目次
お知らせ
人生には大きな節目があります。
今、私はその節目を迎えています。
自分の人生の中で、一、二を争うほどの大きな節目だと思います。
6月から人生が大幅に変わります。
以前よりも苦しい日々が続きそうです。
大きな津波に襲われて、押し流されていく感じがして、とてもこわいです。
一日一日を乗り切るのに手いっぱいになりそうです。
毎月月末の日曜日にこのブログを更新してきましたが、次回6月は更新できるのか、不安です。
ひょっとすると更新が止まってしまうかもしれません。更新どころではない、という状況に陥りそうです。
先行きはまったく不透明です。できるだけ更新しようとは思いますが、約束ができない状態です。
かなりしんどいですが、なんとか持ちこたえたいと思っています。
お知らせ終わり
はじめに
分析哲学、特に初期の分析哲学は、言語論的転回 (linguistic turn) を経ているという特徴を持つ、と言われることがあります *1 。
このことについて、次の文献の該当ページから
・ 飯田隆 「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」、『分析哲学 これからとこれまで』、勁草書房、2020年、160-161ページ、初出、『ウィトゲンシュタイン 没後60年、ほんとうに哲学するために』、KAWADE 道の手帖シリーズ、河出書房新社、2011年、38-39ページ、
関連する記述を引用してみましょう *2 。引用文中の「(1)」と「(2)」は、引用者による挿入です。
飯田先生のこの記述によるならば、哲学が言語論的転回を経るには、次の二つのこと (の一方かまたは両方) を採用する必要があるとされています。すなわち、
(1) 哲学の問題は、言語を誤解した擬似問題にすぎないという哲学観、
(2) 哲学の問題の解決は、言語の考察を通じてなされるべきであるという方法論、
の採用です *3 。
そして (1) を採用しているのが Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus (1921/1922) であり、(2) を採用しているのが Frege と、Russell の ''On Denoting'' (1905) であるとされています。
上記引用文の中では飯田先生は言及されておられませんが、Frege の、(2) を採用していると考えられている文献は、彼の Die Grundlagen der Arithmetik (1884) であり、特にこの文献の §62 にその「萌芽」が認められるとされています *4 。
これら文献情報をまとめると、
(1a) 哲学は疑似問題である: Wittgenstein, Tractatus (1921/1922),
(2a) 哲学では言語を考察せよ: Frege, Grundlagen (1884), §62と、Russell, ''On Denoting'' (1905)
となります。
そこで、Frege, Russell, Wittgenstein のうち、多くの人が最も興味を抱くであろう Wittgenstein の Tractatus において、どこでどのように「哲学は疑似問題だ」という話がなされているのか、それをドイツ語原文で読み、言語論的転回の一契機が生じたその瞬間をこの目で見て楽しんでみましょう。
ドイツ語原文のあとに、私と同様ドイツ語を修業されているかたのために文法事項を記し、それから私訳/試訳として直訳を掲げ、その後、一般に広く読まれている邦訳と英訳、および仏訳を掲載します。私訳を直訳で訳す理由は、ドイツ語原文がどのように和訳されているのか、修行中のかたが理解しやすいようにするためと、既にちゃんとした邦訳が多数刊行されていることから、それら既刊の邦訳と区別を付けるためです。意訳ではなく直訳こそが正統な訳である、と考えているわけではございません。なお、私訳に誤訳がありましたらごめんなさい。謝ります *5 。
そしてドイツ語原文、私訳、既刊邦訳、英訳、仏訳を並べたあとに、一言だけ私の感想を述べ、補遺を付けて今日の話を終わります。
ドイツ語原文
さて、Tractatus において、明瞭かつ比較的長く「哲学は疑似問題だ」という話がなされているのは、4.003 の箇所だと思われます。それ故以下ではこの 4.003 を引用し、かつこの箇所と深く関連しているその次の 4.0031 を引用します。典拠先は次です。
・ L. Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus, tr. by C. K. Ogden, Routledge, 1922/1981, p. 62.
