In Short, What is the Neo-Fregeanism from a Philosophical Point of View?

目次

 

注意

このブログでは、研究をしているのではありません。

またこのブログでは、哲学をしているのではありません。

これらをご理解の上、以下をご覧くださいましたら幸いです。

注意終わり

 

序論

先日、部屋の中に積んである本の一つを何気なく手に取り、そこに収められている次の論文を読んでみて、大変面白く感じました。

・ Roy T. Cook  ''New Waves on an Old Beach: Fregean Philosophy of Mathematics Today,'' in O. Bueno and Ø. Linnebo eds., New Waves in Philosophy of Mathematics, Palgrave Macmillan, 2009.

Neo-Fregeanism と呼ばれる哲学上の動向があります。 Neo-Logicism だとか abstractionism などとも呼ばれます。このような動向を担っている人たちを neo-Fregean などと呼びます。上の Cook 先生の論文は、この neo-Fregean と呼ばれる人たちが哲学としては何をやろうとしているのかを、簡潔にまとめたものです。

Neo-Fregeanism とは、極々簡単に言えば、数学は、特に算術は、論理学に他ならない、と考える立場のようです。少し具体的に言うと、(二階の) 論理に Hume の原理 (HP) と呼ばれる式を追加すると算術が引き出せるのですが、(HP) が他の似た式とともに、どのような特徴を持っているのか、はっきりしないところがあるので、(HP) などの式の特徴を明らかにし、その式の哲学的な性格も明瞭にすることで、算術は論理学に他ならないという主張を確かなものにしようとしている、ということのようです。

このように (HP) と、これに関連する式の検討が neo-Fregeanism という研究動向では進められているようなのですが、その内実は極めてテクニカルなものとなっているようであり、論理学や数学に詳しい人間でないとよくわからない話になっているみたいです。私には難しすぎてよくわからない状態です。

そのため、私は「neo-Fregeanism というのは、ちょっとよくわからないな」の一言をつぶやくだけで近づかずにいたため、哲学的にもこの動向が本当のところ最終的に何を目指しているのか、よく考えずにいました。「とにかく算術を論理学に還元して、文句のないものにしたいのだろう」というぐらいにしか考えずにいました。

そのようななか、上記の Cook 先生の論文を読んでみたら、neo-Fregeanism の文献には珍しく、テクニカルなところはほとんどなく、論点も多岐に渡らず、単刀直入、旗幟鮮明に書かれていたので、すぐに読み終わるとともに、neo-Fregean が哲学的に何をしたいのか、遅まきながらはっきりとわかった気がしました。

そこで今日は Cook 先生の論文をもとに、neo-Fregean が哲学的にいって何を問題にし、それにどんな答えを与えようとしているのか、今さらながらですが説明してみたいと思います。そして Cook 先生の論文を要約し、私の疑問をほんの少しだけ記してみます。

しかしそれを記す前に、先生の論文について、二点注意をしておきます。

 

一点目。先生の論文は普通の論文とはちょっと違います。普通の論文は、何かを主張したら、その主張が正しいことを、論証を並べることで示します。あるいはその主張に対する有力な反論をいくつか取り上げ、それらの反論を逐一論駁する論証を並べるものです。ないしはその主張に伴い読者の心に浮かんで来るさまざまな疑問や疑念のうち、重要なものを解消する論述を展開するものです。しかし先生の論文では、これらいずれもほとんどなされていません。

一言で言えば、先生の論文は mission statement, または政党の manifesto のような感じを与えます。細かい論証はすべて棚上げにして、ひたすら「こうしようとしているのです、ああしようとしているのです」と述べている論文である、と言えます。

そのため、非常に簡潔・明瞭です。こまごまとした木を見ないので、森がよく見えます。何がしたいのか、とてもわかりやすいです。

ただし、政党の manifesto にありがちな問題点も含んでいます。政党の manifesto で「大幅な減税を実施します!」と謳われていたならば、「おお、それは助かる」と思ったりするものですが、その一方で「そんなこと、本当にできるのか? そこまで減税したら、医療費などはどうなるんだ?」というような疑念も生じます。立派なことを述べても、実現への道筋や手段が明らかにされていなければ、あるいはそれに伴う副作用がまったく考慮されていないようならば、ただの宣伝文句にしかすぎません。

Cook 先生の論文も、非常に旗幟鮮明で、率直・明解なのですが、さまざまな疑問や問題が答えられないまま、素通りされているきらいがあります *1

とはいえ、旗を高く掲げて多くの人に魅力的なところをアピールする分にはいいかもしれません。先生も意図的に mission statement のような論文として執筆されたのだと思います。ひどく技術的な狭い問題にみんな沈潜してしまっている中で、乗り越えねばならない障害はたくさんあるものの、高台に立ち、今一度最終目的地の方向を鋭く指差してみせることは大切なことでしょう。まぁ、その高台からは、ずいぶんきつそうな障害があれこれ目に付くので、心が折れそうにもなるのですが…。

二点目。Cook 先生の論文では、neo-Fregean が最終的に解決したい問題が何であり、そしてそれにどう答えるかが記されていますが、これは neo-Fregean である人々の公式見解ではありません。先生は neo-Fregeanism の中心地にいた/いる人物ですが、先生が論文で述べていることは、先生の私的な意見であり、neo-Fregean 全員の同意が得られているわけではありません。先生個人から見た neo-Fregean の問題とその答えが記されているだけです。ですから以下の私の話は、neo-Fregean みんながそう考えていることだ、とは取らないでください *2

さあ前置きはこれぐらいにして、本題に入りましょう。

 

Neo-Fregean の問いと答え概要

さて、何かを知ることについて考えてみます。

太郎やポチ、富士山や太陽は、私たちの五官を通して知ることができるものです。硬い言い方をすれば、太郎やポチなどは、五官を通じ、因果関係に入ることで知ることのできる経験的な具体的対象だ、ということです。そのためポチが柴犬であることは、ポチを見ればわかります。

また私たちは数の2や4について、2+2=4 だとか√2は二乗すると2になる数だ、ということを知っていますが、2や4は五官を通じて因果関係に入ることができるような経験的具体的対象ではなく、抽象的対象とでも言えるようなものだと考えます。そのため、2や4を見たりすることはできません。しかし 2+2 は4だと断言できます。

一方で「あの世では、霊魂は永遠に生きるんだよ」とか「神様はね、白髪の老人で、白い布を垂らしたような服を着てるんだ」と言われても、大抵信じません。今のように言われても「霊魂や神様を見たことでもあるのかい? ないでしょ? 見たこともないのに、なぜそんなことが言えるんだい?」と返すことでしょう。

見たこともない霊魂や神様の話は信じないのに、なぜ同じく見たこともない2や4について、2+2 は4だと知っている、と言えるのでしょう?

2や4などの数、基数は数学が扱うもので、このようなものは数学的対象と呼ばれています。そして数学的対象が存在するという考え方は数学的プラトニズムと呼ばれています。そして何かを知っていると言えるのはなぜか、という問いは、認識論的問題と呼ばれています。ここから、2や4が存在しているとすると、なぜそれらについて知っていると言えるのか、という先ほどの問いは、数学的プラトニズムにおける数学的対象の認識論的問題だ、ということになります。

 

ここで話を少し変えます。私たちは、上に見たような基数の2や4, 2+2=4 を使って現実を表わすことがあります。

たとえば「あそこの物陰に2人の人物が隠れている」とか、「日本列島は、主として4つの島から成っている」とか、あるいは「本を詰めた箱が2箱と服を詰めた箱が2箱で4箱か、全部一度に運べそうにないな」などというように、基数や数式を私たちの回りの物事に当てはめて考えることがよくあります。これらの数や数式は、数えられるものなら何でも適用できます。数えられるものが具体的対象でなく、抽象的対象でも構いません。

たとえば「この小説の登場人物は、名前の付いているものだけでも女性が83人、男性が39人、合わせて122人もいる」とか「素数のうち、偶数であるものは2だけ、これ1つだけだ」などと言うようにです。

数学や、いわゆる算数を含んだ算術は、2や4などの数学的対象を扱っている学問ですが、それがどうして人物や島や箱について適用できるのでしょうか?

経済学は経済現象だけを扱い、物理学は物理的現象や物質についてだけ扱っているように思われます。少なくとも経済学は経済現象とは見なされないもの、たとえば天の川銀河における恒星の分布状況の理解には適用できません。物理学も物理的現象や物質とは見なされないもの、たとえば紀貫之が『土佐日記』を女性に扮して執筆した理由の分析には適用できません。しかし算術はありとあらゆるものを、数えられさえすれば扱うことができ、適用できます。これは一体なぜなのでしょう? このような問いは、数学、特に算術の応用可能性の問題と言えます。

 

ここまでを振り返ってみると、私たちには二つの問題が提出されたことに気が付きます。一つは「数学的プラトニズムにおける数学的対象の認識論的問題」であり、もう一つは「算術の応用可能性の問題」です。

実は neo-Fregean が立て、そして答えようとしている問題とは、Cook 先生によると、今上げた二つの問題なのだそうです *3 。これらの問題こそが neo-Fregean にとって最終的に答えを出さなければならない哲学的問題だ、ということです。これらの問題に決定的な答えを与えるために、neo-Fregean は論理学や数学を駆使してこまごまとした議論をえんえんとやっている、というわけです。

そこで改めてそれらの問題を簡潔明瞭に定式化してみましょう。そして neo-Fregean によるその答えも記してみましょう。

ただしその答えには、私のほうでまだ説明をしていない言葉も含まれますので、すぐには理解できないところがあるかもしれません。またどうしてそのような答えが出てくるのか説明抜きで記しますので、やはりすぐには理解できない部分もあるかもしれません。それはお読みになられている方のせいではなく、私のせいですので気になさらないでください。いずれにせよとにかく説明抜きで答えも併記してみます。

 

Neo-Fregean が問い、そして答えようとしていることとは何か?

問い

[1] 私たちはどうして抽象的対象としての基数を知っていると言えるのか?

[2] 算術が普遍的に適用可能なのはなぜか?

 

答え

[1] に対する答え。基数は概念と見なすことができるので、抽象的対象としての基数をどうして知っていると言えるのか、という問いに答える必要はなくなる。代わりに、私たちが基数を知るのは、概念を知ることによってである、と答えることができる。

[2] に対する答え。論理学は普遍的に適用可能であり、かつ算術が論理学ならば、算術も普遍的に適用可能である。実際、論理学は普遍的に適用可能であり、算術が論理学であることも証明できる。故に算術は普遍的に適用可能である。また、基数 n を表す二階の概念はちょうど n 個のものに当てはまる一階の概念すべてに (= 普遍的に) 当てはまるが、このことによっても基数が普遍的に適用可能であることが説明できる。

 

論文要約前置き

以上の neo-Fregean による問いと答えの内容を理解していただくため、以下で Cook 先生の論文を構成している各段落をすべて私のほうで要約してみます。(ただし註の要約は省きます。)

要約文中の丸括弧「( )」に入っている数字は段落の番号です。「(1)」なら論文の第一段落目のことです。その後ろに時折「p. 13」のような数字が書かれていることがありますが、これはその段落が論文のそのページに出てくるということです。「(1) p. 13」なら、この第一段落が論文の13ページに出ているということです。また、「(1) p. 13, We shall」のように段落番号の後ろに英単語がいくつかありますが、これはその段落冒頭の数語を記したものです。

要約は、論文で述べられていることについて、私なりに取捨選択を行って書いていますので、論文のすべての内容を漏れなくまんべんなくすくい上げているというものではありません。誰が要約をされても大体似たようになるとは思いますが、それでも私が捨てた内容を別の人なら取り上げて記したり、逆に私が取り上げたことを他の人は捨てて記すなどということがあるかもしれません。一例として、Cook 先生は Frege が行なった基数に対する概念の外延を使った定義を明示的に書き出しておられますが (p. 16)、私は要約の際にただ言及するだけにとどめています。

加えて、要約は翻訳ではありませんので、先生の言葉をそっくりそのまま使って要約しているとは限りません。大体先生の言葉をそのまま踏襲していますが、時々こちらのほうで同じような意味を持った別の言葉で言い直していることがあります。しかし専門用語などは勝手に変えず、先生に従っています。

このようなこともありますので、私の要約を読んだだけで先生の論文を読んだつもりにならないようお願い致します。

 

この論文は、四つの部分から構成されています。順に各部の題名を和訳して上げると、「1. 哲学的・個人的動機 (Motivations philosophical and personal)」、「2. Frege の数学の哲学 (Fregean philosophy of mathematics)」、「3. Neo-Fregean による見取り図 (The Neo-Fregean picture)」、「4. 結論 (Conclusion)」です。大まかに言うと、1. で neo-Fregean による問いが提示されます。そしてこの問いに答えを与えるには Frege の考えを参考にするとよいとされ、そのため 2. で Frege の考えが解説されています。そして 3. では 2. で記した Frege の考えをどのように修正すれば答えが与えられるかが説明されています。4. は論文全体の簡単なまとめです。

言い換えると、論文ではまず問いが立てられ (1.)、この問いに対するほとんど正しい答えを Frege が与えていたのだが、Russell の Paradox によって、その答えに誤りが見つかり (2.)、neo-Fregean がその誤りを正すことで、問いに対する答えを完全なものにした/しようとしている (3.)、という流れになっています。

 

以下の要約では Cook 先生の主張が述べられています。要約している私が主張していることではありません。明らかに私による補足となっている表現には角括弧「[ ]」に入れてあります。しかし、角括弧でくくっていなくても多少私の解釈の入っている文がところどころ見られることは否定できません *4 。ですが、以下の要約は原則として Cook 先生が主張されていることですので、文体は「です、ます」ではなく、「である、だ」を使っています。

それでは要約に入ります。誤解や無理解に基づく要約があったなら、大変すみません。あらかじめ、お詫び致します *5

 

論文各段落要約
1. 哲学的・個人的動機

[この第1節では次のことが述べられています。Neo-Fregean は、数学的プラトニズムを支持する際に脅威となる認識論的問題に答えるため、Frege の哲学と技術的戦略を採用・援用する。]

(1) p. 13, We shall
数のような抽象的対象が存在するとする数学的プラトニズムは、正しいと仮定する。

(2) What I
存在論としての数学的プラトニズムにとって重要なのは、これに挑んでくる認識論的問題である。すなわち私たちはどのようにして抽象的な対象と関係に入り、それについて知ることができるのか?

