Selbstdenken, Part XII.

目次

 

はじめに

Arthur Schopenhauer の Selbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読む続きです。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただく邦訳や、その他の注意事項についてはすべて、以下を読まれる前に Part I をご覧ください。

今回も短い文章ですが、私は一箇所、またまた誤訳しておりました。ただし、自分が誤訳していないかチェックのため、いつも私訳作成後にひも解いている既刊邦訳三種類のうち二種類でも、私と同じ誤訳に陥っていましたので、偉い翻訳の先生も犯しやすい誤訳だったようです。

しかもその箇所の私訳は確かに文法に反する誤訳だったわけですが、しかし文法通りに正しく訳すとかえって話の流れに反する訳になり、逆に誤訳した訳文のほうがかえって話の流れに沿った訳になるという、そういういささかややこしい箇所でした。詳細はまたのちほど説明します。

 

ドイツ語原文

§. 268.

Die Gegenwart eines Gedankens ist wie die Gegenwart einer Geliebten. Wir meynen, diesen Gedanken werden wir nie vergessen und diese Geliebte könne uns nie gleichgültig werden. Allein aus den Augen, aus dem Sinn! Der schönste Gedanke läuft Gefahr, unwiederbringlich vergessen zu werden, wenn er nicht aufgeschrieben, und die Geliebte, von uns geflohen zu werden, wenn sie nicht angetraut worden.

 

§. 269.

Es giebt Gedanken die Menge, welche Werth haben für Den, der sie denkt; aber nur wenige unter ihnen, welche die Kraft besitzen, noch durch Reperkussion, oder Reflexion, zu wirken, d. h. nachdem sie niedergeschrieben worden, dem Leser Antheil abzugewinnen.

 

ドイツ語文法事項

§. 268.

werden wir: この werden は一見直説法現在に見えますが、Wir meynen という主文に続く間接文内にあるので直説法現在ではなく、接続法第一式。

könne: これも上と同じ理由で接続法第一式。

aus den Augen, aus dem Sinn!: これは日本語では「去る者は日々に疎し」ということわざに当たるドイツ語です。このことわざの主な意味は「亡くなってしまった人は、次第に忘れられて行く」といったところです。私訳では直訳調、逐語訳調で訳してみました。今挙げたことわざではちょっと日本語臭くて若干違和感を覚えるからです。でも、もちろんこのことわざをそのまま当てて訳しても問題があるというわけではありません。

Der schönste Gedanke: 最上級が使われていますが、別に何か他のものと比べて最上だと言っているわけではないので、「最も美しい考え、最もすばらしい考え」と訳すべきではなく、この最上級はいわゆる絶対最上級ですから、程度が大変高いことを述べているだけであり、「極めてすばらしい考え」などと訳す必要があります。なお、フランス語でもそうですが、絶対最上級は認容・譲歩の意味で訳すとしっくりくることが多いです。今の場合だと「たとえどれほどすばらしい考えであっても」などと訳すとうまくはまります。

läuft Gefahr, ... zu werden: zu 不定詞 + Gefahr laufen で「〜する危険を冒す」。

wenn er nicht aufgeschrieben: aufgeschrieben のあとに wird などが省略されていると見ることもできますが、このあとの wenn 文末尾と合わせて worden habt が省略されていると考えた方がいいでしょう。

