Selbstdenken, Part XIII.

目次

 

はじめに

Arthur Schopenhauer の Selbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読む続きです。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただく邦訳や、その他の注意事項についてはすべて、以下を読まれる前に Part I をご覧ください。

 

ドイツ語原文

§. 270.

Dabei aber hat doch nur Das wahren Werth, was Einer zunächst bloß für sich selbst gedacht hat. Man kann nämlich die Denker eintheilen in solche, die zunächst für sich, und solche, die sogleich für Andere denken. Jene sind die ächten, sind die Selbstdenker, im zwiefachen Sinne des Worts: sie sind die eigentlichen Philosophen. Denn ihnen allein ist es Ernst mit der Sache. Auch besteht der Genuß und das Glück ihres Daseyns eben im Denken. Die andern sind die Sophisten: sie wollen scheinen, und suchen ihr Glück in Dem, was sie dadurch von Andern zu erlangen hoffen: hierin liegt ihr Ernst. Welcher von beiden Klassen Einer angehöre, läßt sich bald merken, an seiner ganzen Art und Weise. Lichtenberg ist ein Muster der ersten Art: Herder gehört schon der zweiten an.

 

ドイツ語文法事項

あまりに初歩的な文法事項は記さずスルーすることがあります。どうかご了承ください。

Das: 指示代名詞。このあとの不定関係代名詞 was の先行詞。ここの文の主語。ただし主語ではあるものの、私訳では直後の、本来述語である wahren Werth を主語に見立て、Das を述語に変えて訳しています。その方がずっと自然な訳になるからです。(私訳作成後、参照してみた既刊邦訳三種類でも同様に訳されています。)

was: 既述のとおり、不定関係代名詞。

für sich selbst: für sich で普通は「自分で」の意味。しかしこのセクション全体をよく読むならば、厳密には「自分に対して」の意味を持つと考えるのが適切だと思われます。「自分が自分を対話相手にして考える」という感じです。そうすると結局それは「自分のために考えている」とも言えるでしょうから、実際の訳文では「自分に対して」という生硬な訳を与えるよりも「自分のために」という自然な訳を与える方が適当でしょう。このあとに出てくる für sich も同様です。

in solche: 直後に Denker が省略されています。そしてこの Denker は、そのまた直後の関係代名詞複数1格の die の先行詞になっています。また、このあとの und solche についても同様のことが言えます。

für Andere: これは für sich と対になっており、後者は「自分のために」と訳されるのでしたから、für Andere もそれに対応するように「他人のために」と訳すのが適切だと一見思われます。しかしこのセクションをよく読むと、それは不適切だと考えられます。そもそも「他人のために」という日本語は「他の人の利益になるように」とか「他の人が有利になるように」などを意味するのが普通でしょう。しかしこのセクションでは逆に、für Andere と言いつつも、実際には自分に有利になるように考える様を述べています。従って für Andere を「他人のために」と訳すのはまったくミスリーディングだと思います。ここは字義通りには「他人に対して」を意味すると考えられます。für sich は自分を相手に考えを展開しているのでした。それに対して für Andere は他人を相手に、他人を念頭において、他人の出方を計算に入れながら、考えを展開していると言えます。

Jene: いわゆる「前者」、「後者」の「前者」に相当し、ここでは自分のために考える人たちのことを指しています。

ächten: この語は最初、私には何だかわかりませんでした。明らかに形容詞の弱変化形であり、すると ächt という形容詞の原形が辞書に載っているはずですが、小学館の『独和大辞典』第二版にも、相良先生の『大独和辞典』も載っていません。そこでこの語は「エヒト」と発音する別の語の異字体ではないかと考え、元々は echt とのことだろうと推測しました。echt は「真の」とか「本物の」という意味であり、直後に Denker (複数形) が省略されているとすると、意味の上で文脈にピッタリ当てはまります。念のためにいつも参照する既刊邦訳三種類をひも解くと、どれも今言った意味で訳されていました。というわけで、ächt は echt のことと思われます。

