The Argument of the First Two Paragraphs in Frege's ''Über Sinn und Bedeutung''

目次

 

はじめに

名前と、それが表わしているものについて、少し記してみます *1

たとえば名前「太郎」が表わしているのは太郎であり、それ以外にはないように思われます。しかしドイツの論理学者 Gottlob Frege は、「太郎」のような名前が表わしているのは太郎だけでなく、それ以外のものも表わしていると考えます。

少し言い換えると、「太郎」のような名前には、太郎が結び付いているだけでなく、それ以外のものも結び付いているのだ、と考えるのです。

Frege によると、名前「太郎」は太郎という意味 (Bedeutung) を持つだけでなく、彼が「意義 (Sinn)」と呼ぶものも持っている、とのことです。

なぜでしょうか?

「名前や記号は意味だけでなく、意義も持つ」というこの主張が主として論証されているのは、彼の有名な論文 ''Über Sinn und Bedeutung'' の冒頭第一段落と第二段落です。そこで、今さらではありますが、その論証がどのようなものだったのか、改めて確認してみましょう。というのも、この二つの段落は、上に述べた主張の論証としては、若干ですが、わかりにくいところがあると思われるからです。

以下ではその二つの段落のドイツ語原文を引用します。そして私による直訳・逐語訳を付けます。それからそれらの段落で展開されている論証の流れを概観し、そのあと、そこでの論証をいくつかに分解し、ほんのわずかばかり分析してみましょう。そして私の提示した解釈の利点と難点、Frege の論証に対する私の疑問点を示します。

なお、今回取り上げる論文には、既に邦訳が四種類出ています *2 。したがって、わざわざ私の訳を掲げずに、刊行済みの邦訳中から問題の段落を引けばいいのですが、Frege の原文を極力そのままの形で訳出したものを素材にしたいので、私による直訳・逐語訳を試訳として掲げさせてもらいます *3

とはいえ、私の拙い訳では不安をお感じになられる方もおられるでしょうから、四つの邦訳の中から、念のために一つを最後に付録として記しておきます。

 

原文

ではまず、ドイツ語原文を引きます。原文中の [1] などは、引用者による挿入です *4

・ Gottlob Frege  ''Über Sinn und Bedeutung,'' in Kleine Schriften, 2. Auflage, hg. von I. Angelelli, Georg Olms, 1990.

 [1] Die Gleichheit{\small^{1}} fordert das Nachdenken heraus durch Fragen, die sich daran knüpfen und nicht ganz leicht zu beantworten sind. Ist sie eine Beziehung? eine Beziehung zwischen Gegenständen? oder zwischen Namen oder Zeichen für Gegenstände? Das Letzte hatte ich in meiner Begriffsschrift angenommen. Die Gründe, die dafür zu sprechen scheinen, sind folgende: a = a und a = b sind offenbar Sätze von verschiedenem Erkenntniswerte: [2] a = a gilt a priori und ist nach Kant analytisch zu nennen, während Sätze von der Form a = b oft sehr wertvolle Erweiterungen unserer Erkenntnis enthalten und a priori nicht immer zu begründen sind. Die Entdeckung, daß nicht jeden Morgen eine neue Sonne aufgeht, sondern immer dieselbe, ist wohl eine der folgenreichsten in der Astronomie gewesen. Noch jetzt ist die Wiedererkennung eines kleinen Planeten oder eines Kometen nicht immer etwas Selbstverständliches. [3] Wenn wir nun in der Gleichheit eine Beziehung zwischen dem sehen wollten, was die Namen »a« und »b« bedeuten, so schiene a = b von a = a nicht verschieden sein zu können, falls nämlich a = b wahr ist. Es wäre hiermit eine Beziehung eines Dinges zu sich selbst ausgedrückt, und zwar eine solche, in der jedes Ding mit sich selbst, aber kein Ding mit einem andern steht. [4] Was man mit a = b sagen will, scheint zu sein, daß die Zeichen oder Namen »a« und »b« dasselbe bedeuten, und dann wäre eben von jenen Zeichen die Rede; es würde eine Beziehung zwischen ihnen behauptet. Aber diese Beziehung bestände zwischen den Namen oder Zeichen nur, insofern sie etwas benennen oder bezeichnen. Sie wäre eine vermittelte durch die Verknüpfung jedes der beiden Zeichen mit demselben Bezeichneten. Diese aber ist willkürlich. Man kann keinem verbieten, irgendeinen willkürlich hervorzubringenden Vorgang oder Gegenstand zum Zeichen für irgend etwas anzunehmen. Damit würde dann ein Satz a = b nicht mehr die Sache selbst, sondern nur noch unsere Bezeichnungsweise betreffen; wir würden keine eigentliche Erkenntnis darin ausdrücken. Das wollen wir aber doch grade in vielen Fällen. Wenn sich das Zeichen »a« von dem Zeichen »b« nur als Gegenstand (hier durch die Gestalt) unterscheidet, nicht als Zeichen; das soll heißen: nicht in der Weise, wie es etwas bezeichnet: so würde der Erkenntniswert von a = a wesentlich gleich dem von a = b sein, falls a = b wahr ist. [5] Eine Verschiedenheit kann nur dadurch zustande kommen, daß der Unterschied des Zeichens einem Unterschiede in der Art des Gegebenseins des Bezeichneten entspricht. Es seien a, b, c die Geraden, welche die Ecken eines Dreiecks mit den Mitten der Gegenseiten verbinden. Der Schnittpunkt von a und b ist dann derselbe wie der Schnittpunkt von b und c. Wir haben also verschiedene Bezeichnungen für denselben Punkt, und diese Namen (»Schnittpunkt von a und b« »Schnittpunkt von b und c«) deuten zugleich auf die Art des Gegebenseins, und daher ist in dem Satze eine wirkliche Erkenntnis enthalten.