文法事項
welche: 関係代名詞複数1格。先行詞は Die meisten Sätze und Fragen。なお、先行詞が複数ある場合には、関係代名詞は複数形を取るか、または一番近い先行詞に性数を一致させます *7 。ここでは意味の点から言っても、welche の先行詞は一番近い Fragen だけではなく、Die meisten Sätze und Fragen 全体であると取るのがいいと思います。
nicht falsch, sondern unsinnig: nicht A, sondern B で、「A ではなく、むしろ B」。このあとの nicht beantworten, sondern も同様。
feststellen: これは前方の können に続く不定詞。
beruhen darauf, das[s]: auf 3格 beruhen で、「3格に基付く、3格に由来する」。darauf の da- は、以下の dass 文を指しています。
Sie sind von der Art: von は性質の所有、所属を表わします。英語で言えば、S is of ~, 「S は~を有する」。
ob: 直前の Frage の内容を説明している間接文です。
das Gute: 善。 das Gut 「財産、農場、貨物」、die Güte 「親切、好意」とよく似た綴りなのでご注意ください。
sei: 間接文である ob 文中にあるので接続法第1式になっています。
Und: und は文脈によって、順接「そして」、逆接「しかし」、強調「しかも」、帰結「だから」などを表わしますが、ここでは帰結「だから」のことと思われます。
es ist: es は後続の dass 文を指します。
Russell's Verdienst ist es: es は直後の zu 不定詞 gezeigt zu haben を指します。
gezeigt zu haben: gezeigt の従える4格は後続の dass 文です。
seine wirkliche: この wirkliche のあとに前方に出てきた logische Form des Satzes が省略されています。
nicht ... muss: müssen の否定文の意味には通常、禁止「~してはならない」、不必要「~する必要はない」、否定的推測「~しないにちがいない」、必然の否定「必ずしも~するとは限らない」がありますが、ここでは必然の否定「必ずしも~するとは限らない」と考えられます。なお、禁止「~してはならない」は müssen の否定よりも dürfen の否定で、不必要「~する必要はない」も zu 不定詞 + brauchen の否定で表わすのが普通のようです。
既刊邦訳
今回の 4.003 と 4.0031 を、既刊の代表的な邦訳の一つから引用してみましょう。
邦訳原文中の傍点を下線で代用し、訳注は省いて、次の文献から引用します。
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、39-40ページ。
Ogden 版英訳
Ogden 版にある英訳も引いておきましょう。
Granger 仏訳
Granger 先生による仏訳も掲げておきます。次から引用します。そしてそのあと、私と同じくフランス語を修業中のかたのために文法事項と、私訳による直訳と逐語訳を提示します。私はフランス語が不得意ですので、誤訳していましたらごめんなさい。なお原文にある註1は Granger 先生によります。
・ Wittgenstein Tractatus logico-philosophicus, traduction, préambule et notes de Gilles Gaston Granger, Gallimard, 1993, p. 51. *10
文法事項
La plupart des propositions ... sont ... fausses, ... sont dépourvues: 「La plupart de 複数名詞」を主語に持つ文の動詞や過去分詞、形容詞の属詞は「複数名詞」に性数が一致します。そのためこの文の動詞 sont は複数になっており、形容詞 fausses と dépourvues も女性複数形になっています。
touchant: 現在分詞の形容詞的用法で、前方の propositions と questions にかかっています。
ne sont pas fausses, mais: ne pas ~, mais ― で、「~ ではなく、― である」。
ne pouvons donc en aucune façon: ne ... en aucune façon で、「どうしても ... しない」。
répondre à: répondre à 名詞で、「(名詞) に答える」。
de telles questions: 「des + 形容詞 + 複数名詞」の時、通常は des は de になります。
découlent de notre incompréhension: découler de 名詞で、「(名詞) に由来する、(名詞) から生じる」。
Elles sont du même type: être de 名詞で、「(名詞) という性質を持った」。
