Comparing Japanese Translations of Poincare's Science and Hypothesis, Part III: Why Does Poincare Think of Mathematical Induction as Synthetic A Priori?

目次

 

はじめに

さて、前回と前々回に続き、今回も Henri Poincaré の『科学と仮説』の邦訳三種類と私訳である直訳を比較してみます。これが『科学と仮説』の邦訳比較の最終回です。

今日も細かい話になりますが、大言壮語するよりも、まだましだと思います。それにきちんと細部を正確に捉えることができなければ、匿名のブログの話は誰も信用しないでしょう。

以下に記す Poincaré, 『科学と仮説』の原文や邦訳書の書誌情報、そして注意事項に関しては、基本的に前回、前々回と同じですので、それらについては前々回の冒頭部分を参照してください。

私は Gottlob Frege と Bertland Russell の論理主義の帰趨に興味があり、Poincaré が論理主義を批判していたことは知っておりました。その際、彼はいくつかの点から批判を展開していましたが、そのうちの一つに、数学的帰納法を論理主義者なら分析的な命題と捉えるところを Poincaré はア・プリオリな総合的な命題と捉えることで論理主義を批判したことがあります。しかしいったいなぜまた彼は数学的帰納法ア・プリオリな総合的判断と考えたのでしょうか。

その理由が一部載っていると思われる箇所を『科学と仮説』から引用し、各既刊邦訳を比べてみましょう。

そして最後にその箇所の内容について、個人的な拙い感想を少しだけ記して終わりにします。

それではさっそく始めましょう。

 

フランス語原文

原文は前回と同様、Wikisource France の Poincaré La Science et l’Hypothèse, Flammarion, 1917, Chapitre 1 から引用します *1

VI

 Le jugement sur lequel repose le raisonnement par récurrence peut être mis sous d’autres formes ; on peut dire par exemple que dans une collection infinie de nombres entiers différents, il y en a toujours un qui est plus petit que tous les autres.

 On pourra passer facilement d’un énoncé à l’autre et se donner ainsi l’illusion qu’on a démontré la légitimité du raisonnement par récurrence. Mais on sera toujours arrêté, on arrivera toujours à un axiome indémontrable qui ne sera au fond que la proposition à démontrer traduite dans un autre langage.

 On ne peut donc se soustraire à cette conclusion que la règle du raisonnement par récurrence est irréductible au principe de contradiction.

 Cette règle ne peut non plus nous venir de l’expérience ; ce que l’expérience pourrait nous apprendre, c’est que la règle est vraie pour les dix, pour les cent premiers nombres par exemple, elle ne peut atteindre la suite indéfinie des nombres, mais seulement une portion plus ou moins longue mais toujours limitée de cette suite.

 Or, s’il ne s’agissait que de cela, le principe de contradiction suffirait, il nous permettrait toujours de développer autant de syllogismes que nous voudrions, c’est seulement quand il s’agit d’en enfermer une infinité dans une seule formule, c’est seulement devant l’infini que ce principe échoue, c’est également là que l’expérience devient impuissante. Cette règle, inaccessible à la démonstration analytique et à l’expérience, est le véritable type du jugement synthétique a priori. On ne saurait d’autre part songer à y voir une convention, comme pour quelques-uns des postulats de la géométrie.

 Pourquoi donc ce jugement s’impose-t-il à nous avec une irrésistible évidence ? C’est qu’il n’est que l’affirmation de la puissance de l’esprit qui se sait capable de concevoir la répétition indéfinie d’un même acte dès que cet acte est une fois possible. L’esprit a de cette puissance une intuition directe et l’expérience ne peut être pour lui qu’une occasion de s’en servir et par là d’en prendre conscience.

 Mais, dira-t-on, si l’expérience brute ne peut légitimer le raisonnement par récurrence, en est-il de même de l’expérience aidée de l’induction ? Nous voyons successivement qu’un théorème est vrai du nombre 1, du nombre 2, du nombre 3 et ainsi de suite, la loi est manifeste, disons-nous, et elle l’est au même titre que toute loi physique appuyée sur des observations dont le nombre est très grand, mais limité.

 On ne saurait méconnaître qu’il y a là une analogie frappante avec les procédés habituels de l’induction. Mais une différence essentielle subsiste. L’induction, appliquée aux sciences physiques, est toujours incertaine, parce qu’elle repose sur la croyance à un ordre général de l’Univers, ordre qui est en dehors de nous. L’induction mathématique, c’est-à-dire la démonstration par récurrence, s’impose au contraire nécessairement, parce qu’elle n’est que l’affirmation d’une propriété de l’esprit lui-même.

 

フランス語文法事項

sur lequel repose le raisonnement: reposer sur + 名詞 で、「(名詞) に基づく」。

être mis sous d’autres formes: mettre A sur B (A を B の状態に置く) の受動態 (A が B の状態に置かれている) から来ている表現。

d’autres formes: d' は de の略であり、de は des から来ています。複数形容詞 + 複数名詞の前では、通常は des はde になります。

il y en a toujours un: en〜un で「その一つ」。en が「その」で un が「一つ」。この句全体で「その一つが常にある」。「その」とは前に出てきている整数のこと。つまりこの句は、ある整数が常にあると言っています。どんな整数かと言えば、それは un のあとの qui による関係代名詞節によって説明されています。

