目次
- はじめに
- Russell から Frege へ1902年6月16日第一報
- Frege から Russell へ1902年6月22日返信
- Russell 書簡補足説明 1
- Russell 書簡補足説明 2
- Russell 書簡補足説明 3
- Frege 書簡補足説明
- Frege 書簡補足説明 1
- Frege 書簡補足説明 2
- Frege 書簡補足説明 3
- 補遺: Russell Paradox 述語 (性質) 版
注意
このブログでは、研究や研究の類いや研究の一端のようなものをやっているのではありません。研究とはまったく関係ありません。
またこのブログでは、哲学をしているのではありません。哲学について述べているかもしれませんが、哲学はしていません。
以上の点をご銘記の上、以下をご覧くださいますようよろしくお願い申し上げます。注意終わり
はじめに
(今日の話はとても長いです。時間のない人は読まないほうがいいと思います。暇で仕方がないという人ならば、いいかもしれませんが。)
今回は Gottlob Frege と Bertrand Russell の有名な往復書簡の原文ドイツ語を味わってみます *1 。
テクニカルな内容について、突っ込んで検討してみるということは、ほとんどしません (私にはできませんので)。
Russell から Frege へ、いわゆる Russell Paradox 発見の第一報の、その核心部分と、それに対する Frege から Russell への返信の核心部分を見てみましょう。
なお、Russell Paradox は一応既知としますが、今回の往復書簡の中で言及されているこの Paradox の述語 (性質) 版の説明を一番最後に掲げておきますので、Russell Paradox をまったく知らないという方は、読んでおいたほうがいいかもしれません *2 。
本日は、次のような流れになります。
・ Russell から Frege へ1902年6月16日第一報、
・ Frege から Russell へ1902年6月22日返信
のそれぞれに、以下 を付します。
・ 書簡の原文ドイツ語を引用、
・ 私による逐語訳を記載、
・ 既に刊行されている邦訳を添付、
・ 私の感想を掲示。
そしてそのあと、それぞれの書簡に関し、
・ 補足説明の類い
を若干だけ付けます。そして最後に
・ Russell Paradox 述語版の説明
を載せておしまいにします。
私による逐語訳ついては、このようにするとドイツ語原文の雰囲気や、細かい部分でどう言っていたのか、それがよくわかると思います。
またこの逐語訳を見れば、私が誤訳していないかどうか、一目瞭然だと思います。私はドイツ語に堪能ではないため、誤訳があったらすみません。
書簡原文ドイツ語は、次から引きます。今回の原文引用個所に、両者で異なるところはありません。
・ Gottlob Freges Briefwechsel, hg. von G. Gabriel et al., Felix Meiner, Philosophische Bibliothek, Bd. 321, 1980,
・ Gottlob Frege Wissenschaftlicher Briefwechsel, hg., G. Gabriel, et al., Felix Meiner, 1976.
引用する既刊の邦訳は以下です。
・ G. フレーゲ 『書簡集 付「日記」』、フレーゲ著作集 6, 野本和幸編、勁草書房、2002年。
この和書の中で、Frege と Russell との往復書簡の和訳は、土屋純一先生が担当されておられます。
それでは始めます。
Russell から Frege へ1902年6月16日第一報
最初は Russell から Frege へ、いわゆる Russell Paradox 発見を告げる第一報からです。
Russell は書簡の初めに、次のような感じのことを述べています。「ここ1年半ほどのあいだ、あなた (Frege) の Grundgesetze, Band 1 について知ってはいたものの、時間がなくて読めずにいました、ようやく時間を取ることができるようになったので、あなたの著作を研究しています、主要な点に関してあなたと同意見です」。そしてこのあと、以下の引用文に続きます。
感想
Russell は書簡で、まず Frege の考えをほめて、それに同意する旨を記しています。このようにして相手を尊重し、敬意を示して Russell は Frege に心を開いてもらおうとしています。そしてそのようにしたあとで、「Nur in einem Punkte ist mir eine Schwierigkeit begegnet (ただ1点だけ、私は困難なことに出会いました)」と言って、問題を切り出しています。「Nur in einem Punkte (ただ1点だけ)」という表現が効果的でいいですね。きっと本当は1点だけでなく、他にもいろいろと Frege の考えていることに疑問があったと思うのですが、あれこれ細かいことを言っても仕方がないので、最重要点一つだけにしぼり、「他は全部同意見だが、これ一つだけが惜しいことに同意できないのです」といった感じで核心を突く指摘をしています。おもしろいですね。
Frege から Russell へ1902年6月22日返信
次に Frege から Russell への、Russell Paradox を含んだ第一報に対する返信です。
