'Ich finde sie schwer verständlich' or What Kind of Clarity Do the Tractarian Sentences Have?

目次

 

注意

このブログでは、研究を記しているのではありません。

またこのブログでは、哲学をしているのではありません。

これらをご理解の上、以下をご覧くださいましたら幸いです。

注意終わり

 

はじめに

本日は、Gottlob Frege が Ludwig Wittgenstein に宛てて彼の Tractatus Logico-Philosophicus (『論理哲学論考』) を批判した、有名な書簡の一つをドイツ語原文で読んで、楽しんでみましょう。

ドイツ語原文は次から引用します。

・ Enzo De Pellegrin ed.  Interactive Wittgenstein: Essays in Memory of Georg Henrik von Wright, Springer, 2011.

これには Frege が Wittgenstein へ送った書簡の独英対訳版が入っており、その英訳者は Juliet Floyd 先生と Burton Dreben 先生です。ただし、Dreben 先生は訳出の途中でお亡くなりになり、最終的な英訳の文責は Floyd 先生にあるとのことです *1

そして原文を引用したあとに記す和訳は、私の試訳です。直訳調で訳してみました。既にきちんとした邦訳は出版されており *2 、私がその邦訳を越える優れた訳を提示できるはずもありませんので、ここでは趣向を変えてドイツ語原文に若干密着気味に訳してみました。ただし、ガチガチの直訳・逐語訳ではなく、ところどころその調子を緩めているところもあります。それでもやはり直訳調のため、原文ドイツ語にある言葉をあまり省略ぜずに日本語に移しているせいで、読みにくかったり、くどかったりするところがあります。自然な日本語になっていない部分もありますが、どうかご了承ください。

既存の邦訳と、対訳の英訳は、大変参考にさせていただきました *3 。誠にありがとうございます。

Frege のドイツ語原文には、Wittgenstein の Tractatus の一部が引用されています。それに対する私の試訳は、Tractatus の邦訳として出回っている訳文・訳語とは違っているかもしれません。違っていても特に深い意味はありません。Tractatus は難解な本ですので、訳者の先生方によって、いろいろな訳語が選択されているのだろうと思います。私には Tractatus は本当に難しすぎて、それら先生方の訳語のうち、どの訳語が最適なのか見当もつかないので、自分で勝手に訳しました。どうかこのあたり、ご容赦ください。

あと、ドイツ語原文中の角括弧 [ ] は、今回の原典中に元からあるものであって、私が挿入したものではありません。一方、私訳/試訳中の括弧の類いはもちろん私によるものです。

そしてドイツ語原文と私訳/試訳を掲げたあとは、個人的な感想を記してみます。とはいえ私には深い話は展開できませんので、そのつもりでお願い致します。

 

書簡原文および和訳
Bad Kleinen in Mecklenburg, den 28.VI.19

Lieber Freund!

 Sie warten gewiss schon längst auf eine Antwort von mir und erwünschen eine Äusserung von mir über Ihre Abhandlung, die Sie mir haben zukommen lassen. Ich fühle mich deshalb sehr in Ihrer Schuld und hoffe auf Ihre Nachsicht. Ich bin in der letzten Zeit sehr mit langwierigen geschäftlichen Angelegenheiten belastet gewesen, die mir viel Zeit weggenommen haben, weil ich in der Erledigung solcher Sachen aus Mangel an Übung ungewandt bin. Dadurch bin ich verhindert worden, mich mit Ihrer Abhandlung eingehender zu beschäftigen und kann daher leider Ihnen kein begründetes Urteil darüber abgeben. Ich finde sie schwer verständlich. Sie setzen Ihre Sätze nebeneinander meistens ohne sie zu begründen oder wenigstens ohne sie ausführlich genug zu begründen. So weiss ich oft nicht, ob ich zustimmen soll, weil mir der Sinn nicht deutlich genug ist. Aus einer eingehenderen Begründung würde auch der Sinn klarer hervorgehen. Der Sprachgebrauch des Lebens ist im Allgemeinen zu schwankend, um ohne Weiteres für schwierige logische und erkenntnistheoretische Zwecke brauchbar zu sein. Es sind, wie mir scheint, Erläuterungen nötig, um den Sinn schärfer auszuprägen. Sie gebrauchen gleich am Anfange ziemlich viele Wörter, auf deren Sinn offenbar viel ankommt.

 Gleich zu Anfang treffe ich die Ausdrücke ''der Fall sein'' und ''Tatsache'' und ich vermute, dass der Fall sein und eine Tatsache sein dasselbe ist. Die Welt ist alles, was der Fall ist und die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen. Ist nicht jede Tatsache der Fall und ist nicht, was der Fall ist, eine Tatsache? Ist [es] nicht dasselbe, wenn ich sage, A sei eine Tatsache, wie wenn ich sage, A sei der Fall? Wozu dieser doppelte Ausdruck? Freilich ist jedes gleichseitige Dreieck ein gleichwinkliges Dreieck und jedes gleichwinklige Dreieck ein gleichseitiges Dreieck und doch ist der Sinn des ersten Ausdrucks nicht zusammenfallend mit dem des zweiten. Es ist ein Lehrsatz[,] dass jedes gleichseitige Dreieck ein gleichwinkliges ist. Aber hier sind die Ausdrücke ''gleichseitiges Dreieck'' und ''gleich[winkliges] Dreieck'' zusammengesetzt und aus der verschiedenen Zusammensetzung ergibt sich ein verschiedener Sinn. Aber in unserm Falle haben wir das nicht. Kann man sagen, aus der Zusammensetzung des Ausdrucks ''der Fall sein'' ergebe sich der Sinn? Ist es ein Lehrsatz, dass, was der Fall ist, eine Tatsache ist?

Ich meine nicht; aber auch als Axiom möchte ich es nicht gelten lassen; denn irgendeine Erkenntnis scheint mir darin nicht zu liegen. Nun kommt aber noch ein dritter Ausdruck: ''Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.'' Ich verstehe das so, dass jede Tatsache das Bestehen eines Sachverhaltes ist, so dass eine andre Tatsache das Bestehen eines andern Sachverhaltes ist.

