Selbstdenken, Part VII.

目次

 

はじめに

今回も Arthur Schopenhauer の Selbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読みます。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただく邦訳、その他の注意事項についてはすべて、Part I に記載されています。以下を読まれる前にまずは Part I でその種のことをご確認ください。

今日は § 263 の中ほどの1/3ぐらいを読みます。

 

ドイツ語原文

原文を引用する前に、注意事項を一つ述べます。§ 263 全体の私訳を作ったあと、三種類の既刊邦訳に目を通してみてわかったのですが、私が典拠としている § 263 の原文では本来あるべき文章が一段落分ぐらい脱落しているようです。

具体的に言うと、前回の引用文の終わりから、今回の引用文の冒頭 "– Indessen" のあいだで大幅な脱落が生じているみたいです。しかし以下で引用する際は脱落を埋め戻すようなことはせず、そのまま引用し、私訳もそれをそのまま訳すことに致します。

 

– Indessen ist sogar der größte Kopf nicht jederzeit zum Selbstdenkem [sic] fähig. Daher thut er wohl, die übrige Zeit zum Lesen zu benutzen, als welches, wie gesagt, ein Surrogat des eigenen Denkens ist und dem Geiste Stoff zuführt, indem dabei ein Anderer für uns denkt, wiewohl stets auf eine Weise, die nicht die unsrige ist. Dieserhalb eben soll man nicht zu viel lesen; damit nicht der Geist sich an das Surrogat gewöhne und darüber die Sache selbst verlerne, also damit er nicht sich an schon ausgetretene Pfade gewöhne, und damit das Gehn eines fremden Gedankenganges ihn nicht dem eigenen entfremde. Am allerwenigsten soll man, des Lesens wegen, dem Anblick der realen Welt sich ganz entziehn; da der Anlaß und die Stimmung zum eigenen Denken ungleich öfter bei diesem, als beim Lesen sich einfindet. Denn das Anschauliche, das Reale, in seiner Ursprünglichkeit und Kraft, ist der natürliche Gegenstand des denkenden Geistes und vermag am leichtesten ihn tief zu erregen.

 

ドイツ語文法事項

以下では初歩的な文法事項は説明せず、わかりにくいところや注意したほうがいいところのみ記します。

thut er wohl, die übrige Zeit zum Lesen zu benutzen: これは「S tun wohl daran, zu 不定詞」という構文で、daran は zu 不定詞を指しており、「S が〜するのはよいことである」の意味。daran はよく省略されます。

als welches: 正直に言うと、私にはこれがちょっとはっきりとはわかりません。als はここでは「〜として」の意味を持つ接続詞だと思われるのですが、welches は関係代名詞のように見え、その時、先行詞は Lesen となり、これによって意味の通る訳文はできあがります。つまり「既に言ったように、自分で考えることの代わりとしての (読書)」です。しかし文法的には接続詞と関係代名詞が並ぶのは変です。そこで推測ですが、als はあたかも前置詞であるかのように使われることがよくあるので、ここでも関係代名詞の前に添えられた前置詞であるかのように als が使われているのではないかと思います。間違っていたらごめんなさい。

die unsrige: この直後に Weise が略されています。

Dieserhalb: deshalb のこと。

eben: これはおそらくですが「とにかく」ぐらいの意味。eben は日本語で「仕方がない、しょうがない、そういうものだとしてあきらめざるをえない」というニュアンスがありますが、ここの eben もそんなニュアンスがあるものと思われます。

damit: damit が3回出てきます。どれも目的の意味で「〜するように、〜するために」。この接続詞と枠構造を作る動詞が原文中に四つあり、いずれも語尾が -e で終わっていて (gewöhne, verlerne, gewöhne, entfremde)、全部接続法第一式。目的が成就するか、不定であることが多いので、damit のあとは通常接続法第一式です。ただし、成就が確実視されている時は直説法を使うこともあり、また昔は damit の副文で接続法第ニ式を使うこともあったようです。

Gehn: Gehen のことと思われます。ドイツ語では e の綴りはたびたび省略されますので。

dem eigenen: このあとに Gehn が略されています。この三格はいわゆる奪格で「〜から」の意味。

bei diesem: diesem は Anblick を指します。私はすぐ前の Denken を指しているものだとばかり思って誤読していました。

das Anschauliche, das Reale, in seiner Ursprünglichkeit und Kraft, ist ... : ここを私は完全に誤訳していました。問題は in ... Kraft です。私はこの前置詞句を ist 以下に係るように訳したのですが、それは間違いです。この前置詞句は定動詞の ist の前にあります。つまり主部に含まれているわけです。このように定動詞の前に修飾語句がある時は、原則主語にかけるようにして訳さなければならないのがドイツ語文法のルールです。私はそのルールを忘れて勝手な訳を作っていたことになります。ルール通りに解すると、ここで言っている根源性や能力は、目に見える具体的なものや現実が有しているのだ、ということです。それで私訳では、この根源性と能力を主語にかけるようにして大きく意訳してみました。今述べたルールは確か阿部賀隆先生の『独文解釈の研究』(郁文堂) のどこかに載っていたと思います。うろ覚えですみません。

 

意訳

自然な訳にすることを最優先にして訳しています。それ故、原文にない言葉を補ったり、訳出せずとも支障はなく、訳出するとかえって不自然な日本語になる時は訳文から訳語を省いている場合があります。けれども、原文の意味内容の大筋からは外れないように心がけました。

私訳は最初自力で訳しました。その後、既刊邦訳三種類を見て、誤訳の有無をチェックしました。誤訳していた場合は、その旨、上の文法事項解説で指摘しています。既刊邦訳三種類の訳者の先生方にはお礼申し上げます。

 

ー しかし極めて優秀な頭脳の持ち主でさえ、いつでも自分で考えることができるというわけではない。そのため余った時間を読書に費やすのは彼にとってはいいことである。既に言ったように、読書とは自分で考えることの代わりであり、精神に素材を供給することなのだが、読書しているあいだは他人が我々の代わりに考えてくれているのであり、ただしその間はずっと我々とは異なるやり方で考えてくれているのである。従って、あまり多く読みすぎることはとにかくいけないことなのだ。それは、精神にとって代用としての読書が癖になってしまわないようにするためであり、読書しているうちに事柄自身を見失わないようにするためであり、それ故既に人が踏み慣れた道を自分も変わり映えもせず通い慣れることを避けるためであり、他人の考えの流れを追うことで、自分の考えの流れから逸れてしまわないようにするためなのだ。読書のせいで、現実世界からすっかり目を逸らしてしまうことは避けねばならない。自分で考えるきっかけが生じたり、自分で考えたいという気持ちが現れてくるのは、読書している時よりも、現実を見ている時の方がずっと多いからである。なぜかと言うと、目の前に見えるもの、つまり現実は、当初から我々に与えられているものであり、それが有する潜在的な力により、考える精神にとって、元から思考の対象となっているものだからであり、その精神を極簡単に深く触発することができるからである。

 

終わりに

今日はここまでとします。いつものように誤字や脱字、誤解、無理解、勘違いがあったかもしれません。誤訳や悪訳、稚拙なもあったかもしれません。きっとあるであろうそれら諸々の瑕疵について、ここでお詫び申し上げます。何卒お許しください。