返信冒頭で Frege は、Russell の第一報に対するお礼を述べています。そして、この Russell 宛ての返信に同封した自分の論文抜き刷り五つのタイトルを列挙、Russell の第一報に関する事務的な問い合わせ、自著 Begriffsschrift 内に見つかった間違いの個所の指摘、これらそれぞれを順に記したあと、以下の原文に続きます。
感想
Frege の返信で、引用した文の冒頭を見ると、次のように書かれています。「Ihre Entdeckung des Widerspruchs hat mich auf's Höchste überrascht und, fast möchte ich sagen, bestürzt (あなたによる矛盾の発見は、私を非常に驚かせました。狼狽してしまったと、ほとんど言いたいぐらいです)」。ここで興味を引くのは「bestürzt (狼狽して)」という表現です。
これはドイツ語の他動詞 bestürzen の過去分詞形です。bestürzen は「狼狽させる、びっくりさせる、度を失わせる」などと訳されるようです。この bestürzen は be という前綴りと stürzen という語幹から成ります。stürzen は「転倒する、転落する、突き落す、ひっくり返す」のような意味を持っています。そして前綴りの be は語幹の意味を強調するためによく付けられます。
これらのことを踏まえると、「bestürzt (狼狽して)」というのはイメージからすると、いきなり突き倒されたみたいな、突然ひっくり返ったみたいな感じで、日本語でなら「腰を抜かした」というのがニュアンスとして合っているかもしれませんね。
私はドイツ語の微妙なニュアンスまではわかりませんので、ドイツ語のネイティブの人が bestürzen にどんなイメージを抱くのか知りませんが、Frege は結構びっくりしたんでしょうね。ドイツ語原文で読むと、こういう細かいところまでわかって面白いですね。
さてこのあとは、内容に関する説明を少しします。「内容に関する話には、特に興味はない」という方はここで終わりです。これ以降は、テクニカルなことに若干触れますので、細かいことに関心のない方はここで閲覧を終了してください。とはいえ、このあとも特別難しい話をするわけではないので、暇で仕方がないという方は、読んでみてもいいかもしれませんが。
Russell 書簡補足説明 1
この書簡の終わり辺りに、Peano の記法で書かれた式が載っていました。次です。
w = cls ∩ x з ( x 〜ε x ) .⊃: w ε w .=. w 〜ε w. 3)
この式に対し、今回の書簡を編集した編者の先生方は註 (式末尾の '3)' ) を付しています。それによると *26 、この式は次のようなことを表わしています。「w が x ∉ x であるような x のクラスならば、w ∈ w ↔ w ∉ w が妥当になる」。
このことを念頭に置きつつ、次の文献で Peano の記法を調べてみました。
・ Giuseppe Peano ''The Principles of Arithmetic, Presented by a New Method,'' in J. van Heijenoort ed., From Frege to Gödel, Harvard University Press, 1967, originally published in 1889,
先ほどの式の '=' は、既に想像が付いていると思いますが、等号のことです (Peano, p. 87. 以下、丸カッコ内にページ数のみ記載)。詳しく言うと 'a = b' は、a から b が帰結し、かつ b から a が帰結することです (87)。'cls' はクラスを表わす記号だろうと推測されます。'∩' は「かつ (and)」です (87)。'з' は「~であるようなもの (the objects that)」を表わします (90)。たとえば 'з < y' は「y 未満のもの」を表わします (90)。これは英語の 'such that' みたいな感じのものです。つまり 'x such that F(x)' 「性質 F を満たすようなもの x」と同種のものです。そこから、上の式の 'x з ( x 〜ε x )' は、「x 〜ε x であるような性質を満たすもの x」となります。そして '~' は否定の記号だと推測されます。また 'ε' は「~である (is)」です (89)。'a ε b' は「a は b である」と読まれます (89)。最後に '⊃' は帰結関係を表わします (87. このページの記号 'Ɔ' に対応)。たとえば 'a ⊃ b' なら、「a から b が帰結する」です (87)。簡単には「a ならば b 」と読んでよいかもしれません。*27
そうすると、今の式を大まかに言い直すなら、以下のようになります。「w はクラスであり (w = cls) かつ (∩) x は x 自身ではない (x 〜ε x) ようなもの (з) ならば (⊃)、w が w であることと (w ε w) w が w でないこととは (w 〜ε w) 同じことである (=)」。
Russell 書簡補足説明 2
Russell は書簡中で、次のようなことを言っていました。
Russell 「あなたは (17ページで) 関数もまた不定の要素を形作ることができる、と主張しておられます。(Sie behaupten (S. 17) es könne auch die Funktion das unbestimmte Element bilden.)」
この文で Russell は何を言おうとしているのでしょうか? また「関数が不定の要素を形作ることができる」と、なぜ Russell Paradox が出てくると彼は考えているのでしょうか?