 [6] Es liegt nun nahe, mit einem Zeichen (Namen, Wortverbindung, Schriftzeichen) außer dem Bezeichneten, was die Bedeutung des Zeichens heißen möge, noch das verbunden zu denken, was ich den Sinn des Zeichens nennen möchte, worin die Art des Gegebenseins enthalten ist. Es würde danach in unserm Beispiele zwar die Bedeutung der Ausdrücke »der Schnittpunkt von a und b« und »der Schnittpunkt von b und c« dieselbe sein, aber nicht ihr Sinn. Es würde die Bedeutung von »Abendstern« und »Morgenstern« dieselbe sein, aber nicht der Sinn. *5

1 Ich brauche dies Wort im Sinne von Identität und verstehe »a = b« in dem Sinne von »a ist dasselbe wie b« oder »a und b fallen zusammen«. *6

 

直訳・逐語訳

続いて私による直訳・逐語訳です *7 。一言しておきますと、私はドイツ語に堪能ではありません。得意でもありません。それでは訳を掲げます。誤訳・悪訳をお許しください。

 [1] 相等性{\small^{1}} は、それに結び付いた、必ずしもまったく簡単に答えられるとは限らない問題を通じて、熟考を迫る。それは関係なのか? 諸対象間の関係か? それとも諸対象に対する名前または記号の間の関係なのだろうか? 最後に上げたものを私は自分の概念記法で採用していた。このことの支持を語っていると思われる根拠は、次である。[2] a = a と a = b は、明らかに異なった認識価値を持つ文である。つまり、a = a はア・プリオリに妥当し、カントによると分析的と呼ばれるが、一方 a = b という形をした文は、しばしば私たちの認識の大変価値ある拡張を含み、ア・プリオリにいつも根拠付けられるとは限らない。毎朝、新たな太陽が昇るのではなく、むしろいつも同じ太陽が昇るということの発見は、天文学において、おそらく最も影響の大きいものの一つだっただろう。今でも小惑星または彗星の再認は、いつでも自明のこととは限らない。[3] さて、我々が相等性を名前「a」と「b」が意味しているものの間の関係と見なしたいならば、a = b が真である場合には、このこと故に、a = b は a = a と異なり得ないように思われよう。これによって、あるものの自分自身に対する関係が表現されることになろう。より詳しく言えば、どのものも自分自身については成り立つが、しかしどのものも他のものについては成り立たないというような、そのような関係が表現されることになろう。[4] 人々が a = b で言いたいのは、記号または名前「a」と「b」が同じものを意味しているということのように思われ、しかもまさにそれらの記号についても話題にしているであろう。そうすると、それら記号の間の関係が主張されていることになろう。しかし、この関係が名前または記号の間で成り立つとするのならば、それはただそれらの名前が何かを名指すかまたは指し示す場合のみに限られる。この関係は、[等号の左右にある] 両方の記号のどちらもが同じ指し示されるものに結び付くことによって媒介される関係であろう。しかし、この結び付きは恣意的である。何か恣意的に生み出され得るようなことやものを、何かあるものに対する記号として採用することは、誰に対しても禁止することはできない。そうするとこの関係によるならば、文 a = b はもはや事実自身には関係がなく、むしろ我々による指し示し方にだけ関係してくるということになるだろう。そうなれば、我々は本当の認識をそこでは表現していないことになるだろう。だがこのような認識を表現することを、我々はまさに多くの場合に、やはり望んでいるのである。記号「a」が記号「b」から (ここではその形により) もの [= 字面] としてのみ区別され、[何かを名指す機能を伴った] 記号としては区別されないとするならば、つまりここで言いたいのは、その記号が何かを指し示す仕方によっては区別されないとするならば、ということなのだが、そうするとその時、a = a の認識価値は a= b のそれに、a = b が真である場合、本質的に同じである、ということになるだろう。[5] [認識価値の] 相違というものは、指し示されるものの与えられ方の違いに、記号の違いが対応することによってのみ、現れる。a, b, c が、ある三角形のそれぞれの頂点をその対辺の中点と結び付けている直線とせよ。その時、a と b の交点は、b と c の交点と同じである。それ故、我々は、同じ点に対し、異なる指示標示を持っており、それと同時にこれらの名前 (「a と b の交点」 「b と c の交点」) は、その与えられ方をも示唆し、そしてこのことから、その文の中に本当の認識が含まれることになるのである。

 [6] そうすると、すぐに思い付く考えは、記号 (名前、語句、文字) には、指し示されているもの、つまり記号の意味と呼んでおきたいもの *8 の他に、私が記号の意義と名付けたいものが、なおも結び付けられているというものであり、この意義に与えられ方が含まれているのだ、というものである。これによるならば、我々の例においては、表現「a と b の交点」と「b と c の交点」の意味は確かに同じであろうが、しかしその意義はそうではないだろう。「宵の明星」と「明けの明星」の意味は同じだろうが、しかしその意義はそうではないだろう。

 1 私はこの語を同一性のいみで使用し、「a = b」を「a は b と同じである」または「a と b は一致する」のいみで理解する。

 

論証の概観

さて Frege は、ここでどのようにして「名前や記号は意味だけでなく、意義も持つ」ということを論証しているのでしょうか?