du même type que la question: le même ~ que ― で、「― と同様の ~、― と同じ ~」。
Et ce n'est pas: 文頭の et, 文と文とのつなぎの et は、文脈に応じていろいろな意味を持ちますが、ここでは「それだから」ぐらいの意味。
ce n'est pas merveille si: この ce は、あとの si 節を受ける形式的な主語。
si les problèmes: この si はいわゆる事実提示の si (~ ということ) です。仮定や条件を表わす si (もしも ~ ならば) ではありません。
à proprement parler: 正確に言えば、本当のことを言えば。
Mais certainement: もちろん。この mais は「しかし」ではなく、certainement を強調しているだけです。
est d'avoir montré: être de 不定詞で、「~ することである」。
n'est pas nécessairement: 必ずしも ~ とは限らない。
Contributions à: contributions à 名詞で、「(名詞) への寄与、貢献」。
Sitôt que: sitôt que 節は、「~ するとすぐに」。
quelque chose à dire: à dire に見られる à + 不定詞は、前方の quelque chose にかかる名詞の補語で形容詞的用法。
à rapprocher de l'aphorisme 7: この à rapprocher de 名詞は、先ほど出てきた à proprement parler と同種の用法と思われます。つまりこの語句は挿入句であり、à は仮定 (~ ならば) を表わしていて、rapprocher は他動詞で、「rapprocher A de B」で「A を B に近づける、引き付ける」という言い方があるのですが、ここではその目的語 A を欠いており、他動詞の絶対的用法になっていると考えられます。そうだとすると結局「à rapprocher de l'aphorisme 7」は「アフォリズム7に引き付けてみるならば、アフォリズム7と比べるならば」となります。
断想
これまでを振り返ってみると、Wittgenstein の 4.003 には、飯田先生が指摘された言語論的転回の二つの条件のうち、第一のものが読み取れました。その第一のものとは (1) 哲学の問題は、言語を誤解した擬似問題にすぎないという哲学観です。この箇所で哲学の流れが大きく変わったのですね。ここが哲学的な潮流の潮目、転換点だった、ということになります。
ところでその 4.003 と 4.0031 ですが、これを読むとそこに重大な問題点があることに気が付きます。さて、それは何でしょうか? Tractatus を読む人の多くが気が付くことです。
そう、4.003 と 4.0031 で述べられていることには根拠が示されていない、ということです *12 。「哲学の問題は私たちの言語の論理を誤解していることに基付く無意味な問題だ」と一方的に言い放っているだけで、どうしてそう言えるのかという理由が示されていません。
このことは 4.003 と 4.0031 に限ったことではなく、Tractatus 全般について言えることでしょうが、根拠もなく言われてもちょっと困るという気もします。Wittgenstein が「ここだ! ここにお宝が埋まっているぞ!」と叫ぶので、みんなで一生懸命そこを掘り返すという作業を繰り広げることになるのですが、はたして彼の言いなりになって言われるがままひどく苦労しながら泥だらけになっていていいのかという思いも感じます。
まぁ、それで楽しければ (ある程度) いいことなのだろうとも思いますが。ついでに何かお宝が本当に出てくるのならいいんですけれど。しかしもっと批判的に Tractatus に接してもいいかもしれませんね。あるいはこんなことを言う私は Tractatus の重要性がわかっていないのかもしれません。
補遺
上記ドイツ語からの私訳直訳 4.003 の丸括弧内において、* を付した訳文につき、疑問を持ったかたがおられたかもしれません。そのかたのために、どうしてそこをそのように訳したのか、理由を一言述べておきます。その訳文に特に疑問を感じなかったかたは、この補遺を無視していただて構いません。
* 「善は美よりも多少とも同一なのか」はドイツ語の文「ob das Gute mehr oder weniger identisch sei als das Schöne」の和訳です。あるいはこのドイツ語文は次のように訳してもよいかもしれません。つまり「善は美よりもより多く同一なのか、または善は美よりもより少なく同一なのか」です。いずれにせよ、このドイツ語文を文法通りに訳すなら、今の訳文のどちらかになると思います。しかし、そうだとするといささか奇妙な訳文に感じられます。何が言いたいのか、よくわからない訳文です。
たとえば「善は美よりもより真理に似ているか」という文ならば、「クジラは人間よりもより魚に似ているか」という文と類比的に、私たちは一応その文の言わんとしていることを理解できると思います。けれども端的に「善は美よりも同一か」と言われたら、とまどいを覚えます。何とも答えようのない問題です。
