Selbstdenken, Part VI.

目次

 

はじめに

今回も Arthur Schopenhauer の Selbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読みます。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただく邦訳、その他の注意事項についてはすべて、Part I に記載されています。以下を読まれる前にまずは Part I でその種のことをご確認ください。

今日は § 263 を読みます。ただしこのセクションは長いので、3回に分けて読むことにします。今回はその初めの1/3ぐらいを見てみます。

 

ドイツ語原文

§. 263.

Zu einem Selbstdenker verhält sich der gewöhnliche Bücherphilosoph, wie zu einem Augenzeugen ein Geschichtsforscher: Jener redet aus eigener, unmittelbarer Auffassung der Sache. Daher stimmen alle Selbstdenker im Grunde doch überein, und ihre Verschiedenheit entspringt nur aus der des Standpunktes: wo aber dieser nichts ändert, sagen sie alle das Selbe. Denn sie sagen bloß aus, was sie objektiv aufgefaßt haben. Oft habe ich Sätze, die ich, ihrer Paradoxie wegen, nur zaudernd vor das Publikum brachte, nachmals, zu meinem freudigen Erstaunen, in alten Werken großer Männer ausgesprochen gefunden. – Der Bücherphilosoph hingegen berichtet, was Dieser gesagt und Jener gemeint und was dann wieder ein Anderer eingewandt hat u. s. w. Das vergleicht er, wägt es ab, kritisirt es und sucht so hinter die Wahrheit der Sachen zu kommen; wobei er dem kritischen Geschichtsschreiber ganz ähnlich wird. So wird er z. B. Untersuchungen anstellen, ob Leibnitz wohl, zu irgend einer Zeit, auf eine Weile, ein Spinozist gewesen sei u. dgl. m. Recht deutliche Beispiele zu dem hier Gesagten liefern dem kuriosen Liebhaber Herbarts »Analytische Beleuchtung der Moral und des Naturrechts«, imgleichen dessen »Briefe über die Freiheit«. – Man könnte sich wundern über die viele Mühe, die so Einer sich giebt; da es scheint, daß, wenn er nur die Sache selbst ins Auge fassen wollte, er durch ein wenig Selbstdenken bald zum Ziele gelangen würde. Allein damit hat es einen kleinen Anstand; indem Das nicht von unserm Willen abhängt: man kann jederzeit sich hinsetzen und lesen; nicht aber – und denken. Es ist nämlich mit Gedanken, wie mit Menschen: man kann nicht immer, nach Belieben, sie rufen lassen; sondern muß abwarten, daß sie kommen. Das Denken über einen Gegenstand muß sich von selbst einstellen, durch ein glückliches, harmonirendes Zusammentreffen des äußern Anlasses mit der innern Stimmung und Spannung: und gerade Das ist es, was jenen Leuten nie kommen will.

 

ドイツ語文法事項

私の話はすごく長くなるので初歩的な事項は記しません。わかりにくかったり、紛らわしかったりすること、気を付けた方がいいことだけを説明します。

Zu einem Selbstdenker: この冒頭の文は「A verhalten sich zu B, wie C zu D」という形をしていて、これを直訳すると「C が D に対するように、A は B と関係している」となります。もう少し訳し直すと「A の B に対する関係は、C の D に対する関係と同じである」、または「A と B の関係は、C と D の関係と似ている」などとなります。

gewöhnliche Bücherphilosoph: Bücherphilosoph は造語で、本好きの哲学者、本ばかり読んで自分で考えようとしない哲学者のこと。gewöhnlich は「普通の、平凡な、いつもの」などと訳されます。そこで問題の語句を仮に「平凡な書痴哲学者」と訳すと「非凡な書痴哲学者」がいるように思わせてしまいます。これはあまりよい訳ではありません。ところで gewöhnlich には「習慣的な」という意味もあるようです。この意味ならここでの文脈にぴったり一致します。実際、相良先生による博文館の『大独和辞典』にその意味が載っています。というわけで、私はここの gewöhnlich を「習慣的な」と訳してみました。深読みしすぎでしたらすみません。

