Reading Wittgenstein's Philosophische Untersuchungen, Part III: Languege-Game

目次

 

はじめに

今回もまた L. Wittgenstein の Philosophische Untersuchungen をドイツ語原文で楽しんでみます。

前回は、「言語ゲーム」というよく知られた言葉の定義のようなものを、上の『哲学探究』の中に見てみました。本日は、その言葉が表すさまざまな事例を Wittgenstein が同書で挙げているので、その部分を読んで、言語ゲームの具体例を学んでみましょう。

以下ではまずドイツ語原文を掲げ、そしてその文法事項を私のほうで説明し、そのあと私による直訳/試訳を記し、それから『探究』の邦訳を三つ引用し、それぞれを私訳と対照させつつ比較してみることにします。

三つの邦訳とは次です。刊行年順に掲げます。一つ目はハンディーなサイズで利用しやすい訳、あとの二つは最近の研究成果に基づく新しい訳です。

・黒田亘編  『ウィトゲンシュタイン・セレクション』、黒田亘訳、平凡社ライブラリー平凡社、2000年 (初版1978年)、(「平凡社版」と略記)、

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン  『哲学探究』、丘沢静也訳、岩波書店、2013年、(「岩波版」と略記)、

・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン  『哲学探究』、鬼界彰夫訳、講談社、2020年、(「講談社版」と略記)。

これらのドイツ語底本が何であるかは『探究』を独文原文で読む最初の回の、それぞれの訳書に対する註を参照願います。

 

ドイツ語原文

例により、ドイツ語原文は The Ludwig Wittgenstein Project 提供の版を使います。URL はここでも『探究』を独文原文で読む最初の回の、ドイツ語原文に対する註を見てください。

・Ludwig Wittgenstein  Philosophische Untersuchungen, hrsg. von G. E. M. Anscombe, R. Rhees, G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein Werkausgabe, Band 1., Suhrkamp Verlag, 1999.

 

23. Wieviele Arten der Sätze gibt es aber? Etwa Behauptung, Frage und Befehl? – Es gibt unzählige solcher Arten: unzählige verschiedene Arten der Verwendung alles dessen, was wir »Zeichen«, »Worte«, »Sätze«, nennen. Und diese Mannigfaltigkeit ist nichts Festes, ein für allemal Gegebenes; sondern neue Typen der Sprache, neue Sprachspiele, wie wir sagen können, entstehen und andre veralten und werden vergessen. (Ein ungefähres Bild davon können uns die Wandlungen der Mathematik geben.)

Das Wort »Sprachspiel« soll hier hervorheben, daß das Sprechen der Sprache ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebensform.

Führe dir die Mannigfaltigkeit der Sprachspiele an diesen Beispielen, und anderen, vor Augen:

Befehlen, und nach Befehlen handeln –

Beschreiben eines Gegenstands nach dem Ansehen, oder nach Messungen –

Herstellen eines Gegenstands nach einer Beschreibung (Zeichnung) –

Berichten eines Hergangs –

Über den Hergang Vermutungen anstellen –

Eine Hypothese aufstellen und prüfen

Darstellen der Ergebnisse eines Experiments durch Tabellen und Diagramme –

Eine Geschichte erfinden; und lesen –

Theater spielen –

Reigen singen –

Rätsel raten –

Einen Witz machen; erzählen –

Ein angewandtes Rechenexempel lösen –

Aus einer Sprache in die andere übersetzen –

Bitten, Danken, Fluchen, Grüßen, Beten.

– Es ist interessant, die Mannigfaltigkeit der Werkzeuge der Sprache und ihrer Verwendungsweisen, die Mannigfaltigkeit der Wort- und Satzarten, mit dem zu vergleichen, was Logiker über den Bau der Sprache gesagt haben. (Und auch der Verfasser der Logisch-Philosophischen Abhandlung.)