書簡編者解説を見ると、この個所に関して、以下のような記述があります。原文とともに試訳/私訳を付けます。
件の書簡において、ラッセルは、フレーゲが『概念記法』で、確定している関数名から [不定な] 関数変項へ移行することを、明らかに無制限に許そうとしていることに対し、疑念を表明している (「逆に、アーギュメントもまた確定的であり得るのであり、しかし [その場合] 関数は不定であり得るのである」、『概念記法』、17ページ)。
この記述も踏まえて考えると、たぶんですが、Russell が問題の文で言おうとしているのは、簡単には、次のことだろうと推測します。ポイントだけを具体例に依りつつ説明します。
たとえば文「太郎は勤勉である」の「太郎」の部分を、不定なものを表わす 'x' に書き換えて、「x は勤勉である」とし、この 'x' に名前である「次郎」や「地球」など、任意のものを代入することができるでしょう。これに対し、今の文の「は勤勉である」の部分を、不定なものを表わす 'Φ' に書き換えて、「太郎Φ」とし、この 'Φ' に「は怠惰である」や「は素数である」など、任意の (命題) 関数 *29 を代入することもできると考えられます。そしてその 'Φ' にどのような (命題) 関数を代入するかに関しては、'x' に名前であれば何を入れてもよかったように、一切制限がないと思われます。(事実、Frege は当初 'Φ' に入れてもよい関数について、特に制限を課していないように見えます。G. Frege, Begriffsschrift und andere Aufsätze, 2. Aufl., hg., I. Angelelli, Georg Olms, 1964/1993, SS. 17-18.) Russell が「関数もまた不定の要素を形作ることができる」と言っている時に言わんとしているのは、「文中の、関数の名前に相当する述語という要素を、不定な表現に形を変えて作り直すことができる」というような感じのことだろうと推測します。
これをもう少し言い直すと、ここで Russell が Frege に指摘しているのは、次のことだろうと思われます。つまり、Frege はどのような関数を考えてもよいとしており、(文なり式なりが適格に well-formed 形成されるのならば) 任意の関数が任意の (関数に対する) argument に入ってよいと認めている、ということです。今、'x', 'Φ' を変項とし、式 'Φx' を適格に形成し、この 'x' に任意の名前 'a' を、'Φ' に任意の関数の名前 (述語) を代入するならば、'Fa' という式ができ、すると 'Fa' には何も問題はなく、この式は至極真っ当であって、真か偽か、どちらか一方をそれは取るはずだと Frege は考えているのだ、このようなことを Russell は指摘しているのだろうと推測します。
そうすると、Frege が 'Φ' に代入してよい関数に制限を課していないことから、たとえば文「自分自身に述語付けられない述語は述語である」という (正しいであろう) 文から、上で示した方法により「自分自身に述語付けられない述語Φ」という関数の不定な表現を作り、この 'Φ' に「は自分自身に述語付けられない」という述語、(命題) 関数を代入して「自分自身に述語付けられない述語は自分自身に述語付けられない」という文を得ることができ、するとこのあと、ここからただちに Russell Paradox が引き起こされる、というわけです。
ちなみに、今回の書簡の英訳では Russell の文言「あなたは (17ページで) 関数もまた不定の要素を形作ることができる、と主張しておられます (Sie behaupten (S. 17) es könne auch die Funktion das unbestimmte Element bilden)」は、どのように表現されているでしょうか?
・ B. Russell ''Letter to Frege,'' in J. van Heijenoort ed., From Frege to Gödel, Harvard University Press, 1967.
こちらを見ると (pp. 124-125),
となっています *30 。この英文は「あなたは (17ページで) 関数もまた不定の要素として働きうると述べておられます」という感じで訳せるでしょうか。bilden が act と訳されています。bilden は普通「形成する、教育する」と訳されますが、「~する、~である」とも訳されることがあるので、ここではこの後者の「~する、~である」の流れから、意訳して「働く、機能する」と英訳されているみたいです。
Russell 書簡補足説明 3
書簡中で Russell は、以下のようなことを言っていました。
「同様に、全体として自分自身に属していないクラスのクラスは、(全体としては) 存在しません。(Ebenso giebt es keine Klasse (als Ganzes) derjenigen Klassen die als Ganze sich selber nicht angehören.)」
Russell によるこの文の中の「全体として自分自身に属していないクラスのクラス」とは、いわゆる Russell set のことだというのは Russell Paradox を知っている人であれば皆わかることですが、私によくわからないのは、この文に2回出てくる「全体として」という言い回しです。
これは Russell 特有の言い回しなのかもしれませんが、Russell の文献をほとんど読んでいない私にはよくわかりません。たぶんこれは次のようなことだろうと推測します。少し具体的な例で説明してみます。(文中の二種類の括弧、「 」、『 』は、さしあたり気にせずお読みください。)
今、クラス A には、a, b, c, ... 「全部」が属しているが、A 自身はここに属していないとします。
同様に、クラス B には、a', b', c', ... 「全部」が属しているが、B 自身はここに属していないとします。
同様にして、クラス C, D, E, ... を考えることができます。
そしてこれら A, B, C, D, E, ... 『全部』が属するクラスを R とすると、そのような R は存在しません。
これが、上の Russell の文「全体として自分自身に属していないクラスのクラスは、(全体としては) 存在しません」で言われているイメージだろうと思われます。
そしてこの Russell の文における最初の「全体として」に当たるのが、今上げた具体例の中の括弧「 」で括った二つの「「全部」」のことであり、もう一つの「(全体としては)」に当たるのが、今上げた具体例の中の括弧『 』で括った「『全部』」のことであろうと、このように思います。間違っていたらすみません。
Frege 書簡補足説明
今度は Frege → Russell 書簡について、内容に関する補足説明を若干します *31 。
ただし、この説明は一部推測を含みますので、そのまますべて正しいとは考えないでください。
Frege は書簡中で基本法則 V に言及しています。そこでこの法則を現代の記法に改めて、ここに記します。
基本法則 V: 'xFx = 'yGy ⇔. ∀z(Fz ⇔ Gz).
一般性は損なわれないので、話を概念に限ると、上の法則の左辺は概念 F の外延と概念 G の外延が等しいことを言っています。右辺は何であれ F に帰属するものは G にも帰属し、G に帰属するものは F にも帰属すると言っています。そしてこの法則全体としては、左右各辺の一方が他方の必要十分条件になっていること、あるいは両辺が同値であることを言っています。
さて Frege は技術的なことに関し、返信書簡中で少なくとも三つの指摘を行なっています。
[1] 同一性の普遍性を値域の同一性に変換することは、いつでも許されるというわけではないこと、
[2] 基本法則 V は偽であること、
[3] 『基本法則』 §31 での説明は不十分であること。
これらがどういうことを言っているのか、解説してみます。
Frege 書簡補足説明 1
一つ目の [1] ですが、ここの「同一性の普遍性」とは、基本法則 V の右辺のことです。それから「値域の同一性」とは V の左辺のことです。そしてこの前者から後者へと「変換する」とは、前者を前提すれば後者が帰結する、ということです。このことは (Va) と呼ばれる式で表わされます。
(Va) 'xFx = 'yGy .← ∀z(Fz ⇔ Gz).
