目次
0. はじめに
大変お待たせ致しました。ここまで語学の話が続きましたので、一回休息を入れ、本日は、西洋哲学史上における、皆さんご存じのエピソードに関して、話をします。
Berlin 大学で Arthur Schopenhauer が自分の講義時間をわざと Georg Wilhelm Friedrich Hegel の講義時間にぶつけ、Hegel の講義は満員御礼の大盛況だったのに対し、自分の講義には学生がほとんど集まらず、講義対決で惨敗を喫したという話はよく知られていると思います。
しかしなぜ Schopenhauer は負けたのでしょうか。その理由はわかり切っているでしょうが、おそらく Hegel の方は有名で人気があったのに対し、Schopenhauer の方は無名の若者で、元々人気なんてなかったから、ということになると思われます。
けれども、それ以外にも理由があったかもしれないと私は思いました。それは当時の大学の制度からくる理由です。つまり当時の大学の制度も副次的な原因となって Schopenhauer は Hegel に負けたのではないか、ということです。
そこでこの推測・仮説を検証するために、私はいくつかの文献を調べてみました。その結果判明したのは、どうも私の推測・仮説は当たっていないようだ、ということです。なんだかつまらないですね。やはり真相は二人の人気の差によるものであり、制度が原因ではなさそうです。まるで新奇性のない結果ですみません。
というわけで、おそらく二人の勝敗を決したのは主として人気の有無であり、制度はあまり関係なさそうなのですが、そうは言っても、私がどんな仮説を立てたのか、そして調べた結果、どんな具合にその仮説が否定されたのか、それを以下に簡単に記して、皆様の参考に供してみようと思います。18, 19世紀のドイツの哲学を元に自らの哲学を展開されているかたにとって、何か得るものが少しはあるかもしれません。
なお、これ以降の私の話はすべて暫定的なものであり、推測に推測を重ねたものでしかありません。そもそも私は Schopenhauer の専門家でもないですし、Hegel の専門家でもありません。それに、不勉強なことに、二人の伝記本の類いも読んだことがありません。また、ドイツの大学史の専門家でもありません。そのため、私には知らないことが多く、以下に記す話では、私が何か勘違いしている可能性もあります。よくわかっていない者による、はなはだ不確かな話として眉に唾を付けつつお読みください。間違っていることを書いておりましたらごめんなさい。前もってお詫び致します。
さて、まず初めに私の立てた仮説を説明抜きで提示します。それからその仮説の内容を説明します。そのあとでその仮説が成り立たないだろうと思われる理由を示します。
1. 仮説
私は次のような仮説を立てました。
Schopenhauer が Hegel に講義対決で負けたのは、人気の有無だけではなく、大学の制度からくる理由もあったのではないか?
当時 Hegel は正教授でした。そして対決の際、彼は正講義を開いていたと考えられます。一方、Schopenhauer は当時私講師でした。そしてその対決の際、彼は私講義を開いていたと考えられます。
ところで正講義は学生に対し無料で開講されるものです。一方、私講義は通常有料です。
よって学生は、お金を出して聴く私講義よりも、ただで聴ける正講義に出る方を優先するでしょう。
また正講義はいわば「必修科目」に当たるのに対し、私講義はいわば「選択科目」に当たるものでした。だから学生は私講義に出るよりも正講義に出る方を優先せねばならなかったでしょう。
まとめます。
学生にとって正講義は無料の「必修科目」、私講義は有料の「選択科目」でした。従って学生は、受講する講義に人気があろうがなかろうが、自然と正講義に多くが流れ、私講義には足が向きにくかったでしょう。ところで Hegel は問題の時期、正講義を開いていたと考えられます。一方、Schopenhauer は問題の時期、私講義を開いていたと考えられます。すると Hegel の講義に学生が集まりやすくなり、Schopenhauer の講義には学生が集まりにくかったでしょう。こうして人気の有無とはまた別に、制度上、講義対決では当然のごとく Hegel が勝ち、Schopenhauer が負けるという結果になったのではないでしょうか?
