Reading Kafka's Die Verwandlung, Part II.

目次

 

はじめに

前回は Franz Kafka の Die Verwandlung の冒頭、第一段落を原文で読みましたが、今回はその第二段落を読んでみたいと思います。つまりカフカのいわゆる『変身』の、始まってすぐたったところを読んでみます。

前回同様、まずはドイツ語の原文を掲げ、文法事項を私が説明し、私訳として逐語訳を提示して、そのあと複数の邦訳を引き、それぞれを比較・検討してみたいと思います。

 

原文は前と同じく次を使用させていただきました。

・Franz Kafka  Die Verwandlung, Kurt Wolff Verlag, 1917, The Project Gutenberg eBook of Die Verwandlung, <https://www.gutenberg.org/cache/epub/22367/pg22367-images.html>.

それでは、第二段落を読んでみましょう。

 

ドイツ語原文
»Was ist mit mir geschehen?« dachte er. Es war kein Traum. Sein Zimmer, ein richtiges, nur etwas zu kleines Menschenzimmer, lag ruhig zwischen den vier wohlbekannten Wänden. Über dem Tisch, auf dem eine auseinandergepackte Musterkollektion von Tuchwaren ausgebreitet war – Samsa war Reisender –, hing das Bild, das er vor kurzem aus einer illustrierten Zeitschrift ausgeschnitten und in einem hübschen, vergoldeten Rahmen untergebracht hatte. Es stellte eine Dame dar, die, mit einem Pelzhut und einer Pelzboa versehen, aufrecht dasaß und einen schweren Pelzmuff, in dem ihr ganzer Unterarm verschwunden war, dem Beschauer entgegenhob.

 

ドイツ語文法事項

ist ... geschehen: これは完了形。geschehen (起きる、生じる) は自動詞(の過去分詞) なので、完了形になる時、助動詞に sein を取ります。よって、意味は「起きた、生じた」となり、少し前に何か出来事が起こり、今もその状態にあることが言われています。

mit mir: この mit はおそらくもともと関連を示すために使われていたものが、転じて主体を明示するために使われるようになったもの。つまりもともとは「〜に関連して、〜について」という意味であり、ここでは「私について」の意味だったのですが、それが転じて「誰がどうした」の「誰が」という主体を表すようになり、そのためここでは「私は」と訳されます。このように転じた事情はおそらく次のごとくと思われます。mit のそもそもの原義は「〜とともに」です。ここから mit が関連「〜に関して」を示すために使われることは見やすいことです。ここまではまだ、A mit B とある場合、A が主で B がその従であり、B が A に付帯している状況を描写しているわけですが、これがさらに抽象化し、A と B の関係が純化してくると、付帯であることが捨象され、B が文中で意味上の主格または対格を表すようになって来る、ということが考えられます。するとその時、B はその文の主語または目的語のように振る舞い得るということです。このことについては次の文献の該当箇所を開いてみてください。関口存男、『意味形態を中心とするドイツ語前置詞の研究』、三修社、1957年、 第I章「無意味な es とmit, um との関係」、1-22ページ、特に15-19, 22ページ、なかでも22ページを参照ください。この22ページには以下のような例文が出ています。斜体は正体に改めて引用します。また「なつた」は ママ であり、/ は改行の印です。「Ich weiß nicht, was mit ihm geschehen ist. / あいつはどうなつたのか俺は知らない。」 話のついでに二つのことを述べます。以上に関連して、長い追記を二つ施したいと思います。それは今回の記事の最後に掲げます。

Es: 漠然と事態を表す es。

ein richtiges, ... Menschenzimmer: 直前の Sein Zimmer と同格になっている名詞句。ein から kleines までが Menschenzimmer にかかり、修飾しています。一見 richtiges の直後にすぐ前の Zimmer が省略されているように感じられるかもしれませんがそうではありません。もしも Zimmer が省略されているのなら、nur の前に不定冠詞が必要ですが、そのような不定冠詞はないので Zimmer が省略されているのではない、というわけです。また zu ... Menschenzimmer が直前の etwas と同格か、または etwas にかかっているように見えるかもしれませんがそうではありません。単純に ein から kleines までがそのまま Menschenzimmer にかかっているだけです。

