすみません。関係する方々にお詫び申し上げます。
ことの背景
さて、本日、主として依拠する文献は次です。何年も前から internet で誰でも無料で閲覧できる、たった2ページの短い文献です。
・ G. Gabriel ''Über einen Gedankenstrich bei Frege. Eine Nachlese zur Edition seines wissenschaftlichen Nachlasses,'' in: Historia Mathematica, vol. 6, no. 1, 1979, SS. 34-35 *1 .
この文献の題名を和訳すれば、たとえば「Frege の著作におけるあるダッシュについて 彼の学問的遺稿編集のための一つの拾遺」、あるいは副題を少し修正した「彼の学問的遺稿編集版のための一つの拾遺」とでもなるでしょうか?
ダッシュ ( ― ) とは、誰でも知っているとおり、文の途中で、中断や休止、ためらい、沈黙などを表わすために、横に少し長めに引かれた線分のことです。
今回の話の背景を大まかに、かつ手短に述べてみましょう *2 。
Frege は大学の同僚の数学者 J. Thomae に対し「数学とは何についての学問か?」という問いを巡って論争を挑んでいました。
Thomae は、数学は数字や数式などの記号に関する学問だと考えていたようです。これに対し Frege は「いやいやそうじゃない、そんなことありえない、理由はこうだ!」と言って Thomae の説は間違っていることを示す論証を提示していました。
しかし、Thomae は Frege の主張をあまり意に介さず適当にあしらって、相変わらず「数学は記号についての学問」という説を述べ続けていたようです。
それで Frege はこれに立腹したみたいです。Jahresbericht der Deutschen Mathematiker-Vereinigung (ドイツ数学者協会年報) という文献の1906年の第15巻で *3 、Frege は ''Antwort auf die Ferienplauderei des Herrn Thomae (トーメの閑話に答える)'' という題の評論文を書き *4 、ここにおいて次のようなこと言っています *5 。私 Frege は根拠を提示しながら、問題点を指摘した。そこで、
このように Frege は述べ、そしてこのあと、以下のように言っています *6 。
問題の草稿
ここで注目したいのは、今の引用文中のダッシュ ( ― ) です。このダッシュは、Frege 本人が記したのか、それとも上記年報の編集者が記したのか、はっきりしないようですが *7 、いずれにせよ、ダッシュの部分には元々別のことばが書かれていたようです。
そしてその書かれていたことばが何であったのかは、Frege によるこの文章の草稿 (のフォト・コピー) が残されていることから *8 わかっているみたいです。その部分を含めた草稿の文を復元してみるならば、次のようです *9 。
Bockmist が何を意味するのか、その和訳をここに記すことは遠慮しておきます。大き目の独和辞典を引いていただくか、普通の独和辞典の bock と mist を引いてみてください。あまりきれいな言葉ではないです。
そしてさらに Frege は、今記したようなダーティー・ワードをわざわざ使用する理由、正当性をその草稿で述べており、それが今回依拠している短い Gabriel 文献で引用されているので *10 、それをここに引用し、私による試訳/私訳を付してみましょう。
なお、私は別にドイツ語が堪能だというわけではありません *11 。念のために訳文を注意して読み直しましたが、それでも誤訳しておりましたら謝ります。すみません。
さて、草稿原文を掲げたあと、訳はまず直訳/逐語訳に近い調子で訳し *12 、そのあと意訳を記します。
ずいぶん強行な態度ですね。Frege の政治信条と、どこか通じるものがあるように個人的には感じます。何だか危険な香りがしますね。
草稿の最終刊行バージョン
ちなみに、この草稿の部分は、最終的にどのような文章となって公にされたのでしょうか? その最終刊行バージョンを引用して、軽く比べてみましょう *14 。なお、Frege がここで一ヶ所だけ付けている、文献指示のための註は、省いて引きます。
なるほど、この公開されたバージョンでは異論を威嚇して排除する強行手段を積極的には正当化しておらず、その分アグレッシブなトーンが抑えられていて、確かに残念そうですね。
論争を締める際の発言
ここでは引いていませんが、上の引用文の直前の部分で Frege は、その引用文が書かれた時より22年も前に、問題点を自著 Grundlagen der Arithmetik の中で指摘し公表しているのに、ちゃんと考慮してくれていない、と言って不満を露わにするとともに、嘆きのことばを連ねています *16 。それを読むと、ダーティー・ワードはいけませんが、慨嘆したくなる気持ちもわからないではありません。たとえば、こんな風に嘆いています。自分が書籍で指摘した問題点について、
「私の指摘は、空中に書かれたために、すぐに雲散霧消してしまったと言うのだろうか? だとすると、あれだけ力を込めて書いたのに、実に痛恨極まりない」といった Frege の思いを感じます。しかし、Frege への同情の気持ちも、次のように Frege が論争を最終的に締めるようでは維持できません。
