Reading Kafka's Die Verwandlung, Part IV.

目次

 

はじめに

前回同様、Franz Kafka の Die Verwandlung の原文を読んでみます。 いわゆる『変身』の原文です。その原文は The Project Gutenberg eBook から引用しますが、そこで12ページ目に出てくる段落を一つ読むことにします。

 

話は次の順序でします。ドイツ語の原文、その文法事項の私による解説、私訳としての逐語訳、既刊邦訳の引用・比較です。

 

原文は今回も以下を使用させてもらいました。

・Franz Kafka  Die Verwandlung, Kurt Wolff Verlag, 1917, The Project Gutenberg eBook of Die Verwandlung, <https://www.gutenberg.org/cache/epub/22367/pg22367-images.html>.

それでは原文を引用してみます。虫になってしまった Samsa がベッドから出ようと孤軍奮闘したものの、うまくいかず、くたびれてしまった場面です。

 

ドイツ語原文
 Aber als er wieder nach gleicher Mühe aufseufzend so dalag wie früher, und wieder seine Beinchen womöglich noch ärger gegeneinander kämpfen sah und keine Möglichkeit fand, in diese Willkür Ruhe und Ordnung zu bringen, sagte er sich wieder, daß er unmöglich im Bett bleiben könne und daß es das Vernünftigste sei, alles zu opfern, wenn auch nur die kleinste Hoffnung bestünde, sich dadurch vom Bett zu befreien. Gleichzeitig aber vergaß er nicht, sich zwischendurch daran zu erinnern, daß viel besser als verzweifelte Entschlüsse ruhige und ruhigste Überlegung sei. In solchen Augenblicken richtete er die Augen möglichst scharf auf das Fenster, aber leider war aus dem Anblick des Morgennebels, der sogar die andere Seite der engen Straße verhüllte, wenig Zuversicht und Munterkeit zu holen. »Schon sieben Uhr,« sagte er sich beim neuerlichen Schlagen des Weckers, »schon sieben Uhr und noch immer ein solcher Nebel.« Und ein Weilchen lang lag er ruhig mit schwachem Atem, als erwarte er vielleicht von der völligen Stille die Wiederkehr der wirklichen und selbstverständlichen Verhältnisse.

 

ドイツ語文法事項

以下は私による、主に文法の解説です。一箇所だけ、以下に書誌情報を記した注釈書を参照しました。この注釈書をお書きになられた先生にお礼申し上げます。

 

als: 副文を構成する接続詞 als の枠構造を成す動詞は、dalag, sah, fand の三つです。dalag のあとの wie früher は so 〜 wie — という一般形式を尊重して、その wie 以下が枠外に配置されていると考えられます。また fand のあとの in 以下も、枠内に入れると枠が長くなりバランスを失するので枠外に置かれているものと思われます。

aufseufzend: aufseufzen (ため息をつく) の現在分詞で、現在分詞はしばしば形容詞として使われますが、ここではその形容詞が副詞として使われています。

so dalag wie früher: so 〜 wie — で、「— のように 〜 する」。

seine Beinchen ... kämpfen sah: 英語で言うところの五文型のうち、その第五文型に当たります。意味は「seine Beinchen が kämpfen しているのを見た」。この場合、自分のちっちゃな脚たちがお互いに激しく殴り合っているのを Samsa は見たんでしょうね。悪夢だな、これは。確かに悪夢だ。

noch ärger: noch のあとに比較級が来ると、noch はその比較級の強調になります。意味としては「さらに、ずっと、もっと」など。arg には「悪い」という意味がありますが、ここでは程度が「ひどい」ということを表していると考えられます。まぁ、「悪い」と訳しても間違いではないでしょうが。

in diese Willkür ... zu bringen: この zu 不定詞句は前方のMöglichkeit を修飾しており、Möglichkeit の内容を説明しています。Willkür の意味は、ここでは「好き勝手し放題」という感じです。

sagte er sich wieder: sagte の従える4格は、このあとの二つの daß 文です。

unmöglich im Bett bleiben könne: unmöglich ... können には二つの意味があり、一つは能力がないことを表して「〜することができない」、もう一つは否定的確信を表して「〜であるはずがない」。ここではどちらでも整合的に解釈できると思います。あるいは両者を混合したような意味で訳せると思います。すなわち「(こんな状態で、このまま) ベッドに居られようか、居られるはずがない」みたいな感じです。また könne のように接続法第一式になっているのは間接文内にあるから。