以上が仮説です。
2. 仮説の説明
次に、上で述べた仮説の内容について、注記してみます。
正教授と私講師
Berlin 大学で Hegel と Schopenhauer の対決が見られたのは1820年のことでした *1 。この時 Hegel は正教授 (ordinarius) でした *2 。そして対決の際に Hegel が講義していたのは正講義 (publica) であったと思われます。ただし正教授が私講義 (private) を開くこともよくあったので *3 、その時、間違いなく正講義をしていたとは断言できないのですが、まぁ、正講義をしていたとしておきましょう *4 。(この点については詳しく調べればわかるでしょうが。)
一方、Schopenhauer はこの時、私講師 (Privatdozent) でした *5 。そして開講していたのは私講義だったはずです。私講師は学則上、正講義を開くことはできず、開くとすれば私講義だけだったでしょうからです *6 。
さて、正教授と私講師の違いですが、当時、正教授は国家の官吏 (Beamte) でした *7 。それは今の国家公務員に当たります。 Berlin 大学の正教授でいえば、Preußen の官吏になります。そして正教授は正講義を開講する義務を負っていました *8 。この義務を果たすことにより、国家から俸給 (Gehalt) をもらい生活していたわけです *9 。
これに対して私講師ですが、こちらは国家の官吏ではありませんでした *10 。私講師は国家に雇われているのではないのです。私講師は誰かに雇われているというよりも、教授する認可を学部からもらって教壇に立っており *11 、いわば「自営業者」と考えられます。私講師は、教授資格を取得した学部で教える権利を持ち、この権利の行使を学部から許可されて、学生に対し私的に教え、対価として謝礼金・聴講料 (Honorar) を得ていました *12 。私講師は、大学という公的な権威のもとで、私的な活動として私講義を開いていたのです *13 。
次に正講義と私講義の違いです。それには受講料の違いと、科目の性格についての違いという、二つの違いがあります。
受講料
まず受講料についてですが、正講義は学生に対し無料で開講されていました。正講義は学生から聴講料を取らずに無料でするものであり *14 、正講義を開く正教授は俸給を国からもらっていました *15 から、その講義を無料で学生に提供することができたわけです。
これに対し、私講義は、受講料に関しては、学生から聴講料を取って開かれていました。このことはよく知られていると思います。ただし、私講義が無料で開講されることもあったようなので、私講義ならすべからく有料だ、とは即断できません *16 。しかし、それでもおそらく多くの場合、私講師の開講する私講義は有料であったろうと思われます。というのも、やはり私講師は、資産家の生まれなどでもなければ多くの場合経済的に不安定であり *17 、集まってくる学生の聴講料が頼りで *18 、生活面でサポートがなかったでしょうから、講義は有料で開講しなければならなかったと思われるのです。少なくとも19世紀前半ぐらいまでは、私講師は助成金の類いをもらうことはなかったようですから *19 、聴講料頼みだったと思われます。なお、Schopenhauer は対決当時、経済的に先ゆきに不安を感じていたようなので *20 、彼は資産家の生まれであったとはいえ、自分の講義を無料で開講したのではなく、普通に有料で開講していたと考えられます。(それにプライドの高い彼のことですから、ただで講義したとはちょっと考えにくいように思います。まったくの推測ですが。)
ポイントをまとめますと、学生にとって、正講義は無料で、私講義は通常、有料だった、ということです。
科目の性格
今度は正講義と私講義の、科目としての違いについて述べます。
当時、学位の取得に際し、聴講する必要があったのは正講義でした。言い換えると、学位の取得には私講義は関係なかったのです *21 。私講義をいくら聴いても駄目で、正講義を聴かなければ学位が取れなかったようです。
また私講師の私講義は、学生教育の中心には位置付けられていませんでした *22 。私講義は正講義に対する補助的で二次的な科目として教えられていたのです *23 。
ここでもポイントを述べますと、以上により学位を得ようとする学生にとり、正講義はいわば「必修科目」であり、私講義はいわば「選択科目」に相当した、ということです。
さて、そうしますと、対決当時、Hegel は正講義をしていた可能性があり、Schopenhauer は私講義をしていたとするならば、学生にとって正講義は無料の「必修科目」、私講義は有料の「選択科目」だったので、仮に Hegel が無名だったとしても、学生は自然と無料の「必修科目」をやっている Hegel の講義に集まり、有料の「選択科目」をやっている Schopenhauer の講義には集まりにくかっただろうと考えられます。こうしてこのような制度的理由も働くことで Schopenhauer は Hegel に負けたのではないでしょうか?