 

ドイツ語文法事項

Wieviele Arten: このあとに gibt es があり、これは「es gibt 4格」(4格が存在する) の疑問形なので、Arten は Art の複数形、Wieviele は Wieviel の複数4格であるとわかります。

Etwa: etwa には三つの意味があり、「約、およそ」、「たとえば」、「ひょっとして」です。ここではあとの二つが訳として当てはまる可能性があります。三つ目の「ひょっとして」という訳でも訳文として筋が通ると思われますが、まぁここは普通に「たとえば」という訳語が適当でしょう。

Es gibt: 最初の註を参照。

unzählige solcher Arten: ここには省略があります。すべて書き出すと unzählige Art solcher Arten であり、逐語訳すると「その種類のうちの無数の種類」。unzählige Art は女性4格 (1格ではなく4格なのは、それが es gibt に支配されているから)、solcher Arten は複数2格。

unzählige verschiedene Arten der Verwendung: unzählige verschiedene Arten は複数4格 (1格でないのは、これも es gibt に支配されているから) であり、der Verwendung は女性2格。

alles dessen: alles は中性2格、dessen は指示代名詞で、これも中性2格。alles dessen は直前の Verwendung にかかっており、意味は「それのすべての (変化)」。さらにこの dessen は直後の不定関係代名詞 was の先行詞になっています。

was: 今も述べたように、これは不定関係代名詞で、逐語的な訳は「〜するところのもの」。先行詞はすぐ前の dessen。「Verwendung alles dessen, was wir ..., nennen」を逐語訳すれば「われわれ wir が ... と呼ぶ nennen ところのものである was それの dessen すべての alles 変化 Verwendung」。

nichts Festes: nichts は不定代名詞「何も〜ない」で1格。老婆心ながらここで一言。A ist B とあり、A が主語の1格の時、B が名詞ならば、それは通常1格です。ちなみに私の記憶ではドイツ語文法の初級書で、この「A ist B」の B が1格であるという初歩的な事実を説明していない本がありました。ちょっと信じられないことであり、私の記憶が間違っていなければですが、もしもドイツ語文法を学び始めたばかりのかたでこのことをご存じないかたがおられましたら、この B は1格であると、ぜひ覚えておいてください。とても大切なことですので。閑話休題。Festes は形容詞 fest (固い) の中性名詞化したもので、これも1格であり、つまり nichts と同格です。Festes は2格のように見えますが、過去にどうあったかは別にして、現代では nichts と同格の1格と考えられています。etwas Neues などなどの Neues も同様です。そして nichts Festes の意味は直訳すると「何も定まっていない、定まったものは何もない、定まっていないもの」などです。

ein für allemal: これはいわば熟語。ちょっと訳しにくい言葉であり、実にさまざまなな訳語が当てられます。たとえば「きっぱりと、断固として、断然、今からずっと、永遠に、一度だけ、千載一遇の、これを最後に、今回だけ」などです。für は期間や日時を意味しており、おそらくこの語句は einmal für allemal の略で、たぶん原義は「あらゆる回に渡るうちの一回につき」だろうと思われます。この原義が色々と変奏、展開されて、さまざまな訳になって現れているのだろうと思われます。私はこれをここでは「一度で終わり」みたいな感じで訳してみました。

Gegebenes: これは前の nichts と同格で、Festes と同じ用法になっています。

neue Typen der Sprache: 逐語訳すれば「言語の新しい型」、もう少し自然に訳せば「新たなタイプの言葉」。この語句は、ここでは複数1格であり、対する動詞は entstehen (生まれる) です。複数形 Typen の単数形は Typ または Typus です。つまり Typ も Typus も複数形になるとどちらも Typen になるということです。

neue Sprachspiele: neue Typen der Sprache と同格の複数1格。動詞は、同じくentstehen です。

wie wir sagen können: wie gesagt (すでに述べたように) という似た言い回しがありますが、wie wir sagen können も同種の定型的な言い回しなのかもしれません。あるいは wie は接続詞でありながら関係代名詞のような働きをしているのかもしれません。私はこのような wie の用法を個人的に「擬似関係代名詞」と呼んでいますが、この用法の場合は wie の副文中に1格か4格の指示代名詞が現れるのが普通です。しかしここではそれが現れていないので、この wie を擬似関係代名詞と見なしていいのか、私には結論が下せません。いずれにしても逐語訳すれば「我々が言うことができるように」となります。これを展開すると「我々には言うことが許されているように」とか「我々が述べることがあり得るように」などとなります。

andre veralten: この二つの語の間に「Typen der Sprache」かつ/または「Sprachspiele」が省略されています。

werden vergessen: この語句の主語は直前の veralten の主語と同じです。

Ein ungefähres Bild davon: 単数形であるこの語句はこの文の主語ではありません。直後に助動詞の können が来ており、これは単数形の語句を主語に取る形ではなく、複数形の主語を取る形です。そしてその主語はこのあとの複数形語句 die Wandlungen der Mathematik です。よって件の Ein ungefähres ... は (Ein という不定冠詞から2格、3格ではあり得ないとわかるので) 不定形動詞 geben に対する4格名詞句であるとわかります。以上により、Ein ungefähres ... は文の先頭に置かれているので、一瞬1格の主語かと感じてしまいますが、4格名詞句が強調のために先頭に立っているだけ、ということです。

