Reading Epictetus' Encheiridion through Hilty's German Translation, Part III

目次

 

はじめに

今日も前と同じように Epictetus の Encheiridion (要録/提要) を Carl Hilty の独訳で読みます。例えが面白く、ちょっと考えさせられるセクションを一つ読んでみましょう。

まず独文を引用し、そのドイツ語の文法事項を私が拙いながら解説します。そして私の直訳を記し、そこに岩波文庫『幸福論』に上がっている邦訳を掲げ、その後、直訳と岩波訳を比較してみます。

ちなみに『幸福論』のドイツ語は旧制高等学校のドイツ語の教科書として利用されていたこともあるようです *1 。当時、どのようなドイツ語が読まれていたのか、そのようなことを思いながら以下の独文を読んでみるのもいいかもしれませんね。

さらに、あとのほうでは仏訳も掲げ、その文法事項と私による直訳を記してみましょう。

念のために言い添えておきますと、私はドイツ語、フランス語の専門家ではありませんので、間違った文法解説や誤訳が皆無であるとは断言致しません。そのようなことがないように注意しましたが、もしもそのような瑕疵が残っていましたら予めお詫び申し上げます。誠にすみません。

実際、岩波訳と直訳を突き合わせて確認をとったところ、私が重大な誤訳を一点、二箇所に渡って犯していることに気が付き、訂正を施しています。この点については以下で触れることに致します。誤訳を教えていただきました岩波文庫の訳者草間先生に感謝申し上げます。

そして本日の話の最後に、今回のセクションの私によるささやかな感想を記して今日のブログを締めくくることにします。

 

ドイツ語原文

Hilty による Encheiridion (要録/提要) の独訳が Project Gutenberg にあります *2 。そこでそれを引用しましょう。

なお、引用文中の [1] などの数字は引用者によるものです。

 

7

[1] Bist du auf einer Seereise, [2] wenn das Schiff zeitweise in einem Hafen vor Anker liegt und [3] du aussteigst, um Wasser zu holen, [4] auf dem Wege etwa auch ein Müschelchen oder ein Zwiebelchen auflesen magst, [5] dabei aber stets deine Gedanken auf das Schiff gerichtet haben und [6] fortwährend zurückschauen mußt, [7] ob nicht etwa der Steuermann rufe, und [8] wenn er ruft, [9] alles verlassen mußt, [10] um nicht sonst wie die Schafe gebunden (gleich einem ungehorsamen oder entlaufenen Sklaven) in das Schiff geworfen zu werden, [11] so magst du auch im Leben, [12] wofern dir ein Frauchen oder Kindchen gegeben ist, dich daran freuen; [13] wenn aber der Steuermann ruft, [14] so eile zum Schiffe, verlaß alles, schaue dich nach nichts um.

Bist du schon ein Greis, so entferne dich überhaupt nie mehr weit vom Schiffe, damit du nicht zurückbleibst, wenn der Steuermann ruft.

 

最初の段落の全体的な構造は、若干込み入っています。それはだいたい次のような感じになるのではないかと思います。

まず、[1], [2], [3] は仮定であり、[4] はこれら仮定に対する譲歩・認容を表わしています。また先の仮定の帰結が [5] と [6] で、この二つの帰結に対する補足が [7] です。続いて [8] も仮定であり、その帰結が [9] で、この帰結に対する補足が [10] です。

そして以上のことは、例え、比喩として話されているので、故にこれを現実の人生に当てはめると、仮定 [12] のもと、帰結 [11] が言えるのだ、ということです。但しそれでも [13] の仮定のもとでは [14] という帰結を考慮せねばならぬ、と警告が追加されています。

 