3. 仮説に対する反論
ここまではいかにももっともらしい話に聞こえます。しかしさらに調べを進めると、上のような仮説はあまり説得力がない話だとわかってきます。以下でこの点を説明してみましょう。二つ、述べます。一つ目は「必修科目」としての正講義について、二つ目は私講義の聴講料の支払いについてです。
「必修科目」としての正講義
正講義は「必修科目」に当たると私は言いました。しかし学生は皆、正講義は「必修」だからと言って本当にどれもこれもその講義に出席しなければならなかったのでしょうか? これが問題です。
このことについては下記の書籍から示唆を受けることができます。少し長い文章ですが引用してみます。この文章を読めば、上の問題に対する答えも自ずからわかってきます。
・ 中山茂 『帝国大学の誕生』、講談社学術文庫、講談社、2024年、原本1978年。
なお、この書の原本はちょっと古く、以下の引用文の内容はアップデートする必要があると思います。また、その引用文では過去のドイツの大学制度の様子が記されているのですが、過去のいつ頃のことなのかが文中ではっきりと記されていません。文脈から推して19世紀ごろのドイツの話だとはわかります。しかしそれ以上はわかりません。また、ドイツはドイツでも、どの領邦の話をしているのか、どの大学の話をしているのか、これも文中に記されていないため、まったくわかりません。ドイツの大学の制度は時期により、領邦により、大学により、違いがありますので、時と所が特定できなければ正確な話はできず、以下の引用文は十分正確なものとは言えないのですが、それでもとても示唆的な文章ですので引用してみます。原文にある注は省いて引きます。
さて、当時のドイツの大学には明治期日本の帝国大学にはない特徴が二つあったそうです。一つは、ドイツの大学生には「修学の自由」がありました。もう一つは、ドイツの大学の教師には「教授の自由」がありました。このうち前者について、引用文により、説明を聞いてみましょう。
私は知らなかったのですが、当時のドイツの学生はこんなにも自由だったんですね。ちょっと驚きました。「ないないづくし」ですね。単位、試験、成績、学年制、進級、及第、落第、卒業、在学年限、講義への出席制限、全部なかったんだ。「本当なのか?」と思ってしまうんですけれど。なんだか好き勝手し放題という感じです *24 。
今の引用文にもありましたが、ちゃんとした修学メニューがないということは、現在の日本の大学カリキュラムのように、そんなにはっきりとした「必修科目」と「選択科目」の別もなかったのかもしれません。
また、学位の取得もなんだか重要視されていないようで、必ずしもその取得を全学生が目指していたわけではないように感じられます。とすると、たとえ正講義が学位取得のための「必修科目」だったとしても、皆が皆、その講義に出る必要はなく、学位の取得を考えていない者は特に正講義への出席を優先せねばならなかったわけではなさそうに見えます。
こうなると、1820年当時、Hegel が正講義をしている時に Schopenhauer が私講義をぶつけて惨敗を喫したのは、前者が「必修科目」だから受講者が集中し、後者が「選択科目」だから受講者があまり足を向けなかった結果である、とは言えないように思われます。
私は当初、両者の勝敗に正講義と私講義の別が、「必修科目」、「選択科目」の別により、影響したのではないか、と推測したのですが、その別が少しは影響したかもしれないものの、それほど大きな影響は与えていないかもしれず、ちょっと深読みしすぎたかもしれません。これにより、私の仮説の一角が崩れたと言えます。
私講義の聴講料支払いについて
次に、私講義の聴講料の支払いを通して、私の当初の仮説が正しかったかどうか、と言うよりも、その仮説があまり当たっていない可能性があることについて、述べてみます。
学生にとり、正講義は無料なのに対し、私講義は通常有料だったので、これが問題の対決に際し、私講義を講じていた Schopenhauer に不利に働いた可能性があると、私は当初、推測しました。確かに上の引用文中で私講義の聴講料は「ばかにならない」と言われています。そうすると学生としても私講義を何でもかんでも聴くわけにはいかず、限られた数の私講義にしか出席しなかったと思われます。無名で人気もなかったであろう Schopenhauer の私講義も、聴講料のことを考慮して、はなから受講を敬遠する学生も多々いたかもしれません。しかしこれは本当にそうなんでしょうか?