es das Vernünftigste sei: es はうしろの zu 不定詞句 alles zu opfern を指しています。das Vernünftigste は形容詞 vernünftig の最上級 vernünftigst が中性名詞化したもの。意味としては「最も理に適っていること」など。sei は間接文内にあるので接続法第一式が使われています。

wenn auch ... bestünde: bestünde は bestehen の接続法第二式。wenn auch と接続法第二式で仮定的認容を表し、「たとえ〜でも」の意味。なお、wenn auch と接続法第一式なら事実の認容「〜ではあるが」を表します。

sich dadurch vom Bett zu befreien: この zu 不定詞句は前の Hoffnung にかかっていて、その内容を説明しています。dadurch の da- は alles zu opfern することを指しています。

vergaß: この動詞が従える4格は、このあとの zu 不定詞句 sich zwischendurch daran zu erinnern です。

sich zwischendurch daran zu erinnern: sich4 an 4格 erinnern で「〜を忘れない、覚えている」。ここの daran の da- は、あとの daß 文を指しています。

viel besser als: viel と形容詞の比較級で、比較級の強調です。「もっと、ずっと」などの意味。als は「〜よりも」の意味。よって viel besser als の意味は「〜よりもずっといい」となります。

verzweifelte Entschlüsse: 直訳すれば「絶望的な決断たち」ですが、その意図するところは「絶望的な気持ちで下す決断」のこと。意訳すれば「やぶれかぶれで決断を下すこと、捨て鉢になって決断すること」などでしょう。

ruhigste: 形容詞 ruhig の最上級ですが、何かと比較して、その中で最も ruhig だと言っているわけではありませんから、これは絶対最上級であり、非常に程度が高いことを言っているので、その意味は「最も冷静な」ではなく、「極めて冷静な」になります。

Überlegung sei: 接続法第一式 sei は、これが間接文の daß 文内にあるため。Überlegung はこの daß 文内での主語。

In solchen Augenblicken: Augenblick (瞬間) が複数形になっているところが気になります。ということは、ある一つの瞬間だけが言われているのではないということです。するとここで言われているのは複数の瞬間か、または瞬間というよりも一定の時間幅を持った期間のことだと思われます。前者の意味だと In solchen Augenblicken は「そのような瞬間ごとに、その都度その都度」など、後者の意味だと「その間に、そのような時に」などとなるでしょう。

aber leider war aus dem Anblick des Morgennebels, ..., wenig Zuversicht und Munterkeit zu holen: 私は当初、ここの文を誤読し、誤訳していたようです。以下に書誌情報を記した白水社注釈版の文法解説でそのことを教えられました。私は最初、wenig Zuversicht ... zu holen は zu 不定詞句の名詞的用法で、wenig は副詞、holen は他動詞、Zuversicht und Munterkeit はその動詞の4格であり、この句全体がこの文の主部であって、対する述語動詞は war で、aus 以下がいわば補部として働いていると考え、次のように訳しました。直訳すれば「残念ながら、朝霧の光景から、自信と気力を引き出してくることはほとんどなかった」。これで OK だと思ったのですが、白水社注釈版を見るとそうではないようです。では問題の文の構造はどのようになっているというのでしょうか。私が zu 不定詞の名詞的用法と見たものは、いわゆる sein + zu 不定詞、受動的可能 (され得る) または受動的義務 (されねばならぬ) を表す sein + zu 不定詞のようです。つまり、wenig Zuversicht und Munterkeit が主部で wenig がここの各語 Zuversicht と Munterkeit にかかる形容詞であり、述部が war ... zu holen という sein + zu 不定詞のようです。ちなみに、1格と4格に付く wenig はしばしば格語尾が省かれることがあり、私はこの wenig に格語尾がないのでてっきり副詞だと思い込んでいましたが、wenig がたびたび格語尾を欠くことをすっかり失念しておりました (そういえば viel や alle も同様に格語尾を付けないことがありましたね)。また主部が Zuversicht und Munterkeit という二つの単語から成る二つの事柄を表していると考えられるのに、対する動詞が単数形の war になっていますが、ドイツ語では主語が一見複数の事柄を表しているように見えようとも、話者や筆者がそれらの事柄をひとまとまりと見なしている時はしばしば動詞は単数形を取ります。ドイツ語ではよくあることです。というわけで以上の構文解析に基づいて問題の文を直訳し直すと次になります。「残念ながら、朝霧の光景から、自信と気力が引き出され得ることはほとんどなかった」。しかしこの訳は、結果的には当初の私の訳文と、内容的にはほとんど変わらないですね。でも正しい構文解析が得られないと、とんでもない誤訳をやってしまうことがあり得ますので、本当に気を付けなければいけません。なお、やはり以下で書誌情報を記す同学社注釈版では、今問題にしている文について、そこが sein + zu 不定詞から成る文であるという文法説明はなされていません。また問題の文の訳も、その文法説明の注釈欄では zu 不定詞句を含んだ wenig Zuversicht und Munterkeit zu holen が主部であるかのような訳が与えられています。その訳を記しておきましょう。「確信や、快活な気分を受けることはほとんどなかった」(同学社注釈版27ページ、註15)。白水社注釈版とは違うようですね。これはどう理解したらよいのか、よくわかりません。ひょっとすると同学社注釈版は、私の当初の理解と同様に、wenig Zuversicht und Munterkeit zu holen を主部と見て、これが sein + zu 不定詞から成っているのではない、とお考えなのでしょうか。ちょっとこのあたりのことは不明です。このあと引用する各種邦訳で該当箇所を確認しても、どれも当然ながら直訳・逐語訳ではないので、はっきりしたことがわかりません。ここで引用していない邦訳や、英訳、仏訳などを見ればわかるかもしれませんが、まぁ、そこまではやめておきます。

