お知らせ
今まで毎月一回、だいたい月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。
私の身辺が流動的になってきており、次回から定期的に更新できるか不明です。
もしかするとあまり変わらないペースで更新できるかもしれませんし、ひょっとすると長期的に更新が止まるかもしれません。
いずれにせよ、できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。
完全に更新を止めてしまったり、このページを閉鎖してしまう予定は今のところありませんが、今後は従来どおりにはいかない可能性があります。
万一、更新を完全に止めたりページを閉鎖する場合は、事前に告知するつもりです。
とにかく状況が流動的であることをお伝え致します。よろしくお願い申し上げます。
お知らせ終わり
目次
はじめに
先日、当ブログで、なぜ Ludwig Wittgenstein は Tractatus Logico-Philosophicus (以下 Tractatus と略) をアフォリズムで書いたのだろうか、という疑問を述べました *1 。私は以前からこの疑問を抱いていたのですが、同様の疑問をお持ちの方もおられると思います。
これについてよく言われるのは、アフォリズムで物を書いたことのある Lichtenberg, Schopenhauer, Leopardi, Nietzsche, Kraus からの Wittgenstein に対する影響です *2 。確かにそうかもしれません。これらの著者の著作を Wittgenstein が読んで、アフォリズムのスタイルはいいなと思い、それでそのスタイルを採用したのかもしれません。しかしなぜそれがいいと思ったのでしょうか? なぜそのスタイルを採用することが好ましいと感じたのでしょうか? その理由は何だったのでしょうか?
今日はその答えを記してみます。ただし、その答えというのは推測によるものです。私の単なる思い付きです。日本語や英語やドイツ語などの様々な関連文献を博捜した上での結論というわけでもなく、時間をかけてよくよく熟慮した結果というわけでもなく、ふと思ったことをここに書き出してみるだけです。
私は Wittgenstein の哲学の専門家ではありませんし、彼の哲学をよく知りません。彼の哲学を論じるにあたって読んでおくべき文献もろくに読んでおりません。
ですから以下に記すことは、ほとんど空想です。そのためきっと間違っています。読まれる方は、真に受けてはいけません。必ず疑ってかかって読んでください。私自身、再検討の余地が非常にある暫定的なものと考えています *3 。
ただ今後の考察の取っ掛かり、足掛かりとして書き記しておこうと思います。私だけでなく、もしかすると読まれる方の幾人かにとっても足掛かりとなるかもしれません。そうなれば幸いです。
問題
では改めて問います。なぜ Wittgenstein は Tractatus をアフォリズムで書いたのでしょうか? 少なくとも三つ、理由があると個人的には推測しています。以下にその理由を (1), (2), (3) と番号を振って記してみましょう。
仮に、
・ S. トゥールミン、A. ジャニク 『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2001年、
で述べられていることが大筋であれ、正しいとするならば *4 、Tractatus は暗に倫理的なことを話題にしている書であると言えます *5 。
理由 (1)
ところで Wittgenstein によると、倫理的なことは論証も証明もされません *6 。それは示唆されるだけです *7 。
このことに関し、私たちは次のように考えることができるかもしれません。
たとえば倫理的なこととして、生きる意味とは何か、と問われたならば、いろいろな答えがありうるでしょうが、一つには「自分のみならず、他の人をも大切にし、生かしてあげるために生きているのだ」という答えが考えられます *8 。
しかしどうしてその答えが正しいと言えるのでしょうか? その理由をいくつか考え出すことはできるかもしれません。けれども、考え出されたその理由に対しても、なぜそれが正しいのかと再び問うことができるでしょう。この再度の問いに答えを与えたとしても、さらにまたそれに対して「なぜなのか?」と問うことができます。
以下、可能な限り、問いと答えの応酬が続くでしょうが、どこかで循環が始まるか、論点先取に陥るか、あるいは途中でわけもなく応酬が止まってしまうことでしょう (Münchhausen trilemma)。おそらく人生の意味に対して正当な理由を証明することは不可能かもしれません。