Über dem Tisch: über はあるものの、そのあるものから離れた上方の辺りを表しています。そのあるものとは接地していません。

auf dem: dem は関係代名詞男性3格。先行詞はすぐ前の Tisch。auf はこの場合 über とは異なり、Tisch に接地したその面上を表しています。この関係文の主語句は eine auseinandergepackte ... Tuchwaren。枠構造を成す動詞句は ausgebreitet war で、これは受動態になっています。

hing das Bild: Über dem Tisch から hatte までの長い文のうち、主語がこの das Bild で、その動詞がこの hing です。Bild は「絵」とも「写真」とも訳せます。ここではどちらなのかはっきりしません。この小説が書かれた20世紀の初め頃は、写真はまだ新しいメディアだったと想像されます。(間違っていたらごめんなさい。) Samsa = Kafka ではありませんが、池内紀先生訳のカフカ『変身』、白水 u ブックス所収の先生による伝記を読むと、Kafka は新し物好きなところがあったようなので (111-112ページ)、ここは「絵」ではなく「写真」と私は訳してみました。もちろん「絵」と訳しても構いません。

das er: das は関係代名詞中性4格。das が中性の関係代名詞だとするならば、er は1格でしかないので (そして形式的な場合を除き、文中に1格が二つあることはないので) das は4格だ、と判断できます。その先行詞は das Bild。枠構造を成す動詞句は ausgeschnitten ... hatte と untergebracht hatte。この句は過去完了なので、das Bild は hing されるより前に ausgeschnitten され untergebracht されていた、ということになります。

vor kurzem: 少し前に。

einer illustrierten Zeitschrift: これは写真やイラストを多用したグラフ誌、グラビア雑誌の類いのことと思われます。これはたぶん当時、新しいメディアと見られていたと推測されます。(これも間違っていたらごめんなさい。)

Es stellte eine Dame dar: Es は前方の das Bild を指します。darstellen は一般的に「表現する」という意味の分離動詞であるため、この Bild を絵とするなら、stellte ... dar は「〜を描いていた (〜が描かれていた)」と訳されることになり、Bild を写真とするなら「〜を写していた (〜が撮影されていた)」となります。私はこの Bild を写真と解したのですが、そうすると一人の女性がそこには写っていることになります。この場合、Samsa は写真雑誌から美人の女性写真をおそらく切り取ってきて、壁に貼っていたわけです。ということは要するに、この写真はピンナップ写真ということで、今どきなら、若い男性が魅力的な女性アイドルの写真を見つけて切り取って、壁に貼って一人悦にいっているという様子が伺えますね。

die: 関係代名詞女性1格。先行詞は eine Dame。枠構造を成す動詞は dasaß と entgegenhob。

mit einem Pelzhut und einer Pelzboa versehen: 「4格 + mit + 3格 + versehen」で「(4格) に (3格) を供給する/備え付ける」。ここでは versehen は不定形と同形の過去分詞となっており、文字通りには「Pelzhut と Pelzboa が彼女に供給されて」という意味であり、副詞句または英語の分詞構文になっています。

Pelzmuff: Pelzmuff のマフは、手袋ならぬ「腕袋」とでも言える防寒具。私は現物を見たことはなく、たぶん日本ではあまり一般的なものではないようです。私は英和辞典でマフのイラストを見たことがあったので、このドイツ語文を読んでいて「ああ、あれのことか」と気が付きました。インターネットで画像検索するといろいろ出てきます。毛糸や毛皮でできた、筒のような形をした防寒具で、その筒の両端から手首や腕を入れて暖を取るものみたいです。