(3) There are
存在論としての数学的プラトニズムにとって、この認識論上の問題に答えることは重要である。なぜなら数学的プラトニズムにまともな認識論が欠けているなら、そのプラトニズムは神秘主義に過ぎないからである。

(4) p. 14, Thus,
数学的プラトニズムに対する認識論的問題に答えるには、誰の考えを参考にすればよいのか? それは Gottlob Frege である。

(5) Frege's
Frege の論理主義は Russell の Paradox により潰えた。しかし彼の哲学上の考えにはまだ参考になるものが含まれている。彼の論理体系は技術的な問題を抱えているが、neo-Fregean の手により、これは修正可能である。

(6) Thus,
こうして我々のねらいは、Frege の論理主義のうち、今もって正しいものは何かを明らかにし、これを現代の neo-Fregean の手で活かすことである。

(7) The first
Neo-Fregean は、Frege の論理主義と自分たちの試みとが技術的な点で似ていることを強調し過ぎる。どちらも抽象原理 (abstraction principle) を使い、数学理論の公理を導出するという点で、確かに技術上の平行関係は存在するが、重要なのはそこではない。本当に重要なのは、両者が同じ哲学を共有していること、どちらも方向性を同じくし、目指しているところも同じであるという点である。両者が共有している重要点は、数学の分析性は数学を論理学+定義に還元することで説明できるとすること、および数学的プラトニズムが直面している認識論的問題は、この還元を遂行することにより解決できるとすることである。

(8) p. 15, Second,
Neo-Fregean は自分たちの試みが Frege の論理主義と技術的に似ているだけで、その精神はまったく別物だと主張してきた。しかしはっきり認めよう。Neo-Fregean の試みは、やはり Frege に端を発する論理主義の一つなのである、と。

(9) Finally,
紙数の関係で多くの技術的・哲学的問題に触れることができない。認識論上の一般的問題に特化する。また数学の中でも算術にだけ集中し、集合論解析学などには触れない。

 

2. Frege の数学の哲学

[この第2節では、次のことが述べられています。Frege の数学の哲学における彼の目標と、この目標を達成するために Frege が採る技術的戦略。]

(10) Before
Kant が算術を総合的であるとしたことに反対することが Frege の目標である。そのための手段として算術を論理学に還元する。論理学は分析的である。算術を論理学に還元できたなら、算術も分析的である。

(11) Frege's
Frege による算術の論理学への還元は、二つのステップを踏む。

  〔1〕 基数などの算術の概念を、論理的とされる観念で定義する。

  〔2〕 この定義を基に、算術の真理が論理的真理だと証明する。

(12) As noted
Aristotle による論理学の枠内にいた Kant は、分析性を狭く取っていた。そして存在命題を分析的ではあり得ないとした。しかし論理学を拡張した Frege は、分析性を広く取り、存在命題も分析的であり得るとした。

(13) p. 16, Frege's
算術を論理学として再構成する Frege の試みは、基本法則 (V) (= BLV) から始まる。

  BLV: (∀X)(∀Y)[§X = §Y ⇔ (∀z)(Xz ⇔ Yz)]

§ は抽象演算子 (abstraction operator) と呼ばれ、概念から対象としての外延へと写像する関数である。そして Frege は基数を外延の一種として定義する。この定義から Hume の原理 (Hume's Principle) が出る。

  (HP): (∀X)(∀Y)[#(X) = #(Y) ⇔ X ≈ Y]

[# は概念から対象へと写像する関数であり、#(X) は「X の数」と読まれ、] ≈ は全単射の関数である。

この (HP) と、ゼロ、後者などの定義から Peano の公理が出る。このことは Frege の定理 (Frege's Theorem) と呼ばれる。したがって二階の論理と BLV から二階の Peano 算術が出る。こうして算術が分析的であることを証明し得たかのように見えたが、しかし Russell の Paradox により、この証明は潰える。

(14) p. 17, This is
これが Frege の論理主義の盛衰である。BLV に技術的な問題があり、これに依拠するすべての証明が疑わしい。ならば、何が正しいものとして残っているのか?

(15) In order to
それを明らかにするには彼の哲学的な考え方を見る必要がある。彼の目的は、算術が分析的であることを示すことにある。算術を論理学に還元するのは、この目的を達成するために過ぎない。ではなぜこれほどまでに Frege は算術の分析性を重要視するのか? 注意すべきは、Frege にとって分析性は認識論的な観念だったということである。彼にとってアプリオリ、アポステリオリ、分析性、総合性の区別は、判断の内容にではなく、判断の正当性に関わる。彼にとり分析的である、アプリオリであるとは、

  判断 Φ が分析的である ⇔ Φ は、論理法則と定義にだけ依拠した証明を持つ

  判断 Φ がアプリオリである ⇔ Φ は、自明で一般的である真理にだけ依拠した証明を持つ

ということになる。分析的である論理法則と定義のすべては、自明でかつ一般的な真理なのでアプリオリでもあるが、アプリオリな真理がすべて分析的真理とは限らない。Frege にとり幾何学の法則はアプリオリだが、論理以外の幾何学的直観に依拠しているので分析的ではない。

(16) p. 18, A partial
以上から、なぜ Frege が算術の分析性を重視したのかという問題に一部答えを与えることができる。その理由は、もしも算術が分析的ではなく総合的だったなら、算術は論理学以外の特定の学問に基づくことになるからである。しかしたとえ特定の学問とはいえ、その学問が一般的真理を扱う学問で、それ故これに基づく算術が分析的ではなくともアプリオリであったなら、それでいいのではないだろうか? アプリオリなだけではいけないのだろうか? いけないのである。その理由は Frege が順守している次の制約による。

 Frege の制約 (Frege's Constraint)

  数学的概念の正しい分析は、その概念の応用の考察に基づく。

               (応用を考察することによって行われる。)

つまり数学上の概念を正しく分析するためには、数学が応用可能であることを考慮しなければならない、ということである。算術も解析学もあらゆるものに適用可能である。算術は数えられるものなら何であれ適用される。解析学は量を計れるものなら何であれ適用される。

(17) p. 19, After noting
幾何学の公理の一つを否定しても、必ずしも混乱に陥るとは限らない。しかし算術の基本的な法則を否定すると、たちまち混乱に陥る。そして算術は数えられるものすべてに関わる。これには考えられるものすべてが含まれる。思考の法則も、それを否定するとたちまち混乱に陥るように思われる。またこの思考の法則は、数えられるもの、考えられるもの、すべてに関わる。とすると、算術の法則は、思考の法則、すなわち論理法則と緊密に結び付いているのではなかろうか? あらゆるものに関わる論理学と論理的語彙のみからなる定義だけに依存し、これら論理学と定義に算術は還元されて、他の特定の学問に基づかないとするならば、算術の法則が否定されるとすぐに混乱に陥ること、算術があらゆるものに適用可能であること、これらのことが説明可能となる。したがって算術はアプリオリなだけでなく、分析的でなければならないのである。

(18) Thus,
こうして Frege にとって算術が分析的であるとするのは、その方がより確かな基礎の上に算術が築かれることになるから、なのではない。算術が分析的ではないとすると、算術が論理学のように、ありとあらゆるものに適用、応用可能であること、すなわちその完全な一般性と普遍的な適用可能性 (complete generality and everywhere applicability) が説明できなくなるからである。

(19) Frege goes

[この段落で Cook 先生は図を使っておられるためか、説明がかなり簡略になっている感じがします。そこでこの段落では、先生が直接述べておられないことを私のほうで多数補って要約します。以下に出てくる信号の色、オリンピックのメダル、ジャンケンの手という例や、「三的である (three-ary)」などなどは、私が補足したものです。]

Frege にとって数と二階の概念とは密接に結び付いている。数3を例にとって、図を使い、説明しよう。

P1, P2, P3 は何らかの概念を表わしている。P1 は、たとえば信号の色という概念を表わす。P1 の下の三つの〇印は、P1 という概念が当てはまるもの、対象を表わす。

P1 が信号の色という概念ならば、P1 の下の三つの〇は、それぞれ赤、黄、青色を表わしている。

また P2 は、たとえばオリンピックのメダルという概念を表わす。そうすると、その下の三つの〇は、金、銀、銅メダルを表わす。

また P3 は、たとえばジャンケンの手という概念を表わす。すると下の三つの〇は、グー、チョキ、パーを表わす。

さて、今上げた P1, P2, P3 すべてに共通する特徴とは何だろうか? それは P1, P2, P3 のどれもが、ちょうど三つのものに当てはまっている、ということである。そこで、概念がちょうど三つのものに当てはまっている時、そのような概念は「三性 (Three-ity) という特徴を持っている」、あるいは少し手短に「三性を持つ」と言うことにしよう。そうすると、P1 の信号の色、P2 のオリンピックのメダル、P3 のジャンケンの手という概念は、どれも三性を持っていることになる。

ここで、図の一番下の〇印が表わしている対象を、0階のレベルにある、と言うことにすれば、これに当てはまる概念 P1, P2, P3 は一階の概念である、と言える。そして、これら一階の概念 P1, P2, P3 に当てはまる「三性を持つ」という概念は二階の概念である、と言えよう。

今、図の中では一階の概念は P1, P2, P3 の三つしか書かれていない。しかし P4, P5, ... などがあり得る。三性を持つという概念は、P1, P2, P3, P4, P5, ... などのすべてに当てはまる概念である。これらすべてを尽くしている。そして P1, P2, P3, P4, P5, ... すべてに共通している特徴は、ちょうど三つのものに当てはまる、ということであるから、三性を持つという二階の概念は、数3の特徴をうまく捉えていると言えるだろう。したがって、三性を持つという二階の概念を数3と見なして差し支えないように思われる。

こうして数とは二階の概念のことだと考えられそうだが、Frege はそのようには見なさない。彼にとって数とは概念ではなく対象である。Frege において概念と対象は、どのように違うのだろうか? 彼の考えでは、対象とは同一性が問えるものである。それに対して概念については同一性は問えない。たとえば「2+2=4」という同一性を述べた等式の右辺に数字の「4」が現れているが、これは数の4が同一性を問えるものだということを表わしている。その一方で概念を表わす「三性を持つ」という表現は、等式の各辺には現れない。無理に等号の左右に書き込めば、全体として非文法的な表現となってしまう。したがって、Frege によれば、概念は対象ではない。よって、概念は数ではない。

だが、三性を持つというような二階の概念は数3の特徴を捉えている、ということも確かである。そこで、この二階の概念を使って対象としての数3を、そこからいわばひねり出してやればよい。それには以下のようにする。

まず、三性を持つという二階の概念を用意する。次にこれが当てはまる一階の概念 P1, P2, P3, ... を列挙する。そして基本法則 (V) の左辺にある値域オペレータ (§) を持ってくる。

§ は一階の概念を入力すると、その外延を出力する関数である。そこで一階の概念 P1 を § に入力すると、その外延である赤、黄、青色の全部が出力される。この外延を §(P1) で表わす。P2 についても、それを § に入力すれば、その外延である金、銀、銅メダルの全部が出力される。これは §(P2) として表わされる。P3 以下、同様に入力すれば同様の出力を得る。