しかし、その正当な理由の証明を知らなくても、たとえば寓話や格言のようなものを通じて、私たちは人生の意味に関し、示唆を受けることはあるでしょう。またそのような示唆にこそ、人々は多くの説得力を感じるのではないでしょうか? ある種の倫理的なことは理屈でわかるのではなく、しばしばちょっとした示唆や、人々の行動から観取されるものなのかもしれません。
以上のようなことから Wittgenstein は Tractatus を、ものごとについて、たとえば倫理的なことについて、示唆するのにふさわしいスタイルであるアフォリズムで書いたのかもしれません *9 。
理由 (2)
また、倫理と美は一つにして同一であると Wittgenstein は考えていました *10 。
倫理と美とが同じである、同じものであるとは、いかなることでしょうか? Wittgenstein はこのことで、何を言いたいのでしょうか? はっきりしたことはわかりません。これについては、もしかすると次のように私たちは考えることができるかもしれません。
たとえば、何ものにも動ぜず (nil admirari)、泰然自若として過酷な現実を受け入れ、stoic に生きることを心がけている人は、その姿も生きるスタイル (美学) も、冗漫、冗長、饒舌さとは無縁でありたいと、普通は願うものではないでしょうか?*11 冗長で冗漫なところのある饒舌な人は、いろいろと例外もあるでしょうが、泰然自若であるとは、あまり思われません。
つまり、その人の持つ倫理観は往々にしてその人のスタイル (美学) となって現れるものなのであり、かつその人のスタイル (美学) はしばしばその人の倫理観を規定するものだ、ということです。
ところで倫理的なことのうち、善きことが冗漫、冗長、饒舌であるとは想像しにくいですよね。おそらく善きこととは、簡潔で端的で直截簡明であり、それは言い訳がましくもなく、くどくどしいものでもないと思われます。
そこでもしも Tractatus が倫理的なことのなかでも善きことを、それとなく伝えることをねらっているのだとするならば、そのようなことを示唆するのにふさわしいスタイル (美学) として、冗漫、冗長、饒舌さとは対極の形式を持った、アフォリズムが選ばれたのかもしれません *12 。
以上の (1) と (2) は、Wittgenstein の内心から発する動機に基付いた理由と言えます。これは、Tractatus がアフォリズムで書かれている「内発的な理由」とでも呼べるでしょう。
そして (1), (2) に加えて、以下のような理由も推測されます。
理由 (3)
ひょっとしてひょっとすると、Tractatus がアフォリズムの形態を取っているのは、そこで展開されている考えが、第一次世界大戦の前線の、塹壕の中で書かれたからなのかもしれません *13 。Tractatus の原案は主として第一次大戦の戦場で書かれたので *14 、そのような状況では長々と論述を書き連ねている暇はなく、思い付いたことを空いた時間に手早く書き留めておくしかなかったからなのかもしれません。確かに、塹壕に身をひそめ、鋼鉄の嵐が吹き荒れるなかで (in Stahlgewittern)、何か考えを記そうとしても、せいぜい短いメモ書きしかできなかったでしょうし。
ただし、Wittgenstein は原野の戦場でいつでも多忙だったというわけではなく、休暇をもらって Wien に帰省していることもあったので *15 、戦場という状況が Tractatus をアフォリズムで書かせるに至らしめたと、ただちに断言することはできないでしょうが ... 。
Wittgenstein は大戦中、河川を航行する小型砲艦に乗船していたこともあれば *16 、前線後方の工廠で個人用の自室を与えられ、事務的な仕事に就いていたこともあり *17 、年がら年中、戦線上の原野の陣地で敵の砲撃に身を隠して耐えていた、というわけではないようなので、Tractatus の原案すべてが「塹壕の中で」書かれたというのは、半ば比喩です。
とはいえ、Tractatus がアフォリズムの形態を取っている原因の一つは、それが戦場という極限の状況で、合い間合い間を見つけながら、その時限りの思考の断片をメモするしか、場合によっては余裕がなかった、という執筆事情もあったかもしれないことは、いくらか考えられるかもしれませんね *18 。
この (3) は、Wittgenstein を取り巻く環境に端を発する理由です。こちらは、(1), (2) の「内発的な理由」とは反対に、Tractatus がアフォリズムで書かれている「外発的な理由」とでも呼べるものだろうと思います。
まとめ
ここまでの話を取りまとめてみましょう。
なぜ Wittgenstein は Tractatus をアフォリズムで書いたのでしょうか?