in dem ihr ganzer Unterarm verschwunden war: dem は関係代名詞男性3格。先行詞は Pelzmuff。枠構造を成す動詞句は verschwunden war。この動詞句は過去完了形なので、この関係文が埋め込まれている主文より前の出来事を表しています。さて ihr は人称代名詞 (彼女に) なのか、それとも所有冠詞 (彼女の) なのか、どちらなのか、それを意味の上からではなく、統語上の文字づらから判断するにはどうしたらいいでしょう? その答えは次の通りです。語尾変化していない、無語尾の ihr がある時、このあとに男性名詞1格または中性名詞1, 4格が出て来たら、その ihr は所有冠詞で「彼女の」という意味、さもなければ人称代名詞で「彼女に」の意味です。ここでは Unterarm という男性名詞1格が来ているので、ihr は所有冠詞であり「彼女の」という意味を持っていることがわかります。なお、この Unterarm は単数形なので、片腕だけがすっぽり (ganzer) マフの中に verschwunden war しており、両腕ではないようです。すると、おそらく片方の前腕だけがマフにすっぽり入り、もう一方は手首までがマフに入っているのだと思われます。

dem Beschauer entgegenhob: dem Beschauer とは、その写真または絵を見ている者のこと。entgegenhob は、その人に対してマフを持ち上げて見せていた、ということになります。ただし、マフには、先ほども述べましたが、片方の前腕だけがすっぽり入り、もう片方はたぶん手首までしか入っていないと思われますので、両手首または両腕を左右均等にマフに入れ、それを見ている者の前に突き出しているのではない、と考えられます。ここでの場合、おそらく正面からマフを見る者に対し、突き出して見せているのではなく、すっぽり入った片腕の方を胸の前に引き寄せるようにマフを上げ、もう一方の腕の手首をマフに添えるように入れて、たぶん女性の身体の斜め前から見ているような、そんな感じで女性が (椅子に) 座っている様子が表されているのではないかと推測されます。細かいですが、原文で Unterarm が単数形であることから、以上のように状況が推察されます。

 

逐語訳

ここでは自然な訳でもなく、直訳でもなく、逐語訳を与えます。このあとで各先生方の邦訳を比較してみますが、先生方による翻訳の出発点となる生データを提示してみたいと思うからです。これを元にすれば、先生方がそこからどのように訳文を作っているのか、よくわかるからです。

ただし逐語訳は生データみたいなものだろうとは思いますが、それでも本当にそれが生データと言えるのかは疑問かもしれません。しかし、まぁ、あまり細かいことは言わず、とにかく提示してみましょう。

 

「 » 私については mit mir どう Was してしまった ist geschehen のか ? 」« と 彼は er 考えた dachte. それは Es 夢ではTraum なかったwar kein. 彼の部屋は Sein Zimmer 一つのきちんとした ein richtiges 人が暮らすには Menschen- いささか etwas 小さすぎる zu kleines 部屋に-zimmer すぎなかったが nur 四つの vier よく見慣れた wohlbekannten 壁たちの den Wänden 間で zwischen 静かな ruhig 状態であった lag. その (机の) 上には auf dem それぞれに束ねられた auseinandergepackte 布製品の von Tuchwaren 見本一式が eine Musterkollektion 広げられていたのだが ausgebreitet war – ザムザは Samsa 外交販売員 Reisender だった war –  彼が er 少し前に vor kurzem あるイラスト・写真入りの einer illustrierten 雑誌 Zeitschrift から aus 切り取って ausgeschnitten いた hatte そして und 金箔を施された vergoldeten きれいな hübschen 額縁に einem ... Rahmen はめ込んで in untergebracht いた hatte ところの das 写真 (絵) が das Bild 机の上方に Über dem Tisch かかっていた hing その写真 (絵) は Es 一人の女性を eine Dame 表していた stellte ... dar その女性は die 縁のある毛皮の帽子 einem Pelzhut と und 毛皮のえり巻きを einer Pelzboa 与えられ mit ... versehen 背筋を伸ばして aufrecht 座っていた dasaß そして und 中に in 彼女の ihr すべての ganzer 片方の前腕が Unterarm 隠れていた verschwunden war ところの dem 重そうな schweren 毛皮のマフを einen ... Pelzmuff 見る者に dem Beschauer 対して持ち上げていた entgegenhob.

