Comparing Japanese Translations of Poincare's Science and Hypothesis, Part II: Poincare on Mathematical Induction

目次

 

はじめに

今回も前回の続きとして、Henri Poincaré の『科学と仮説』邦訳三種類と私による直訳を比較してみようと思います。

以下の、Poincaré による『科学と仮説』原文、邦訳書の書誌情報、および種々の注意事項は、前回と基本的に同じなので、それらのことについてはお手数ですが前回の冒頭部分をご覧ください。

今回は訳文を語学的に比較するだけで話を終えます。

本日引用するのは Poincaré による数学的帰納法の説明部分です。この帰納法については既知とし、私の方からは説明致しません。なぜ数学的帰納法の部分を引用するのかと言うと、Poincaré による数学的帰納法の捉え方がちょっと独特なためです。ただし今回の引用部分では、その独特さは現れてはいませんが。

 

フランス語原文

原文は、便宜上、前と同じく、Wikisource France の Poincaré La Science et l’Hypothèse, Flammarion, 1917, Chapitre 1 から引用します *1

V

 Le caractère essentiel du raisonnement par récurrence c’est qu’il contient, condensés pour ainsi dire en une formule unique, une infinité de syllogismes.

 Pour qu’on s’en puisse mieux rendre compte, je vais énoncer les uns après les autres ces syllogismes qui sont, si l’on veut me passer l’expression, disposés en cascade.

 Ce sont bien entendu des syllogismes hypothétiques.

 Le théorème est vrai du nombre 1.
 Or s’il est vrai de 1, il est vrai de 2.
 Donc il est vrai de 2.
 Or s’il est vrai de 2, il est vrai de 3.
 Donc il est vrai de 3, et ainsi de suite.

 On voit que la conclusion de chaque syllogisme sert de mineure au suivant.

 De plus les majeures de tous nos syllogismes peuvent être ramenées à une formule unique.

 Si le théorème est vrai de n − 1, il l’est de n.

 On voit donc que, dans les raisonnements par récurrence, on se borne à énoncer la mineure du premier syllogisme, et la formule générale qui contient comme cas particuliers toutes les majeures.

 Cette suite de syllogismes qui ne finirait jamais se trouve ainsi réduite à une phrase de quelques lignes.

 Il est facile maintenant de comprendre pourquoi toute conséquence particulière d’un théorème peut, comme je l’ai expliqué plus haut, être vérifiée par des procédés purement analytiques.

 Si au lieu de montrer que notre théorème est vrai de tous les nombres, nous voulons seulement faire voir qu’il est vrai du nombre 6 par exemple, il nous suffira d’établir les 5 premiers syllogismes de notre cascade ; il nous en faudrait 9 si nous voulions démontrer le théorème pour le nombre 10 ; il nous en faudrait davantage encore pour un nombre plus grand ; mais quelque grand que soit ce nombre nous finirions toujours par l’atteindre, et la vérification analytique serait possible.

 Et cependant, quelque loin que nous allions ainsi, nous ne nous élèverions jamais jusqu’au théorème général, applicable à tous les nombres, qui seul peut être objet de science. Pour y arriver, il faudrait une infinité de syllogismes, il faudrait franchir un abîme que la patience de l’analyste, réduit aux seules ressources de la logique formelle, ne parviendra jamais à combler.

 Je demandais au début pourquoi on ne saurait concevoir un esprit assez puissant pour apercevoir d’un seul coup d’œil l’ensemble des vérités mathématiques.

 La réponse est aisée maintenant ; un joueur d’échecs peut combiner quatre coups, cinq coups d’avance, mais, si extraordinaire qu’on le suppose, il n’en préparera jamais qu’un nombre fini ; s’il applique ses facultés à l’arithmétique, il ne pourra en apercevoir les vérités générales d’une seule intuition directe ; pour parvenir au plus petit théorème, il ne pourra s’affranchir de l’aide du raisonnement par récurrence parce que c’est un instrument qui permet de passer du fini à l’infini.

 Cet instrument est toujours utile, puisque, nous faisant franchir d’un bond autant d’étapes que nous le voulons, il nous dispense de vérifications longues, fastidieuses et monotones qui deviendraient rapidement impraticables. Mais il devient indispensable dès qu’on vise au théorème général, dont la vérification analytique nous rapprocherait sans cesse, sans nous permettre de l’atteindre.

 Dans ce domaine de l’arithmétique, on peut se croire bien loin de l’analyse infinitésimale, et, cependant, nous venons de le voir, l’idée de l’infini mathématique joue déjà un rôle prépondérant, et sans elle il n’y aurait pas de science parce qu’il n’y aurait rien de général.

 

フランス語文法事項

c’est qu’il: ce は前方照応。Le caractère ... récurrence を指します。この文は遊離構文、転位構文と呼ばれるものです。

condensés ... unique,: 分詞節。いわゆる英語の分詞構文に相当。

pour ainsi dire: いわば。

une infinité de syllogismes: 「une infinité de 複数名詞」で、「無数の (複数名詞)」。

Pour qu’: 「〜であるために」。que 以下には接続法が来ます。

s’en puisse mieux rendre compte: se rendre compte de + 名詞で、「(名詞) に気づく、(名詞) がわかる」。

vais énoncer: aller + 不定詞で、近接未来。「〜するだろう」。ただし近接未来ではなく、「〜しに行く」の意味のこともあります。ここでは近接未来。