der sogar: der は関係代名詞男性1格。先行詞として考えられるのは Anblick か Morgennebel ですが、意味からいって前者ではあり得ないので (通りの向こう側を覆い隠すことができるのは「光景」ではなく「朝霧」)、Morgennebel が先行詞です。

und noch immer: und は逆接を表すことがあります。この und も逆接の意味のようにも思えます。その場合、ここは「もう7時なのにまだ霧が出ている」とでもなります。しかし、場所にもよるでしょうが大抵の場所において、7時にまだ霧が出ていることは普通にあることでしょう。お昼の12時にもなって、まだ霧が出ていたら、「もう12時なのにまだ霧が出ている」と言っても何も変なところはありませんが、「7時なのにまだ霧だ」は変です。なので、ここの und は逆接ではなく順接であり、意味は追加による強調を表すと考えられます。具体的に訳すと「もう7時だ、しかもまだ霧に覆われている」、または「もう7時だ、しかもまだ霧は晴れそうにもない/しかもまだ霧が晴れる気配もない」という感じです。この「もう7時だ」という部分は「こんな時間になってしまっては、会社に遅刻してしまう」という焦りの気持ちが表れていると思います。そして「まだ霧だ」の部分は、窓外に太陽の明るい日射しが見えるなら、気持ちも明るくなり、自分の身に起こったことが好転するかもしれないという希望もわいてくるでしょうが、どんよりとした薄暗い濃霧しか見えないようでは、今後の展開に悲観的にならざるを得ず、気持ちが萎えるという、そういう気分が表れていると思います。このように、und を逆接ではなく順接と捉えると筋の通った解釈が可能になります。そして noch immer については「いまだになお」の意味。immer noch も同義。

ein Weilchen lang: 時間表現 + lang で「〜の間の」。

als erwarte er: ここは倒置しています。als + 倒置文は als ob 文 (まるで〜であるかのように) の代わりです。そして als ob 文で接続法第二式が使われていたら、その文の内容は事実ではなく、または事実だとは信じていない様子が示されます (接続法第一式なら事実かどうか五分五分、直説法なら事実のつもりを意味します)。ところで erwarte は直説法の過去形ではなく、それと同形の接続法第二式です。よってここでは Samsa は本気で待っているわけではなく、本気で期待しているわけでもない、ということです。ここでのポイントを繰り返しておきましょう。「als 倒置文は als ob」。

vielleicht: この語の意味は普通「ひょっとすると、もしかしてもしかすると」で、一般に確率の低いさまを表します。よって確率が高めの「たぶん〜だろう」の意味ではありません。ただし、「たぶん」の意味で使われていると解さなければ筋が通らない文脈でこの語が使われているのを私は見たことがあるので、vielleicht が「たぶん」の意味を持つこともないではないようですが。

wirklichen und selbstverständlichen Verhältnisse: 直訳すると「本当の、かつ自明な状況/境遇の」ですが、文脈からいえば「本当の、いつもの見慣れた日常」のことです。