(1) なぜならば、Tractatus では論理や言語に関する考察の影で、倫理的な事柄についても暗に話題にしていると思われるのですが、Wittgenstein によると、倫理的なことについては論証はできず、ただ示唆があるのみであり、倫理的なことに関し、示唆するには証明という論述方法は不適格であって、むしろそれには読む者にただヒントを与えるようなアフォリズムこそがふさわしいと考えられただろうから。
すなわち、倫理的なことを示唆するのにふさわしいのはアフォリズムだから。
(2) なぜならば Wittgenstein によると、倫理と美とは一つにして同一であり、倫理は美的スタイルを通して示唆されるのであって、Tractatus において厳粛な倫理を示唆したいとするならば、それにふさわしいのは戒律的な警句、すなわちアフォリズムだろうから。
すなわち、厳粛な倫理を示唆するのにふさわしいのは、冗長で理屈っぽい論証ではなく、簡潔で直截的なアフォリズムだろうから。
(3) なぜならば、Tractatus の原案は第一次世界大戦における前線の塹壕の中で主として書かれたのであり、その場合、「鋼鉄の嵐」のもと、のんびりと長文をしたためている暇はなく、短いメモ書きとしてのアフォリズムで記さざるを得なかったから。
すなわち、戦場で時間や労力が制限されるなか、事の本質を把握し書き留めるのにふさわしいかったのは手短なアフォリズムだったから。
以上です。
Last but not least,
ただし、念のため繰り返し言っておきますが、(1), (2), (3) はすべて単なる推測です *19 。決定的な事実である、というのではありません。したがってここで話が終わるのではなく、ここから (1), (2), (3) の答えが正しいかどうかの本格的考察が始まるのです。興味がある方は始めてみてください。私も今後、時間や余力があれば、考察を続けてみます。
そして何よりも大切なことは、Tractatus の記述スタイルの分析を通じて Tractatus で述べられていることの理解を深め、その理解をもとに、論理や言語や倫理、この世界や人生について、私たちの考えを耕していくことです。
Tractatus の記述スタイルの分析それ自体は、さして重要ではありません。問題は、私たち自身の倫理や世界や人生です。これら倫理や世界や人生をもっとよく知るために、Tractatus の内容に助けを求めているのです。そしてその内容の理解の深化のために、Tractatus の記述スタイルの分析に手がかりを見ようとしているのです。
よろしければ、Tractatus の記述スタイルの分析、つまり (1), (2), (3) の答えが正しいかどうかの考察をとおして、私たち自身の倫理や世界や人生について、改めて考え直してみてください。倫理や世界や人生こそが私たちにとって最も興味深いものなのですから。
これで終わります。上記に含まれているはずの誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字などにお詫び致します。どうかお許しください。
追記2020年12月31日:
以下の論文該当ページの註を見てみると、
・ 古田裕清 「ヴィトゲンシュタインの倫理についての考え方」、『ウィーン その知られざる諸相』、中央大学人文科学研究所編、中央大学出版部、2000年、152ページ、註 (16)、
次のようにあります。
第1次世界大戦中に Wittgenstein が書き溜め、『論理哲学論考 (Tractatus Logico-Philosophicus)』を構成する際の素材となった
ということだそうです。ゴットフリート・ケラー (Gottfried Keller, 1819-1890) さんは、私はよく知らないのですが、スイスの作家、政治家のようです。とすると、Tractatus のアフォリズムは Keller さんの日記の体裁を踏襲したものだ、ということでしょうか?
とりあえず internet で Keller さんの Tagebuch が見られないか、調べてみると、Amazon でいくつか中身が見れるようになっていました。たとえば Amazon.co.jp の Keller さんによる Das Tagebuch, das Traumbuch und Reflexionen と題する本で中を見ると *22 、1843年7月8日の日記が出てくるのですが (p. 3)、アフォリズムにはなっておらず、普通に文章が長々と書かれています。他にアフォリズムで書かれているページでもあるのでしょうか?