 Könnte man nun nicht die Worte ''das Bstehen'' streichen und sagen: ''Jede Tatsache ist ein Sachverhalt, jede andre Tatsache ist ein auderer Sachverhalt.'' Könnte man vielleicht auch sagen ''Jeder Sachverhalt ist das Bestehen einer Tatsache''? Sie sehen: ich verfange mich gleich anfangs in Zweifel über das, was Sie sagen wollen, und komme so nicht recht vorwärts. Ich fühle mich jetzt oft müde, und das erschwert mir das Verständnis gleichfalls. Sie werden, hoffe ich, mir diese Bemerkungen nicht verübeln, sondern sie als Anregung betrachten, die Ausdrucksweise in Ihrer Abhandlung verständlicher zu machen. Wo so viel auf genaue Erfassung des Sinnes ankommt, darf man dem Leser nicht zu viel zumuten. An sich scheint mir der Gebrauch verschiedener Ausdrücke in demselben Sinne ein Übel zu sein, wo man es besonderer Vorteile wegen doch tut, sollte man den Leser darüber nicht im Zweifel Lassen. Wo aber der Leser wider die Absicht des Schriftstellers dazu kommen könnte mit verschiedenen Ausdrücken denselben Sinn zu verbinden, sollte der Schriftsteller auf die Verschiedenheit hinweisen und möglichst deutlich zu machen suchen, worin sie besteht. Gibt es auch Sachverhalte, die nicht bestehen? Ist jede Verbindung von Gegenständen ein Sachverhalt? Kommt es nicht auch darauf an, wodurch diese Verbindung hergestellt wird? Was ist das Verbindende? Kann dieses vielleicht die Gravitation sein wie beim Planetensystem? Ist dieses ein Sachverhalt? Sie schreiben: ''Es ist für das Ding wesentlich, der Bestandteil eines Sachverhaltes sein zu können.'' Kann nun ein Ding auch Bestandteil einer Tatsache sein? Der Teil des Teils ist Teil des Ganzen. Wenn ein Ding Bestandteil einer Tatsache ist und jede Tatsache Teil der Welt ist, so ist auch das Ding Teil der Welt. Zum besseren Verständnisse wünsche ich Beispiele, schon, um zu sehen, was sprachlich der Tatsache, dem Sachverhalte, der Sachlage entspricht, wie sprachlich eine Tatsache, ein bestehender und etwa ein nicht bestehender Sachverhalt bezeichnet wird und wie das Bestehen eines Sachverhaltes und also die dem Sachverhalte entsprechende Tatsache bezeichnet wird, ob sich dabei ein wesentlicher Unterschied zwischen einem Sachverhalte und der Tatsache ergibt. Ein Beispiel möchte ich haben dafür, dass der Vesuv Bestandteil eines Sachverhaltes ist. Dann müssen, wie es scheint, auch Bestandteile des Vesuvs Bestandteile dieser Tatsache sein; die Tatsache wird also auch aus erstarrten Laven bestehen. Das will mir nicht recht scheinen.

 Doch ich wollte Ihnen ja mit diesen Zeilen einen Freundschaftsdienst erweisen und nun fürchte ich, Sie mit zudringlichen Fragen belästigt zu haben. Verzeihen Sie dies und bewahren Sie die Freundschaft

 Ihrem oft an Sie denkenden

G. Frege

 

1919年6月28日 メクレンブルク、バートクライネン

親愛なる友よ!

 あなたはきっともうずっと前から私の返事をお待ちでしょう。あなたが私に送ってくれたあなたの論文 [= Tractatus の原稿] について、私の意見をお求めでしょう。そのため私はあなたに大変申し訳なく感じており、あなたの寛大さに期待しています。私は最近、私から多くの時間を奪った面倒な業務上の用件で、とても苦しめられました。なぜなら私はこのような問題を処理することについては慣れていないので、器用にできないからです。そのため私はあなたの論文に、より立ち入って取り組んでみることを妨げられ、これによりあいにくあなたにその論文について、根拠に裏打ちされた判断を下すことができません。私にはその論文は理解するのが難しいと思います。あなたは、大抵の場合、あなたの文を根拠付けることなく、あるいは少なくとも十分詳細には根拠付けることなく並べています。そのため、私は同意すべきなのかどうか、しばしばわかりません。なぜなら私にはそのいみ (Sinn) が十分明瞭でないからです。より立ち入った根拠付けから、そのいみ (Sinn) もまた、より明瞭に現れるでしょう。日常生活での言葉の用法は、難しい論理学的、認識論的目的に対し、一般的にはあまりにも不安定すぎて、軽々しく使うことはできません。私には思われるのですが、いみ (Sinn) をより鋭く切り出すためには、解説が必要です。あなたは、そのいみ (Sinn) が明らかに大変重要な語を、最初からすぐ、相当多く使っています。

 すぐ最初に、「成り立っている」と「事実」という表現に私は出会います。そして「成り立っている」と「事実である」*4 とは同じであると私は推測します。[あなたは Tractatus 冒頭の1と1.1で次のように述べています。] 世界は成り立っていることのすべてであり、かつ世界は事実の総体である。[とすると *5 ] 必ずしも、どの事実も成り立っているというわけではない、ということでしょうか? 成り立っていることは事実ではない、ということでしょうか?*6 A は事実であると私が言うことは、A は成り立っていると私が言うことと、同じではないでしょうか? このようなダブった表現は何のためでしょう? もちろんどの等辺三角形も等角三角形であり、かつどの等角三角形も等辺三角形ですが、それにもかかわらず第一の表現の意義 (Sinn) は第二の表現の意義 (Sinn) と一致しません。どの等辺三角形も等角三角形であるということは一つの定理です。しかしここでは「等辺三角形」と「等 [角] 三角形」という表現が [異なる要素から] 組み合わされており、異なる組み合わせからは、異なる意義が生じます。けれども私たちの場合においては、そのようなものを私たちが得ることはありません。「成り立っている」という表現の組み合わせから、[「事実である」とは異なる] 意義が生じると言えるでしょうか? 成り立っていることは事実である、というのは定理でしょうか?

私はそうは思いません。しかしそれを公理としても認めたくないのです。というのも何らかの認識 [に値するもの] がそこにはないように私には見えるからです。さてしかし今度はさらに三つ目の表現が来ます。[Tractatus の命題2] 「成り立っていること、事実は、事態の成立である」。私はこれを次のように理解します。すなわちどの事実も事態の成立であり、そのため別の事実は別の事態の成立である、と。

