Reading Kafka's Die Verwandlung, Part III.

目次

 

はじめに

今日も Franz Kafka の Die Verwandlung、いわゆる『変身』を原文で読んでみます。今回は、以下に記すドイツ語文献の第I部第九段落目を取り上げます。この段落のドイツ語の構文は若干特徴があるからです。

いつものようにこのあとは、ドイツ語原文を掲げ、その文法事項を私が説明し、逐語訳を私が付け、そして複数の邦訳を引用し、それらを比較・検討してみます。

 

原文は次を利用させていただきました。

・Franz Kafka  Die Verwandlung, Kurt Wolff Verlag, 1917, The Project Gutenberg eBook of Die Verwandlung, <https://www.gutenberg.org/cache/epub/22367/pg22367-images.html>.

それでは原文を引用してみましょう。害虫になってしまった Samsa がベッドから出ようと奮闘する場面です。

なお、原文中の [es] は元々 er と記されていたのですが、er のままだと意味が通らないので [es] にしてあります。これに関して詳細は、このあとの文法事項解説箇所をご覧ください。

 

ドイツ語原文
Die Decke abzuwerfen war ganz einfach; er brauchte sich nur ein wenig aufzublasen und sie fiel von selbst. Aber weiterhin wurde es schwierig, besonders weil er so ungemein breit war. Er hätte Arme und Hände gebraucht, um sich aufzurichten; statt dessen aber hatte er nur die vielen Beinchen, die ununterbrochen in der verschiedensten Bewegung waren und die er überdies nicht beherrschen konnte. Wollte er eines einmal einknicken, so war es das erste, daß [es] sich streckte; und gelang es ihm endlich, mit diesem Bein das auszuführen, was er wollte, so arbeiteten inzwischen alle anderen, wie freigelassen, in höchster, schmerzlicher Aufregung. »Nur sich nicht im Bett unnütz aufhalten,« sagte sich Gregor.

 

ドイツ語文法事項

Die Decke abzuwerfen: 誰でも最初にここを読み始めると、Die Decke が主語だと考えます。しかし war が見えた瞬間に「おやっ?」と感じ、「abzuwerfen は Die Decke を修飾しているのではないな」と思い、ganz einfach. で文が終わっているのが目に入ると、「Die Decke は ab ... werfen の目的語で、Die Decke abzuwerfen が zu 不定詞の名詞的用法であり、この名詞句が war に対する主語なんだ」と判断するに至ります。英独仏語の文を読む時には、文法事項が当初の予想通りに進む限りはいいのですが、予想を裏切る表現が出て来た時、すかさず判断を切り替え、妥当な読みに乗り換えることのできるフットワークの軽さと、深く細かい文法知識、それに経験を積んだ、信頼性の高い勘が必要ですね。私はまだまだですが。

einfach; er: ここのゼミコーロン (;) はこの前後の文が意味上、密接な関連にあることを示しています。具体的には前文の意味内容を後文が立ち入って説明しています。

er brauchte ... nur ... aufzublasen: nur + zu 不定詞 + brauchen で「〜しさえすればよい」。zu 不定詞 + brauchen で「〜する必要がある」ですから、これに nur が付け加わると「〜だけをする必要がある」となり、これは要するに「〜しさえすればよい」ということになります。

sich auf ... blasen: aufblasen だけで「膨らませる」。これに sich が加わると sich aufblasen であり、ここでは「自分自身を膨らませる」の意味。これは具体的には息を自分自身の肺などに吹き込んで身体を膨らませることを言っているのだろうと思われます。しかし、私は昆虫についてはほとんど無知なので断言はできないのですが、昆虫には肺がなく、息を吸い込んで身体を膨らませるということは、普通できないと思います。Kafka は昆虫を誤解し、肺があるものと思い込んでこう書いているのかもしれません。あるいは彼は昆虫に通常肺はないことを知っていながら Samsa には特別に肺があると想定して書いているのかもしれません。虚構の小説では何でもありですからね。それとも息を吸い込むと、肺がなくても何らかの作用で身体が自然に膨らむ構造をした虫がいるのかもしれません。地球上の虫の種類は確か膨大なものがあったはずであり、そんな虫がいてもおかしくないですし、その場合には「身体を膨らませる」と訳すこともありでしょう。結局何が正しいのか、私にはわかりませんが、ここをよく考えず「身体を膨らませる」と訳すと、昆虫に詳しい読者から「通常の昆虫の実態を反映しておらず誤訳である」というクレームが入るかもしれませんね。ここは「彼は自分の身体を膨らませた」と訳すのではなく、「彼は自分の身体を膨らませるような格好をした」と訳すのがおそらく正解かもしれません。これなら息を吸って身体を膨らませたからそのような格好になったとも取れますし、息を吸うのではなく、何か別の方法で身体が膨らむ格好をしたとも解せますしね。