ドイツ語文法事項

Bist du: 倒置しているのは wenn 文の代わりだからです。

vor Anker liegt: vor Anker liegen で「停泊している」。

um Wasser zu holen: um 〜 zu — で「〜を—するために」。

auf dem Wege: その道すがら。

etwa auch: etwa には三つ意味があります。(1) 約、(2) たとえば、(3) ひょっとして。ここでは (2) の意味です。

auflesen magst: この mögen は「事実の承認と認容」の用法か、または「無関心の認容」の用法です。「事実の承認と認容」とは「まぁ、そうしておこう」とか「それでもよかろう」という意味を持った用法であり、「無関心の認容」とは「そうしたいなら、そうしたって構わん」とか「何でも勝手にやってみるがいいさ」といった意味の用法です。詳しくは次を参照してください。関口存男、『接続法の詳細』、三修社、1991年、200-204, 209-215ページ。さて、ここでの mögen は「拾い上げたいなら拾い上げればいい」という感じの意味を持っていると考えられます。私は当初、ここを誤訳して、単なる要望の意味と解し、「拾い上げたい場合には」と訳しておりました。これが誤訳であることを岩波訳でチェックした際に教えられました。岩波訳は正しく「拾うのはさしつかえないが」と訳しておられます。

gerichtet haben 〜 mußt: 完了形 + müssen には二つ意味があります。(1) 完了の確信で「〜したに違いない」、(2) 完了の必然で「〜しておくべきである」。ここでは (2) の意味です。

ob: この ob 文は、本来 mußt より前に置かれるのですが、ちょっと長めの表現なので、枠構造の枠外に置かれています。

ob nicht etwa: ここの etwa は、先の註で触れた三つの意味のうちの (3) に当たり、「ひょっとして、万一」の意味です。

rufe: 接続法第一式。副文である ob 文の中にあるためです。

um 〜 zu werden: これも「〜するために」。

um nicht sonst wie 〜 geworfen zu werden: ドイツ語にも、フランス語の虚辞の ne と同じような nicht の用法があります。それは次の四つの文脈に現れます。(1) 「〜しないよう用心せよ」のような用心、否定、警告、禁止、疑念の文脈、(2) bevor などの「〜しないうちは」を意味する文脈、(3) ohne daß, ohne zu の文脈、(4) 感嘆文 (何度言ったことか! 何でも知っているんだ!)。ここを文字通りに直訳すると「さもないと〜のように投げられないように」となりますが、普通に訳すと「さもないと〜のように投げられてしまうので」となるでしょう。このことからここの nicht は虚辞であり、上の (1) の意味の虚辞だと解されます。

die Schafe gebunden: gebunden は過去分詞の形容詞的用法で、前の名詞 die Schafe にかかっています。形容詞類が前の名詞にかかる時は格語尾を付けません。

gleich: gleich + 3格で「(3格) のように/と同様に」。

so: これは普通に帰結関係を表わしているのだろうと思います。前方の条件節では例え話がなされており、この例えが成り立つのならば、現実の人生においては、この so 以下の帰結節でのことが成り立つのである、と述べられているのだろうと思います。

magst du: この mögen も先の註で上げた「事実の承認と認容」の用法か、または「無関心の認容」の用法で、「妻と子供のいる楽しい家庭を享受したいなら享受すればいい」といった意味を持っています。しかしここでも当初、私はこれを誤訳してしまい、mögen の有する認容の意味が転じて可能の意味に、そして可能の意味がさらに転じて許容とか許可の意味 (〜してよい) になったものだろうと解しました。実際、mögen の元々の意味は können (〜できる) であり、この意味ではアレマン地方やスイスで現用されているようだからです。しかし私の当初の理解はちょっとひねりすぎ、深読みしすぎだったみたいですね。なお、ここの部分を岩波訳も誤訳して、なぜか「妨げない」と訳しておられます。

dich daran freuen: sich4 + an 3格 + freuen で、「(現在のことについて) 喜ぶ」。類似の表現ながら、若干意味を異にする表現として以下があります。sich4 + über 4格 + freuen で、「(過去または現在のことについて) 喜ぶ」、sich4 + auf 4格 + freuen で、「(未来のことについて) 喜ぶ」。ただし本によってはこれらの語句の意味について、違った説明をしていることもあり、上に記した意味は大まかな目安と考えた方がいいかもしれません。

eile: これは命令法。接続法第一式ならば、eilest になっているはず。このあとの verlaß も命令法。接続法第一式ならば、verlassest になっているはず。

schaue dich nach nichts um: sich4 nach 3格 umschauen で「(3格) を振り返って見る」。schaue ... um は命令法。接続法第一式ならば、schauest ... um であるはず。

Bist du schon: 倒置になっているのは wenn 文の代わりのため。

entferne dich ... vom Schiffe: sich4 von 〜 entfernen で「〜から遠ざかる、〜から離れる」。ここも命令法で、接続法第一式なら、entfernest.