Jener: Selbstdenker または Augenzeugen を指します。私訳を作ったあとで確認すると、岩波文庫版はこの Jener を Selbstdenker を指しているものとして訳し、白水社版は Augenzeugen を指しているものとし、光文社版はどちらとも取れる訳し方をしています。ただ、ここではどうして Selbstdenker が Augenzeuge と同類として分類されるのか、その理由を述べているところですので、Jener は単数形ではあるものの、両者二つを合わせて指しているものと解して訳出したほうが読者に親切かもしれません。そこで私はそのように訳してみました。

wo aber dieser nichts ändert: 私訳作成後、三つの既刊邦訳でここを確認すると、みな少しずつ違った訳を当てているようです。私は次のように解釈しました。wo は接続詞として使われる場合には三つの意味があります。つまり (1) 条件の「〜ならば」、(2) 理由の「〜なので」、(3) 認容・譲歩の「〜だが」。ここでは (2) がふさわしいと思われます。また dieser は1格で、前文の内容を指します。そして nichts は4格です。以上により、この副文は直訳すると「しかしこのことは何も変えないので」となります。これを具体的に訳し直すと「観点が違っても、観察されている対象に変わりはないので」とか「視点が異なっても、そのことで見られているものが変化するわけではないのだから」などとなります。

aus der des Standpunktes: der のあとに Verschiedenheit が省略されています。

Oft: この Oft から始まる文は、英語の SVOC 構文に当たり、特にその C が過去分詞 (p.p.) になっています。意味は「S は O が p.p. されているのを V する」。ここで S は ich で、V は完了形の habe ... gefunden、O は Sätze で、p.p. は ausgesprochen。意味は「私は文章が述べられているのに気が付いた」。そしてこの Sätze に die ich ... の関係文がかかっており、さらにこの関係文の中に ihrer Paradoxie wegen という句が挿入されています。また in alten Werken großer Männer は、問題の文章が述べられているのをどこで私が見つけたのかが言われており、zu meinem freudigen Erstaunen はその際の私の様子を描写しています。

hinter die Wahrheit der Sachen zu kommen: hinter 4格 kommen で「(4格) を突き止める」。

Recht deutliche Beispiele: この文は要注意です。まず Beispiele という複数名詞 (いくつかの例) が来ています。それから liefern という動詞 (提供する) が来ます。この動詞は、その語尾から、主語が複数形であるとわかります。そこで先ほどの Beispiele が主語だろうと思われます。その後、dem kuriosen Liebhaber という3格名詞句 (物好きな愛読者に) が来て、最後に Herbarts »Analytische ... die Freiheit« というヘルバルトの著作名が来ていて、これが目的語だろうと考えられます。以上によりこの文の意味は「いくつかの例が物好きな愛読者にヘルバルトの著作 » 〜 « と » ー « を提供する」となります。一見、これでよさそうに感じられますが「例が読者に著作を提供する」とは何のことなんでしょうか?わけがわかりません。そこでこの文を読み直してみると、これは倒置文だとわかります。Beispiele は1格主語ではなく4格目的語です。しかし目的語がなぜ前方に出ているのでしょうか? Beispiele には zu dem hier Gesagten (ここで言われていることに対する) という語句が付いています。「ここで言われていること」とは直前の文で言われていることです。そこで直前で言われていることをすぐさま引き受けるために、この語句を伴っている Beispiele が前に出て来ているのでしょう。では、主語はと言うと、それはうしろのほうのヘルバルトの二つの著作名でしょう。著作名は二つなので主語は複数形であり、これに応えて動詞 liefern も複数形の語尾をしているのだと解せます。よってこの文の意味は、大略「ここで言われていることの例を読者にヘルバルトの著作が提供している」となって、これなら話がわかります。ちなみに、実は ein Beispiel liefern という言い回しがもともとあり、「例を挙げる」という意味を持っています。このことをご存じの方は今問題にしている文に触れた時、ただちに「あ、これは倒置文だな」と気付くことができるでしょうね (私は知らなかったので、読み直すまで気付きませんでした)。なお、dem kuriosen Liebhaber Herbarts »Analytische ... における Herbarts を、当初私は前方のLiebhaber と後方の書名の両方に掛けて訳していましたが、これは誤訳で後方にだけ掛けて訳すのが正解のようです。このことは既刊邦訳から教えられました。ありがとうございます。

Es ist nämlich mit Gedanken, wie mit Menschen: これはわかりにくいかもしれません。ところで「Wie es mit A ist, so ist es mit B.」という表現があります。これは「B は A と同様である」という意味で、es は非人称主語です。今の表現を詳しく訳せばたぶん「A が在る様に、B は在る」とでもなるでしょう。mit は主題化、話題化を意味していると思われます。日本語でなら格助詞の「は」であって、「象は鼻が長い」の「は」です。なお念のために、この Wie の文の副文を後ろに回し、主文を前に出すと「Es ist mit B, wie es mit A ist.」となります。こうするとこの文がここでのドイツ語原文とよく似ていることがはっきりしますね。以上を踏まえれば、問題のドイツ語原文も大体わかると思います。それを訳してみると「つまり思考は人間と同様である」となります。

was jenen Leuten nie kommen will: jenen Leuten は複数三格で「あの人たちに」の意味。「あの人たち」とは Bücherphilosophen のことでしょう。wollen が否定されていますが、これは傾向性や見込みを表しており、「どうしても〜しない」、「〜しようにもできない」などを意味します。普通に意志や意図を表す wollen が物・事を主語にして否定文になっている時、この意味を持つことがあり、擬人法の一種です。