On pourra: pourra は単純未来。このようになっているのは語気緩和か推量か未来を表わすからだろうと思われます。ただ、文法書をいろいろ紐解いてみても、これら三つのうち、ここではどれを意味しているのかはっきりしません。Poincaré はちょくちょく単純未来を使うのですが、今述べた三つのうち、どれを言っているのか、はっきりしない場合が多い気がします。どれであっても「〜だろう、〜でしょう」という訳に収斂するのでしょうが。ここではとりあえず推量の意味だろうと解しておきます。

se donner ainsi l’illusion: se donner の se は間接目的の再帰代名詞で、主語の On を受けています。そこでこの句を直訳すれば「それ故、人は/我々は幻想を自分自身に与える」。

on sera: この単純未来も語気緩和か推量か未来と思われます。このあとの arrivera, ne sera も同様です。

au fond: 結局、実際に。

traduite: traduire の過去分詞。形容詞的用法として前方の la proposition にかかっているのだと思われます。この過去分詞は女性形なので、さらに前方にある un axiom にかかっていることはあり得ません。

se soustraire à: A se soustraire à B で、「A は B から逃れる、B を免れる」。

cette conclusion que: cette は後出の補足節 que を先行して指示しています。そのため「この」というように訳出してもいいし、場合によっては訳出しなくても構わないと思います。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、109-110ページ、項目 ce2, I. の60 の丸3番を参照。

ne peut non plus: ne〜(pas) non plus — で、「—もまた〜ない」。

nous venir de l’expérience: 間接目的語 + venir de 名詞で、「(間接目的語) のところに (名詞) からやって来る」。よって「我々のところに経験からやって来る」。

ce que l’expérience pourrait: 関係節の中で pourrait のように条件法になっているのは、これが仮定を表わしているからです。つまりここでは「経験が我々に教えることが仮にあるとしたら、それは」という感じです。伊吹武彦編、『フランス語解法』、白水社、1957/2006年、127-128ページ。

c'est que: ce は前の ce que 節を指します。

elle ne peut ..., mais: ne (pas) 〜, mais — で、「〜ではなく、—だ」。

il ne s'agissait que de cela: まず ne〜que—は「—しか〜しない」、cela は前方のことも後方のことも指すことができますが、この場合は前方のことを指しています。そして il s'agit de +名詞ですが、これについては五つほど訳があり得ます。1. (名詞) が重要である、2. (名詞) が問題である、3. (名詞) が話題である、4. (名詞) が必要である、5. それ (il) は (名詞) である。ここではこの五つの訳のうち、どれを取るかは文脈から判断するしかありません。2. か3. の訳がよいと思われます。なお、agissait と半過去になっているのは、これが si という条件節の中にあるからであり、このあとに出てくる suffirait が条件法になっているのは、それが si 節の帰結節に入っているからです。そのあとに出てくる permettrait が条件法になっているのも、これが si 節の帰結節を成しているからです。

il nous permettrait toujours de développer: permettre à 人 de +動詞で、「人に〜することを許す/可能ならしめる」。

autant de syllogismes que: autant de 名詞 que〜で、「〜ほどの (名詞)」。

nous voudrions: ここが条件法になっているのは、おそらく仮定を表わすからだろうと思われます。つまり意味としては「我々が仮に欲するのなら、欲するだけ多くの三段論法を」というような感じです。

en enfermer une infinité: en は「その」を意味し、une infinité を補足しています。つまり「その無限」。どの無限かと言うと「三段論法の無限」。これは言い換えれば「無限の数の三段論法」のことです。

c’est seulement devant l’infini que: この c’est ... que は強調構文。すぐあとに出てくる c’est également là que も同様です。ちなみに当初、どういうわけか私は c’est seulement devant l’infini que の que を関係代名詞の目的格と勘違いし、ここをひどく誤訳してしまいました。

inaccessible à la démonstration: inaccessible à 名詞で、「(名詞) に無縁の、(名詞) に到達できない」。

ne saurait ... songer : savoir + 不定詞 (〜できる) の pas のない否定形が条件法に置かれると丁寧な否定、語気緩和された否定を表わします。「〜できないでしょう、〜できないだろう」。目黒士門、『現代フランス広文典 改訂版』、白水社、2015年、225ページ。または否定の強調を表わします。東郷雄二、『フランス文法総まとめ』、白水社、2019年、150ページ。 あるいは単に ne pouvoir + 不定詞 (〜できない) の代わりを勤めています。朝倉、『新フランス文法事典』、484ページ、項目 savoir の 20 の丸2番。ここでは語気緩和された否定を意味すると私は解しておきます。

d’autre part: それに加えて。

songer à y voir: songer à + 不定詞で、「〜しようと考える」。

donc: donc は疑問文内にある時、「一体全体」というような意味を持つこともありますが、ここでは前からの流れで、前の話を受けて、「それでは」という意味を持っています。

