目次
はじめに
今日も再び Immanuel Kant の Kritik der reinen Vernenft をドイツ語原文で読んでみましょう。今回は「アリストテレスの論理学は進歩していない」ということが述べられている、よく知られた一節を第ニ版の序文から読んでみます。
最初にドイツ語原文を記し、次に私による文法解説とその直訳を私訳として提示します。そして岩波文庫の『純粋理性批判』から該当箇所を引用します。
それから直訳と岩波訳の不明点を指摘し、そのあと、この指摘に応える形で、改めて私の手になる意訳を示してみます。
なお、いつもならドイツ語原文に対し、既存の仏訳も掲げ、それに対する私の文法解説とその直訳を記すところですが、話が長くなるので省きます。
また、私はドイツ語が苦手なので、間違いが含まれていましたらごめんなさい。そのようなことがないように努めましたが、力が及んでいないようでしたら謝ります。すみません。それでは原文へと進んでみましょう。
ドイツ語原文
Kant の文章はいつものように Project Gutenberg から引用します *1 。
ドイツ語文法事項
von den ältesten Zeiten her: 最上級が使われているので「最も古い」と訳しそうになりますが、これは絶対最上級であり、特段何か他のものと比較して「最も古い」と言っているのではなく、単に程度がはなはだしいことを言っているだけなので「最も〜」と訳すのは適当ではありません。また、von 〜 her は「〜 から、より」。
läßt sich daraus ersehen: sich + 他動詞 + lassen で (受動的) 可能を表わし、「〜 できる、〜 される、〜 され得る」のいずれかの意味。また、4格 + aus 3格 + ersehen で「4格を3格から見て取る」。daraus の da- は後方の daß 文を指します。
keinen Schritt rückwärts hat tun: einen Schritt rückwärts machen で「一歩後退する」なので、この machen が tun に代わっているものの、意味は同じと思われます。
keinen ... dürfen: dürfen の否定には三つの意味があり、それは「禁止 (〜 してはならない)」、「不必要 (〜 する必要はない)」、「嫌悪 (〜 してほしくない)」であって、ここでは不必要を意味しているようです。なお、dürfen の否定の意味として「不必要」を上げていない学習用独和辞典もあるので注意してください。ちなみに、おそらく最もよく使われていると思われる三修社の『アクセス独和辞典 第4版』では「不必要」の意味が出ていませんが、三省堂の『クラウン独和辞典 第5版』には出ています。(だからと言って『アクセス独和』がよくないと言っているわけではありません。念のため。)
man: 普通は訳出しなくてもよい語。この語が出ている文は受け身で訳すとうまくいく場合が多いです。なお、man という形は1格でしかあり得ないので、man と出てくれば、即この語が主語だと解すれば OK です。
nicht etwa: 否定の強調。「まったく 〜 ない」。
deutlichere Bestimmung des Vorgetragenen: 直訳すると「提示されたもののより明瞭な規定」。
als Verbesserungen anrechnen: 4格 + als 〜 anrechnen で「4格を 〜 と評価する、見なす」。
welches: これは前文の文意を受ける関係代名詞 was と同じ用法の関係代名詞 welch で、中性1格です。
zur ... gehört: zu 3格 + gehören には三つの意味があり、(1)「3格に属する」、(2)「3格が必要である」、(3)「3格にふさわしい」です。本文では、論理学の細部の削除や明瞭化が、その学問の洗練化に必要か否かが問題になっているのではなく、その学問の洗練化に関わっているか否かが問題になっていると思われるので、(2) の意味でではなく、(1) または (3) の意味で私は訳しました。
Merkwürdig: 現在は通常この語は「奇異な、奇妙な」という意味ですが、古くは「注目に値する」という意味でした。
an ihr: この an は限定を意味する an で「〜について、関して」の意味。
keinen Schritt vorwärts hat tun können: einen Schritt vorwärts machen で「一歩前進する」なので、machen を tun に変えただけの同義語句だと思われます。
zu sein scheint: zu 不定詞 + scheinen で「〜 するように見える、思われる」。
直訳
直訳を記します。たぶん一読しただけではわからないと思います。あるいは何度か読み返してみても、それでもよくわからないかもしれません。とりあえず、記してみましょう。
何だか、わかったようなわからないような話ですね。とにかく「論理学はアリストテレス以来、進歩も退歩もしていない」ということが言いたいようですが、細かいところがどうもすっきりとは理解できません。特に「論理学からいくつかの不要な細部を」から「一歩も後退する必要はなかったのである」までが「?」という感じですね。
岩波訳
今度は最も普及していると思われる岩波訳ではどうなっているか、見てみましょう。