ein wenig: 少しばかり (〜がある)。「少ししかない」ことは ein を落とした wenig で表されます。

aufzublasen und sie: この und は時間の推移を表していると捉えるべきでしょう。単に機械的に「そして」と訳すのではなく、und の前文が生じ、そして「それから、そのあとに」 und の後文が生じたことを表しています。

von selbst: ひとりでに、自分で。

wurde es schwierig: この es は、漠然とその時の状況を、少し具体的には Samsa が起き上がってベッドから出ることを指しています。

so: このような so は機械的に「とても」と訳せば済むことが多いのですが、元々の意味は「それほど」というものです。そうすると、このような so が出てきた場合、すぐさま「とても」と安直に訳してしまうのではなく、一旦「「それほど」と言うが「どれほど」なのか?」と念のため、考えてみる必要があるでしょう。ここで「それほど」と言うのは「尋常ならざる (ungemein)「ほど」」ということです。従って丁寧に訳す場合はこのことを考慮の上、訳す必要があるでしょう。

Er hätte Arme und Hände gebraucht: ここでは接続法第二式が使われています。それはなぜでしょうか。接続法第二式は実際とは違うことを表す場合にしばしば使われます。ここでもそれがそのつもりで使われています。つまり身体を起こすために「彼は両手・両腕が必要だった (のだが、実際にはそれらがなかった)」ことがここでは言われています。なお、brauchen は二つの意味があり、一つは「〜を必要とする」、もう一つは「〜を使う」であり、ここの文脈で後者の意味と解するのは少し無理があります。というのは、ここでは両手・両腕の話がされていますが、このあとで Samsa は脚しかない、脚があるだけだ、と言われていて、両手・両腕と脚とが対比されており、脚だけはある、と言われているのだから、ここでは両手・両腕が必要なのにない、と言われていると解するほうが、より妥当だろうからです。

um sich aufzurichten: um + zu 不定詞で「〜するために」。

aufzurichten; statt: ここのゼミコーロンも、前後の文が密接な関係にあることを示しています。この前文では、Samsa があることをやろうとしたのですができなかったことが述べられています。そして後文では、それをやろうとしたが、そうできず、結果としてどうなったかが述べられています。あるいは後文が原因で、前文の言うように、やろうとしていたことができなかった、と捉えることもできます。

statt dessen: dessen は関係代名詞中性2格で「その」の意味。「その」とは前文の内容のこと。statt は「〜の代わりに」の意味ですが、訳す場合には「〜ではなく、〜せずに」などと否定で訳すとうまくいくことがよくあります。

Beinchen: -chen は小さいことを表す接尾辞。中性名詞を成します。

Beinchen, die: die は関係代名詞複数1格。先行詞は Beinchen。

ununterbrochen: これはあとの語句 in der verschiedensten Bewegung にかかっており、形容詞が副詞化して使われています。

in der verschiedensten Bewegung waren: in + 3格 + sein で「(3格) の状態にある」。der verschiedensten は最上級ですが、「最も〜な」と訳すのは不適切です。というのも、ここでは何と比べて「最も〜な」という「何」が欠けているからです。ここでは何かと比べて一番だ、と言っているわけではない、ということです。この最上級はいわゆる「絶対最上級」と呼ばれるもので、何かと比べずにそれ自体で、程度が極度に高いことを表しています。直訳すれば「極めて様々な動きの状態にあった」、自然な訳にすれば「ひどくめちゃくちゃに動いていた」。

und die er: この die も先ほどの die と同じく関係代名詞複数形で、先行詞は Beinchen なのですが、ただし1格ではなく4格です。

Wollte er: これは倒置文ですが、このことはこれが wenn 文であることを表していて (スローガン「倒置文は wenn 文」)、なおかつ文脈上の意味からいって、認容 (〜するとしても) を意味しています。また wollen はこの場合、意志または欲求 (〜しようとする、〜したい) を意味します。

eines: これは Beinchen を表し、そのうちの脚一本を意味します。

so war es das erste, daß: es はこのあとの daß 文を指します。das erste は「最初、最初のこと、最初にすること/したこと」。ここを直訳すれば「その場合、〜することが、最初にしたことだった」。自然な訳にしようとすれば「その場合、最初に〜したのだった」とか「その場合、真っ先に〜になった」でもなるでしょう。