こうやって出てきた外延 §(P1), §(P2), §(P3), ... は、一階の概念 P1, P2, P3, ... の代理物である。P1 の代理物が §(P1) であり、P2 の代理物が §(P2) であり、以下続いて行く。これを少し言い換えるなら、一階の概念 P1 を値域オペレータ (§) に入れると P1 は消え、代わりに外延 §(P1) が出てくるということであり、P2 を § に入れると P2 は消えて、代わりに §(P2) が出てくるということであり、以下同様となる。こうして一階の概念 P1, P2, P3, ... はすべていわば消え去り、代理物の外延 §(P1), §(P2), §(P3), ... が残ることになる。Frege によると、これらの外延は (0階の) 対象である。

ところで、二階の概念である三性を持つという概念は、§(P1), §(P2), §(P3), ... などの対象には当てはめることができない。なぜなら二階の概念が当てはまるのは一階の概念であって、0階の対象ではないからである。(一階の概念は0階の対象に当てはまる。) そこで、残っている対象としての外延 §(P1), §(P2), §(P3), ... すべてに当てはまる一階の概念を新たに考える。そのような一階の概念を「三的である (three-ary)」と呼び、Q と略記しよう。すると Q は、§(P1), §(P2), §(P3), ... すべてに当てはまる一階の概念だ、ということになる。これを表わすのが次の図である。

ここに出てきている §(P1) とは、赤、黄、青色全部のことだった。§(P2) は金、銀、銅メダル全部である。§(P3) 以下同様である。これを見ると、三的であるという一階の概念 Q は、ちょうど三つのものに当てはまっていた概念の外延すべてを尽くしており、三性を持つという二階の概念と同じく数3の特徴を捉えていると考えられる。

そこで再び基本法則 (V) の値域オペレータ (§) を持ってきて、今の一階の概念 Q をそこに入力してやれば、Q の外延 §(Q) が得られる。外延は対象であった。一階の概念 Q は数3の特徴をうまく捉えている。ならば、この Q を § に入力して得られた対象としての外延 §(Q) を、数の3と見なせばよい。すなわち §(Q) = 3 である。これが我々の欲していた対象としての数3である。

(20) p. 20, This reduction
以上により、Frege は二つのことを成し遂げている。一つは数を不特定のものではなく、特定の対象として手に入れている、ということである。もう一つは二階の概念を対象としての数に還元したが、逆に対象としての数を二階の概念として復元することも可能とした、ということである。これは二階の概念と対象との間を往復可能なものにした、ということである。

(21) As a result
この結果、対象としての数について語ることを、二階の概念について語ることへと捉え直すことができる。対象としての数についての語りを、二階の概念についての語りに言い換えることができる。数を対象ではなく概念と見なすことができるわけである。そうすると抽象的な対象としての数について知るということは、概念について知るということになる。特殊な直観で抽象的対象と神秘的関係に入る必要はない。[しかも数と見なしうる二階の概念は論理学的語彙のみからなる論理的概念である。もしも論理的概念は特別な経験がなくても論理的能力さえ身に付けていれば把握でき、知ることができるものだとするならば、抽象的対象とされる数を知るには特殊な直観や神秘的な能力を用いずとも、ただ論理的能力さえあれば知れるということになる。] こうして私たちは、どうして抽象的な対象としての数を知ることができるのか、という当初の問いに答えられたことになる。しかし以上は基本法則 (V) に依存することによって達成できる成果である。(V) に頼るわけにはいかない。いかにして neo-Fregean は (V) に頼らず、それでいてここまでの成果を死守できるだろうか?

 

3. Neo-Fregean による見取り図

[この第3節では、次のことが述べられています。Neo-Fregean は、第2節で叙述された Frege の哲学的目標を同じく共有し、この目標を達成するための Frege による技術的戦略もほとんどそのままなぞりつつ、しかし一部修正を加えることで、Russell Paradox に倒れた Frege の目標を実現する。]

(22) p. 21, Before
この節で述べることは Neo-Fregean の公式見解ではない。ここでは筆者自身の見方を示す。

(23) p. 22, In my
Neo-Fregean の第一のねらいは、算術の分析性を擁護することで、数学がアプリオリであることを説明することである。Neo-Fregean も Frege と同様、「分析性」を認識論的なものと見ている。Neo-Fregean の戦略も Frege と基本的に同じである。Neo-Fregean が Frege と違うのは、前者は基本法則 (V) を捨て、それを代わりのもので補う点である。

(24) From a
技術的な点に関し、neo-Fregean は Frege の論理的手続きをほとんどそのまま踏襲する。Frege と違うのは (HP) を他から証明するのではなく、それをそのまま真理として認めるところである。Neo-Fregean にとって (HP) は基数という概念のインプリシットな定義なのである。(HP) を立てたあとは、ゼロや後者などを論理的に定義して、Peano の公理を導くだけである (Frege の定理)。

(25) The real work
Neo-Fregean にとって、本当の仕事が始まるのはこのあとである。上記の筋に沿って哲学を展開する必要がある。重要なことは、neo-Fregean も Frege も「分析性 = 論理学+定義」としているところなのだが、この場合、両者は何を論理学とし、何を定義としているのかについて違いがある。

(26) The logic
Neo-Fregean にとって、論理とは標準的な二階論理か、または二階論理の自由論理 (free logic) 版である。Frege の論理はもっと強力なものである。また neo-Fregean にとって定義にはインプリシットな定義も含まれるが、Frege にとっては明示的な定義だけが定義である。Neo-Fregean は定義にインプリシットなものも含めることで、Frege のものよりも弱くなった論理を補っている。この結果、neo-Fregean と Frege との間では分析性に違いが出てくる。

  Neo-Fregean にとっての分析性

   NFA: 言明が neo-Fregean 分析的 (Neo-Frege-Analytic) である

         ⇔ その言明は (二階の) 論理と (インプリシットな) 定義から証明できる。

  Frege にとっての分析性

   FA: 言明が Frege 分析的 (Frege-Analytic) である

        ⇔ その言明は (Grundgesetze の) 論理と (明示的) 定義から証明できる。

Neo-Fregean は NFA のインプリシットな定義として (HP) を認めるが、Frege は FA に従って、そのような (HP) を定義としては認めない。これが両者の大きな違いとなる。

(27) p. 23, Before
なお、NFA はまだ十分適切な定義とは言えない。NFA のインプリシットな定義は、(HP) や基本法則 (V) と同じ形をした、次のような抽象原理でなければならない。

    (∀α)(∀β)[@(α) = @(β) ⇔ E(α, β)] *6

(α、β は対象または一階の概念などを走る変項であり、E は同値関係である。)

しかも NFA のインプリシットな定義は、抽象原理ではあっても (V) を除外したような原理でなければならないのである。

(28) The notion
Frege と neo-Fregean の分析性の概念は、認識論的なものである。だが、分析性に対しては Quine により疑いの目が向けられてきた。Quine による分析性の定義は次である。

  Quine にとっての分析性

   言明が Quine 分析的 (Quine-Analytic) である

     ⇔ その言明は、それを構成する表現の意味によって真である。

この Quine の分析性は、意味論的なものであって、認識論的なものではない。よって Quine による分析性批判は、Frege と neo-Fregean の分析性には当らない。こうして neo-Fregean は、論理と定義の範囲を確定すれば、ひとまず安心して分析的真理の範囲を確定できるようになる。

(29) p. 24, This is
しかし、論理が何であるのかを特定するのは比較的問題がないとしても、定義としてどのような抽象原理が受け入れ可能なのかについては、Bad Company (悪いやつら/悪い仲間/悪党) による反論のせいで、その受け入れ基準がまだわかっていない。

(30) p. 25, In a nutshell
Bad Company による反論とは次である。基本法則 (V) のようないくつかの抽象原理は、受け入れ可能だと思われる (HP) と両立しない (incompatible) ので、望ましい抽象原理ではない。[望ましくない (V) と望ましい (HP) とをどう区別できるというのか?] この反論にはまず以下のように答える。受け入れ可能であるインプリシットな定義とは、矛盾を帰結するものであってはならず、(HP) と整合的 (consistent) なものでなければならない。しかしこれではまだ不十分である。抽象原理 A と (HP)、抽象原理 B と (HP) はそれぞれ整合的だが、A と B とが互いに整合しないというそのような抽象原理 A, B があるからである。これはもっと基準を厳しくしなければならないということである。

(31) Note that
Neo-Fregean が算術の分析性を証明したいとしても、neo-Fregean 分析的 (NFA) のインプリシットな定義としてどのような抽象原理が許されるのかが決まらなければ、その証明は達成し得ない。抽象原理の受容の可否を決める基準が何なのか、neo-Fregean はまだわからないでいるが、いずれわかるものと筆者は信じている。

(32) The present
受容可能な抽象原理の基準として有用なものが二つ上げられている [以下の保存性と安定性?]。一つは C. Wright が上げたもので「抽象原理は保存的 (conservative) でなければならない」というものである。これは、抽象原理はこの世にあるものの数に関与するようなものであってはならない、というものである。[あるいは抽象原理をある理論に追加しても、追加前にあったものの数に、理論の上で、影響を与えるものであってはならない、というものである。] Neo-Fregean にとって受容可能な抽象原理とは、そもそも論理的語彙からなるものであり、完全な一般性と普遍的な適用可能性を持っていなければならなず、Wright の上げた保存性はこの基準に適っている。しかし保存的でありながら、互いに整合しない抽象原理 A, B があることがわかっているので、保存性という基準だけでは抽象原理受容の基準としては十分ではない。

(33) p. 26, Unfortunately,
受容可能な抽象原理は何か、という問題を追究する研究は、極度にテクニカルになってきている。そのため、この問題を追究しているのは、認識論的問題に答えるためだ、という当初の動機が忘れられがちである。

(34) For example,
たとえば受容可能な保存的抽象原理は融和的 (irenic) でなければならない、または安定的 (stable) でなければならない、という基準が提案されている。前者の融和性 (irenicity) とは、受容可能な保存的抽象原理はどれも、すべての保存的抽象原理と整合的でなければならない、とするものだが、この基準は認識論の問題に答えることを念頭において考えられているものではない。それどころかこの基準には難点がある。もしも受容可能な保存的抽象原理が二つしかなく、互いに不整合だとすると、少なくともどちらか一方だけ却下すればよいはずだが、融和性を基準に採れば、どちらもただちに却下しなければならないことになってしまう。

(35) The problem
どのような認識論的な特徴があれば抽象原理は受容可能となるのか、という哲学的問題から目をそらし、どうすれば整合的な抽象原理が得られるか、という技術的問題にばかり目を向けているのは間違っている。

(36) Instead,
考えるべきはインプリシットな定義一般の認識論であり、特に抽象原理の認識論である。受容可能な基準がどのようなものになろうとも、それは認識論上の問題に答えられるものでなければならない。そのためにはまず最初に明らかにされるべきなのは、どんな認識論的特徴を抽象原理はもっていなければならないか、ということであり、その次にこれに沿って受容可能な抽象原理を定式化することである。これがうまくいけば Bad Company による反論も自ずと片が付くだろう。

(37) p. 27, The present
以上を踏まえて一つの方向性を示すと以下のようになる。まずは Frege の制約を真剣に受け止めることである。そうすれば算術の完全な一般性と普遍的な適用可能性について理解が深まるだろう。この過程でまた受容可能な抽象原理も完全に一般的で普遍的に適用可能なものとして、より一段と明確に定式化し直されるだろう。そこに含まれる数学的概念以外には何らの情報ももたらさないような原理として先鋭化されるだろう。この点で保存的であることは抽象原理に必要な基準だが十分な基準とは言えない。

(38) Setting aside
こうして認識論的観点を見失わないならば、neo-Fregean は、Frege の元々の考えに沿って、算術を再構成できるだろう。そのためにはまず Frege の制約を受け入れることである。特に数学的概念の正しい分析は、その応用を考察することから始まると認めることである。

(39) More specifically
とりわけ neo-Fregean が Frege に同意するのは、算術の応用が二階の概念と深く結び付いていること、それにその応用は完全に一般的で普遍的に適用可能であること、つまり「三性を持つ」のような二階の概念が、ちょうど三つのものに当てはまる一階の概念の、その「すべて」に当てはまるということ、このことである。

(40) Thus,

[この段落と次の段落では、Cook 先生は図を使って説明されておられますが、なくても何とか要約できると思われましたので、ここでは図を省いています。]

こうして neo-Fregean は、二階の概念が基数とどのように関係しているのかを説明しなければならない。ただしその際、Frege のように基本法則 (V) を持ち出して二階の概念を基数とされる概念の外延に還元して両者を関係付けることはできない。

(41) p. 28, Fortunately
Neo-Fregean は基本法則 (V) の代わりに (HP) を持ち出す。(HP) は基数についてのインプリシットな定義である。そこでこの定義を立てる。(HP) によれば、たとえば「三性を持つ」というような二階の概念が当てはまるすべての一階の概念は [(HP) の基数オペレータ (#) により] 同じ一つの対象に写像される。これが基数 3 である。言い換えれば、「三性を持つ」という二階の概念が当てはまるすべての一階の概念はどれも同じ数のものにだけ当てはまるのであるが、その数が基数 3 である、ということである。このような基数があるということは、(HP) が受容可能であるインプリシットな定義であることにより保証される。