les uns après les autres : 次々に、一つずつ。

ces syllogismes qui: ces は前方照応。「(関係代名詞 qui 以下であるような) これらの三段論法」。私はこの ces を後方照応と解し、qui の関係代名詞節を先行して示していると捉えましたが、これは深読みのしすぎ、誤訳でしょうね。関係代名詞節を先行して示す指示形容詞としての ce については、朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、109ページ、項目 ce2, I. の60 の丸2番を参照ください。

si l’on veut me passer l’expression: 「こう言ってよければ」。直訳すると「もしも人が私に次の表現を許してもよいとしてくれるならば」。ここでは passer は「~を許す」の意味。

en cascade: 次から次へと。文字通りには「滝状に、階段状に」。

Ce sont bien entendu des syllogismes hypothétiques.: bien entendu で、「もちろん、言うまでもなく」。この文を「それは仮言三段論法としてよく理解される」と誤訳してはいけません。私はここでこの誤訳をやってしまいました。bien entendu が「もちろん」の意味であることは「もちろん」知っておりましたが、entendre を使った受動態とばかり思い込んで誤訳してしまいました。ちょっと恥ずかしいです。皆さんはないと思いますが、お気をつけください。

et ainsi de suite: 以下同様。

sert de: servir de + 名詞で、「(名詞) として役に立つ」。ちなみに servir à + 名詞は、「(名詞) に役立つ」。

au suivant: 次のもの/次の人 (のところで/番で)。

De plus: その上。

il l'est: le は中性代名詞。形容詞 vrai を指します。

se borne à énoncer: se borner à + 不定詞で、「〜するだけにとどめる」。

ne finirait jamais: finirait は条件法現在。なぜここで条件法現在が使われているのかと言うと、仮定や虚構的事態の帰結が述べられているからだろうと思われます。つまり三段論法が連続して行われていくと仮定しても、結局それが終わりを迎えることは決してないだろうとここでは述べられているので、条件法現在が使われているのでしょう。

se trouve ainsi réduite: S + se trouver + 属詞で、「S が (属詞) だとわかる」。

réduite à une phrase: réduire A à B で、「A を B に帰する」。

Il est facile maintenant de comprendre: Il est facile de + 不定詞で、「〜するのは容易である」。

plus haut: 以前に。これは文語的表現。

au lieu de montrer: au lieu de + 不定詞で、「〜する代わりに」。

faire voir qu’: 「〜であることを示してみせる」。

il nous suffira d’établir: il suffire à 人 de + 不定詞で、「人にとっては〜することで十分である」。ここで suffire が単純未来になっているのは、それが語調緩和か (十分でしょう)、または未来 (十分なものとなる) のどちらかを意味するからでしょう。私は前者と解しています。

il nous en faudrait 9: ここの en は数詞に伴う表現の代理であって、前方の premiers syllogismes または単なる syllogismesを指し、9 の補語。例文: Avez-vous lu les tragédies de Racine? − J'en ai lu deux. 「ラシーヌの悲劇を読みましたか。− 2篇読みました」。『ジュネス仏和辞典』、大修館書店、1993年、項目 en2、B の 4. 参照。また、原文でこのあとに出てくる il nous en faudrait davantage の en も数量副詞に伴う表現の代理をしており、davantage の補語として de syllogismes を表わしています。さらにまた、falloir が二つとも条件法現在になっているのは仮定に対する帰結節となっているからです。条件節に相当するのは si nous voulions ... の節と、pour un nombre ... の句です。これらの節と句で仮定が立てられています。

quelque grand que soit ce nombre: quelque + 形容詞/副詞 + que 接続法で、「〜がどれほど (形容詞/副詞) でも」。

finirions toujours par l’atteindre: finir par + 不定詞で、「〜することで終わる、最終的に〜する」。この finir は自動詞であって、他動詞ではありません。そのため finir と par の間に目的語の名詞が省略されているのではありません。私は句動詞「finir par + 不定詞」を失念したまま、ここでは証明に関する言葉が目的語として省略されているのだろうと思い込み、誤訳してしまいました。皆さんもお気をつけください。

serait possible: ここで条件法現在が使われているのは、仮定に対する帰結節となっているからです。条件節に当たるのは前文の意味内容であり、それは「仮にどれほど大きな数が与えられても必ずその数に到達できるとするならば」ということです。

quelque loin que nous allions: 先ほども出てきた quelque + 形容詞/副詞 + que 接続法であり、「〜がどれほど (形容詞/副詞) でも」の意味。 allions は半過去ではなく、それと同形の接続法であることに注意願います。

nous élèverions jamais jusqu’au: s'élever à 名詞で、「(名詞) に達する」。élever が条件法現在なのは仮定に対する帰結を表わしているからでしょう。

qui seul: 関係代名詞 qui の先行詞は前方の au théorème général の le théorème général.

il faudrait: この言い回しが二度出てきますが、これらが条件法現在なのも、仮定に対する帰結を表わしているからでしょう。

parviendra: ここで単純未来になっているのは語気緩和か、推量か、または未来の事態を表わしてのことなのでしょうが、ここでは未来の意味であろうと私は解しました。深淵の穴埋めをやってみても、将来的には埋め切ることはできないでしょう、とここでは述べているのだと私は思いました。