die Geliebte, von uns geflohen zu werden: ここには省略がありますので、それを書き出すと次のようになります。die Geliebte läuft Gefahr, von uns geflohen zu werden. 私はここで誤訳していました。既刊邦訳三種類のうち二種類も同様に誤訳しています。その説明をしましょう。長い話になります。さて、このセクションでは思い浮かんだ考えと恋人とが類比されています。両者がパラレルな関係にあることが述べられています。我々は思い浮かんだ考えは忘れ去られはしないと思うことがあり、同様に恋人も愛し合っていれば離れ離れになることはないと思うことがよくあります。しかし考えるのをやめたり、恋人と距離を取っていると、そうもいかなくなってきます。どんなにすばらしい考えでも、書き留められなければ忘れ去られることがあるように、恋人も会うことがなければ、、、、と、このように話が続いて来れば、あとはどんな展開になるでしょうか? 思い浮かんだ考えも恋人もパラレルな関係にあり、思い浮かんだ考えは忘れ去られ、我々から飛び去っていくことがあるのなら、恋人についても逃げ去られ、我々の元から離れ去っていくことがあると、こう話は流れるのが当然ではないでしょうか? そうすると die Geliebte läuft Gefahr, von uns geflohen zu werden は「恋人は我々の元から逃げ去られる恐れがある」というような感じで訳したくなります。逐語訳すると「恋人は (die Geliebte) 我々の元から (von uns) 逃げ去られる (geflohen zu werden) 恐れがある (läuft Gefahr)」となり、これでピッタリはまっているように見えます。何も問題があるようには見えません。前の方からの話の流れにもきっちり合っています。私はこれで OK と思い、私訳を完成できたと考えたのですが、これは間違いです。参照した既刊邦訳三種類のうち、岩波文庫版と光文社古典新訳文庫版も同じ誤訳に陥っていました。白水社版は文法に忠実に正しく訳せています。状況を説明しましょう。die Geliebte läuft Gefahr, von uns geflohen zu werden の läuft Gefahr を省き、ここでの恋人と我々との関係を簡単化して記してみますと、Die Geliebte wird von uns geflohen という受動文ができあがります。これを能動文に直してみてください。すると Wir fliehen die Geliebte となります。これでもうわかりますよね。これを訳してみてください。「我々は恋人を避ける」とか「我々は恋人から逃げる」とか「我々は恋人を遠ざける」などとなります。ここでは我々が恋人から逃げているのであって、恋人が我々から逃げているのではないのです。逃げ去っていくのは我々であって、恋人ではないのです。恋人が我々を振るのではなく、我々が恋人を振っているのであり、我々の方から恋人との縁を切っているのです。従って問題の文は「恋人は我々の元から逃げ去られる恐れがある」という感じで訳すのではなく「恋人は我々に逃げられる恐れがある」とか「恋人は我々から縁を切られるおそれがある」などと訳さねばなりません。これがここでの正しい訳です。でも変ですよね。「話が違うじゃないですか、Schopenhauer 先生!」と言いたくなります。これまでは、思い浮かぶ考えと恋人とが類比され、パラレルに語られていたのに、ここで急にパラレルな関係が破綻しています。話の流れに合っておらず、流れからそれてしまっています。おそらく修辞的効果を狙い、考えについて「vergessen zu werden」と言ったのに合わせて恋人についても「過去分詞 zu werden」と言うべく「geflohen zu werden」と言ってはみたものの、結果的に意味の方が話の流れからそれてしまったのだと思います。失敗していると思います。先生らしからぬ失敗だと感じます。おかげで誤訳してしまいました。まぁ、誤訳は誤訳であり、不注意だった私に最終的な責任はあるので言い訳はできませんが。

wenn sie nicht angetraut worden: 4格 + 3格 + antrauten で、「4格を3格と結婚させる」。また、worden のあとでは habt が省略されています。

 

§. 269.