 

意訳

例により、自然な訳、一読してわかる訳にすることを最優先にしています。そのため、対応する原語がない訳語を訳文中に加えたり、原語があっても訳出せず訳文中から差し引いたりしている場合があります。ただしそれも原文の意味内容から離れない範囲内にとどめています。

私訳は、これも例により、既刊邦訳を参照せず、まずは自力で訳しました。そのあと自分が誤訳していないかどうか、確認するために、既刊邦訳三種類を開いてみました。私のほうに誤訳があった場合、および既刊邦訳とは異なる解釈を取った場合は、上記ドイツ語文法事項解説の欄でそれとして記しています。正しい訳を教えてくださいました訳者の先生方に感謝申し上げます。

§. 263.

自分で考える人と習慣的に濫読ばかりしている哲学者の関係は、目撃者と歴史研究者の関係に当たる。自分で考える人も目撃者も、事を自ら直接把握して語るのである。そのため自分で考える人たちはみな、根本的にはやはり意見が一致し、違いが生じるとしても、それはどこから見ているか、という違いでしかない。ただし観点が違うと言っても、それは何らの変化ももたらさないので、自分で考える人たちはみな、同じことを口にする。と言うのも、彼らは事実に即して把握したことだけを言うからだ。私は、自分の文章に逆説的なところがあるせいで、とにかくためらいながらその文章を読者の前に差し出すことがしばしばあるのだが、驚いたことに、あとになって同じことを偉大な人たちが古典的著作のなかで述べているのを見つけてうれしくなることがある。- これに対して濫読哲学者は、こっちがああ言い、あっちがこう言い、それからまた別の者が反論して、などと報告する。このようなことを彼は比較・検討・批判し、事の真相を突き止めようとする。その際、彼は批判的に歴史を記述しようとする者によく似ているだろう。たとえば彼は次のようなことを探究しようとするかもしれない。つまり、そもそもライプニッツは何らかの時期に、ある期間、スピノザ主義者であったのか、などなど、と。ここで述べたことに対しては、かなり明瞭な実例がある。それを物好きな読者のために示すならば、ヘルバルトの『道徳ならびに自然権の分析的解明』と、同じく彼の『自由に関する書簡』である。- それにしてもこんなふうに調べものをし、多大な苦労を重ねる人がいることに驚かれる方もおられるかもしれない。事柄自身それだけをこの眼で捉えたいのなら、少しばかり自分で考えてみれば、じきにその目的を達するだろうに、と思われるからである。しかしそれは少々面倒なことでもあるのだ。と言うのも、考えるということには我々の意志ではどうにもできないところがあるからである。つまり人はいつでも腰を落ち着けて本を読むことならできる。ところがその上さらに身を入れて考えようとしても、そうもいかないことがあるのだ。要するに考えることは他人のようなものなのである。他人を呼び寄せることはいつでも好きなようにできるというわけではない。他人のほうからやって来るのを待たねばならないのだ。何らかのテーマについて考えるには、おのずと考えが生じてこなければならない。それは、心の外で生じたきっかけが、心の中の高まりや気持ちと運よく調和するように出会うことによって、なのだ。そしてまさにこのことこそ、濫読ばかりしているあの哲学者たちには生じてこようにも決して生じてこないことなのだ。

 

訳文比較

今回引用した部分で既刊邦訳三種類および私訳の間で明確に違いが見られるところがあります。そこを引用し、比較してみましょう。

とはいえ、別に詳しい分析を施すわけではありません。単に「それぞれ違うなぁ〜」と、その違いを味わってみるだけです。

まず原文を引き、その部分の既刊邦訳を刊行順に引用します。そして最後に私訳を掲げます。引用文末尾の数字は訳書のページ数です。書誌情報は Selbstdenken の第一回目をご覧ください。

 

原文

注目していただきたいのは wo で始まる文です。

Daher stimmen alle Selbstdenker im Grunde doch überein, und ihre Verschiedenheit entspringt nur aus der des Standpunktes: wo aber dieser nichts ändert, sagen sie alle das Selbe. Denn sie sagen bloß aus, was sie objektiv aufgefaßt haben.