(42) p. 29, In addition
以上により、neo-Fregean は、Frege と似た形で、認識論上の問題に答えることができる。

(43) First
まず第一に、抽象的対象である基数の知識を得るために、因果関係に入れない対象と不可思議な関係を取り結ぶ必要はなくなり、一階と二階の概念の知識を得るだけでよい、ということになる。[なぜならば、(HP) の左辺の基数オペレータ (#) を使って指されている基数は、(HP) の右辺における概念同士が同値であることを知れば、知れることになるからである。] これは neo-Fregean にとって最も大切な点である。つまりプラトニズムを汚染している認識論的問題において、抽象的対象をどう知るか、という問いから、概念をどう知るか、という問いへ論点をシフトしてみせることが neo-Fregean のねらいなのである。

(44) Of course
もちろんこの際に neo-Fregean にとって必要な算術の知識は論理の知識と (受容可能である) インプリシットな定義の知識である。

(45) Second
第二に、neo-Fregean にとって算術は二階の論理と (HP) から帰結することにより、算術の知識は、二階の論理と (HP) が享受する認識論的利点のすべてを同じく享受できるようになるのである。

(46) Finally
最後に、neo-Fregean にとって算術の認識論は、論理+定義というより大きな認識論の一部に過ぎないことになる。Neo-Fregean が認める二階の論理とインプリシットな定義は完全に一般的で普遍的に適用可能なものだから、そのような論理と定義から帰結する算術の応用についても話題中立的 (topic neutral) で普遍的に適用可能なものになるのである。

(47) It is worth
Frege が算術を論理学に還元しようとしたのは (認識論的問題を解くために) 算術をアプリオリで完全に一般的なものとして示したかったためである。Neo-Fregean も Frege のこのラインを踏襲し、算術を論理学に還元する。還元先の論理学は二階の論理だが、neo-Fregean にとって二階の論理は厳密な意味での「論理」である必要はない。必要なのは、二階のシステムから出てくる結論としての式が、アプリオリに知られうるものであり、その式が完全に一般的で普遍的に適用可能であればよいのである。

 

4. 結論

(48) p. 30, The important
Frege の論理主義と neo-Fregean の論理主義との類似点として重要なのは、両者が技術的な側面において平行関係にあることではなく、両者がプラトニズムを認識論の脅威から守るという同じ哲学的プロジェクトを共有しているという点にある。Neo-Fregean は基本法則 (V) を捨て、インプリシットな定義を採用するが、こうすることによって算術を論理学に還元するという Frege のアイデアを保持しようとしているならば、neo-Fregean の試みもやはり結局論理主義の一つなのである。

 

Neo-Fregean の問いと答え再考

以上を踏まえ、もう一度、Neo-Fregean によると問いと答えを少し詳しく見てみましょう。

このあと、ところどころ記されている「p. 29, (46)」のような数字は、そこで述べられていることが、Cook 論文の29ページの、段落番号46に出てくる、ということです。

再び文体は「である、だ」を使います。

 

Neo-Fregean が問い、そして答えようとしていることとは何か?

問い

[1] 私たちはどうして抽象的対象としての基数を知っていると言えるのか? p. 13, (2)

[2] 算術が普遍的に適用可能なのはなぜか? p. 19, (18)

 

答え

[1] に対する答え。基数は概念と見なすことができるので、抽象的対象としての基数をどうして知っていると言えるのか、という問いに答える必要はなくなる。代わりに、私たちが基数を知るのは、概念を知ることによってである、と答えることができる。p. 29, (43), (pp. 20-21, (21))

この答えに対する補足説明

Frege も neo-Fregean も、基数は、概念を使って定義できる、概念で定義できる、と考えるので、この定義で使われる概念を知れば、基数も知れる、ということになる。たとえば、a を実数とする時、a の平方根とは、二乗すると a になる数のことだ、として定義される。そして実際私たちは平方根を習う時、この定義を通じて平方根の何たるかを知るのである *7

Frege の考え方によれば、基数は、概念の、その外延として定義されるので、基数は概念を通じて知ることができる、と言える *8

Neo-Fregean の考え方によれば、基数は、概念の、値域オペレータによる像として (HP) により定義されるので、基数は概念を通じて知ることができる、と言える。

以上により、基数が概念によって定義できることが要となる。

 

[2] に対する答え。論理学は普遍的に適用可能であり、かつ算術が論理学ならば、算術も普遍的に適用可能である。実際、論理学は普遍的に適用可能であり、算術が論理学であることも証明できる。故に算術は普遍的に適用可能である。p. 29, (46), (pp. 20-21, (21), p. 19, (17)) また、基数 n を表す二階の概念はちょうど n 個のものに当てはまる一階の概念すべてに (= 普遍的に) 当てはまるが、このことによっても基数が普遍的に適用可能であることが説明できる。p. 27, (39)

この答えに対する補足説明

今、次のように述べた。

(a) 論理学は普遍的に適用可能であり、かつ (b) 算術が論理学ならば、(c) 算術も普遍的に適用可能である。

この (a) の「論理学は普遍的に適用可能である」は、大方の賛同を得ることができるだろう。

(b) の「算術は論理学である」とは、算術の真理が論理学と論理的語彙のみからなる定義だけを使って証明できる、ということである。(以下、「論理的語彙のみからなる定義」という表現は省略する。)

言い換えれば、算術が論理学であるならば、算術の真理は論理学だけを使って証明でき、かつ (d) 算術の真理が論理学だけを使って証明できるならば、算術は論理学である、ということである。

Frege によると、論理学だけを使って証明できるものは分析的である。

言い換えれば、何かが論理学だけを使って証明できるならば、その何かは分析的であり、かつ (e) 何かが分析的であるならば、その何かは論理学だけを使って証明できる、ということである。

そうすると、(e) により、(f) 算術の真理が分析的であるならば、算術の真理は論理学だけを使って証明できる。

それ故、(f) と (d) により、算術の真理が分析的であるならば、算術は論理学である。

したがって、算術の真理が分析的であることを証明できれば、算術が論理学であることも証明できる。故に、算術が分析的であることを証明することは大切である。このことの証明によって、(c) の「算術の普遍的適用可能性」も証明されるからである。だから、Frege も neo-Fregean も算術の分析性証明に熱を入れるのである。

 

[1] に対する答えと [2] に対する答えとの関係

[1] に対する答え「基数は概念を使って定義できるから」と [2] に対する答え「算術の真理は論理学だけを使って証明できるので、算術は論理学だと言えるから」とは、互いにどう関係しているのか?

基数を Frege や neo-Fregean がするように、しかるべく概念を使って定義するならば、この定義を援用することにより、算術の真理を論理学だけで証明できるようになる。つまり、基数を概念で定義することにより、基数を知ることは概念を知ることだ、と言えるようになるとともに、その定義を使えば論理学から算術の真理をうまく引き出すことができ、算術が論理学であることを証明できて、算術の普遍的適用可能性が説明できるようになる、というわけである *9

 

疑問点三つ

ここで、この論文を読んで私が感じた疑問をいくつか記してみます。ただし、記す疑問はほんの三つのみに限定し、重要なものや誰もが思い付くものだけにしておきます。

また、Frege の哲学や論理学の解釈として、Cook 先生のなされている解釈は正しいのかどうか、という疑問も省き、先生の解釈は正しいものと仮定しておきます。

 

疑問 I. まず真っ先に問われねばならない疑問とは次でしょう。

この論文では、基数を知るとは何らかの抽象的対象を知ることではなく、概念を知ることなのだ、とされています *10 。このことが neo-Fregeanism というプロジェクトの要 (the whole point) だとされています *11 。したがって、基数を知っていると言えるために、いかにして抽象的対象を知っているのか、という問題に心煩わす必要はなくなり、概念を知っていると言えればそれでよいことになります。

しかし、概念はどのように知れると言うのでしょう? 具体的対象でも抽象的対象でもない概念なるものを、どうやったら知れると言うのでしょうか?

「概念はどうしたら知れるのか?」と問われれば少し面食らってしまいますが、ものの性質は概念でもあるので、今の問いを「性質はどうしたら知れるのか?」に直せば、とまどいの度合いは多少減じるでしょう。そして実際に数は性質だと主張する立場もあるので *12 、数は性質としてどのように知れるのか、という問いに答えればよいことになります。

とはいえ、そもそも性質はどうしたら知れると言えるのでしょう? 抽象的対象を知っていると言うことを説明するよりも、性質を知っていると言うことを説明することのほうが、ずっと簡単なのでしょうか? 素朴に考えるならば、ものを知っていることを説明するよりも、性質を知っていることを説明することのほうが難しいと感じられるのですが、どうでしょう? 抽象的対象はどうして知れると言えるのか、という問いから、概念はどうして知れると言えるのか、という問いへ切り替えることは、実は問題に対する回答を単に先送りにしただけではないのでしょうか?

実際、Cook 先生は論文 p. 31, 註18で、「数を知ることは抽象的対象を知ることではなく概念を知ることなのだ」という答えが満足のいくものかどうかは、概念をどのように見なすかによる、と述べておられます。そして概念とはどういうものかについては、この論文で先生はまったく答えておられません。詳細を述べてくださいとまでは言わないので、せめて概念とはどんな感じのものかだけでも示唆していただくか、その余裕もないならば、これに関連する文献を上げてもらえればと感じました。そうしなければ読者は「何だ、振り出しに戻っただけじゃないか」と思いかねないでしょう。そしてこのように思われないためには、本気で概念の認識論を neo-Fregean は展開し、しかも概念を知ることを説明するほうが、抽象的対象を知ることを説明することよりも、ずっと簡単であることを示してやる必要があるでしょう。

 

疑問 II. 次も誰もが気付く疑問でしょう。そして以前からしばしば指摘されている疑問だと思いますが、Cook 論文の p. 28, 段落 (41) に、以下のようにあります。

[T]he existence of this cardinal number is guaranteed by (HP)'s status as an acceptable implicit definition. (この基数の存在は、(HP) が受容可能なインプリシットな定義という身分を備えていることにより、保証されている。)

ここで言われていることとは、つまり、(HP) によって定義しただけで、基数が存在し始める、ということです。

しかし、定義しただけで、何かが存在し出すなどということがあり得るのでしょうか? しかも (HP) は論理的な身分を持っているとされています。それは論理的な語彙のみからなる定義であり、論理学に属するものだということです。そうすると、(HP) で定義すると何かが存在していると言えるようになるということは、論理学の言葉で定義してやれば、それだけで何かが存在し出す、ということです。けれども論理学にそのような力があるのでしょうか? いや、論理学どころか人間の言葉にそのような力があるのでしょうか?

上に引用した文の前後で Cook 先生は、たとえば「いろいろ批判や疑問はあるだろうが」というような留保やためらいをまったく記しておられません。私は neo-Fregeanism の研究をフォローしていないので知らないのですが、定義しただけで何かが存在し出すことが neo-Fregean の手により、最近証明されたのでしょうか? もしも決定的な証明がなされたのならば、それは相当すごいことだと思います。たぶん歴史を画する事件だと言っても言い過ぎではないと思います。そんなすばらしいことが達成されたのでしょうか? 達成されたとするのなら、Russell 伯爵も当初の見解を翻し、「honest toil なんてやっている場合じゃない。Theft に邁進すべきだ」と、定義から存在を引き出す試みに、支持を表明してくれるでしょう *13

それはさておいて、定義から存在が引き出せるとする試みが法外だと思えるのは、一つには、私たちが定義というものを、現代では通常、唯名的 (nominal) なものに限ると見ているからでしょう。かつては唯名的でない real definition もあったので、分析的形而上学が盛んになっている現代において、この real definition を復活させるか更新させれば、今述べている法外さは、少しは軟化するかもしれません。

あるいは、対象という観念を、私たちは経験的、具体的対象を元に理解する傾向が非常に強いので、この傾向を一つの思い込みとして疑問に付してやるならば、つまり、対象とは何であれ、当然因果関係に入れるものなのだ、という先入見を否定し、因果関係に入れないものであってもそれは神秘的なものではなく、立派な対象である、と納得できたならば、先の法外さは、やはり軟化するかもしれません *14

 

疑問 III. 次は、neo-Fregean が算術を引き出す際に、二階の論理を使っていることに対し、持ち上がる疑問です。この種の疑問も以前から指摘されていました。(この疑問 III の話は長いです。前もってお伝えしておきます。)

Cook 先生は論文、p. 24, 段落 (29) において、「the relevant notion of logic is relatively non-problematic (論理の適切な観念については、比較的問題はない)」 と述べておられます。

これはつまり、neo-Fregean が算術を引き出す時に、二階の論理を使うことに関しては、「比較的問題はない」ということです。そしてこの引用文の前後でも、何らの留保もためらいも先生は示しておられません。

それでも先生は論文の終わり近くの pp. 29-30, 段落 (47) で、neo-Fregean にとって二階の論理は、「真に「論理」と呼べるものは何か」などといわれる時の、固有の意味での「論理」でなくともよい、と留保を記しておられます。しかしならが二階の論理が真の論理であろうがなかろうが、やはり二階の論理を使っておられることには疑問が持ち上がると思います。

 

先日、次の論文を拝見させてもらいました。

・ Panu Raatikainen  ''Neo-Logicism and its Logic,'' in: History and Philosophy of Logic, vo, 41, no. 1, 2020.