 そうすると「成立」という語を削除して「どの事実も事態であり、別の事実はどれも別の事態である」と言うことができるのではないでしょうか? ひょっとすると「どの事態も事実の成立である」と言うこともできるのでしょうか? ご覧のとおり、私はすぐ初めのところであなたが言いたいことについて疑いに捕らわれてしまい、それほどうまく読み進んでいません。私は今ではしばしば疲れを感じ、そのせいで同じく理解に困難をきたしています。私は望むのですが、あなたは私のこれらのコメントに気を悪くされずに、むしろそれらのコメントを、あなたの論文における表現法をより理解できるものにする提案と見なしてほしいのです。意義 (Sinn) の正確な把握が大変重要である場合には、読者にあまりに多くのことを要求してはいけません。異なる表現を同じ意義 (Sinn) で使うこと自体、私には悪いことだと思えます。特別な効果を狙ってあえてそうすることがある場合でも、そのことについて読者に疑いを残してはならないでしょう。しかし著者の意図に反し、読者が異なる表現に同じ意義 (Sinn) を結び付けるようになることでもあれば、著者はその違いを指摘し、どこにその違いがあるのかをできるだけ明瞭にするよう努めねばならないでしょう。成立していない事態もあるのでしょうか? 諸対象のどの結び付きも一つの事態なのでしょうか? それは、何によってこの結び付きが生み出されているのか、ということにも掛かっているのではないでしょうか? 結び付けているものは何でしょう? それは惑星 [の運動] 系におけるように、ひょっとして引力ということもあり得るのでしょうか? それは事態のことなのでしょうか? あなたはお書きです。[Tractatus, 2.011] 「事態の構成要素であり得ることが、ものにとって本質的である」*7 。では、ものは事実の構成要素でもあり得るのでしょうか? 部分の部分は全体の部分です。ものが事実の構成要素であり、どの事実も世界の部分ならば、ものもまた世界の部分です。よりよい理解のために、私は例を望みます。言葉の上では何が事実に、事態に、状況に一致するのか、言葉の上ではいかにして事実は、成立している事態は、そしてひょっとすると成立していない事態は、指し示されるのか、またいかにして事態の成立は、そしてそれ故事態に一致している事実は指し示されるのか、その際、事態と事実の間に本質的な違いが生じるのかどうか、これらのことを見るためだけでも [例を望むの] です。そのために、ヴェスヴィオ火山は事態の構成要素であるという例を、私が持っているということにさせてください。その時、ヴェスヴィオ火山の構成要素もまたこの事実の構成要素でなければならないように見えます。それ故 *8 、その事実はまた固まった溶岩からも成り立っているでしょう。これは私にはどうしても正しいようには見えません。

 それでもやはり私はこの手紙で、確かに友情からあなたのために力を尽くしたいと思っています。ですが、私は押し付けがましい質問によって、あなたを煩わしたのではないかと今では恐れています。このことを許してください。そして友情を失わないようにしてください。

 しばしばあなたのことを思っている、あなたの

G. フレーゲより

 

ここでこの書簡に関連することについて、私の個人的な感想を簡単に記してみます。

なお、私は Frege の考えについても Wittgenstein の考えについてもよく知りませんし、特に Wittgenstein の考えについては無知ですので、以下に述べることは門外漢の単なる思い付き程度に受け止めてください。決して真に受けないようお願い致します。

 

分析哲学における三つの明瞭さ

Frege は上の書簡において、Wittgenstein の Tractatus の原稿で述べられている事実、事態などの基本的と見える概念について、Wittgenstein にそのいみを尋ねています。それらの概念で Wittgenstein が何を言わんとしているのか、Frege には不明瞭に思われたためです。

しかし Wittgenstein は自分の原稿が人に理解されないほど不明瞭だと感じていたでしょうか? 彼が自分の原稿を Frege や Russell に見せ、理解してもらえなかったことに対し、とてもがっかりしたことがあったようですが *9 、このようなことからして、自分の原稿がそんなに不明瞭だとは思っていなかったと推測されます。そうすると、Frege と Wittgenstein とでは明瞭さということについて、理解を異にしていたと予想されます。

では一般に、明瞭であるとはどのようなことを言うのでしょうか? ここで「明瞭であるとはいかなることか?」という疑問を詳しく追究して行くことはできませんし、そもそも私にはそのような能力はありませんので、このことに関し、ごく簡単に触れてみるだけにします。

 

たまたま私の手元にある次の文献を見ると、

・  飯田隆  「分析哲学としての哲学/哲学としての分析哲学」、『分析哲学 これからとこれまで』、勁草書房、2020年、初出『現代思想』、2004年7月号、

分析哲学において、概念や議論を明瞭にする典型的な方法は二つあると言われています *10 。それぞれを、当方で補足を入れつつ説明してみましょう。

 

その一 理論的明瞭さ

一つ目は不明瞭な概念を明瞭にする方法です。例を上げましょう。

ドキュメンタリー映画という概念があります。この概念は、わかるような気もしますし、よくわからないような気もします。そこでこの概念を、たとえばイギリスの言語哲学者 P. Grice の意図の理論の言葉で説明し、プロパガンダ映画やホラー映画など、関連する映画の概念との違いを示してみせるのです。そのようにするならば、前よりはドキュメンタリー映画という概念も、その内実がよくわかるようになって明瞭になるでしょう。

ここでは不明瞭な概念を Grice の理論で説明するとしてみましたが、別の理論を利用する方がより有効だと考えるならば、代わりにたとえば認知言語学認知心理学精神分析学や何らかの美学理論などを使ってもいいでしょう。

このように、不明瞭な概念を、ある理論の中に位置付けることにより得られる明瞭さを「理論的明瞭さ」と呼ぶことにしましょう *11

 

その二 解消的明瞭さ

次に二つ目です。今度は不明瞭に感じられる議論を明瞭にする方法です。

まず以下の式をご覧ください。

      1 + 2 + ... + n = \frac{\;n(n + 1)\;}{2}.

この式を見て、どうしてこの式の左辺が右辺と等しくなるのか、不思議に感じるかたがおられるかもしれません。そのかたに数学的帰納法を使ってこの式が成り立つことを論じてみても、そのかたが数学的帰納法を知らない場合、なぜこの等式が成り立つのか、やはり明瞭にはわからないかもしれません。そのようなかたでも次のように事態を見直してみれば、この式の不思議さ、あるいは謎が解けるかもしれません。(次の話はドイツの大数学者 C. Gauss が少年の頃、思い付いた有名な方法です *12 。)

問題の式の左辺の数を、上下二行に渡って横に並べます。

     1  2  ...  n-1  n
     n  n-1  ...  2  1

上の行は、左辺の数をその順番に並べたものです。下の行はそれを逆の順番に並べたものです。

そしてこれら二つの行の縦の各列を見てください。「1 n」、「2 n-1」 ... 「n-1 2」、「n 1」という数のペアができています。鉤括弧内の左の数は上の行の数、右の数は下の行の数です。たとえば「1 n」の 1 は上の行の数、n は下の行の数です。

これら各ペアを足すと、どのペアも n + 1 になっています。たとえば「1 n」を足した和は n + 1, 「2 n-1」の和は n - 1 + 2 = n + 1 です。

そしてこのようなペアは n 個並んでいます。よって各ペアの和 n + 1 全部を足した答えは n(n + 1) です。

この n(n + 1) ですが、これは上下二行の数全部の和です。ところで求めようとしている左辺 1 + 2 + ... + n の答えは、上下二行の数全部の和のうち、その半分である上の行の和です。したがって n(n + 1) の半分が必要としている答えです。それは  \frac{\;n(n + 1)\;}{2} です。

こういうわけで 1 + 2 + ... + n の和は  \frac{\;n(n + 1)\;}{2} になるのです。

この説明で、なぜ上の等式が成り立つのか、おわかりいただけたかどうか、自信がありませんが、たぶんおわかりいただけて、その式の謎が解け、なぜ成り立つのか、明瞭に把握できたのではないでしょうか?