au début: 初めに。

ne saurait concevoir: savoir + 不定詞 (〜できる) の否定形は pouvoir + 不定詞 (〜できる) の否定形と同義であるとともに (朝倉、『新フランス文法事典』、484ページ、項目 savoir の 20 の丸2番)、savoir + 不定詞の否定形で pas がなく、それが条件法に置かれていると丁寧な否定、語気緩和された否定を表わすことがあります。つまり「〜できないでしょう、〜できないだろう」の意味です。目黒士門、『現代フランス広文典 改訂版』、白水社、2015年、225ページ。ただし、今の 「ne savoir の条件法 + 不定詞」が丁寧な否定・語気緩和ではなく、否定の強調、不可能性の強調を表わすと述べている文法書もあります。東郷雄二、『フランス文法総まとめ』、白水社、2019年、150ページ。朝倉先生の本では問題の語法はただの不可能性、目黒先生の本では柔らかい否定、東郷先生の本では強い否定を表わすとされ、三者三様です。どれが正しいのか、私にはわかりません。ただ、気になるのは、東郷先生の本では問題の語法に関する例文として、「On ne saurait trop souligner ... (強調してもしすぎることはない)」という文を (一つだけ) 上げておられることです。ここでは、ちょっとややこしいのですが、souligner (強調する) が強調されているのは確かなのですが、その語が強調されているのは ne saurait によってではなく、ne ... trop によってであるように思われるのですが、どうでしょうか? 私にはどの先生の説明が正しいのか判断が付きませんが、今回の原文ではとりあえず語気緩和を表わしているものと解しておきます。

assez puissant pour apercevoir: assez 〜 pour − で、「− するほど 〜 な」。

d’un seul coup d’œil: 一目見るだけで、一瞥のもとに。un coup d’œil (一目で) から来ている言葉だと思われます。

d’avance: 前もって。

si extraordinaire qu’on le suppose: si 形容詞 que 接続法で、「〜がどれほど (形容詞) でも」。この節では、on が主語、suppose が他動詞、le が目的語、 extraordinaire が属詞となり、これは英文法で言う SVOC の構文を成しています。

il n’en: en は de coups を表わし、後方の un nombre fini の補語になっています。

préparera: 単純未来。このあとに二度出てくる pourra も同様。これらはどれも語気緩和か、推量か、単なる未来を表わすと思うのですが、どれなのか、私には判断が付きかねます。たぶん未来を表わしているのだと思います。しかし、まぁ、どれであっても訳は「〜でしょう、〜だろう」というようになるでしょうが。

s'il applique: si はこの場合、単なる条件 (〜ならば) であるよりも、譲歩 (〜だとしても) と解した方が、よりふさわしいでしょう。

en apercevoir les vérités générales: この en は de l’arithmétique を表わし、les vérités générales の補語となっています。あるいはこの en は代名詞ではなく、起点の意味としての de を含む副詞の en「そこから」なのでしょうか? 正直に言うと、(副詞的) 代名詞としての en については、私は完璧に理解しているとは言えず、ちょっと理解にあやふやなところが残っていますので、詳しくは、六鹿豊、『これならわかるフランス語文法』、NHK 出版、2016年、97-105ページを参照ください。この文法書では、代名詞の en について、8ページほどにも渡って説明しているのですが、このような文法書はたぶんめずらしいです。en についての私の理解が間違っていたり、不十分だったならごめんなさい。

d’une seule intuition directe: この de は「〜を使って」という意味の de.

au plus petit théorème: ここの le plus petit théorème は単なる最上級 (最も〜な) ではなく、譲歩 (どれほど〜であっても) や強調 (非常に) を表わします。伊吹武彦編、『フランス語解釈法』、白水社、1957/2006年、34ページ。また、petit ですが、ここでは定理の「サイズ」が問題になっているのではないので、「小さい」と訳すのではなく、「ささいな、つまらない、取るに足りない」などの訳が適切でしょう。

s’affranchir de l’aide: s’affranchir de 名詞で、「(名詞) から解放される、自由になる」。

c’est un instrument qui permet: これは強調構文ではありません。この文は「これは〜である」という単なる c'est 文です。単なる c’est 文では ce は何かを指すので「これは〜である」などと訳されますが、強調構文では ce は何かを指すのではなく、c'est と qui/que ではさんだ表現をハイライトしているだけなので、「これは」などの指示を表わす訳語が訳文に出てくることはなく、「(qui/que 以下) であるのは〜である」などと訳されます。したがって、問題の文「c’est un instrument qui permet − 」は、「これは − ということを可能にする道具です」と訳されます。この文を強調構文と解して「− ということを可能にするのが道具だ」とすると意味不明な話になるので問題の文は強調構文ではありません。ところで c'est 〜 qui/que − という文は、形の上では単なる c'est 文なのか、強調構文なのか、それだけでは判断が付かないことがあります。つまりまったく同じ c'est 〜 qui/que − 文 が、ある時は単なる c'est 文になり、ある時は強調構文になるわけです。これがどちらなのかは文脈によります。 c'est 〜 qui/que − という文の前で、たとえば「これは何ですか」というような質問文があれば、c'est 〜 qui/que − という文は、通常は単なる c'est 文「これは〜です」になります。一方、「これは何ですか」のような問いが前になく、 c'est A qui/que − という文の前後で「− なのは B ではない」という意味のことが、明示的にまたは暗黙に、述べられていたら、それは強調構文「−なのはまさに A である」です。以上については次を参照ください。六鹿、『これならわかるフランス語文法』、371ページ、二つ目の「メモ」。ただし、ここで六鹿先生は「強調構文か否かは文脈に寄る」と明言されているわけではありません。先生の記述から推論すれば、結局、強調構文か否かの判断は、場合によっては、文脈に依存するだろう、ということです。

permet de passer: permettre de 不定詞で、「〜することを許す、可能ならしめる」。

nous faisant franchir: 現在分詞を使った分詞節。英語のいわゆる分詞構文。nous は間接目的語。意味上の主語は Cet instrument です。

