目次
はじめに
Franz Kafka の Die Verwandlung (変身) を原文で読む続きです。今日は以下に記す引用文献の20-21ページ辺りを読んでみます。若干特徴のある文が並んでいる箇所だからです。
まずドイツ語の原文を挙げます。それからその文法について私が解説を加えます。そして私訳の逐語訳を提示します。そのあと、邦訳をいくつか引用し、気が付いた点を述べてみます。
原文はいつものように次を利用させていただきました。
・Franz Kafka Die Verwandlung, Kurt Wolff Verlag, 1917, The Project Gutenberg eBook of Die Verwandlung, <https://www.gutenberg.org/cache/epub/22367/pg22367-images.html>.
それでは原文を読んでみましょう。
なお、ここはどのような場面なのか、あらかじめ簡単に述べておきますと、虫になったザムザは手足の自由が効かず、直立するのもままならない状態で、なんとか自室のドアのカギを回し隣室へ出ようと両開きのドアの片方を開けます。隣室には家族と、出社して来ないザムザを心配して、会社の人が控えています。
ドイツ語原文
ドイツ語文法事項
Da: 既知の理由を述べる接続詞。未知ならば denn や weil が使われます。da が使われているのは、この文に至るまでに事情が語られているので、ここで述べられている理由も既知であることからです。
die Türe: この語は Tür (ドア) の複数形に見えますが Tür の複数形は Türen であって Türe ではありません。これは Tür の方言で、die Türe で女性単数形です。
auf diese Weise: これは「このやり方で、こういうふうにして」などと言う時の常套句です。
war sie: sie は die Türe を指します。ここで war というように単数形が使われていることから、die Türe が複数形ではないことがわかります。
recht weit: recht は「右の」とか「正しい」という意味ではなく、程度を強める意味の副詞で weit にかかっていて、「かなり」とか「結構」というような意味です。
war ... geöffnet: sein と過去分詞で状態受動。「開かれていた」
er ... zu sehen: 前方に出て来ていた war が省略されています。zu 不定詞 + sein で受動的可能 (〜されうる) または受動的義務 (〜されねばならない)。ただしここでは可能や義務の観念は薄れ、単なる受動の意味になっていて、原文は否定文なので「彼は見られてはいなかった」という意味です。なおここで他動詞 sehen に目的語がありませんが、それはもともと ihn がその目的語であったところに、zu 不定詞 + sein で受動化されて ihn が主語の er に変わり、目的語が主語に転じたために、目的語が欠けているのです。
den einen Türflügel: den einen は定冠詞と不定冠詞が並んでいるように見えますが、それだとおかしいですよね。ということは einen は不定冠詞ではなく数詞だということです。意味は「一つの」。ここでは両開きの扉の一方、片方のことです。Samsa が開けているドアが両開きであることは、この次の段落冒頭の記述からわかるので、話を先取りして両開きの扉の片方としているのです。また Türflügel は両開きの扉を開くと鳥の両翼の (うちの一つの) ように見えるからそう名付けられているのだろうと推測されます。ちなみに両開きの扉を「観音開き」と訳すべきか否かは慎重である必要があります。というのも、観音開きならば、それは普通外向きに開く扉でしょうが、Samsa の部屋の扉は外向きに開くのか、内向きに開くのか、扉の構造の描写をよく見極めた上で、「観音開き」と訳すか「両開き」と訳すか、判断しなければならないからです。
und zwar: 話を補足したり追加したりしたい時によく使われる言い回し。「しかも」ぐらいの意味です。
wenn er nicht gerade vor dem Eintritt ... auf den Rücken fallen wollte.: nicht gerade で「必ずしも〜ではない」の意味のこともありますが、ここではそうではなく、単なる wenn 文の否定で、「〜でなければ、〜でないならば」の意味。gerade はそのあとの vor にかかり、「〜のすぐ前に、〜のちょうど前に」ぐらいの意味。auf den Rücken fallen は「仰向けに倒れる」。wollte は過去形ではなく接続法第二式で、なぜ接続法第二式なのかと言うと、それはおそらくここで述べられていることが事実ではなく、空想上のことだからだろうと思われます。つまり仰向けに倒れたのではなく、仰向けに倒れるかもしれないと空想しているから第二式が使われているのだと考えられます。なお wollte の意味内容は要望で、ここでは「仰向けに倒れたくない」ということです。