 

もう一例、謎を解くことで議論が明瞭になる話を引いてみましょう。次の文献に出てくる例です。

・  P. Horwich  Wittgenstein's Metaphilosophy, Oxford University Press, 2012, pp. 6-7.

旅の途中、三人の若者が安宿に入りました。部屋代として各自10ドルずつ、計30ドル払い、部屋に入りました。しかしホテルのフロントが、部屋代は30ドルではなく25ドルだったことに気付き、ベルボーイに5ドル渡して返金に行かせました。ところがボーイは若者各自に1ドルずつ返しただけで、2ドルはくすねてしまいました。そうすると若者各自の部屋代は9ドルで、三人の合計は27ドルであり、これにボーイのくすねた2ドルを加えると29ドルになって1ドル足りません。1ドルは一体どこに行ったのでしょうか?

この話は何だか不思議でちょっと謎めいており、不明瞭な感じがするのではないでしょうか? しかしそのような印象は見かけだけに過ぎません。この話は謎でも何でもありません。1ドルはどこに行ったのか? どこにも行っていません。上の話を見直してみましょう。

ホテル側は受け取った30ドルから5ドル返金して25ドルにしようとしました。しかし若者に戻ったのは30ドルから3ドル引いた27ドルだけです。さらにここからボーイのくすねた2ドルを引いて25ドルにしなければなりません。ところが上の「謎めいた」話では、27ドルからくすねた2ドルを引くのではなく、どういうわけか27ドルに2ドルを足しています。本当は足すべきではなく引くべきなのです。

しかも上の話では、30ドルから3ドル引き、それにくすねた2ドルを足して30ドルにしようとしたが30ドルまで1ドル足りない、1ドルはどこに行ったのか、と騒いでいますが、そもそも30ドルから3ドルを引き (= 27ドル)、それに2ドルを足して (= 29ドル) 元の30ドルに戻そうとしても戻るわけがありません。30 - 3 + 2 = 29 なのですから。1ドルはどこかへ消えたのでも何でもありません。言わば、元々そんなものはなかったのですから。結局のところ、上の話は混乱しているだけなのです。混乱しているから不明瞭に思われただけです。このことに気が付けば、この話の不明瞭さも消えてなくなります。

こうして謎は解消され、明瞭さが回復されました。以上のような明瞭さを「解消的明瞭さ」と呼ぶことにしましょう *13

なお、上の数式の話における解消的明瞭さは、なぜその式が成り立つのかが明瞭になったのですから「肯定的な解消的明瞭さ」とか「解消的明瞭さが肯定的に得られた」とでも言えるでしょう。一方、ホテルの宿代の話における解消的明瞭さは、問題の1ドルなどあり得ないことが明瞭になったのですから「否定的な解消的明瞭さ」とか「解消的明瞭さが否定的に得られた」とでも言えるでしょう。

 

その三 論理学的明瞭さ

さて、これまでに「理論的明瞭さ」と「解消的明瞭さ」が出てきました。これらは主として飯田先生の「分析哲学としての哲学/哲学としての分析哲学」に依拠していましたが、先生は次の文献でも、また別の明瞭さについて言及されています。

・  飯田隆  「解説 論理を知らないでは哲学はできないことについて」、吉田夏彦、『論理と哲学の世界』、ちくま学芸文庫筑摩書房、2017年、初版1977年、310ページ。

この解説文の中で言及されている明瞭さとは、論理学の知識に基付けば、議論を明瞭に理解できたり、議論を明瞭に組み立てることができたりするという、そのような明瞭さのことです。先生が上げておられる例ではありませんが、一つ例を上げてみましょう。

 

以下のような哲学の話が書かれていたとします *14

(1) 絶対矛盾的自己同一であるものに限り、相対同一的他者矛盾でありうるのである。(2) してみると、主観的時間意識は相対同一的他者矛盾なものであるからには、(3) それは絶対矛盾的自己同一なるものでもあるのである。

この文章を読んで、何の話か、どういうことか、わかりますでしょうか? わからないと思います。私が今、思い付きで記した文章だからです。私にもわかりません。しかし、この文章に出てくる「絶対矛盾的自己同一」や「相対同一的他者矛盾」や「主観的時間意識」という言葉の意味が何のことだかよくわからなくても、論理学の知識を利用すれば、少なくともこの文章における (1) から結論 (3) への話の流れは、明瞭につかむことができると思います。確認してみましょう。

 

上の文章の最初の文 (1) における表現「絶対矛盾的自己同一」を A と略称し、「相対同一的他者矛盾」を B と略称するならば、文 (1) は「A に限り、B である」という形をしていることがわかります。

このような形をした文は「A でないならば、B でない」ということを言っています。たとえば、門前に「身分証を持っている者に限り、入場できる」と書いてあれば、「身分証を持っていなければ、入場できないんだな」と思いますよね。ですから「A に限り、B である」とあれば「A でなければ、B でない」ということです。

そしてこの後者の文の対偶を取れば「B でないことはないならば、A でないことはない」となります。ところで二重否定は一般に肯定のことですから、今の文の二重否定を肯定に直せば、「B ならば、A である」となります。

この文の B は「相対同一的他者矛盾」、A は「絶対矛盾的自己同一」でしたから、その文にこれらの言葉を代入すると (4) 「相対同一的他者矛盾ならば、絶対矛盾的自己同一である」となります。

そして問題の文章の二つ目の文 (2) は「主観的時間意識は相対同一的他者矛盾なものである」となっていますから、この (2) と先の (4) とで問題の文章の結論 (3) 「それ (= 主観的時間意識) は絶対矛盾的自己同一なるものでもある」が出てきます。以上です。

ここで言及した「対偶」や「二重否定 = 肯定」という知識は、論理学の初歩の知識です。この知識のおかげで一見よくわからない不明瞭と見える問題文の (1) から (3) への流れも、何とか明瞭につかむことができました。論理学の知識に依れば、不明瞭な議論も、少なくともその筋の運びだけは、明瞭にすることができる場合があります。このような明瞭さを「論理学的明瞭さ」と呼ぶことにしましょう *15 *16

 

Wittgenstein が見ていた明瞭さとは、三つの明瞭さのうちの、どれなのだろうか?