Thomae さんとの論争は、Frege が ''Schlußbemerkung (結語)'' というごく短い、数行だけから成るコメントを発することでたぶん終わったのだと思いますが、この最後の最後にも Frege は以下のようなことを述べています *17 。私 Frege は、事実に基づいて真剣に、ある学説と対決した。それについて Thomae 氏の方から反論があるのなら、反論するのが義務だ。そして Frege は言います。
「弱い」と訳した Schwäche は、原文では名詞であって「弱さ」のことです。Thomae さんの何が弱いと Frege が言っているのかは、二人の論争からわかるのですが、あえてここではそれが何であるかは記しません。要するに、Thomae さんの身体のある部分の能力が弱いと Frege は言っているのです。
それにしても、上の引用文の「es sei denn ... (相変わらず ... )」以下は完全に余計ですね。最後の最後でも、まだこういうことを言うなんて、ちょっとどうかしてます。捨て台詞ですね。同情も失せるというものです。やりすぎですね。
偶感を一つ
最後に、上記 Frege の文章を読んで、ふと思ったことを軽く記して終わりにします。とりとめがなく、あまり説得力のない話です。あらかじめご了承ください。
さて、上の草稿最終刊行バージョンの中で、Frege は問題のダッシュの直後に、次のように言っていました。
この文 (*) の中の語 'unparlamentarish' は、ここでの文脈では、直訳すると「非礼の」であり、'unparlamentarish' の 'un' が「非」であって、'parlamentarish' が「礼の (礼儀正しい)」になります。
しかし後者の語 'parlamentarish' は、ドイツ語を知らなくても、英語、フランス語をご存じの方であれば、この語の意味は「議会の」とか「国会の」という意味を持つだろうと推測されると思います。
実際、今の語は大抵の場合、「議会の」、「国会の」という意味を持っているようです。
そのため、私が最初に上の文 (*) を読んだ時、その文を
「しかし、私は非議会的にはなりたくない」
または
「しかし、私は議会の決まりに背くようなまねはしたくない」
と解しました。けれども、このように解すると文脈から遊離した訳になるので、何のことか自分でもわからず、首をひねりました。
そこで小学館の『独和大辞典』、博友社の『大独和辞典』を引いてみると、後者の辞典に 'parlamentarish' が「礼儀正しい」という意味を持つと書いてあり、それで合点がいきました。
ですから、(*) を「しかし、私は非礼なことはしたくない」と訳すのが概して正しいと思われ、「しかし、私は非議会的にはなりたくない」だとか「しかし、私は議会の決まりに背くようなまねはしたくない」と訳すのは正しくないと考えられるわけですが、「しかし、私は議会の決まりに背くようなまねはしたくない」という意味を想起させる文 (*) を Frege が述べているというのは、あまり Frege には似つかわしくないことだと個人的には感じました。
というのは、Frege のいわゆる「日記」を読むと、彼は一般に議会主義と呼ばれるものを全面的に否定する人ではなかったようですが *18 、それでも議会主義には重きをそれほど置かない人だったろうと私は想像するからです。その極めて大まかな根拠は次のとおりです。
Frege の「日記」を見るとすぐにわかるのは、彼が政治家の Bismarck をかなり支持していた、ということです。Frege は Bismarck に、ずいぶん親近感を抱いていたことが感じられます。つまり Frege は政治的スタンスに関しては、Bismarck の立場に非常に近かったことが推測されます。
ところでその Bismarck は、いわゆる議会主義というものが嫌いでした *19 。議会は必要があって利用はするが、議会主義の理念に対しては共感を抱かず反感を持っているのが Bismarck でした。ここで Bismarck の反議会主義的スタンスがよくわかる史実を一つ引きましょう。
1859年以降、Preußen では軍制改革が国王 Wilhelm I の手によって行われようとしましたが、Preußen 下院の議会で激しい反発に会い、国王と議会の対立が膠着状態に陥り、予算不成立の危機に直面しました。そこで Wilhelm I は事態打開のため、Bismarck に白羽の矢を立て、彼を Preußen の首相に任じるか否か、Bismarck を引見し諮問しました *20 。その際に Bismarck は次のように答えました *21 。
Bismarck によると、国王と議会と、どちらが国を支配すべきかといえば国王であって、議会による支配は何が何でも避けられねばならない、と言います *22 。こうして Bismarck は、国王と議会との二択を迫られたならば、国王を取って議会を捨てると断言し、彼にとって議会は (利用する必要がある道具ではあっても、その理念の実現を目的とするような) 最重要な存在ではないことになります。
そうすると、Bismarck に近い Frege も議会主義に対してそれほど共感を抱かず、反感を割と持っていた可能性があると予想されます。
仮に、仮にですが、Frege は議会をあまり高くは評価していないようだ、というこの予想が大体ながら的に当たっているとするならば、反議会主義的傾向をいくらか持っている Frege が「議会の決まりに背くようなまねはしたくない」という意味を思い起こさせる文 (*) を口にするというのは、何だかそぐわないような気が私にはしたのです。どこかブラック・ユーモアの雰囲気が漂っている感じがしました。もしかしてもしかすると、本人も (*) を記しながら内心で「何か妙だな、自分って矛盾したことを言ってる?」と感じたのではなかろうか? そんなの感じてないかな?