d’un bond: 一跳びで、一挙に。

autant d’étapes que: autant de 無冠詞名詞 que 〜 で、「〜であるほど (多く) の (無冠詞名詞)」。

nous le voulons: le は中性代名詞。不定詞 franchir を指します。

il nous dispense de vérifications: S dispenser A de B で、「S が A に B を免除する」。

qui deviendraient: qui の先行詞は vérifications. deviendraient が条件法になっているのは「もしも vérifications をやってみたならば、しかじかとなるであろう」という仮定の帰結を表わしているから。関係節内ではこのような条件法がよく使われます。伊吹編、『フランス語解釈法』、127-128ページ。

dès qu’on: dès que 〜 で、「〜するとすぐに」。

on vise au théorème: viser à 名詞で、「(名詞) を狙う、目標にする」。

dont la vérification ... nous rapprocherait: rapprocher A de B で、「A を B に近づける」。ここでは A に当たるのが nous であり、B に当たるのが dont であって、この dont の先行詞は、直前の le théorème général を du théorème général としたものです。rapprocherait のように条件法になっているのは、あとに出てくる sans nous permettre ... が条件節になっていて、これを受ける帰結節をこの dont の関係節が成しているためです。

sans cesse: 絶えず、いつも。この言い回しについては次の注も参照願います。

sans nous permettre de l’atteindre: permettre 人 de 不定詞で、「人に〜することを許す、可能にせしめる」。sans 以下は、二つ前の注でも述べたとおり、dont の関係節に対する条件節を成しています。ちなみに、すぐ前の sans cesse は dont の関係節に対する条件節を成しているわけではなく、sans cesse はただの熟語、成句です。私はこの言い回しについて、これが「絶えず」の意味の熟語であることは当然知っていたものの、これをそのような単なる熟語とは解さず、あとの sans nous permettre ... と同様に、dont の関係節に対する条件節を成していると考えて、sans cesse を「開いて」訳し、妙な訳文を作って誤訳してしまいました。深読みのしすぎですね。ないとは思いますが、皆さんも私のような勘違いをしないようお気をつけください。

ce domaine de l’arithmétique: この de は、部分/全体関係の de (部分 de 全体、「全体の内の部分」) と、同格の de (B de A, 「A という B」) のどちらかだと解されます。前者だと Poincaré はここで算術を、たとえば有限の数のみを扱う領域と無限の数までを扱う領域に分け、その内の後者の方を念頭に置いていると読めます。しかしここでの話ではそのような領域分けを Poincaré はしていないと思われますので、私はこの de を、部分/全体関係の de ではなく、同格の de と解しました。その場合、訳は「算術のこの領域」ではなく、「算術というこの領域」になります。

se croire bien loin: S se croire + 場所を表わす語句で、「S は自分が (場所) にいると思う」。

loin de l’analyse: loin de 名詞で、「(名詞) から遠くに」。

nous venons de le voir: venir de 不定詞で、いわゆる近接過去「〜したところである」。ここの文をそのまま「我々はそれを見たばかりであり」と訳すと前後とのつながりが意味不明となるので、この文は挿入文であると解し、「我々が (それを) 今しがた見たとおり、見たごとく」のように敷衍して訳す必要がありそうです。また、le は直接目的語ではなく、おそらく中性代名詞で、直後の文内容を表わしているものと思われます。

joue déjà un rôle: jouer un rôle で、「役割を果たす」。

sans elle: elle は強勢形で、l’idée de l’infini mathématique を指します。この sans elle は直後の節 il n’y aurait pas に対する条件節に当たります。

il n’y aurait pas de science: 条件法になっているのは直前の sans elle が仮定の条件節を成し、これに対する帰結節となっているからです。このあとの parce qu’il n’y aurait rien の aurait も同様の理由で条件法になっています。de science の de は元々 une であり、une science が問題の否定文の目的語になっているから de に変っています。

rien de général: rien に形容詞がかかる時は男性単数形で de を介してかかります。

 

直訳

私訳による逐語的な直訳を掲げます。日本語としての読みやすさや自然さは十分には考慮に入れておりません。

まずは既刊邦訳を見ず、自力で訳したあと、先生方の訳を拝見しました。すると案の定、いくつかの点で私が誤訳していることがわかりました。今回はかなりひどい誤訳を連発しています。それらについては既に上記「フランス語文法事項」で触れました。そのため、以下の直訳は誤訳を修正したバージョンになっています。私が誤訳していることに気付かせてくれた訳者の先生方に、ここでお礼申し上げます。誠にありがとうございました。

V

 再帰 *2 による推論の本質的特徴は、それが、ただ一つの式の中にいわば凝縮された形で、無限の三段論法を含んでいることである。

 人がそのことをよりよく理解できるようにするために、もしも人が私に以下の表現を許してくれるのなら、次々に [階段状に] 配されている三段論法を私は一つまた一つと述べてみることにしよう。

 それは言うまでもなく仮言的三段論法である。

  その定理は数1について真である。

  ところで、それが1について真ならば、それは2について真である。

  それ故それは2について真である。

  ところで、それが2について真ならば、それは3について真である。

  それ故それは3について真である。以下同様。

 各三段論法の結論はその次のところで小前提として役立っていることが我々にはわかる。

 その上、我々の三段論法すべての大前提はただ一つの式に引き戻すことができる。

 その定理が n−1 について真ならば、それは n についてもそうである。

 それ故、再帰による推論において、我々は最初の三段論法の小前提を述べることと、個々の場合として、すべての大前提を含んだ一般的な式を述べるにとどめていることが、我々にはわかる。