die Selbstdenker, im zwiefachen Sinne des Worts: これを直訳すると「「Selbstdenker」という語の二重の意味で自分で考える人」。この直後にコロン (:) があるので、このコロンのあとでその二重の意味がどれとどれなのか、説明されているような気が一見しますが、コロンのあとを読むとどうやらそうではないとわかります。するとその二重の意味はこのセクションの前の方で説明されていると考えるほかありません。しかし二重の意味の一つが「自分のために考える人」ということはそこで明示されていますが、もう一つは明示されていないように見えます。ところでこのセクションの前までは Selbstdenker という語で一貫して「自分で考える人」のことを意味しているのでした。ということは、今問題になっている二重の意味のもう一つとは、この「自分で考える人」のことだと考えざるをえません。以上により、問題の二重の意味とは「自分で考える人」と「自分のために考える人」のことになります。なお、既刊邦訳三種類も同様に解しています。

Denn ihnen allein ist es Ernst mit der Sache.: 逐語訳すると「というのも (Denn) 彼らにとって(ihnen) だけ (allein) 物事 (der Sache) は (mit) 真剣 (Ernst) である (ist) からである (Denn)」。ihnen は人称代名詞複数三格。es は形式的な非人称の es です。Denn ihnen allein の部分を無視して書き直すと「Es ist Ernst mit der Sache」となり、これは「Es ist A mit B」という構文で、「B は A である」という意味です。この mit は意味上の主語を表していると考えられます。

Auch besteht ... im Denken: 「A bestehen in 3格」で「A (の本質) は B にある」。

der Genuß und das Glück ihres Daseyns: 直訳すると「彼らの存在/生活の喜びと幸せ」。これでは硬すぎるので、開いて柔らかく訳せば「彼らの生きる喜びと幸せ」とでもなります。

Die andern: 前の方に出てきた Jene (前者) と対を成しており、「もう一方」とか「後者」の意味。具体的には「他人に向かって、他人に対し、他人を念頭に置いて考える人」を指します。

sie wollen scheinen,: この文は機械的には訳せないと思います。ある程度、訳者による解釈を加えて訳さないと意味不明な訳文になります。普通は scheinen は「光を発して/反射して輝く」という意味でない限り、そのあとに形容詞や zu 不定詞を従えるものですが、ここではそうではなく、しかも直後でコンマ (,) により区切られているので、scheinen までで文が一旦完結していると考えられます。そうするとこれを逐語訳すると「彼らは (sie) 見える/思われる/らしい (scheinen) ことを望む (wollen)」とでもなりますが、これではなんのことやらわけがわかりません。ところでドイツ語文には次のような文があります。Viele wollen mehr scheinen als sie sind.  意味は「多くの人が実際以上に見られたがる」です。この文からの類推で問題の sie wollen scheinen を訳せば「彼らは (良く) 見られたがる、見栄を張りたがる、目立ちたがる、見た目を気にする、いかにもそれらしく思ってもらいたがる」などなどとなると考えられます。一応この種の訳になっていればとりあえず正解だと思われます。なおここの sie とは詭弁家、ソフィストたちのことなので、そのことを意味に反映させ、「彼らは詭弁を弄する雄弁家ではなく真実を語る深淵な哲学者として見られたがる」という感じで訳してもいいかもしれません。これをもう少し簡潔にした訳文もありでしょう。実際、岩波文庫と光文社古典新訳文庫はその方針で訳しておられます。

Dem: 指示代名詞。あとの不定関係代名詞 was の先行詞。

dadurch: da- は前方の Denken を指していると私は解しました。ここの関係文内で言われているのは「ソフィストというのは、考えることそのものが目的なのではなく、考えることを手段にして、つまり弁論を通じて他人から、たとえば金銭や名声などを獲得したいと思っているものである」というようなことだと思われます。ただし da- が指しているのは直前の文 sie wollen scheinen のことだとする解釈もあります (岩波文庫、光文社古典新訳文庫)。