 

岩波文庫版

したがって自分なりに思索するにもかかわらず、すべての思想家の間には基本的な一致点があり、相互間の相違はただそれぞれの立場の相違から来るにすぎない。しかし立場の違いはそのままでも、彼らのだれもが同じ事を口にするばあいがある。それは彼らがただ客観的に把握したこと以外は言葉として表わさないからである。(13-14)

wo の文は「立場の違いはそのままでも、彼らのだれもが同じ事を口にするばあいがある」と訳されています。これは要するに「立場は違っていても、みんなが同じことを言うことがある」ということでしょう。dieser を「立場の違い」、nichts ändert を「立場の違いを何も変えない」、wo を認容 (〜であっても) を意味するものと訳者が解していると推測されます。

 

白水社版

だから自分で考える人はすべて、根本において一致する。その違いはただ立場の違いから起こってくるだけである。立場のために事実を曲げるようなことさえなければ、彼らはすべて同じことを言うのである。客観的に把握したことを発言するだけだからだ。(69)

wo の文は「立場のために事実を曲げるようなことさえなければ、彼らはすべて同じことを言うのである」と訳されています。これは dieser を「立場の違い」とし、nichts ändert を「事実を何も曲げない」とし、wo を条件 (〜ならば) の意味で解していると推測できます。

 

光文社古典新訳文庫版

だから、自分の頭で考える人はみな、根っこの部分で一致している。かれらの相違は、単に立脚点の違いからくる。立脚点にまったく違いがなければ、みな同じことを述べる。というのも客観的に把握したことを述べているだけだから。(17)

wo の文は「立脚点にまったく違いがなければ、みな同じことを述べる」となっています。これは dieser を「立脚点」、nichts ändert を「立脚点を何も変えない」とし、wo を条件 (〜ならば) としているものと思われます。

ただ、「立脚点に違いがなければ、誰もが同じことを述べる」というのは同語反復のように思われ、わかりきったことを言っているようで、どこか変です。立脚点が全員同一なら、誰もが同じことを述べる結果となるのは当然だと思います。しかしすべての人の立脚点が同じになることは、通常あり得ないことです。みなそれぞれ視点を異にするのが普通です。ですから「立脚点に違いがない」と想定することはかなり無理があり、それは特異な状況でしか成立しないことで、そのような稀な事例をここで想定しているとはちょっと思われません。この部分の訳が何かうまくいっていないように思われるのですが。私が誤解していましたらすみません。ごめんなさい。

 

私訳

そのため自分で考える人たちはみな、根本的にはやはり意見が一致し、違いが生じるとしても、それはどこから見ているか、という違いでしかない。ただし観点が違うと言っても、それは何らの変化ももたらさないので、自分で考える人たちはみな、同じことを口にする。と言うのも、彼らは事実に即して把握したことだけを言うからだ。

wo の文は「ただし観点が違うと言っても、それは何らの変化ももたらさないので、自分で考える人たちはみな、同じことを口にする」としています。これは dieser を「観点の違い」、nichts ändert を「何も変えない」、wo を理由 (〜なので) としています。

私の思いからすると「観点の違いは何も変えない」とは、見る視点が異なっても、見られている物事は何も変化しない、ということです。たとえば、家族みんなで飼い犬のポチが毛づくろいしているのを囲みながら談笑している時、ポチを見る家族それぞれの視点は異なりますが、そのことで見られているポチが異なるということは常識的にはないでしょう。(現象学の射影がどうのこうのとか、量子論的なミクロな世界では云々という話はまた別です。) 見ている位置が違っても家族の誰もが「ポチが毛づくろいしている」という事実を認めるでしょうから、そのような理由により、請われればこの同じ事実をみな口にするでしょう。そういうつもりで私は wo の文を訳しました。

ちなみにこの私訳を作ったあと、上記三つの邦訳を参照しましたが、それにより私訳を修正してはいません。最初に作ったままです。

 

さて、皆さんはここに挙げられたそれぞれの訳をどのように評価されるでしょうか? 私はこれ以上何も申しません。皆様なりに考えを深めていただければと思います。

 

終わりに

また話が長くなってしまいました。もうこれで終わります。私による誤字、脱字、それに誤解、無理解、勘違い、さらには誤訳、悪訳、拙劣な部分があったでしょうから、そのことにお詫びしなければなりません。どうかお許しください。