Es giebt Gedanken die Menge: Es giebt + 4格で「(4格) が存在する」。問題は die Menge です。なぜかここで唐突にこのような名詞句が出てくるのでちょっと意表を突かれます。Es giebt + 4格名詞のあとにまたもう一つ名詞 (句) が並んで出てくるのは普通は変です。考えられる可能性は少なくとも二つあります。一つは、Gedanken と die Menge とが意味の上で (も) 同格で、ここでは「die Menge という考えがある」とか「die Menge としての思考が存在する」などを意味している、という可能性です。もう一つは、die Menge が副詞的に使われていて、Es giebt にかかっている可能性です。一つ目が正しいなら、このあと die Menge に関する話題が論じられるはずです。しかし読み進めてみてもその種の話題は出てきません。ということは二つ目が正しいだろうと推測できます。そして事実、この die Menge は副詞的に使われていて、ここでは「〜という考えが多くある」を意味します。小学館の『独和大辞典』の第二版や相良先生の『大独和辞典』で Menge を引くとこの手の用例が出てきます。例文を一つ引用してみましょう。便宜上、相良先生が監修した研究社の『独和中辞典』から引いてみます。Er hat Geld [Bücher] die 〜 . 「彼は金 [本] をたくさん持っている」。これは私の推測ですが、この die Menge はいわゆる「副詞的4格」ではないかと思います。

welche Werth haben: welche は関係代名詞。対する動詞は haben。この haben は複数形の活用語尾を持っているので単数の Werth がこの haben の主語ではあり得ず、welche が主語だとわかります。しかもこの welche の先行詞は単数の die Menge ではあり得ず、複数の Gedanken だとわかります。

für Den, der sie denkt: Den は指示代名詞男性4格で、人を不定に表しており、直後の関係代名詞 der の先行詞として立てられています。この der は男性1格。対する動詞は denkt。sie は複数4格で、前方の Gedanken を指しています。

nur wenige: ここには省略があります。すべて書き出すと、es giebt nur wenige Gedanken。

welche die Kraft besitzen: ここも先ほどと同様で、welche は関係代名詞であり、対する動詞は besitzen です。この besitzen は複数形の活用語尾を持っているので単数の die Kraft がこの besitzen の主語ではあることはなく、welche が主語だとわかります。そしてこの先行詞は複数の ihnen であり、これは Gedanken を指しています。

noch durch Reperkussion, ... , zu wirken: この不定詞句は die Kraft にかかる形容詞的用法です。

d. h.: das heißt (つまり) の略。

nachdem sie niedergeschrieben worden: 副文を構成する nachdem 文内では通常、時制は主文より前の時制を取ります。たとえば主文が現在なら nachdem 内は過去です。そのため、worden のあとでは haben が省略されており、完了形になっています。

dem Leser Antheil abzugewinnen: この不定詞句も die Kraft にかかる形容詞的用法になっています。

 

意訳

日本語として自然な訳、一度読んだだけで意味の取れるわかりやすい訳を目指して和訳を作成しました。それ以外の要素はすべて後回しにしています。

自力で私訳を作ったあと、既刊邦訳を参照すると、一箇所誤訳しておりましたので、その部分は修正して掲げます。その他は修正していません。

§. 268.

ある考えが思い浮かんでいる、ということは、恋人がいる、というようなものである。その考えは決して忘れることはない、と我々は思うものであり、その恋人は決して赤の他人になることはない、と思うものである。しかし視界から消えれば頭からも消えるのだ! どれほどすばらしい考えであっても、書き留められなかったなら、忘れ去られ二度と思い付かない恐れがあるように、恋人も、結婚しなかったなら、我々が縁を切る恐れもあるのである。

 

§. 269.

当人にとっては考えるに値すると思えるようなそんな考えはたくさんある。しかしさらに周りの人々の反響を呼び、省みられることで影響力を持つような考えはわずかしかない。つまり、書き下ろされたあと、読者にとって得るところのあるようなそんな力を持った考えはわずかしかないのである。

 

訳文比較

今回のドイツ語文は短いので、参考までに既刊邦訳三種類を引用してみましょう。そしてそれぞれの違いを味読してみてください。刊行順に並べます。

 

まず岩波文庫版です。21ページから引用します。

12

 心に思想をいだいていることと胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい、この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし去る者は日々に疎 (うと) しである。もっとも美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある。

 

13

 ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値をもつ。ただ少数の思想のみが、読者の反響を通じて働き続ける力をもつ。言い換えれば、書きおろされた後にも読者の関心をうばう力をもつ。