 したがって、決して終わることのないであろう三段論法のこの連続は、数行からなる一つの文に帰着させられることがわかるのである。

 なぜある定理の個別の帰結がすべて、私がそれを以前に説明したように、まったく分析的な方法によって証明され得るのかを理解することは、今や容易である。

 もしも、我々の定理がすべての数について真であることを示す代わりに、その定理がたとえば数の6について真であることを示してみせることだけを我々が欲しているならば、我々の三段論法の階段の、最初の5つを立証すれば、我々にとり十分であろう。数の10に対して我々がその定理を証明したいとするならば、その [三段論法の] 9つが我々にとり必要となるだろう。もっと大きな数に対してならば、さらに多くのそれ [三段論法] が我々にとり必要となるだろう。しかしその数がどれほど大きくても、我々は必ずその数に到達することになろうし、だから分析的な証明は可能となるだろう。

 しかしながら、我々がそのようにしてどれほど遠くまで行こうとも、すべての数に当てはまる、唯一、科学の対象であり得る一般的な定理にまで、我々が達することは決してないであろう。そこに至るためには、無限の数の三段論法が必要であろうし、形式的論理学の資源のみに引き戻しながら、分析者が [証明を] 頑張ってみたところでどうにも埋めようがないであろう深淵を飛び越えねばならないであろう。

 私は最初に、なぜ一瞥のもとに数学的真理の全体を感じ取れるほど有能な知性を我々は考えることができないのだろうか、と問うていた。

 今やそれに返答することは容易である。チェスの指し手が前もって4手、5手先を練っておくことは可能であるが、しかし我々が彼をどれほど非凡であると思おうとも、彼はその手数について、有限の数しか決して用意しはしないだろう。彼が自分の能力を算術に応用しても、直接的な直観だけを用いて、その [算術の] 一般的な諸真理を感じ取ることはできないであろう。極々ささいな定理 [を手に入れる] に至るためにも、彼は再帰による推論の助け [を借りること] から、無縁でいることはできないであろう。なぜならそれは有限から無限へと移ることを可能にする道具だからである。

 この道具はいつでも有用である。というのも、我々が欲するだけ多くの [証明の] 段階を我々に一挙に飛び越えさせることにより、その道具は、長く退屈で単調な、[やり始めると] 急速に実行不可能となるであろう証明を、我々に免除してくれるからである。それどころか、我々には到達することが可能とはならないが、[それでも] 分析的証明によって我々が絶えず近づいていくであろう一般的真理を我々が目指すや否や、先の道具は不可欠となるのである。

 算術というこの分野においては、我々は無限小解析からはるか遠く離れたところにいると思われるかもしれない。しかしながら、我々が今しがた見たように、数学的無限の観念は以前から支配的な役割を果たしているのであって、それがなければ、科学もないことになろう。なぜなら一般的なことが何もなくなるだろうからである [一般的なことを述べることが何もできなくなるだろうからである]。

 

河野先生訳 (K)

岩波文庫の31-34ページから引きます。ふりがなは引用しません。

 出直し法による推理の本質的な性質は、いわば単独の公式に圧縮されてはいるが、実は三段論法を無限に含んでいるということである。

 このことがもっとよく理解されるように、私はこれらの三段論法を一つ一つ順を追って述べてみよう。これらの三段論法は、こういう表現が許されるならば、段々になって流れ落ちる滝のように配置されているといえよう。

 これはもちろん仮言的三段論法である。

 定理は1なる数については真である。

 ところがもし定理が1について真ならば、定理は2についても真である。

 だから定理は2について真である。

 ところが定理が2について真ならば、3についても真である。

 だから定理は3について真である。このようにして続けていく。

 一つ一つの三段論法の結論は、つぎの三段論法の小前提の役目をしていることがわかる。

 さらにこの三段論法のあらゆる大前提は単独の公式に引き直すことができる。すなわち

 もし定理が n−1 について真ならば、n についても真である。

 だから出直し法による推理においては、最初の三段論法の小前提と、あらゆる大前提を特殊な場合として含んでいる一般的公式とだけを述べているということがわかる。

 いつまでも終ることのない、つぎつぎと続いているその三段論法は、こうして数行の文句に縮小していることが認められる。

 いまになってみると、私が前に説明しておいたように、一つの定理の特殊な帰結がどれも純粋に分析的な手法で検証し得たのはなぜかということが容易に理解される。

 もし我々の考えている定理が、すべての数について真であることを示すかわりに、たとえば6なる数について真だということだけを示したいとすれば、段々になって流れている三段論法の滝のうちから最初の五つだけを証明すれば十分である。もし10なる数について定理を証明しようとするならば、最初の九個が必要である。もっと大きい数についてならば、もっとたくさんとらなければならない。しかしその数がどんなに大きくても、いつでも我々はいつかはそれに到達し得るから、それで分析的検証が可能である。

 しかしながら、こうしてどこまで行っても、我々は決してすべての数に適用をみるような一般的な定理までにのぼることはできまい。しかもそれだけが科学の対象になり得るのである。そこまで達するには無限に多くの三段論法を要し、形式論理だけに頼っている分析論者の忍耐によっては、いつまでたっても満たすことのできない深淵をとび越さなければならない。

 私は最初になぜひと目で数学的真理の全体を見抜くに足りるほどの力強い理知を考えることができないかとたずねた。

 いまになるとこの答えは容易である。将棋指しはあらかじめ四手、五手を組合わせることはできる。しかしどんな非凡な名人であろうとも、いつになっても有限数の指し手しか考えられない。もしその人がその才能を算術に適用したとすれば、ただ一度の直接的直観によって一般的真理を見抜くことはできない。どんなに小さい定理を得るためにも、出直し法の推理の助けをかりずにはいられない。なぜかといえば、これが有限から無限に渡りをつける道具だからである。

