Why Should the German Word 'Bedeutung' be Translated, not by 'Reference,' but by 'Meaning' in the Fregean Literature?: The Simplest Answer

目次

 

注意

このブログでは、研究や研究の類いや研究の一端のようなものをやっているのではありません。研究とはまったく関係ありません。

またこのブログでは、哲学をしているのではありません。哲学について述べているかもしれませんが、哲学はしていません。

以上の点をご銘記の上、以下をご覧くださいますようよろしくお願い申し上げます。注意終わり

 

さて今回は、前半と後半に分けて話をします。ただし、後半の話はごく簡単にすませます。

また、その話はとてもやさしいものなので、今日の話の内容は、既に他に誰かが指摘していることだろうと思います。私のオリジナルの主張はありません。

以下の記述は次の二つの短い文献に、ほとんどすべてを負っています。

・ Ernst Tugendhat  ''The Meaning of Bedeutung in Frege,'' in: Analysis, vol. 30, no. 6, 1970, 邦訳 エルンスト・トゥーゲントハット、「フレーゲにおける 'Bedeutung' の意味」、高橋要訳、『理想』、理想社、第639号、1988年夏号、

・ Gottfried Gabriel  ''Fregean Connection: Bedeutung, Value and Truth-Value,'' in C. Wright ed., Frege: Tradition and Influence, Basil Blackwell, 1984.

これら「二つの短い文献に、ほとんどすべてを負っています」というのは、これら文献で言われていることが大筋正しいならば、私の本日の話の内容はただちに出てくる、ということです *1 。それでは話に入ります。

 

はじめに 問題の提示

ドイツの論理学者 Gottlob Frege の有名な術語に Sinn と Bedeutung というものがあります *2 。これらのドイツ語は現在、日本語でそれぞれ「意義」と「意味」と訳されるのが普通です。

この Sinn を「意義」と訳すのはいいとして、Bedeutung をなぜ「指示」や「指示対象」ではなく、「意味」と訳すのでしょうか? 今回は、なぜ Bedeutung を「意味」と訳すのか、その話をします *3

なお、本日の話は、以下でも記す通り、「なぜ Bedeutung を「意味」と訳すのか」という問題に対する「最も簡単かつ手短な答え」を提示するのがねらいです。詳細で包括的で十全な答えを明らかにすることは本日の目的ではありませんので、この点、ご了承ください *4

 

前半 なぜ名前の Bedeutung を「指示対象」ではなく「意味」と訳すのか?

さて、名前「太郎」は太郎を指しています *5 。この場合、太郎は指されている人、指されているもの、と言えるでしょう。あるいは、少し硬い言い方をするなら、太郎は名前「太郎」の指示対象と言っていいでしょう。

今述べた、名前「太郎」は太郎を指すということを、Frege の用語では、名前「太郎」は Bedeutung を持つ、と言います。この時、この Bedeutung を日本語ではどのように訳せばよいでしょうか?

ちょっと堅苦しい言い方ですが、名前「太郎」は指示対象を持つ、と訳してよいように思われます。

しかし現在、Bedeutung は「指示対象」と訳されるのではなく、「意味」と訳されています。

なぜそうするのか、と問われたならば、どう答えたらいいでしょうか? しかもできるだけ手短に、かつ可能な限り簡単に答えてほしいと頼まれたなら、どうしたらいいでしょう?

 

Frege が「名前「太郎」は Bedeutung を持つ」と言う時 *6 、Bedeutung で少なくとも二つのことを述べようとしていました。

一つは、名前「太郎」が Bedeutung を持つ時、その名前は指示対象を持つ、ということです。

もう一つは、名前「太郎」が Bedeutung を持つ時、その名前は重要性を持つ、ということです。あるいはその名前は価値を持つ、と言っても構いません。

(重要性を持つということはどういうことなのか? 重要性とは何かにとって重要だ、ということだろうが、名前が重要性を持つ場合、何にとって名前が重要だというのか? これらの疑問については後半で軽く触れますので、今はその説明を保留させてください。)

 

ところで、ドイツ語の単語 Bedeutung には、大きく言って二つの語義があります。

今、「いみ」、「いみする」という言葉を前理論的に素朴に、最広義に使うことにすると、Bedeutung の語義の一つは、言語表現が何かをいみすること、またはその表現のいみのことです。