次の文献を読むと、学生の側が聴講料を考慮することは、ことによるとあまり問題ではないケースもありうることがわかります。聴講料がかかるから私講義に初めから出ないとは限らない、ということです。聴講料がかかっても学生が私講義に最初から出ることがある、ということです。
・ 高木貞治 「回顧と展望」、底本『近世数学史談』、岩波文庫、岩波書店、1995年8月18日第1刷発行、青空文庫、<https://www.aozora.gr.jp/cards/001398/files/50907_41899.html>、
この回想録の中ほどで、高木先生は
「1900年に私はゲッチンゲン大学へ参りました.当時,ゲッチンゲンでは,クラインとヒルベルトの二人が講座を有っていた.」
と述べておられ、そしてこの回想録の終わりから 1/3 辺りで以下のように記しておられます。
「それから,話は前後になるが,クラインの事を少しお話したい.クラインの講義は当時非常な人気であった.あの頃のドイツの大学の制度は,講義は自由に聴くことになっていて,聴く講義だけは聴講料を払う.その聴くか聴かぬかを決めるためには,初め六週間位は只聴いていていい.その裡に,いよいよ聴こうと決心したら,聴講料を払う.こういう制度であった.クラインの講義を聴くと非常に面白いが,実は白状すれば,聴講料を私は一度も払わなかった.だいたい六週間位聴いてやめてしまう.それで十分であったのである.」
おそらくここで高木先生が言っておられる「講義」とは私講義のことだろうと思われます。というのは、正講義は元々無料のはずだからです。そうであれば私講義の聴講料は、講義開始前や開始時に支払うものではなく、講義開始後、一定期間を経てから支払うものだったということになります。
高木先生のこの話は1900年ごろの Göttingen 大学でのことであり、1820年の Berlin 大学の話ではないのですが、両大学の講義システムが大体同じであったとするならば、Schopenhauer の私講義も、初めから聴講料を支払う必要はなく、聴講生が「お試し期間」中に「これは面白い講義だな」とか「この講義は最後まで聴くに値するものだ」と感じたならば、そこでようやく聴講料の支払い手続きに入る、ということになったものと思われます。ですから Schopenhauer が Hegel に惨敗したのは、もしかすると Schopenhauer の私講義開始時から既に閑古鳥が鳴いていたかもしれませんが、あるいは開講時には多数の聴講者が集まったものの、聴講料をそろそろ支払わなければならない二ヶ月目ぐらいにはごっそり聴講者が減ってしまい、閑古鳥が鳴いた結果だったのかもしれません。
いずれにしても、私講義が有料だったとしても、前払い制ではないのだから学生が初めから講義を敬遠するとは限らず、注目すべき私講師が登壇するということであったり、注目すべきテーマが壇上からレクチャーされるということでしたら私講義であっても講義開始当初ぐらいは学生が集まったかもしれません。そして講師の人柄がよかったり、講義内容が魅力的だったならば、その後もずっと学生を引き付けて講義に出席してもらえたかもしれません。しかし Schopenhauer が蹉跌をきたしたということは、たとえ無料の「お試し期間」があっても、人柄や講義内容で学生を引きつけることができなかったことを意味しているのでしょう。
なんにせよ、高木先生の話から、私講義が有料だからといって、直ちに初回から学生が集まらないと即断することはできない、ということです。少なくとも「お試し期間中」は「集客」を見込めるのであり、この期間に学生に対しうまくアピールできれば学生を引き止めておくことができたはずでしょう。従って、Hegel に Schopenhauer が負けた原因として、後者が有料の私講義を開いていたからとすることは、必ずしも決定的な敗因にはならないものと思われます。これにより、またしても私の仮説は説得力を減ぜられました。
4. まとめ
振り返りましょう。1820年の Berlin 大学における Hegel と Schopenhauer の講義対決で前者が勝利し、後者が敗北を喫した話はよく知られていると思います。一般には Schopenhauer の敗因は彼が無名の若者であったことによると考えられていることでしょう。
しかし私はそれ以外の要因が働いていたのではないかと推測しました。それは制度的要因とでも言えるものです。
当時 Hegel は正講義を開いていたと思われます。一方 Schopenhauer は私講義を開いていたはずです。正講義は無料の「必修科目」、私講義は通常有料の「選択科目」だと考えられます。すると当然学生は自然と正講義に集まり、私講義にはあまり集まらないという結果になるでしょう。これがために Schopenhauer は負けたのだ、負けるべくして負けたのだ、と私は推測しました。
