Selbstdenken, Part VIII.

目次

 

はじめに

今回も Arthur Schopenhauer の Selbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読みます。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただく邦訳、その他の注意事項についてはすべて、Part I に記載されています。以下を読まれる前にまずは Part I でその種のことをご確認ください。

今日は § 263 の残り1/3ほどを読みます。

 

ドイツ語原文
Nach diesen Betrachtungen wird es uns nicht wundern, daß der Selbstdenker und der Bücherphilosoph schon am Vortrage leicht zu erkennen sind; Jener am Gepräge des Ernstes, der Unmittelbarkeit und Ursprünglichkeit, am Autoptischen aller seiner Gedanken und Ausdrücke; Dieser hingegen daran, daß Alles aus zweiter Hand ist, überkommene Begriffe, zusammengetrödelter Kram, matt und stumpf, wie der Abdruck eines Abdrucks; und sein aus konventionellen, ja, banalen Phrasen und gangbaren Modeworten bestehender Stil gleicht einem kleinen Staate, dessen Cirkulation aus lauter fremden Münzsorten besteht, weil er nicht selbst prägt.

 

ドイツ語文法事項

あまりに基本的なことは説明しません。ややこしかったり、注意の必要なことだけを記します。

schon am Vortrage leicht zu erkennen sind: schon は「〜だけで」の意味。「もう〜だけで既に早くも」という意味合いの「〜だけで」です。am の an はいわゆる手がかりの an。「〜を手がかりにして」という意味合い。Vortrag は「講演、人前での話し」と訳しても間違いではないですが、ここではより細かく「話しぶり、話し方」のこと。zu erkennen sind は zu 不定詞 sein 構文 (〜され得る) から成り、「識別され得る」の意味。erkennen は手がかりの an をよく伴って「A erkennen B an C (A は C を手がかりに B だとわかる)」などと使われることがあります。以上からここは「その話し方を聞けば、もうそれだけでたやすくわかる」という感じになります。

Jener am Gepräge ..., am Autoptischen ... : この文は am Gepräge ... と am Autoptischen ... のニつの語句に対し、動詞が省略されています。略されているのは前文中と同様の zu erkennen ist です。二つの am は erkennen に付きものの手がかりの an です。このあとの Dieser の文でも同じ zu erkennen ist が略されていて、daran の an がやはり手がかりの an になっています。また Autoptischen は女性名詞 Autoptisie (死体解剖、検死、実地検分) の形容詞が名詞化したもの。その女性名詞の発音は「アオトプシー」という感じで、s を濁らず、かつ「シー」のところにアクセントがあります。

aus zweiter Hand: 「間接的に、他の人の手を経て」の意味。

sein aus ... bestehender Stil: sein aus ... bestehender は Stil にかかる長い冠飾句。sein aus ... bestehender Stil の全体がここの文の主部です。aus ... bestehen は「... から成る」の意味。

 

意訳

自然な訳文にすることを第一に考えて訳しています。そのため、原文にない語を訳文で補ったり、原文にある語で、訳出していないものもあります。ただし、原文の大意から逸れないように努めました。

まず、既刊邦訳を見ずに私訳を作り、そのあとで三種類の既刊邦訳を参照し、自分が誤訳していないか確認を取りました。今回はたぶん誤訳はなかったと思います。

 

こう考えると、自分で考える人と濫読哲学者は、話しぶりを聞くだけで見分けることができるとしても、驚くことではなかろう。自分で考える人は、その真剣なところ、物事の根本に、じかに迫るところからわかるし、彼の考えと表現がすべて直接的な実地調査に基づいているところからわかるのである。これに反し、濫読哲学者ではすべてが二番煎じであり、その考えは耳学問にすぎず、がらくたをごちゃごちゃ集めてきただけで、コピーのそのまたコピーのように不明瞭かつ不明確なところから、それとわかるのである。それに、お決まりの、そう、陳腐な言い回しと、巷で見られる流行り言葉でできた濫読哲学者の話し方は、自国では鋳造できないせいで、外国の硬貨ばかりが流通しているようなそんなちっぽけな国に似ているのである。

 

終わりに

今回は以上です。誤字、脱字、衍字の類いがあったかもしれず、また誤解、無理解、勘違いもあったでしょうから、ここで謝らなければなりません。誤訳や悪訳の類いにもお詫びしなければなりません。どうかお許しいただければと思います。