私の個人的な印象では、それは背理法の一種を使って行われているように思われます。

ここで言う「背理法の一種」とは、普通の背理法 *9 を少し変形したもので、次のようなもののことです。今「A でない」ということを証明したいとします。そこで最初に A を仮定します。そしてここから間違ったことを引き出します。この時、仮定の A がまずかったのだと考えて A を否定します。すなわち「A でない」です。これが証明したいことでした *10

以下では、この背理法の一種における仮定 A のことを 〈仮定〉 と記します。またその背理法で引き出された間違ったことを 〈間違い〉、そこでの結論「A でない」を 〈結論〉 と記すことにします。

このような背理法の一種が、問題の段落で使われているように感じられます。そこで、この証明法を使った論証の概略を、原文・訳文中に入れた [1], [2] ..., などの番号を用いつつ記してみましょう。

なお、引用文において Frege は、相等性と同一性を同じものと考えていますので、以下では「相等性」という表現は使用せず、「同一性」という表現だけを使用することにします。

 

概略

Frege がこの第一、第二段落で行なっている論証を、簡単に述べてみます。

彼はこの論証で、次の二つのことを前提にしていると思われます。それぞれ「大前提」、「小前提」と呼ぶことにします。

 

  大前提: 同一性 a = a と a = b は、認識価値を異にする。[2]

  小前提: 同一性の説明に際しては、この認識価値の違いを説明できねばならない。([2]) *11

 

そしてこの二つを前提した上で、一時的にですが、以下のことを暗黙のうちに仮定しています 〈仮定〉。

 

  仮定: 同一性は、対象間の関係か、または記号間の関係である。([1]) *12

 

このような仮定を、一時的に、かつ暗に立てたあと、Frege はこの仮定のうち、まず、同一性が対象間の関係であるかどうかを検討します。その検討によると、同一性が対象間の関係を述べているのなら、a = b も a = a も同じことを述べていることになります。どちらも問題の対象が自分自身に等しいことを述べているからです。するとこの場合、a = b と a = a の認識価値に違いはなくなってしまいます。だとするなら、本来あるはずの、a = a と a = b の認識価値の違いを説明できません。これは先に上げた小前提に反します 〈間違い〉。[3]

そこで今度は仮定のうち、同一性が記号間の関係であるかどうかを Frege は検討します。その検討によるならば、同一性は記号間の関係を述べているだけで、現実の世界については何も述べておらず、同一性を記した文や式からは、何もこの世界のことについては認識を得られません。そのため a = a も a = b も、認識価値に何の違いもありません。どちらの認識価値も、いわばゼロです。これでは a = a と a = b に本来見られるはずの認識価値の違いを説明できません。するとここでも小前提に反していることがわかります 〈間違い〉。[4]

以上により、仮定は否定されねばなりません。つまり、「同一性は、対象間の関係でもなければ、記号間の関係でもない」 〈結論〉。[3], [4] *13

では、大前提、小前提が正しいとすると、同一性をどう考えれば認識価値の違いを説明できるのでしょうか? 同一性に関する認識価値の違いを、対象と記号だけでは説明できなかったのですから、第三のものが必要です。Frege によると、その違いを説明する第三の候補とは、対象の与えられ方のことです。同一性 a = b は、記号「a」と「b」が同じ対象を指していると述べるとともに、対象 a の与えられ方と対象 b の与えられ方が互いに違うことによって、それらの違いが記号の形に反映されて、同一性 a = b と a = a の認識価値の違いを説明するのです。[5]

そして Frege は、ここで述べている対象のことを「意味 (Bedeutung)」と呼び、対象の与えられ方のことを「意義 (Sinn)」と呼びます。こうして記号は、意味に加えて意義も持つと考えるならば、同一性に関する認識価値の違いを説明できるのだから、記号には意味と意義の二つが結び付いていると解すべきなのだと、Frege は言うのです。[6]

これで問題の第一、第二段落で展開されていると解される論証の流れが、大体おわかりいただけたかと思います。

 

論証各節の分析

それでは今度は [1] から [6] の文それぞれを、和訳によって見てみましょう。そしてわずかだけ、分析を施してみましょう。

 

[1] 相等性{\small^{1}} は、それに結び付いた、必ずしもまったく簡単に答えられるとは限らない問題を通じて、熟考を迫る。それは関係なのか? 諸対象間の関係か? それとも諸対象に対する名前または記号の間の関係なのだろうか? 最後に上げたものを私は自分の概念記法で採用していた。このことの支持を語っていると思われる根拠は、次である。

Frege はまず、[1] で問題を提起しています。すなわち、同一性は対象間の関係なのか、あるいは対象を表わす記号間の関係なのか、という問題です。そしてそれとともに Frege は、ここで「同一性は、対象間の関係か、または記号間の関係である」と仮定しているように思われます。この仮定のうち、Frege 自身はどちらが正しいと考えていたかと言うと、同一性は記号間の関係を表わすと以前に考えていました。そこで、その理由を [2] 以下で述べています。

 

[2] a = a と a = b は、明らかに異なった認識価値を持つ文である。つまり、a = a はア・プリオリに妥当し、カントによると分析的と呼ばれるが、一方 a = b という形をした文は、しばしば私たちの認識の大変価値ある拡張を含み、ア・プリオリにいつも根拠付けられるとは限らない。毎朝、新たな太陽が昇るのではなく、むしろいつも同じ太陽が昇るということの発見は、天文学において、おそらく最も影響の大きいものの一つだっただろう。今でも小惑星または彗星の再認は、いつでも自明のこととは限らない。

[2] では、これから後の論証の前提を示していると思われます。以下の論証を通じて、正しいものとして疑われずに設定されている前提です。つまり a = a と a = b は認識価値を異にする、同じではあり得ない、という前提です。この前提を、先の「概略」の節で記したとおり、「大前提」と呼ぶことにします。そして認識価値を異にするとはどのようなことなのかを、Frege はごく簡単に述べ、その具体例を上げています。

また、[2] では、この大前提をもとに、同一性についての説明は、認識価値の違いを説明できるものでなければならない、と Frege は考えていたであろうと思われます。このことも「概略」で記したとおり、「小前提」と呼びます。

 

[3] さて、我々が相等性を名前「a」と「b」が意味しているものの間の関係と見なしたいならば、a = b が真である場合には、このこと故に、a = b は a = a と異なり得ないように思われよう。これによって、あるものの自分自身に対する関係が表現されることになろう。より詳しく言えば、どのものも自分自身については成り立つが、しかしどのものも他のものについては成り立たないというような、そのような関係が表現されることになろう。