けれども調べを進めると、正講義と私講義の性格が学生の「集客」に影響を与えたことは、ままあるかもしれないものの、それは勝敗を決定する要素ではなかったらしいことがわかってきました。
というのは、正講義がある種の「必修科目」であり、私講義がある種の「選択科目」であったことは確かですが、当時のドイツの大学での修学は極めてルーズであったようで、学位取得を目指すのはたぶん一部の学生だけであって、それ以外の者には必修、選択の別はほとんど関係なかったと思われるからです。従って講義の種類の違いが教師に対し、「集客」上、有利に働いたり不利に働いたりすることは少なかったと考えられます。
加えて、正講義が無料で私講義が有料であったことも Schopenhauer にハンデとなっただろうと私は推測しましたが、これについても留保が必要なようだとわかりました。
というのは、私講義は普通有料ですが、どうやら前払い制ではなく、「お試し期間」後に払うものだったようであり、その期間は大盛況ということもありえなくもなく、講師も講義も魅力にあふれたものならば、「お試し期間」を過ぎてもそれなりに受講者数を確保できた可能性があると考えられます。こうして聴講料が前払い制ではないならば、私講義を開いていた Schopenhauer に、無料の講義を開いていた Hegel 有するアドバンテージを、ひっくり返せないこともないだろう、と思われます。
以上から、Hegel vs. Schopenhauer において、後者の敗因は無名であったこと以外の制度的要因が大きかったのではないか、という私の推測はそれほど説得力のあるものではないとわかりました。「なんだ、結果、元に戻って無名だったことが Schopenhauer の主要な敗因だったことになるわけだ。振り出しに戻っただけじゃないか」と言われれば、そのとおりで、大変すみません。哲学的にはおそらく何も重要でなく、哲学史的にも目新しい発見のない話で終わってしまい、ごめんなさい。
まぁ、けれども、哲学史上の有名な逸話も、ただ「面白い話だな」ということで終わらせることなく調べを進めるならば、その哲学や哲学者の背景が詳しく知れて、彼ら彼女たちの考えについて理解が深まるきっかけにはなるのではないでしょうか。こじつけがましい結論ですが。
5. 補遺 教授の自由
話を終える前に補足を入れておきたいと思います。
19世紀ごろのドイツの大学には二つの特徴があったことを、中山先生のご高著により、本文で触れました。一つは、ドイツの大学生の「修学の自由」であり、もう一つは、大学教師の「教授の自由」でした。後者について本文では詳しく触れませんでしたので、ここで先生のご本からその説明文を引用し、私の方で一言添えたいと思います。早速引用してみましょう。
この引用文は誤解を招きやすいところが少なくとも二つあります。それぞれについて、一方は詳しく、他方は簡単に述べてみます。
まず一方の部分は次です。
私講師というものは、
「新しいテーマ、新しい学問について、好きな大学を選んで自由に講ずることができる」。
このように書かれていると、いつの時代であれ、私講師は誰でも、好きな大学に行って、好きなことを講義できるかのよう読めてしまいます。これは「少しも真実を含んではいない」とは言いませんが、かなり実態からかけ離れていると思います。
確かに私講師が自由を享受できた時期や大学があったのは事実です。
たとえば、
・ 別府昭郎 「18世紀ドイツ大学PROFESSOR考」、『大学論集』、第24集、広島大学、1995年、第三章第五節、
を読むと、18世紀の Göttingen 大学では私講師の教授活動がかなり自由に認めていたようです。(今挙げた文献はインターネットを通じ、無料で読めます。)
しかし普通、「私講師」という言葉でイメージするこの教師の実態は、その自由がかなり制限されたものだったと思います。いつでもどこでも好きなようにできた、というわけではないのです。
私講師の制度がいつから始まったのか、これについては、この種の事柄に関する専門家の間でも意見の相違があるようですが *25 、今私たちが検討したい私講師制度の時期を19世紀と20世紀の前半までとしても *26 、この間にこの制度は重要な変化をいくつか被っています。