soll: 典型的な用向きの sollen で、意味は「〜するためのものである」。

ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebensform: ここは本来は、フルで書き出すと「ein Teil einer Tätigkeit ist, oder ein Teil einer Lebensform ist (活動の一部である、または生活形式の一部である)」とでもなるでしょうが、長々しいので簡略化し、枠内末尾に来るべき動詞の ist を前に持って来て、「einer Tätigkeit, oder einer Lebensform」を枠外に配置するという、ちょくちょく見られる変則的構文を取っています。

Führe dir die Mannigfaltigkeit ... vor Augen: 「3格 + 4格 + vor Augen führen」で「(3格) に (4格) を明示する」。「Führe」は命令形の単数2格なので、ここを訳せば「(君は) 君にその多様性を明示せよ」となります。ちなみに私はこの命令形を、見当違いなことに、一人称の ich が省略された1格の接続法第一式で、要望または決定の意味 (私は〜したい、〜することにする)、あるいは ich の省略された直説法現在形で、未来または意志の意味 (私は〜するだろう、〜しよう) と取ってしまい、大変な誤訳をしてしまいました。ひどいことですね。初歩的なところでつまずいてしまいました。なぜつまづいたのかというと、まず何よりも「Führe」を2格の命令形に取って「(君は) 君にその多様性を明示せよ」と解すのは何だか変だと感じたのです。「君は君に〜せよ」というのは何だかおかしいと思いませんか? 私はそう思ってしまったのです。それで、このあと、多数の箇条書きの文が並んでいますが、それらはいずれも主語の ich または wir が省略されていると考えられるので、ここでもてっきり ich が省略されており、「その場合「Führe」は接続法第一式か直説法現在になるな」と早とちりしてしまったのです。しかし先生方の邦訳で私訳をチェックしてみると、私がヘマをやらかしていることに気が付きました。「(君は) 君にその多様性を明示せよ」は単に「(dir を「所有の3格」と解しながら) 君の眼前にその多様性を思い描いてみるがよい」とでも訳せばすむことです。いやそれにしても間違いがわかってよかったです。先生方に深く感謝申し上げます。

an diesen Beispielen: この an は、まったくの典型的な験証の an で、diesen は以下の文言を指しており、意味は「以下の諸例に沿って、即して、当たって、就いて」などとなります。験証の an の本質的な意味の説明や、その多数の例文は、次に見られます。関口存男、『意味形態を中心とするドイツ語前置詞の研究』、三修社、1957年、第X章「験証の an」、94-100ページ。ここでは面白いことに、Kant の Ding an sich がなぜ Ding in sich や Ding hinter sich ではないのか、Ding an sich の an が an であって in や hinter でないことから、そこにどのような意味が読み取れるのか、このことが記されています。関口先生の話によると、それが in や hinter であるならば、物自体は完全に、あらゆる意味で、不可知であり、まったく経験不可能でしょうが、原義として「物の表面に接して」という意味を持つ an であることにより、物自体のいわば表面にまでは肉薄できるのであり、いわるゆ現象を通してなら、その意味でのみ、知ることができ、経験できることが暗示されている、と言えるようです。なるほど、面白いですね、そしてまた緻密な読みですね。今の関口先生の話には私の方から若干補足を入れています。正確には先生の原文に当たってみてください。

und anderen: 「などなど」の意味。

Befehlen,: これは名詞でしょうか? それとも動詞の不定形でしょうか? このすぐあとの nach Befehlen の Befehlen は明らかに名詞ですが、先頭にある Befehlen は、これだけではどちらなのかはっきりしません。ただ、以下に続く箇条書きの先頭の単語はしばらく名詞が並ぶので、この先頭の Befehlen も、統一をとって名詞と解するのがよいかもしれません。するとこのこの語の正確な訳は、「命令する」ではなく、単に「命令」となります。