 この道具はいつでも有用である。このために我々は欲しいだけの段階をひととびにとび越すことができるから、実際上たちまち行ない得なくなるような、長くてうるさくて単調な検証を行なわずにすむからである。しかし一般的な定理を狙う以上は、分析的検証ではいくらでも定理に接近はするが、ついにこれに到達することはできないのであるから、この道具は有用どころか、欠くことのできないものとなる。

 算術のこの方面では微分積分学とはだいぶ話がかけ離れていると思う人もあろう。しかしながら以上でもわかるように、数学的無限の概念はすでにこの方面でも卓越した役割を演じているし、これを欠いては数学は存在しない。なぜかといえば、何も一般的なものが存在しなくなってしまうからである。

 

伊藤先生訳 (I)

岩波文庫の39-43ページから引きます。ここでもふりがなは引用しません。〔 〕は邦訳にあるものです。

 回帰的な適用による推論の本質的特徴は、それがいわば単一の公式へと圧縮された形で無限個の三段論法を含んでいる、ということにある。

 この点をさらによく理解してもらうために、この三段論法を一つずつ順番に述べてみることにしよう。これらはこういってよければ、滝が流れるように順番に出てくるのである。

 いうまでもないことであるが、これらは仮言的三段論法〔前提が条件付き命題であるもの〕の集合である。

 この定理は数1に関して真である。

 ところで、これが1について真であるなら、それは2について真である。

 したがって、それは2について真である。

 ところで、これが2について真であるなら、それは3について真である。

 したがって、それは3について真である、以下同様に続く。

 見てのとおり、この推論の系列では、個々の三段論法の結論が、次に来る三段論法の小前提の役割を果たす。

 さらに、ここでのすべての三段論法の大前提は、単一の公式へと還元できる。

 すなわち、定理が n−1 について真であるなら、それは n について真である。

 ここから、回帰的な適用による推論においては、最初の三段論法の小前提と、すべての大前提を特殊例として含むこの一般的公式を言明するだけでよい、ということが分かる。

 この終わりのない三段論法の系列は、かくして、ニ、三行で書けるフレーズに還元されることが分かるのである。

 したがって、私が先に述べた、ある定理から導出される個々の帰結が、純粋に分析的な手続きによって検証されるということの理由は、いまや容易に理解されることであろう。

 ある所与の定理がすべての数に関して真であることを示すのではなく、たとえば数6について真であることだけを示したいのであれば、この滝のように流れる三段論法の最初の五回を確証すればよいし、数10について真であることを示したいのであれば、この滝のような推論の最初の九回を確証すればよい。さらに大きな数について真であることを示したければ、もっと多数の回数の推論を確証する必要がある。とはいえ、どんな大きな数であってもその数に到達することで、この推論の系列は終結するであろう。だから、これらについては分析的な検証が可能だというわけである。

 ところが、われわれがこのような仕方でどれほど遠くまで進むことができたとしても、すべての数に適用可能な一般的な定理にまで上り詰めることはできない。しかるに、科学にとってはこの一般的定理こそが唯一の対象となりうる。そこに到達するためには無限回の三段論法を必要とするが、そのためには形式的論理のみに頼る、分析者の忍耐力が決して埋めるところまでもちこたえないであろう、断絶を乗り越える必要があるのである。

 私はこの章の初めの方で、次のような問いを立てていた。非常に優秀な精神であれば、数学的真理の総体を一目ですべて把握できそうであるのに、そのような精神が考えられないのはなぜなのか。

 いまやこの問いに答えるのは容易である。チェスのプレイヤーは、四手先や五手先の駒の組合わせを予見することはできるが、彼の能力をどれほど優れたものに見積もっても、無限の先の手まで用意があるとはみなせないだろう。同様に、彼の能力を算術に適用した場合、一般的真理を一回の直接的な直観で見通すことはできないであろう。最も小さな定理についてでさえ、その一般的真理にまで到達するためには、回帰的な適用による推論の助けを免れるわけにはいかない。これこそが、有限の段階から無限の段階へと移行することを許す道具なのだから。

 この道具はつねに有用である。というのも、この道具を使えばわれわれが欲するどの段階へも、ひとっ跳びに到達することができて、われわれにとって長々と単調で退屈な、たちまち実行不可能になるような検証という手続きを、なしですますことが可能になるからである。しかし、この道具は、一般的な定理を目指す場合には、有用以上に必要不可欠である。分析的検証はわれわれをそこへと絶えず接近させるが、しかし決して到達させないからである。

 算術のこの領域は、無限小解析〔微分積分学〕の足元にも及ばない世界だと思う人もいるだろう。とはいえ、以上に見てきたとおり、数学的無限の概念はそれよりも手前のところで、すでにきわめて重要な役割を果たしており、これなしでは一般的なものは存在しなくなるであろうから、学問としての科学もないことになるのである。

 

南條先生訳 (N)

ちくま学芸文庫の27-29ページから引きます。[ ] は邦訳にあるものです。

V

 反復法の本質的な特徴は、そこに無限個の三段論法が、いわば一つの決まり文句に凝縮されて含まれている、ということだ。

 このことをよりよく理解してもらえるように、これらの三段論法、わたしに言わせれば階段状に落ちていく滝のような三段論法を、初めから一つずつ順を追って書いてみよう。

 これらはもちろん仮言三段論法 [大前提が「もし p ならば q である」という形で書かれた三段論法] である。

 

 定理は数1について真である。

 もし定理が1について真ならば、それは2についても真である。

 したがって、定理は2について真である。

 もし定理が2について真ならば、それは3についても真である。

 したがって、定理は3について真である。以下同様。

 