war ... mit ... beschäftigt: mit 〜 beschäftigt sein で「〜に従事している、〜に忙しい」。
auf anderes zu achten: この zu 不定詞は直前の名詞 Zeit にかかる形容詞的用法。anderes は他のことの意味。
hörte er schon den Prokuristen ein lautes »Oh!« ausstoßen: 「4格 + 不定詞 + hören」で「(4格) が〜するのを聞く」。ここでは den Prokuristen が ausstoßen するのを聞く。ein lautes »Oh!« も4格ですが、こちらは ausstoßen に対する4格です。schon (既に、もう) とあるのは、虫になった Samsa の身体はまだ家族たちには見えていないはずなのに、彼がドアに沿って回り込み、家族の前に出ようとした矢先、どうやら身体が見えてしまったらしく、「もう」驚きから来るおののきの叫びが聞こえてきた、ということでしょう。
es klang: この es は Prokurist が ausstoßen している様子を表しています。
wie wenn: als ob (まるで〜であるかのように) のこと。als ob はこの wie wenn の他に、als wenn, wie als ob, gleich wie wenn でも表わせます。私はこのことを次のようなセリフにして暗記しています。「als ob は als wenn, wie wenn, wie als ob, gleich wie wenn」。皆さまもよろしければこのセリフで als ob の言い換えパターンを覚えてみてください。
sah er ihn auch, wie er, der der Nächste an der Türe war, die Hand ... drückte: 最初の er は Samsa であり、ihn は Prokurist のことです。二つ目の er は ihn を指します。さてここで問題なのは wie で、これが何なのか、です。私はこれは関係代名詞に類する表現で、個人的には「擬似関係代名詞」と呼んでいるものだと解しました。直訳すれば「ザムザはプロクリストが、後者はドアのすぐそばにいたのだが、手を〜に押し当てているのを見た」ぐらいの感じです。wie が「擬似関係代名詞」であって関係代名詞と違うのは、関係代名詞なら関係文中では1格なり4格なりが欠けているものですが、この wie の文中ではそれが欠けておらず、完全な文が続いているという点です。そして wie が「擬似関係代名詞」である時はしばしばその文中の1格か4格は代名詞になっています。ここでは1格が代名詞 er になっています。なおこの「擬似関係代名詞」の「先行詞」に相当するのが、ここでは ihn です。ところで、このあとに書誌情報を記す同学社の『変身』注釈書では、この wie を英語の how のことで、「(ここでは状況を示して) ... するさま、する様子」のことだとしています (57ページ、注18)。これはつまり wie を daß 文の daß と解しているのだろうと思われます。たとえば Er sah, daß Taro ... V と Er sah, wie Taro ... V はともに「彼は太郎が V するのを見た」と訳されますが、後者は前者よりも、目撃した事柄について、より具体的な「様子」を伝えようとする時に使われます。wie の意味内容としてはこの解釈で筋が通るように思われますが一つ問題があります。それはいわるゆ主節中で「sah er ihn auch, wie ...」とあるように4格の ihn が現れているということです。もしも wie が同学社注釈版の言うように、how としての daß ならば、この wie からなる文は4格なのですからその場合、4格が二つあるということになります。4格を二つ従える動詞はいくつかありますが (nennen など)、ここで sehen が二つの4格を従えるものとして使われているとは普通考えられないでしょう。むしろ wie 以下を「擬似関係代名詞」と見なすほうが筋が通っていると思われます。というわけで、私はこの wie を how としての daß ではなく「擬似関係代名詞」と捉えました。(間違っていましたらすみません。) まぁ、どちらでも結局訳出するとほとんど違いがわからなくなるので、最終的にはどちらでもいいことになるわけですが、もちろん語学的にそんなことを言っていたら勉強になりませんので、ここでのようにきちんと詰めて考える必要はありますね。続いて der der Nächste ですが、最初の der は関係代名詞男性単数1格で、先行詞は直前の er、対して枠構造を作る動詞は war、二つ目の der は定冠詞男性1格、Nächste は形容詞 nächst (最も近い) の名詞化したもの。よって er, der der Nächste an der Türe war を訳せば「扉のそばの最も近いところにいた人物である彼は」ぐらいになります。最後に、ここで auch (もまた) という言葉が出てきていていますが、何が「また」なのかと言うと、向こうから Prokurist の驚愕の叫び声が聞こえてきただけでなく、恐怖のあまり、後ろに下がって行く彼の姿も「また」今や見えた、ということでしょう。