 

既刊邦訳

拝見させていただいた邦訳は次の七つです。初めの二つは注釈書、残りは文庫版、新書版の訳です。文庫版、新書版は刊行年の昇順に並べてあります。

・本田雅也編著  『対訳 ドイツ語で読む「変身」』、白水社、2024年、8-9ページ、

中井正文編  『変身』、同学社対訳シリーズ、同学社、1988年、2-5ページ、

カフカ  『変身』、高橋義孝訳、新潮文庫、1952年、5-6ページ、

カフカ  『変身・断食芸人』、山下肇、山下萬里訳、岩波文庫、2004年、7-8ページ、

フランツ・カフカ  『変身』、池内紀訳、白水 u ブックス 152、白水社、2006年、5-6ページ、

カフカ  『変身 / 掟の前で』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2007年、32-33ページ、

フランツ・カフカ  『変身』、川島隆訳、角川文庫、2022年、5-6ページ。

この他にも『変身』の邦訳はいろいろとありますが、すべてチェックするのは私も大変ですし、読者の方々もそんなに読んでいられないでしょうから、以上だけにとどめます。チェックできなかった邦訳の先生方にはお詫び致します。深い意味はございません。文庫本を中心に、偶然見かけたものを調べてみただけです。では上の訳書順に邦訳を見てみましょう。

ちなみに、邦訳にふりがながついている場合は、それをすべて削除して引用しています。

 

白水社注釈版
 「ぼくはいったいどうなっちゃったんだ?」と彼は思う。夢ではないのだ。自分の部屋、れっきとした、まあ多少手狭ではあるけれど大の大人が暮らす部屋は、見慣れた四つの壁に囲まれて何事もなく静まりかえっていた。個別に仕分けされた布地の見本帖 – ザムザは訪問販売員なのだ – が広げられている机の上には絵が掛かっている。ちょっと前にグラビア誌から切り抜いて、金張りのしゃれた額に納めたものだ。絵に描かれているのはひとりの女性、毛皮の帽子と毛皮の襟巻で身を固め、背筋をすらりと伸ばして座り、ひじから先をすっぽり覆う重たそうな毛皮のマフを、観る者に向けて持ち上げてみせている。

この訳文について、個人的に感じたことを記してみます。訳の良し悪しを論評するのではありません。そのような能力は私にはありません。ただ、気が付いたこと、気になったことを記してみるまでです。勘違いなことを言っていたり、生意気なことを言っていましたらすみません。わかっていない人間の発言として、どうかスルーしてください。

 

まず「ぼくはいったいどうなっちゃったんだ?」というセリフは、すごく柔らかいですね。「ぼく」という自称詞といい、「どうなっちゃったんだ」という表現といい、とても軽い感じがします。これを肯定的に取る人もいれば、否定的に取る人もいるでしょうね。

「と彼は思う。夢ではないのだ」と訳されているところは、原文では過去形です。臨場感を出すためにわざと現在形で訳しておられるのでしょうね。日本語の文章の場合、過去の出来事でも全部過去形で表すのではなく、時折現在形を混ぜ込んで、単調を破るのが普通ですね。そういう傾向をここでは踏襲しておられるのでしょう。

Reisender を一言でそれにふさわしく、かつ自然で聞き慣れた日本語に訳すのは難しいと思われます。この語は直訳すれば「旅行者、旅人」ですが、文脈からして、ここで言われているのは、長距離を長期間、注文を取って回る営業部員を指しているでしょうから、そういう意味合いが出ている訳語を採用したいところです。上の訳では「訪問販売員」と訳されていますが、学習段階ではとりあえずこれでいいものの、文学作品として訳す段階では訳語にもう一工夫必要でしょうね。

また「グラビア誌」というのもリアルですね。今の時代のグラビア誌が思い出されてちょっと生々しい気がします。いいんですが。

 