次の評伝を開くと、
・ ブライアン・マクギネス 『ウィトゲンシュタイン評伝』、藤本隆志他訳、叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1994年、
関連することとして、以下のように書かれています。冒頭の「この時期」とは、Wittgenstein が1906年以降、Berlin で機械工学を勉強していた頃のことです。そして初めの辺りの「こんなにも長い年月のあいだ」から「(2)」までの段落は、Wittgenstein の日記から引用されている文です。
この引用文によると、1906年頃、これは Wittgenstein が17才ぐらいのことですが、その頃から紙片に物を書き付けるということを始めたみたいですね。そのあとで、Keller の日記のまねをしたいという虚栄心に突き動かされ、ますます書き続けられた、ということみたいです。
とにかく何か紙切れに書き出すという習慣が始まり、その後、Keller の日記を見てまねをしたいと思うようになり、そうしてその習慣が続いて行った、ということのようですね。もともと普段から自発的に短い文を書き付けるという習慣があり、その後、Keller の日記にも外発的に触発され、第一次大戦中の塹壕の中でも短文を書き付ける習慣を維持し、書き溜めた『草稿』を読み返して、気に入った文を抜き出し並べ替え書き直し、それでアフォリズムの羅列から成る Tractatus ができあがった、ということでしょうか。
長い文章を書いていたところ、短いアフォリズムを読んで、それをまねた短文を書き始めた、というのではなく、最初から自分で短い文を書いていたところ、Keller か Lichtenberg のような人たちの短いアフォリズムに親しむようになって、短文を書く癖が強化されていった、という感じなのかもしれません。
さて、どうなんでしょう? まだ私は確信が持てません。今のところ和書の資料をもとにこの問題を考えていますが、今後はドイツ語や英語の文献にも当たって、この問題を調べてみたいと思っています。ただし今の私は気力も体力も時間もないので、独英の文献に手を伸ばすのはいつになるか、まったくわかりませんが。
追記終わり
*1:当ブログ、2020年10月25日、項目名「'Ich finde sie schwer verständlich' ... 」の末尾を参照ください。
*2:とりあえず、Tractatus のアフォリズムが Lichtenberg の影響を受けたものであるという主張は、以下の本文中に記したトゥールミン・ジャニクの邦訳書、289ページに見られます。また、ブライアン・マクギネス、『ウィトゲンシュタイン評伝』、藤本隆志他訳、叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1994年、62ページにも見られます。Lichtenberg のコンパクトな邦訳アフォリズム集としては次が知られています。池内紀編訳、『リヒテンベルク先生の控え帖』、平凡社ライブラリー、平凡社、1996年。ここには、当時の背景知識がないとわからないものや、古典文学、ドイツ語、ラテン語、物理学の知識がないとわからないものなどを除いて、池内先生の好みからアフォリズムが選び出され、テーマごとに並べられています。Schopenhauer 以下の影響については典拠先を明記することは、煩雑になるので控えます。
*3:そもそも、ここでの問題の答えは、既に決定的なものが研究者によって与えられているのかもしれません。しかし、私は不勉強なため、今のところそのことを知りません。それ故、私は何か見当違いな答えを与えているかもしれません。そのようでしたら大変すみません。このあとの論述に含まれているであろう間違いに対し、あらかじめお詫び申し上げます。
*4:[1] ただし、次の文献にこの本の問題点が指摘されています。出版年順に上げます。ドミニク・ラカプラ、「『ウィトゲンシュタインのウィーン』と『論理哲学論考』」、加藤泰史訳、『現代思想』、臨時増刊号、総特集 ウィトゲンシュタイン、青土社、1985年、水上藤悦、「ウィトゲンシュタインと世紀末ウィーン」、『ウィトゲンシュタイン読本』、飯田隆編、法政大学出版局、1995年、島崎隆、「第八章 ウィトゲンシュタインとウィーン世紀末」、『ウィーン発の哲学 文化・教育・思想』、未来社、2000年。ラカプラ先生の論文は、いわゆる French Theory からの批判と呼べるものです。そのため、おそらく分析系の人にとっては読みにくく、評価が大きく分かれる論文だと思われます。島崎先生の論考は、このラカプラ論文を手がかりにして批判を展開されています。[2] また、邦訳の『ウィトゲンシュタインのウィーン』は英語原書からの翻訳ですが、その後、ドイツ語版が出版されており、このドイツ語版ではいろいろと修正が加えられているとのことです。『ウィトゲンシュタインのウィーン』の訳者藤村先生による「平凡社ライブラリー版 訳者あとがき」、457ページ、および、水上、31-36ページ参照。厳密な学術的考察においては、ドイツ語版をひも解く必要があります。[3] なお、もしも、トゥールミン・ジャニクの『ウィトゲンシュタインのウィーン』が大方間違っているのなら、本文での以下の話も、大方間違っています。