 これを見ると、どの三段論法の結論も次の三段論法の小前提になっている。

 さらに、これらすべての三段論法の大前提は、次のようにただ一つの決まり文句で一挙に書くことができる。

 "もし定理が n−1 について真ならば、それは n についても真である。"

 したがって反復法では、最初の三段論法の小前提と、すべての大前提を特殊ケースとして含むこの一般命題とを述べれば事が足りる。

 こうして、果てしない三段論法の列はわずか数行の文章に圧縮されてしまうのだ。

 一般的な定理の特殊な場合の結論が、前に説明したように純粋に分析的なやり方で検証できるのはなぜか、ここまで来ればその理由は容易にわかる。

 もしその定理がすべての数について真であることを示すかわりに、たとえば6について真であることだけを見せたいならば、上に書いた三段論法の滝を最初から5番目までたどればよい。もし10について定理を証明したければ、9つの三段論法が必要になる。もっと大きい数について証明したければ、もっと多くの三段論法が必要だ。しかしその数がどんなに大きくても、必ずそれにはたどり着くので、分析的な検証はつねに可能なのである。

 とはいえ、このやり方でどんなに遠くまで行っても、すべての数に適用できる一般的な定理には手が届かない。この、すべての数に適用できる、ということだけが科学の目標になれるのだか、そこに到達するには、無限個の三段論法が必要である。形式論理にしか頼れない分析家の根気だけでは決して埋めることのできない深淵を跳び越える必要があるのだ。

 本章の初めにわたしは、なぜあらゆる数学的真理を一目で見通せるほどの強力な精神を想像することができないのか、とたずねた。

 今やその答えは簡単だ。チェスのプレーヤーは4手先、5手先までも読むことができるが、どんなに優秀なプレーヤーでも、読める手の数は有限である。その才能を算術に適用しても、直接的直観だけでは一般的な真理を見通すことはできない。どんなに小さな定理でも、それに達するには反復法の助けを借りざるをえない。なぜならこの道具があるからこそ、わたしたちは有限から無限へと移ることができるのだから。

 この道具はいつでも役に立つ。これを使えば、たった一跳びで階段を好きなだけ跳び越えられ、うんざりするような長たらしく退屈で単調な検証をしなくてすむからだ。しかし一般的な定理、つまり、分析的検証では限りなく近づくことはできても決して達することのできない定理を目指すならば、これは役に立つどころかどうしても欠くことのできない大事な道具となる。

 このような初歩的な算術では、無限小解析にはほど遠いと思うかもしれないが、それでも今見たように、数学的無限の概念はすでにきわめて重要な役割を演じている。この無限なくして一般性はありえず、したがって科学もありえない。

 

各訳の主な相違点

それぞれの訳に関し、私が気にかかったところを、そのところだけを取り出してみましょう。なお、私が間違ったことを言ってましたらすみません。

 

Le caractère essentiel の段落

une formule: 直訳は「一つの式」、K, I は「公式」、N は「決まり文句」。N の「決まり文句」はかなり違う気がします。決まり文句と言えば、たとえば人に会った時に「こんにちは、今日は暑いですね」などと言いますが、特定のシチュエーションで発する特定のセリフを「決まり文句」という言葉からイメージしてしまい、ここでの話とはかなりずれてしまうように思います。

 

Cette suite の段落

une phrase: K は「文句」、I は「フレーズ」、N は「文章」。直訳では「一つの文」と訳しました。原文では無限の行に渡る無限個の文が、数行から成る une phrase に還元されると言っているので、はっきりと「一つの文」と訳してみました。

 

Il est facile の段落

peut, ..., être vérifiée: 直訳は「され得る」、K は「し得た」、I は「される」、N は「できる」。K はなぜか過去形になっています。特に過去で訳す必要はないように思われるのですが。I は受け身で訳しているだけで「可能である」という意味合いは現れていません。

purement: 直訳は「まったく」。K, I, N はすべて「純粋に」。先生方の訳でも構わないと言えば構わないですが、ここでは純粋か否かが問題となっているわけではないので、purement は強意・強調と解して「まったく」と訳した方がいいように思います。

 

Si au lieu de の段落

il nous suffira: 直訳は「であろう」、K は「である」、I は「すればよい」、N は「よい」。suffira は単純未来なので、直訳ではそのニュアンスを出しています。しかし他の先生方は特にはそのニュアンスを訳出されていないようです。

il nous en faudrait 9: 直訳は「必要となるだろう」、K は「必要である」、I は「すればよい」、N は「必要になる」。faudrait は仮定の帰結を表わすので、直訳ではその意味合いを出していますが、他の先生方はことさらにはそのような意味は出されていないように見えます。

nous finirions ... par: I ではここの主語を「この推論の系列は」とされています。意訳されているわけですね。他はみな普通に「nous」を原則として主語としていると解し得ます。(ただ、直訳はここで激しく誤訳していましたが。)

 

Je demandais の段落

on ne saurait: 直訳は「できないのだろうか」、K は「できないか」、I は「(考え) られない」、N は「できないのか」。「ne savoir の条件法 + 不定詞」を直訳では語気緩和された否定と捉えたのですが、先生方は単なる不可能性と解しておられるようです。

 