この [3] からあと、Frege は上で説明した背理法の一種を使って論証を進めているとみられます。

[3] で Frege が行なっているのは、以下のようなことだと考えられます。つまり、[1] で暗黙のうちに立てられた仮定「同一性は、対象間の関係であるか、または記号間の関係である」に基づき、Frege は同一性が対象間の関係である可能性を検討しています。

そこで今、同一性を対象間の関係としてみます。すると a = b は a = a に他ならず、よって a = b は a = a なのだから a = b は a = a と認識価値が同じになってしまいます。どちらも自分が自分に等しいと言っているだけなのですから、どの対象も自分自身に等しいのは当たり前で、a = b と a = a が言っていることには違いはないからです。するとこれは大前提「a = a と a = b の認識価値は異なる」に反します。このようなことは間違っています。故に同一性は対象間の関係ではありません。

以上のような論証が [3] では暗に展開されていると解することができそうに思われます。

 

[4] 人々が a = b で言いたいのは、記号または名前「a」と「b」が同じものを意味しているということのように思われ、しかもまさにそれらの記号についても話題にしているであろう。そうすると、それら記号の間の関係が主張されていることになろう。しかし、この関係が名前または記号の間で成り立つとするのならば、それはただそれらの名前が何かを名指すかまたは指し示す場合のみに限られる。この関係は、[等号の左右にある] 両方の記号のどちらもが同じ指し示されるものに結び付くことによって媒介される関係であろう。しかし、この結び付きは恣意的である。何か恣意的に生み出され得るようなことやものを、何かあるものに対する記号として採用することは、誰に対しても禁止することはできない。そうするとこの関係によるならば、文 a = b はもはや事実自身には関係がなく、むしろ我々による指し示し方にだけ関係してくるということになるだろう。そうなれば、我々は本当の認識をそこでは表現していないことになるだろう。だがこのような認識を表現することを、我々はまさに多くの場合に、やはり望んでいるのである。記号「a」が記号「b」から (ここではその形により) もの [= 字面] としてのみ区別され、[何かを名指す機能を伴った] 記号としては区別されないとするならば、つまりここで言いたいのは、その記号が何かを指し示す仕方によっては区別されないとするならば、ということなのだが、そうするとその時、a = a の認識価値は a= b のそれに、a = b が真である場合、本質的に同じである、ということになるだろう。

[4] では次のようなことが述べられていると考えられます。暗黙の仮定「同一性は、対象間の関係であるか、または記号間の関係である」のうち、同一性が前者の、対象間の関係である可能性は、まず [3] での話により消えました。そこで [4] では、仮定の後者の、同一性が記号間の関係であるかどうかを Frege は検討しています。(またその過程で Frege は、以前に自分が同一性を記号間の関係とした理由も述べています。)

さて、私たちが同一性を述べる典型例を考えてみると、その一つとして、たとえば「韓図って哲学者のカントのことなんだよ (韓図 = カント)」というものが思い浮かびます。この場合、言おうとしているのは、「韓図」と「カント」という二つの名前は同じ人物を指す、ということです。(昔々は、「カント」を「韓図」と書いていたようです *14 。)

このように、同一性というものは、記号間の関係を表わしていると考えることができます。そこで同一性は記号間の関係を、それのみを表わすとするならば、記号が何を指しているかは考慮する必要はないのですから、どんな記号 a, b についても、a = a は当然のこと、a = b というように、どの記号も等号で結び付けることを約束することができます。

しかしそうすると、a = a も a = b もどちらも現実の世界の有り様と無関係に言われているのですから、この世界について、a = a からも a = b からも、何も認識を得られません。ということは、a = a も a = b も認識価値はなく、そうなると両者は認識価値に違いはない、ということになります。

こうして [4] での検討の結果、a = a と a = b の認識価値が同じになってしまうので、大前提に反していて間違っていると結論されます。

 

以上の [3], [4] における論証により、仮定「同一性は、対象間の関係であるとするか、または記号間の関係である」のうち、同一性が、前者である対象間の関係である可能性も、後者である記号間の関係である可能性も、どちらも消えました。したがって、この仮定は否定されねばなりません。つまり同一性は、対象間の関係でも、記号間の関係でもありません。

しかし、このままだと小前提「同一性についての説明は、認識価値の違いを説明できるものでなければならない」を満たしません。

ところで、同一性は何も表わしていない、というわけではないでしょう。それが対象間の関係を表わしているとしても記号間の関係を表わしているとしても、どちらにしてもその認識価値の違いを説明することはできませんが、それでも同一性は何かの関係を表わしているでしょうし、何かでもって認識価値の違いが説明できねばなりません。このように Frege も想定していると思われます。

そうすると、同一性は以上から、少なくとも対象間とも記号間とも違う、第三のものとの関係を表わしていると考える必要があります。そこで [5] です。

 

[5] [認識価値の] 相違というものは、指し示されるものの与えられ方の違いに、記号の違いが対応することによってのみ、現れる。a, b, c が、ある三角形のそれぞれの頂点をその対辺の中点と結び付けている直線とせよ。その時、a と b の交点は、b と c の交点と同じである。それ故、我々は、同じ点に対し、異なる指示標示を持っており、それと同時にこれらの名前 (「a と b の交点」 「b と c の交点」) は、その与えられ方をも示唆し、そしてこのことから、その文の中に本当の認識が含まれることになるのである。

[5] では、先に述べた、同一性の関係を説明する第三の候補が何であるのかを Frege は示唆しています。それは a = a と a = b の認識価値の違いを明らかにするものでなければならず、その候補とは、対象の与えられ方のことである、と Frege は言っています。そして認識価値の違いを生み出す名前・記号の具体例を上げています。

 