Beschreiben: これは名詞でしょうか? あるいは動詞の不定形でしょうか? これは名詞です。なぜならこの直後に eines Gegenstands という語句が来ていますが、これは2格であり、2格の表現は、副詞的2格でもない限り、通常、前の名詞に掛かるものであって、そうすると前にある Beschreiben は動詞ではなく名詞だとわかるからです。その場合この名詞は、正確には動詞のように「記述する、説明する」などなどと訳すのではなく、名詞のように「記述、説明」と訳す必要があります。一般に、この語は哲学では、名詞としては「記述」、動詞としては「記述する」と訳されますが、私はここでは「説明」と訳しました。次の箇条書きに出てくる「Beschreibung」という言葉との関係からそう訳したのです。その理由は後で解説します。

Herstellen eines Gegenstands nach einer Beschreibung : Herstellen は動詞ではなく名詞です。理由はこの前の箇条書きにある Beschreiben と同じです。従って厳密には、厳密にはですが、日本語でもこれは名詞のように訳さなければなりません。また Beschreibung の訳ですが、先ほどの註でも述べたように、Beschreiben は哲学では、動詞としては「記述する」と訳されるので、その名詞形 Beschreibung は「記述」と訳されるのが普通です。そこでここの箇条書きを「記述による物の組み立て」と訳したくなりますが、(堅苦しい名詞句で訳されている点は別にしても)「記述による」という部分がとても不自然に感じられます。このような言い方は通常しないだろうと思われます。もう少し自然な言い方は「説明書/説明書きによる物の組み立て」だろうと思われます。そうだとすると、直前の箇条書きの名詞 Beschreiben は「記述」ではなく、統一を取って「説明」と訳すのがふさわしいでしょう。

Berichten: これも名詞ではなく動詞です。理由も先ほどから述べているものと同じです。

Über den Hergang Vermutungen anstellen: 私はこの箇条書きを当初「経過全体の流れを通して見て [結果を] 推測する」というような感じで訳しました。Über には全体を眺め渡すという意味があり、Hergang には段階的なプロセスを感じさせるものがあるからです。しかし先生方の既訳を拝見するとこれが誤訳、あるいは深読みしすぎの訳だと気付きました。Über はただ単に、しばしばあるごとく「〜について」と訳せばよく、その部分は「経過について」と訳すのが正解のようです。私は変に気を回しすぎるようですね。

prüfen: これは「(仮説を) 検証する」と訳すのが普通でしょう。しかしその場合、論理実証主義の、いわゆる「検証主義」をここに連想する人が出てくるとも限りませんので、私は単に「確かめる、試す」というような感じで訳しました。これも気の回しすぎかもしれませんが。

Darstellen: これも動詞ではなく名詞で、理由も先ほどから述べている通りです。

erzählen: einen Witz erzählen で「気の利いた話をする」。

Bitten, Danken, Fluchen, Grüßen, Beten: これらの各語は動詞でしょうか? それとも名詞でしょうか? 答えは名詞でしょう。なぜなら Danken 以下の語はすべて大文字で始まっており、これはその語が名詞であることを表しています。そして先頭の Bitten は文頭故に大文字で始まっているとも見えますが、これ以下の語が全部名詞であることから、この Bitten も名詞であるから大文字になっているのだろうと思われます。故にこれらの語はすべて名詞でしょう。従って厳密には、厳密にはですが、ここはそれぞれの語を名詞として訳す必要があります。

Es ist interessant: Es は後出の zu 不定詞句「mit dem zu vergleichen」を指しています。また「A mit B vergleichen」で「A を B と比較する」。ここで A に当たるのが二つの die Mannigfaltigkeit の句全体、B はそこにある通り指示代名詞 dem ですが、これは後続の不定関係代名詞 was の先行詞になっています。

Logiker: これは一瞬単数形に見えますが複数形です。そのことはこの副文末尾にある haben が複数形の活用をしていることからわかります。

der Verfasser: この言葉は「Schriftsteller」といつでも単純に交換できるわけではないようです。作家が職業を尋ねられたら「Ich bin ein Schriftsteller」と言えばよいと思いますが「Ich bin ein Verfasser」とは言えないようです。というのは「Verfasser」は職業を表す名ではないからです。