[es] sich streckte: sich strecken で「背伸びをする、身を伸ばす」または「身体を横たえる」。ここの部分の [es] は元々は er になっていました。もしも er だと、この代名詞は Samsa のことを指します。しかしその場合、sich strecken が「身を伸ばす」のような意味であった時、なぜここで Samsa が身体を伸ばす必要があったのか、ちょっとよくわかりません。Samsa の身体がどんなふうにできているのか、詳細がわからないので、なんで伸びをする必要があるのか、はっきりしたことがわからず、どう訳せば最適なのかもわかりません。たぶん Samsa は丸っこい虫で、普通にしていると猫背のような格好になるのかもしれません。まぁ、それでもなぜ伸びをするのか、いまいちわかりませんが。あるいは sich strecken が「身体を横たえる」というような意味であるならば、そもそも今、Samsa はベッドに寝ていて身体は横たわっているでしょうから、その場合、なぜまたさらに加えて「横たわる」と表現しなければならないのか、これもよくわかりません。どちらにせよ何だかよくわからない話です。そこで、以下に書誌情報を記す白水社注釈版と同学社注釈版で、そこに上がっているドイツ語本文をそれぞれチェックしてみると、前者の版ではここが er ではなく es になっていました。これなら筋が通ります。es であれば、これは Beinchen の1本を指します。すると sich strecken は「1本の小さな脚が伸びる」という意味であり、これなら話はわかります。Samsa が脚を1本ちょっと折り込もうとすると、折り曲げようと思っているのに、なぜか真っ先にその脚がピンと伸びてしまう、という話なわけです。これなら理解できます。ということで、ここは er ではなく es とし、それを引用文中で [es] と表しておきました。

streckte; und gelang es: ここのゼミコーロンも前後の文が密接な関係にあることを示しています。特に、このあと、gelang es と倒置文が来ていますが、これは先ほどと同じく wenn 文を表しており、ゼミコーロンと und で二つの倒置文をセットにしていることがわかるようにしてあります。なお、und + 倒置文で仮定的認容 (たとえ〜であるとしても) を表すことがあり、ここでもその形が見られますが、この und は前文とのセットを表すだけで、ことさら認容を表そうとして用いられているわけではないと考えられます。とは言え、この und 以下の (wenn) 文は (事実的) 認容 (事実〜だとしても) を表してはいるわけですが。

gelang es ihm ..., ... auszuführen: 「Es gelingt 3格 zu 不定詞」で「3格は〜することに成功する」。Es は後方の zu 不定詞を指しています。

endlich: この語は「最後に」という意味もありますが、むしろ「やっとのことで、ようやく、どうにかこうにか」という「ついにたどり着いた」というニュアンスが濃い語です。

mit diesem Bein: この mit は一見「〜を使って」という道具・手段としての意味を持っているように見えます。しかしむしろ「〜について、〜に関して」という関連性の意味で使われていると思われます。と言うのも前者の意味だと、まず脚を思い通りに動かすことができて、その上で望んだことを成し遂げるということになりますが、そもそもこの段階では脚1本をコントロールすることさえできずに奮闘一辺倒なのに、その上その脚で何かをしようなどと思うことはまったくできないでしょうから、脚を使って何か目的を達成しようとしているのではなく、単に脚1本のコントロールを達成しようとしているだけなのだと思います。そうだとすると、この mit は脚を「道具として」使って何かをしようとしているのではなく、単に脚「について」、それをどうにかしようとしているのであり、その場合、mit は道具・手段の意味ではなく、関連性の意味を持っていると解すべきでしょう。