Welcher von beiden Klassen Einer angehöre,: これは疑問文で、この文が ... und Weise まで続く文全体の主部を成しています。逐語訳すると「ある人が (Einer) 両方のクラス (beiden Klassen) のうちの (von) どちらに (Welcher) 属するかは (angehöre)」。Welcher は女性三格。angehöre は接続法第一式。なぜならこの疑問文は間接疑問文で、間接文の一種であり、間接文内の動詞は接続法第一式を取るのが基本だから。

läßt sich bald merken: この動詞句の主語は、その前の Welcher ... angehöre 全体。「sich + 他動詞の不定詞 + lassen」で受動的可能を表し「〜され得る」の意味。この動詞句を直訳すると「(それは) まもなく気づかれうる」。

an seiner ganzen Art und Weise: an は手がかりの an で「〜を手がかりにして」の意味。Art und Weise は方法や手段を意味する常套句。

Lichtenberg ist ein Muster der ersten Art: こちらの Art は方法や手段ではなく種類の意味。この文は「リヒテンベルクは第一の種類の、自分一人で自分のために考える人の典型/お手本である」という意味です。リヒテンベルクが一人で自分のために考え事を記したノートを持っていたことは有名です。その邦訳が作品社や鳥影社から分厚く大きな本で出ていてとても読み切れないほどです。コンパクトな編集本は平凡社ライブラリで池内紀先生の訳により『リヒテンベルク先生の控え帖』の名前で出ています。もしかしたら今では古書でないと手に入らないかもしれません。私は古書で見つけて読みました。というわけでリヒテンベルクが第一の種類の人たちに分類されているのでしょう。

Herder gehört schon der zweiten an: 意味は「ヘルダーは確かに第二の、他人に向けて、他人を念頭に置いて考える人のクラスに属する」。schon は「既に/もう」の意味ではなく、「確かに/間違いなく」の意味。たぶんですが、何かが「既に」ある状態になっているのならば、それは「確かに」そうなっている、とも言えるでしょうから schon は「確かに」という意味も持っているのだろうと個人的に推測します。それはさておき、ヘルダーはたびたび論争を引き起こしたり、論争に加わる人生をすごしたようです。私はよくは知らないのですが、カントやハーマンと論争したり、スピノザを巡る汎神論論争に加わったりしていたようです。きっと人と対話することを通じて考えを展開し、深めるタイプの人だったのでしょうね。というわけで彼は第二の種類の人たちに分類されているのでしょう。

 

意訳

自然な訳になることを第一とし、それ以外は二の次としています。どうかお許しください。

原文のゴシックは下線で代用しています。

私訳を作成したあと、いつもの既刊邦訳三種類を開いて私が誤訳していないか、確認しました。その結果、おそらく私訳に大過はなかったようですが、私訳の三箇所に修正を施しました。といっても既刊邦訳三種類に合わせたのではなく、元々その三種類の訳とは異なる私訳をさらにブラッシュアップしただけです。それ以外は手を付けていません。

 

§. 270.

だがその場合でもやはり真に価値があるのは、まず何よりも自分自身のためにだけ考えたことであり、これだけなのである。要はこういうことだ。我々は考える人たちを、まずもって自分のために考えるような人と、真っ先に他人を相手に考えるような人に分類することができる。前者は本物であり、二重の意味で、すなわち自分のためとともに自分で考える人なのである。つまりこの人たちは根っからの哲学者・知を愛する人たちなのだ。というのも彼らだけが問題となっていることに真剣に取り組むからである。それにこの人たちの生きる喜びと幸せは、まさに考えることのうちにある。もう一方の、すぐに他人相手に考え出す人は詭弁家 (ソフィスト) である。彼らは見栄を張りたがり、自分たちの求めてやまない幸せは、考えることを手段にして、他人から得たいと思っているもののうちにあるのだ。これを得ることに彼らは真剣になるのである。この二つのグループのうち、人がどちらに属するかは、その人の考えるやり方全体を手がかりにすればただちに判明する。リヒテンベルクは前者のお手本である。しかしヘルダーは間違いなくもう一方に属する。