Logisch-Philosophischen Abhandlung: これは Wittgenstein の『論理哲学論考』ですが、ここでドイツ語の知識からくる私の深読みを一つ述べさせてください。この著書の題名は (これが書かれた時点で) Logisch-Philosophischen Untersuchungen とでもされていてもよかったと思いますが、なぜ Untersuchungen ではなく Abhandlung とされたのでしょうか? 別に Untersuchungen ではなく Abhandlung としたことに深い意味はなかったのかもしれませんが、もしかするとドイツ語の意味や語感からいって Wittgenstein はわざわざ Abhandlung を選びたかったのかもしれません。『論考』は哲学に最終的な解決をもたらした書であるとされていることはよく知られています。本人は哲学について「すべて考え尽くした」と、これを書いた時、思っていたようです。ところで Abhandlung の ab- という前綴りは「悉皆、一切合切」の意味があります。たとえば absuchen の意味は「くまなく、しらみつぶしに探す」です。そこで『論考』を書き終えた時、Wittgenstein は哲学を「すべて考え尽くした」と感じていたので、その本の題名にもそのことを伝える名前を冠したかったのかもしれません。そこでこの感じを表す Abhandlung がタイトルに選ばれたのかもしれません。まぁこれは単なる推測であり、たとえこの通りだったとしても、ここから何か貴重な教訓が得られるというものでもありませんが。間違った推測でしたらすみません、深読みしすぎでしたらごめんなさい、忘れてください。

 

直訳/私訳

以下の訳文は、語学のために原則として直訳/逐語訳を採用しています。別の言い方をすると、大学入試の英文和訳問題のように、「文の構造や文法事項が分かった上で訳してますよ」ということが採点者に伝わるような訳文にしてあります。なお、直訳すると判読が困難に陥りそうな場合には、直訳調をいくらかゆるめています。そしてイタリックは下線で表しています。

いつものように、最初は先生方の既訳を拝見せずに自分の力で訳し、あとで誤訳の有無を先生方の訳でチェックしました。すると例によって例のごとく、今回も誤訳がありましたので、そのことを教えてくださいました先生方の訳に感謝申し上げます。大変ありがとうございました。

 

23. しかしそれにしても文にはいくつの種類があるのだろうか? たとえば主張、質問、命令 [の文だけだろうか?] ー そのような種類には無数のものがある。つまり、我々が「名称」、「語」、「文」と呼んでいるものはすべて変化するのであり、それが変化する分だけ多くの、無数に異なる種類のものがあるのである *1 。さらにこの多様性は固定されたものではなく、一度与えられたらそれで終わりというものでもない。むしろ新たなタイプの言語が生まれるのであり、新たな言語ゲームと我々が呼ぶことのできるものが生まれるのであって、その他のタイプのものは廃れ、忘れ去られるのである。(数学の歴史的変遷を見れば、その大よそのイメージを我々は得ることができる *2

「言語ゲーム」という語は、言葉を話すことは行為の一部であることを、あるいは生活形式の一部であることを、はっきりさせるためにあるのである。

言語ゲームが多様であることを、以下の複数の例などによって、思い描いてみよ。

命令、および命令に従って行動する ー

観察による、または計測による物の説明 ー

説明書き(図面) による物の組み立て ー

経過の報告 ー

経過について推測する ー

仮説を立て、それから確かめる ー

図と表による実験結果の解説 ー

物語を作り、それを読む ー

劇を演じる ー

輪舞で歌う ー

謎々を解く ー

冗談を飛ばし、面白い話をする ー

計算の応用問題を解く ー

ある言語から別の言語へ翻訳する ー

依頼、感謝、呪詛、挨拶、祈願。

ー 言語という道具の多様性とその使用法の多様性、語の種類の多様性と文の種類の多様性、これらの多様性を、論理学者たちが言語の構築について述べたことと比べてみることは (さらには『論理哲学論考』の著者の述べたこととも比べてみることは)、興味深いことである。

 

平凡社

174-175ページから引用します。邦訳中の傍点は下線で代用しています。

 ところで文章にはどれくらい種類があるのか。陳述文、疑問文、それに命令文といったところか。ー そういう種類なら無数にある。我々が「記号」「語句」「文章」と呼んでいるものすべての使い方には、無数の異なった種類がある。しかもこの多様さは固定的、最終的なものではなく、新しいタイプの言語が、あるいは新しい言語ゲームが次々に発生し、その一方では他のものがすたれ、忘れられていくのである (数学の変遷にこれの略画を見ることができるであろう)。