さて振り返ってみると、三つの明瞭さが出てきました。「理論的明瞭さ」、「解消的明瞭さ」、「論理学的明瞭さ」です。これで明瞭さのすべての種類が取り上げられたというわけではないですが *17 、ひとまず明瞭さの列挙はここまでとしましょう。

 

そこで今度は Wittgenstein の Tractatus の原稿に戻ります。Frege はこの原稿の冒頭部分が不明瞭だと考えていたようですが、Wittgenstein は、おそらくですが、それほど不明瞭だとは考えていなかったものと思われます。もしかすると、むしろ非常に明瞭だと感じていたかもしれません。もしもそうならば、上に列挙した三つの明瞭さのうち、どの明瞭さを彼は自分の原稿冒頭部分が持っていると考えたでしょうか? 私の推測では、どの明瞭さとも異なる明瞭さを持っていると Wittgenstein は考えていたものと思われます。とりあえず、上の三つの明瞭さのどれでもないであろうことを、一つ一つごく簡単に見てみましょう。

まず、Tractatus の冒頭は、理論的明瞭さを持っているでしょうか? そこに出てくる様々な事実だとか事態などの概念が、何か明晰な理論に位置付けられているかと言えば、たぶんそうではないしょう。あるいは仮に位置付けようとしているとしても、不明瞭な概念を不明瞭な理論に位置付けようとしているだけだと思われます。これだと何ら明瞭にはなっておらず、明瞭化の役に立っていません。

では、Tractatus の冒頭は、解消的明瞭さを持っているでしょうか? たぶん、まったく持っていないと思われます。そこでは謎が解消されているどころか、冒頭部分を読み進めるにつれて、ますます謎が深まって行くという感じを受けます。上の書簡で Frege が Wittgenstein に、手を変え品を変え、あれやこれやと基本的な言葉のいみの確認を行なっていることから見ても、そのことがわかります。

それでは Tractatus の冒頭は、論理学的明瞭さを持っているでしょうか? 冒頭部分では、論理学の規則に訴えているところはないと思われますので、または、初歩的な論理学の知識でもって、冒頭の話を明瞭にできるとも思われませんので、そこでは論理学的明瞭さは見られないと思われます。そもそも Aristotle 以来の論理学の巨人とも言われる Frege が *18 、その強力な論理的能力によって Tractatus の冒頭を明瞭に読み解けなかったのですから、そこに論理学的明瞭さがあるとはちょっと考えにくいと感じられます。

 

Wittgenstein が Tractatus 冒頭に見た明瞭さとは、何だろうか?

こうして Wittgenstein が Tractatus 冒頭に、たとえ明瞭さを見ていたとしても、それは上の三つのいずれの明瞭さでもないと思われます。では一体 Wittgentstein はそこに明瞭さを見ていたとするならば、どんな明瞭さを見ていたというのでしょう?

ここで少し趣向を変えてみましょう。次をご覧ください。

     荒海や佐渡によこたふ天河

これは芭蕉の句です。『おくのほそ道』に出てきます *19 。この句を読むと、ありありとその情景が目の前に浮かんでこないでしょうか?

私は以前、この句を初めて読んだ時、夜の日本海に白い波頭が砕け、その向こうには雄大佐渡の島影が浮かび上がり、振り仰げば夜空をきらめく天の河が大きくうねるように流れゆく様が、眼前に立ち現われたかのような思いにとらわれたことがあります。この句で読まれている風景が実に「明瞭に」望まれ、この句にもはや何も付け足す必要はなく、何も差し引く必要もないと感じられました。

そこで思うのですが、Wittgenstein が Tractatus に見ている明瞭さとは、このような明瞭さを言うのではないでしょうか? 必要最小限の字句による寸言、簡潔・簡明で、まさしく一目瞭然たる短文で示される明瞭さ。長々と、くどくどと、論述を引っ張るのではなく、それこそ百聞は一見に若かずとばかりに、寸鉄人を刺すような言葉で明快な印象を人の心に打ち付けること。

思い出してみれば、Wittgenstein は長い論文とか本を、たぶん書いていないですよね。TractatusInvestigations も、短い文や短い話の集積ですよね。その他に刊行されている彼のノートや講義録でも、大体そんな感じでしたよね。もしかすると当人は、話が長いと不明瞭になるから短い方がいい、と思っていたのではないでしょうか? これはまったくの空想ですけれど。

Wittgenstein にとっては「簡潔 = 明瞭」という等式が頭の中にあったのかな、と私は感じました。このような明瞭さを「簡潔的明瞭さ」と呼ぶならば、Wittgenstein が Tractatus に見ていた明瞭さとは、この「簡潔的明瞭さ」だったのかもしれません。根拠のないただの推測ですが *20

 

終わりに

以上から Wittgenstein が Tractatus で目指した明瞭さとは、ひょっとしてひょっとすると、上に述べた簡潔的明瞭さだったのかもしれません。この明瞭さの特徴は、説明や解説、論証による根拠の提示などを省いた手短な表現こそが、そこで述べられている事柄を如実に明らかにするのである、という考え方にあると思われます。

一方 Frege は、これとはまったく反対に、解説や論証によって詳しく説明することが明瞭化をもたらすのだ、と考えていたと推測されます。たぶん Frege は、先ほどから触れている三つの明瞭さ (と註で言及した「概念の細分化による明瞭さ」) を重視し、簡潔的明瞭さは Wittgenstein ほど重視していなかったのかもしれません *21

話をまとめるならば、極度に大まかに言うと、Wittgenstein は哲学において、説明抜き、正当化抜きの直観的理解を通して明瞭化を目指し、Frege は説明を尽くし、逐一正当化を行うことで説得を試みる、論証的理解を通して明瞭化を目指していた、とでも特徴付けることができるのかもしれません。

このような特徴付けから、以下のように推測することも許されるかもしれません。つまり、Wittgenstein と Frege という初期分析哲学の二大巨頭の書簡中に、いわゆる大陸系の哲学と Anglo-Saxon における分析系の哲学の、交わることのない平行線が既にここに現れているのだ、と *22 。この二つの平行線は、Frege も詳しい射影幾何学における平行線のように、いつかはるかかなたの無限遠点で交わり、手と手を結んで理解し合う時が来るのでしょうか?*23 私にはわかりませんが ... 。

 

これで終わります。いつものように、私の今回の話には、誤解や無理解や、無知な点、未熟な点が多々あると思います。ここにお詫び致します。特にドイツ語原文とその訳以降の後半部分は、体系的でもなければ網羅的・徹底的に検討しているのでもなく、必要な文献の渉猟もせずに、ほとんど推測ばかりですので、そのまま信じてしまわないようお願い致します。繰り返します。鵜呑みにしないでください。私自身、絶対に正しい、とまでは思っていないのですから。必ず批判的にお読みください。お願い致します。