同学社注釈版
 いったい、自分の身の上に何事が起こったのか、と彼は考えてみた。夢ではなかった。人が住むにはすこし手狭なかんじだが、きちんと整頓されている部屋は、なじみぶかい壁に四方を囲まれて静まりかえっていた。別々に束ねられた毛織物類の商品見本がひろげてあるテーブルの上のほうには – ザムザはセールスマンだったのだ – 最近、彼がある絵入りの雑誌から切りとって、きれいな金色の額ぶちへはめこんだ絵がかかっていた。それは婦人を描いた絵で、その女は毛皮の帽子をかぶり、毛皮の襟巻きをまいて正坐し、肘のへんまで包んでいる重たそうな毛皮のマフを、ちょうど絵を眺める人の目の前へ持ちあげていた。

冒頭のセリフは、邦訳にカギ括弧が必要なはずですが、おそらくわざと省略されているようです。ここでのザムザは何だか冷静に自己とそのまわりの環境を分析していますね。あまり驚嘆している様子はありません。

Reisender が「セールスマン」と訳されています。白水社注釈版でも言いましたが、文学作品としては、学習段階ではよいとしても、本格的にはもう一工夫必要となってくるでしょう。

Dame が「婦人」と訳されています。この訳語はとても古い感じがしますね。まぁ、いいんですけど。

あと「正坐」と訳されているところがあります。普通、正坐といえばひざを折り曲げ、それを太ももの下に入れるような、そんなきゅうくつな座り方を思い起こしてしまいます。でもまさかプラハだかどこかのこのご婦人がそんな座り方をしているとは思えません。日本人ならあり得るでしょうが、ここではご婦人は椅子に座っているのでしょうね。そしてもしかすると「正坐」という言葉は正式には椅子にきちんと座ることも意味しているのかもしれません。それだから「正坐」という訳語が採用されているのかもしれません。よくはわかりませんが。

 

新潮版
「これはいったいどうしたことだ」と彼は思った。夢ではない。見まわす周囲は、小さすぎるとはいえ、とにかく人間が住む普通の部屋、自分のいつもの部屋である。四方の壁も見なれたいつもの壁である。テーブルの上には、布地のサンプルが紐をほどいたまま雑然と散らばっている。 - ザムザは外交販売員であった。 - テーブルの上方の壁には絵がかかっている。ついこのあいだ、絵入り雑誌にあったのを切りとって、こぎれいな金箔の額に入れてかけておいた絵だ。毛皮の帽子をかぶり、毛皮の襟巻をまいた婦人がひとり、きちんと椅子にかけて、大きな毛皮のマフの中にすっぽりさしいれた両腕を前にさしだしている絵である。

「見まわす周囲は、小さすぎるとはいえ、とにかく人間が住む普通の部屋、自分のいつもの部屋である」。これは割と自由に訳しておられますね。原文から一旦離れ、内容を咀嚼し、鋳直してから日本語として提示してあります。しかし「人間が住む普通の部屋」の「人間が」というのは何だか変ですね。大方部屋と言えば、特に断りがない限り、人間の部屋と相場が決まっているのですから、わざわざ「人間の」と言う必要はないはずです。虫になったので、虫の視点からそう言っているのなら、それとわかる工夫が訳文に必要だと思います。ちょっと機械的に訳して翻訳調に陥っているように感じます。ここは、虫の視点からでないのなら、人が気持ちよく過ごすには少し狭すぎる部屋だ、と言いたいことがわかる訳にしたほうがいいと思われます。

「紐をほどいたまま雑然と散らばっている」も、ちょっと自由なところがありますね。「紐をほどいた」とありますが、「紐」に当たるような言葉は直接には原文にないようです。

「外交販売員」という訳語も、仕方がないとはいえ、もう一工夫ほしいところです。

「大きな毛皮のマフの中にすっぽりさしいれた両腕を」。マフが大きいとは原文に書いてなく、「重い」と書いてあるのですが、重いのならば、きっと大きいだろうから、「大きい」と訳されたのでしょうね。

それに「すっぽりさしいれた両腕」とありますが、原文では「Unterarm」とあるので、腕は腕でも前腕のことであり、しかも単数形なので片腕だけだと思われます。

 