Berlin 大学ができたのは1810年のことですが、19世紀前半頃には私講師が各大学・各領邦を渡り歩くことが次第にできなくなり *27 、自分が教授資格を得た学部でしか教えられなくなりました *28 。というのも、段々私講師の数が増え *29 、できるだけ効率よく聴講料を稼ごうと思えば学生数の多い Berlin 大学のような大きな大学へ向かうほうがいいので、そのような大学に私講師が集中するようになり *30 、すると私講師が集まる大学に元からいた私講師は、自分たちの学生が奪われるので、両者の間に摩擦が生じる結果となったのです *31 。そのうちこの摩擦を解消するため、私講師が私講義を開くことができるのは自分が教授資格を取得した学部に限る、ということになったのです。
というわけで、当初は大学を渡り歩くこともできたようですが、私講師はその後、教授資格を取得した学部でしか教えられなくなり、それでもよそで教えたいのならば、新たに教えたい学部で教授資格を取り直す必要がありました *32 。
しかしこれとても簡単なことではないようで、しかもその際「なぜまた新たに取り直すのか、前の学部で何かトラブルでも引き起こしたのか」というように、いぶかしがられることもあったみたいです *33 。
こうして、上の中山先生の説明は私講師制度史の途中までの話であって、少なくともいつでも「好きな大学を選んで自由に講ずることができ」たわけではありません。一般には職場を自由に選ぶことは難しかったのです。
ここで一つの挿話を入れたいと思います。20世紀に入ってからの例ですが、今先ほど述べた話に関連して、私講師が改めてよその大学で教授資格を取り直すことに伴う困難と、私講師の数が増え過ぎて、私講師が言わば常勤職にスムーズに就くことができなくなっている状況を、実例を挙げて見てみましょう。
次の文献、
・ アルフレート・デンカー編 『ハイデッガー=リッカート往復書簡 1912-1933』、渡辺和典訳、知泉学術叢書 35、知泉書館、2025年、
における書簡「22 ハイデッガーからリッカートへ フライブルク,1917年1月27日」の中で、M. Heidegger は今いる Freiburg からよその大学に移りたいと思っている旨を師匠 H. Rickert に伝え、たとえば師匠のいる Heidelberg などなどを移籍先として考えてみた、とつづっています。
これに対する返信「23 リッカートからハイデッガーへ ハイデルベルク,1917年2月3日」の71-72ページでは以下のように記されています。Rickert は教え子 Heidegger に向かって言います。
引用文中の角括弧「[ ]」は引用者によるものです。いささか引用者の解釈が入り過ぎているかもしれません。そのようでしたらすみません。
このような具体例からもわかるとおり、私講師といっても中山先生が述べるほど好きなところで教授できるような自由が確保されていたわけではないのですね。
閑話休題。
今の挿話の前で、私講師というものは、「新しいテーマ、新しい学問について、好きな大学を選んで自由に講ずることができる」という中山先生の発言を引き、私講師が好きな大学を選ぶことは一般的でも簡単なことでもなかった旨を、私は指摘しました。
さらに今の先生の発言において、先生は「新しいテーマ、新しい学問について」、私講師は「自由に講ずることができる」としておりますが、これもちょっと言いすぎだと思います。
そもそも私講師の教授資格試験を請求する者は、初めに請求先の学部長にそのための論文と、教授を希望する学問だか分野だかテーマだかを申請する必要があり、最終的に教授資格を得られたあとも、私講義を開く際には、その申請したテーマしか教えてはならないことになっていました *34 。
もちろん、このルールを運用するにあたっては、ひょっとすると多少の融通が効いたかもしれません。けれども一応、好きなことを許可なく教えてはいけなかったのです。この点も、中山先生の説明は、それが当てはまる時期や学部もあったかもしれませんが、あまり一般ではないと思われます。
さて、中山先生の長い引用文には誤解を招きやすいところが少なくとも二つありますと、上で述べました。二つのうち、一つ目の話はこれでお終いです。そこで今度はもう一つの方を簡単に説明してみましょう。
中山先生の話で気になったのは、上の引用文後半に見られる次の記述です。
「大学の教授会が、私講師にその大学で講義することを許す許認可権をにぎっており ... 」。
この部分も正確とは言えないと思います。一般には、正しくは
「学部の教授会が、私講師にその学部で講義することを許す許認可権をにぎっており ... 」、
と書くべきだと思います。
大学ではなく、むしろ学部が許認可権を有しているのです *35 。中山先生が言うようなケースも、もしかすると例外的にあったのかもしれませんが、私講師に教授を許可するか否かは学部の専権事項でした。この件については、大学全体だとか、ましてや国・領邦が関与できることではありませんでした *36 。