・カント 『純粋理性批判 (上)』、篠田英雄訳、岩波文庫、岩波書店、1961年、25-26ページ。
直訳と岩波訳の不明点について
直訳に比べ、もちろん岩波訳のほうがわかりやすいですね。
しかしそれでも岩波訳の「この学がアリストテレス以来、いささかも後退する必要がなかった」とはどういうことでしょうか。
「後退」とは「進歩」の反対でしょう。論理学が進歩するとは、その学問の知識が広がり深まり、その学問に基づく技術が発達するようなことを言うでしょう。
この反対の、論理学の「後退、退歩」とは、その学問の知識が狭まり浅薄化し、技術が劣化、悪化、退化するようなことを言うでしょう。
論理学がアリストテレス以来、このように悪化する必要がなかったことは明らかであり当然のことです。わざわざ悪化させる必要がなかったのは言うまでもありません。にもかかわらず、なぜここで後退する必要があるか否かが問題となり、そしてことさら「後退する必要はなかった」と一々明言する必要があるのでしょう。何だか妙です。
それに「無くても済むようなニ、三の煩雑な論議を削除したり、或は説述した事柄をもっとはっきり規定したりすることをも、この学の改善と見なそうというのなら」とありますが、不要な細部を削除したり、話をより明瞭にすることは、改善以外の何ものでもありません。それを改善と呼ばないとするのなら何と呼べばいいのでしょう。にもかかわらず、なぜここで「改善と見なそうというのなら」と、仮定的な表現がなされているのでしょうか。なぜ条件付きの表現がなされ、「改善だ」と言い切っていないのでしょうか。何だか妙です。
論理学の不要な細部の削除や明瞭化は明らかに改善であり、そうだとすると論理学は退歩・悪化する必要があった、ということでしょうか。これはまたいったいどういうことなんでしょう? 困惑してしまいます。
私の直訳も、岩波訳も、今言及した箇所がよくわかりません。
念のために、他の日本語訳もニ、三、参照してみました。次の三つです。平凡社ライブラリー版『純粋理性批判 上』(2005年)、中山元先生の光文社古典新訳文庫版『純粋理性批判 1』(2010年)、石川文康先生の筑摩書房版『純粋理性批判 (上)』(2014年)。とりあえずこれらを見てみましたが、いずれも似たような感じの訳になっており、やはり今一つよくわからない訳になっているように感じました。(などと生意気なことを言ってごめんなさい。)
もちろん Kant の問題の文章を普通に訳せば岩波訳などのようになるでしょうし、凝ったことをせず、正確にそのドイツ語を日本語に写し取ろうとすれば、岩波訳などのようにする他はないでしょう。しかし何だかよく理解できない訳文であることは、直訳も岩波訳も同様だと思います。
そのようなわけで、岩波訳などの日本語訳だけをボケっと読んでいるだけでは疑問も感じず、スルッと読み飛ばしてしまうところですが、自分で Kant のドイツ語を訳していて奇妙に感じ、引っかかりを覚え、「もしかして自分は誤訳しているのか?」と心配に思い、原文の該当箇所を繰り返し読み直してみました。はじめは腕を組んで「う〜ん」とうなっているだけで、全然わからなかったのですが、そのうち「あっ、ひょっとして、こういうことかな」と、何だかわかってきたような感じがしました。
ポイントは、「一歩も後退しない」と「改善」という表現を、もっと大幅に言い換える必要がある、ということです。それらの表現に拘泥せず、そのまま逐語訳せず、もっと別の表現に改めてしまえばいいのです。
そこで、該当箇所がちゃんとわかる試訳を意訳として以下に掲げ、皆様の参考に供してみましょう。
意訳
一番目の文は直訳と変わりません。そのあとから訳が大きく変わっています。
どうでしょうか。少しはわかるようになったでしょうか。
要するに「後退する」とは、「一からやり直す」、「元に戻ってゼロから作り直す」、あるいは「途中まで戻って、そこから別のものに書き直す」というような感じのことを言い、「改善」とは「改作」のようなことを言っているのだろうと、私は解したわけです。「前進」が「進歩」を意味するから「後退」は「悪化・退化」を意味し、「改善」は単に「良くすること」だろうと解していては Kant の文は理解できませんが、今私が述べたように解釈すればわけがわかるようになり、筋が通るようになるのですが、さて、果たしてどうでしょうか。
私などのように、腕を組んでウンウンうならなければわからない人ではなく、原文や岩波訳を一読するだけで、わけがわかった人はいいですが、私のような方もいらっしゃるかもしれないと思い、今回のような話を書き記してみました。間違った解釈を提示しているようでしたらすみません。謝ります。
今日はこれで終わります。実は、論理学が進歩するとは、正確にいってどういうことなのか、これについて何か考えて、一言述べておきたいと思っていたのですが、例によって話が長くなってきましたし、やはり例によって大した考えも述べられそうにありませんので、これ以上書くのはやめておきます。
いつものように誤解や勘違い、無理解や無知蒙昧な点が残っていましたらすみません。誤訳や悪訳もあったことでしょう。誤字や脱字、衍字も残っているかもしれません。それらすべてについて、ここでお詫び申し上げます。
*1:https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html. 2023年3月閲覧。