そこで例のドイツ語文中の als を mit と解し、「善は美と同一か」と捉え直すならば、当初の奇妙さはかなり少なくなると感じられます。こうして問題のドイツ語文を「善は美と多少とも同一か」と訳すならば、ある程度すわりのよい訳文に仕上がります。けれどもこの訳文は、als ~ identisch という言い回しが mit ~ identisch (~ と同一である) という言い回しと同じことを表わしているという場合にのみ、可能だと思われます。ドイツ語では mit を使った後者の言い回しが als を使った前者の言い回しでも表現できるという用法があるのか、ドイツ語にうとい私にはわかりませんが、A が B と同一であることを identisch を使って表わす場合には、通常 mit を使って A ist mit B identisch と書かれ、この mit のところに普通 als は使われないものだと私は理解しています。(これが私の無知、無理解を表わしているのでしたら謝ります。すみません。)
ですから問題のドイツ語文は、文法に忠実であろうとするならば、「善は美と多少とも同一か」と訳すのではなく、奇妙で意味不明な (unsinnig) 訳文ですが「善は美よりも多少とも同一か」と訳すのが正しいと思います。しかしもちろんこの意味不明な訳文では、それこそ何を言いたいのかよくわかりませんのでとまどいを覚えますが、それでもこの訳で問題ないと思います。なぜならここで Wittgenstein は従来の哲学が、「善は美よりも同一か」のように、意味不明な問題を真面目に立てて答えようとしてきたと言いたいために、このような「善は美よりも同一か」という明らかに意味不明な問題を例として持ち出しているわけだからです。
「哲学の問題は意味不明だ」と言いたいために Wittgenstein は意味不明な哲学的問題の実例を提示しているのであって、にもかかわらずその問題に、意味の通じる訳を当ててしまうと Wittgenstein の意図に反することになります。それ故、ここでは意味のわからない訳文でいいと思います。意味のわかるように訳してしまうとよくないと思います。
有名な例で言うならば、Noam Chomsky 先生が提示されている意味不明な英文に、次のものがありました。
Colorless green ideas sleep furiously (色のない緑の観念が猛然と眠る). *13
この英文は「色のない緑の観念が猛然と眠る」と訳すと意味不明ですが、意味不明な英文の実例として上げられているので、この英文を無理矢理意味の通るように訳して、たとえば「色のない緑という字の観念が擬人化して現われ、ベッドでぐっすり眠っている」などとしてはいけないように、Wittgenstein の問題のドイツ語文も、意味不明になるようそのまま文字通りに和訳すればいいのだと思います。
ちなみに、この問題のドイツ語文を英語やフランス語ではどう訳しているかというと、Ogden の英訳では先に見たように als を with ではなく then と訳しています (p. 63, A is identical with B ではなく、A is more or less identical than B)。Pears and McGuinness の英訳も同様です *14 。仏訳の Granger 訳でも先に見たごとく als を avec ではなく que で訳しています (A est identique à/avec B ではなく、A est plus ou moins identique que B) *15 。
欧米語間での翻訳では、原文の内容をよく考えず、著者の意図をくみだしてパラフレーズするように訳すのではなく、ただ機械的に対応する訳語を対応する構文にはめこんで無思慮に変換するだけの訳文が時として見られますので、ここでもドイツ語からの英訳と仏訳は機械的に変換して翻訳しているだけなのかもしれませんが、それでもこれら英訳と仏訳はドイツ語原文にただよう奇妙さを正確に写し取るように訳しているのではないかとも推測されます。そのため和訳でも奇妙さを保ったまま「善は美よりも多少とも同一なのか」と訳せばよいと考えられます。
なお、Tractatus の主要な邦訳では、坂井先生の法政大学版と山元先生の中公版は、奇妙な訳文「善は美よりも同一なのか」を採用しておられます。これに対して、奥先生の大修館版、黒崎先生の産業図書版、野矢先生の岩波文庫版、丘沢先生の光文社版では一応意味の通じる訳文「善は美と同一か」を採用しておられます。以下で典拠先を一覧にしておきます。
・ ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、藤本隆志、坂井秀寿訳、法政大学出版局、1968年、94ページ、
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論』、山元一郎訳、中公クラシックス、中央公論新社、2001年、88ページ、
・ ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」、『ウィトゲンシュタイン全集 第1巻』、奥雅博訳、大修館書店、1975年、46ページ、
・ ウィトゲンシュタイン 『『論考』『青色本』読解』、黒崎宏訳解説、産業図書、2001年、57-58ページ、