 「言語ゲーム」という言葉は、ここでは、言語を話すということが或る活動の、または或る生活形式の一部であるということを明らかにするための言葉である。

 言語ゲームの多様性を次に挙げる諸例や、さらにその他の諸例について思い描いてみよ。

 命令する、そして命令に従って行動する ー

 或る対象を外観によって、あるいは測量に基づいて記述する ー

 記述 (図面) の通りに対象を組み立てる ー

 或る出来事を報告する ー

 その出来事について推測する ー

 或る仮説を立て、検証する ー

 実験の結果を表や図によって示す ー

 物語を創作し、読む ー

 劇を演じる ー

 輪唱する ー

 謎を解く ー

 洒落を言う、受け売りする ー

 算術の応用問題を解く ー

 或る言語から他の言語へ翻訳する ー

 乞う、感謝する、罵る、挨拶する、祈る

ー 言語に属する道具とその使い方の多様性、語や文章の種類や [ママ] 多様性を、論理学者が言語の構造について述べることと比較するのは興味深いことである (『論理哲学論考』の著者もその中に入る)。 (『哲学探究』一部ニ三節)

 

このあとでは、気になった点を挙げてみます。一部を除いて、感心した点についてはあまり言及いたしません。字数が増えすぎますので。

気になった疑問点は、ドイツ語の学習者が翻訳文から抱きそうな疑問です。商業翻訳としては問題ないとしても、学習者から見て、単にもうちょっとよく知りたいと思える点に主として言及しているだけです。なお、これは翻訳批評の類いではございません。そんなことは私にはできません。誤解せれませんようにお願いいたします。

最後に注意すべき点を述べます。参照する既刊邦訳のそれぞれは、上記ドイツ語原文とそっくりそのまま同じ原文を基にして訳出されているのか否か、私は確認を取っておりません。おそらく若干異なった独文を底本にして先生方は訳されているのではないかと推測します。そのため、上記原文と各邦訳との間にずれが散見される気がします。この点、ご注意ください。もともと違った独文からそれぞれ訳されている可能性があるので、決して短絡的に、原文からずれているから「よくない翻訳だ」などと即断せぬようよろしくお願いいたします。

 

(1) 「陳述文、疑問文、それに命令文といったところか」と訳されている部分があります。このうちの「といったところか」はドイツ語の「たとえば」という意味を持つ etwa の訳で、これはうまい処理の仕方ですね。「たとえば」の etwa をこんなふうに訳せるなんて知りませんでした。

(2) 初めのほうに「使い方には」と訳されている箇所があります。原文では Verwendung に対応しています。これを「使い方」と訳しても、細かいことにこだわらなければ許されることなのでしょうが、このセクションの後ろの方では原文に Verwendungsweisen とあって、この語こそ「使い方」と訳されるものです。一つのセクション内で、後者の語があって「使い方」と訳されるならば、前者のドイツ語の単語は、特に断りがない限り、単に「使用」と訳したほうがよいと思うのですが、いかがでしょうか? たぶん「使い方」でも間違いではなく、このように意訳したほうが読者に親切だとは思いますが、ちょっと気になったのでこのことを記しておきます。

(3) 「最終的なもの」のドイツ語原文は nichts ... , ein für allemal Gegebenes ですが、Gegebenes のニュアンス (所与の) が訳に反映されていません。ただし、この語はもともとほとんど意味内容を持たない形式的で空疎な語とも言えるので、それでわざわざその意味内容を訳に反映させるまでもないと考えて、先生はサクッと訳されたのかもしれません。きっとそうでしょう。

(4) 原文の「wie wir sagen können」が訳されていません。平凡社版の底本にはなかったのかもしれませんが。

(5) 「略画」の「略」の字に傍点 (引用文では下線) があるべきですが、ありません。これも底本ではイタリックではなかったのかもしれませんが。

(6) 「言語を話すということ」というように、邦訳では「話す」に傍点 (下線) が施されているのですが、上記のドイツ語原文はここではイタリックになっていません。やはり邦訳の底本ではイタリックになっているのかもしれません。

(7) 「測量に基づいて記述する」の「記述する」は、原文では名詞なので、厳密には訳でも名詞「記述」として訳す必要があると思われます。しかし動詞として訳し出してもまったく問題ありません。この邦訳の箇条書きの箇所では、しばしば本来名詞として訳すべきところを動詞として訳してあります。全体を、統一を取って動詞として訳してあるので、これはこれでよいと思います。私も、細かいことを言わなければ、動詞として統一して訳すか、あるいは名詞として統一的に訳すことになるでしょう。