das auszuführen, was er wollte: das 指示代名詞4格。後出の不定関係代名詞 was の先行詞。

so arbeiteten inzwischen alle anderen: 先述の、wenn 文としての倒置文 wollte er ... の主文冒頭にも so が出ていました。ここでも倒置文 gelang es ... の主文の冒頭部分として so が出てきており、対称を成しています。つまり「V S, so ... ; und V S, so ...」というように、構文が対称性をもって提示されているんですね。ゼミコーロンを多用して前後の文の緊密性を高める構文をしばしば取ることと、文を対称的に配置する構文を取っていることが、今回のドイツ語の文章の若干特徴のあるところです。これが今日のブログ記事冒頭で、若干の特徴があるドイツ語と言っていたことです。また arbeiteten ですが、これは「労働する」ということではなく「(機械などが自動的に) 作動する」というニュアンスを伝えようとして使われています。そして複数1格 alle anderen のあとには Beinchen が省略されています。

in höchster, schmerzlicher Aufregung: この in も状態を表しています。また höchster も最上級ですが、何かと比べて最上、最高だと言っているのではなく、これも絶対最上級で、それ単独で程度が極めて高いことを述べています。

Nur sich nicht im Bett unnütz aufhalten: nur ... nicht には「〜さえしない、〜でさえない、とにかく〜するな、とにかく〜でない、〜だけはしない」の意味があります。この場合は「とにかく〜するな」あたりが適当でしょう。「sich4 + 場所 + aufhalten」で「(場所) に滞在する」。unnütz は形容詞で「役に立たない」が副詞化しています。ここの文を直訳すると「とにかくベッドに無駄にとどまるな」となりますが、自然な訳にすれば「(脚のことなどにかかずらうのはやめよう)とにかくベッドにいても無駄だ (出よう)」などとなるでしょう。

»...,« sagte sich Gregor: ここは「sich3 + 4格 + sagen」という形をしており、この4格に当たるのがセリフ »...,« です。sagen と来れば「(声に出して) 言う」という意味だと思うところですが、必ずしも声に出すのではなく、心の中で思うことにも sagen を使います。この原文の sagen も、声に出してセリフを言ったと解さねばならないというわけではありません。そう解してもいいことはいいですが、心の中で思ったと解しても、あるいはそれらの中間の、「つぶやいた」と表現しても構いません。一人で部屋にいる Samsa のことですから、わざわざ (他の人に向かって) 声に出す必要はないので「心中思った」とか「つぶやいた」のほうがいい訳とは思われます。

 

逐語訳

逐語訳は各種邦訳訳者の先生方にとって、ドイツ語原文を読んだ際に受け取る生データのようなものと考えられます。この生データを元に、先生方は自然でこなれた、文学的な訳文を作成されていると考えられます。そのようなわけで、以下では逐語訳を提示してみます。

言うまでもありませんが、逐語訳が最も望ましい訳だというわけではありません。参考までに逐語訳を施しているだけです。

 

布団を Die Decke 投げ捨てることは abzuwerfen まったく ganz 簡単で einfach あった war; 彼は er 自分を sich 少しばかりein wenig 膨らませ auf ... blasen さえすればよかった nur ... zu ... brauchte すると und  その布団は sie  ひとりでに von selbst 落ちた fiel. しかし Aber その先は weiterhin [事態は] es 厳しく schwierig なった wurde 特に besonders  彼は er 尋常ならざる ungemein ほど so 幅広 breit だった war からである weil. 彼は Er 自分を sich 起こす auf ... richten ために um ... zu 両腕と両手を Arme und Hände 必要としたのだが hätte ... gebraucht; しかし aber その代わりに statt dessen この上なく様々に der verschiedensten 間断なく ununterbrochen 動いている状態に in ... Bewegung あった waren ところの die かつ und 彼には er とにかく überdies 統制することが beherrschen できなかった nicht ... konnte ところの die 多くの vielen 小さな脚たち die ... Beinchen だけが nur 彼には er あるのであった hatte. 彼は er 脚を一本 eines ちょっと einmal 折り込もうと einknicken 望んだのだがWollte, その場合 so 次のこと、すなわち es その脚が [es] 伸びる sich streckte のが daß 最初に起こったこと das erste だった war; かつ und その脚について mit diesem Bein 彼が er 望んでいた wollte ところの was それを das 実行することに auszuführen 彼が ihm ついに endlich 成功したとしても gelang es, その場合 so そうしている時にも inzwischen 解き放たれたかのように wie freigelassen 痛々しいまでに schmerzlicher この上なくhöchster 興奮して in ... Aufregung 他の脚たちすべてが alle anderen 動くのだった arbeiteten. 「» とにかく Nur ベッドに im Bett 無駄に unnütz とどまる sich aufhalten のはよそう nicht, 」« と グレゴールは Gregor 自分に言い聞かせた sagte sich.

