目次
はじめに
今回も前回同様、Epictetus の Encheiridion (要録/提要) を Carl Hilty の独訳で読んでみましょう。私の気に入っているセクションを二つ読んでみます。
そしてその独文を私が直訳し、その独文からの和訳が岩波文庫『幸福論』に入っていますので、私の直訳とその和訳とを比べてみましょう。
加えて、仏訳も読んでみて、私の直訳を掲げてみます。また、独訳と仏訳のそれぞれに、私による文法の解説も付しておきます。
言うまでもありませんが、私はドイツ語、フランス語の先生でも何でもありません。それ故私の訳に誤訳や悪訳がありましたら申し訳ございません。すみません。文法解説に誤りがありましたら、これについてもお詫び致します。気を付けるようにしましたが、間違いが残っていましたらごめんなさい。
これら語学的な話のあとに、Epictetus の文章について、私の感想を手短に述べて、今日の話を終わります。
ドイツ語原文
Hilty による Encheiridion (要録/提要) の独訳とされているものが Project Gutenberg-DE にありますので *1 、以下にそれを引用します。
ドイツ語文法事項
besinne dich: これは命令法。接続法第一式なら besinnest になっているはず。
in dir forschend: forschend は現在分詞で、dir にかかっています。形容詞類が後方から前方の名詞にかかる時は格語尾を付けません。
dieselben: derselbe は通常、形容詞「同一の」、名詞「同一のもの/人」という意味ですが、「同一」という意味がなくなって、前方の名詞を単に指すだけのことがあります。ここでは alle Ereignisse を指しています。
besitzest: これは接続法第一式。間接文の中にあるので接続法第一式が使われています。
Siehst du: 倒置しているのは、これが wenn 文の代わりであることを表わしています。
eine schöne Person: 不定冠詞が女性形なので、Person は一見女性を指しているように見えますが、Person 自身が元々女性名詞なので不定冠詞が女性形になっています。そのため、この Person は男性を指しているとも、女性を指しているとも取れます。それ故訳文では両義的に訳す必要があるでしょう。
kommt die mühsame Arbeit: この倒置も wenn 文の代わりです。
kommt die mühsame Arbeit auf den Hals: ここを文字通りに訳せば、「骨の折れる仕事が首筋に来るのなら」。これは比喩だと考えられます。言わんとしているのは「骨の折れる仕事を背負い込んだ場合には」といったところだと思われます。ちなみに、小学館の『独和大辞典 第2版』にも相良先生の『大独和辞典』にも、項目 Hals を引いても auf den Hals kommen は熟語・成句としては出てきていないようです。
Ausdauer: ここは大きく省略されています。省略なく書き出せば、前方の so wirst du die Enthaltsamkeit als Kraft gegen sie bei dir finden の Enthaltsamkeit を Ausdauer に入れ替えたものになります。このあとに出てくる Geduld についても同様のことが言えます。
zu teil wird: zu teil werden = zuteil werden = zuteilwerden.
nie werden: この文の主語は die Vorstellungen.
Bedenke: これは命令法。接続法第一式なら Bedenkest になっているはず。
Bedenke das: 指示代名詞 das は後方の副文を指すことがあります。そのためここの das は直後の文 du ... will を指しています。相良先生の『大独和辞典』、項目 das の指示代名詞的用法の丸2, (c), 「前または次の文章全体の内容を指す」。
welcher: これは関係代名詞ですが、なぜ welcher のように2格 (または3格) になっているのでしょうか? welche のように4格で、先行詞を直前の Rolle として、「作者が君にさせたい役」とした方が自然な気がしますが、welcher となっているのは、たぶんですが、この welcher の直後に Rolle が省略されていて、welcher は2格として der Inhaber にかかり、「作者が君にさせたい役の (所有者)」となっているのだと思われます。
Ist sie kurz: この文について、三つ述べます。一つ目。これが倒置されているのは、wenn 文の代わりになっているためです。二つ目。sie が指しているのは前方の Rolle です。このあとに出てくる ist sie lang の sie も同様です。三つ目。kurz の部分は省略されていて、すべて書き出せば、eine kurze Rolle となります。このあとの ist sie lang の lang も同様です。
eine kurze: この直後に Rolle が省略されています。
eine lange Rolle: この直前に so spielst du が省略されています。