[6] そうすると、すぐに思い付く考えは、記号 (名前、語句、文字) には、指し示されているもの、つまり記号の意味と呼んでおきたいものの他に、私が記号の意義と名付けたいものが、なおも結び付けられているというものであり、この意義に与えられ方が含まれているのだ、というものである。これによるならば、我々の例においては、表現「a と b の交点」と「b と c の交点」の意味は確かに同じであろうが、しかしその意義はそうではないだろう。「宵の明星」と「明けの明星」の意味は同じだろうが、しかしその意義はそうではないだろう。

最後の [6] では、記号が指している対象を「意味 (Bedeutung)」と呼び、対象の与えられ方を「意義 (Sinn)」と呼ぶことを提案しています。そうすると、記号や名前には意味だけでなく、意義も結び付いていると考えるならば、同一性に関する認識価値の違いを説明できます。すなわち、a = a と a = b が認識価値を異にしているのは、a と b の意味が同じであっても、それらの意義が異なっているからなのだ、と。こうして「名前は意味だけでなく、意義も持つのだ」と、Frege は最終的に結論します。

 

今日の話の初めで、「Frege の ''Über Sinn und Bedeutung'' 冒頭第一、第二段落の論証には、少しわかりにくいところがある」と述べました。なぜ「わかりにくい」のかというと、以上の説明から推察できると思いますが、問題の二つの段落には暗黙の仮定や前提が隠れていること、およびそこでは背理法の一種が暗に使われていること、これらにその「わかりにくい」原因があるのだろうと考えられます。ただし、ここまでの私の説明が正しければ、ですが。

 

私の解釈の利点と難点

私の解釈の利点と難点を記します。

まず、Frege の論証の肝 (きも) を簡単にまとめます。これは Frege の論証に対する私の解釈を簡単にまとめたものです。

 

同一性 a = a, a = b は、認識価値を異にする。

同一性を説明する際には、この違いを説明できねばならない。

そこで、同一性を、対象間の関係か、または記号間の関係と仮定する。

すると、対象間の関係としても、記号間の関係としても、認識価値の違いを説明できない。

よって、同一性は、対象間の関係でも記号間の関係でもない。

ならば、同一性は、対象でも記号でもない第三のものの関係と考えざるを得ない。

この第三のものとは、対象の与えられ方のことである。

対象を「意味」と呼び、その与えられ方を「意義」と呼ぶ。

以上により、同一性は、この意義についての関係を表わすと結論できる。

故に、名前・記号には意味のみならず、意義も結び付いていると考えるべきである。

 

私の解釈の利点

この解釈の利点は、簡潔で自然で統一が取れていることだと思われます。

簡潔だと言うのは、この解釈では込み入った理論や理屈が持ち出されていない、ということです。自然だと言うのは、普通、誰でも思い付くような解釈になっている、ということです。統一が取れていると言うのは、[1] から [6] の節を、少数の「前提」、「仮定」、「背理法の一種」によって、関連付けて一まとめに説明できている、ということです。

なお、このような簡単な解釈なら、Frege に関するどこかの入門書に、既に書かれていることかもしれません。というわけで、この解釈は、別に私のオリジナルの解釈ということではありません。問題の段落を読めば、誰でもすぐに思い付く解釈ですので。

 

私の解釈の難点

私の解釈の難点は、論証に明示されていない暗黙の事柄を私がいくつか一方的に挿入して、論証の説明を試みているところにあります。

 

[1] で、仮定「同一性は、対象間の関係か、または記号間の関係である」を、暗黙のうちに Frege は立てていると私は見ています。

[2] で、小前提「同一性の説明に際しては、この認識価値の違いを説明できねばならない」が、暗黙のうちに想定されていると私は見ています。

[3], [4] で、背理法の一種「A を仮定して、間違ったことが出てきたら、A の否定を結論してよい」が、暗黙のうちに使われていると私は考えました。

 

しかしどれもこれも、そんなこと一言も Frege は言っていません。この私の解釈には、「勝手な解釈の、勝手な押し付けだ」という反論もあるかもしれません。

とはいえ、今いくつか上げた、論証に明示されていない暗黙の事柄は、決してむちゃな解釈でもないように思われるのですが、いかがでしょうか。

 

Frege の論証の疑問点

続いて、Frege の論証に見られる、私自身が感じた疑問を三つ記します。

 

(1)

問題の第一、二段落を、それのみを見るならば、誰しもすぐに思い浮かぶ疑問は「Frege の言う認識価値とは、正確には一体何なのか?」というものです。

今回、私はこの認識価値なるものについて、まったく疑問を付さずに来ましたが、認識価値に関し、[2] で太陽や小惑星の例が上げられているものの、また [4] の終わりと [5] で、認識価値が対象の与えられ方との関連で言及されてはいるものの、これだけでは認識価値について正確なところはわからないでしょう。第一、二段落の論証が、このように不正確な事柄に依存しているようでは、その論証の説得力を大幅に削ぐことになります。

ただしこの疑問は、もちろん問題の二つの段落しか見ていないからわき起こる疑問です。よって、第一、二段落の論証の説得力を落とさないようにするためには、第三段落以降で Frege がこの認識価値について、どのように語っているのかを確認し、そうやって得た知見をこの第一、二段落の論証にフィード・バックしてやらなければ、問題の論証はこのままでは砂上の楼閣だと言えるでしょう。つまり、この第一、二段落だけでは「名前には意味と意義が結び付いている」ということに対する論証は完結しておらず、補足が必要だ、ということです。

 

(2)

やはり、第一、二段落だけを見ていて誰もが疑問に思うことは、[6] で「意義 (Sinn)」と呼ばれることになる「対象の与えられ方とは、詳しく言って何なのか?」というものです。これも、すぐ上の一つ目の疑問点における認識価値と同様、よくわからないものですよね。「die Art des Gegebenseins des Bezeichneten」と言われても、ちょっとはっきりしないです。これについては、第一、二段落のすぐあとで、いくぶん説明がされていますが、第一、二段落だけでは「与えられ方」と言われてもピンと来ません。