als vertreibe ihn eine unsichtbare, gleichmäßig fortwirkende Kraft: als のあとにすぐ動詞の接続法第一式 vertreibe が来ていて、この als の文の主部は eine ... Kraft になっています。つまり als のあとで倒置しているんですね。ところで「als 倒置文」となっていれば、それは als ob (まるで〜であるかのように) のことです。従ってここの als の文は als ob のことです。大筋を訳すと「あたかも〜である力が彼を押しやっているかのように」などとなります。またここでなぜ接続法第一式が使われているのでしょうか? 一般的に言って、als ob 文で直説法が使われていたら、その文で言われていることが事実であることを含意し、接続法第二式であれば虚構、想像、仮定であることを含意し、第一式であれば事実か否か不定であることを含意します。さて、ここでは Prokurist が目に見えない超自然的な力によって後ろへ押しやられ、後ずさりしている様子が示されているのですが、超自然的な力が存在することは事実ではありません。従ってここで直説法を使うわけにはいかないでしょう。一方で Prokurist が後ずさりしているのは事実です。従って接続法第二式を使うわけにもいきません。ここでの Prokurist の様子は半ば事実を表し、半ば事実でないことを表しています。とすると、残された表現方法としては接続法第一式を使うことしかありません。またこの第一式なら事実であるとも事実でないとも言えることを表せそうです。というわけで、ここでは接続法第一式が使われているのだろうと思われます。
mit von der Nacht her noch aufgelösten, hoch sich sträubenden Haaren: mit から Haaren までが一塊になっていて、大略「〜という髪をして」という意味です。また von der Nacht her で一塊になっており、von 3格 her で「(3格) から」の意味。aufgelösten と sich sträubenden が Haaren を形容しています。意味は「ほどけたままの、逆毛だった髪」とか「まとまりのない、ボサボサの髪」みたいな感じになります。ここを全部訳すと「昨晩からまだほどけたままで、ひどく逆毛だった髪をして」ぐらいです。
sah ... an, ging ... hin und fiel ... nieder: 分離動詞の三連発です。「〜を見た、〜へ行った、そして〜でへたり込んだ」という感じです。
fiel inmitten ihrer rings um sie herum sich ausbreitenden Röcke nieder: ここはわかりにくいと思います。私は誤読していました。私はここを (inmitten ihrer) (rings um sie herum) (sich ausbreitenden Röcke) という三つの塊を fiel ... nieder が挟んでいると考えたのですが、これだと最後の (sich ausbreitenden Röcke) が浮いてしまいますね。それに気が付かずに訳していました。この解釈で訳すと「彼らの真ん中で、彼らに囲まれて、広がっているスカート、へたり込んだ」みたいになり変です。これに対し、原文を正しく区切ると inmitten【ihrer [(rings um sie herum) (sich ausbreitenden)] Röcke】という感じでしょうか。inmitten は2格支配の前置詞で、支配下にあるのは複数2格の Röcke です。意味は「〜であるスカートたちの真ん中で」。ihrer は人称代名詞ではなく所有冠詞女性2格で Röcke にかかっています。意味は「彼女の〜であるスカートたちの真ん中で」。rings um〜 herum は「〜の周りに」。ここまでの意味は直訳すると「彼女の、彼女の周りに〜しているスカートたちの真ん中で」。sich ausbreitenden は「広がっている」。Röcke は Rock (スカート) の複数形であり「なぜまたスカートが複数あるんだ?」と首をひねってしまいますが、あとで書誌情報を記す白水社注釈版によると、スカートを重ね着しているから複数形になっているようです (45ページ、註5)。以上を訳すと「彼女の周りに広がった、重ね着された彼女のスカートの真ん中でへたり込んだ」となります。ihrer も sie も意味が複数考えられて、かつ Rock が複数形になっているなど、読んでいて「なんだなんだ、何がどうなっているんだ?」と思ってしまう箇所ですね。