(8) 箇条書きの一つにある「輪唱する」の原文は「Reigen singen」です。これは輪唱することなのでしょうか? Reigen は「輪舞」のことなので、ガチガチの逐語訳をすると「輪舞を歌う」となりますが、これではわけがわからないので意訳すると「輪舞の際に歌を歌う」、「輪舞で合唱する」などとなると思うのですが、どうなんでしょう? ちょっとよくわかりません。ドイツ語で「Reigen singen」と言えば、それはいわゆる「輪唱」のことなのかもしれません。ドイツ語をよく知らない私にはわかりませんが。

(9) 「言語に属する道具」の原文は「Werkzeuge der Sprache」。曖昧なところのある2格の der を「に属する」というように意訳してくれている点は、読者にとって読解の助けとなるのでありがたいのですが、しかし言語に属する道具とは何のことなのでしょうか? 言語というものに所属したり帰属したりしている道具には何があるのだろうか? どんな道具が言語の一種だと言うのだろうか? ちょっと私にはうまく想像が付かないのですが。言語以外の何かが道具として言語に属していると、そんなふうに私には読めてしまいます。それにしても想像力が貧困な私が悪いのでしょうが、これは単に同格の2格として解すればいいのではないでしょうか。つまり「言語という道具」と、ここは訳せばいいように思われるのですが。

(10) 「語や文章の種類や [ママ] 多様性を」。ここで私は「[ママ]」と入れておきましたが「種類や」の「や」は「の」の誤記でしょうね。私もよく間違って記すことがあるので注意しなければなりません。

(11) 「述べることと比較する」の「述べる」の原文は「gesagt haben」。このドイツ語は普通は過去形で訳される (述べた) ところですが、現在形で訳されています。それでも読解上、問題はありませんが。

 

岩波版

24-25ページから引用します。傍点は下線に代えてあります。また、このセクションで、訳者の丘沢先生は角かっこ [ ] を使って訳注を挿入されている箇所が一つありますが、そこは「[...]」のように省略して引用いたします。

23 さて文にはどれくらい種類があるのだろう? たとえば主張、疑問、命令? ー そういうものなら無数の種類がある。「記号」、「言葉」、「文」と呼ばれるものはみんなその使い方に、無数のさまざまな種類がある。その多様性は固定・不変のものではない。新しいタイプの言語が、言ってよければ、新しい言語ゲームがあらわれては、以前の言語ゲームが古くなり、忘れられていく。(そのおおよそのイメージは、数学の変遷が教えてくれる)

「言語ゲーム」[...] という言葉で強調したいのは、言語を話すことも活動の一部、または生活形式の一部だということである。

 これからあげる例を手がかりにして、言語ゲームの多様性を思い描いてほしい。

 命令する、そして命令どおり行動する ー

 モノ (対象) を、じっくり見てから、または測ってから、記述する ー

 モノ (対象) を、記述 (図面) どおりにつくる ー

 経過を報告する ー

 経過について推測する ー

 仮説をたてて、検証する ー

 実験結果を表やグラフであらわす ー

 物語をつくって、読む ー

 芝居をする ー

 輪唱する ー

 謎を解く ー

 冗談を言い、笑い話を聞かせる ー

 計算の応用問題を解く ー

 ある言語を他の言語に翻訳する ー

 頼む、感謝する、のろう、あいさつする、祈る。

ー 言語の道具とその使い方が多様であること、単語や文が多様であることを、論理学者が言語の構造について語ったことと、比較してみるのは、おもしろい。(論理学者には、『論理哲学論考』の著者も含まれる)

 

ここでも気が付いたことを記します。

(1) 「その使い方に」。Verwendung の訳。これに関する疑問点については平凡社版の疑問の中で述べました。そちらを参照ください。

(2) 「不変のもの」。nichts ... , ein für allemal Gegebenes の訳。これも平凡社版のところで述べましたので、そちらをご覧ください。

(3) 「言ってよければ」。wie wir sagen können の訳。このドイツ語はこのように訳せばいいのですね、うまいなぁ。ここでは können を許可の意味で、wie を認容の意味で取っているのでしょうね。