 

既刊邦訳

今回見比べる邦訳は以下の七つです。一つ目と二つ目は注釈書、そのあとは文庫、新書の邦訳です。文庫、新書は刊行年の昇順で並べています。

・本田雅也編著  『対訳 ドイツ語で読む「変身」』、白水社、2024年、22-23ページ、

中井正文編  『変身』、同学社対訳シリーズ、同学社、1988年、22-23ページ、

カフカ  『変身』、高橋義孝訳、新潮文庫、1952年、13ページ、

カフカ  『変身・断食芸人』、山下肇、山下萬里訳、岩波文庫、2004年、14ページ、

フランツ・カフカ  『変身』、池内紀訳、白水 u ブックス 152、白水社、2006年、12-13ページ、

カフカ  『変身 / 掟の前で』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2007年、38-39ページ、

フランツ・カフカ  『変身』、川島隆訳、角川文庫、2022年、11-12ページ。

この他にも『変身』の邦訳は刊行されていますが、あんまりたくさん比べるのも大変ですし、読者のかたも読むのがしんどいでしょうから上記の文献だけにしておきます。これらの文献はたまたま見かけたものであり、これらを選んだことに深い意味はありません。では上の順に邦訳を引用してみます。

ちなみに邦訳にふりがなが付いている場合、それらは全部省いて引用しています。

 

白水社注釈版
 掛け布団をはねのけるのは簡単だった。息を吸いこみちょっと体をふくらませたら、かってに落ちた。けれどそこから先が難しい。なにしろ尋常でなく横幅があったから。起き上がるには腕と両手が必要なのに、そのかわりに生えているのはたくさんの小さな脚だけで、それぞれがたえまなくバラバラに動き、おまけにちっとも言うことを聞きやしない。どれか1本をちょっと曲げようとすると、自分勝手に伸びる。そいつを思うように動かすのにやっとのことで成功しても、そのかんほかのすべての脚は、解き放たれたかのごとく、興奮して悲しくなるほどめったやたらに動くのだった。「さあ、むだにベッドのなかにとどまっていてはいかんぞ」とグレーゴルは自分に言い聞かせた。

この邦訳について、気が付いたことを記します。なお、以下の指摘は「これはケシカラン! こんなふうに訳すべきではない!」と言っているのではまったくありません。基本的に「原文ではかくかくですが、邦訳ではしかじかになっています」と、その相違などを述べているだけです。どうかこの点、ご銘記ください。ただし「これは改善を加えたほうがよいのではないでしょうか?」という指摘をしている箇所も、ないではありませんが。

何にせよ、生意気なことを言っていると思われるかもしれません。ろくにドイツ語もできないのに、出すぎた真似をしましてすみません。ドイツ語の勉強の一環として、細かいところまで検討した結果です。何卒お許しください。

 

さて、原文と白水社注釈版を見比べると、ところどころ原文にある語を訳出していない場合があります。それらの場合全部に言及はしませんが、たとえば Arme und Hände の Arme が「両腕」ではなくただの「腕」とされています。また das erste が訳されていません。それに絶対最上級が二箇所で使われていますが、いずれもその意味合いが訳出されていません。以上のように、訳出が控えられているのは、きっと読者が読む際にスピード感が出るようわざと簡素な訳文にされているのでしょう。それにすべての語を訳し出していると不自然な訳、翻訳調の訳になってしまうでしょうから、そうならないためにも無理に全部を訳そうとはされていないのでしょう。

また原文では過去形なのに訳文では現在形になっているところがあります。これは臨場感を出すためや、単調になるのを避けるためでしょう。

 