ちなみに、私講師制度は、のちに職場の選択に制限がかけられるというような、重要な変化を被りましたが、この他にも大きな変化がありました。
私講師に対しては、学部が言わばその生殺与奪の権を握っていました *37 。従って、つい先ほど述べたように、私講師の教授許認可については「国・領邦が関与できることではありませんでした」。しかし Preußen では19世紀末に、学部を差し置いて、国・領邦が私講師の教授資格を剥奪できる法律が作られ、施行されるようになったのです。いわゆるアロンス法のことです *38 。この法律については私は詳しくないのでほとんど述べませんが、この法律は、領邦から見て、気に入らない政治信条の持ち主である私講師を辞めさせるために作られたものです。私講師は言わば「自営業者」のようなものであり、学部の許可を得て、その学部で「営業活動」をし、聴講者から謝礼金をもらって生活していました。そのため領邦とは雇用契約を結んでいないにもかかわらず、また領邦から俸給を出してもらっていないにもかかわらず、その法律は領邦が私講師を罷免可能とするので、この法律はその成立の際に激しい論争を引き起こしました *39 。
このような法律ができたことからもわかるとおり、中山先生の話ではあたかも私講師がいつの時代でもフリーハンドの自由を享受していたかのように読めるものの、本当はそんなに自由ではなかったと言えるでしょう。
なお、アロンス法を含め、19世紀から20世紀のドイツにおける大学制度や大学における人事問題については、以下の野﨑敏郎先生の研究が非常に詳しく説明、解明しており、大変参考になります。書誌情報を一部「圧縮」して記します。
・ 「《闘争する人格》と大学問題 (1~5) 『職業としての学問』をいかに読むか」、『佛教大学社会学部論集』、第63~65, 67, 69号、2016~19年、
・ 「『職業としての学問』と大学闘争の新しい課題 野口雅弘の「新訳」をめぐって」、『佛大社会学』、第43号、2018年、
・ 「マックス・ヴェーバーにかかわる二つの人事の実相 (1~4) フライブルク大学移籍とハイデルベルク大学正嘱託教授案件」、『佛教大学社会学部論集』、第72~75号、2021~2022年、
・ 「マックス・ヴェーバーのフライブルク大学移籍をめぐって 人事の実相への補遺」、および「同 (その2)」、『佛教大学社会学部論集』、第76~77号、2023年3~9月、
・ 「アルトホフのラーバント招聘工作 独裁的官僚カリスマの挫折と転機」、『佛教大学社会学部論集』、第78号、2024年3月。
これらはすべてインターネットを通じ、仏教大学の学術リポジトリから無料でダウンロード可能です。
またこれら以外にも、先生のご高著でも情報が得られます。今回の私の話を書く上で、これらすべてを暗に参考にさせていただきました。私の話のどこが先生のどの文献の何ページ目と関係しているのか、いちいち記しませんが、大変勉強になりました。本文中で何度も触れた別府先生のご本とともに、昔のドイツの大学制度を知る上で極めて有益でした。誠にありがとうございます。念のために書き加えておきますと、私が先生方の文献を誤解、誤読している可能性もあります。そのようでしたらお詫び申し上げます。
6. 終わりに
長くなりましたので、これで終わりにします。誤字や脱字、誤解や無理解、勘違いがありましたらすみません。どうかお許しください。
最初にも述べましたが、本日の私の話はすべて暫定的なものです。今日の話題のどの点についても専門的に勉強しているわけではない私による当座の話にしかすぎません。私の記述は、ドイツ語で書かれた一次文献に当たることなく、主に日本語で書かれた二次文献だけを頼りに書いた「受け売り」に他なりません。今回の話にはたくさんの推測が含まれていますので、間違いも必ず含まれているはずです。詳細な検証を経て、初めて正しいと言えることばかりですので、そのまま素直に信じてしまわないようにお願い致します。
とにかく、当時の大学における修学の様子が、中山先生のお話しにあるように、 極めて自由放任、放埒、放縦であったならば、私の当初立てた仮説は説得力を欠くでしょうね。(けれども、中山先生のお話しほど、当時の学生が野放しでなければ、私の仮説も多少は信憑性も増すのでしょうが。)
*1:Robert Wicks, ''Arthur Schopenhauer,'' in The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Spring 2024 Edition, Section 1. Life: 1788–1860.