überhaupt nie mehr: überhaupt はここで「そもそも」と訳すこともできるかもしれませんが、ここでは否定の言葉との組み合わせで「決して〜しない、まったく〜しない」の意味。

nie mehr: mehr と否定語で「もはや〜しない」。

damit: これは接続詞であり、直説法の zurückbleibst が後置されています。接続詞 damit のあとで直説法が使われている場合は、そこで述べられていることが高い確率で実現されると見られていることを表わしており、接続法第一式が使われている場合は、そこで述べられていることが実現されるとしても、その確率が低いか、または実現されるか否か、不定であることを表わしています。

 

直訳

以下に私訳である直訳を書き下します。こなれている完成された翻訳を記すのがここでの目的ではなく、語学に資することがここでの目的です。そのため日本語としての読みやすさや自然さは考慮に入れていません。

 

7

君が海の旅の途上にあって、船がしばしの間、港に停泊しており、水を汲んでくるために船を降り、道すがら、たとえばちっちやな二枚貝やちっちゃな球根もまた拾い上げたい場合には、まぁ拾い上げてもよかろうが、しかしその際、ひょっとして操舵手が呼ぶのではないかと、常に船の方へ考えを向けておかねばならず、かつ絶えず振り返らなければならないのであり、もしも操舵手が呼ぶならば、すべてを捨てよ、さもなければ縛られた羊たちのように (反抗的な、または逃走を図った奴隷のように) 船へ投げ込まれてしまうためである。だから、君は人生においてもまた、そこで君に妻や子供が与えられているならば、そのことを享受しても構わんといえば構わんが、しかし操舵手が呼ぶ場合には、すべてを捨て、何も振り返らず、船へ急ぐのだ。

君が既に老人ならば、もはや決して少しも船から遠くへ離れてはならぬ。操舵手が呼ぶ時、君が乗り遅れないようにするためである。

 

岩波訳

ヒルティ  『幸福論 第一部』、草間平作訳、岩波文庫岩波書店、1935年、51ページ。

ものすごく簡単に読める漢字にふりがながふってありますが、それは引用しないでおきます。

 航海中、船がときどき港にはいり、きみは水くみに上陸したならば、途中で貝殻や球根を拾うのはさしつかえないが、しかしその時でも、きみの考えを船へ向け、舵取りが呼びはしないかと、たえず振り返って見なければならぬ。そして、もしも彼が呼ぶならば、ただちに一切を投げすてなければならぬ、さもなければ、羊のように縛られて (不従順な、あるいは逃亡した奴隷と同じく) 船に投げこまれるであろうから。これと同様に、この人生においてもまた、きみに妻子が与えられたなら、それを喜ぶのを妨げない。しかし、舵取りが呼ぶときは、すべてを捨てて船へいそぎ、決して何物をもかえりみてはならぬ。

 きみがすでに老人であるならば、総じてもはや船から遠く離れてはならぬ、舵取りが呼ぶとき乗りおくれる心配のないように。

 

直訳と岩波訳との相違点

直訳と岩波訳の主な相違点を記します。

ちなみに、岩波訳が底本にしたドイツ語文は、上に引用したドイツ語文とは違っているかもしれません。これが理由で互いに異なっている可能性もあります。この点を重々お含みおきください。

 

岩波訳

船がときどき: 私訳である直訳では「船がしばしの間」と訳しています。これは zeitweise の訳ですが、この語には「ときどき」の意味も「しばしの間」の意味もありますので、どちらでも構わないと言えば構いません。岩波訳なら寄港が何回かあってその時に下船する話であることを含意し、直訳では少なくとも一回は寄港し、その際しばらくの間停泊しているだろうから、それを利用して下船する話であることを含意していると予想できます。

さしつかえないが: これについてはドイツ語文法事項解説のところで述べました。そちらをご覧ください。

投げこまれるであろうから: これを直訳では「投げ込まれてしまうためである」と訳していて、岩波訳も直訳も理由を表わす um 〜 zu の訳になっているわけですが、断然岩波訳のほうがわかりやすくていいですね。