das Gesicht ganz unauffindbar zu ihrer Brust gesenkt: ここは英語で言う、過去分詞を使った分詞構文になっています。ただ文字通りに訳すとよくわからない情景が思い浮かびます。直訳すると「その表情を、まったく見ることができないように、彼女の胸に、沈めながら」。何のことだか、と思ってしまいますが、要するに、顔が胸に着きそうなほどガックリ首を直角に折り曲げて、ひどくうなだれた様子を表しているということです。
als wolle er Gregor in sein Zimmer zurückstoßen: als のあとで倒置しています。ということは、これも als ob 文で、「まるで〜であるかのように」の意味です。訳すと、父である「まるで彼はグレゴールをグレゴールの部屋に突き戻したいかのように」です。wolle は接続法第一式ですが、直説法でないのは、実際に突き戻したわけではないからであり、接続法第二式でないのは、突き戻すつもりはあったからでしょう。対して、まだ突き戻してはいないが、場合によっては突き戻すつもりが十分あったので、接続法第一式になっているのだと思われます。
weinte, daß sich seine mächtige Brust schüttelte: この daß は結果を表す daß (その結果〜する) と解することもできますが、むしろ程度を表す daß (〜するほど、〜するように) と解したほうがよいと思います。前者と解すと「彼は泣いた。その結果、胸が震えた」となりますが、後者だと「彼は胸を震わすほど泣いた」となります。驚愕のあまり、胸がひくつくほど泣いた、とするほうが、泣いた結果、胸が震えた、とするよりも、自然でしょう。
今日のブログ記事の冒頭で、今回取り上げるドイツ語の文章は「若干特徴のある文が並んでいる箇所だ」と述べました。以上の文法解説に基づいて、この文章にどのような特徴があるのかと言うと、als ob に相当する文が連発されているところです。そのようなわけで、今回この文章を扱ってみました。
逐語訳
逐語訳は原文から取り出される第一次のデータ、生データと見なすことができます。この生データをもとに、訳者の先生方が工夫を凝らして訳文を作られるというわけです。生データを前にすれば、先生方がどのようにデータを「料理」されているのか、よくわかるというものです。そういうことで、くどい訳ですが私による逐語訳を提示してみます。
なお、文中に Prokurist という見慣れない言葉が出てきており、各種既刊邦訳では色々な訳が当てられていますが、ここではあとで引用する角川版で使用されている「業務代理人」という、あまり聞いたことのない訳語を採用しておきます。
その理由は、Prokurist という役職は日本では対応する役職がどうやらないようであり、日本の既存の役職に強引に当てはめるのは避けた方がよいと判断したためです。
たとえばイギリスなどでよく行われているスポーツのクリケットは日本ではあまり盛んではないようであり、名前は知っていても詳しいルールは知らないという日本人は多いと思いますが (私もよく知りません)、だからといって "cricket" を似た感じのスポーツである「野球」と訳してしまうのは問題でしょう。そういうわけで、よく知っている役職名に置き換えてしまわず、むしろあまり聞いたことのない役職名にしておく方が賢明と思われます。ただし、よく知っている役職名に訳しては絶対いけない、と言っているわけではありません。ここは判断の別れるところだと思いますので。
既刊邦訳
引用するのは次の七つの邦訳です。最初の二つは注釈書、あとは文庫版、新書版の邦訳です。文庫版、新書版は刊行年の昇順に並んでいます。
・本田雅也編著 『対訳 ドイツ語で読む「変身」』、白水社、2024年、44-45ページ、
・中井正文編 『変身』、同学社対訳シリーズ、同学社、1988年、56-59ページ、
・カフカ 『変身』、高橋義孝訳、新潮文庫、1952年、29-30ページ、
・カフカ 『変身・断食芸人』、山下肇、山下萬里訳、岩波文庫、2004年、29-30ページ、
・フランツ・カフカ 『変身』、池内紀訳、白水 u ブックス 152、白水社、2006年、29-30ページ、
・カフカ 『変身 / 掟の前で』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2007年、53-54ページ、
