On a Few Titles I Was Impressed by Last Year

お知らせ

今まで毎月一回、だいたい月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

私の身辺が流動的になってきており、このまま定期的に更新できるか不明です。

もしかすると従来どおりあまり変わらないペースで更新できるかもしれませんし、ひょっとすると長期的に更新が止まるかもしれません。

いずれにせよ、できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。

とにかく状況が流動的であることをお伝え致します。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

新型コロナウィルスが今も猛威を振るっています。

そのため、精神的にも肉体的にも、つらい思いをされている方も多いと思います。

私もきつい状況に置かれています。毎日毎日が苦痛です。

何だかジェット・コースターに乗せられて、振り回されている感じです。

息つく暇がない気がします。

そんななか、さきほど心を落ち着けるために音楽を聴きました。アルバム『Getz/Gilberto』です。

同じような思いを抱いている方に、この有名なアルバムをお勧めします。

このアルバムを聴くと、「生まれてきてよかったな」といつも思います。これを聴くためだけでも「生きていてよかった」と本当に思います。

心も体もつぶれそうな方は、このアルバムを聴いてみてください。ゆっくりと、じんわりと、聴いてみてください。少しだけ落ち着きます *1

 

さて、今年も次の PR 誌を購入し、拝読させていただきました。

・  『みすず』、読書アンケート特集、みすず書房、2021年1・2月合併号。

この小冊子の中では多くの先生方が2020年に読んだ印象深い文献を紹介しておられます。

私自身はここ数年、心身ともに不調が続き、ほとんど読書らしい読書もしておらず、文献の収集もしていません。

そのような状態ですが、私が昨年わずかばかり拝見した文献のうち、印象に残ったものを僭越ながら上げてみたいと思います。それは二つありました。

それぞれについて簡単に述べてみましょう。

 

一つ目は neo-Fregeanism, neo-logicism についての論文です。

・ Roy T. Cook  ''New Waves on an Old Beach: Fregean Philosophy of Mathematics Today,'' in O. Bueno and Ø. Linnebo eds., New Waves in Philosophy of Mathematics, Palgrave Macmillan, 2009.

これについては昨年、このブログで詳しい話をしました (2020年9月27日)。ごく簡単に述べるなら、Neo-Fregeanism とは、自然数論や実数論の定理を Hume's Principle と呼ばれる式から導き出し、それがいわゆる「論理主義」と言われるプロジェクトとして成功していることを立証しようとしている試みです。

このプロジェクトが果たして成功しているかどうかについて、論理学や数学に関する非常にテクニカルな議論が展開されているようです。そのため、ついついこのプロジェクトの哲学的な含みについて、あまり気が回らなかったり、忘れがちになってしまうのですが、上記の Cook 先生の論文では、このプロジェクトの哲学的含みを改めて明確に提示し、足場をしっかり哲学的側面に固定した上で、そこからプロジェクトの刷新を図ろうとされています。

Neo-Fregeanism が、どのような哲学的問いを追究しようとしているのかというと、Cook 先生によるならば、それは (1) 自然数はいかにして知られるのか、(2) 自然数を使った数論はなぜ自然界に応用可能なのか、という二つの問題だそうです。

Neo-Fregean がこれら二つの問題を解こうとして neo-Fregeanism というプロジェクトを推進していたことに、私はあまり気が回っていなかったので、Cook 先生の論文を拝読して、「なんだ、そういうことだったんだ」という感に打たれました。

それもそのはずかもしれません。というのも大変大まかに言えば、それは次のような理由からです。Frege による数に関する Platonism は、個々の自然数という対象がまずあって、それからそれを指すものが数字、数詞なのだ、と考えるのではなく、この逆に、まず数字、数詞があって、それからそれが指すものとして個々の数があるのだ、と考えていたと解されることがあります。Frege のこの考え方は、数という抽象的なものの認識はいかにして可能かという問題の一つの解決案と捉えられます。なぜなら、ざくっと言えば、数字、数詞を含んだ、真である文や式を把握しているならば、私たちはそれら数字や数詞が指している抽象的な数なるものを知っている、と解し得るからです。そうすると neo-Fregeanism のプロジェクトは、数に関する Platonism の認識論的難問を引き受けて、Frege の考え方とは違うところがあるものの、その難問を neo-Fregean なりに解決しようと試みていたと考えられます。

いずれにしても、「なるほど、そういうことだったんですね、なんだかすっきりしました」という感想を抱いたということで、Cook 先生の上記論文には教えられることが多く、感謝しております。Neo-Fregeanism の哲学的側面について理解したい、再考したいという方は、この Cook 論文を拝見されるとよいかもしれません。