Will er: 倒置しているのは wenn 文の代わり。
er: er は der Dichter を指します。
einen Armen: 形容詞 arm (貧しい) を名詞化したもの。
vorstellest: 接続法第一式。間接文内にあるため。
spiele: 命令法。接続法第一式なら spielest になっているはず。
ihn: 前方の einen Armen を指しています。
einen Lahmen: ここでも省略が施されています。すべてを書き出せば、前の Will er, ... gut の einen Armen を einen Lahmen に代えたものになります。eine obrigkeitliche Person と einen gewöhnlichen Bürger のそれぞれについても同様です。なお、einen Lahmen は形容詞 lahm (手足の不自由な) が名詞化したものです。
obrigkeitliche: 発音は「オープリクカイトリッヘ」ではなく、「オーブリヒカイトリッヘ」。つまり「プ」ではなく「ブ」、「リク」ではなく「リヒ」。
das ist: das はうしろの zu 不定詞句 die Rolle, ... zu spielen を指しています。
sie zu wählen: この sie は前の die Rolle を指しています。
Sache: この語は日本語に、訳しにくい言葉として有名ですが、ここでは「仕事」とか「問題」ぐらいの意味です。
直訳
私による直訳を記します。今回の私訳は語学に資することを目的としているのために、日本語の読みやすさや自然さは犠牲にしています。
岩波訳
・ヒルティ 『幸福論 第一部』、草間平作訳、岩波文庫、岩波書店、1935年。
傍点は下線で代用します。また差別的な用語をニュートラルな言い方に改めたところがあります。(今回引用した独訳原文では、強調表現等はないようなので、私の直訳では下線をどこにも施しませんでした。)
直訳と岩波訳との相違点
直訳と岩波訳の主な相違点を見てみましょう。
ところで、岩波訳は今回引用したドイツ語文を底本としていない可能性もあります。別のドイツ語文を底本としていることもあり得ますので、岩波訳が直訳と異なっているとしても、それは当然の結果なのかもしれません。この点、お含みおきください。
岩波訳、第十節
わが身を省みて: これはいい訳ですね。in dir forschend の訳です。直訳は文字通りガチガチに「検討している君のうちにおいて 」と訳しています。
対抗すべき: gegen の訳ですが、直訳では「対抗する」と訳しています。特に当為の意味はないと思われますので、直訳ではニュートラルに訳しています。
出会えば: kommt ... auf den Hals の訳。文字通りに訳せば直訳のように「首筋に [肩に] のしかかって来る」という感じでしょうけれど、岩波訳は簡略に済ませているようです。
第十七節
演出しようとする: ausführen will の訳。直訳は「やってほしい」。岩波訳では ausführen (実行する) をより具体的に訳出し、will をニュートラルな意志として訳しています。直訳は前者をニュートラルに訳出し、後者を一歩踏み込んで要求として訳しました。どちらの訳でもよいと思います。
総評
今回は直訳と岩波訳にほとんど差は出ませんでした。単語の訳語の選択のレベルぐらいでしか差がありませんでした。10, 17節ともに短く、しかもそんなに難しいドイツ語文でもありませんでしたので、まぁ、こんなものなのかもしれませんね。
フランス語訳
仏訳を Wikisource France の、
・Manuel d'Épictèt, traduit par Jean-Marie Guyau, 1875 *2 ,
から引用します。
仏訳に付けられている見出しと訳註は引用しません。
フランス語文法事項
se présente: se présenter で「現れる、起きる」。
souviens-toi, ..., de chercher: se souvenir de + 不定詞で「〜することを忘れない、覚えている」。ここではその命令形。
en te tournant vers toi-même: ジェロンディフ。意味はこの場合同時性を表わし「〜しながら」。
te tournant vers: se tourner vers で「〜に心を向ける」。
relativement à l’usage: relativement à 〜 で「〜に比べて、〜と比較して、〜について」。ここでは直訳すれば「このものを利用することについて」、「このものを利用すること (を他のものを利用すること) と比べれば」となると思われますが、わかりにくいですね。気持ちとしては「それぞれのもの (を利用するの) に応じて」、あるいはもっと単純に「何かが現れてくる際に」という感じでしょうか。
tu trouveras: 単純未来。条件節で表わされている出来事のあとの、未来のことを表わすために単純未来形になっていて、単なる時制的な用法だと思われます。たぶん叙法的な意味合いはないか、またはあってもわずかだろうと思われます。もしも叙法的な意味があるのなら、それはおそらく著者Epictetus による読者・聴者への意志を表わしていて、「私の指示に従って、私が言う通りにすれば、君はしかじかの能力を自身の内に見出すことになるのだ」と言っているのだと推測されます。以下でも trouveras が何度か出てきますが、同様のことが言えると考えられます。この叙法的用法については、朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目 futur simple, 228ページの B. 叙法的用法の 10 「意志」の二つ目の例文を参照。