この論文で Raatikainen 先生は、neo-Fregean が二階の論理を使っていることに対し、疑問を投げかけておられます。そこで以下では、その疑問のポイントを記してみます。

なお、この論文では逆数学の成果を多く援用して neo-Fregean に対し、疑問が提示されているのですが、私は逆数学やそれに関連してくる事柄にまったく無知です。そのため、上の論文を読んでいても、わからないことがたくさんありました。

したがって、ここでの「疑問 III」は、よくわかった上で記しているのではありません。Raatikainen 先生の述べておられることは大筋正しいものと前提し、私のわかったと思える範囲で先生の提示する疑問のポイントを以下に記します。

ですから、私は何か間違ったことを書いている可能性はかなりあります。それ故、この「疑問 III」の話は無批判に受け取らないでください。また、上記論文を細部に渡って正確に理解しているとは言えないので、このあと記す話も定量的ではなく定性的な記述になりがちであることをお許しください。

このようなわけで、この「疑問 III」の内容は「絶対に間違っていない」とは断言できないので、書かれていることが正しいかどうか、確認したい人のために、典拠先のわかる註の類いを多めに付けておきます。

以下の本文中に「(86)」のような丸括弧内の数字がたびたび出てきますが、これは Raatikainen 論文のページ数です。

「疑問 III」の註で、しばしば言及する文献の情報と、その略称をまとめて記しておきます。

・ 田中一之 (逆二)  『逆数学と2階算術』、河合文化教育研究所 / 河合出版、1997年、
・ 田中一之 (数超)  『数の体系と超準モデル』、裳華房、2002年、
・ 田中一之 (数序)  『数学基礎論序説』、裳華房、2019年、
・ 田中一之編著 (数講)  『数学基礎論講義』、日本評論社、1997年、
・ 戸田山和久 (戸田山)  『論理学をつくる』、名古屋大学出版会、2000年、
・ Stephen G. Simpson (Simp) Subsystems of Second Order Arithmetic, 2nd ed., Cambridge University Press, 2009.

註の中で「逆二 35」などとあれば、それは田中一之先生の『逆数学と2階算術』、35ページを参照ください、ということです。

それでは「疑問 III」の本文に入ります。

 

Neo-Fregean は二階の論理に Hume's Principle (HP) を公理として追加することで、算術 (自然数論から実数論まで) を手に入れようとしています。Raatikainen 論文は neo-Fregean が算術を確保するのに二階の論理を使っていることを問題視しています。どういうことか、簡単に説明してみましょう。

ロビンソン算術 (Robinson arithmetic) と呼ばれる理論があります。この算術は通常 Q と略称されます。この Q は自然数の足し算と掛け算を行なうことのできる理論です *15 。ただし非常に弱い理論であって (86) *16 、1 + 1 = 2 などの個々の数式について証明することはできますが、すべての自然数 x, y について、x + y = y + x である、というような、誰もが知っている一般的な主張を証明することは、多くの場合、できません (86) *17 。そのためこの理論は、言ってみれば「小学生の算数」レベルのことをするのがせいぜいで *18 、実質的に数学をすることはできません (86)。Q はそれぐらい弱い理論です。ここで Q の公理を上げてみましょう (86) *19

Axioms of Q

   1. ¬(0 = S(x))
   2. S(x) = S(y) → x = y
   3. ¬(x = 0) → (∃y)(x = S(y))
   4. x + 0 = x
   5. x + S(y) = S(x + y)
   6. x × 0 = 0
   7. x × S(y) = (x × y) + x *20

S は「~の次」、「~の後者」という意味です。ですから S(0) は「0 の次」、「0 の後者」、つまり 1 のことです。

この七つの公理のうち、1. では次のことが述べられています。0 はどんな数の後者でもない。2. は、後者同士が等しい数は、前者同士も等しい。3. は、0 以外の数 x は何らかの数 y の後者であって、よってその前者 y がある。4. は、どんな数に 0 を足しても、その数のままである。5. は、たとえば 2 + S(7) は S(2 + 7) である。つまりどちらも 10 ですね。6. は、どんな数に 0 を掛けても 0 になる。7. は、たとえば 2 × S(7) は (2 × 7) + 2 である。つまりどちらも 16 です。

そしてこの算術 Q の論理 (underlying logic / background logic) は古典一階述語論理です (87) *21 。以下、理論の underlying logic のことを、便宜上、ここでは「基底論理」と訳しておきます。

次に、この Q の公理に、以下の帰納法の公理 (Induction Axiom) を追加します。

   (IA)  (0 ∈ X ∧ ∀n(n ∈ X → S(n) ∈ X )) → ∀n(n ∈ X).

これは公理図式 (axiom schema) ではありません。ただの公理です (87) *22 。こうやって、Q の公理に (IA) を追加した理論を Raatikainen 先生は Q+ と呼んでおられます (87-88)。この Q+ の基底論理として Raatikainen 先生は Basic Calculus というものを採用しておられます (87-88)。この Calculus については後ほどごくごく簡単に触れます。

Q と Q+ との関係ですが、Raatikainen 先生によると、Q+ は Q の保存拡大 (conservative extension) になっているとのことです (88)。つまり Q+ で証明される定理は Q でも証明され、Q+ で証明されるのに、Q では証明されないというような定理はない、ということです。このため、Q+ は Q と同じ力しかなく、Q+ は Q と同じく非常に弱い理論だということです (88)。したがって Q+ でも、Q と同様に、実質的に数学をすることはできません (88)。

ここで、非常に弱い理論 Q+ の基底論理を、よく知られた論理学の教科書や、著名な高階論理についての研究書で述べられている二階の論理に切り替えてみましょう *23 。するとどうなるかというと、その理論は二階算術 (the full second-order arithmetic) なるそうです (92)。これはいわゆる二階のペアノ算術であり、通常 PA2 とか Z2 と略称される理論です (88)。この理論は、集合論や一部のトポロジー、および圏論を除く、古典数学 (classical mathematics)、いわゆる「普通の数学」のほとんどが展開できる理論として大変有名なものです (88) *24 。そして neo-Fregean が二階の論理に (HP) を追加したもので得ようとしているのが、まさにこの二階算術 PA2 だと言えます。

要するに、小学生の算数並みに弱い Q+ の基底論理を、よく知られた教科書にある二階の論理にすると、大抵の数学が全部できてしまう PA2 に変貌するということです。たとえて言えば、算数しかできないはずの小学生が、よくある二階の論理を手にすると、途端に微積分がすらすらできてしまう数学科の院生、または数学の先生に変身する、みたいな感じでしょうか。

しかしなぜまたこのようなことになるのでしょうか? その鍵は、よく知られている二階の論理にあるようです。以後、教科書などでよく知られている二階の論理を、ここでは便宜的に「標準的二階論理」と呼ぶことにします。Raatikainen 先生によると、標準的二階論理を自然演繹のバージョンで展開してみた場合、述語の位置を量化する二階の普遍量化子と存在量化子の規則は、無制限な非可述的包括図式 (unrestricted impredicative comprehension scheme) を含意するそうです (83-84)。つまり先生によると、標準的二階論理には無制限非可述的包括図式が付き物であるということ、標準的二階論理には元々無制限非可述的包括図式が抱き合わせになっているということです *25 。したがって鍵となるのは、無制限非可述的包括図式を伴なった標準的二階論理を利用しているか否か、ということにあると思われます。なお、「無制限非可述的包括図式」はずいぶん長い名前なので、以下では簡単に「包括図式」と略記します。ちなみに、この包括図式の一般形を記しておきますと、次のようになります (84)。

   ∃Xn ∀x1… xn [A(x1… xn) ⇔ Xn (x1… xn)].

この式の A には任意の式を代入することができて、その際 A に Xn が自由には現れていないものとします。

集合の所属関係の記号 (∈) を持った理論では、包括図式は特に次のように書かれていることがよくあります (88)。

   ∃X∀n (n ∈ X ⇔ φ(n)).

この式の φ にも任意の式を代入することができ、その場合 φ に X が自由には現れていないものとします。

なお、逆数学の世界では包括図式の類いは「集合存在公理 (set existence axiom)」とも呼ばれています *26

閑話休題。標準的二階論理には包括図式が付き物だ、ということでした。したがって、Q の公理に帰納法の公理 (IA) を追加した Q+ の基底論理を標準的二階論理に切り換えることは、Q+ に事実上包括図式を追加している、ということになります。この時、Q+ は二階算術 PA2 に変貌することは既に述べました。

そして二階算術 PA2 ですが、通常この算術の基底論理は、標準的二階論理ではなく、現在では多領域論理 (many-sorted logic) のうちの二領域論理 (two-sorted logic) に拡張された一階述語論理になっているのが (少なくとも逆数学の世界では) 普通なようです (87) *27

逆数学において、PA2 の基底論理を標準的二階論理にしないのは、二階の量化子にどのような意味論 (semantics) を与えるべきか、という問題が絡んでくることにその理由があるようですが *28 、その他の理由として、標準的二階論理だと、そもそも無制限非可述的包括図式が「標準装備」されてしまっているということがあるのかもしれません。というのも、逆数学というプロジェクトがやっているのは、すべての場合ではないものの多くの場合では、Q に不等号の公理を追加したものと、(IA) またはその変種を固定した上で、無制限非可述的包括図式をもっと弱い包括図式に取り換えてみたらどうなるのか、あるいは別の包括図式を加えたらどうなるのかを調べているからです *29 。(逆数学における PA2 の主要な部分体系の公理系に関し、それぞれの公理系でどのように無制限非可述的包括図式などが修正されているのか、このことは本日の記事の最後の補遺で確認していますので、よろしければご覧ください。) PA2 を標準的二階論理で形式化すると、無制限非可述的包括図式をいわば動かせなくなり、プロジェクトに遂行に支障を来たす可能性があります。そこで初めから二階の論理ではなく、(二領域) 一階述語論理にしてあるのかもしれません。

 

こうして PA2 の包括図式をいろいろな包括図式に付け替えたりすると、さまざまな算術の理論が得られるようです。そして PA2 の包括図式をすっかり取っ払ってしまえば Q と同じぐらい非常に弱い Q+ が得られるわけです。

ところで PA2 は、Zermelo-Fraenkel の公理的集合論選択公理を加えた標準的な公理的集合論 ZFC よりは弱いですが、ZFC から、通常の数学ではほとんど使わないという巾集合の公理 (power set axiom) *30 を抜いた集合論 ZF- と同等の、同じ強さを持った理論だそうです (91)。つまり PA2 は、普通の数学のほとんどを展開するのに十分な ZF- 並みの集合論と見なすことができます。そして ZF- は、ZFC よりは弱くても、一種の論理学と考える人はまずおらず、れっきとした集合論、れっきとした数学の理論であると、諸家の間で見解が一致しているとの話です (93)。

非常に弱い Q+ の基底論理を標準的二階論理に切り替えると、れっきとした数学の集合論 ZF- と同等の PA2 に変貌してしまいます。こうなることの鍵は、包括図式があるかないかでした。この包括図式があると、たとえるなら、一見子供の三輪車のように見える乗り物ながら、実はそれは隠れたところにターボ・エンジンが積まれているスーパーカーなのかもしれません。一見ニュートラルに見える標準的二階論理は包括図式を持っていることにより実はニュートラルなものではなく (fn. 12 at p. 93)、そもそも偽装された集合論なのかもしれません (Quine) *31

Neo-Fregean が二階の論理によって算術 PA2 を確保しようとする際、それは Hume's Principle (HP) を二階の論理に追加したフレーゲ算術 (FA) を通じて行なわれます。FA という理論がどのようなものであるのかについては、FA に関する研究の第一人者である George Boolos 先生に話を聞くのが最もよいでしょう。先生は FA について詳しく説明してくれています。先生の文から引用してみましょう。

 FA is a theory whose underlying logic is standard axiomatic second-order logic written in the usual Peano-Russell logical notation.

[...]