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、40ページ、
・ ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、光文社、2014年、37ページ。
ここまで * に関して記したことは、私の極めて個人的な感想です。ドイツ語の未熟な私が考えたことですから、正しいはずだとは思わないでください。どこか間違っているかもしれないと思いつつお読みください。実際間違っているようでしたら、読者のかたと訳者の先生がたにお詫び申し上げます。大変すみません。
これで * についての説明を終わります。
本日は言語論的転回が生じた瞬間を見て楽しんでみました。4.003 は何気ない一節ですが、ここで歴史は大きく動いたのですね。
以上の記述の中で誤解や無理解や、無知、勘違い、誤字、脱字などがありましたらごめんなさい。誤訳や悪訳にもお詫び申し上げます。どうかお許しください。
*1:よく知られているように、'the linguistic turn' という言葉は、Richard Rorty 先生によると、Gustav Bergmann による造語とされています。R. Rorty, ''Introduction: Metaphilosophical Difficulties of Linguistic Philosophy,'' in his ed., The Linguistic Turn: Recent Essays in Philosophical Method, The University of Chicago Press, 1967, p. 9, fn. 10. Bergmann がどのようにその言葉を使っているのか、Rorty 先生の Intro. から参考までに孫引きをして、そのあと直訳調の私訳を与えておきます。誤訳してましたらすみません。'All linguistic Philosophers talk about the world by means of talking about a suitable language. This is the linguistic turn, the fundamental gambit as to method, on which ordinary and ideal language philosophers (OLP, ILP) agree.' (Rorty, p. 8) 「すべての言語哲学者は、適切な言語について語ることにより、世界について語る。これは言語論的転回であって、方法に関する基本的な戦略的第一歩なのであり、このことについては日常言語哲学者も理想言語哲学者 (OLP, ILP) も同意している」。ここでは言語論的転回とは、哲学者が世界について哲学的主張を行なったり結論したりする際に、世界に直接言及するのではなく、世界について言及している言語について言及することを通して、それを行うという態度変更のことのようです。つまりここでの言語論的転回とは、哲学者の視線が捉える対象を世界から世界についての言語へと切り替えるという態度変更のことなのであり、このような態度変更は、哲学の方法としてまず最初に取るべき戦略的な第一歩なのである、と考えられているようです。
*2:『分析哲学 これからとこれまで』から引用します。なお初出の河出版とは、ひらがなを漢字に、または漢字をひらがなにしている箇所があるだけで、本質的な違いはありません。
*3:ちなみにこの (1) と (2) によって言語論的転回を特徴付ける話は、先に引用した飯田先生の文献「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」以外でも先生はあと少なくとも二回、言及されておられます。次をご覧ください。飯田隆、「総論 科学の世紀と哲学」、飯田隆編、『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語』、中央公論新社、2007年、31-32ページ、飯田隆、「言語論的転回の世紀の後で」、『岩波講座 哲学 第3巻 言語/思考の哲学』、岩波書店、2009年、2ページ。
*4:M. ダメット、『分析哲学の起源』、野本和幸他訳、勁草書房、1998年、6ページ。
*5:私訳の訳出に関しては、まず既刊の邦訳や英訳、仏訳を見ずに自力で訳し、それから既刊邦訳と英訳、仏訳を参照しました。その結果、原文で強調されている 'k e i n e' を私訳でも強調を表わすために鉤括弧「 」でくくるなどする必要があるのに私はその鉤括弧を忘れておりました。邦訳者野矢先生の訳に助けられました。誠にありがとうございます。それ以外は当初の私訳から修正はございません。このように既訳を参照しましたが、もしも誤訳が残っているようでしたら私のせいです。