同学社注釈版

 掛け布団をはねのけるのは造作なかった。からだをちょっと持ちあげるだけで、ひとりでに落っこちた。だが、それからが厄介である。特に彼のからだは法外に幅があったからだ。起きあがるためには両腕と両手をつかう必要があった。ところが、彼にはもうその手がなくなっていて、雑多な動きをつづけるばかりで、どうしても彼の意のままになりたがらぬ、たくさんの足があるだけなのだ。足の一本を曲げてみようと思ったのに、その足がまっさきに伸びてしまったりする。ともかくその足の助けを借りて、彼はやっと目的を達することができた。その間も、ほかの全部の足はまるで解放されたみたいに、むちゃくちゃに興奮して動きまわっていたものだ。

 「さあ、ベッドのなかでぐずついていたって、もう役に立たんぞ」

 そうグレゴールはつぶやいた。

こちらも訳されていない語が多々あります。すべてには触れませんが、たとえば nur + zu 不定詞 + brauchen の「〜しさえすればよい」という意味合いが訳出されていません。単に「〜だけ (した)」と訳されているのみです。また「彼にはその手がなくなっていて」は「彼にはその手と腕がなくなっていて」としたほうがいいでしょうし、「たくさんの足があるだけなのだ」は「たくさんの小さな足があるだけなのだ」としたほうがいいでしょう。

ここでも原文過去形が邦訳で現在形にしてあるところもいくつかあります。

また、絶対最上級の意味合いが反映されていないところもあります。

「自分自身を膨らませる」という意味のsich aufblasen を「からだを ... 持ちあげる」と訳しています。昆虫は一般に肺がないので、息を吸って肺の容量を拡大することで身体を膨らませることができないでしょうから、意図的に「膨らませる」という訳を避け、「持ちあげる」という訳を採用されているのかもしれません。これは昆虫の特性に配慮がなされた訳ですね。

「その足がまっさきに伸びてしまったりする」に対応する原文は、同学社注釈版に記載されているドイツ語文では er sich streckte となっていますが、Bein または Beinchen はどちらも中性名詞なので、er はこれらの語のどちらも指しておらず、Samsa を指していると解する必要があり、その場合、ここは「Samsa はまっさきに伸びてしまったりする」と訳さねばなりません。あるいはドイツ語の名詞の性は時に揺れが見られるので、Bein または Beinchen を Kafka は男性名詞と見なし、それでそれらの語のうちの一つを er で指しているのかもしれず、それ故同学社注釈版は er を「足」と訳しているのかもしれません。このあたり、判断がつきませんが。

mit diesem Bein が「この足について」ではなく「この足を使って」の意味合いで訳されています。その結果、このあとの「彼はやっと目的を達することができた」の「目的」が何なのか、よくわからなくなっています。

最後のセリフ「さあ、ベッドのなかでぐずついていたって、もう役に立たんぞ」の「役に立たんぞ」は unnütz に対応してはいますが、ちょっと不自然ですね。普通こういう言い方はしないと思います。こういう場合、大抵は「仕方がないぞ」とでも言うでしょう。

 

新潮版
 布団をはねのけることはしごく造作なくやれた。ただほんのちょっと、腹をふくらましさえすればよかった。布団は自然と下へ落ちた。ところがそれから先が厄介なことになってきた。ことにそれはグレーゴルの体の幅がひどく大きかったからである。起きあがるには腕や手の助けを借りなければならないのに、その腕や手のかわりに現在あるのはたえずてんでんばらばらに動くたくさんの小さな足しかなく、またその足さえも彼の思いどおりにはならなかった。たとえば一本の足を折りまげようとすると、その足はまずぐっと伸びる。それでもどうにかこうにかその一本の足を使って自分のしようと思ったことをしとげても、そのあいだじゅうほかの全部の足どもは、まるでやっと解きはなたれたとでもいうように、いたいたしく大騒ぎをやっていた。「寝床の中でいつまでもぐずぐずしていさえしなければいいんだ」とグレーゴルはひとりごとを言った。

できるだけ原文のすべての語を訳出しようとしているさまが割と見てとれるように思われます。

その一方で、この邦訳でも原文過去形が現在形で訳出されているところがあります。

また、mit diesem Bein の mit を関連性ではなく道具・手段を表すものとされているため、あとの「自分のしようと思ったこと」が何なのか、不明です。

最後のセリフ「寝床の中でいつまでもぐずぐずしていさえしなければいいんだ」もちょっと不自然ですね。舌を噛みそうだ。「さえしなければいい」は完全に翻訳調になっています。「とにかく〜してる場合じゃない」などとしたほうが好ましいです。しかも「無駄だ」という意味合いも訳出されていません。あるいは「ぐずぐずして」という表現が「無駄だ」に当たるのでしょうか? そうかもしれないし、違うかもしれないですね。どうなんでしょう?