*5:トゥールミン・ジャニク、311-317、323-325ページ。暗に倫理的なことを Tractatus では話題にしているのだという見解の根拠は、L. Wittgenstein, Briefe an Ludwig von Ficker, hg., G. von Wright, Otto Müller Verlag, 1969 所収の Wittgenstein による Ficker 宛ての非常に有名な書簡に基付いています (私はこの書簡のドイツ語原文は未見)。その書簡の部分的な和訳はあちこちで引用、掲載されていますが、今の場合たとえば、トゥールミン・ジャニク、314-315ページに見ることができます。
*6:トゥールミン・ジャニク、317-318ページ。Wittgenstein の考えでは、そもそも倫理は述べることのできないものです。Tractatus, 6.421. 'Es ist klar, dass sich die Ethik nicht aussprechen lässt (私訳: 倫理は述べられ得ないということは明らかである).' Ogden 版、Routledge, 1922/1981, p. 182. そうだとすると、言うこと、述べること、表現することのできないものについては、論証も証明もすることはできないでしょう。また、倫理的なことを述べているとされる文は無意味であるとも Wittgenstein 本人は言っており、その理由も本人自身で語っている文献があります。それは次の邦訳で読むことができます。「倫理学講話」、杖下隆英訳、『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』、ウィトゲンシュタイン全集第5巻、大修館書店、1976年。この「講話」は1929年から1930年頃に書かれたもので (『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』、401ページ)、1921-1922年刊行のTractatus からおよそ10年経っていますが、「講話」での倫理に対する見解は、Tractatus に見られる倫理についての見解と、基本的に同じであると考えられています。吉田寛、『ウィトゲンシュタインの「はしご」』、ナカニシヤ出版、2009年、121ページ。
*7:「語ることと示すこと (saying and showing)」のうちの、示すことに相当。トゥールミン・ジャニク、315-316ページ。
*8:この答えに類似の話は次に出てきます。トルストイ、「人はなんで生きるか」、『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』、中村白葉訳、岩波文庫、岩波書店、1932年、改版1965年、52-53ページ。また同書所収の物語「二老人」から得られる教訓も、「他人を大切にして愛してあげなさい。そしてそのために人は生きているのです」ということになるかもしれません。ここで Tolstoy の民話を私が取り上げているのは、そもそも Wittgenstein が Tolstoy の民話集を非常に高く評価していたからです。この点はしばしばあちこちで指摘されていることであり、どこで指摘されているのかを逐一明記するのは大変なことなので、それは控えますが、たとえば、N. マルコム、『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』、板坂元訳、平凡社ライブラリー、平凡社、1998年、66ページをご覧ください。このページには「一人の人にどれくらい土地が必要か」という作品が Tolstoy の短編集『二十三の物語』に収められていると書かれていて、この短編集を Wittgenstein はとても高く評価していたそうですが、この「一人の人に ... 」は Tolstoy の大変有名な民話ですので、先の短編集は表題に「民話」とは書かれていませんが、明らかに民話集だと思われます。なお、Tolstoy の書いた民話のうち、Wittgenstein は上記「二老人」の話を最も敬愛していたそうです。星川啓慈、『増補 宗教者ウィトゲンシュタイン』、法蔵館文庫、法蔵館、2020年、77ページ。
*9:トゥールミン・ジャニク、327ページに、これに近いと思われる話が出ています。加えて、トゥールミン・ジャニク、293ページにも、これに少し関係していると考えられる話があります。
*10:Tractatus, 6.421. 'Ethik und Aesthetik sind Eins (私訳: 倫理と美は一つにして同一である).' Ogden 版、Routledge, 1922/1981, p. 182.