そうすると、[1] は文字どおりには、基本法則 V の右辺から左辺へと推論すること (Va) は、いつでも許されるというわけではない、ということになります。
しかし、この書簡のあとに書かれる『基本法則』の後書きを考慮するならば *32 、Frege は [1] で、文字どおりに V の右辺から左辺へいつでも推論できるわけではない、と言っているのではない、と考えられます。というのは、よく知られているように、Frege は Russell Paradox の原因を分析した件の後書きで、(Va) には問題はなく、これは許される、と指摘しているからです。問題があると Frege が指摘したのは (Va) の逆、(Vb) と呼ばれる式です。
(Vb) 'xFx = 'yGy →. ∀z(Fz ⇔ Gz).
これを Frege の言い方で読み下せば、「値域の同一性を同一性の普遍性に変換すること」となります。
こうして (Va) と (Vb) を踏まえた上で、基本法則 V を Frege の流儀で読み下せば、「同一性の普遍性を値域の同一性に変換することも、逆に値域の同一性を同一性の普遍性に変換することも、ともに許される」とか「同一性の普遍性を値域の同一性に変換することと、値域の同一性を同一性の普遍性に変換することとは同じことである (gleichbedeutend)」とでもなるでしょう。基本法則 V においては、その右辺から左辺へ、あるいは左辺から右辺へ、どちらにも移行できるとか、左右両辺は結局同じことを言っている、という感じになります。
そうすると [1] で Frege が言わんとしていたのは、詳しく言えば、V の左辺から右辺へはいつでも移行が許されるというわけではないこと、大まかに言えば、少なくとも両辺は同じことを言っているのではないということ、以上のようなことだったのだと思われます。
Frege 書簡補足説明 2
次に [2] 基本法則 V が偽であるとは、どういうことでしょうか?
これも『基本法則』の後書きを考慮してみますと、上で述べたように、Frege が問題ありとしたのは
(Vb) 'xFx = 'yGy →. ∀z(Fz ⇔ Gz)
でした。この式の左辺が言えても右辺がいつでも言えるとは限らないので、(Vb) が偽になる場合があり、これにより V 全体としても偽の場合があると Frege は考えていたのではないかと思われます。
ではどうしたら (Vb) から偽であることが出てくるのでしょうか? *33
(このあとの論証は、ゆっくりと繰り返し、読んでみてください。直観的な説明でよいなら一瞬でできる説明を、わかりやすくするため、論を一歩一歩運び、引き伸ばしています。そのため、かえってわかりにくいかもしれません。どうかご容赦ください。)
まず、(Vb) の一例を大まかに表わすと、たとえばこうなります。
[(Vb) 例文] 人間 = 理性的動物 →. どんなもの z も、 z は人間である ⇔ z は理性的動物である
これを、ひねって言い換えると、
[(Vb) 例文変形] 「~は人間である」に「人間」が対応するならば、これと同じ「人間」が対応する「~は理性的動物である」には、「~は人間である」に当てはまるものとちょうど同じものが当てはまる *34 。
いささか回りくどいですが、[(Vb) 例文] がわかれば [(Vb) 例文変形] もわかると思います。
そこでこの変形を念頭に置いて、元の (Vb) を次のように言い換えます。
(Vb1) 概念 F(ξ) に外延 'xFx が与えられるならば、これと同じ外延 'xFx が与えられた概念 G(ξ) にはどれも、F(ξ) に帰属するのとちょうど同じものが帰属する。
そして以下のような概念 R(ξ) を考えます。
[R(ξ)] ~は、それが与えられた概念には帰属しない外延である。
(= ~は、ある概念に与えられた外延であって、その外延はその概念に帰属しない)
そしてこの概念に与えられる外延を、次の R とします *35 。
R それが与えられた概念には帰属しない外延
(= R は、ある概念に与えられた外延であって、その外延 R はその概念に帰属しない) *36
ところで (Vb1) における概念 F(ξ) は任意の概念です。そこでこの F(ξ) に R(ξ) を代入すると、(Vb1) における外延 'xFx は R となり、以下のように書き換えられます。
(Vb2) 概念 R(ξ) に外延 R が与えられるならば、これと同じ外延 R が与えられた概念 G(ξ) にはどれも、R(ξ) に帰属するのとちょうど同じものが帰属する。
さて、R は R(ξ) に帰属するか否かでしょう。まず、帰属すると仮定してみます。以下の文の中の記号「¬」は否定記号で、「~ではない」と読まれます。
仮定: R は R(ξ) に帰属する
今、R が R(ξ) に帰属すると仮定します (R(R))。すると [R(ξ)] により、R は、それが与えられた概念には帰属しない外延です。ところで (Vb2) における概念 G(ξ) の一つは R(ξ) です。したがって、(Vb2) の G(ξ) を R(ξ) に代えたその R(ξ) にも R は帰属するはずです (R は R(ξ) に帰属すると仮定していたのですから)。しかし今確認したように、[R(ξ)] によって、R は、それが与えられた概念 R(ξ) には帰属しません (¬R(R))。故に、R が R(ξ) に帰属するならば (R(R))、R は R(ξ) に帰属しません (¬R(R))。これは矛盾です。したがって、R が R(ξ) に帰属するという仮定は間違っており、それは否定されねばなりません。こうして R は R(ξ) に帰属しない、ということが正しいと結論できます。
今度は R は R(ξ) に帰属しないと仮定してみます。
仮定: R は R(ξ) に帰属しない