 

逐語訳
 しかし Aber 彼が er 同じ苦労の gleicher Mühe あとで nach ため息をつきながら aufseufzend 元通り wieder 以前と同じようにso ... wie früher 横になった dalag 時 als, かつ und 彼の小さな脚たちが seine Beinchen ことによると womöglich もっとよりひどく noch ärger お互い同士 gegeneinander 闘っているのを kämpfen 再び wieder 見た sah 時 [als] かつ und このような好き勝手し放題の状況に in diese Willkür 平穏と秩序を Ruhe und Ordnung もたらす zu bringen 可能性が Möglichkeit ないこと keine に気づいた fand 時 [als] 彼は er 自分に sich 再び wieder 言った、sagte, 自分は er ベッドに im Bett 居続けることは bleiben できない、unmöglich ... könne と daß かつ und すべてを alles 犠牲にすることは zu opfern たとえ wenn auch そのことにより dadurch ベッドから vom Bett 脱出する sich ... zu befreien 極わずかの kleinste 希望 die ... Hoffnung だけが nur あるのだとしても bestünde そのこと [つまりすべてを犠牲にすること] は es 最も理に適ったこと das Vernünftigste である、sei と daß。 しかし aber 同時に Gleichzeitig 彼は er 忘れはしなかった vergaß nicht, その間に zwischendurch 次のことを daran 覚えておくことを sich ... zu erinnern, つまりdaß 冷静な、かつ極めて冷静な ruhige und ruhigste 熟慮は Überlegung 絶望的な決断 verzweifelte Entschlüsse よりも als ずっと viel よりよい besser のだ、と sei。 そのような [ことを思う] 瞬間ごとに In solchen Augenblicken 彼は er 両眼を die Augen できる限り鋭くmöglichst scharf 窓へ auf das Fenster 向けた richtete, が aber 残念ながら leider 狭い通りの der engen Straße 他方の側でさえ sogar die andere Seite 覆い隠していた verhüllte ところの der 朝霧の des Morgennebels 光景から aus dem Anblick 自信と気力が Zuversicht und Munterkeit 引き出され得たことは war ... zu holen ほとんどないのである wenig。 「もう7時だ」と »Schon sieben Uhr,« 目覚まし時計の des Weckers 新たな打刻 neuerlichen Schlagen 時に beim 彼は er 自分に言った sagte sich, 「もう7時だ、»schon sieben Uhr しかも und 依然として noch immer あんな風な霧だ」ein solcher Nebel.« それから Und 少しの間 ein Weilchen lang 彼は er 弱々しい息 schwachem Atem で mit 静かに ruhig 横になっていた、lag, ひょっとすると vielleicht 完全な静けさから von der völligen Stille 本当の wirklichen かつ und 自明な selbstverständlichen 状況の der ... Verhältnisseals 回復を die Wiederkehr 彼はあたかも期待しているかのように als erwarte er。

 

既刊邦訳

次に参照・引用する邦訳は七つであり、一つ目と二つ目は注釈書、あとは文庫版、新書版の本です。文庫と新書は刊行年の昇順に記載してあります。

・本田雅也編著  『対訳 ドイツ語で読む「変身」』、白水社、2024年、25ページ、

中井正文編  『変身』、同学社対訳シリーズ、同学社、1988年、27-29ページ、

カフカ  『変身』、高橋義孝訳、新潮文庫、1952年、15-16ページ、

カフカ  『変身・断食芸人』、山下肇、山下萬里訳、岩波文庫、2004年、15-16ページ、

フランツ・カフカ  『変身』、池内紀訳、白水 u ブックス 152、白水社、2006年、14-15ページ、

カフカ  『変身 / 掟の前で』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2007年、40-41ページ、

フランツ・カフカ  『変身』、川島隆訳、角川文庫、2022年、13-14ページ。

『変身』の邦訳はまだありますが、きりがないのでこれだけにしておきます。他の邦訳の訳者の皆様には言及できなかったことについてお詫び申し上げます。

ちなみに各邦訳にふりがなが付いていても、それらはすべて省略して引用しています。

 