C'est qu': c'est parce que (それは〜だから) のこと。

se sait capable: se savoir + 属詞で、「自分が (属詞) であることを知っている」。

dès que: 〜するとすぐに。

une fois: 一旦。

s'en servir: se servir de + 名詞で、「(名詞) を使う」。そこで s'en servir は「それを使う」。「それ」とは、私は「心の中で、ある行為を反復する能力」のことと取ったのですが、邦訳の諸先生はこの能力を捉える「直観」のことと取っておられます。

par là: それにより。

en prendre conscience: prendre conscience de + 名詞で、「(名詞) に気づく」。それで en prendre conscience は「それに気づく」。「それ」とは前々項で述べた「能力」のこと。邦訳の諸先生もそう解しているように読めます。

dira-t-on: これはいわゆる「ト書きの dire」のことだろうと思われます。たとえば「「そうだ」と彼は言った。「確かに私が犯人だ」。」などと書かれた時の「と彼は言った」の部分に当たります。dira と単純未来になっているのは語気緩和か推測か未来を表わすからだろうと思います。ここではこのうちの未来を表わしていると思われます。すると dira-t-on は「と人は/我々は言うだろう」となります。このあとに出てくる disons-nous も「ト書きの dire」だろうと思います。

l’expérience brute: brut だけで「ブリュト」と発音されます。

en est-il de même de l’expérience: il en est de même de + 名詞で、「それは (名詞) についても同様である」。

et ainsi de suite: 以下同様。

elle l'est: le はいわゆる中性の le. 前方の形容詞 manifeste を指しています。

au même titre que: 〜と同じ資格で。

appuyée sur des observations: appuyé sur + 名詞で、「(名詞) に基づいた」。

dont: des observations のことで、直後の le nombre を補足しています。つまり le nombre des observations.

ne saurait méconnaître: 以前にも説明しましたが、savoir + 不定詞の pas のない否定形が条件法に置かれると丁寧な否定、語気緩和された否定を表わすことがあります。

en dehors de nous: en dehors + 名詞で、「(名詞) の外に」。ちなみに「(名詞) の内に」は en dedans + 名詞。

c’est-à-dire: すなわち。

au contraire: 反対に。

 

直訳

この直訳は私訳です。まずは既刊邦訳を見ずに自力で訳し、そのあと既刊の邦訳を参照して誤訳がないかチェックしました。邦訳訳者の諸先生方に感謝申し上げます。それでも誤訳しておりましたら私の責任です。ごめんなさい。

VI

 再帰による推論が依拠している判断は、別の形にも置かれ得る。たとえば [1以上の] 異なる整数の無限の集まりのうちには、その整数の一つに、他のすべての数よりも小さい数が常にある、と言うことができる。

 我々は [このように] 一方の言い方から他方の言い方へ容易に移ることができるだろうし、それ故、再帰による推論の正当性が証明されたという幻想が我々に与えられることがあり得るだろう。しかし [一度言い換えただけで正当化は終わるわけではなく、さらに言い換えを続けることで] 我々は証明できない公理に常に至るであろうし、常に [そこでそれ以上進むこともできず] 引き留められることになるだろう。[だが] 証明できないとされるこの公理は、結局他の言葉に言い換えられた証明されるべき命題でしかないであろう。

 それ故我々は、再帰による推論の規則は矛盾律には還元できない、という結論から逃れることはできない。

 この規則は我々のところに経験からやって来るということもまたあり得ない。経験が我々に教えることができるであろうことは、その規則が、たとえば、数の最初の10個に対して、最初の100個に対して真であるということであり、その規則は数の無限の連続 [の果て] には到達できず、長いこともあれば短いこともあろうが、いずれにしてもこの連続 [した数のうち] の有限の部分にしか到達できないのである。

 ところで、その長短しか問題でないならば、矛盾律で十分であろうし、この矛盾律によって我々はいつでも好きなだけ三段論法を展開できるだろうが、ただ一つの式の中にそれら三段論法を無限に畳み込むことが問題となる場合だけは、無限を前にしたところでだけは、この矛盾律は破綻し、その無限においてこそ経験はやはり無力と化するのである。分析的な証明によっても経験によっても到達し得ない [今述べたばかりの式で表わされる] この規則は、ア・プリオリな総合的判断の真の典型である。それに加えて、そこに幾何学公準のいくつかに対するのと同様の規約を見ようと考えてみることもできないであろう。

 ではなぜこの判断は抗い難い明白さをもって我々に課せられているのだろうか。それは精神が備えている能力をその判断が承認しているだけだからである。ある行為が一旦可能になるや、この同じ行為を無限に繰り返して考え得ることを、精神は自ら知っているのである。この能力について、精神は直接的な直観を持っており、精神にとって経験は、その能力を行使し、そのことによってその能力に気づく機会でしかあり得ないのである。

 しかしなまの経験は再帰による推論を正当化し得ないとしても、帰納によって手助けされた経験も同様 [にその推論を正当化できないの] だろうか、と言うかもしれない。ある定理が数1について真であり、数2について真であり、数3について真であり、以下同様であることが我々には次々とわかり、「それが法則を成していることは明白であって」、この法則は、観察数はとても多いがしかし有限である観察に基づいたあらゆる物理法則と同じ資格で明白であると我々は言う。

 ここに、普段行なっている帰納法と著しい類似があることは、見逃すことはできないだろう。だか、本質的な違いがある。帰納法は、物理科学に適用されるなら、いつも不確実である。なぜならば、それは宇宙にはあまねく秩序が広がっているという信念、我々の外側には秩序があるという信念に基づいているからである。これとは反対に、数学的帰納法、すなわち再帰による証明は、必然的に課されているのである。なぜならば、それは精神自体が持つ性質の承認でしかないからである。

 

河野先生訳 (K)

岩波文庫で34-39ページから引きます。

邦訳原文にある傍点は、引用に際して、下線に改めています。また、引用文中の丸かっこは、邦訳原文で振り仮名になっていたものです。

 出直し法による推理の根拠となる判断は別の形に直すことができる。たとえば相異なる正の整数の無限集合のうちには、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在するといえる。

 一つの命題から別の命題に容易に移れるところをみると、出直し法による推理の正当なことを証明したという幻覚を抱く人もあるかも知れない。しかしいつでも途中で障害にあう、いつでも証明し得ない公理に到着する。そうしてこれは根本においては、証明すべき命題を別の言葉に翻訳したものにほかならない。