*6:これが das だとすると説明が付かないので dass だと理解します。その理由を記します。長くて細かい話のなので、興味のないかたはこの註を無視してください。さて、もしも das だとすると、この das は明らかに関係代名詞の4格です。また unsere Sprachlogik も明らかに4格です。そうすると、verstehen は als などを介さずに4格名詞を二つ従えることになりますが、これはちょっと普通ではありません。それでも4格名詞を二つ従えて、「4格名詞 A als 4格名詞 B verstehen (A を B と解する)」のことだとしても、それではここでは意味不明の訳になります。それに das が関係代名詞なら、その先行詞として考えられる唯一の候補は、あえて言えば darauf の da- だけでしょうが、このような da- を先行詞にしたい場合には、darauf を分離して、auf dem などとしてから、その dem を先行詞にしなければいけないことになっています。逆に言えば、auf などの前置詞と指示代名詞の組み合わせがあり、その指示代名詞が人ではなく事物を表わす場合は、darauf のように指示代名詞と前置詞 auf を普通融合するのですが、しかしこの指示代名詞が後続の関係代名詞の先行詞になっている場合には darauf のように融合してはいけないことになっているのです。にもかかわらず、ここで darauf のように融合しているということは、この da- は das の先行詞ではなく、das も、そもそもからして関係代名詞ではない、と考えられます。「指示代名詞が関係代名詞の先行詞となっている場合、前置詞 auf などとその指示代名詞を融合してはいけない」という指摘については、桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、158-159ページを参照ください。ところでこの darauf は、darauf + beruhen の darauf であり、これが dass 文を従えることは頻繁にあることです。よって、ここでの das を dass と解するとすべてが解決し、自然な訳文ができあがることから、das を dass と理解しました。ちなみに Wittgenstein と F. P. Ramsey は、刊行された Tractatus の単行本に対し、彼らの手によって、インクまたは鉛筆で訂正、修正を入れていたことが知られています。特にドイツ語原文に対する英訳をどう改善すべきかに関して朱が入れられていました。この修正、改善内容については、次の文献で明らかにされています。C. Lewy, ''A Note on the Text of the Tractatus,'' in: Mind, vol. 76, no. 303, 1967. この短い文献を私は斜め読みしてみたのですが、今回問題の命題4.003については Wittgenstein も F. P. Ramsey も、ともに言及しておらず、das を dass と訂正せよとは述べていないようです。
*7:桜井、『改訂 ドイツ広文典』、171ページ。
*8:ここでは 'unsinnig' を「無意味な」と訳しましたが、Tractatus に見られる 'unsinnig' や類語の 'sinnlos' をどう理解しどう訳すべきかは、これが重要な論点に触れる故、慎重でなければなりません。しかし、今私たちは専門的な研究を展開しようとしているわけではありませんので、あまり神経質にならずに 'unsinnig' をストレートに「無意味な」と訳しておきます。'unsinnig' と 'sinnlos' の違いやそれらの内容については、M. Black, A Companion to Wittgenstein's 'Tractatus', Cambridge University Press, 1964, pp. 160-161, または、ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論』、山元一郎訳、中公クラシックス、中央公論新社、2001年、123ページの訳注 (2) を参照ください。
*9:この丸括弧内の * が付された文の私訳について、疑問をお感じのかたは、本日の話の最後に記した「補遺」で、なぜこのように訳したのか説明していますので、そちらをご覧いただければ幸いです。
*10:URL=<http://www.unil.ch/files/live//sites/philo/files/shared/etudiants/5_wittgenstein.pdf>.
*11:この Mauthner のセリフは、以下の著名な文献にも出てきます。S. トゥールミン、A. ジャニク、『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、TBS ブリタニカ、1978年、158ページ、同書訂正版、平凡社ライブラリー、平凡社、2001年、217ページ。
*12:4.003 で述べられていることの根拠は、その直前の 4.002 に示されているようにも見えますが、そうだとしても、今度はその 4.002 で述べられていることに、そもそも根拠が示されていないように思われます。
*13:チョムスキー、『統辞構造論』、福井直樹、辻子美保子訳、岩波文庫、岩波書店、2014年、15ページ。
*14:Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus, tr. by D. Pears and B. McGuinness, Routledge, 1961/1974, p. 23.
*15:Wittgenstein, Tractatus, tr. par G. Granger, p. 51.