白水社注釈版
 けれども、ため息つきつつ同じ苦労を繰り返して元の姿勢にもどってみれば、自分の脚がひょっとすると前よりも邪悪にいがみ合っているのを再度目にする羽目になり、こんな好き勝手のなかに平安と秩序をもたらすことはとうてい無理だと悟った彼は、こう自分に言い聞かせた。ベッドにとどまっているわけにはいかないぞ、すべてを犠牲にすることこそもっとも道理にかなったことなのだ、たとえそうしたところで、ベッドから解放される希望などほんのわずかにすぎないとしても。しかしそう思うかたわらで、とにかく落ち着いて、落ち着き払って考えることこそ捨て鉢な決断よりもずっとましだと、折に触れ思いおこすのを忘れなかった。そのつど彼は鋭い視線を窓へと向けた。しかし残念なことに、狭い通りを挟んだ向こう側さえ覆い隠す朝霧の眺めからは、成功への確信なり活力なりを取り出すことはできなかった。「もう7時か」、目覚まし時計があらたに時を打つのを聞いて、つぶやいた。「もう7時だってのに、まだこんな霧なんだな」。しばらくのあいだ彼は浅く息をつきつつ静かに横になっていた。まるで、こうやって極力静かにしていればもしかしたら本来そうあるべき当たり前の生活が戻ってくるかもしれないと、期待でもしているかのように。

既刊の邦訳で気になったところを記します。特に、直訳や逐語訳をするとした場合に気になる点を記します。語学を第一の目的としてこの記事を書いているので、直訳・逐語訳の観点から邦訳を検討してみるためです。

既刊邦訳の訳者先生方は、もちろん直訳・逐語訳ではなく、いわゆる意訳をされていることでしょうから、当方での訳出方針と先生方のとでは異なっているので、当方からして気になる点がいろいろ出てくるのは当然ですが、それはこの方針の違いからくるものであり、先生方の訳に文句を付けるために、気になる点を挙げているのではありません。

また気になる点は全部ではなく、一部だけを挙げます。全部だと、記すのも読むのも大変ですから。以下、各邦訳の検討においては、同様のことが当てはまります。それでは挙げてみます。

 

「こう自分に言い聞かせた」。wieder (また、再び) の訳が脱落しています。

「そのつど彼は鋭い視線を窓へと向けた」。möglichst (できる限り) の訳が脱落しています。

以上の脱落は意図的なものかもしれませんが、しかし注釈版ではこのような脱落はなくしたほうがいいと思います。

「もう7時だってのに、まだこんな霧なんだな」。「〜だってのに」は und を逆接として訳した結果です。しかし朝に7時にまだ霧が出ていることは大方の地域で普通のことでしょう。よってこの und を逆接と取ることは奇妙であり、無理があります。通常通り、und は順接の意味でしょう。

 

同学社注釈版

 しかし、彼がため息をつきながら同じような骨折りをくりかえして、やっと元の姿勢にもどってみると、今度は彼のたくさんな足がおそらく前よりもっと意地わるく、互いにいがみ合いをはじめる始末なので、こんな勝手気ままをやられていては、もう平和や、秩序をもたらせてやるなど自分には思いもよらないような気がしだした。これではとてもベッドの上で安閑としているわけにもいかないし、といって、このベッドから解放される見込みはありそうもないとしても、やっぱり、いっさいを犠牲にするつもりで当たってみるのが上分別というものだろう、と彼はまた自分へ言いきかせた。同時にまた、そんなすてばちな決心よりも、やはり冷静な分別にたよったほうがずっといい、と思いついたことを忘れなかった。ふと彼はその瞬間に鋭い目つきで窓のほうをちらっと眺めやったが、たとえ狭い通りの向こう側をつつんでいる朝霧なんか見たところで、べつに確信や快活な気分をつかみとれるはずもなかった。

「― もう七時なのか」と、ちょうど目覚まし時計があらたに鳴ったので、彼はひとりごとを言った。「七時になってもまだ、あんな霧がかかっているのかな ... 」

 しばらくの間、彼は弱い息をつきながら、この完全な静けさのなかから現実的な、はっきり自分で納得のいくような状態がまた立ちもどってくるのを心待ちしているかのように、じっとからだを横たえていた。