 だから出直し法による推理の規則は矛盾律に引き直し得ないというその結論からまぬかれることはできない。

 そのうえこの規則は経験から来たのでもない。経験が我々に教え得るのは、ある規則がたとえば十までの数についてとか、百までの数についてとか真であるということで、経験は際限のない数の系列に追いつくことはできない。できるのは、ただこの系列のうちの、長くても短くてもとにかく必ず限られた一部分に過ぎない。

 ところでそれだけの話だとすれば、矛盾律だけで十分である。これによると我々はいつでも欲しいだけの三段論法を展開することができる。ところがただ一つの公式に無限のものを含ませる場合、ただ無限に対する場合にだけこの原理は効果を失ない [ママ]、またその場合には経験も同様に無力になる。分析的な証明によっても、経験によっても捕えられないこの規則は先天的綜合判断の真の典型である。しかもこれを幾何学の要請のあるもののように、一つの規約と認めようとするわけにもいかない。

 それではなぜこの判断が我々にとって争うことのできない自明なものとして服従を強制するのであろうか。それは一つの作用が一度可能だと認められさえすれば、その作用を際限なく繰り返して考えることができると信ずる理知の能力を肯定することにほかならないからである。理知はこの力については直接の直観を有していて、経験は理知にとっては直観を用い、従ってそれを意識する機会となるに過ぎない。

 しかしもし生 (き) のままの経験が出直し法による推理を正当なものと認めることができないならば、帰納の助を [ママ] かりる経験も同様だといえるであろうか。ある定理が1なる数、2なる数、3なる数その他について順次に真であるのをみれば、この法則は明白であると我々はいう。回数を非常に多くしても結局限られている観測に基づくあらゆる物理学の法則が明白だというのと同じ意味である。

 そこに帰納の常用手段と著じるしい [ママ] 類似があることは見のがせない。しかしながら本質的な差異がある。物理学に適用される帰納法はいつでも不確実である。なぜかといえば、これは宇宙の普遍的秩序、すなわち我々の外にある秩序、に対する信念に基づいているからである。これと反対に数学的帰納法、すなわち出直し法による証明は必然的に服従を強制する。なぜかといえばこれは理知自身の一つの性質を肯定したものにほかならないからである。

 

伊藤先生訳 (I)

岩波文庫で43-46ページから引きます。

ここでも邦訳原文にある傍点は、引用に際して下線に改めています。また、引用文中の丸かっこは、邦訳原文で振り仮名になっていたものです。

振り仮名は、他の漢字にもいくつか振られているのですが、常識的に読めるものばかりだと思いますので、一箇所を除いて丸かっこで明記するのは省きました。

 回帰的な適用による推論が依拠する判断については、別の形で表わすこともできる。たとえば、無限個の異なった正の整数からなる集合には、他のすべての数よりも小なる数がつねに存在する、ということができるだろう。

 ところで、回帰的な適用による推論では、ある言明から別の言明に容易に移行できるので、この推論の正当性は証明されているのだという錯覚を抱く人がいるかもしれない。しかし、この証明作業はどこかで必ず停止し、証明不可能な公理へと到達することになる。これは結局、証明すべき命題を別の言語で翻訳したということに他ならない。

 したがって、結論としてはこういわなければならない。回帰的な適用による推論の規則は矛盾律には還元不可能である、と。

 この規則は他方、経験によってわれわれにもたらされたものでもない。われわれが経験によって把握できる事柄は、この規則がたとえば最初の十の数や、百の数に関して真であるということでしかない。それは数の無際限な系列にまで達することはできず、ただ大なり小なりの長さをもった、あくまでも有限な、系列の一部分に達することができるだけである。

 さて、話が有限な系列だけのことであれば、矛盾律だけで十分であり、この原理はいつも、われわれが欲するいかなる三段論法的推論であっても、展開することを可能にしてくれる。ところが、ひとたび無限回の推論を単一の公式に含めようとするならば、あるいはひとたび無限を前にするならば、この原理では手に負えないことになり、経験もまた同じように無能になってしまう。つまり、この規則は分析的な証明によっても経験によっても到達不可能であり、それゆえにこそ、ア・プリオリな総合判断というものの真なるタイプだということになる。われわれはまた、幾何学におけるいくつかの要請のような、一つに規約をここに見出すということもできないのである。

 それではなぜ、この判断はわれわれに対して、抗いがたい明証性をもって課せられているのであろう。その理由は、この総合判断こそわれわれの精神的能力の存在の証であり、この能力はわれわれに、一旦ある操作が可能になるならば、その無際限な繰り返しを想定することを可能にさせるからである。精神はこの能力について直接的な直観をもち、経験の方はその直観を利用し、それについて意識する機会を作るだけなのである。

 ところで、もしも手を加えられていない生 (き) の経験が、回帰的な適用による推論を正当化することができないとすれば、帰納法的推論によって助けられた実験についても同じことが当てはまるのだろうか。われわれは、数学上のある定理が数1、数2、数3について真であり、その続きについても順番に真であると分かれば、それは明白に真であるという。非常に大きいがしかし有限な数の観察にもとづく物理学上のすべての法則について、同じく明白に真であるといわれる。