結構訳者なりの補足的装飾が多いですね。いつもながら、これが岩波文庫版の特徴だと感じます。

 

次に白水社版。74ページから。

 思想が頭にうかんでいるのは、恋人がありありと心にうかんでいるのと同じだ。よもやこの思想を忘れることは絶対にあるまい、またこの恋人がつれなくなることもあるまいとわれわれは思う。しかし「去る者は日々に疎 (うと) し」だ! どんなにみごとな思想でも、書きとめておかなければ、二度と思いだせないほど忘れさられる危険があり、恋人も結婚しなければ、われわれに振られないともかぎらないのだ。

 考えている当人にとって、それなりの価値をもっている思想はいくらもあるが、読者にそれがこだまのように反響し、あるいは光のように反射して働きつづけるだけの力をもっている思想は、そのなかでもわずかなものだ。謂 (い) う心は、それが書きおろされたあとでも、読者の関心をかち得るだけの力をもつ思想ということである。

白水社版は比較的堅実な印象を受けます。特に、恋人が我々を振るのではなく、我々が恋人を振るというように、正しく訳せている箇所が印象的です。

 

今度は光文社古典新訳文庫版です。23-24ページからの引用です。

12

 考えがいま頭の中にあるということは、恋人が目の前にいるようなものだ。私たちは、この思索を忘れることなど決してない、この恋人がつれなくなることなど決してない、と考える。だが「去る者は日々に疎 (うと) し」だ。どんなにすばらしい考えも、書きとめておかないと、忘れてしまい、取り返しがつかなくなる危険がある。恋人も結婚でつなぎとめておかないと、永遠に去ってしまうおそれがある。

 

13

 考えている人にとって価値ある考えは、たくさんある。だが反響や反撥 (はんぱつ) を経てなおも効力ある思想、すなわち、書き下ろした後も読者の共感を得られる思想はごくわずかだ。

たぶん光文社版が一番読みやすく、今の時代の気分に合った訳だと思います。

 

最後に念のため、私訳を再度挙げておきます。

§. 268.

ある考えが思い浮かんでいる、ということは、恋人がいる、というようなものである。その考えは決して忘れることはない、と我々は思うものであり、その恋人は決して赤の他人になることはない、と思うものである。しかし視界から消えれば頭からも消えるのだ! どれほどすばらしい考えであっても、書き留められなかったなら、忘れ去られ二度と思い付かない恐れがあるように、恋人も、結婚しなかったなら、我々が縁を切る恐れもあるのである。

 

§. 269.

当人にとっては考えるに値すると思えるようなそんな考えはたくさんある。しかしさらに周りの人々の反響を呼び、省みられることで影響力を持つような考えはわずかしかない。つまり、書き下ろされたあと、読者にとって得るところのあるようなそんな力を持った考えはわずかしかないのである。

 

以上、原文並びに四つの和訳を比べてみて、皆さまはどう感じられたでしょうか? それぞれに味が出ていて面白いですね。ジャズのスタンダード・ナンバーを各自が各自なりに演奏しているようで、興味深いです。まぁ、私のが一番うまくないでしょうが。

なお、念のために記しておくと、既刊邦訳が底本としたドイツ語原文はどれも一字一句完全に同じであるとは限りません。少しずつ違っているために、邦訳でも違いが出ている可能性があります。この点踏まえておいてください。

 

終わりに

今回は、あるいは今回も、思わぬ誤訳に足をすくわれてしまいました。あれはちょっと Schopenhauer 先生に文句も言いたくなるものでしたが、でもやはり誤訳なんだから文句は言ってはいけないでしょうね。けれど、あそこは修辞的効果を狙いすぎて外してると思うんですけれどもね。これは文句かな? すみません。黙って勉強します。

最後にお詫びを。ここまで、誤字、脱字があったことと思います。それに誤解、無理解、勘違いもあったことでしょうし、さらには誤訳、悪訳も残ったままでしょう。これらすべてについて、申し訳なく感じます。どうかお許しください。