なお、上の (1), (2) の問いに対する答えについても、今回の Cook 論文で提示されています。その答えに納得できるかどうかは別ですが ... 。詳細はこのブログの2020年9月27日、項目名 ''In Short, What is the Neo-Fregeanism from a Philosophical Point of View?'' をご覧ください。

 

昨年印象に残った文献の二つ目は、ずっと前から出ている次の Wittgenstein 関連の本です。

・ S. トゥールミン、A. ジャニク  『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー平凡社、2001年。

実は私はこの有名な本を読んでいませんでした。とはいえ、私はこの本を4冊も持っており、読む準備はできていたのですけれど。

正確に言えば、この本は初版が TBS ブリタニカから出ていて、それを1冊、そしてこの TBS ブリタニカ版を改訳した上記平凡社版を3冊の、計4冊を私は持っているということです。

なぜまた4冊もなのか、といっても、深い理由があるわけではありません。間違って買ったのでもありません。買った本の保存状態があまりよくなかったから、ましなものを見かけるたびに、ついつい買ってしまったのです。

それはさておき、この本はとても有名なので、Wittgenstein 関連の本や論文を読んでいると、ちょくちょく言及されており、何を述べている本なのかも触れられていることから、読む前に大体の結論がわかってしまっていたため、なんとなく読まずにここまで来てしまいました。まぁ、私は Wittgenstein の哲学を専門的に勉強しているわけではないので許してください。

トゥールミン・ジャニク先生のご高著における要点は、おおよそ次のような感じになると思います。

[1] Wittgenstein の哲学は、Russell らのイギリス経験論/経験主義の流れの中に置いて捉えられるべきものではなく、かつ、論理実証主義をその後方から支持している本として捉えられるべきものでもなく、1900年前後の Wien の文化を背景にして、捉えられるべきものである。イギリス経験論や論理実証主義が取り組んでいた問題を解決するために Wittgenstein は彼の哲学に取り組んでいたのではなく、世紀転換期の Wien の文化の中で醸成されていた問題を解決するために、彼は自らの哲学に取り組んでいたのである。

[2] また、Wittgenstein の Tractatus は、論理と言語について考察しているだけの本として捉えられるべきではなく、それらの考察とともに、倫理についての本としても捉えられるべきである。Tractatus は論理や言語の問題を解くことが最終目的なのではなく、それらの問題を解くことを通じて、ある倫理観を暗黙のうちに示し、本来あるべき科学と倫理の姿を闡明にし、両者の関係について、人々に覚醒を促すことが目的なのである。

[3] Wittgenstein によると、科学的な事柄は真偽を問うことができ、語ることができる。倫理的なことや宗教に関わることは真偽を問うことはできず、語ることはできない。このような、語ることのできることと語ることのできないことの区別は、我々が持つ言語の能力や言語の特徴を考察することで明らかにすることができる (超越論的な考察)。Tractatus では言語の特徴を文が事実を写し取るという「写像モデル」で分析できると Wittgenstein は考えた。ここでは「像 (Bild)」がキーワードである。ここまでは前期における Tractatus の Wittgenstein である。しかし Tractatus で考察した言語は自然言語というよりも理論上の言語であり、この言語は写像関係を通して世界と結び付いていることが自明視されていた。その後、理論上の言語ではなく、実際に使われている言語の応用面を念頭に置くと、写像関係に基付く言語と世界との結び付きは自明なものではないと Wittgenstein は気が付いた。そこで彼は、実際の言葉の用いられ方という「使用法」に注目することで、応用面をも考慮した言語の特徴を明らかにできると考えた。ここでは「言葉の意味とは、その使用法である」という主張が鍵となる。そして言語の使用法に基付く言葉の使用は「言語ゲーム」と呼ばれることとなる。この言語ゲームはまた、我々の一般的な生活パターンの一部であると言うことができ、このパターンのことは「生活形式」と呼ばれた。こうして言語の使用は結局一般的な生活形式の特殊例だとわかる。したがって、生活形式や言語ゲームの実態を捉えるならば、実際の言語の特徴が明らかになり、ひいては語りえることと語りえないことの区別が言語を通して明らかになる、と考えられた。これが後期の Wittgenstein の基本的な考え方である。こうして前期と後期は、語りえることと語りえないことを、言語の能力や言語の特徴を超越論的に考察することで明らかにしようとしている点で共通しているのである。

細かいことを別にすれば、大体こんな感じでしょうか。ただし、特に [3] についてはにわかには首肯することがためらわれるので、慎重で十分な検討が必要だと思われます。

それにまたこの本では、おそらく大局的な見取り図を描くのには成功していると思いますが、生意気なことを申しますと、詰めが足りない部分がいろいろとあるのではないかという、そんな印象も受けました。細かい論証を展開しないとただちに反論の矢が飛んでくる分析系の哲学を勉強していますと、この本の中の論証はしばしば大まかな感じを受けます。まぁ、著者の先生方もおっしゃっているとおり、ほとんど状況証拠だけで結論を引き出そうとしている本なので、やむを得ないとは思いますが ... 。