 たしかに、帰納法というわれわれの習慣となっている手法とここでの推論の間に、顕著な類比があることを見逃すことはできない。とはいえ、本質的な相違は解消されないのである。物理的な諸科学において適用される帰納法的推論は、つねに不確実なものである。というのもこの推論は本来、宇宙の一般的秩序というものを信じることにもとづいているが、その秩序はわれわれの外に存在する秩序だからである。反対に、数学的帰納法、すなわち回帰的適用による証明は、必然性をもってわれわれに課せられている。というのも、この推論は精神それ自体の一つの特性の存在の証に他ならないからである。

 

南條先生訳 (N)

ちくま学芸文庫で30-32ページから引きます。

やはりここでも邦訳原文にある傍点は、引用に際して、下線に改めています。そして引用文中の丸かっこは、邦訳原文で振り仮名になっていたものです。

VI

 反復法を支えている判断は、別の形でも述べることができる。たとえば、''無限個の相異なる整数の集まりのなかには、他のどの数よりも小さな数が必ず見つかる'' と言ってもよい。

 一方からもう一方へと容易に移ることができるので、反復法の正当性が証明されたような錯覚に陥るかもしれない。しかしそれを証明しようとする人は必ず足止めを食う。必ず証明不可能な公理にたどり着き、それらの公理はつまるところ、証明すべき命題を他の言葉に翻訳したものにすぎない。

 したがってわたしたちは、反復法の規則は矛盾律には帰着させられない、と結論せざるをえない。

 また、この規則は実験に由来するものでもありえない。実験がわたしたちに教えることができるのは、たとえば最初の10個や100個についてはこの規則が正しいということにすぎない。実験は数の無限列そのものには到達できない。到達できるのはある程度長くはあってもつねにこの列の有限な部分だけである。

 もしそのような部分だけが問題ならば、矛盾律があれば十分で、これさえあればわたしたちはいつでも望むだけ三段論法を展開することができる。ところがたった一つの決まり文句のなかに無限個の三段論法を閉じ込めなければならないとき、つまり無限を前にしたときに限って矛盾律は効力を失い、実験もまた無力になるのだ。この、分析的証明も実験も手の届かない反復法の規則こそが、真に典型的な先験的総合判断である。他方、これを幾何学のいくつかの公準のように規約とみなすこともできないだろう。

 ではこの判断がわたしたちにはどうしても自明としか思えないのはなぜだろうか。それは、ある行為がいったん可能となれば、それが無限にくり返されるさまを思い描くことのできる精神の力を、この判断が具現しているからに他ならない。精神はこの力の直接的直観を持っている。実験は、精神がその直観を使い、使うことによってそれを意識する機会であるにすぎない。

 しかし、と人は言うだろう。生 (なま) の実験が反復法を正当化できないのはよいとしても、帰納の助けを借りる実験もそうだろうか。ある定理が1について真であり、2について真であり、3ついて真であり ..... と次々に真であるのを見て、わたしたちは法則は明らかだと言う。これが明らかなのは、きわめて多数の、しかし限られた個数の観測に支えられた物理法則が明らかなのと同じことではないだろうか、と。

 たしかに反復法と通常の帰納との間に著しい類似関係があることは見過ごせない。しかしそこには本質的な違いがある。物理科学でおこなわれる帰納はつねに不確実だ。なぜならそれは宇宙の全体的秩序への信頼に立脚しており、その秩序はわたしたちの外部にあるからだ。これに対して数学的な帰納、つまり反復法による証明は、必然的な強制力を持っている。なぜならこちらは精神そのものに備わっている性質の具現に他ならないからである。

 

各訳の主な相違点

Le jugementの段落

nombres entiers différents: 「異なる整数」とだけあって、「異なる正の整数」とも「異なる1以上の整数」ともなっていませんが、話の流れから言って、「正の」または「1以上の」という言葉を付け加えておいた方がいいと思われます。K, I は「正の」を、直訳は「1以上の」という言葉を加えています。N は何も加えていません。(加えていないからいけないと言っているわけではありません。)

 

On pourra の段落

d’un énoncé à l’autre: un énoncé と l’autre が具体的にそれぞれどの表現を指すのかはっきりしません。直前の段落の続きに述べられていることから、その段落で言われている数学的帰納法の一表現とそれを別の形に書き換えた表現のことを言っているものと直訳では捉えています。しかし I では un énoncé と l’autre を数学的帰納法の、いわゆる inductive steps (1について真であるならば2について真であり、2について真ならば3について真であり、... ) のことと解しているように見えます。

 

Cette règle の段落

ne peut: 直訳と N は「あり得ない (ありえない)」、K, I は「のでもない」。K, I は不可能性の意味を訳出していないようです。

l’expérience: これを N は「実験」と訳し、他はみな「経験」と訳しています。この文脈では「経験」のほうがいいと思われます。以下ではしばしば N は当該の言葉を「実験」と訳しています。

la règle: 直訳「その規則」、I, N 「この規則」。一方、K は「ある規則」としています。ここでは数学的帰納法の規則という特定の規則の話をしているのに、なぜか K は不定の規則を思わせる訳を採用しています。

 