岩波版
「いったい、どうしたっていうんだろう」と彼は考えた。夢ではなかった。部屋はたしかに自分の部屋、狭いながらも人間の住むまともな部屋が、勝手知った四方の壁に囲まれて静まりかえっている。机には布地の商品サンプルがばらばらに広げられ - ザムザは外まわりの営業マンだった - その上の壁には絵が飾られていたが、それは彼がつい先だって絵入り雑誌から切りぬき、しゃれた金縁の額に入れて掛けておいたものだ。描かれているのは、毛皮の帽子と襟巻きを身につけ、背筋をのばして坐るひとりの貴婦人で、重々しい毛皮のマフに両腕をさしこんで肘まで暖め、そのマフを見る者にむかって持ちあげて見せている。

「部屋はたしかに自分の部屋」。これは原文の意を汲んで、「たしかに」という原文にない言葉を補って訳しているんでしょうね。

「狭いながらも人間の住むまともな部屋」。この訳のうち、「人間の住むまともな部屋」というのはちょっと変な感じがします。新潮文庫版でも言ったことを繰り返しますが、人間が住んでいるのに決まっているのに、わざわざ「人間の」と形容しなければならないのは変です。人が快適な暮らしを営むには少し狭すぎるということがここでは言われているのかもしれません。あるいはそうではなく、虫になってしまったので虫の視点から人間の住む部屋に言及したいのかもしれず、そうだとするならそのことがはっきりとわかる訳にしたほうがいいと思います。

「外回りの営業マン」は若干工夫がこらしてあるものの、まだ十分とは言えないでしょうね。

「毛皮の帽子と襟巻き」。帽子は毛皮であるものの、襟巻きまで毛皮なのかどうなのか、はっきりしませんね。しかし「毛皮の帽子と毛皮の襟巻き」とすると冗長で、しつこい感じが出てしまうので、難しいところです。

「貴婦人」は訳者の解釈を入れて訳しているわけですね。ちょっとこれも古めかしい感じがしますが、じゃあ、どう訳せばいいのか、考え込んでしまいますね。

「マフに両腕をさしこんで肘まで暖め」。これだと両腕とも肘までマフに差し込んでいるように感じますが、腕は単数形です。

 

白水社
 「どういうことだろう?」  と、彼は思った。夢ではなかった。たしかに自分の部屋であって、少しちいさすぎるにせよ、いつもながらの部屋である。まわりはおなじみの壁、これも変わらない。テーブルには布地の見本が - ザムザはセールスマンだ - 乱雑にひろげてあって、壁に絵がかかっていた。つい先日、グラフ雑誌から切り取って、きれいな金ぶちの額に入れたばかりだ。毛皮の帽子と毛皮の襟巻をつけた女の像で、きちんとすわり、両腕の半ばまで毛皮のマフに入れ、それを前につき出している。

冒頭のセリフが一行一段落に変更されていますね。読みやすくしてあります。ただし、セリフごとに改行することをうるさく感じる人もいるみたいなので、このような改行は意見が分かれるかもしれません。なお、このセリフから読み取れるザムザの心境は割と冷静な感じですね。驚愕している様子は見られません。単純に不思議がっている場合ではないように思われるのですが。

「たしかに自分の部屋であって、少しちいさすぎるにせよ、いつもながらの部屋である。まわりはおなじみの壁、これも変わらない」。この訳文は結構自由な訳になっていますね。追加や省略が見られます。「たしかに」や「いつもながらの」は追加、原文の richtiges が訳されておらず、「四つの壁」の「四つの」が簡略に「まわりの」に代えられています。また「人が住むには」という意味もおそらく自明であることから省略され、「静まり返っている」という意味も省略されています。

「セールスマン」も仕方がないとはいえ、もう一押しほしいですね。

「両腕の半ばまで」とありますが、原文の腕は単数形。

マフが「重い」とか「大きい」などの形容の言葉も略されています。

 