読まれた方が自分なりに考えを深めるきっかけになればと思い、今回のような話を記しました。「私ならこう思う」、「自分ならこう思う」という感じで、誰かが何かを触発されたなら、うれしく思います。

あと、私による訳に誤訳がまだ残っておりましたらすみません、ごめんなさい。

 

PS しかし、それにしても感じるのですが、Wittgenstein は Tractatus に見られるアフォリズムのような短文の、ただの羅列だけの文章で、Frege や Russell に理解してもらえると、よく思えたものですよね。常識的には、たぶん当時も今も、そのような文章でよく理解してもらえるとは、普通、思わないものだと感じるのですが ... 。

Frege や Russell が文学者、作家で、アフォリズム形式の警句をしばしばものしているとか *24 、当人たちから「アフォリズム形式で書いてみるといいですよ」などと助言を受けていたのなら別ですが、当人たちはおそらくアフォリズム集のような著作を出してはいなかったと思いますし、もともと数学出身の Frege や Russell 二人から「アフォリズムは実によい著作形式だ」などという話はおそらく聞いていなかったでしょうから、Frege も Russell も、いきなりアフォリズム集のような原稿を Wittgenstein から見せられて面食らったのではないだろうか?

それとも当時、特にドイツ語圏ではアフォリズム形式で著作することが、多くの人の目に留まるほど流行していて、その形式でものを書くことは、ごく自然な流れだったのだろうか? これについては次のような話があります。

早くから彼 [= Wittgenstein] に影響を与えた数少ない哲学者の一人は、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクであった。リヒテンベルクは、ゲッチンゲン大学における自然哲学の、十八世紀の教授であったが、クラウスに称賛され、またマッハにも大きな影響を与えた。リヒテンベルクの著述は、世紀の転換期にウィーン知識人の間で非常にポピュラーになった。彼は、この時期の流行になった、哲学のアフォリズム・スタイルを、ショーペンハウアーにもましていっそうはっきりと示したが、『論考』のアフォリズムはその一例にすぎない。*25

Wittgenstein 本人が「『論考』のスタイルは、Lichtenberg に範を求めた」とでも、どこかで述べているのでない限り、決定的なことは言えませんが、あるいは上の引用文のとおり、あのスタイルは Lichtenberg のものを踏襲したのかもしれません。

よくはわかりませんが、それにしてもアフォリズムのスタイルを採用するなんて、ちょっと不思議に思います。Wittgenstein がぶっ飛んでいて、とんがりすぎており、天才だったから、と言ってしまえばそれまでですが、しかしそう言ってしまうと見もふたもないですし。「天才」というマジック・ワード、ワイルド・カードを使えば何でも説明できてしまうので、もう少し「腑に落ちる」説明が必要となってくるでしょうね。

 

追記 2020年12月13日:

Tractatusアフォリズムで書かれていることに関し、次の文献からも、関連することを引用しておきます。

・ ブライアン・マクギネス  『ウィトゲンシュタイン評伝』、藤本隆志他訳、叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1994年。

本文に付されている註は省いて引きます。

 

まず一つ目。

ルートヴィヒ [・ウィトゲンシュタイン] はフォン・ウリクトに、リヒテンベルクは「すごい」と語り、また第一次世界大戦のずっと前に、ラッセルのためにリヒテンベルクの古本を捜してやった。言語の誤用ないし誤解に起因する、あるいはそれらのうちに現れている過誤と過失というテーマが、リヒテンベルクにおいても顕著に認められる。のちにルートヴィヒ自身のやり方ともなるアフォリズム的な書き方も、同様である。体系を信用せず、「瞬間の閃き」に信をおく者にとっては、また、問題は言語の不適切な使用から生じ、正しい言いまわしを見つけてやることによって解決できると考える者にとっては、アフォリズムは自然な方法であった。それゆえルートヴィヒは「救済の言葉」を、すなわち解決を与えてくれるキーワードを、自分を解放してくれる力ある言葉を、切望するのである。*26

 

二つ目です。

 この著作 [Tractatus] には構造がない、と言っているのではない。それどころか、これには注意深く組み立てられた構造がある。それはこれからまもなく述べることになろう。だが、一つ一つ細かに見ていくと、これはあの 〔レオパルディの〕 『瞑想集』、つまり書物全体の構造をも汲み取れるような警句的パラグラフを集めたノートの類といった特徴を多く残している。これらのパラグラフにおいては、ある程度モデルの役を果たしたに違いないショーペンハウアーやリヒテンベルクの警句集におけるのと同じように、一日のうちに、あるいは一つの節の中で扱われている話題のあいだには、きわめて緩い結びつきしかない。著者には何らかの内的統一性が感じられているのかもしれないが、読者にしてみればともかくも自分の推測次第ということになる。いやそれどことか、言われていることがすべてそれで明らかになるような完全な世界観、すなわち思考および感情の様式がここにはあるのだ、と読者は思わされてしまうのである。*27

〔 〕 は訳者による挿入を表わします。

 

「 〔レオパルディの〕 『瞑想集』」とは Leopardi の Zibaldone のこと。

レオパルディ とは Giacomo Leopardi, 1798-1837, イタリアの詩人。

Zibaldone とは Wikipedia in English の項目 ''Giacomo Leopardi'' の中の一節によると、

The Zibaldone di pensieri [...] is a collection of personal impressions, aphorisms, philosophical observations, philological analyses, literary criticism and various types of notes which was published posthumously in seven volumes in 1898 with the original title of Pensieri di varia filosofia e di bella letteratura (Miscellaneous Thoughts on Philosophy and Literature). *28

レオパルディの訳書の一つに次があります。

・ ジャコモ・レオパルディ  『断想集』、國司航佑訳、幻戯書房、ルリユール叢書、2020年。

この本には、軽く眺めてみた限りわかるのは、一行だけから成る警句から、3~4ページぐらいの論評から成る散文まで、さまざまな分量の文章が含まれています。

『断想集』 の原題は Pensieri です *29

先の Wikipedia in English、項目 ''Giacomo Leopardi'' を見ると、Pensieri については、

The bulk of the contents of Pensieri are derived from the Zibaldone. *30

とあります。

以上が正しいとするならば、邦訳の『断想集』は Zibaldone の一部だと思われます。

 