 The logical axioms and rules of FA are the usual ones for such a second-order system. Among the axioms we may specially mention (i) the universal closures of all formulas of the form

     ∃F∀x(Fx ⇔ A(x)),

where A(x) is a formula of the language of FA not containing F free; and (ii) the universal closures of all formulas of the form

     ∃φ∀x∀y(xφy ⇔ B(x, y)),

where B(x, y) is a formula of the language not containing φ free. Throughout Sections 68-83 of the Foundations Frege assumes, and needs to assume, the existence of various particular concepts and relations. The axioms (i) and (ii) are called comprehension axioms; these will do the work in FA of Frege's concept and relation existence assumptions. *32

 FA は、それを支えている論理が通常のペアノ-ラッセル流の表記法で書かれた標準的な公理的第二階論理であるような理論である。

[...]

 FA の言語の論理公理と推論規則は通常の第二階の体系に対するのと同じである。その公理たちの中でも (i) 次の形式をもったすべての式の普遍閉包には特に言及しておいてもよいだろう。

     ∃F∀x(Fx ⇔ A(x)),

ここで A(x) は F を自由に含まない FA の言語の式である。そして (ii) 次の形式をもったすべての式の普遍閉包

     ∃φ∀x∀y(xφy ⇔ B(x, y)),

ここで B(x, y) は φ を自由に含まない FA の言語の式である。『基礎』の第68節から第83節を通じてフレーゲはさまざまな特別な概念と関係の存在を仮定し、また仮定する必要がある。公理 (i) と (ii) は包括公理と呼ばれ、それらは概念と関係についてのフレーゲの存在仮定という役割を FA において果たすことになる。*33

これを見ると、FA には包括図式が公理図式として初めから設定されていることがわかります。このような FA の基底論理は標準的二階論理と考えられます。こうした FA から PA2 が出るわけです (92)。

非常に弱い Q+ の基底論理を標準的二階論理にすると、普通の数学のほとんどが展開できる強力な PA2 が得られるのでした。そして標準的二階論理を持っていると考えられる FA からも強力な PA2 が得られます。ここに何か平行関係があるとするならば、Q+ に標準的二階論理の包括図式が追加されると強力な PA2 に変貌したように、FA から強力な PA2 が得られるのは、そこに包括図式があるからであって、この包括図式がなければ、そのような FA は弱いと予想されるのではないでしょうか? つまり (HP) 自身は弱いのではないでしょうか? この予想に答えを与える前に、一つの問いを別に立て、そちらの答えをまずは見てみましょう。

包括図式のある標準的二階論理は、一見ニュートラルな印象を与えますが、案外ニュートラルではなくへヴィーなところがあり、偽装された集合論に近い様相を呈していました。では、もっとニュートラルでライトな二階の論理はないのでしょうか?

Raatikainen 先生によると、そのような二階の論理はあるそうです (84)。それは竹内外史先生の the Basic Calculus と呼ばれているものです (84) *34 。この Calculus は BC と略記されます。この二階の論理 BC では、包括図式は「標準装備」されておらず、オプションになっています *35 。この BC なら理論の基底論理を、ニュートラルにミニマルにライトに、展開できるようです。これなら「ターボ・エンジンを偽って装着している」と非難されずに済みそうです。

先ほど、フレーゲ算術 FA の基底論理を標準的二階論理だとすると、包括図式があることから、強力な PA2 が得られると述べました。では、FA の基底論理を二階の論理は二階の論理でも BC にするとどうなるでしょうか? つまり、FA の基底論理として、包括図式を「標準装備」していない二階の論理にするとどうなるでしょう? Raatikainen 先生によると、それは Q と同じ強さになるそうです (92)。というか、それは Q と同じ強さにしかならない、Q と同じく非常に弱い理論にしかならない、ということです。ニュートラルでミニマルでライトな二階の論理 BC に (HP) を加えただけでは小学生並みの算数しかできず、本物の算術 PA2 は出てこないというわけです。少し前のところで、次のように問いました。「包括図式がなければ、そのような FA は弱いと予想されるのではないでしょうか? つまり (HP) 自身は弱いのではないでしょうか?」 この問いに対しては、Raatikainen 先生によると、「その予想は正しい。弱いというのは事実だ」という答えが与えられることになります (92)。

そうすると、二階の論理に (HP) を追加することで強力な PA2 が得られるのは (HP) のおかげというよりも、その二階の論理が標準的二階論理であって、この後者の論理のおかげであると考えられます (92)。つまり、標準的二階論理が「偽装された集合論」に近いものであるが故に PA2 が手に入るのであって、(HP) 自身にはそのような力はないと言えそうです (92)。逆に言えば、(HP) よりも標準的二階論理が強すぎる、ということです。その論理は ZFC ほどではないとしても、かなりの集合論と見なせるかもしれません。

Neo-Fregean の代表者 Chrispin Wright 先生は、数学的知識 (mathematical knowledge) を究明する論文集に寄稿した高階の量化に関する論文において、二階の論理と集合論との関係について、次のように言っています。先生はまず最初に、数学的知識とは何か、すなわち数学において述べられている知識とは、どのような特徴を持つものなのかという疑問を検討する論文集で、なぜまた自分は高階の量化に関する論文を寄せているのかと自問したあと、以下のように続けておられます *36

Part of the answer lies in the integral role played by higher-order logic in the contemporary programme in the philosophy of mathematics - sometimes called neo-Fregeanism, or neo-logicism but I prefer abstractionism - which seeks to save as much as possible of the doomed project of Frege's Grundgesetze by replacing his inconsistent Basic Law V with a number of more local abstraction principles designed to provide the deductive resources for derivations of the fundamental laws of, for example, classical number theory and analysis in systems of second-order logic. There has been much discussion of the status and credentials of abstraction principles for their part in this project. But one thing is clear: if the logic used in the abstractionist programme is indeed, as Quine thought, nothing but set theory in disguise, then execution of the various local abstractionist projects, however technically successful, will be of greatly diminished philosophical interest. A reduction of arithmetic, or analysis, to a special kind of axiom cum set theory will hardly be news!

その答えの一部は、数学の哲学における現代的なプログラムの中で、高階の論理が果たしている不可欠な役割のうちにある。時として新フレーゲ主義または新論理主義と呼ばれるものの、私としては「抽象主義」と呼びたいこのプログラムは、フレーゲの『基本法則』において失敗を運命づけられたプロジェクトを、できる限り多く救い出そうとするものであり、それは彼の不整合な基本法則 V を、多くのもっと限定された「抽象原理」で置き換えることでなされるのであって、この原理は二階の体系において、たとえば古典的な数論と解析学の基本的な諸法則を引き出すために、演繹的な手段を提供するよう意図されているものである。このプロジェクトでは抽象原理に関する限り、その身分と資質について、多くの議論がなされてきた。しかし議論の余地なく明らかなことが一つある。抽象主義者のプログラムにおいて使われている「論理」が、クワインの考えたように、実際に偽装された集合論以外の何ものでもないならば、さまざまに限定された、抽象主義者によるプロジェクトを遂行してみても、たとえどんなに技術的な成功を収めたところで、哲学的な興味は大幅に失われたものとなろう。算術あるいは解析学を「集合論」と [抽象原理という] 特別な種類の公理に還元してみせても、ほとんどニュースにもなるまい!

Wright 先生が考察するごとく、Quine 先生が言うとおり、標準的二階論理が偽装された集合論ならば *37 、確かに数学や算術を論理学と見なす論理主義の擁護という哲学的試みへの興味は大半が失われてしまうでしょう。そして Raatikainen 先生が正しいなら、FA の基底論理はかなりの集合論と同等の力を持っていると考えられるかもしれません。Quine 先生による「二階の論理は偽装された集合論だ」という批判は、同一性を持つのか否かが不確かな属性を二階の論理は念頭に置かなければならないという点で、哲学的思弁的で空疎な批判だとして、そもそも哲学的営み一般を評価しない人は無視して済ますということもあるかもしれません。しかし Raatikainen 先生による批判は哲学的というよりも、論理学的、数学的事実に基づく批判と見ることができますので、Raatikainen 先生が正しければ、そうやすやすとその批判を無視して済ますということはできないと思われます。Raatikainen 先生による批判は Quine 先生とはまた違った意味で、二階の論理を偽装された集合論と見なす批判と言えるでしょう (92)。

今問題となっているのは、二階の論理が「真の」論理か否か、ということではありません。二階の論理は本当に論理なのか、という問いとは無関係に、二階算術を確保する際に、neo-Fregean がよく知られた二階の論理に訴えることは、かなりの集合論にほとんど訴えるも同然であり、実質的に論点先取の虚偽を犯しているとの非難を浴びる可能性が高いということです。よく知られた二階の論理自身が悪いと言っているわけではありません (83, fn. 2)。Neo-Fregean がそれを無頓着に使って二階算術を確保しようとすることに Raatikainen 先生は問題を見ておられるわけです (83, 93, fn. 12) *38

 

比喩を多数交えながら、ごく簡単に、かつざっくりと、疑問 III のポイントをまとめてみましょう。Raatikainen 先生が正しいならば、そして私が誤解していないならば、以下のようになると思われます。

二階の論理には、無制限な非可述的包括図式を持ったものと、持っていないものとがあります。この包括図式を持っていない二階の論理によって、ある非常に弱い算術の理論を展開してみても、小学生の足し算と掛け算程度のことしかできない場合がありますが、この同じ理論を、包括図式を持った二階の論理で展開してやると、途端に普通の数学のほとんどができてしまう場合があります。

非常に大まかな言い方をしますと、これは、包括図式があるだけで、ほとんどの数学ができてしまうということであり、二階の論理 (と非常に弱い算術の理論を合わせたもの) は、かなりの力を持った集合論に相当する、と見なせます。

Neo-Fregean が Hume's Principle (HP) を使ってほとんどの数学を確保しようとしている時に利用しているのが今述べた、包括図式を持った二階の論理です。Neo-Fregean が「(HP) + 二階の論理」で確保した数学は、かなりの集合論に相当すると考えられるこの二階の論理から得られるのであって、実は (HP) からは小学生の足し算、掛け算ぐらいしか得られません。

そうだとすると、neo-Fregean の試みとは、かなりの力を持った、数学としての集合論からほとんどの数学を得ようとしていると言えるのではないでしょうか? 単刀直入に表現するならば、neo-Fregean は数学から数学を得ようとしているのではないでしょうか?

二階の論理は「論理」と呼ばれていることから、一見ニュートラルでミニマムでライトな道具立てのような印象を受けます。しかし実質は、極めて数学寄りであり、極めて大がかりで、極めてへヴィーな道具立てだと考えられます。Neo-Fregean は (HP) 一つだけのほとんど丸腰で、巨大な数学の大部分を生け捕ったというふうな顔をしていますが、本当はかなりすごい重火器を駆使していると思われます。

二階の論理にほんの少し手を加えればほとんどの数学が出てきますから、あるいは端的に言うと、二階の論理はほとんど数学のようなものですから、これにほんの少し (HP) を加えて「ほら、どうだ、数学のほとんどが出て来たぞ」と言われても、それってどうなんでしょう? そんな手、ありなんでしょうか? 初めからそんな「飛び道具」を使うなんて、ちょっと卑怯じゃないでしょうか?

これが Raatikainen 先生によって提起されている批判、二階の論理を使って算術を確保しようとする neo-Fregean に対する批判と考えられるものです。

 

補遺

「逆数学において、PA2 の主要な部分体系が無制限非可述的包括図式などに手を加えることで作り出されていることの確認」

 

逆数学のプロジェクトでは、算術の主要な部分体系それぞれを、PA2 における無制限非可述的包括図式などをそのつど修正することによって作り出しているようです。どのように修正して各体系を得ているのか、念のためにそれを確認してみましょう。

主として次の文献で簡単に確認してみます *39 。改めて書誌情報を掲載してみましょう。

・ Stephen G. Simpson (Simp) Subsystems of Second Order Arithmetic, 2nd ed., Cambridge University Press, 2009.