光文社版
 「なんだ、これは?」と思った。夢ではなかった。たしかにここは自分の部屋だ。人間が住むにはちょっと小さすぎるけれど、あいかわらず、見なれた壁に囲まれている。机には、バッグから出した生地のサンプルが乱雑にひろげられている。 - ザムザはセールスマンだった。 - 机のうえの壁には絵がかかっている。ちょっと前、絵入り雑誌から切り取って、かわいい金縁の額に入れたやつ。描かれているのは、毛皮の帽子と毛皮の襟巻きをつけた女。背中をすっと伸ばしてすわり、ずっしりした毛皮のマフをこちらに突きだしている。腕が、ひじまですっぽりマフのなかに隠れている。

冒頭のセリフは割合リアルな感じが出ている気がします。実際、誰でも突然自分が虫になってしまったら「えっ!? 何なんだ?どうなってんだ?えーっ!?」ぐらいの驚きは生じると思いますが。

「たしかにここは自分の部屋だ」。「たしかにここは」というのは訳者の補足でしょうね。

「バッグから出した」。これも原文にはなく、訳者の補足だと思われます。

「セールスマン」についてはコメントを控えます。

 

角川版
「おれはどうなったんだ?」と彼は思った。夢ではない。自分の部屋だ。やや小さすぎるとはいえ、人間用のちゃんとした部屋だ。見慣れた四方の壁に囲まれ、落ち着いた佇まい。荷ほどきした布地の商品サンプルが広げてある机の上の方に (ザムザは出張の多いセールスマンだった)、絵が一枚飾ってあった。つい最近、絵入り雑誌から切り抜いて、きれいな金メッキの額縁に入れておいたのだ。描かれているのは、毛皮の帽子をかぶり、毛皮のボアを巻いた貴婦人だ。背筋を伸ばして座り、腕を肘まで覆う重たげな毛皮のマフを、見る者めがけて突き出している。

「自分の部屋だ。」という訳は、原文で「Sein Zimmer」という一語句を一文にして訳してあるわけですね。なかなか気持ちのいい訳だと思いました。

「人間用の」という言葉から、虫の視点に立って状況が描写されていることがよくわかります。なるほど、原文の「Menschenzimmer」は虫になってしまったから Zimmer は Zimmer でも Menschen の Zimmer だと言っているんですね。この解釈はありですね。

「落ち着いた佇まい」と訳すのはちょっと違うのではと思います。この訳だと、けばけばしくなく、抑制の効いた、品のある、住み心地のよさそうな住居のことを思ってしまいますが、原文の流れからするとそういう話ではなく、自分の姿は虫になっているのに、自分のまわりは何も変わらず、何事もなく、静かなままである、ということを伝えようとしているのだと思います。「落ち着いた佇まい」では少し意味がずれてしまっているように感じます。

「荷ほどきした」。これも訳者の補足。商品サンプルがどのように広げてあるのか、その描写は省かれています。「セールスマン」についてはここでもコメントを控えますが、原文ではここの文の前後にダッシュ、横棒があるのですが、この訳では丸括弧に代えられています。

「ボア」という訳語は、ファッションに詳しい人はすぐにわかるのでしょうが、さもなければ何を指しているのかわかりにくいでしょうね。まぁ、「マフ」という語もそうかもしれませんが。

「マフを、見る者めがけて突き出している」。このうち「めがけて突き出している」というのは、少しカラーの強く出た訳ですね。「なぜまたマフをこちらへ激しく突き出して来るのだ? 何か意味があるのかな?」と読者としては思ってしまいます。

 

追記

»Was ist mit mir geschehen?« の mit mir に関連してくる話題を二つ追加しておきます。

 

(1) さて、上のセリフはたとえば「私の身に何が起こったのか」とか「私はどうなってしまったのか」などと訳されます。このセリフの mit ですが、日本語の助詞である「は」と「が」のうち、「は」に似ていると思いませんか? いわゆる「象は鼻が長い」の「は」です *1