今、R が R(ξ) に帰属しないと仮定します (¬R(R))。すると、[R(ξ)] により、R は、それが与えられた概念には帰属しないというような外延ではありません。しかし、R が何らかの概念に与えられた外延であることに間違いはないので、今述べたことは、言い換えると R はそれが与えられた概念に帰属する外延だ、ということです。そうすると、(Vb2) により、仮定どおり R が R(ξ) に帰属しないとするならば、G(ξ) を R(ξ) に代えたその R(ξ) にも R は帰属しないはずです。しかし今確認したように、[R(ξ)] によって、R は、それが与えられた概念に帰属します (R(R))。故に、R が R(ξ) に帰属しないならば (¬R(R))、R は R(ξ) に帰属します (R(R))。これは矛盾です。したがって、R が R(ξ) に帰属しないという仮定は間違っており、それは否定されねばなりません。こうして R は R(ξ) に帰属する、ということが正しいと結論できます。
ここまでで、R は R(ξ) に帰属しない、ということが正しいと結論できたとともに、R は R(ξ) に帰属する、ということが正しいと結論できました。よって、R は R(ξ) に帰属し、かつ帰属しない、と結論できます。
以上により、(Vb2)、あるいは結局 (Vb) を使えば、矛盾した文「R は R(ξ) に帰属し、かつ帰属しない」が出てきます。このような矛盾した文を真にすることはできません。つまりこの文は偽です。よって (Vb)、あるいは結局基本法則 V には、偽になる場合があることがわかります。
これが大まかな推測ながら、[2] で Frege が言おうとしていたことなのかもしれません。
Frege 書簡補足説明 3
今度は [3] です。『基本法則』の§31の説明が不十分であるとは、どういうことでしょうか? その説明は§31の前、§30の説明と密接な関係があります。
『基本法則』では一つの論理体系が提示されています。論理体系には、それを構成する基本的語彙と、その語彙を組み合わせて複合的な表現を作る文法があります。日本語の体系に、基本的な単語と、これらを組み合わせる日本語文法、国文法があるようなものです。
大体のところ、『基本法則』§30では、この文法が示されています。日本語でたとえるなら、「太郎は子供である」という表現から「太郎」という名前を削除して「~は子供である」という表現を作ることができ、続いてこの「~」の部分に「花子」を入れて「花子は子供である」という表現を作ることができる、という感じです。
そして§31では、やはり大まかな言い方をすると、この論理体系の最も基本的な語彙が列挙され、これらすべてが意味 (Bedeutung) を持っていることが確認されます。加えてこれらの基本的語彙から、§30の文法を使って構成されるどんな複合的表現も意味を持つことが確認されます。こうして基本法則体系を構成する表現は、基本的なものであれ、複合的なものであれ、いかなるものも意味を持っているとされるわけです。
しかし Frege は、この§31での説明は不十分であると言います。なぜでしょうか? 問題の§31の説明では、基本法則体系のすべての表現には意味があることになっています。しかし、Frege は、Russell の Paradox により、基本法則体系の表現の中には意味を持っていないものがあると考えたのです。Russell の Paradox により引き起こされる矛盾から、基本法則体系のある表現は意味を持たないと Frege は判断しているのです。そのため§31の説明は不十分だと Frege は言っているのです。
これに関し、今取り上げている書簡のあと、Frege が Russell に送った別の書簡 (1902年6月29日付) を見てみましょう *37 。書簡原文と、直訳風の試訳/私訳を掲げます。
ここで注目したいポイントは次です。
この書簡では、たとえば名前「太郎」を使って「太郎は人間である」と「太郎は人間でない」というような矛盾が出てくるようなら、「太郎」というような名前は意味 (Bedeutung) を持っているように見えて、実は意味を持っていない、ということが主張されている点です。Frege にとって、ある名前を使って矛盾が出てくるようならば、その名前には意味がないのです。
そして実際に問題を引き起こすのが、概念の外延の名前です。今「~は自分自身に述語付けられない述語である」という述語を R(ξ) と記し、この述語の表わす概念の、その外延を指す名前を 'R とすれば、Russell Paradox により、R('R) から矛盾が出てきます。よって Frege の考えでは、概念の外延に対する名前の一つである 'R には、『基本法則』§31の説明からして、あるはずの意味が実際にはないことになってしまうのです。
補遺: Russell Paradox 述語 (性質) 版
最後に補遺として、Russell の Paradox の述語 (性質) 版の説明文を記しておきます。
Russell Paradox 述語 (性質) 版
さて、
太郎は長男である。
と言う時、主語「太郎」について、述語「~は長男である」を述語付けている、と言います。
また、
短いは短い。
も、主語「短い」について、述語「~は短い」を述語付けています。この文は、「短い」という語に自分自身を述語付けている、とも言えます。
「短い」という語は、実際に短いでしょうから、「短い」という語に自分自身を述語付けることができて、その結果である上の文「短いは短い」は正しいものとなります。
さらにまた、
長いは長い。
も、主語「長い」について、自分自身を述語付けていますが、「長い」という語は長くないでしょうから、実際には「長い」という語に自分自身を述語付けることはできず、自分自身を述語付けたとしても、その結果である上の文「長いは長い」は正しくはなりません。
ここで、ちょっと変った語を考えます。それはここまで使ってきた「述語付けることはできない」、「述語付けられない」という語です。そうしてこの語は自分自身に述語付けられるか否かを調べてみましょう。
この「述語付けられない」という語は、(1) 自分自身に述語付けられるか、あるいは (2) 自分自身に述語付けられないか、どちらかでしょう。