なお、私は逆数学に無知ですから、この補遺で書いていることはすべて正しい、と請け合うことは残念ながらできません。すみません。正確であることに努めたつもりですが、細部に至るまで絶対に正確だ、と主張するつもりはありません。「大体こんな感じ」ぐらいに考えてお読みいただければちょうどよいと思います。ご心配おかけしますが、どうかよろしくお願い致します。

 

PA2/Z2

まず、この本では PA2 (= Z2) が以下の式で定義されています *40

Axioms of PA2

(i)  Basic Axioms

   1. n + 1 ≠ 0
   2. m + 1 = n + 1 → m = n
   3. m + 0 = m
   4. m + (n + 1) = (m + n) + 1
   5. m ・ 0 = 0
   6. m ・ (n + 1) = (m ・ n) + m
   7. ¬m < 0
   8. m < n + 1 ⇔ (m < n ∨ m = n)

(ii) Induction Axiom

   (0 ∈ X ∧ ∀n (n ∈ X → n + 1 ∈ X )) → ∀n (n ∈ X)

(iii) Comprehension Scheme

   ∃X∀n (n ∈ X ⇔ φ(n))

最初に、(i) の Basic Axioms を Q の公理と比べてみてください。Basic Axioms の +1 は Q の公理の S のことです。・ は掛け算の記号です。そうして比べると、Basic Axioms の 1. ~ 6. は、Q の公理の 3. を除いた 1. と 2., 4. ~7. と同じだとわかります。Basic Axioms の 7. と 8. は不等号に関する公理であり、7. は 0 より小さい数はないことを述べていて、8. は「以下」を表わす ≦ のこと、つまり「未満または等しい」ということを表わしています。

そして、(ii) の Induction Axiom は、上において、Q に帰納法の公理 (IA) を追加し、Q+ という体系を作った時の、その (IA) と同じものです。

最後に、(iii) の Comprehension Scheme は、私たちが今まで問題にしてきている (PA2 の言語での) 無制限非可述的包括図式と同じものです。

 

この PA2 (= Z2) に対して、その主要な部分体系が五つ知られています。弱いものから強いものへとそれら体系の名前を並べると、RCA0, WKL0, ACA0, ATR0,  Π_1^1-CA0 です *41

これらの部分体系おのおのにおいて、どのように無制限非可述的包括図式などが変更されているのかを以下で見てみます。

 

ACA0

まず ACA0 からです。

ここで、算術式と算術的包括図式について説明します。

算術式 (Arithmetical Formula) とは、任意の式 φ について、その式には集合変数を束縛する量化子が現われていないような式のことです *42 。つまり、その式に現われている量化子は数変数 (number variable) を束縛する数量化子 (number quantifier) だけであって、数を集めた集合に対する集合変数 (set variable) を束縛する集合量化子 (set quantifier) は現れていないような式のことです *43 。例を上げてみましょう。

次は算術式の一例です *44

   ∀n ( n ∈ X → ∃m (m + m = n)).

n, m は自然数 {0, 1, 2, ... } の上を走る変数です。X は自然数の部分集合の変数です。この式に現われている量化子は ∀n と ∃m であり、それぞれ自然数の数変数 n, m を束縛している数量化子であって集合量化子ではありません。なお、今の式は「X に属する数はすべて偶数である」ということを述べています。

また、次は算術式では「ない」式の例です *45

   ∃Y ∀n ( n ∈ X ⇔ ∃i ∃j ( i ∈ Y ∧ j ∈ Y ∧ i + n = j )).

n, i, j は数変数、Y, X は集合変数です。この式では集合変数を束縛している集合量化子 ∃Y が現われています。そのため、この式は算術式ではありません。なお、この式は「X に属する数 n はどれも、ある集合 Y に属する数 i, j の差 j - i となっている」ということを述べています。

続いて算術的包括図式 (Arithmetical Comprehension Scheme) ですが、これは上の (iii) Comprehension Scheme ( ∃X∀n (n ∈ X ⇔ φ(n)) ) の中に現われている式 φ(n) を、今しがた説明した算術式に制限したものです。

それでは ACA0 を定義します *46 。PA2 の部分体系であるこの体系は、上記の (i) Basic Axioms と (ii) Induction Axiom、そして直前に述べた算術的包括図式を公理に持つ体系です。

私たちにとってここで注意すべきなのは、この部分体系が (iii) の包括図式 (Comprehension Scheme) を制限してできている、ということです。

 

 Π_1^1-CA0

次に  Π_1^1-CA0 です。

この体系に関し、 Π_1^1 式と  Π_1^1 包括図式と呼ばれる式を説明します。

 Π_1^1 ( Π_1^1 Formula) とは、∀X θ という形をした式で、X は集合変数、θ は算術式となっている式です *47

 Π_1^1 包括図式 ( Π_1^1 Comprehension Scheme) とは、上記 (iii) の Comprehension Scheme ( ∃X∀n (n ∈ X ⇔ φ(n)) ) における φ(n) を  Π_1^1 式に制限した式です *48

以上により PA2 の部分体系である  Π_1^1-CA0 を定義すると、この部分体系は、上の (i) Basic Axioms と (ii) Induction Axiom と、今述べた  Π_1^1 包括図式を公理に持つ体系です *49

ここでも私たちが注意したいのは、この部分体系も (iii) の包括図式 (Comprehension Scheme) を制限してでき上がっている、ということです。

 

RCA0

続いて、RCA0 です。

やはりいくつかの用語を説明します。以下の六つです。有界量化子、有界量化式、 Σ_1^0 式、 Π_1^0 式、 Σ_1^0 帰納法図式、 Δ_1^0 包括図式です。

 

有界量化子 (Bounded Number Quantifier, or simply Bounded Quantifier) *50

次の二つの式をご覧ください。

   ∀n < t φ ≡ ∀n ( n < t → φ ),

   ∃n < t φ ≡ ∃n ( n < t ∧ φ ).

n も t も数を表わします。ただし t は n ではありません。

前者の式の右辺は「t 未満のすべての数 n に対し、φ である」と読まれます。後者の式の右辺は「φ であるような t 未満の数 n がある」と読まれます。

各式における ≡ の左辺は、その右辺の略記です。この時、これら左辺の量化子 ∀n < t, ∃n < t を「有界量化子」と呼びます。

また、∀n ≦ t を ∀n < t +1 の略記、∃n ≦ t を ∃n < t +1 の略記とします。これら ∀n ≦ t, ∃n ≦ t も「有界量化子」と呼ばれます。

 

有界量化式 (Bounded Quantifier Formula) *51

有界量化式とは、その式に現われている量化子がすべて有界量化子であるような式のことです。たとえば、次がそのような式です。

   ∃m ≦ n ( n = m + m ).

この式に現われている量化子のすべては ∃m ≦ n だけであり、これは有界量化子ですので、上の式は有界量化式です。ちなみにこの式は n が偶数であることを述べています。

 

 Σ_1^0 ( Σ_1^0 Formula) *52

 Σ_1^0 式とは、∃m θ という形をしている式で、m は数変数、θ は有界量化式になっています。

 

 Π_1^0 ( Π_1^0 Formula) *53

 Π_1^0 式とは、∀m θ という形をしている式で、m は数変数、θ は有界量化式です。

 

 Σ_1^0 帰納法図式 ( Σ_1^0 Induction Scheme) *54

PA2 における (ii) Induction Axiom とは、次のような単一の公理でした。

   (0 ∈ X ∧ ∀n (n ∈ X → n + 1 ∈ X )) → ∀n (n ∈ X).

これを単一の公理ではなく、公理図式に直すと、以下のようになります。

   ( φ(0) ∧ ∀n ( φ(n) → φ(n + 1))) → ∀n φ(n).

 Σ_1^0 帰納法とは、この式の φ(n) には任意の  Σ_1^0 式が入るようにしたものです。

 

 Δ_1^0 包括図式 ( Δ_1^0 Comprehension Scheme) *55

 Δ_1^0 包括図式とは、次の式

   ∀n ( φ(n) ⇔ ψ(n) ) → ∃X∀n ( n ∈ X ⇔ φ(n) )

の φ(n) に任意の  Σ_1^0 式が入り、ψ(n) に任意の  Π_1^0 式が入るようにしたものです。

 

これでようやく RCA0 を定義するための用語説明が終わりました。ではその定義です *56

PA2 の部分体系 RCA0 とは、上の (i) Basic Axioms と、今その用語を説明した  Σ_1^0 帰納法図式、そして  Δ_1^0 包括図式から成る体系です。

再度注意しておきたいのは、この部分体系も (iii) の包括図式 (Comprehension Scheme) (と (ii) の Induction Axiom) を修正することで成り立っている、ということです。

 

WKL0

今度は WKL0 です。

弱ケーニヒの補題 (Weak König's Lemma) と呼ばれる集合存在公理について、直観的な説明、大まかな説明を与えます。まずは以下の図をご覧ください *57 。この図を解説したあと、ケーニヒの補題 (König's Infinity Lemma) を述べ、そのあと弱ケーニヒの補題を述べます。

これは完全二分木と言われる樹形図、木構造です *58 *59 。上から下に向かって枝が伸びています。

丸印は頂点 (node) と呼ばれます。丸印の中に数字が書かれているものがありますが、その数字はその頂点の名前です。

頂点から伸びている2本の枝は道とも呼ばれます。この枝または道のいくつかは、無限に伸びて行っても構いませんし、どこかで途切れていても構いません。上の図では、木の下のほうが欠けていますので、どの枝も無限に伸びているのか途切れているのか、それはわかりません。

途切れる場合とは、頂点から枝が何も出ていない、そういう頂点がある、ということです。そのような、もはや枝を出していない末端の頂点は葉と呼ばれます。

二分木では葉以外の頂点からは、どれもちょうど2本の枝を出しています *60 。二分木においては、葉以外の頂点で、3本以上の枝を出していたり、1本だけ枝を出しているということはありません。

上の木構造のうち、たとえば 10 と名前の付いた頂点以下、100, 101, ... を、この木の部分木 (subtree) と言います。この 10, 100, 101, ... 以外の部分も、それが木の構造をしているならば、この木の部分木です。またこの木全体も、一つの部分木です。つまり、この図の一番上の、名前の付いていない白抜きの丸印である頂点以下全部も、この白抜きの頂点も含めて部分木と呼ばれるようです。

さて、図の説明はこれぐらいにして、ケーニヒの補題と弱ケーニヒの補題を述べます。

ケーニヒの補題 *61

  頂点から有限個の枝が出ている木に無限個の頂点があれば、その木には無限に伸びている枝がある。

弱ケーニヒの補題 *62

  頂点からちょうど2本の枝が出ている木に無限個の頂点があれば、その木の部分木には無限に伸びている枝がある。

弱ケーニヒの補題はケーニヒの補題の特別な場合であり *63 、ケーニヒの補題は弱ケーニヒの補題を一般化したものです。

それぞれの補題の言わんとしていることはわかると思いますので、各補題の説明は省きますが、弱ケーニヒの補題は上の図の二分木について言われている補題です。

それではここで PA2 の部分体系 WKL0 の定義を述べますと、この体系は RCA0 に集合存在公理である弱ケーニヒの補題を追加したものから成る体系です *64

なお、この体系でも (iii) の包括図式 (Comprehension Scheme) として、集合存在公理を付け足すことで部分体系が作られていることにご注意ください。

 

ATR0

最後に ATR0 です。

ここでは算術的超限再帰 (Arithmetical Transfinite Recursion) と呼ばれる集合存在公理を説明しなければならないのですが、この公理は私には難しいので説明を控えます。ごめんなさい。

この公理の解説は、Simp 39, 逆二 68, 数序266-267 をご覧ください。

何にせよ、ATR0 とは、ACA0 に今述べた算術的超限再帰の集合存在公理を加えてできるものです *65

この部分体系でも集合存在公理を付け足すことでその体系が作られていることにご注意ください。

 

以上、逆数学の主要な五大体系 RCA0, WKL0, ACA0, ATR0,  Π_1^1-CA0 が、主として包括図式をいじくったり付加することでできていることを確認してみました。

補遺終了

 

さぁ、もうここで終わりにしましょう。ずいぶん話が長くなりました。長すぎてすみません。最後までお読みくださいましてありがとうございます。

今回の Cook 先生の論文にはいろいろと勉強させてもらいました。Neo-Fregean はあれこれと Hume's Principle の性格について難しいことを論じていますが、結局のところ、Cook 先生のお考えによるならば、抽象的対象と思われる数をどのように私たちは知るのかという問いと、数学がすべてのことに渡って応用可能なのはなぜなのかという問いに、neo-Fregean は決定的な答えを与えようとしていたのですね。これら二つが neo-Fregean にとって究極的な問いであり、前者の問いに対しては、「数は抽象的対象ではなく概念なのだから、いかにして抽象的な対象を知ることができるのか、という疑問に頭を悩ます必要はない」という答えを用意し、後者の問いに対しては「数学、少なくとも自然数から実数にまたがる理論は論理学であり、論理学は普遍的に応用可能だから、数についての理論も普遍的に応用可能なのだ」という答えを用意しているということでした。

しかし、これらの答えをめぐって持ち上がる疑問に対して Cook 論文はほとんど全部と言っていいほど素通りし、答えの正しさはもう既に保証されていると言わんばかりに、大変楽観的な姿勢で書かれていました。Cook 論文は mission statement のような論文とはいえ、あまりに疑問を素通りし過ぎており、あまりに楽観的に書かれていたので、私は「これで大丈夫なのかな?」と懸念を抱きました。以前、岡本賢吾先生が次の文献、

・ 岡本賢吾  「編者解説」、『フレーゲ哲学の最新像』、岡本賢吾、金子洋之編、勁草書房、2007年、

の345-346, 360-362ページで、neo-Fregean の試みに対し、非常に辛口の評価を与えておられましたが、岡本先生が今回の Cook 論文をお読みになれば (もうお読みかもしれませんが)、「Neo-Fregean のやっていることはやっぱり駄目だ」と、またしても否定的な評価を与えそうな気がします。

私自身、今回の Cook 論文を読んで勉強になったとともに、岡本先生とはまた違った意味で、neo-Fregean の試みは哲学的にはまだまだ弱すぎる、と感じました。生意気言って済みません。