par rapport à eux: par rapport à 〜 で「〜に関して、〜に対して、〜に比べて」。eux は前方の un bel homme ou une belle femme を指す強勢形人称代名詞。
s’offre: s’offrir で「現れる」。
accoutumé: ここには省略があります。すべて書き出せば、si tu es accoutumé à la peine, あるいは、si tu deviens accoutumé à la peine, となるでしょう。
ne pourront plus: ne ... plus で「もはや〜しない」。
Souviens-toi que: se souvenir que 節で「〜であることを忘れていない、覚えている」。ここではその命令形。
celle qui plaît au maître: この節について、四つ述べます。一つ目。celle は関係代名詞で前方の女性名詞を指します。関係節中では主語になっています。ここで前方の女性名詞としては une comédie しかありませんから、この関係代名詞は une comédie を指しています。二つ目。plaît au については「S plaire à 人」で「S が人の気にいる、S が人に好かれる」。三つ目。au maître については le maître で通常「主人、先生」の意味ですが、ここではそれが比喩的に使われて「作者」のことを表わしているもとの思われます。四つ目。するとこの関係節の意味は「作者の好むそれ (劇)」となります。ただしそうだとすると、独訳とは離れた訳になりますね。独訳では作者が君に (好んで) させたいのはある役であるのに対し、仏訳ではご覧のとおり、作者が好んでいるのはある役ではなく、ある劇だとされています。どちらが正しいのかはギリシア語原文を見てみないとわかりません。(あるいはひょっとしてギリシア語原文からはどちらとも取れるのかもしれませんが。)
s’il la veut longue,: 三つ述べます。一つ目。il は le maître を指し、la は une comédie を指します。la はここでは特に une comédie 以外は指しません。二つ目。vouloir + 名詞 + 属詞で「(名詞) が (属詞) であることを望む」を意味します。するとこの si 文の意味は「もし作者が、その劇が長いことを望むならば」となります。三つ目。しかしそうすると、ここでも独訳から離れてしまいます。独訳で作者が望んでいるのは劇が長いことではなく、君がある役を演じることだからです。
joue-la longue: (tu に対する) 命令形。er 動詞の tu に対する命令形では一般に、語尾の -es の s が落ちます。また、命令形では代名詞を従える時、通常トレ・デュニヨンで結びます。また、la は une comédie を指しており、そうするとここでも独訳から離れてしまいます。独訳では「役を長く演じよ」と言っているのに対し、仏訳では「劇を長く演じよ」と言っているからです。このあとの joue-la courte についても同種のことが言えます。
avec grâce: 優雅に。
de même: 同様に。
celui: 前方の男性名詞を指し、ここでは le rôle の代わりとなっています。
un plébéien: 古代ローマの平民のこと。一般には庶民のこと。
c’est ton fait de bien jouer le rôle: c’est 〜 de 不定詞で、ce は de 以下の不定詞を指し、「(不定詞) することは〜である」となります。
ton fait: fait は「事実、こと」の意味ですが、行為のニュアンスを伴っていますので、ton fait は単に「君のこと」と訳すのではなく、「君のすること」というように訳した方がよりよいと思われます。
le choisir, c’est le fait: le choisir は純粋不定詞。ここでは実質的に主語になっています。ce は前方のその不定詞句 le choisir 「それを選ぶこと」を指します。これはいわゆる遊離構文。また、le fait は単に「こと」と訳すよりも、先の註で述べたように、「すること」と訳した方がいいでしょう。
直訳
ここでも語学のために、日本語としての自然さを犠牲にして直訳しています。
個人的感想
今回の二つの節について、簡単に感想を記してみます。
第10節は、いかなる状況に置かれようとも、得るものがある、特にその状況を利用して自らを高めることができるのだ、と言っているのだと思います。
実際、私もしんどい状況、つらい状況にある時は、「この状況が私を鍛えるのだ、この状況をくぐり抜ければ私は強くなれる。だからがんばろう。しばらくの辛抱だ。何とかがんばるんだ」とよく自分に言い聞かせることがあります。