なお、上記訳者改題によると『断想集』の歴史的な系統は以下のとおりです *31

レオパルディ本人が [...] この作品に言及した際、それはフランス語で Pensées と呼ばれていた。この題に、パスカル『パンセ』 (あるいはルソーの Pensées) が意識されていることは明らかである。だがそれ以上に、モンテーニュラ・ロシュフーコー、ブリュイエールなど、人間の洞察を追求したモラリストたちの伝統の中に自らの作品を位置づける狙いが見て取れる。

『断想集』のもう一つのモデルはルネサンス期のイタリアの散文に見出すことができる。直接引用されているのはカスティリオーネ (「断想39」) やグイッチャルディーニ (「断想51」) だが、それ以上に強く意識されているのは近代政治哲学の始祖の一人ニッコロ・マキャヴェッリだろう。

 

また、上記解題を見ると、『断想集』の内容は、次のとおりになっています *32

『断想集』に収録された全111にのぼる断想は、テーマも分量もさまざまだが、人間社会の分析とそれに対する痛烈な批判が行われているという点が共通している。

 

以上の記述から想像を大いに膨らませてみると、トゥールミン・ジャニクの『ウィトゲンシュタインのウィーン』の話が大よそでも正しいとするならば、Wittgenstein はフランスのモラリストの系統上にあるとは言えないものの、それでも Tractatus は、その背後にモラリスト風の警告を暗に潜ませている文学作品と見なせはしないでしょうか? それは論証に重きを置く分析哲学の著作というよりも、私たちの直観や経験則に訴えて、この世界と人間と、倫理と論理と言語に関する透徹した見方を提出する批評の一種と見なせはしないでしょうか? これはちょっとうがちすぎの解釈かもしれませんね。忘れてください。

 

おまけ

先のトゥールミン・ジャニク、『ウィトゲンシュタインのウィーン』に出てくる言葉で、素敵な言葉を一つ、記しておきます。

人生においては、大事なことは他人の苦悩に感応できる能力である *33

これはトゥールミン先生、ジャニク先生が述べている言葉ですが、この言葉は Tractatus の真髄を表わすものとして述べられています。いい言葉ですね。他の人の苦しみを理解し、いたわってあげることは、本当に大切だと思います。私にもこのような能力があればいいのですが ... 。

追記終わり

 

*1:Juliet Floyd, ''Prefatory Note to the Frege-Wittgenstein Correspondence,'' in Interactive Wittgenstein, p. 4. なお、以下に引用する、英訳でも原典となっているドイツ語原文は、Intelex 社刊の Past Masters Series に入っている CD-ROM の Ludwig Wittgenstein: Briefwechsel, 2004 に基付きながら、先生とこの本の編集者 Enzo De Pellegrin 先生とによって精査・修正を加えられたものです。Floyd, ''Prefatory Note,'' p. 3 and footnotes 9 and 10 at pp. 3-4. そのため、Grazer Philosophische Studien, vol. 33/34, 1989 に載っているドイツ語原文とは少し違っているようです。Floyd, ''Prefatory Note,'' pp. 3-4, footnote 10.

*2:フレーゲよりウィトゲンシュタイン宛書簡」、野本和幸訳、G. フレーゲ、『書簡集 付「日記」』、フレーゲ著作集 6, 野本和幸編、勁草書房、2002年、288-291ページ。この邦訳は、一つ前の註にある Grazer Philosophische Studien 版に基付いているようです。『書簡集』、266ページ。

*3:ドイツ語から私訳/試訳を作る際、最初に既存の邦訳や英訳を見てしまうと、それに引きずられた訳になってしまうので、まずは見ないで訳しています。(ただし、ずいぶん前に邦訳や英訳を読んでいたりすることはあるので、無意識に引きずられているということも、あるかもしれませんが。) そうして訳してから答え合わせをするように邦訳・英訳と突き合せて私が誤訳していないかチェックしました。やはりありましたね、誤訳が。それについては私訳/試訳のなかで、註に入れて記しています。

*4:ドイツ語原文はイタリックで強調を表わしますが、便宜上、鉤括弧でくくっています。

*5:直前の、Tractatus からの引用文と、この直後の Frege の否定疑問文との間には、次のような Frege による推論が隠れていると思われます。「私 (Frege) が推測したように、成り立っていることと事実であることとは同じことだとすると、その場合、「成り立っていること」と「事実」という表現はどちらか一方だけで済ますことができるはずだが、にもかかわらず、ここの1と1.1で、これら二つの表現がともに用いられているということは、実は成り立っていることと事実とは異なったものであるということを示しているのかもしれない。とすると」

*6:私はここの二つの否定疑問文を当初、致命的に誤訳していました。野本先生の訳を見て、私が間違っていることに気が付きました。大変助かりました。ありがとうございます。私は否定が絡んだ文をよく誤訳します。ここの文は否定文で、かつ疑問文で、かつ部分否定であり、かつ直前の文との間に推論のギャップが若干あるので文意を把握し損ねて誤読してしまいました。否定って、量化が関係してくると、特にややこしく感じることがあるんですよね。

*7:この文は Tractatus, 2.011 の和訳に当りますが、手元の独英対訳版 Tractatus, tr. by C. K. Ogden, Routledge, 1922/1981 を見ると、2.011 のドイツ語原文は ''Es ist dem Ding wesentlich, der Bestandteil eines Sachverhaltes sein zu können.'' (p. 30) となっています。しかし Frege の上記引用文で 2.011 に該当する文を見ると、今引いた原文の前半 ''Es ist dem Ding wesentlich, ... '' は ''Es ist für das Ding wesentlich, ... '' として引用されています。このようにドイツ語に違いはありますが、どちらも日本語に訳すと通常「... は、ものにとって本質的である」となり、違いが見えなくなります。いずれにせよ、刊行されている Tractatus の 2.011 と、Frege が書簡で引用している 2.011 はちょっと違っているようだということだけ、念のため、ここに記しておきます。

*8:この「それ故」という表現を当初、私は訳し落としていました。野本先生の訳と突き合せていた時に、私が also を訳していないことに気が付きました。助かりました。先生に感謝致します。

*9:Wittgenstein が、自分の原稿を Frege に一言も理解してもらえなかったと、Russell に訴えている有名な手紙が残されています。Wittgenstein から Russell 宛て書簡、1919年8月19日、To B. Russell, 19.8.1919, in B. McGuinness ed., Wittgenstein in Cambridge: Letters and Documents 1911-1951, Blackwell, 1995/2008, pp. 98-99. 該当個所を引用してみましょう。''I also sent my M.S. to Frege. He wrote to me a week ago and I gather that he doesn't understand a word for it all. So my only hope is to see you soon and explain all to you, for it is VERY hard not to be understood by a single soul!'' (p. 98.)