*11:ただし、nil admirari というと、禁欲的、克己的、厭世的、諦念的なイメージを伴ないますが、Stoa 派の、特に Epictetus においては、nil admirari とはそのような受動的で否定的で忍従を自らに強いる心境を表わしているものではなく、かえって積極的肯定的に運命の前に毅然として立ち、非情な運命によって引き起こされる心中の動揺を、決然として静観することを意味したようです。次を参照。國方栄二、「エピクテトス ストイックに生きるために」、『エピクテトス 語録 要録』、鹿野治助訳、中公クラシックス、中央公論新社、2017年。
*12:このことに間接的につながってくる話が、先に上げた、次の文献該当ページにあります。水上、37ページ。
*13:実際、Wittgenstein は東部戦線の塹壕の中にいたことがあるようです。G. H. フォン・ライト、「ウィトゲンシュタイン小伝」、N. マルコム、『ウィトゲンシュタイン』、平凡社、1998年、168ページ。
*14:星川啓滋、石神郁馬、「解説 戦場のウィトゲンシュタイン」、L. ウィトゲンシュタイン、『ウィトゲンシュタイン 『秘密の日記』 第一次世界大戦と『論理哲学論考』』、丸山空大訳、春秋社、2016年、196ページ。および、同解説の281-282ページ、註 (21) を参照。なお、Tractatus が扱っている論理学の中心的な考えは、既に第一次大戦がはじまる前に作られていたそうです。フォン・ライト、168ページ。
*15:星川・石神、245, 261, 265ページ。
*16:星川・石神両先生の解説文に、この小型砲艦への言及がたびたびあります。頻繁に言及されているので、どのページを参照すべきか、一々明示することを差し控えます。ただ一つだけ、この小型砲艦の軍事的解説が行なわれているページを記しておきますと、それは179-180ページです。
*17:星川・石神、213ページ以下参照。
*18:いずれにせよ、戦場における Wittgenstein の様子については、先ほどから言及している星川・石神両先生の解説文に非常に詳しく述べられているので、Tractatus の原案執筆の状況に思いをはせたい方は、この解説文を熟読してから、その状況を想像してみるといいと思います。
*19:ですから、Wittgenstein さんにお会いして、これらの推測が正しいかどうか聞いてみたら、「全部間違っている。Tractatus をアフォリズムで書いた理由なんて特にない。単に断片的に考え、断片的に書き連ねるのが自分の好みに合っていたからそうしたまでだ。深読みはよしてくれ」と言下に一刀両断されるかもしれません。そんなふうに言われたら、何だか拍子抜けしますが、実際そうされないという保証はどこにもないようにも思います。
*20:引用者註: 原本、Notebooks 1914-16, Basil Blackwell, 1979. Suhrkamp 版全集第1巻。
*21:引用者註: 'WA' とは、Ludwig Wittgenstein, Wiener Ausgabe, Springer,1993 のこと (と思われます。というのも、この引用文の「あとに」 Wiener Ausgabe を 'WA' と略記すると述べられているので)。私は Wiener Ausgabe の Band 2, S. 44 は未見です。
*22:URL=<https://www.amazon.co.jp/-/en/Gottfried-Keller/dp/384303074X>.
*23:引用者註: この括弧 [ ] は邦訳書原文にあるもので、McGuinness 先生が挿入したものです。
*24:引用者註: 原文は傍点ですが、下線で代用。
*25:マクギネス、94-95ページ。
*26:マクギネス、530ページ。
*27:引用者註: Wittgenstein の「暗号日記」からのこの引用文は、次のいずれの文献にも出てこないように見えます。ウィトゲンシュタイン、『秘密の日記』、丸山空大訳、春秋社、2016年、イルゼ・ゾマヴィラ編、『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』、鬼界彰夫訳、講談社、2005年、ヴィトゲンシュタイン、『反哲学的断章 文化と価値』、丘沢静也訳、青土社、1999年。急いでページを繰ったので、もしかすると私が見落としているのかもしれませんが。