これと同様に: so の訳。この so は明らかに副詞や形容詞としてではなく、接続詞的なものとして使われています。直訳では「だから」と訳しました。接続詞的な so に「同様に」という意味は、たぶんですが、ないと思います。小学館の『独和大辞典』にも相良先生の『大独和辞典』にも、so の項目の接続詞的な用法の欄にそのような意味は上がっていないように見えます。以下に引用する1875年の仏訳では、この so に対して「De même」という訳語を当てているので、ひょっとしてですが、岩波訳はこの仏訳を参考に「同様に」と訳しているのかもしれません。しかしいずれにせよ、この so は内容的には確かに「同様に」という意味で解すると、前後の流れがスムーズになるので、私の直訳「だから」よりも、ずっとわかりやすくていい訳かもしれませんね。なお、今しがた「so に「同様に」という意味は、たぶんですが、ないと思います」と書きましたが、また、そのような意味は大きな独和辞典にも上がっていないと記しましたが、実際のところは接続詞的な so を「同様に」と訳すことは普通にあることなのかもしれません。事実、郁文堂編集部編、『ドイツ語中級問題100選』、郁文堂、1967年、問題66 (69ページ) に、その接続詞的な so が出てきており、模範解答 (解答冊子19ページ) で「同じように」と訳されています。ドイツ語原文と模範解答は次のようになっています。「Wie etwa für den jungen Kaufmann die Berührung mit anderen Ländern unerläßlich ist [...], so bedarf unser Geist des Blickes [...] (たとえば、若い商人にとって異国と触れ合うことは不可欠で、[...] 同じように我々の精神には [...] 視野が必要である)」

妨げない: これについても上記ドイツ語文法事項解説をご覧ください。なお、岩波訳のこの「妨げない」という訳語も、もしかすると下記の仏訳当該箇所「rien ne t’empêche de les recevoir」を参考にしておられるのかもしれません。これは推測にすぎませんが。

総じて: überhaupt の訳。ただし、その直後に nie があり、überhaupt と否定語の組みは通常「決して〜ない」という意味を表わすので、直訳ではそのように訳しています。

 

フランス語訳

仏訳を引用してみましょう。便宜上 Wikisource France の、

・Manuel d'Épictèt, traduit par Jean-Marie Guyau, 1875 *3 ,

から引くことにします。

なお、仏訳に付いている見出しと訳註は省いています。

 

VII

Si, dans un voyage sur mer, ton vaisseau aborde et que tu en sortes pour faire provision d’eau, tu peux, en passant, ramasser sur ton chemin un coquillage ou une plante ; mais il faut que tu aies l’attention fixée sur le navire, et que, sans cesse, tu regardes derrière toi si par hasard le pilote ne t’appelle point ; et vient-il à t’appeler, laisse tout cela de peur qu’il ne te fasse enchaîner et jeter au fond du vaisseau, comme le bétail. De même dans la vie, s’il t’est donné, au lieu de plante et de coquillage, une femme et un enfant, rien ne t’empêche de les recevoir ; mais si le pilote t’appelle, cours au navire, laissant toutes ces choses, ne te retournant même pas. Et si tu es vieux, ne t’écarte jamais du navire, de peur qu’à l’appel du pilote tu ne fasses défaut.

 

フランス語文法事項

et que: この et que は、前にある si の代わりです。そして et que の節中では接続法が使われます。そのためそこでは直説法の sors ではなく sortes が使われています。

tu en sortes: en は「sortir de 〜 (〜から出る)」の「de 〜」の代わりで、具体的には「de ton vaisseau」の代わりになっています。

faire provision d’eau: faire provision de + 名詞で「(名詞) を貯える」。

tu peux: この pouvoir は「〜できる」という可能の意味であるよりも、むしろ「〜かもしれない」という推測の意味か、可能の意味が転じた「〜してよい」の意味だと思われます。