*10:分析哲学 これからとこれまで』、51-58ページ、『現代思想』、52-56ページ。

*11:飯田先生はこのような言葉を使ってはおられません。念のため、記しておきます。

*12:ただし、Gauss 少年は 1 から n に渡る数の和を計算したのではなく、1 から 100 までの数の和を計算したようです。この話が伝説などの創作ではなく史実に基付いているならばですが。やはりたまたま手元にあった次の本にこの話が出てきます。瀬山士郎、『読む数学 数列の不思議』、角川ソフィア文庫株式会社KADOKAWA、2014年、初版2008年、39-40ページ。なお、この本に限らず数学史の大きめの本ならば、あるいは物語風の数学史の本ならば、これは有名な逸話ですので、この話は大抵出てくると思います。

*13:これも飯田先生が使っている言葉ではありません。Horwich 先生も使っていません。念のため、記しておきます。

*14:以下に出てくる「絶対矛盾的自己同一」という言葉は、周知のとおり、西田幾多郎先生の専門用語ですが、私は西田先生の哲学を知らず、この用語の正確な意味も知りません。ここでは単に、難解で深遠そうな哲学用語の代表例としてこの言葉を取り上げているだけです。他意はまったくありませんので、どうかよろしくお願い致します。

*15:これも飯田先生の言葉ではありません。念のため。

*16:論理学に依れば議論を明瞭にできるという話は、これもたまたま私の手元にあった次の文献でも触れられています。M. Beaney, Analytic Philosophy: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2017, Chapter 5 How can we think more clearly? ここから該当個所を二つ引用してみましょう。''Clear thinking requires respecting the rules of logic and avoiding fallacies, so that one way to think more clearly, as [English philosopher Susan] Stebbing herself urged and helped promote, is to study logic and learn about the various mistakes of reasoning that can be made.'' (p. 86.) ''So a short answer to the question 'How can we think more clearly?' would be: read - and learn the lessons from - a book on critical thinking such as [Stebbing's] Thinking to Some Purpose. We can also learn to think more clearly by making explicit all the premises of our arguments, so that it is easier to ensure - and for others to recognize - that our conclusions are validly inferred. So here the corresponding advice would be: read - and learn the lessons from - a book on logic.'' (p. 89.)

*17:たとえば、先に注記した Beaney, Analytic Philosophy, p. 77 では、必要な場合には、ある概念をそれに関連したより細かい概念に区分けして行くこと、区別して行くことが、より明瞭な思考へとつながることが指摘されています。この「概念の細分化による明瞭さ」は、今上げた三つの明瞭さと関係はあるものの、一応別物と考えることができるかもしれません。Beaney 先生の言葉を、その p. 77 から引いておきましょう。''One way to think more clearly, then, is to appreciate the criteria involved in our use of concepts and hence to recognize that there may be more specific concepts that need distinguishing.''

*18:「Aristotle 以来の論理学の巨人」というようなことを誰かが言っていたように思うのですが、誰がどこでそう言っていたのか、すぐには思い出せません。W. Kneale 先生の文章にそうあったような気がするのですが ... 。間違っていましたらすみません。Kneale 先生に限らず、時々誰かがどこかでこのようなことを言ってましたよね。

*19:松尾芭蕉、『芭蕉 おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄』、萩原恭男校注、岩波文庫岩波書店、1957年、55ページ。

*20:私たちが取り上げている三つの明瞭さ以外に、もう一つ、以前の註で「概念の細分化による明瞭さ」というものに言及しました。もしかしてもしかすると、Wittgenstein は問題の三つの明瞭さや簡潔的明瞭さではなく、この「概念の細分化による明瞭さ」を求めていたのかもしれません。というのも、Wittgenstein は Tractatus の冒頭で、事実や事態や状況など、類似の概念をいろいろと細分化して語っていたからです。しかしたとえそうだとしても、この明瞭化の試みは、書簡で Frege からあれこれと小言を食らっているところからもわかるとおり、失敗だったかもしれません。細分化し過ぎてかえって不明瞭になっていると思われます。少なくとも Frege はそう思ったことでしょう。

*21:ただし Frege も、無駄で冗長な説明は必要ではなく、適切な程度に簡潔に論述されることは必要だと思っていたでしょうが。

*22:今回取り上げた書簡の載っている本に Floyd 先生が寄せておられる次の長い論考の最後で、今述べた点が指摘されています。Juliet Floyd, ''The Frege-Wittgenstein Correspondence: Interpretive Themes,'' in Interactive Wittgenstein, pp. 105-106, especially p. 106. なお Floyd 先生の論考の終わりあたりでは、私たちが問題にしてきた Wittgenstein と Frege にとっての明瞭さについて、いくらか論じられています。しかし本日の私の話の中には先生の考えをうまく盛り込むことができそうにありませんでしたので、表立って先生のこの論考に言及することはしませんでした。

*23:二つの細い糸であるこの平行線が、縒り合うように交わって太い一本のひもとなり、お互いに補い合って一つの調和した強靭な哲学を形成し得る可能性を遠望している先生もおられます。次の文献の該当ページを参照ください。Gottfried Gabriel, Todor Polimenov, ''Analytical Philosophy and Its Forgetfulness of the Continent: Gottfried Gabriel in Conversation with Todor Polimenov,'' in: Nordic Wittgenstein Review, vol. 1, no. 1, 2012, pp. 169-173. なお、この論文は、Nordic Wittgenstein Review のホームページから誰でもダウンロードして無料で見ることができます。

*24:Russell は文学的素質を持っているかもしれませんが。ノーベル文学賞を取っていることもありますし。

*25:S. トゥールミン、A. ジャニク、『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー平凡社、2001年、289ページ。Wittgenstein と Lichtenberg の関係について、簡単には以下を参照ください。寺中平治、「リヒテンベルクとウィトゲンシュタイン」、『ウィトゲンシュタイン小事典』、山本信、黒崎宏編、大修館書店、1987年、249-252ページ。

*26:マクギネス、62ページ。

*27:マクギネス、498-499ページ。

*28:URL =<https://en.wikipedia.org/wiki/Giacomo_Leopardi#The_Zibaldone>. 2020年12月閲覧。

*29:國司航佑、「訳者解題」、レオパルディ 、『断想集』、213ページ。

*30:URL =<https://en.wikipedia.org/wiki/Giacomo_Leopardi#Pensieri_(1837)>. 2020年12月閲覧。

*31:國司、「訳者解題」、213-214ページ。インターネットにこの訳者解題が上がっていますので、そこから引用します。ジャコモ・レオパルディ 『断想集』 訳者解題 (text by 國司航佑). URL = <https://note.com/genkishobou/n/n82f5b460c5e0>.

*32:國司、「訳者解題」、214ページ。引用は直前に記したインターネットからのものです。

*33:トゥールミン・ジャニク、320ページ。