私はふと気が付いたのですが、何だか mit と「は」は似ているところがあると思うんです。今の象文の分析は多数の研究の蓄積があり、私はそれらについてまったく知らないので、断定的なことは言えないのですが、先の象文は「象」が文中で主体を表していると解される一方で、象を話題に上げて「象について言えば、鼻は長い」と言い換えられます。つまり助詞の「は」は主体を表示する印である一方で、また話題の提示を行なっていると見なせます。

同様に今回の「Was ist mit mir geschehen?」では mit mir により、私がこの文の主体であると解される一方で、私を話題に上げて「私について言えば、何が起こったのか?」と訳を言い換えられます。どうですか? 何だか似ていますよね。

このような類似性は上記の関口先生の御高著『意味形態を中心とするドイツ語前置詞の研究』、該当箇所では述べられていませんが、(国文法ではなく) 現代日本語文法とドイツ語文法に通暁している人は既に知っていることかもしれません。

しかし「「は」と mit が似ているのはたまたまであり、似ていないところはいっぱいある、でたらめを言うんじゃない」と関口先生からしかられるかもしれませんが。

 

(2) 助詞「は」は話題を出す機能がありますが、話題の提示とその提示順と言えば、ただちにいわゆる「情報構造」のことが思い出されます。以前私がこの言葉を、日本語で書かれた言語学用語辞典で調べた時、英語学研究の大家であるあの M・Halliday が1960年代に言い出した、という感じのことが記されていました。今その本が手元にはなく、うろ覚えなのですが、そんなような記述だったと思います (開拓社の英語学の用語辞典だったと思います)。

ところで先ほど非常に有名な本、千野栄一、『外国語上達法』、岩波新書岩波書店、1986年を、かなり久しぶりに読み返していると、「情報構造」という言葉そのものは使われていないものの、これと大変似た話が既に1960年代どころか20世紀前半には唱えられていたことがわかります。千野先生の御高著の75-79ページをご覧ください。この箇所を読むとチェコ言語学者 V・マテジウスが既知の話題と未知の話題の提示順という観点から、文を分析する理論を組み上げていたようです。すごいですね。ただしこのような分析が歴史的にさらに遡るのかどうか、そこまでは私はまだ知りませんけれど。

と書いたこのあとで、言語学の各分野と、著名な言語学者の業績を解説した以下の本、千野栄一、『言語学を学ぶ』、ちくま学芸文庫筑摩書房、2022年の、「具眼者ビレーム・マテジウス」という章を読むと、既知の話題と未知の話題の理論に少しだけ言及されていて、それによると、マテジウスさん本人が「この種の話は言語学では以前から語られていて、自分が初めて言い出したのではない」というような感じのことを述べているそうです。ということは、この種の理論の萌芽はマテジウスさんよりもさらに前に遡ることができるみたいです。

そして加えるに、Wikipedia の英語版でマテジウス (Mathesius) の項目を覗いてみると、Legacy の欄で、彼の理論が Halliday の機能文法の発展に影響を与えた、と書かれていました (2024年、6月閲覧)。「Mathesius's ideas also influenced Michael Halliday's development of systemic functional grammar.」この記述がどれほど正確なのかはわかりませんが、ある程度はこのように言えるのかもしれませんね。

 

終わりに

今日はここまでと致します。誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いなどがありましたらお詫び致します。逐語訳中に誤訳、悪訳がありましたらこちらもすみません。次回から気を付けます。既刊の邦訳には学ぶべきものがありました。誠にありがとうございました。

 

*1:「は」と「が」の違いについては、次の文献でやさしく説明されています。原沢伊都夫、『日本人のための日本語文法入門』、講談社現代新書講談社、2012年、37-44, 150-157ページ。ちなみにこの本は、国文法ではなく言語学に基づく現代日本語文法の非常にわかりやすい入門書です。この分野をまったく知らないけれど、取っ掛かりを付けたいという人に最適の本かもしれません。大変平易なのでものすごく読みやすいです。ついでに言いますと、日本語の歴史を述べた本では、次がとてもやさしくて読みやすいです。山口仲美、『日本語の歴史』、岩波新書岩波書店、2006年。これも非常に平易で、語りかけるような口調で書かれているため、楽しく読めます。