ドイツ語原文にない言葉をあちこちでかなり補い、挿入した訳になっています。そのような補足表現は一切指摘せず、逆に訳し落としているところを中心に指摘してみます。

「ベッドから解放される」云々の箇所で、dadurch (犠牲を払うことにより) の意味合いが邦訳では脱落しています。

「同時にまた」のところで aber (しかし) の訳が脱落しています。

「やはり冷静な」の部分で ruhigste (極めて冷静な) が脱落。

「思いついたことを忘れなかった」で zwischendurch (その間に) が脱落。

「たとえ狭い通りの」の前で leider (残念なことに) が脱落。

「七時になってもまだ、あんな霧がかかっているのかな ... 」。ここでも und が逆接で訳されていますが、順接のほうがふさわしいでしょう。

「この完全な静けさのなかから」の前で vielleicht (ひょっとすると) が脱落。

「はっきり自分で納得のいくような」は selbstverständlichen の訳ですが、これはちょっと違うと思います。普通に「自明な」という意味だと思いますので、ありふれた日常のことを彷彿させる訳でいいと思います。

同学社版は注釈書なのに、原語にない訳語がかなり追加されており、また脱落もちょくちょく見られ、「どうしたことだろう?」といぶかしく思ってしまいました。学習用の注釈書では、完全に一対一させた訳を付けるべきだ、とまでは言わないものの、ほぼ一対一になっている訳を付けたほうが学習者のためだと思います。

 

新潮版
 しかし似たようなむだ骨を折って、溜息をつきながら、またもとどおりの格好で横になり、またぞろ眼前に、どうやら最前よりはいっそういらいらとたがいに喧嘩しあっている細い足どもを見て、しかもこの大騒ぎに落ちつきと秩序とをもたらす手だても見つからずにいると、もうこれ以上寝床の中にいるわけにはいかない、たとい寝台の外へ出るという希望がどんなにわずかしかなかろうと、とにかくいっさいを犠牲にしてそれを敢行するのがもっとも思慮分別にかなったことだと彼はふたたび自分に言いきかせた。と同時にまた、やけくその決心よりも冷静な、もっとも冷静な思慮のほうがずっといいものなのだということを、そうしたさなかにもときおり思ってみることをも忘れなかったのである。そうしてときどきできるだけ鋭く窓のほうに目を向けた。ところが残念ながら窓の外には朝霧がたちこめているばかりであった。霧は狭い通りの向う側の家並みをさえ隠していた。そういうわけで、窓から外を眺めたところで慰めにも助けにもならなかった。また目ざましが時を打った。「もう七時だ」と彼はつぶやいた。「もう七時だ、それなのにまだこの霧だ」それからまたしばらくのあいだ、静かにじっとしていたらひょっと日ごろ馴染の、以前の状態にもどるのではあるまいかといったふうに息をためて静かに横たわっていた。

「もっとも冷静な」は ruhigste の訳ですが、これは絶対最上級なので「極めて冷静な」などと訳し、「もっとも」とは訳さないものですが、ひょっとすると修辞的効果を狙ってわざとこのように訳しているのかもしれません。

「慰めにも助けにも」は Zuversicht und Munterkeit (確信と活力) の訳ですが、これはまったくの意訳ですね。というか、まったくの差し替えと言っていいと思います。

「もう七時だ、それなのにまだこの霧だ」。ここの und も逆接になっていますが、順接のほうがいいと思います。

原文最後の wirklichen und selbstverständlichen Verhältnisse のうち、wirklichen (現実の、本当の) が訳されていません。

 

岩波版
 しかし、また同じ苦心をくりかえしたあげくに、ため息をつきながら以前と同じように横になると、小さな脚たちが前にもましていがみあっているらしいのが彼の目に入ってきたが、この勝手ないさかいに安寧秩序をもたらす手だてもないまま、ふたたび彼が自分に言いきかせたのは、とてもこのままベッドにじっとしているわけにはいかんな、ベッドから解放される希望はわずかしかないとしても、一切をなげうってそれにあたることこそ道理というものだ、ということだった。だがその一方で彼は、見込みのない決心をするよりは、とっくり落ち着いて考える方がずっとよい結果を生むことも、けっして忘れてはいなかった。そんなあわいに、彼はできるかぎり鋭い目を窓外へむけてみたが、朝の霧が狭い通りの向こう側まで包みかくしていて、残念ながら、確信も活力も貰うことはできなかった。「もう七時か」目覚まし時計が新たな時を打つと、彼は独りごちた、「もう七時というのに、あいかわらずのこの霧だ」そしてしばらく彼は、息をひそめて静かに横たわっていたが、まるで、こうして身じろぎもせずにいれば、あの現実の住み馴れた生活がまた戻ってくるのではないか、と期待しているかのようだった。