・フランツ・カフカ 『変身』、川島隆訳、角川文庫、2022年、26-27ページ。
この他にも『変身』の邦訳は多数ありますが、完全に網羅することを目指しているのではないので以上にしておきます。他の邦訳を取り上げなかったことに特に意味はありません。他の邦訳の先生方にはお詫び申し上げます。
ちなみに、邦訳にふりがなが付いている場合があっても、それらはすべて省いて引用します。
では上記の順で引用してみましょう。
白水社注釈版
この版では一部の訳が省略されており、訳出されていません。それは引用文中の「(・・・)」です。これは邦訳原文にあるものです。
気が付いたことを記してみましょう。
冒頭近くの「eigentlich schon」が訳し出されていませんね。逆に「向こうから」という訳は原文になく、訳者による補足です。また「Er war noch mit jener schwierigen Bewegung beschäftigt」のうち、noch と jener の意味合いが訳文に現れていません。そのあとに出てくる「schon」や「ausstoßen」という語も訳が省かれています。それに「zurückwich」は過去形なのに「あとずさりしている」と現在形で訳されている一方で、「vertreibe」の意味は現在形なのに「追い立てているかのようだった」と過去形で訳されています。
うるさい指摘はこれぐらいにしておきます。細かいことを言って申し訳ありません。なぜこのような細かいことを指摘するのかと言うと、この注釈書は、私を含めたほとんどの人にとって、ドイツ語を勉強中の人に向けた中級学習書であり、ドイツ語が一通り読める人がプロの翻訳者になるために自然な日本語を書き起こすための翻訳方法を述べた本ではないと思うのです。
後者のタイプの本であれば、省略や補足を大胆に行い、原文から離れて自然な訳を読者に示してみてもいいと思いますが、前者のタイプの本ならば、あまり省略や補足をせず、多少不自然であってもできる限り原文に寄り添った訳を提示した方が学習者のためになると思うのです。
私の個人的な感覚では、この訳は省略がちょっと多いように思えます。これでは学習用の対訳書の意味がなくなるとは言わないものの、その意味が薄れてしまいます。すごくもったいないことをしていると感じます。とても残念です。厳しいことを言ってすみません。
あと一つだけ気になったのは、これも訳文冒頭近くで「向こうから見えぬまま、な状態だった」とありますが、この「見えぬまま、な状態」における読点 (、) の位置にとても違和感を覚えます。日本語には正書法がありませんので、この位置に読点を打つことは絶対間違いだとは言い切れませんが、おそらく大抵の人にとって、この読点はひどく不自然でとても引っかかりを感じるだろうと思います。
多くの人がつまずいてしまうような位置に読点を打つことはやめて、たとえば「見えぬままの状態だった」とするか、または単に「見えぬままだった」とすれば済むことではないでしょうか。学習用の対訳書ならば、ごく普通の文体にしたほうがいいと思います。特に凝った書き方をする必要はないと思うのですが。
このように生意気なことを言っていますが、私も自分の書いた文章の中で不自然な読点の打ち方をしているところがあるかもしれませんので人のことは言えませんね。それにこの注釈書の注釈によって、自分が誤読・誤訳していたところがあることを教えられましたので、本書には感謝の念を覚えます。誠にありがとうございました。
同学社注釈版
これも学習用の注釈書、対訳書だろうから言うのですが、訳文で「回りこまねばならないわけだ」の「わけだ」はいらないと思います。これを訳中に入れなければ理解不能になるというわけではないでしょう。親切心から、読者の理解を容易にするために挿入していただいていると思うのですが、学習者としては「この訳語に対応する原語はどれなんだろう?」と無駄に首を捻ってしまうと思います。
また、「入り口の手前へ」と訳にあり、これに対応する原文は「gerade vor dem Eintritt」ですが、gerade の意味合いが出ていないことと、なによりも Eintritt は「入り口」であるよりもむしろ「入ること」、「入場」のことだと思います。入る場所を意味することもあるのかもしれませんが、普通その語は入るという動きのことを指すのだと思うのですが。「入り口」ならば Eintritt よりも Eingang でしょう。だとすると、ここは「入り口の手前へ」と訳すのではなく、「入る直前に」とか「ちょうど入ろうとする時に」などとしたほうがいいと思います。商業翻訳の場合ならば「入り口の手前へ」でもまったく構わないでしょうが、学習用対訳書ならば、もう少し気を遣ってもらえればと感じます。過大な要望でしたらすみません。
それに「「おお!」と唸る声を耳にしたときも」の「ときも」ですが、これだと学習者はこの訳語に対応する原語「da」が副文を構成する接続詞だと思ってしまいます。しかし原文では「da hörte er」となっていて、da は接続詞ではなく副詞だとわかります。そのようなわけで、「〜したときも」という訳は誤解を招きやすい訳だと思います。何らかの形で「その時、〜した」と訳したほうが望ましいでしょう。