 

訳文比較

原文の一部について、既刊邦訳三種類がどのように訳しているのか、引用して比較してみましょう。各訳書の特徴がつかめるような、短い表現を見てみます。

取り上げるのは次の箇所です。

Die andern sind die Sophisten: sie wollen scheinen, und suchen ihr Glück in Dem, was sie dadurch von Andern zu erlangen hoffen:

ここでは sie wollen scheinen 以下の訳し方に注目して、このあとの邦訳を読んでみてください。

 

それでは岩波文庫版から。22ページより引用します。

第二のタイプの思想家はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。

この岩波文庫版が底本としたドイツ語原文が上で引用したドイツ語文とまったく同じであるならば、ここでは「世間から思想家であると」という表現以下がかなり補足されていることになります。古代ギリシアのソフィストのことを念頭に置いて訳語を加えたのでしょうね。

また「かくして」は dadurch の訳だと思われるのですが、この da- は「世間から思想家であると思われること」を指しているようですね。あとでこの点に触れますので、ここでこのことを確認しておきます。

 

次に白水社版。75ページからの引用です。

第二のタイプがソフィストだ。彼らは見せかけようと欲する。そしてその幸福を、他人から得られると見込まれるもののうちに求める。

なるほど、scheinen をこう訳すと「それっぽい」ですね。補足を加えなくても一応訳せています。ただし「「見せかけようとしている」って、何をどう見せかけようとしているのだろう?」という疑念は読者に生じてしまうでしょう。でも、白水社版は原文から離れないように努めている気持ちはよくわかります。

その一方で、dadurch の訳がないですね。うっかり見落としてしまったのかもしれません。私にもよくあることです。

 

そして光文社古典新訳文庫版。25ページから。邦訳にある振り仮名は省いて引用します。

第二のタイプはソフィスト、詭弁家だ。「〜らしさ」を求め、他人の目に哲学者らしく映ることに幸福をもとめる。

これは岩波版に近い訳し方ですね。scheinen を「「〜らしさ」を求め、他人の目に哲学者らしく映ること」というように、かなり「開いて」訳しておられます。

また、dadurch の訳が明示的には現れていないようですが、文脈から、岩波版と同様に「その見た目により、その見た目を通じて」という意味合いが伏在しているように思われます。

なお、原文のゴシックがこの訳には反映されていません。そもそもこのセクションのゴシックがどれも光文社版では訳出されていません。もしかすると光文社版の底本にはゴシックがなかったのかもしれませんが。

 

最後に私訳から引用します。

もう一方の、すぐに他人相手に考え出す人は詭弁家 (ソフィスト) である。彼らは見栄を張りたがり、自分たちの求めてやまない幸せは、考えることを手段にして、他人から得たいと思っているもののうちにあるのだ。

この私訳をどう評価したらよいか、それは読者にお任せします。

なお、この訳では dadurch の da- が Denken を指すものとして訳しています。しかし岩波版と光文社版は上で確認したごとく、da- が scheinen を指していると解しているようです。

では、なぜ私が da- が Denken を指していると考えたのかというと、古代ギリシアのソフィストを念頭に置くと、彼らは考えることで金銭を得ていたと思われるので、これを踏まえて私は da- が前方の Denken を指していると考えたのです。間違っていましたらごめんなさい。

 

振り返ってみると、白水社版はまたしても原文から極力離れないように訳していることがわかります。それ以外は私訳も含め、割と離れた訳を試みていることがわかりますね。

 

終わりに

これで今日は終わります。おそらく誤字や脱字、誤解や無理解や勘違い、加えて私訳に誤訳、悪訳、拙劣な表現が残っていると思われます。可能な限り、それらを減らそうとは努めているのですが、いつもベストな心身の状態で話を書き付けているわけではないので、どうしてもその種の瑕疵がいくつか残存しているかもしれません。どうか寛大な心でもってお許しいただければ幸いです。