Bedeutung の語義のもう一つは、重要性、価値です。

Frege は名前の Bedeutung ということで、ドイツ語の Bedeutung のこの二つの語義をともに込めて使っています *7

Frege が「名前「太郎」は Bedeutung を持つ」と言う時、この Bedeutung には二つの語義、いみと重要性とが込められています。

Bedeutung の二つの語義のうち、いみのほうは、この場合、(太郎という) 指示対象のことです。

したがって、Frege が「名前「太郎」は Bedeutung を持つ」と言う時、言われているのは、名前「太郎」は、指示対象と重要性の二つを持つ、ということです。

ここで確認しておきたいのですが、日本語の「指示対象」という言葉に重要性といういみはありません。逆に、日本語の「重要性」という言葉に指示対象といういみはありません。

さて、もしも文「名前「太郎」は Bedeutung を持つ」における Bedeutung を「指示対象」という言葉で訳してみるなら、今の文は「名前「太郎」は指示対象を持つ」となります。この「指示対象」という言葉には、今しがた確認したように、重要性といういみはありません。

すると、いみと重要性という二つの語義を持つ Bedeutung を、いみ = 指示対象だとして「指示対象」の言葉で訳した「名前「太郎」は指示対象を持つ」は、Bedeutung の二つの語義のうち、一方は訳文に反映されていますが、他方の重要性の語義は反映されていません。

繰り返しますが、Frege は名前の Bedeutung ということで、この語の二つの語義を込めて使っていたのでした。しかし「名前「太郎」は Bedeutung を持つ」を「名前「太郎」は指示対象を持つ」と訳したのでは、二つの語義のうち、一方しか訳文に現れておらず、他方は捨て去られています。

どうして名前の Bedeutung を「指示対象」と訳すとよくないのかと言えば、今述べたように、「Frege がこの語に込めていた二つの語義のうち、一方しか表わされていないから」というものになります *8

 

では二つの語義を両方とも一語で表わせる、そのような語はないのでしょうか?

もう気付いた方もおられると思います。そう、私たちが日本語で「意味」と書いている言葉です。

「意味」という言葉は、「名前「太郎」は太郎を意味する」というように使われることがあります。これは名前「太郎」が太郎を指しているとか、名前「太郎」は太郎を指示対象として持つ、ということです。ここでは Bedeutung の二つの語義のうち、「いみする」、「いみ」のほうが使用されています。

「意味」という言葉はまた、重要性ということでも使われます。「この作業は単調だが、ちゃんと意味がある。手を抜いてはいけない」などと言う時の「意味」とは、重要性がある、価値がある、ということです。これが Bedeutung の二つの語義のうちのもう一方であることは、言うまでもないでしょう。

Frege は名前の Bedeutung ということで、二つの語義を込めて使っていました。二つの語義とは、いみ (= 指示対象) と重要性です。もしも名前の Bedeutung を「指示対象」と訳すならば、もう一方の重要性という語義が抜け落ちてしまいます。そこで、両方の語義を一語で表わすことのできる自然な日本語として訳語に採用されたのが「意味」という語です *9

Frege における名前の Bedeutung を「意味」と訳すなら、この一語で指示対象も重要性もともに表わすことができます。「意味」と言えば、何かを表わすこと、または何か表わされているもののことであるとともに、重要性や価値のこともいみします。「意味」という語はこのように、二通りの解釈が可能です。そういうわけで、名前の Bedeutung の訳語に「意味」が使われているのです。

 

暫定的に、まとめを与えましょう。問題と答えはこうです。

問題

Frege の用語 Bedeutung について、なぜ名前が Bedeutung を持つということを、名前は指示対象を持つ、と訳すのはよくなく、名前は意味を持つ、と訳すほうがよいのか? できるだけ手短に、わかりやすく答えよ。

 

答え

Frege は名前の Bedeutung ということで、指示対象と重要性の二つのことを込めてこの語を使っていた。そこで、名前の Bedeutung を、名前の指示対象と訳すと、名前の重要性ということが、この訳語では表現されなくなる。指示対象と重要性の両方を一語で表現できる自然な日本語は「意味」である。故に、名前の Bedeutung は、名前の意味と訳される。

 

後半 懸案の重要性とは何か?