Or の段落

il ne s’agissait que de cela: まず cela ですが、これは前に出てきたことを指す場合もあれば、あとに出てくることを指す場合もあります。私は迷った挙句、あとのことを指していると考えてこの箇所を誤訳してしまいました。実際には cela は前に出てくる数の有限列のことを指しています。次に il s'agit de 〜 ですが、この意味には大きく言って五つあるようです。つまり (1) 〜が重要である、(2) 〜が問題である、(3) 〜が話題である、(4) 〜が必要である、(5) それ (il) は〜である、です。K, I は (3) の「話」という訳語を採用し、N は (2) の「問題」という言葉を採用しています。私はここでも当初迷いに迷って (1) 「重要」という訳語を採りましたが、これは誤訳でしょう。最終的に直訳では「問題」と訳しました。なお、このすぐあとにも il s'agit de 〜 がまた出てきますが、それについては K, I は未訳、N は (4) の「なければならない」、直訳は「問題」と訳しています。

formule: 直訳「式」、K, I 「公式」、N 「決まり文句」。私は Dedekind-Peano の公理系における数学的帰納法の公理を念頭に置きながら「式」と訳しました。Poincaré も同様な表現を念頭に置いていたのかどうかはわかりませんが、N の「決まり文句」はここではそぐわないように思われます。

ne saurait ... songer: savoir + 不定詞が pas のない否定文になり、条件法に置かれている時は丁寧な否定を意味します。そこで直訳では「できないであろう」としています。N も同様に「できないだろう」としています。しかし K は「いかない」、I は「できないのである」と、ストレートな否定で訳しています。

 

Pourquoi の段落

s'impose: 直訳と I は「課せられている」、K 「服従を強制する」、N 「としか思えない」。N はうまい意訳ですね。

l'affirmation: 直訳「承認している」、K 「肯定している」、I 「存在の証であり」、N 「具現している」。ここでも N がうまい意訳を施していますね。

se sait: 直訳「自ら知っている」。これを K は「信ずる」と訳しているように思われます。I, N は特には訳していないように見えます。

ne peut être ... qu’une occasion : 直訳「機会でしかあり得ない」。この「あり得ない」の部分を他の訳はどれも訳出していません。

s’en servir: en の「de + 名詞」の名詞が指しているのは、直訳では「能力 (puissance)」、他はみな「直観 (intuition)」と捉えています。直訳は間違っているかもしれません。

 

Mais の段落

dira-t-on: 直訳「と言うかもしれない」、N 「と人は言うだろう」。K, I は未訳あるいは訳文中にそれとなく散らして訳出しているのかもしれません。

si: 直訳と N は「としても」というように譲歩の意味で訳しています。一方、K は「ならば」、I は「とすれば」というように、この二つは普通の条件の意味で訳しています。ここでは前の話からの対比を表わすために譲歩の意味で訳出したほうがいいと直訳では判断しました。

au même titre que: A au même titre que B で「B であるのと同じ資格で A である」。意訳すれば「A であるのは B であるからだ」、「B だから A なのである」。ここでのポイントは B を引き合いに出して A だと主張されている点です。直訳と N は A に対して B を引き合いに出しているというニュアンスが感じられますが、K, I はそのニュアンスが希薄です。

 

On ne saurait の段落

On ne saurait méconnaître: ne saurait + 不定詞は丁寧な否定を表わしますが、直訳以外、どれも未訳です。

s'impose: 直訳と I は「課されている (課せられている)」、K 「服従を強制する」、N 「強制力を持っている」。

l’affirmation: これは前にも触れましたが、直訳「承認」、K 「肯定」、I 「存在の証」、N 「具現」。

 

総評

以上の比較から、今回も私の個人的で主観的な印象を二点、述べてみましょう。

 

一点目。

私の心に残ったのは、邦訳では助動詞と助動詞に準じるフランス語の表現がちょくちょく訳出されていない、ということです。

具体的には、ne peut (できない) という助動詞の否定的表現や、ne saurait + 不定詞 (できないでしょう) という助動詞に準じる否定的表現が邦訳に反映されていないことが目につく、ということです。

これは些細なことかもしれません。これらが訳出されていなくても、原文の大意は損なわれることなく日本語に翻訳されている、と言えるでしょう。

とは言え、これらの表現は訳出に困難を覚えるフランス語だ、ということはありませんし、無理に訳出すると不自然な日本語になる、というわけでもありませんから、普通にそのまま訳し出せばいいもののように思われます。

なぜ訳出しなかったのか、なぜ編集者はこの点を修正しなかったのか、不思議に感じます。

しかし、まぁ、そういう表現まで律儀に訳出していると時間がかかって仕方がないし、そんなことやっていると、まるまる1冊の本を決められた時間以内に訳せないので、あんまり細かいところはこだわらなかったのかもしれませんね。

 

二点目。

前回、前々回もそうでしたが、今回も南條先生の訳にピカリと光るうまい意訳が散見されたように感じます。

具体的には、先生は s'impose を「(自らに) 課す」と普通に訳すのではなく、「としか思えない」と意訳してみたり、affirmation を「肯定」や「承認」ではなく「具現」と訳してみたりされていることです。

このあたりは、研究の専門家だと「意訳しすぎてはいけない」と、無意識にブレーキをかけてしまうところですが、翻訳の専門家は「要するに何が言いたいのか、その点をえぐり出して一言で言い表わすことが肝要だ」とお考えなのかもしれません。

でも、先生が expérience をたびたび「実験」と訳したり、formule を「決まり文句」と訳したりするのは、ちょっといただけないと思います。(生意気言ってすみません。)

 

以上は私個人の偏った印象です。これを読まれた方は、私の印象が的を射ているかどうか、必ず自ら考えて判断してください。決して無批判に受け入れてしまわないようにお願い致します。

 

個人的感想

最後に、Poincaré の文章を読んだ感想を記してみましょう。

なぜ Poincaré は数学的帰納法を総合的でア・プリオリと見なしたのでしょうか。そのことを前回と今回読んだ五節と六節から、かつそれらの節だけから見てみることにしましょう。