そこでまず、(1) 自分自身に述語付けられると仮定してみましょう。すると「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられるのだから、その語を自分自身に述語付けて、次のように言うことができます。
述語付けられないは述語付けられない。
ところで、先ほど、
短いは短い。
と言えることを見ました。そして事実、この文の述べていることは正しいことを見ました。この文が正しいということは、「短い」という語が短いという特徴を持っている、ということです。
同様に、「述語付けられないは述語付けられない」と言えるのなら、この文は正しく、かつ「述語付けられない」という語が述語付けられないという特徴を持っている、ということです。したがって、「述語付けられない」という語は述語付けられないという特徴を持っているのだから、
述語付けられないは述語付けられない。
と言えます。
こうして (1) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられると仮定すると、今しがた述べたように、述語付けられないは述語付けられません。つまり、「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられません。この結果は仮定に反します。これは (1) のように仮定したために、それに反した結果が出てきたのですから、仮定 (1) は否定されねばなりません。よって、次が正しいと言えます。
(1a) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられない。
続いて今度は、「述語付けられない」という語が、(1) 自分自身に述語付けられるか、あるいは (2) 自分自身に述語付けられないか、どちらかのうち、(2) であると仮定してみましょう。つまり、
(2) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられない。
と仮定してみます。
ところで先ほども見たように、
短いは短い。
と言えるならば、「短い」という語には短いという特徴が備わっているということでした。そのような特徴が備わっているからこそ、「短いは短い」と言っていいのでした。
同様に、仮定 (2) のように言えるなら、「述語付けられない」という語には述語付けられないという特徴が備わっているということです。ならば、
述語付けられないは述語付けられない。
と言っていいということです。この時、「述語付けられない」という語には、自分自身である述語「~は述語付けられない」を述語付けることができています。
こうして (2) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられないと仮定すると、今述べたように、自分自身に述語付けることができます。この結果は仮定に反します。これは (2) のように仮定したために、それに反した結果が出てきたということですから、仮定 (2) は否定されねばなりません。したがって、次が正しいということになります。
(2a) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられる。
ここまでで得た、正しい結果を並べてみましょう。
(1a) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられない。
(2a) 「述語付けられない」という語は自分自身に述語付けられる。
どちらも正しいことを述べた文です。それぞれについて、上のごとく証明がありますから、それぞれ正しい文です。しかし、これは矛盾しています。
これで終わります。長くなってすみません。Frege と Russell の書簡原文を引用し、その翻訳を付けて終わりにしようかとも考えたのですが、それだけではあまり面白くないかなと思って補足を付けると、予定の倍ぐらいの長さになってしまいました。ブログにしては長いですね。
以上の記述に対しては、いつものように誤解、無理解、勘違いなどが含まれているかもしれません。そうでしたらごめんなさい。私の翻訳も、誤訳、悪訳がいろいろと含まれているでしょう。改善すべき点が山のように残っていると思います。これについても申し訳ありません。また勉強し直します。
*1:Russell は Frege にドイツ語で書いています。なお、今日も軽い気持ちで遊ぶようにこの文章を書いていますので、そのつもりで気楽にお付き合いいただければありがたく思います。
*2:Russell Paradox の述語版はよく知らないが、集合論版なら知っているという方は、この述語版の説明を読む必要はないと思います。集合論版を知っていれば、大体見当が付くと思いますので。
*3:直訳の方針を述べます。[1] できるだけドイツ語原文に出てきている単語はすべて拾い上げ、訳に反映させるように努めました。ただし完全ではありません。また、[2] 原文で主語となっているものは和訳でも主語で、目的語は目的語で、名詞は名詞で、動詞は動詞で、というように、対応させるように訳すことを心がけました。これももちろん完全ではありません。[3] 原文で能動態の文は和訳でも能動態で、原文受動態は、和訳でも受動態で訳すようにしました。しかしすべてそのようにできたわけではもちろんありません。原文に man が出てくる文や、主観的心情を表明する scheinen が出てくる文などは、たびたび受動態で訳出しています。[4] ドイツ語の代名詞は、読みやすさを考慮し、その代名詞が指しているものを訳語にしていることがしばしばあります。たとえば「彼は」を「太郎は」などと訳しています。[5] 原文にない言葉を和訳で補う必要がある時は、引用文内で括弧 [ ] を使いましたが、使わずに補っている場合があります。ただしそのような補足の数は、最小限にしてあります。
*4:一言申し添えておきますと、意訳より直訳のほうが優れている、と言いたいのではありません。どのような訳出スタイルにするかは、用途によって選べばよいと考えています。
*5:Freges Briefwechsel, SS. 59-60, Briefwechsel, SS. 211-212.