この後半で説明される事柄の詳細は、本日の記事の最初で上げた二つの論文、Tugendhat 論文と Gabriel 論文をご覧ください。また、以下の事柄に関連する日本語の解説文では、次の文献が簡便であり、大変参考になります。

・ 野本和幸  「意味論的役割 ― モデル論的接近法」、『フレーゲ言語哲学』、勁草書房、1986年、第三章、1-2節、92-99ページ。

これらの文献に、以下で記述されることがそのまま書かれているというわけではありません。これらの文献で述べられていることを前提すれば、誰でもすぐに思い付くようなことが、以下では記述されている、ということです。

いずれにせよ、ここでは詳しい説明は省き、ポイントだけを指摘するに留めます。ご了承ください。それでは後半の話を始めます。

 

ドイツ語の Bedeutung には、いみと重要性という二つの語義があり、Frege は名前の Bedeutung について、これら二つの語義を込めて使っていました。

そこで、名前の Bedeutung に関し、そのいみは指示対象のことでよいとして、その重要性とは何なのでしょうか。

例を使いながら、ごく簡単に説明してみます。

 

たとえば、次のような文を読んだ時、どのようにお感じになるでしょうか?

 

(*)  太郎は身長3メートル以上ある。

 

私ならびっくりしてこんなふうに感じるでしょう。「えっ、3メートル以上? そんなに背の高い人いるの? 本当? 太郎ってどこの誰よ?」

私たちはこの文 (*) を読んだ時、(*) が正しいかどうかを問題にします。硬い言い方をするならば、(*) の真偽を問題にするわけです。(*) が真理かどうかを問うわけです *10

そこでこの文 (*) が真理を表わしているかどうかを知りたければ、私たちは「太郎」と呼ばれている人物はいるのか、いるならそれはどこの誰なのかを突き止め、当人を捕まえて身長を計ればよい、ということになります。

このように、ある文の真理が問題になる時、その文に現われている名前が何かを指しているのか、指しているならどれがそれなのかが問題になります。

したがって、ある文が真理を表わしているかどうかについては、その文のなかの名前のいみしているものやことが、重要になってきます。少し言い換えると、ある文の真理については、その文のなかの名前のいみが重要性を持つ、ということです。

こうして、名前が重要であるというのはどういうことなのか、名前はなぜ重要なのか、というと、それは、その名前を含んでいる文の真偽をその名前のいみが決するからです。

また、名前は何に対して重要なのかというと、それはその名前を含んでいる文の真偽、真理に対して重要なのです。

このようなことからして、名前「太郎」が太郎といういみを持ち、この太郎が身長3メートル以上あるとするならば、「(*) 太郎は身長3メートル以上ある」という文の真理にとって、名前「太郎」が実際に指示対象 (Bedeutung) を持ち、それがどこの誰なのかは決定的な重要性 (Bedeutung) を持ちます。

 

これで名前が重要であるということはどういうことなのか、大体おわかりいただけたと思います。加えて、名前だけでなく、文を構成するその他の表現、たとえばその文の述語も同様の重要性を持つことは、大よそのところ、想像していただけると思います。

 

それでは最後に、文を構成している表現ではなく、文自身の真理、真偽、つまり「真理値 (truth-value)」と呼ばれているものの重要性は、どこにあるのでしょうか?

Frege の考えでは、それは学問的探究にとって重要性を持つ、ということになると思われます。文の部分を成す表現は、その文の真偽の決定に貢献することで重要性を持ちました。そしてその文自身は、その文を含む学問分野の学術的探究に貢献することで重要性を持つ、と考えられるのです。

たとえば、双子素数は無限にあるか、という双子素数の予想は、それが真であれ偽であれ、どちらであるかがはっきりと立証されたならば、そのことは大変な重要性を持ち、その予想は一つの定理となって、数学という学問分野に大きな貢献をなすことでしょう。

 

最終的にまとめましょう。問題と答えはこうなります。

(以下の問題は、前半終わり部分で記した「暫定的なまとめ」の時と同じものです。答えの部分だけ追加・修正を入れています。)

問題

Frege の用語 Bedeutung について、なぜ名前が Bedeutung を持つということを、名前は指示対象を持つ、と訳すのはよくなく、名前は意味を持つ、と訳すほうがよいのか? できるだけ手短に、わかりやすく答えよ。

 

答え

Frege は名前の Bedeutung ということで、指示対象と、その名前を含んだ文の真理に対する重要性という、この二つのことを込めて今の語を使っていた。そこで、名前の Bedeutung を指示対象と訳すと、その名を含んだ文の真理に対する指示対象の重要性が表現されなくなる。指示対象と重要性というこの両方を一語で表現できる自然な日本語は「意味」である。故に、名前の Bedeutung は、名前の意味と訳される。

 

以上です。どうでしょうか? この答えはちょっと長かったですか? それにいくらか難しかったですか?