10節は、大変な状況下でも、見方を変えることにより、自分の意志のいかなる側面が鍛錬されるのか、それを述べているのだと思います。私にとって、とても共感できる一節、また改めて自らに戒めたい一節として、今回引用してみました。
第17節は一言で言うと、「運命を甘受せよ」と述べているのだと思います。「それが逃れ難いことならば、まっすぐそれを見据えて引き受けよ」と言っているのだと思います。これは、とても、とても、難しいことだと感じます。私には簡単に引き受けることはできないでしょう。それを引き受けるには長い間に渡って苦闘せねばならないでしょう。もしも引き受けることができたならば、それは確かに一つの達成、人生における大いなる達成だろうと思います。
これに関連して私が思い起こすのは、Viktor Frankl 先生の一つの考え方です。それは人生の意味、生きることの価値に関わる考え方です。
先生はその価値について、三つ分類できると考えられておられるようです。その三つを次の解説文を参考にして、ごくごく簡単に見てみましょう。
・山田邦男 「解説 フランクルの実存思想」、フランクル、『それでも人生にイエスと言う』、山田邦男、松田美佳訳、春秋社、1993年、187-199ページ。
人間が行為することによって生み出される価値は三つに分類されると Frankl 先生は見ておられるようです。その三つとは、創造価値、体験価値、態度価値です。
創造価値とは、典型的には仕事や労働を通じて何かものを作ったり、提供したりすることで生み出される価値です。人の喜ぶものを作ったり、提供したりすれば、そのようにした人の人生に価値や意味が生まれます (189-192ページ)。
体験価値とは、典型的には何かを体験することで生み出される価値です。すてきな風景を堪能したり、他の人とすばらしい愛の体験をすれば、そのような経験をした人の人生には意味や価値が生まれます (193-196ページ)。
態度価値とは、典型的には何か困難な状況に直面した時に、その人が取る態度によって生み出される価値です。困難な状況から逃げずに立ち向かうならば、その人の人生は価値あるもの、意味あるものと認められます。不治の病に冒された人が、その運命に押し潰されることなく敢然として立ち上がるのならば、それはまさしく英雄的行為、大方の人の真似のできない、その意味で希少な価値ある行為でしょう (196-199ページ)。
さて、今回引用した上の第17節ですが、この節のポイントは、人生においては世俗的成功をおさめることが重要なのではなく、そのような成功をおさめようがおさめまいが、置かれた状況で力の限り生き切ることが重要なのだ、ということでしょう。たとえ自分の望まない境遇に置かれても、たとえつらい役柄を割り当てられても、立派にそれを引き受け、演じ切ってみせることが大切なのであり、それが何よりも価値のあることなのだ、ということでしょう。
もしもこのとおりならば、Epictetus にとり、Frankl 先生の言う態度価値の実現こそが、それこそ価値あることなのだ、と言いたいのかもしれません。
この態度価値の実現は、個人の人格の尊厳を守り、高めるという働きもあります。その人の人格を否定してしまうような苦難が襲ってきた時に、毅然として耐え抜くか、それが不可能なら従容として死を引き受けることが、当人の尊厳を守り、苦悩を踏み台に歓喜へと自らを高めることになると、ある意味では考えられるからです。
今回参照している山田先生の解説文においては、態度価値が実現されている例として、瀕死の病人の話や障がい者の話だけが上げられていますが、Epictetus の論説に引きつけて考えるならば、態度価値が実現されるのは、重病患者や重度の障がい者においてのみではなく、上記の第10節で述べられていると推測されるような、健常者による日々の暮らしのなかのさまざまな困難に対し、心乱されることなく、それらの難事から、自らを鍛え上げる側面を取り上げて、対処する態度を身につけるということだけでも、態度価値の実現が図られていると言えるでしょう。
このようにして、Epictetus の考えと Frankl 先生の考えとはどこか通じ合うところがあるのかもしれません。というのも、ひょっとしてひょっとすると、前者の持っているある種の生真面目さは、Kant を経由して後者にいくらか流れ込んでいる可能性があるかもしれませんから。前者における人格の尊厳を重視する姿勢は、Kant を経て後者に至っているとも想像されます。これは半分、私の空想ですが。さて、本当はどうなんでしょうね?
ちなみに、Epictetus における人格の尊厳を重視するスタンスが Kant へと通じているという話は、國方栄二、『哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ』、岩波新書、岩波書店、2022年、23-24, 197ページを参照ください。ただし、話はこれほど単純ではありませんが。
なお、Frankl 先生に対する Kant 哲学の影響についてもここで本来なら言及すべきところでしょうが、まぁ、この辺りでもう私の妄想も打ち止めとしましょう。
PS
今回も、前回末尾で触れた清水先生の文献を参照している余力はありませんでした。念のためにこのことをここに記しておきます。
以上で本日は終わります。誤解、勘違い、無理解、無知蒙昧な点が残っておりましたら申し訳ございません。誤訳、悪訳、稚拙な訳、誤字、脱字の類いにもお詫び致します。