問題の論証において、このような漠然とした事柄に依拠することは、論証の説得力をひどく弱めてしまうので、後段での「対象の与えられ方」の説明を、第一、二段落の論証に組み入れないと、このままでは空中楼閣ですね。

 

(3)

Frege は問題の論証の [3] と [4] で「同一性は、対象間の関係でも記号間の関係でもない」と、実質的に判断を下したあと、では同一性は何の間の関係なのかと言うと、[5] になって、それには対象の与えられ方が関わっている、と述べています。ただ、この [4] の末尾から [5] への移行をよく見てみると、話の流れが滑らかでなく、ここで論証のステップにギャップがあると感じられます。

というのも、[5] の冒頭の文は次のようになっていますが、すなわち「[認識価値の] 相違というものは、指し示されるものの与えられ方の違いに、記号の違いが対応することによってのみ、現れる」となっていますが、この文の終わり辺りの表現「のみ (nur)」に誰もが引っかかりを覚えるのではないでしょうか? 「のみ」というのは「唯一これだけであり、これしかない」ということです。

しかし「認識価値に違いをもたらすのは、対象の与えられ方、唯一これだけだ」と言われても、そのことを支持する証明は、この第一、二段落には、微塵も書かれていないように見えます。認識価値に違いをもたらすかもしれないあらゆる候補をしらみつぶしに検討し、その結果、対象の与えられ方だけが生き残ったのでしょうか? それならそれでその検討内容を、ここに示してくれないと誰も納得できないでしょう。

また、意義というものが正式に導入される [6] において、記号に対し意味とともに意義を導入すべきことは誰もがすぐに思い付く自明なことだ (naheliegen) と言われています。しかしたとえば、数学書を読む時、文中に「~は自明である」と書かれていても、そこには証明の省略があるのが普通なのだから、そこを素通りしないで、省かれている証明のステップを補うように、と注意されないでしょうか? 「すぐ思い付く、自明のことだ (naheliegen)」という [6] の冒頭の表現が、そこにギャップか省略があることを示唆しているように思われます。

 

上の (1) や (2) で指摘した疑問点とは、第一、二段落の論証は不完全ではないか、というものでしたが、今この (3) で指摘している疑問点も、問題の論証が不完全でギャップがあるのではないか、というものです。

こうして第一、二段落の論証は、そこだけを見るならば、思ったほど強力ではない、と考えられます。

上記 (1), (2), (3) とも、第一、二段落だけを見ていることから生じてくる疑問です。Frege 先生は「疑問だと言われてもねぇ。それらの段落以降もよく読んでくれないと困る」と、もちろん抗議されるでしょう。それは当然の抗議ですので、第一、二段落における論証の最終的な評価は、結局第三段落以降の理解を待ってから、なされる必要があると思われます。

 

最後に。問題の第一、二段落について、私の解釈とは異なったものが、次の文献該当個所にわかりやすく書かれています。

・ 飯田隆  『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、143ページ、註 (34).

私の解釈と飯田先生のものとを読み比べてみるのもいいかもしれません。なお、私は先生の解釈に対抗しようとしているわけではありません *15 。私の解釈は問題の第一、二段落にだけ特化して、そこには現れていない事柄を極力持ち込まずに解釈した場合、どう解されるかを考えてみたものです。先生の解釈は、その段落には直接現われてはいないが Frege がおそらく念頭に置いていたであろう事柄をいくらか前提にした場合の解釈であると読むこともできるかもしれません。いずれにせよ、問題の段落はいくつかの解釈が可能な論証が展開されている可能性があります。

 

付録

''Über Sinn und Bedeutung'' の邦訳には、現在四つ出ているようです。その中から藤村先生の訳を、第一、二段落につき、引用しておきます。

なぜ藤村先生の訳を引くのかというと、先生の訳と先生以外の三つの訳を比べると、先生の訳より他の三つの訳のほうが、ドイツ語原文にはない言葉を補って訳されているところが、第一、二段落に関し、ちょくちょくあるからです。たとえば、和文和文との間にドイツ語にはないつなぎ言葉を *16 、土屋先生、野本先生は割とところどころ入れておられるのですが、藤村先生はあまりそういうところがなく、私の直訳・逐語訳に近い点があるので、藤村先生の訳を以下に引くというわけです *17 。それでは以下の文献から引用します。