それに、そこに専門用語が含まれいるわけでもないのに、二度、三度、読み返してもよくわからない文が多々見られたのも気になりました。特に難解なことを言っているわけではない文なのに、何が言いたいのかよくわからない文がちょくちょく見られ、どうもごたごたした印象を受けます。とはいえ私は Wien の文化にまったく無知なので、そのせいで読んでいてわからないことが多いのかもしれず、大きなことは言えませんが ... 。

いずれにせよ、この本を今さらながら読んでみたのですが、それでもやはりおもしろかったです。それにしても、何かと興味をかき立てられる本でした。

 

私は Wittgenstein の哲学については、以前は Tractatus の論理学的側面に関心がありましたが、今は (a) 彼の哲学観、(b) 彼の倫理に対する考え、(c) 数学の基礎付けの際に矛盾が出てきても、それは恐れるに足りないのだ、という彼の見解、および (d) 規則に従うことのパラドックスと推論規則との関係に関心があります。(関心があるだけで、これらの話題に詳しいわけではありません。)

(a) に関して、Wittgenstein は、哲学は理論ではない、と言いますが、それは本当なのだろうか、どの程度本当なのだろうか、という点に興味を覚えます。また、(b) について、彼は、倫理は語りえない、と言いますが、これも本当なのだろうか、どうしてなのだろうか、という点に、そして (c) については、なぜ矛盾は脅威ではないのだろうか、脅威ではないと本当に言えるのだろうか、という点に興味を感じます。最後に、(d) については、ごく基本的な推論規則/論理法則は採用できない、改訂できないという、いわゆる Adoption Problem を考える上で、規則に従うことのパラドックスに関心があります。

このうち (a) と (b) の問題を考えるには、上記トゥールミン・ジャニク先生の本がとても参考になりそうですね。

ですが、私は時間も能力も体力も気力もないので、今の四つの疑問については本格的に追究するというのではなく、そのうち気が向けば、ぽつぽつと考えてみたいと思っています。

なお、トゥールミン・ジャニク先生のご高著については、2020年12月27日の当ブログでも言及しています。また2020年10月25日にも、ブログの終わり辺り、PS のセクションで触れています。よろしければどうぞ。

 

何か皆さんの参考になることを今回提供できたかどうか、自信がありませんが、とりあえず昨年の読書の成果は上記のとおりです。かなり乏しいですが、まぁ、仕方がないですね。ぼちぼちやっていくしかありません。

これで終わります。誤解や無理解や勘違い、誤字や脱字などがありましたらすみません。ご容赦ください。

 

おまけ

トゥールミン・ジャニク先生のご高著から、おもしろい言葉を二つ、引用してみましょう。本文の傍点は、引用文中では下線で代用しています。

彼 [Wittgenstein] がよくいっていたことであるが、哲学では、常に利口ではいないこと、が非常に重要なのである。*18 (p. 424.)

*18 実際、A・J・エイヤーについてのウィトゲンシュタインの批評は、「エイヤーがまずいのは、彼がいつも利口なことである」というものであった。1946-47年、当時、書き留めて置いた言葉 (S.E.T. [Stephen Toulmin])。(p. 462.)

Ayer 先生には悪いですが、何だかおもしろくもあり、辛辣でもある言葉ですね。

これは哲学的に重要でない問題を、いつもすらすらと小利口に解いてみせ、得意になっている哲学者に対する当てこすりであり、そんなパズル解きに取り組むのではなく、たとえスマートな問いでもなければ、スマートに答えられるわけでなくとも、それでもそれが哲学的に真に重要な難問であるのならば、無骨にでも取り組むべきであるという Wittgenstein の態度を表わしているみたいです。(pp. 424-425.)

う~む、自戒せねばならない言葉だな、これは。私は小利口ですらないけれど。

*1:追記 2021年3月23日: この3月、次の本が刊行されました。ブライアン・マッキャン、『ゲッツ/ジルベルト 名盤の誕生』、荒井理子訳、シンコーミュージック、2021年。この本では『Getz/Gilberto』が誕生した経緯と時代背景、それにこのアルバムに収録されている演奏の分析が行われています。もともと Bloomsbury Pub. から2009年に出ていた本で、私もそのうちこの原書を買いたいなと思っていたところ、本屋さんで翻訳が出たのを見かけ、購入させていただきました。とても興味深い本です。じっくり拝読させていただきます。作者のマッキャン先生、訳者の荒井先生、シンコーミュージックの方々、装丁やデザインの先生、そして製本や印刷をされた方々に感謝申し上げます。このブログを読んでおられる皆さまも興味がありましたらぜひ手に取ってみるとよいと思います。追記終わり