en passant: 通りがかりに。

tu aies l’attention fixée sur le navire: avoir は繋合動詞。目的語の l’attention と過去分詞 fixée を繋いでいます。直訳すれば「君においては船の方に注意が固定されている」。少し崩せば「君の注意は船に固定されている」。意訳すれば「君はずっと船に注意しておく」。avoir が接続法なのは、il faut que の節内にあるから。ちなみに、なぜ il faut que の節内で接続法が使われているのかというと、接続法が使われるのは一般に客観的事実を述べる文脈においてではなく、必ずしも事実であるとは主張していない文脈においてであり、ここから推測して、il faut que 節は主観的に「〜でなければならない、〜である必要がある、〜であらざるを得ない、〜であるに違いない」と述べているからだろうと思われます。こうして il faut que 節内が接続法なのは、おそらくそれが客観的必然性や必要性を述べているのではなく、主観的な必然性、必要性を述べているからだろうと推察されます。

et que,: この que はその直前で il faut が省略されているために、que だけが現れています。

sans cesse: 絶えず。

tu regardes: これは直説法に見えますが、il faut que の節内にあるので直説法ではなく、それと同形の接続法です。

par hasard: この語句はしばしば「偶然に」の意味ですが、ここでは「ひょっとすると、万が一」の意味。

ne t’appelle point: ne 〜 point = ne 〜 pas.

et vient-il: この倒置は条件「もし〜ならば」を表わします。倒置だけで条件を表わすことがあります。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目 sujet, C の II の「60 条件節」、517ページを参照ください。

vient-il à t’appeler: venir à 不定詞で「たまたま〜する」。ここでは「〜するようなこともある」、「場合によっては〜する」というようなニュアンスで使われています。

laisse: 命令法。tu を主語に取る時、動詞の活用語尾が -es になる場合には、その s を取り除くことで命令法になります。

de peur qu’il ne te fasse enchaîner et jeter: 四つ述べます。(1) de peur que 節で「〜である恐れから」。これは「〜しないように」と訳すとうまくいく場合が多いです。(2) 疑念を表わす que 節内ではしばしば接続法を取りますが、de peur que 節内でも同様の理由から接続法が取られ、fasse が来ています。(3) ここの ne は虚辞の ne です。(4) il は le pilote のことであり、faire + 不定詞で、使役の意味を持った「〜させる」であって、この il 以下を細かく訳せば「彼が (人に) 君を縛らせ、かつ投げさせる」。

De même: 同様に。

s’il t’est donné: il は後出の une femme et un enfant を指していると考えられます。

au lieu de plante et de coquillage : au lieu de + 名詞で「(名詞) の代わりに」。

t’empêche de les recevoir: empêcher 人de + 不定詞で「 人が〜するのを妨げる」。

laissant: 現在分詞で、英語のいわゆる分詞構文。ここでの意味は同時性で「〜しつつ」。

te retournant: これも現在分詞で分詞構文、意味は同時性。「〜のまま」。se retourner で「振り返る」。

ne t’écarte jamais du navire: ne 〜 jamais で「決して〜しない」。écarteは命令法。er 動詞で tu の時、語尾が -es になるので s が脱落しています。s’écarte de + 名詞で「(名詞) から離れる」。

à l’appel du pilote: à は「〜した時に」の意味。

tu ne fasses défaut: fasses と接続法になっているのは疑念の文脈を構成する de peur que 節内にあるため。またそのためにここでの ne は虚辞の ne として使われています。

fasses défaut: faire défaut で「欠けている」または「欠席する」。ここでは後者の意味合いを持っています。

 

直訳
VII

海の旅の際、君の船が寄港し、水を貯めるため、君がそこから降りるならば、ついでに途上で君は貝や植物を拾い集めることがあるかもしれない。しかし君は船に注意しておかねばならず、ひょっとして操舵手が君のことを呼ぶのではないかと君は自分のうしろを絶えず見ておかねばならない。そしてもしも操舵手が君のことを呼ぶようなことがあれば、操舵手が人に君を家畜のように縛らせ、船の底に投げ込ませることがないよう、貝や植物のすべてを捨てよ。同様に、人生において、植物や貝の代わりに妻と子供が君に与えられるのならば、君が妻子を迎え入れることを何ものも妨げはしない [ので、ともに暮らすがいい]。しかし操舵手が君のことを呼ぶならば、すべてのものを残し、振り返りもせず、船に走って急げ。そして君が年老いているならば、操舵手が呼んでいるのに君がいないということにならないよう決して船から離れるな。

 