要するに、名前の Bedeutung を指示対象と訳すと、文の真理に対するその重要性ということが表わせないので、両方を表わすことのできる「意味」という言葉を使って訳すのが望ましい、ということです。

もっとうまい説明、短い説明があるかもしれませんね。そのように思う方は一つ考えてみてください。そうやって Frege の言語哲学や、言葉のいみ一般について、理解を深めてみてください。面白いと思います。

 

これで終わります。例によって、誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字がたくさんあるかもしれません。そうでしたらすみません。また勉強し直します。今回の記事を書いていて、自分の頭の中が整理できてよかったです。この記事を読まれた方も、ここから何か示唆を得ることができましたなら、そしてわずかばかりではあっても、この記事が何かのお役に立てたようでしたなら、私としても「それはよかった」と思う次第です。

 

*1:ただし、これらの文献で言われていることが大概間違っているとするならば、私の本日の主張も間違っているでしょう。その判断は、これらの文献と私の話を読まれた方にお任せします。

*2:本来は 'Sinn', ' Bedeutung' というように引用符で括るべきですが、簡便のため、しばしば括らずに記します。また、日本語の表現に言及する時も、鉤括弧など、引用符で括らずに記すことがあります。

*3:今回は、名前に限定して Bedeutung の話をします。名前だけでなく、述語や動詞などの Bedeutung についても述べるべきですが、話が細かくなり長々としたものになるので、今回は見送ることにさせていただきます。

*4:万全の総合的な答えが必要な方は、日本語の文献ではたとえば、飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年をご覧ください。

*5:ここでは「指す」という言葉を前理論的に素朴に使っています。

*6:今の文は日本語の文なので、Frege がこの日本語の文を発することはなかったでしょうから、正確には Frege がその日本語の文に対応するドイツ語の文を発するとした時、ということです。なお、「名前は Bedeutung を持つ」のように、言語表現が Bedeutung を haben している、という言い方を Frege がすることがあります。その例を一つ上げておきます。'Die Worte »der von der Erde am weitesten entfernte Himmerlskörper« haben einen Sinn; ob sie aber auch eine Bedeutung haben, ist sehr zweifelhaft (語句「地球から最も遠く隔たったところにある (唯一の) 天体」は意義を持つ。しかしそれがまた意味も持っているかどうかは、はなはだ疑わしい).' ついでに Frege が名前の Bedeutung を指示対象であると言っている例を一つ上げておきます。'Die Bedeutung eines Eigennamens ist der Gegenstand selbst, den wir damit bezeichnen (固有名の意味とは、我々がその固有名によって指す対象自身のことである)'. ここで引用した二つの文は次に出ています。G. Frege, ''Über Sinn und Bedeutung,'' in Kleine Schriften, 2. Auflage, hg. von I. Angelelli, Georg Olms, 1990. 前者の引用文はその S. 145 に、後者は S. 146 に出てきます。

*7:Frege が Bedeutung という言葉を使う時、いつでも必ずこの二つの語義を込めて使っている、と言いたいわけではありません。もしも Frege が Sinn と Bedeutung の意味論を整理整頓し、体系的に構成し直したならば、その時、Bedeutung という用語には、理論的に言ってそれら二つの語義を込めて使わねばならない、としたことだろうということです。

*8:名前の Bedeutung を「指示」と訳すのも、同様の理由でよくない、ということになります。

*9:と言っても、「意味」という訳語を採用すべし、と唱えられた先生に、「意味」を訳語とした理由を直接聞いて確認を取ったわけではないのですが。

*10:ただし、Frege が真理であるかどうかを問題にするのは文ではなく、思想 (Gedanke) です。真偽が問われるのは、Frege にとって、文ではなく思想です。しかしここでは便宜上、文の真理を問題にしておくことにします。