このように、ちょっと生意気なことを言っていますが、以上の私の話には、きっと何か誤解や無理解、勘違いに、無知な部分がたくさんあると思います。誤字や脱字、誤訳や悪訳もあると思います。特に後ろのほうの「疑問 III」と最後の補遺は、にわか仕込みで書いていますので、そこでの話は決して鵜呑みにせず、慎重に判断してください。もしも「疑問 III」と補遺で話題にしたことに詳しくないようでしたら、大変お手数ですが、そこで言及した文献に当って裏を取ってもらえればと思います。

いずれにせよ、私がなしたすべての間違いに関し、お詫び申し上げます。そして誰よりも Cook 先生にお詫び致します。これを機に私のほうとしましても、さらに勉強に励みたいと思います。ありがとうございました。

*1:正直に言って、先生の論文は哲学的には深くありません。こんなこと言ったりしてごめんなさい。でも、このように言っても先生はそんなに怒ったりはされないと思います。「確かに私の論文では Frege の考えをほとんどそのままなぞり、そこに少し修正を加えただけ、とも言えなくもないですから」のようなお返事が返ってくるのではないかと推測します。それでも誰しも「哲学的に深くはない」などと言われれば、あまりいい気持ちはしないと思いますので、もう一度、謝っておきます。すみません。しかし neo-Fregeanism がうまくいけば、これは非常に大きな成果だと思います。それは哲学に対する極めて大きな貢献となると思います。うまくいくといいですよね。

*2:この二つ目の注意点については、先生の論文 p. 21 をご覧ください。

*3:先生は論文中でその最初から、一つ目の「認識論的問題」については明示的に重要な問題として示していますが、二つ目の「応用可能性の問題」は論文の途中から出てくる問題で、あたかも付け足しの問題に見えかねませんが、実際にはこの論文で一つ目の問題に匹敵する問題として扱われています。そのようなわけで、ここでの私の話では、最初から「Neo-Fregean の二大問題」というような感じで二つの問題を提示しておきます。

*4:第19段落は、そこで注意しておきましたが、例外的に私の解釈が多数入っています。

*5:私の悪い癖なのですが、論文の初めのほうの段落は、比較的手短に軽快に要約しているものの、論文が進むに従って私のほうの力が入り、要約の文章が長く重くなっています。論文の初めのほうは内容が希薄で、後方は内容が濃密だ、ということではありません。私の要約がバランスを欠いているせいです。ごめんなさい。

*6:この式は原文では明らかな誤植があったので、訂正してここに記しています。

*7:この平方根の例は、Cook 先生によるものではなく、要約者である私によるものです。

*8:Frege においては、より一般的には、基数は関数の値域として定義されるが、一般性は損なわれないので便宜上、基数は概念の外延として定義されるものとしておきます。

*9:ここに記した [1] の答えと [2] の答えとの関係は、Cook 論文で明示されているわけではありません。

*10:Cook 論文、pp. 20-21, 段落 (21)、p. 29, 段落 (43) 参照。

*11:Cook 論文、p. 29, 段落 (43) 参照。

*12:Byeong-uk Yi, ''Is Two a Property?,'' and ''What Numbers Should be,'' in his Understanding the Many, Routledge, 2002.

*13:Bertrand Russell, Introduction to Mathematical Philosophy, Routledge, 1919, p. 71, 邦訳、ラッセル、『數理哲學序説』、平野智治訳、岩波文庫岩波書店、1954年、95ページ。「The method of ''postulating'' what we want has many advantages; they are the same as the advantages of theft over honest toil. Let us leave them to others and proceed with our honest toil. (吾々が希望することを公準とするのは非常に有利なことである。しかしこれは竊取した利得が、正直な勞働から得た收益よりもまさっていると考えるのと同じ考え方である。吾々はそんな利益をば他人に讓り、正直な勞作を積んで正しい結果を得よう。)」邦訳については、一部、旧字体新字体に改めて引用。

*14:このあたりのことについては次を参照ください。飯田隆、「フレーゲと分析的存在命題の謎」、『理想』、理想社、第639号、1988年、C. Parsons, ''Objects and Logic,'' in: The Monist, vol. 65, 1982, also his Mathematical Tought and its Objects, Cambridge University Press, 2008, Chapter 1.

*15:戸田山329-330, 数講67.

*16:数講69, 数超116.

*17:戸田山335, 数講69. 「多くの場合」できないのであって、まったくできないというわけではありません。数講71-72.

*18:数講69.

*19:戸田山330, 数講68, 数超116, 114, 数序115, 112.

*20:Q の公理として、教科書によっては、もう少し違った公理が上がっているかもしれません。ここにはない不等号 < に関する公理が追加されていることもあります。その場合、不等号は存在量化子や等号などで簡単に定義できるので (数超115, 数序113, x < y ⇔ ∃z(z + S(x) = y) )、不等号の公理が追加されていても、本質的には違わないと考えられます。技術的には違うことも出てきますが。

*21:戸田山329, 数講67.

*22:ちなみに (IA) の公理図式版を Q の公理に追加したものが、一階のペアノ算術です (86)。

*23:「よく知られた論理学の教科書」として Raatikainen 先生は、たとえば以下を上げておられます。D. van Dalen, Logic and Structure, 4th ed., Springer, 2004, A. Troelstra and H. Schwichtenberg, Basic Proof Theory, Cambridge University Press, 1996, D. Prawitz, Natural Deduction, Almqvist and Wiksell, 1965. また「著名な高階論理についての研究書」として先生は、たとえば以下を上げておられます。S. Shapiro, Foundations without Foundationalism, Oxford University Press, 1991. (83, fn. 4)

*24:逆二 i, 31-32.

*25:たとえば、Shapiro, Foundations without Foundationalism, pp. 66-67 では、包括図式が二階の論理の公理図式としてあらかじめ立てられているのがわかります。

*26:Simp xiv, 逆二31-34, 数序226-228.

*27:逆二10-11, 数超82-83, 数序76-77, 226. したがって、二階算術 PA2 の「二階」とは、現在、その基底論理が二階の論理だから「二階」と言っているわけではないようです。かつては二階算術の「二階」は基底論理が二階の論理だったからそう呼ばれていたみたいです。数序226. しかし今では二階算術の基底論理は一階述語論理の二領域版が普通みたいですので、二階算術の「二階」とは二領域のことなのかもしれません。次を参照ください。黒田覚、「書評 逆数学 ジョン・スティルウェル著」、『数学通信』、24巻3号、2019年、88ページ(?)、脚注1、<https://mathsoc.jp/publication/tushin/2403/2403kuroda.pdf>. いずれにせよ、「二階算術」と言われているのに基底論理は一階であることには注意が必要と思われます。少なくとも私を含めた門外漢は勘違いしてしまうところですので。

*28:数序77-79, 226.

*29:Shimp 6, 逆二 i, 31-32, 数序226.

*30:「集合の部分集合の全体が集合となる」ことを述べた公理。P を巾集合を表わす記号とすれば、∀y(y ∈ P(a) ⇔ ∀x ∈ y (x ∈ a) ) と書かれます。西村敏男、難波完爾、『公理論的集合論』、共立出版、復刊2013年、初版1985年、4ページ。このページから、便宜的に一部記号を変更して引用。

*31:W. V. Quine, Philosophy of Logic, 2nd ed., Harvard University Press, 1986, pp. 66-68, ウイラード V. クワイン、『論理学の哲学』、山下正男訳、培風館、1972年、100-104ページ。邦訳は原典初版からの訳。

*32:George Boolos, ''The Consistency of Frege's Foundations of Arithmetic, in his Logic, Logic, and Logic, ed. by R. Jeffrey, Harvard University Press, 1998, pp. 185-186, also in W. Demopoulos ed., Frege's Philosophy of Mathematics, Harvard University Press, 1995, pp. 213-214. 引用は Boolos, Logic 版から。なお、この Boolos, Logic 版で 'Sections 68-83' となっているところが Demopoulos 版で '§§68-83' となっている以外、引用個所に関し、両者に違いはありません。

*33:ジョージ・ブーロス、「フレーゲ 『算術の基礎』 の無矛盾性」、井上直昭訳、『フレーゲ哲学の最新像』、岡本賢吾、金子洋之編、勁草書房、2007年、81-83ページ。

*34:Gaisi Takeuti, Proof Theory, 2nd ed., Dover Publications, 2013, originally pub. in 1987, the 1st ed. pub. in 1975, p. 166.

*35:Takeuti, Proof Theory, pp. 170-171.

*36:Chrispin Wright, ''On Quantifying into Predicate Position,'' in Mary Leng et al. eds., Mathematical Knowledge, Oxford University Press, 2007, p. 152. Raatikainen 論文の 83 ページでも一部引用されていますが、その引用文よりも前後をもう少し長く取って引用してみます。原注は省きます。和訳は試訳、私訳です。意訳気味に訳しています。誤訳していましたら申し訳ありません。

*37:Quine, Philosophy of Logic, 2nd ed., pp. 66-68, クワイン、『論理学の哲学』、100-104ページ。

*38:なお、Raatikainen 先生は、neo-Fregean が基本的にはみんな、標準的二階論理を使っていることに、無自覚とは言わないが、無頓着である、という論調で論文を書かれておられますが、先生が論文中でまったく言及しておられない neo-Fregean, または neo-Fregean の周辺にいる人物で、標準的二階論理が包括図式を伴なっていることから、その論理が二階算術を確保するに際し、強力な武器となっているのだということを、かなり自覚していると思われる著名な研究者もおられます。それは Richard Heck 先生であり、先生の著書、Frege's Theorem, Oxford University Press, 2011 の Chapter 12, A Logic of Frege's Theorem の冒頭数ページ (pp. 267-271) を見れば、そのことが感じられます。そのページでは、二階の論理と (HP) から二階算術を得るために、標準的二階論理の包括図式をどの程度まで弱めることが許されるか、ということが問題にされています。とはいえ、Heck 先生のこの本は、先生の他の著作と同様、かなりテクニカルな論述が多く難解なので、私はところどころ拾い読みしただけであり、Heck 先生が今回の包括図式を巡る問題に、どの程度自覚的なのかを正確に見積もることは、私にはできていません。Raatikainen 先生が Heck 先生のお仕事をまったくご存じでない、ということはあり得ないと思われるので、Raatikainen 先生が論文中で Heck 先生に全然言及されていないということは、Raatikainen 先生からすると Heck 先生はまだまだ自覚が足りないから Heck 先生の名を上げておられないのかもしれません。このあたりのことはよくわかりませんが。いずれにせよ、Heck 先生はそれほど無頓着ではないようだ、ということだけ、一応ここに記しておきます。

*39:次の Simpson 先生の本では、相対的に最も強い PA2 (= Z2) を元にして、相対的に弱いその部分体系が絞り込まれるような感じで特定され説明されています。これに対し、田中一之先生の本 (逆二、数序) では逆に、相対的に最も弱い部分体系 (RCA0) を元にして、それを拡張・拡大して行くような感じでより強い部分体系が特定され説明されています。ここでの話の流れには Simpson 先生の説明が合っていたのと、Simpson 先生の本のほうが私にはわかりやすかったので Simpson 先生の本を参考にしました。別に田中先生の本がよくないというわけではないので、どうかご了承ください。

*40:Simp 4.

*41:逆二 105 に、これら五つの体系を含めたさまざまな部分体系の強弱関係が、チャート化してわかりやすく示されています。

*42:Simp 6.

*43:Simp 6.

*44:Simp 7.

*45:Simp 7.

*46:Simp 7.

*47:Simp 16.

*48:Simp 17.

*49:Simp 17.

*50:Simp 23-24.

*51:Simp 24.

*52:Simp 24.

*53:Simp 24.

*54:Simp 24.

*55:Simp 24.

*56:Simp 25.

*57:ジョン・スティルウェル、『逆数学 定理から公理を「証明」する』、川辺治之訳、田中一之監訳、森北出版、2019年、76ページ。

*58:このような木構造に関連する用語については、「グラフ理論」、「アルゴリズムとデータ構造」という言葉がタイトルに入っている本からいろいろ仕入れました。以下の大まかな用語説明では気がかりだという方は、お手数ですがその種の本をお調べください。

*59:完全二分木の「完全」を、どのように定義するかは本によって違っています。いわば、木のどの枝の長さも等しい時、完全である、と定義している場合もあれば、そうでない場合もありますので、注意が必要です。また、次の註も参照ください。

*60:ここでのように二分木を、葉以外の頂点からちょうど二本の枝が出ている木と定義する場合もあれば、高々二本の枝が出ている木と定義する場合もありますので、注意が必要です。

*61:スティルウェル、『逆数学』、74ページ。

*62:スティルウェル、『逆数学』、75ページ。

*63:スティルウェル、『逆数学』、75ページ。

*64:Simp 36.

*65:Simp 39.