・ G. フレーゲ  「意義と意味について」、藤村龍雄訳、『フレーゲ哲学論集』、岩波書店、1988年 *18

 相等性{\small^{(1)}} がわれわれに熟考を迫るのは、幾つかの必ずしも容易に答えることのできない問題がこれに結びついているからである。相等性は関係であるか。それは対象の間の関係か。それとも、対象を表わす名前あるいは記号の間の関係か。私の ''概念記法'' においては、私は後者に取った。そのことの正しさを証明すると思われる理由は、次の通りである。a = a と a= b は明らかに認識価値を異にする命題である。すなわち a = a はアプリオリに妥当するので、カントに従って分析的と名付けることができる。これに対し a = b という形式の命題はしばしば、われわれの認識に関して非常に価値の高い拡張を含み、必ずしもアプリオリに基礎づけることが出来るとは限らない。毎朝新しい太陽が昇るのではなく、いつも同じ太陽が昇るのであるという発見は、おそらく天文学において最も影響の大きい発見の一つであったろう。今日でも、小さな惑星や彗星を確認することは必ずしも自明のことではない。さて、相等性を、名前「a」および「b」が意味するものの間の関係と見なそうとするなら、a = b が真であるときには、a = b は a = a とは異なることがあり得ないように思われる。これによって表現されるのは、一つのものの自分自身に対する関係であろう。そして、これは、確かにあらゆるものが自分自身に対して立つ関係であるが、いかなるものも他のものに対してはもたない関係である。a = b によってわれわれが言い表わしたいのは、記号あるいは名前「a」および「b」が同じものを意味する、ということであるように思われるし、そしてこの場合に議論になっているのはまさしくそれらの記号のことであろう。つまり、記号の間の一つの関係が断定されるのであろう。しかしながら、この関係が成立するのは、名前あるいは記号が何かを名指すか、あるいは指示する場合に限る。それは、指示される同じものに二つの記号のおのおのが結びつくことによって媒介される関係であろう。しかし、この結びつきは恣意的である。任意に創り出すことのできる事象や事物を何かあるものを表わすための記号として採用することは誰にも禁止することはできない。すると、その場合には、命題 a = b はもはや事態そのものにかかわるのではなく、やはり単にわれわれの表示法にかかわるにすぎないであろう。つまり、われわれはこの命題においては少しも本来の認識を表現しないであろう。だが、しかし、われわれは多くの場合まさしくそれを表現したいのである。もし記号「a」が記号「b」から単に対象として (ここでは、形態によって) のみ区別されて、記号としては区別されないならば、ということは、それが何かを指示するその仕方に関して区別されることがないならば、ということであるが、その場合は、a = a の認識価値は、a = b が真であるなら、本質的には a = b の認識価値に等しいであろう。差異が生じ得るのは、指示されるものの与えられ方の相違に記号の相違が対応する場合に限られるのである。a, b, c を、三角形の頂点と向い合う辺の中点を結ぶ直線とする。このとき、a と b の交点は b と c の交点と同じである。かくしてわれわれは同じ点に対し相異なる表示をもつ。そしてこれらの名前 (「a と b の交点」「b と c の交点」) は同時にものの与えられ方をも示しており、したがってその命題には本物の認識が含まれているのである。

 今や明白なことであるが、記号 (名前・語結合・文字) には、記号によって指示されるもの - これは記号の意味と呼ぶことができる - のほかに、なお私が記号の意義と名付けようと思っているもの - ここにはものの与えられ方が含まれている - が結びついていると考えられる。これによると、われわれの例においては、確かに、「a と b の交点」という表現の意味と「b と c の交点」という表現の意味は同じであるが、しかしそれらの意義は同じではないであろう。「宵の明星」と「明けの明星」の意味は同じであるが、意義は同じではないであろう。*19

 (1) 私はこの語を同一性のいみに用いる。したがって、「a = b」を「a は b と同じものである」のいみに、あるいは「a と b は一致する」のいみに解釈する。*20

 

 

以上で終わります。ここまで記したことについて、誤解していることや無理解なところ、勘違いしてしまっているところ、誤字や脱字などがありましたら申し訳ありません。問題の段落に対する私の解釈が間違っていましたら謝ります。特にドイツ語の私による和訳に関し、残っているはずの誤訳や悪訳に対し、お詫び致します。また勉強に励むことにします。実際今回、''Über Sinn und Bedeutung'' の冒頭を改めて読み直してみて私自身、大変勉強になりました。この私の記事を読まれた方にとっても、何ほどか得るものがあればと願っています。

 

*1:今日の記事も、例によって軽い遊び心でもって書いています。当たり前ですが、研究ではありません。

*2:刊行年順に上げますと、G. フレーゲ、「意義と意味について」、(1) 土屋俊訳、『現代哲学基本論文集 I 』、坂本百大編、勁草書房、1986年、(2) 藤村龍雄訳、『フレーゲ哲学論集』、岩波書店、1988年、(3) 土屋俊訳、『哲学論集』、フレーゲ著作集 4、勁草書房、1999年、(4) 野本和幸訳、『言語哲学重要論文集』、松阪陽一編訳、春秋社、2013年。以下、それぞれ「土屋訳」、「藤村訳」、「土屋・野本訳」、「野本訳」と、敬称を略しつつ記させてもらいます。(3) の土屋先生の訳には野本先生の手が入っているようですので「土屋・野本訳」としています。

*3:既訳を公表された先生方のお仕事は、大変参考にさせてもらいました。ありがとうございます。決して他意はございませんので、どうかお許しください。

*4:これら [1], [2], ..., により、ドイツ語原文も、私の直訳・逐語訳も、いくつかの部分に区分けしていますが、この区分けが最善であって、これ以外の区分けは不適当だ、と言うつもりはありません。暫定的なものとお考えください。

*5:SS. 143-144.

*6:S. 143.

*7:訳出の方針を記します。長いです。五項目の方針と補足説明が記してあります。関心のない方は無視してください。(1) 直訳・逐語訳ですので、読みやすさは二の次にしてあります。(2) 原文に現れているドイツ語の単語は、できるだけ、どれもこれもすべて、和訳ですくい上げるようにしました。しかし完全ではありません。(3) 原文で主語になっている語は、和訳でもできるだけ主語にし、目的語になっている語は、和訳でもできるだけ目的語にしてあります。これも完全ではありません。(4) 代名詞の訳ですが、たとえばドイツ語の「er (彼は)」が太郎を指している時、わかりやすくするために「彼は」と直訳せず、しばしば「太郎は」と訳しています。(5) その他、わかりやすさを考慮し、カッコ [ ] で補足を入れるとともに、断らずに原文にない語句を挿入している場合があります。ただし、このような補足はできるだけ抑制するようにしました。以上です。私はここに掲げる自分の訳を、まず、諸先生方の邦訳を見ずに訳しました。それから自分の訳と先生方の訳とを突き合わせ、いろいろ修正を施しました。一か所、私は致命的な誤訳をやっていました (全否定を部分否定で訳していました)。ただちに訂正させてもらいました。先生方に感謝申し上げます。なお先生方の邦訳のうち、藤村訳はずっと前に通して拝読させてもらいました。土屋訳と土屋・野本訳は以前に拾い読みさせてもらいました。そして藤村訳の冒頭で「相等性が私たちに反省を迫る」というような感じのことが書かれていたことは覚えていました。「相等性」という訳語は優れた訳だと思いましたので、今回の私の訳でも採用させてもらいました。ありがとうございます。