*2:別府昭郎、『大学改革の系譜 近代大学から現代大学へ』、東信堂、2016年 、202ページ、注14。以下、この本への言及は「別府」と略記します。ちなみに本書は中世から現代に至るドイツの大学制度の変遷を追ったものです。また、本書では繰り返しが大変多く、同じ説明があちこちに散らばっています。同じ内容の説明が同書にあれば、気付いた限り、この注ですべて言及・明記するように努めましたが、網羅的にはピックアップできているわけではありません。この点、ご了承ください。
*3:別府、28、186-187ページ。17世紀または17世紀後半からの話としては39、49ページを参照のこと。
*4:なお、次のようにも言えました。正教授が正講義を開くのは義務であり、はずすことのできない活動でしたが、正教授が私講義を開くこともありました。むしろ正教授たちが私講義を開講することにあまりにも熱心で、正講義をおろそかにし、私講師もしくは私講師に相当する私的教師 (praeceptores privati, magister privatim legentes) の「なわばり」を荒らし、私講師たちを圧迫し、対立が先鋭化したほどです (別府、29ページ。やはり17世紀または17世紀後半からの話として、別府、39、49ページを参照)。どうして正教授が私講義の開講に熱心だったかというと、私講義をたくさん開き、たくさんの学生が聴講すれば、謝礼金がたくさん得られたからです。別府、186ページを見ると、正教授が有料の私講義を開講している時間帯に、私講師が同じ題目を持った無料の私講義を開講してはならない、という学則が1830年の Berlin 大学哲学部にあったことが記されています。正教授が独占的により多くの利益を確保するために、このような学則があったようです。(別府、当該ページ参照。また29ページも参照。)
*5:別府、202ページ、注14。
*6:別府、28ページに17世紀の場合ですが、正講義は正教授が開くものと述べられています。
*7:別府、192-193、197ページ、201ページの注12。
*8:別府、28、85-86、93ページ、201ページの注12。
*9:別府、85、93、187ページ。
*10:別府、184-185、192-193、197-198ページ。
*11:別府、86、184-185、195-197ページ。
*12:別府、198ページ。
*13:別府、85-87、196、198ページ。
*14:別府、28、85-86、93ページ、201ページの注12。
*15:別府、85、93、192-194ページ。
*16:別府、157、186ページ。
*17:別府、78ページでは、普通、大学教授志願者である私講師は、制度上、長期の無収入に耐えねばならなかったと述べられています。および188ページも参照。
*18:別府、199ページ。
*19:別府、199-200ページによると、1845年以降になってから、Berlin 大学では有能で経済的に困っている私講師にお金が支給されるようになり、また1875年以降になってから、Preußen では私講師のために助成金が出るようになりました。
*20:Wicks, ''Arthur Schopenhauer,'' in the SEP, Section 1.
*21:別府、86-87、186、198ページ。
*22:別府、187-188、198ページ。
*23:別府、187-188、198ページ。
*24:ただし、「試験がない」とはいえ、学位を取得しようとする学生には、学位取得のための試験が行われたので、試験が一切ないのではなく、いわゆる「定期試験」の類いがなかった、ということでしょうね。学位取得に試験が課されたことについては、別府、157, 160ページを参照。また、このあとの補遺で言及する次の文献、デンカー編、『ハイデッガー=リッカート往復書簡』に、M. Heidegger による、博士号を取得するための学位申請書が収録されていて、学位取得のために哲学、数学、中世史の試験を実施してくれるよう請願する Heidegger の文言が見られます (157ページ)。また彼の博士号取得のための学位論文に対する所見も同書に収められていて、そこでは学位論文が秀れた業績であることから、口頭試問を行う手続きに入るよう提言されています (162ページ)。このような例からも、大学ではいかなる試験も存在しなかったというわけではない、とわかります。
*25:別府、「第二章 一九世紀に至るまでの私講師の系譜にかんする考察」参照。
*26:なお私講師制度が普及・定着していくのは18世紀後半から19世紀初頭のようです。別府、56ページ参照。
*27:別府、184ページ。
*28:別府、71-72ページ。
*29:別府、78, 190-191ページ。
*30:別府、71, 163ページ。
*31:別府、49, 72, 164ページ。
*32:別府、71-72, 163-164, 184ページ。
*33:本文内で下記に引用する書簡を参照。
*34:別府、183, 186-187ページ。
*35:別府、71, 184-185, 195-196ページ。
*36:別府、197ページ。ただし、例外があって、Bayern と Österreich では国が私講師の人事に関与していました。別府、201ページ、注10参照。
*37:ただし、学部が私講師の教授資格 (venia legendi) を剥奪する権利は持っていませんでした。別府、196, 198-199ページを参照。
*38:別府、71, 170-171ページ。
*39:別府、179, 184ページ。