なお、Poincaré は「総合的でア・プリオリ」ということで、正確には何を意味しているのか、一からは説明していません。そのことについてはある程度、読者にも既知であると考えているようです。そのため、Poincaré は何をもって総合的であり、ア・プリオリであると言っているのかについては、私の方でいくぶん推測を交えて述べる必要が出てきます。以下ではそのような推測を若干加えて話を展開していますので、この点、ご了承ください。

また、数学的帰納法ということで、Dedekind-Peano の公理の第五公理のようなものも Poincaré は念頭に置いていると、ここでは想定しておきます。本当に Poincaré が数学的帰納法としてこの第五公理と類したものも思い浮かべていたのかどうかはわかりませんが、似たようなものを想定していた可能性は高いので、便宜上、そのように想定しておきます。

さて、Poincaré は六節で、数学的帰納法は総合的でア・プリオリであると述べています。なぜなのでしょうか。この疑問に答えるためには話を二つに分けなければなりません。つまり「なぜ Poincaré は数学的帰納法を総合的と言うのか」という部分と、「なぜ Poincaré は数学的帰納法ア・プリオリと言うのか」という部分です。まず前者の疑問について考えてみましょう。

 

なぜ Poincaré は数学的帰納法を総合的と言うのでしょうか。それは、数学的帰納法が分析的ではないからです。判断なり、文なり、言明なりが、分析的ではないならば、それは総合的です。

Poincaré によると、数学的帰納法が分析的ならば、それは論理学の規則だけで述べることができます。より正確には論理学の規則だけで「述べ尽くす」ことができます。しかし論理学の規則だけで「述べ尽くす」ことができないならば、数学的帰納法は分析的ではありません。それは総合的です。

実際のところ、確かに数学的帰納法は論理学の規則を使って、すなわち分離則 (Modus Ponens) を使って述べられます。このことは五節で、仮言的三段論法を階段状に並べているところからわかります。ですが、それを使って数学的帰納法のいわば内実を「述べ尽くす」ことはできません。このことも五節からわかります。有限の数については、仮言的三段論法を有限個、階段上に並べることができれば、その時、その有限の数について、「述べ尽くす」ことができたことになりますが、数学的帰納法がいわばうちに含んでいる仮言的三段論法の階段は無限段なので、この階段を並べ切ることはできず、よって数学的帰納法を論理学の分離則を使って「述べ尽くす」ことはできません。そして「述べ尽くす」ことができないならば、数学的帰納法は分析的ではありません。それは総合的です。以上のように Poincaré は考えます。

これが数学的帰納法を総合的であると考える Poincaré の理由です。数学的帰納法のいわば内実を、論理学を使って有限のうちに書き下すことはできないので、数学的帰納法は分析的ではなく総合的だ、と言うのです。

 

では次の疑問に移りましょう。なぜ Poincaré は数学的帰納法ア・プリオリと言うのでしょうか。

Poincaré が分析的ということで何を考えていたのかは、まだ割とわかりやすいのですが、彼がア・プリオリということで何を考えていたのかは、ちょっとはっきりしません。しかし六節から推測できるのは、何かが経験によるものでないならば、それはア・プリオリであり、またそれが元々人間に備わっているものならば、やはりそれはア・プリオリなのだ、と彼が考えていたらしいということです。そうだとしてみましょう。

さて、Poincaré によると、数学的帰納法を論理学の分離則によって「述べ尽くす」ことはできません。それができないならば、「述べ尽くした」ところを実際に見てみることもできません。そして「述べ尽くした」ところを見ることができない、実際に確かめられないならば、数学的帰納法の正しさを分離則による階段を並べ切ることで経験的に確かめることもできません。したがって数学的帰納法は経験に由来しない、経験的ではない、と Poincaré は考えます (六節)。ところで彼によると、何かが経験的でないならば、それはア・プリオリです。そして数学的帰納法は経験的でありません。よってそれはア・プリオリです。

また、数学的帰納法は数 n−1 についてあることが成り立つならば、それは n についても成り立つことを言っていますが (五節)、これは言い換えると、数学的帰納法は数 n についてあることが成り立つならば、それは n+1 についても成り立つことを言うことになり、さらにこれを言い換えると、数学的帰納法ではある数 n に、繰り返し1を足すという操作を行うことがいわば含まれているとわかります。

そして Poincaré によると、人間の精神が何かあることを行うことができるなら、原理的にはいくらでも繰り返してそのことを人間の心において行うことができるのであり、数学的帰納法に見られる「1を足す」という操作も、人間の精神は原理的にいくらでも繰り返し行うことができるのであって、人間の心にはそのような操作を行う能力が元々備わっているのである、ということです (六節)。ところで Poincaré によると、何かが元々人間に備わっているならば、それはア・プリオリなものです。そして数学的帰納法の「1を足す」という無限回可能な操作能力も元々人間の心に備わっています。よって数学的帰納法ア・プリオリです。

これが数学的帰納法ア・プリオリであると考える Poincaré の理由です。数学的帰納法の本質を成す「繰り返し1を足す」という精神的な操作は元々人間の心に備わっている能力なので、数学的帰納法ア・プリオリだ、と言うのです。

以上から、Poincaré によると、数学的帰納法は総合的であり、かつア・プリオリである、ということになります。こうして彼によると、数学的帰納法は総合的でア・プリオリだ、というのです。

 