「彼の目に入ってきたが」の箇所で wieder (また、再び) が脱落。

「ベッドから解放される」云々のところで dadurch の訳が脱落。

「けっして忘れてはいなかった」の前で zwischendurch (その間に) が脱落。

「狭い通りの向こう側まで」の「まで」は「さえ (sogar)」のほうがいいと思います。

Zuversicht und Munterkeit が忠実に「確信と活力」と訳されていますが、「確信」と言われても「何を確信したと言うのか?」という疑問を読者に抱かせてしまいます。ちょっと考えれば読者もすぐ気がつくことですが、ここは「脱出できる確信」と補足しつつ訳すか、あるいは端的に「自信」と訳したほうがいいと思います。

「もう七時というのに、あいかわらずのこの霧だ」。und が逆接ですが、順接のほうごいいでしょう。

 

白水社

 苦労してやっともとの位置にもどり、大きく息をついた。とたんにまたしても脚が、なおのこと勝手気ままにワヤワヤと動き出す。てんで喧嘩しているように見え、どうやって収めたものか手をつかねていると、とたんにまた、こうしてもいられないと気がせいてきた。危険は承知の上、何が何でもベッドから出るのがいちばんだと思ういっぽうで、やけのやんぱちでやってみるよりも、慎重の上にも慎重を期したほうがずっといいのであって、そのことを心しているべきだとも思えてくる。そのためにもと、目を据えて窓を見つめた。だが、残念ながら朝霧が立ちこめていて、狭い通りの向こう側すらつつみこんでおり、見通しがきかず、元気もわいてこないのだ。

 「もう七時か」

 時計がまたもや時を知らせた。

 「七時にもなって、まだこの霧だ」

 それからしばらく弱々しい息をつきながら、もしかするとこの静けさから、いつもの当然の状態が立ちもどってくるのを期待するかのように、身じろぎひとつしなかった。

これはほとんど「超訳」と言うか何と言うか、ほんといわゆる「豪傑訳」に近いですね。個人的にはそう感じます。この邦訳については何をどう指摘したらいいのか、困るぐらいです。翻訳ではなく、初めから日本語で書かれた小説であることを読者に思わせるために作られた訳に見えます。その意味で翻訳臭さがなく自然な日本語であり、Kafka が日本語のネイティブならこう書くだろうという文章になっています。それ故か、省略と追加が結構あります。

気になる追加表現だけを記しておくと「ワヤワヤと動き出す」、「気がせいてきた」、「そのためにもと」は、たぶん対応している原語がないようです。

また、「狭い通りの向こう側すらつつみこんでおり、見通しがきかず、元気もわいてこないのだ」の「見通しがきかず」というのは Zuversicht (見込みがあるという確信) の訳なのか、それとも霧のせいで向こう側が見えないという意味で言っているのか、とても曖昧です。どっちなんだろう? もしかしてどっちとも!?

「七時にもなって、まだこの霧だ」。und が逆接ですが、順接のほうが至当でしょう。

 

光文社版
 おなじような苦労をして以前のような格好でベッドに横になり、ため息をついた。たくさんの細い脚がわなないているのが見える。もしかするともっと激しい格闘をしているのかもしれない。その気ままな混乱に法と秩序をもちこむことは不可能に思えた。あらためてグレーゴルは自分に言い聞かせた。このままベッドに寝てるわけにはいかないぞ。ベッド脱出のためなら、どんなことでもやるべきじゃないか。ほんのわずかな見込しかないとしても。と同時にグレーゴルは、ときどき思い出すことも忘れなかった。絶望して決心するよりも、落ち着いて、落ち着きはらって熟慮するほうがずっとましなのだ、と。そういう瞬間には、じっと目をこらして窓を見つめた。だが残念ながら、朝の霧をながめていても、確信も元気も湧いてこない。狭い通りのむこう側すら、霧で隠されていた。「もう7時だ」。目覚ましがあらためて時を打った。「もう7時なのに、まだこんな霧だ」。しばらく横になったままじっと息をひそめた。物音ひとつ立てないでいると、あたりまえの現実が戻ってくるのではないか、と期待しているかのように。