まぁ、いずれにしましても、今回の Frege の文章を読んで私がふと思ったのはそんなことです。それにしても、doch ich will nicht unparlamentarish werden (*) とは、Frege にしては不釣り合いな、しっくりこない発言だな、と私はちょっと思ってしまったのです。何かのブラック・ジョークのような気がしました。それだけなんですけれどもね。
これで本日の話を終わります。
いろいろと間違えたことを言っているかもしれません。あるはずの誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字などについて、お詫び致します。特に私によるドイツ語の和訳には、誤訳、悪訳、もう少し手直しした方がよい訳が含まれていると思います。こちらもお詫びし、今後、勉強に努めて参ります。どうかお許しください。
*1:URL = <https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0315086079901022>.
*2:この背景については、以下を参考にしています。野本和幸、『フレーゲ入門 生涯と哲学の形成』、勁草書房、2003年、95, 111, 175-176, 187-196ページ。
*3:URL = <https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN37721857X_0015?tify={%22pages%22:[592],%22view%22:%22toc%22}>, または <http://www.digizeitschriften.de/download/PPN37721857X_0015/PPN37721857X_0015___log144.pdf>. 今回私が特に参照したのは前者の URL の文献です。
*4:Jahresbericht, Bd. 15, SS. 586-590. これは Frege の Kleine Schriften, 2. Auflage, hg. von I. Angelelli, Georg Olms, 1990, SS. 324-328 に収録されています。「トーメの閑話に答える」という題名は、野本先生の訳を採用させてもらいました。野本、『フレーゲ入門』、191ページ。
*5:Jahresbericht, Bd. 15, S. 590, Kleine Schriften, S. 328, Gabriel, S. 34.
*6:Jahresbericht, Bd. 15, S. 590, Kleine Schriften, S. 328, Gabriel, S. 34.
*7:Gabriel, SS. 34-35.
*8:Gabriel, S. 35, Anm. 2.
*9:Gabriel, S. 35.
*10:Gabriel, S. 35.
*11:時々ひどい誤読、誤訳をやってしまうことがあります。つい先日も、別のドイツ語の文を誤読して、びっくりというか、がっくりしました。
*12:直訳/逐語訳を記したほうが、ドイツ語がわかる人には、私のドイツ語の能力が理解できて安心だと思います。とはいえ、ドイツ語がわかる方は私の訳を無視して原文をお読みください。また、ドイツ語は知らないという方は、私の訳を「大体こんな感じなんだろうな」ぐらいの気持ちでお読みください。
*13:引用者註: 原文では 'litterarisch' という語が載っています。この語の中では 'tt' というように、t が二つ、つづられています。しかし t が一つだけの 'literarisch' が正しいと思われますので、引用文中では 'literarisch' を記しておきます。
*14:Jahresbericht, Bd. 15, S. 590, Kleine Schriften, S. 328.
*15:「蝋引きの上着」と訳したのは、'Öljacke' という語ですが、この語は小学館の『独和大辞典』にも、博友社の『大独和辞典』にも載っておらず、私は正確な意味を知りません。字義どおりには「油の上着」ですが、防水性の上着のことだろうと思い、「蝋引きの上着」と訳してみました。間違っておりましたらすみません。
*16:Jahresbericht, Bd. 15, S. 590, Kleine Schriften, S. 328.
*17:Jahresbericht der Deutschen Mathematiker-Vereinigung, Band 17, 1908, S. 56, URL = <https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN37721857X_0017?tify={%22pages%22:[64],%22view%22:%22toc%22}>, oder <http://www.digizeitschriften.de/download/PPN37721857X_0017/PPN37721857X_0017___log11.pdf>. 今回は特に前者の URL の文献を参照しました。Kleine Schriften では、S. 333 に載っています。
*18:フレーゲの「日記」、1924年4月13日、樋口克己、石井雅史訳、『フレーゲ著作集 6 書簡集 付「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年、344-345ページ。
*19:飯田洋介、『ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術』、中公新書、中央公論新社、2015年、132-133, 160ページ。
*20:軍制改革の頓挫については、飯田、『ビスマルク』、84-86, 90-91ページ。大内宏一、『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』、世界史リブレット人、山川出版社、2013年、19-21ページ。
*21:本文下記の Bismarck による Wilhelm I への返答は、飯田、『ビスマルク』、91ページ。
*22:飯田、『ビスマルク』、90-91ページ。ただし、今引用した Bismarck の発言は、Wilhelm I によって Preußen の首相に自分が任命してもらえるか否かが決まる、いわば口頭試問の中での発言なので、権力の座に就きたい Bismarck としては、国王に多少お世辞を並べる必要があったかもしれないため、引用文の発言が100% Bismarck の本音であるかどうかはわかりません。しかし、Bismarck の普段の思考や行動パターンから、問題の発言はほぼ本音だと思われます。