しかしこの主張は正しいのでしょうか。いくつか疑念が浮かびます。

最も簡単で、誰にも思い付く反論を一つ上げてみましょう。

Poincaré 先生は、数学的帰納法に含まれる「1を足す」という無限回可能な反復的操作は、人間の心が元々持っている能力である、とおっしゃっているように思われます。しかし持っているとはどういうことでしょうか。詳しい説明がなく、曖昧ではっきりしません。それは生得的なものだということでしょうか。仮にそうだとすると、そのことは証明、立証されたことはあるのでしょうか。観察や実験を通して、あるいは内省や内観を試みることを通して、確認されたことはあるのでしょうか。この点に関し、ここで先生は何も述べておられないようです。件の反復的操作が元々人間の心に備わっている能力であるという先生の主張に対しては、根拠が示されていないように見えます。

また「それは心が持っているのだが、生得的なものでもなければ、後天的に獲得したものでもない」と言うならば、それはどのようにして心に備わっているのか、その説明や証明が必要ですが、それについてもここでは話がなされていないように見えます。

いずれにしても、何かが人間の心に元々備わっていると言うと、一見もっともらしく思われます。確かに「元々備わっている」と言っておけば何かが説明された気がするものです。しかしそれが元々備わっている理由と原因、それにどのようなメカニズムと役割を持っているのかの説明が最低限でも必要です。この説明責任を果たさず、ただ「元々備わっている」と言うだけでは実のところ何も言ったことにはならないでしょう。

よって、「件の反復的操作は元々人間の心に備わっているのだから、数学的帰納法ア・プリオリである」という先生の主張は、説得力を持ちません。もしかすると本当に数学的帰納法ア・プリオリなのかもしれませんが、その根拠は例の反復的操作能力が心に備わっているからだ、ということにはならないと思われます。

 

疑念・反論はこれだけにしておきます。ただし、先生は先生で、私に対し反論があるでしょう。また機会があれば先生から寄せられる可能性のある反論について考えてみたいと思います。

また、今回は先生に対する私からの反論を一つだけ上げてみましたが、他にも考えられると思います。特に数学的帰納法が分析的ではないという先生の主張には私なりに疑問を感じていますので、Frege や Russell の論理主義に対する批判を検討する機会がありましたら、その私なりの疑問をよく考えてみたいと思います。

いずれにしましても先生に対して生意気なことを申していましたらすみません。勉強し直します。

 

追記

Poincaré がなぜ数学的帰納法を総合的でア・プリオリと見なしたのかについては、Poincaré の哲学の専門家による次の文献も参考になるでしょう。

・Janet Folina  "Poincaré's Philosophy of Mathematics," in: Internet Encyclopedia of Philosophy *2 ,

このうちの section 5 の a. Argument One.

・Ditto  Poincaré and the Philosophy of Mathematics, Macmillan/Scots Philosophical Club, 1992,

このうちの chapter 5 の intro. と、その chapter の section 1, Analysis of the Principle of Induction (の前半).

これら二つのうち、前者の a. Argument One の方がわかりやすい説明になっています。後者の intro. と section 1 の説明はちょっとわかりにくく、同じような言い回しが微妙に角度を変えつつ連発されるので、くどい感じがしていくらか読みにくいです。「本格派」はこの後者を参照する必要があるでしょうが、「とりあえず派」は前者だけ読めばいいと思います。

なお、Folina 先生の説明は参考にさせていただきましたが、今回上に記した私の説明は、先生のものとはちょっと違ったところがあることをここに言い添えておきます。

 

念のため、その Argument One の骨子を私なりに抽出し、補足を加えた上で書き出しておきましょう。

Argument One

1. Poincaré 曰く、数学が論理学にすぎないならば、数学は同語反復にすぎない。しかし数学は明らかに同語反復ではない。故に、対偶を取れば、数学は論理学ではない。[よって、数学は分析的ではなく総合的である。]

2. Poincaré 曰く、数学は知識を増やすが論理学は知識を増やさない。では、数学はどうやって知識を増やすのか? それは数学的帰納法によってである。たとえば有限のものについて、「これは特徴 p を持っている、あれは特徴 p を持っている、等々」とは言えるが、これでは無限のものについて「すべてのものは特徴 p を持っている」とは言えない。しかし数学的帰納法を使えばそう言える。そう言えた時、明らかに私たちの知識は増えている。[よって、数学的帰納法は分析的ではなく総合的である。]

3. Poincaré 曰く、数学的帰納法は論理学から引き出すことはできない。しかもそれは伝統的に論理学の法則・原理とも見なされてはこなかった。よって、それは分析的ではない。つまり総合的である。

また、数学的帰納法が正しいのは、それが経験的に確かめられたからそうなのではない。それは私たちの精神に生まれながらに与えられてきたものだからである。よって、それはア・ポステリオリではなくア・プリオリである。

4. 以上により、数学的帰納法は総合的でア・プリオリである。

 

今日はこれで終わります。例によって、私が誤解していたり、無理解を示していたり、無知なところがありましたらお詫び致します。誤訳や悪訳も残っているかもしれません。そのようでしたら謝ります。誤字や脱字、衍字や書式の不統一が見られるようでしたらこれについてもお許しを請わねばなりません。すみません。今後注意します。

 

*1:URL = <https://fr.wikisource.org/wiki/La_Science_et_l%E2%80%99Hypoth%C3%A8se/Chapitre_1 >, 2022年4月閲覧。

*2:URL = <https://iep.utm.edu/poi-math/>, 2022年4月閲覧。