「もしかするともっと激しい格闘をしているのかもしれない」。これはちょっとピンとこない訳だと感じます。わかったような、わからないような、そんな感じがします。

ここには womöglich (もしかすると) の訳が含まれているのですが、この語はここでは確かに訳しにくく、私も当初、どう解釈し、どう訳せばいいのか、困りました。結局、womöglich で言いたいのは、ちっちゃな脚たちの乱闘が、ベッドで元の位置に戻る前と比べて、激しさを増している「かもしれない」ということでしょう。「ひょっとして以前よりも脚たちの騒ぎがひどくなっているのではないか?」という気持ちが表れている語、それが womöglich なんだろうと思います。

そうすると、この邦訳の訳文では、そのことがピンと来ません。何と比べて「もっと激しい格闘をしているのか」、それが邦訳からは伝わらないからです。そのため「以前に比べ」などの言葉を補足すればうまくいくと思います。

「法と秩序」。Ruhe を「法」と訳しておられます。これは意訳または差し替えでしょう。(なお、意訳がいけないと言っているのではありません。)

「もう7時なのに、まだこんな霧だ」。こちらも und が逆接ですが、順接のほうがふさわしいと思われます。

この他に aber や vielleicht の訳の脱落や、「彼はつぶやいた」などの脱落が見られますが、詳細は省きます。

 

角川版
 けれども、また同じ労力を払って元の体勢に戻ってホッと溜め息をつき、また自分の肢がわらわらと前よりひどい仲間割れを起しているのを見て、この支離滅裂な事態を鎮静化して収拾するのは不可能だと悟るにつけ、このままベッドにいるわけにはいかないぞと彼は呟いた。たとえ、何かを犠牲にしたからといってベッドから抜け出せる希望が微塵もないとしても、すべてを犠牲にするのが一番賢い対応だ。ただし同時に、やけくそになって決心するより、落ち着いて、とにかく落ち着いて思案する方がずっといいということを折に触れて思い出すのも忘れてはいなかった。そんな瞬間には、なるべく鋭い目を窓に向けてみるのだが、残念ながら、今朝は狭い通りの向こう側すら見えないほど霧が濃い。そんな霧を眺めたところで、あまり自信も元気も湧いてこなかった。「もう七時だ」と、目覚まし時計が新たに時を告げたので彼は呟いた。「もう七時だし、あいかわらずこんな霧だ」そして、しばらく息をひそめて倒れたまま安静にしていた。まるで、こうして完全に静かにしていれば、現実的なあたりまえの状況が戻ってくるかもしれないと期待しているかのように。

「ホッと溜め息をつき」。これは私を含め、多くの方が「あれっ? どうして?」と感じるのではないでしょうか。ホッと溜め息をつくとは、安心してため息をつくことでしょう。しかしここでの文脈では、大抵の読者は、このため息を安心感から出たものではなく、諦観から出たものと受け取るのではないでしょうか。つまり私たち読者の印象では「やれやれ、参ったな。振り出しに戻ってしまったよ。なんてこった、あれこれ努力したけど無駄だったんだ」という感じでグレゴールはため息ついているのだろうと、そう思います。しかしここの邦訳ではそうではなく、「元に戻れてよかった」という意味合いで訳されています。このような解釈も可能でしょう。しかし多数派の解釈ではないと思います。

womöglich の意味合いが訳されていないようです。

「何かを犠牲にしたからといって」。これは dadurch の訳だと思われます。いい訳ですね。

「もう七時だし、あいかわらずこんな霧だ」 。この角川版だけは und を順接で訳しており、理に適っていると思います。

この他に、訳語の脱落がいくつか見られますが、省きます。

 

終わりに

各邦訳には一長一短があるように感じられました。

注釈書の二つの版は、語学のための学習書なのだから、もうちょっと直訳・逐語訳に近くてもよかったと思います。省略し過ぎたり、補足し過ぎたり、自然な訳にし過ぎると、語学の妨げになりかねないです。多少不自然でも許されるでしょうし。

それにしても白水社版は異彩を放っていますね。おそらく明治初期によく見られたであろう豪傑訳っぽい感じがしました。極力原文が透けて見えないよう努力が払われているように思われます。読者の好き嫌いがはっきり分かれる訳でしょうね。

 

以上で終わります。誤字や脱字、誤解や無理解や勘違いなどがありましたら大変すみません。逐語訳に誤訳や悪訳がありましたら、こちらも誠にすみません。既刊邦訳訳者の先生方のお仕事はとても参考になりました。大変ありがとうございました。