個人的感想

このセクションの話は一つの例え話になっていると思います。その話は人間の人生を永遠の中に位置づけるものになっています。話の中の「操舵手、舵取り」とは、神を比喩的に表わしているようです *4

この例え話を人生との関連で私なりに言い直し、敷衍してみると、次のような感じになると思います。

 

人は永遠の流れの中を船で旅をしており、一時 (いっとき) 人生という名の小島に上がって時を過ごすのだが、しばらくすると神に呼び返されて、また永遠の流れの中に船で戻っていくのである。

島に上がっている時、そこにあるものを自分のものとして所有し、それを享受してもそれはそれでよい。だが、神に呼び戻された時には、自分の所有しているものに未練がましく執着せず、すべてをきっぱり捨てて、潔ぎよく船に乗り込み永遠の旅に戻るべきである。

もしも持っているものに執着し、島に留まり船に戻ろうとしないならば、神に無理矢理船に連れ戻されるだろう。従容として死に赴くことがないならば、神によって船に引きずり戻される、つまりひどい死に方、無残な死に方をすることになるだろう。

我々は永遠の中に戻らねばならない。そのような運命にあるのならば、駄々をこねて人生という名の小島にしがみつき、嫌な死に方、みっともない死に方をするよりも、さっぱりとした気持ちで死ぬ方がいいのではなかろうか。立派な姿で死ぬ方がいいのではなかろうか。

 

ここでの例え話はこのようなことを述べているように私には感じられます。

しかし、うまい具合に死ぬのも難しいと思います。人生の最後の詰めがうまくいく人もいれば、うまくいかない人もいて、老いて心身ともに弱っている時に人生をうまい具合にフィニッシュへ持っていくのも簡単じゃないと思います。

大抵の人は人生に十分満足して終わりを迎えるわけではなく、大きな不満を抱えたまま、リハーサルもなしに人生という舞台から退場しなければならないのです。実際、万雷の拍手の中、笑顔で深々とお辞儀をし、颯爽と去っていくことのできる人の方が圧倒的に少ないでしょう。

私もそんな気持ちのよい去り方ができるかどうか、自信がありません。人生のどの段階でも満足のいく境遇にありたいものですが、もちろんそんなに都合よく事が運ぶわけはありません。逆境に置かれることの方がずっと多いでしょう。最後だってそんな状況に置かれるかもしれません。従容として死ねればいいんですけれどね。生きるのもしんどいですが、死ぬのもしんどいですね。まぁ、何にしろ、やるしかないですね。がんばりましょう。

 

PS

今回も、今までのブログ末尾で言及した清水先生の文献を参照していません。そこまでしている時間も力もありませんでした。毎日毎日くたびれているので、まったく余力がありません。せっかくの先生の解説を参照できず、お詫び致します。

 

これで本日の話は終わりにします。いつものように誤解、勘違い、無理解、無知蒙昧なところがありましたらごめんなさい。誤訳、悪訳、拙劣な訳、誤字、脱字の類いも残っているかもしれません。その点についてもお詫び申し上げます。

 

*1:松井健人、「教養主義」、山口照夫臣、福家崇洋編、『思想史講義【大正篇】』、ちくま新書筑摩書房、2022年、78-79ページ。「旧制高等学校のドイツ語教師として有名な岩元禎 (いわもとてい) [...] は、暗記一辺倒のドイツ語教育を数十年にわたって続けてきたことが知られている。彼の授業を受けた天野貞祐 (ていゆう) がドイツ語授業を振り返るには、「教科書はヒルティの『幸福論』であった。先生は生徒には読ませずご自分でどしどし訳してゆかれるという教え方であった」という [...]」。

*2:https://www.projekt-gutenberg.org/epiktet/moral/moral.html. 2022年7月閲覧。

*3:https://fr.m.wikisource.org/wiki/Manuel_d’Épictète_(trad._Guyau)/Manuel . 2022年7月閲覧。

*4:エピクテトス著、ロング編、『2000年前からローマの哲人は知っていた 自由を手に入れる方法』、天瀬いちか訳、文響社、2021年、75ページ、註12。なお、本書はエピクテトスのいわゆる『要録』のすべてと、いわゆる『語録』の一部を英訳し、解説を付けた英語の本を和訳したものです。