*8:語学的な註を一つ。とても長いです。論証全体には影響してこない事柄に関する註ですので、細かいことに興味のない方は、この註を無視してください。さて、私がここで「記号の意味と呼んでおきたいもの」と訳した語句の原文は、「was die Bedeutung des Zeichens heißen möge」です。この möge は接続法第1式になっています。私はこれを「~しておきたい」というように、mögen の取り決めの用法あるいは要望の用法のつもりで訳しました。しかし既存の土屋訳 (p. 5)、藤村訳 (p. 34)、土屋・野本訳 (p. 73) では、ここを「~できる」というように可能の用法で、野本訳では「~ (して) よい」というように許可の用法で訳しておられます (p. 7)。確かに mögen には「~できる」という可能の用法があります。しかし mögen のこの用法は古語だと思います。中型以上の独和辞典なら、このことが mögen の項で記されていると思います (たとえば小学館『独和大辞典』、項目 mögen, 語義欄 e)。Frege の ''Über Sinn und Bedeutung'' は、今から100年以上前に出版されているので、そこに古語が出てくることもあり得るかもしれませんが、戦前に書かれた文法書に、可能の用法の mögen は「少し古い」と既に述べられているので (関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、1943/2000年、p. 327)、ここでの mögen を「~できる」と訳してよいのか、私には確信が持てません。一方、現在でも可能の用法で mögen を使うこともあるようですが、それはスイスにおいてか (研究社『独和中辞典』、項目 mögen の冒頭語源説明および語義欄 I の7)、アレマン地方 (小学館『独和大辞典』、mögen, 語義欄 e) でのことみたいですので、その種の方言のような用法を Frege がここで使っているのか、これも私には確信が持てません。(他方、桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年の291ページでは、「できる」という mögen の古い用法について、「現代文にもときにこの用法を見ることがある」と書かれていますが、これ以上の説明はありません。) また、野本訳では「~ (して) よい」と許可の用法でこの mögen が訳されています。確かに mögen にはこの用法があります。しかしそれは一般に、いわゆる「無関心の mögen」などと呼ばれるもので、「そんなに言うのなら、したらよい。だがあとはどうなっても知らないからな」という、突き放したニュアンスを持つ用法です。その場合、この用法は原文のここでの文脈には合わないと思われます。ただし、いくつか調べてみた独和辞典のうち、博友社の『大独和辞典』、項目 mögen の五番目の語義「許可・賛同・催促」の冒頭の文例に「Sie ~ mitgehen. ご一緒にいらしていいですよ」 (「~」に mögen が入ります) という例がありました。これには突き放した「勝手にしろ」というニュアンスはありません。mögen の許可の用法には、この例のように突き放したニュアンスのない中立的な用法もあるのかもしれませんが、大部分は突き放した無関心の用法だろうと思われます。このためここでの Frege の mögen を「~ (して) よい」と訳していいのか、私には確信が持てません。(あるいは野本先生のこの mögen は、古い可能の mögen のことで、「~できる」を「~してよい」に転用されているのかもしれません。「この場所でタバコを吸うことができるのなら、吸ってよいということだ」などと私たちは時に考えることがあるように。) 以上の可能、許可の用法に対し、私はこの接続法第1式の möge を取り決め、要望と解しました。接続法第1式の möge がこの用法を持つことは普通のことだと思われます。また原文の文脈から、ここでは「Bedeutung」という語を Frege は専門用語として導入しようとしていると考えられます。この直後に「was ich den Sinn des Zeichens nennen möchte (私が記号の意義と名付けたいもの)」と言って (この möchte は明らかに要望の婉曲表現)、Frege が「Sinn」を専門用語として導入しているのとパラレルになっています。というわけで、問題の möge は取り決め「A を B としておこう」、「A を B としておきたい」のことと私は思ったのですが、先生方の既訳が正しく、私が誤訳しているのかもしれません。そのようでしたら謝ります。ごめんなさい。また勉強します。なお、mögen 一語について、ずいぶん細かい話をしていると思われるかもしれません。確かに細かいですが、助動詞は話者の主観など、微妙なニュアンスを表わすことが多く、助動詞に精通しなければ、その言語に習熟しているとは言えないと私は考えます。助動詞は難しいからこそ、力を込めて理解したいと思っています。長い註ですみません。

*9:普通の背理法とは、あること A を証明したい場合、A の否定「A でない」を仮定して、そこから間違ったことが出てくれば、「A でない」という仮定がまずかったと考え、仮定を否定して「A でないことはない」とし、ここから「すなわち A である」と結論する証明法です。

*10:これは自然演繹の、いわゆる「否定導入則」による証明のことです。

*11:ここで「([2])」のように丸カッコでくくっているのは、この小前提の内容が [2] の部分で明示されてはいないものの、それとなく暗示されていると考えられるからです。

*12:これ「([1])」も、先の註の「([2])」に関する説明と、同様です。

*13:こうして、背理法の一種において一時的に立てられた仮定が否定され、いわば解除・消去されたことになります。

*14:西田幾多郎、「始めて口語体の文章を書き出した頃」、『西田幾多郎随筆集』、上田閑照編、岩波文庫岩波書店、1996年、221ページ。

*15:そもそも本日の記事をここまで書いてきた後で、先生の本を手に取り、先生ならどう解釈されているのか、確認を取ってみた、という状況なので、先生の解釈を横目に見ながら私の解釈をひねり出した、というわけではありません。そのようなわけで、先生に対抗するつもりで書いたのではないのです。

*16:「すなわち」、「たとえば」、「なぜなら」などです。

*17:土屋先生、野本先生の訳がよくないとか、つなぎ言葉を入れるのがよくないというのではありません。

*18:底本は Kleine Schriften, hg. von I. Angelelli, G. Olms, 1967. 訳註は省いて引用しています。

*19:33-34ページ。

*20:61ページ。