*6:訳者註: この直訳は、まず既刊の訳を見ずに自分で訳し (と言ってもずいぶん前に既刊訳は拝見させていただいておりましたが)、それから既刊の訳と突き合せて確認を取りました。こうして確認は取ったものの、たぶん大過ないようだったので、この直訳に訂正は施しておりません。いずれにせよ既刊の訳文を作成された土屋純一先生に感謝申し上げます。
*7:直訳の各語句に、ドイツ語原文の語句を前置させる逐語訳を以下に掲げます。これは、関口存男先生が一部行なっておられた訳出スタイルです。(この訳出スタイルは関口先生以前からあったものなのかどうか、よくは知りませんが。) 関口存男、『独逸語大講座 第3巻』、読本の部、三修社、1931/1994年、およびその『第4巻』、読本の部、1931/1994年、『関口・初等ドイツ語講座 中巻』、三修社、2005年、およびその『下巻』、2005年。そして参考までに一部、簡単な文法事項について、註記を施しておきます。
*8:この原文中の es は形式主語の es. 後出の die Funktion を指示。
*9:引用者補足: ここで土屋先生は「無限の」と訳しておられます。この「無限の」は 'unbestimmte' の訳です。このドイツ語は普通、「無規定の、不確定の」などと訳され、「無限に多くの、無限に大きい」というような意味はなかったと思いますので、この語を先生はたぶん「無制限の」という意味で訳しておられるのではないかと推察します。「夜空に広がる無限の星々」の「無限」ではなく、「制限がない、限定されていない」というような意味での「無限」です。間違っていましたらすみません。補足終わり。
*10:『書簡集』、118-119ページ。
*11:Freges Briefwechsel, SS. 61, 63, Briefwechsel, SS. 213, 215.
*12:訳者註: この直訳も、最初に既刊の訳を見ず自分で訳し、そのあと既刊の訳と突き合せ確認を取りました。その結果、二か所誤訳していることに気が付きました。特にそのうちの一点はひどい誤訳でした。第二段落冒頭で Frege は「Uebrigens scheint mir der Ausdruck „ ... ‟ nicht genau zu sein」と言っていますが、私はこの文の中の「nicht genau (正確でない)」を「nicht genügen (十分でない)」だと思い込んで訳していました。この前の段落でその「nicht genügen」という言い回しが出てくるので、それに引きずられてしまったのかもしれません。何にせよ既刊の訳文作者土屋純一先生に助けられました。誠にありがとうございます。訳者註終わり。
*13:正直に言って、この sich が何なのか、私にはよくわかりません。auf dem ich die Arithmetik sich aufzubauen dachte の aufzubauen か dachte と組みになって再帰代名詞として使われているなら、ここでの主語は ich ですから、その場合 sich は mir か mich になっていなければなりませんが、そうはなっていませんので、この sich は aufzubauen と dachte とは関係ないと思われます。sich にはいくつか特殊とも言える用法がありますが、ここでの sich は、たとえばいわゆる搬動語法でもなければ結果挙述の形容詞に伴う sich でもありません。もちろん相互関係「お互いに」を表わす sich でもなければ sich ~ lassen の sich でもなく、無拘束/自由3格関係の sich でもないように思われます。サッカーボールのように分厚い次の本、牧野紀之編著、『関口ドイツ文法』、未知谷、2013年でも調べてみましたが、私の調べ方が悪いのかよくわかりません。ただ、この『関口ドイツ文法』で、「不定句の中の再帰代名詞はその不定句の中の適当な語を受けます」とあり (p. 820)、このことからすると、あと私に考えられるのは sich が直前の die Arithmetik を受けて、冗語的に「自身・自体」の意味を持っていることぐらいかと思われました。他に私の見落としている sich の用法があるのかもしれません。あるいは私は sich の初歩的な用法を理解していないのかもしれません。確信が持てませんでしたので、上の「直訳」の中では訳出しませんでした。このあとに掲げる「既刊訳」でもことさら訳出はされていないようです。またこのあと本文中でも言及する著名な英訳アンソロジー From Frege to Gödel でも、この書簡の英訳中では問題の sich は明示的には訳出されていません。そこで私もあえて訳出せずにおきました。sich について、私が何か無知・無理解なところがあるようでしたらすみません。
*14:Es scheint danach の Es は、原文このすぐあとの dass 文を指示している形式的主語。
*15:原文前方の Ausführungen にかかる zu 不定詞の形容詞的用法。
*16:「um so 形容詞の比較級, als ~」で、「~だけに、それだけいっそう (比較級) である」という構文。
*17:「solch 名詞, dass ~」で、「~ なほど (名詞) である」、「~ であるような (名詞) である」。
*18:es möglich sein の es は、原文後出の aufzustellen の zu 不定詞句を指示。
*19:この接続法第2式の sollte は、心理的抵抗を押し切ってでも、あることを思わざるを得ない、信じざるを得ない、などということを表わすのに使われます。詳しくは次を参照ください。関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、2000年、335-336ページ。ここで関口先生はこの用法の sollte に特に名前を付けておられませんが、私は個人的にこの用法の sollte を「心理的強制の sollte」と呼んでいます。なお、この sollte は、切迫した調子で「思わざるを得ない」と訳すよりも、ごく軽く「思われる」と訳したほうがよい文脈もあります。
*20:merkwürdig は現在では「奇妙な」という意味が普通ですが、古くは「注目に値する」、「重要な」という意味を持っていました。
*21:認容の so. 一般に「so + 形容詞/副詞 + 主語 + auch + 動詞」で、「たとえ ~ であろうとも」。
*22:接続法第2式 (ここでは möchte) と gern, lieber, am liebsten, besser, am besten などが用いられると、いわゆる外交的接続法となって要望を表わします。前掲の関口、『接続法の詳細』、305-307ページ、または次を参照ください。常木実、『接続法 その理論と応用』、郁文堂、1960年、93-95ページ。
*23:いわゆる「予定・計画の sollen」。文字通り「~する予定/計画である」や、「~することになっている」などと訳されます。ただし、以下に掲示する土屋先生の既刊訳のように、この sollen を話者の意志を表明している sollen と取ることも可能だと思われます。
*24:「Wenn + 接続法第2式 !」という単独文で、「~であればなぁ」という願望を表わします。前掲関口、『接続法の詳細』、280-281, 166ページ、常木、『接続法』、81-82ページ。
*25:『書簡集』、120-121ページ。
*26:Freges Briefwechsel, S. 60, Anm. 3, Briefwechsel, S. 212, Anm. 3.