あと、少し古く感じられる言葉が使われているところもあるように思われます。たとえば「しごく」とか「造作」とか「てんでんばらばら」、「寝床」です。まぁ、かなり昔の訳ですから、これは仕方のないことですが。

 

岩波版
掛けぶとんを撥ねのけることは、簡単そのものだった。ほんのちょっと腹を膨らませさえすれば、おのずと滑り落ちた。だがそれから先が厄介なことになったのは、なんといっても、彼のからだの嵩が並はずれて張っていたからだ。このからだを起こすには、両腕、両手が必要だったろう。ところがそれらの代りに、小さなおびただしい脚があるばかり、それもたえずばらばらに動くので、とうてい彼の手に負えたものではなかった。脚を一本だけ折りまげようとすると、かえってそれが真っ先にぐっと伸びてしまう。やっとどうにかその脚で思いどおりのことができたかと思うと、その間にほかのすべての脚が、ワッと解放されたかのように、やたらドンチャン騒ぎをやらかしたりしている。「とにかく、ベッドの中でいつまでもグズグズしていないことだ」とグレゴールは自分に言いきかせた。

こちらもできるだけすべての語を訳出しようとしている様子が感じられます。

breit を「幅 (がある)」ではなく「嵩 (が張っている)」と訳されています。これはうまい訳出の工夫とも、あるいはちょっと訳しすぎとも取れるでしょうね。

また、mit diesem Bein の mit を道具・手段と解しているため、このあとで言われている「思いどおりのこと」が何なのか、わからなくなっています。

 

白水社

 毛布を投げ捨てるのは、いたって簡単だった。ほんの少し腹を力ませると、スルリと落ちた。だが、おつぎが厄介だった。背中がひらべたくなっている。起き上がるには腕や手がいる。ところがいまや無数の細い脚があるだけで、それが勝手にモジャモジャして、自分にもどうにもならない。一つをためしに曲げようとすると、最初の脚がピンとのびた。そいつを使って、やっとのことでさしあたりの用を足したが、その間にも、ほかの脚は自由気ままにワヤワヤと動きつづけていた。

 「寝床でぼんやりしていてもはじまらない」

 グレーゴルは自分に言いきかせた。

原文の各語をかなり訳出していない感じがします。だいぶ削ぎ落とした訳文になっています。よく言えば軽快な訳、悪く言えば中身の乏しい訳だという指摘が出てきそうです。

冒頭の「投げ捨てる」という訳はまったくの翻訳調、完全な直訳でおかしいですね。なぜなら毛布を「投げて」捨てたのではなく、滑り落としたのですから。

von selbst を「スルリと」と訳しておられますが、これはどうなんでしょうか? 微妙ですね。

「腹を力ませる」は工夫が見て取れますね。

breit を「背中がひらべたくなっている」と訳していますが、読者に配慮した、情景を思い浮かべやすい訳とも言えますし、大胆に訳しすぎとも言えるでしょう。

「一つをためしに曲げようとすると、最初の脚がピンとのびた」とあるところで、einmal を「ためしに」と訳しているみたいですが、これも意見が分かれそうですね。またここで das erste を「最初の (脚が)」と訳しているようですが、これは違うのではないでしょうか? das erste は、ここでは「最初のこと」とでもいう意味だと思います。das erste のあとに Bein(chen) が略されているわけではないと思います。白水社版の訳だと、無数の脚の一本を曲げようとしたら、最前列の脚が一本伸びた、ということになりますが、そうなんでしょうか? das erste のあとに Bein(chen) が略されているとするなら、「その脚が一本伸びたことが最前列の脚一本であった」と直訳せねばなりません。しかし、これは生硬な直訳とはいえ、わけがわかりません。ちょっとここの部分の白水社版邦訳は何だか変です。

白水社版も mit diesem Bein の mit を道具・手段と解しているため、このあとで「さしあたりの用」と述べていますが、それが何なのか、わからなくなっています。