同学社注釈版については、これぐらいにしておきます。
新潮版
次の訳文中には多くの補足があります。丸括弧がその補足部分です。「ドアが (内側に) すっかり開かれても、彼 (の姿) は (ドアのうしろになっていて) 最初は (外からは) 見えなかった。彼はまずゆっくりと (ドアの開かれたほうの) 翼板を伝って (前に) まわらなければならなかった」。読者が情景を思い浮かべやすいように配慮されているのですね。
支配人についての描写で、風が吹きすぎるような声を聞いたあとの訳文は、原文では一つの文であるところを、訳文では細かく切っていくつもの複数の文に直しているのがわかります。読むほうにとって理解が容易になるとともに、きびきびとしたリズムが出ています。ただし逆に言うと、長い、一続きの語りが分断されて、原文にあるまったりとした感じが消えてしまっているとも言えますが。ちなみに、このあとの母親についての描写でも、同様のことが言えます。
岩波版
ここでもドアを回り込む描写に補足が多く加えられています。ただしこの岩波版ではドアは外開きであると書かれているのに対し、先ほどの新潮版では内開きとなっていました。どちらなんでしょうね。私にはちょっとよくわかりませんが、たぶん内向きに開いているのではなかろうかと思います。Samsa の姿がまだみんなに見えないのは、彼が内に開いたドアの陰になっているためであり、回り込まねばならないのもそのためだろうからです。まぁ、はっきりしたことはわからないのですが。小説の中のどこかでこのドアが内開きなのか外開きなのか、書いてあるところがあったかもしれません。
白水社版
例により、かなりあちこちで訳を省略しているのがわかります。それがどこであるかは一々言いません。新潮版、岩波版では補足が多かったのと反対ですね。それに意訳風の言い換えもところどころ見られます。これも一々言いません。そしてここでも原文にない改行が加えられています。これも一目瞭然なのでどこなのかは言いません。
それにしても自由自在な訳ですね。自然で軽快な訳です。しかし神経質なところのある Kafka がこの翻訳を知ったら、どう思うでしょうね。「読みやすくしてくれるのはありがたいが、もうちょっと細かく訳してほしい」と Kafka なら言いそうに思います。単なる想像ですが。
光文社版
ここでも長い一つの文を、短い複数の文に直して訳出しているのがわかります。どこがそうなのかはやはり指摘しませんが。
なお、この訳文はこれまで引用した訳文と、次に引用する角川版を含めた訳の中で、一番ノーマルな感じが個人的にはします。あくまで主観的な印象ですが。
角川版
この訳文で私が気になったのは次の箇所です。すなわち「彼にも相手の姿が見えた。つまり、こいつが扉に一番近いところにいたわけだ」。ここの「彼」、「相手」、「こいつ」が誰のことを指すのか、一読しただけでは私にはわかりませんでした。読み直してみてようやくわかった次第です。というわけで、理解力のない私が一番悪いのでしょうが、それでもここの訳文は各代名詞が誰を指すのか、もう少しわかるように訳したほうがいいと思います。
終わりに
全体を振り返ってみて印象に残ったのは、二つの注釈書が学習者向けの対訳書にもかかわらず、二つとも比較的原文から離れた訳を提示しており、原文を綿密に読み解きたい学習者にはあまり親切にできていない、というものでした。
それと、もちろんというべきか、白水社版の訳が一番個性的だったということです。「超訳」とは言いませんが、そちらに寄った訳ですね。評価が分かれるだろうと思います。個人的に感じるのは、この訳は小説を、あるいはそこで語られる話を楽しむぶんには他に比べて一番いい訳ですが、じっくりと深く読み込みたいという人にはちょっと物足りなく感じます。
では、じっくり読み込みたい人には他のどの訳が一番いいのだろうかというと、う〜ん、私にはよくわかりませんね。一見二つの注釈書がそのためには相応しいだろうと予想されますが、今回それらの訳文を見てわかるように、これら注釈書の訳文はそれほど細かい訳文を提供してくれていませんので、深く細かく読むのには案外向いていないように感じます。やはり、こう言っては身も蓋もありませんが、原文そのものを自分で読みながら、ところどころ不明な箇所は諸訳を参照するというのが一番いいかもしれません。まぁ、当たり前のことかもしれませんが。
とりあえず、今日はこれで終わりにします。いつものように、誤字や脱字、誤解や無理解や勘違いなどがあったことだと思います。それにまた、逐語訳にも誤訳や悪訳があったことだと思います。これらすべてにお詫びしなければなりません。大変すみません。お許しください。最後に、訳者の先生方のお仕事はとても参考になりました。おかげで勉強になりました。誠にありがとうございました。