*27:なお、これらの記号の説明については、1891年刊行の文献から和訳されている以下の書籍でも調べてみました。G. Peano, 『数の概念について』、小野勝次、梅沢敏郎訳、現代数学の系譜 2, 共立出版、1969年。問題の記号について、似たような説明がこの和書にも見えますが、その説明がこの本のあちこちに、かなり離れて散在しており、ちょっと面倒なのでここにそのページ数を記載することは割愛します。すみません、小野先生、梅沢先生。ちなみに 'з' の説明は、この本に出ていないように見えます。(見落としていたらごめんなさい。) しかしこの記号に類似した機能を果たす記号として、'xεC' が本書では使われています。これは「条件 C を満たすような x」のことです。同書、59, 82ページをご覧ください。
*28:Freges Briefwechsel, S. 49, Briefwechsel, S. 201.
*29:Russell の propositional function を想起させるために「(命題) 関数」という言葉を使っていますが、厳密に使っているわけではありません。私は Russell の propositional function のことについてはよく知りませんので。
*30:ちなみにこの英訳は、Russell 自身も目を通して了承した訳です。From Frege to Gödel, p. 124.
*31:以下では Frege の主著『算術の基本法則』にたびたび言及しますが、ちょっと手間ですので、ページ数は明記しません。どれも初歩的なことであり、よく知られていることですので、逐一明記するのを控えます。一応文献名だけ記しておきます。Gottlob Frege, Grundgesetze der Arithmetik I/II, mit Ergänzungen zum Nachdruck von Christian Thiel, Georg Olms, 1998, G. フレーゲ、『算術の基本法則』、野本和幸編、フレーゲ著作集 3, 勁草書房、2000年。
*32:Frege がまだ書いていない文献を、この書簡中に読み込んで考慮することに対しては、異論があるかもしれません。しかし、その書かれていない『基本法則』の後書きも、この書簡のあと、二、三か月以内に書かれていると考えられますので (この書簡は6月下旬起草、問題の後書きが書き終えられたのは同年10月)、この書簡で件の後書きを考慮することは決して無茶とまでは言えないでしょう。まぁ、それに今ここで私は研究を展開しているわけではないので、このあたりのことはどうかお許しください。
*33:以下の論証は、次の文献該当ページの論証に基付きます。M. Furth, ''Editor's Introduction,'' in his tr. and ed., G. Frege, The Basic Law of Arithmetic, University of California Press, 1964/1967, p. xlvi.
*34:「~は理性的動物である」には、「~は人間である」に当てはまるものとちょうど同じものが当てはまる」とは、「~は人間である」 に当てはまるものは 「~は理性的動物である」 にも当てはまり、「~は人間である」 に当てはまらないものは 「~は理性的動物である」 にも当てはまらない、ということです。
*35:なお、ここまで概念や外延について語ってきましたが、概念についてはいいとしても、外延とは何かという疑問を持たれる方がおられるかもしれません。しかし外延が何であるかについては、この後の話には関係ありませんので、それが正確に言って何であるかについては気にされなくても大丈夫です。一つ、二つと数えることのできる何らかのもの、というほどの理解で十分です。
*36:R(ξ) と R とは別のものですので注意してください。たとえば「~は赤い」は形容詞であるのに対して、「赤色」は名詞であって、互いに別物です。
*37:この書簡の該当個所に注意すべきことは、本書簡集編者解説に教えられました。Freges Briefwechsel, S. 50, Briefwechsel, S. 202.
*38:Freges Briefwechsel, S. 65, Briefwechsel, S. 217.
*39:念のため、土屋純一先生のきちんとした訳を記しておきます。「御発見の矛盾につきましては、学兄がそれについて述べておられるところを私はあるいは十分理解していないかも知れません。'φ{έφ(ε)}' のような式は矛盾を避けるために禁止したいというのが御趣旨のように思われます。しかしもし学兄が概念の外延 (クラス) を表わす記号を一般に有意味な固有名として許容され、したがってクラスを対象として認知なさるならば、このクラス自体は当の概念の下に入るか入らないかのいずれかでなければなりません。排中律により第三の可能性はありませんから。もし2の平方根のクラスをお認めなら、このクラスは2の平方根であるか否かという問題を回避するわけには行きません。万一この問題は肯定も否定もできないことがはっきりするとしたら、同時に 'έ(ε2 = 2)' なる固有名を無意味と認めることになってしまいます。」 『書簡集』、124ページ。