最後のセリフで「ぼんやりと」という表現が見られますが、これも変な話だと思います。この表現は普通、人が何もしていない時や、何かをしていても、それを意識的にしていない時、または無意識にしている時に使う表現だと思います。しかしここで Samsa は意識的に必死になってベッドから出ようともがいているのですから、「ぼんやり」しているわけではありません。ここでこの表現を使うことは不適切だと思います。

 

光文社版
 毛布をはねのけることは簡単だった。ほんのちょっとお腹をふくらませるだけで、毛布はひとりでに落ちた。だがそれから先が大変だった。なんといっても異様にからだの横幅がひろがっていたからである。からだを起こすには両腕と両手が必要だろう。だがそのかわりに細い脚がたくさんあるだけだった。たくさんの脚はいろんな方向にひっきりなしに動いていて、どっちみちコントロールできない。1本を曲げようとすると、まず最初、ぴんと伸びてしまう。ようやくその1本が思いどおりになったときには、ほかの脚がみんな、釈放された囚人みたいに、痛ましいほど興奮してうごめいている。「ともかくベッドでぐずぐずしないこと」。グレーゴルは自分に言い聞かせた。

こちらも訳出されていない語があったり、原文過去形が現在形で訳されていたり、絶対最上級の訳が省略されています。もしくは絶対最上級の訳は明示はされていません。

mit diesem Bein については、その mit を道具・手段ではなく関連性と解していることにより、このあとの訳文が理解できるものになっています。

 

角川版
 掛け布団をはねのけるのは、ごく簡単だった。ほんの少し腹を膨らませればよく、それでひとりでに落ちた。けれども、そこから先は難しかった。特に横幅が人並外れて広くなっていたから。身を起こすには腕や手が欲しいところだったが、腕や手の代わりに肢がたくさんあるだけだった。肢はそれぞれ、ひっきりなしにてんでバラバラな動きを見せており、しかも自分の思うようには動かせない。一本をちょっと曲げようとすると、最初にまずピンと伸びる。ついにこの肢を思いどおりにするのに成功したかと思うと、そのあいだにも他の肢はみんな、これで無罪放免になったと言わんばかりに、痛々しいほど浮かれて立ち騒いでいるといった具合だ。「とにかく、ベッドで無駄に粘るのはもうやめだ」とグレゴールは呟いた。

こちらも語によっては訳出されていなかったり、原文過去形が現在形で訳されていたり、絶対最上級の訳が省略、または明示されていません。

「特に横幅が人並外れて広くなっていたから」と訳されているところがありますが、この中の「人並外れて」は変だと思います。これは ungemein の訳ですが、この訳語が人間について言われているのならまったく問題はありませんが、虫について言われているのですから「人並外れて」いて当然です。Samsa は今や虫であって人間じゃないのですから、並の人間の寸法から外れていても不思議ではありません。ここは「人並外れて」という訳語を当てるのではなく、「尋常でないほど」などとして、人間を連想させる訳は避けたほうがいいでしょう。まぁ、Samsa はまだ人間のつもりでいるから (日本語でなら)「人並外れて」という表現を思わず使ってしまったと解しても不思議ではない、という意見もあるかもしれませんが。

mit diesem Bein の mit は関連性と解されているようなので、このあとの訳文はちゃんとわかるものになっています。

 

終わりに

今回は、各邦訳に対する感想がちょっと辛口だったかもしれません。語学の観点から細かく見ていくことをここでの信条としておりますので、きちんとうるさく言う必要があったのです。さもないと、細かく検討している意味がありませんから。あくまで勉強の一環としてつぶさに観察していたのであって、他意はございません。それでも生意気に映ったでしょうね。ごめんなさい。

それにしても各邦訳は、それぞれ少しずつ違っていて面白いですね。なかでもやはり白水社版が一番独自性をはなっているように感じます。しかしこの訳は際立った訳である分だけに、読者の好き嫌いもはっきり分かれるでしょうね。今風の Kafka として、親しみを感じる読者も多いと思いますが、モダナイズされすぎていると感じる読者も、ままおられるかと思います。あなたはどうでしょうか?

今日はこれでお終いと致します。ここまでの私の話の中で、誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いなどがありましたらすみません。私の逐語訳にも誤訳や悪訳がありましたらごめんなさい。各種邦訳に対する私の感想が間違っていましたら、こちらもお詫び致します。すみませんでした。それにしましても、各々の邦訳からは学ぶものがありました。大変ありがとうございました。