La réponse est aisée の段落

combiner quatre coups: 直訳は「練っておく」。K は「組合わせる」、I は「組合わせを予見する」、N は「読む」。combiner には「組合わせる」の訳とともに「計画・立案する」の意味がありますから、ここでは後者の意味で訳すのがよいと思います。チェスや将棋で、数手先を「読んだり、練ったり」することはありますが、数手先を「組合わせる」とはほとんど言わないと思います。

il ne pourra en apercevoir les vérités générales: ここの en を直訳では「その [算術の]」と訳し、「一般的な諸真理」に掛けて訳出しています。(あるいはこの en は副詞としての en で、「そこ [算術] から」の意味かもしれませんが、) しかし他の先生方の訳ではどなたの場合も en は訳出されおらず、御三方とも「一般的 (な) 真理」とだけ訳しておられます。先生方の依拠された原文には en は書かれていなかったのでしょうか。ここで en が書かれていれば、「算術の」一般的真理に限定された話になりますが、書かれていなければ、一般的真理「全般」に関わる話になり、意味がずいぶん違ってきます。このあたり、どうなんでしょうね?

au plus petit théorème: 直訳は「極々ささいな〜も」、K は「どんなに小さい〜も」、I は「最も小さな〜でさえ」、N は「どんなに小さな〜でも」。ここの訳について二つ述べます。(1) まず le plus ですが、これは単なる最上級 (最も〜な) ではなく、譲歩 (どんな〜でも) か、または強度 (極度の) の意味でしょう。伊吹編、『フランス語解釈法』、34ページ。直訳は譲歩と強度の混合、K, N は譲歩、I は単なる最上級と譲歩の混合です。ここでは単なる最上級の意味合いを訳に入れるのはあまりよくないと思われます。定理をいくつも取り上げて、そのうちどれが「最も」 petit なのかを Poincaré が考えているかのような印象を読者に与えてしまいますので。(2) 次に petit ですが、直訳は「ささいな」と訳しました。しかし他の先生方はみな「小さい、小さな」と訳しておられます。ここの petit は定理の「サイズ」が問われているのではないでしょうから、「小さい」と訳すよりも、「ささきな、つまらない、取るに足りない」と訳した方がいいと思われます。あるいは比喩的に小ささを文字面に表わしたければ、「ちっぽけな、ちっちゃな」と訳してみるといいかもしれません。

 

Cet instrument の段落

qui deviendraient rapidement impraticables: 直訳は「急速に実行不可能となるであろう」と訳し、K, I も類似の訳をされていますが、N ではなぜかこの関係節が丸々訳出されておらず、脱落しています。南條先生が典拠とされた原文にはこの関係節は存在しないのでしょうか。

 

Dans ce demaine の段落

il n’y aurait pas de science: ここの science を K だけはなぜか「数学」と訳されています (他はみんな「科学」)。河野先生の目にされている原文は mathématiques となっているのでしょうか。それともここは数学の話をしているので、その意を汲んで、science をあえて「数学」と訳し変えたのでしょうか。ちょっとわかりませんが。

il n’y aurait rien de général: 直訳は「一般的なことが何もなくなるだろう ... [一般的なことを述べることが何もできなくなるだろう ... ]」。K は「何も一般的なものが存在しなくなってしまう」、I は「一般的なものは存在しなくなるであろう」、N は「一般性はありえず」。N は簡素ですが、一番ピッタリはまってますね。やっぱり翻訳の専門家は一言で言い当てる訳を考え出すのがうまいですね。それに比べて私を含めた他の三人は、厳密と言えば厳密なのかもしれませんが、それにしても冗長でガタガタした訳ですね (河野先生、伊藤先生、すみません)。

 

総評

最後に、全体的な印象を語ってみましょう。これはとても個人的で主観的な感想ですから、必ず割り引いてお読みください。生意気なことを言っていましたら先生方に謝ります。ごめんなさい。

 

三先生方の邦訳を見比べると、大体のところ、そんなに大きな違いはないように思われました。

ただ、どの先生方も、単純未来や条件法現在の持つ意味内容やニュアンスを、あまり読者に伝わるようには訳出されていないきらいがあると感じられました。

叙法的な単純未来の訳は微妙ですし、やはり叙法的な、仮定の帰結を表わす条件法現在も相当微妙であって、日本語には仮定の帰結であることを明示的に表わす語句が (たぶん) ないので、無理をして条件法現在のニュアンスを訳出しようとすると手間がかかり、細かくなりすぎるところがあるため、先生方はそこまで一々訳し出すことをあえてされていないのかもしれません。その点まで訳していると時間がかかりすぎて、一冊丸ごと訳し終えることができないのかもしれない。まぁ、徹底的に厳密であろうとすれば、それらのニュアンスも訳す必要があるんでしょうが。

それと今回気が付いのは、代名詞の en や関係節が訳出されていないことがあることでした。これは元々先生方が依拠したフランス語原文にそれらがなかったから訳出されていなかったのかもしれませんが、「あれっ、抜けてるな、どうしてだろう?」と疑問に思いました。まぁ、長い文章を訳していれば、小さな脱落は生じてしまうものなのかもしれません。でも、編集部か校正の部署がチェックしているはずだと思うんですけどね。どうなんだろう?

 

これで終わります。誤解、無理解、勘違い、誤訳や悪訳、誤字、脱字、様式の不統一があったなら、誠にすみません。それでも皆さんの参考になるところが何かあれば幸いです。また、諸先生方の訳によって、私がいくつかの点で間違えていることに気が付きました。感謝申し上げます。その一方で、先生方のようにフランス語が読めるわけでもないのに、うるさいことを言っているようでしたらごめんなさい。また勉強し直します。大変ありがとうございました。

 

*1:URL = <https://fr.wikisource.org/wiki/La_Science_et_l%E2%80%99Hypoth%C3%A8se/Chapitre_1 >, 2022年4月閲覧。

*2:récurrence を「再帰」と訳しましたが、特に深い意味はありません。他の訳語を採用することは間違っていると言いたいわけではありません。