(4) hier (ここで/この際) が訳されていません。まぁ、ここでは訳さなくても問題はないでしょうが。

(5) 用向きの sollen が訳されていません。これも訳さなくても、特に問題は生じないでしょうが。

(6) 「言語を話すことも」。これが傍点または下線になっていることについては、平凡社版で言及しました。そちらを見てください。

(7) 「例を手がかりにして」。この「手がかりにして」の部分は験証の an の訳であることが一目でわかりますね。とても読みやすくわかりやすくていいです。

(8) この箇条書きでも、名詞を動詞化して訳してあります。このことについては平凡社版のところで触れました。そちらを参照ください。

(9) 「輪唱する」。これについても思うところを既に平凡社版で述べましたので、やはりそちらをご覧ください。

(10) 「言語の道具」。原文は「Werkzeuge der Sprache」。わかりやすい訳文を書かれる丘沢先生には珍しく、ちよっとわかりにくい訳だと思います。「言語の道具」ってなんだろう? 2格の der の曖昧さをそのまま忠実に日本語に写された結果なのかもしれませんが、ここはもう一工夫ほしいと感じました。「言語という道具」あたりが無難かと考えるのですが。

 

講談社

36-38ページから引用します。傍点は下線に直し、訳注は省いて引きます。また、訳者の鬼界先生によると思われる挿入語句が一箇所現れるところがあるのですが、そこは 「[...]」のように省略いたします。

23 それにしても、文にはどれだけの種類があるのだろうか? 陳述文、疑問文、命令文、といったところか? ー そうした種類なら、数限りなく存在する。すなわち、我々が「記号」、「語」、「文」と呼ぶすべてのものには、数限りなく多様な種類の使用が存在する。そしてこの多様性は固定されていて一度に与えられるものではなく、新しい型の言語、いわば新しい言語ゲームが生まれ、別の言語ゲームが廃れて、忘れられてゆく。(その大まかな像が、数学の変遷の中に見られる。)

 ここで「言語ゲーム [...]」という言葉は、言葉を話すことがある活動の一部、ある生活の形式の一部であることを強調するために用いられている。

 以下のような例が示す言語ゲームの多様性をはっきりと見よ。

 命令する、そして命令に従って行動する ー

 対象をよく見て、あるいは測定して、記述する ー

 ある対象を記述 (図面) に基づいて製作する ー

 いきさつを報告する ー

 いきさつを推測する ー

 仮説を立て、検証する ー

 実験結果を表とグラフで表現する ー

 物語を創作し、朗読する ー

 劇を演じる ー

 輪舞をしながら歌う ー

 謎を解く ー

 冗談を言う、小話をする ー

 計算の応用問題を解く ー

 ある言語を別の言語に翻訳する ー

 頼む、感謝する、呪う、挨拶する、祈る。

ー 言語が持つ様々な道具とその使用の多様さ、そして語と文の種類の多様さを、論理学者が言語の構造について述べてきたことと比較するのは興味深いことである。(そして『論理哲学論考』の著者が述べたことと。)

 

やはり気が付いたことを述べます。

(1) 「といったところか」は etwa の訳で、うまいですね。

(2) 「大まかな像」と訳されていて「大まかな像」とは訳されていません。つまり原文では「像」に当たる「Bild」はイタリックになっていないのに訳文では傍点 (下線) か付されています。底本では Bild もイタリックなのかもしれませんが。

(3) 「言葉を話す」。これについてもたびたび述べましたので、話を省略します。

(4) 「用いられている」。soll の訳。用向きの sollen の訳であることが一目瞭然で、わかりやすくいいですね。

(5) 「例が示す」は験証の an に対応する部分ですが、その意味合いがあまり訳に反映されていないように見えます。それとも「示す」で十分反映されているのでしょうか? まぁ、そんなにこだわらなくても構わないと言えば構わないのですが。

(6) 箇条書きのところが動詞で統一されて訳されていることについても繰り返し述べましたので省略します。

(7) 「その使用の多様さ」。ここの「使用」に対して原文では「Verwendungsweisen」となっています。「- weisen」(方法/仕方) の意味が訳出されていません。「使用法」とか「使われ方」、あるいは「- weisen」を方法ではなく様態と捉えて「使われている有り様」などなどと訳し出した方がいいかもしれません。

 

『探究』の言語観とは?

話を終える前に、個人的な印象を一つ記します。

今日は、言語ゲームとして、具体的にはどのようなものがあるのか、その事例を見てみました。

これらの例と、以前に挙げられていた石工の建築現場の例および教室で言葉を学ぶ例から、次のような疑問が心に浮かびます。つまり「これらの例すべてに共通する言語ゲームの本質的な特徴はあるのだろうか」、あるいはすべての例とは言わずとも「これらの例の多くに当てはまる特徴はあるのだろうか」という疑問が浮かんできます。

これらの例を振り返ってみると、その多くが、ある人と別の人との間で、言語を通して何かが行われる時、それらの活動を「言語ゲーム」と Wittgenstein は呼んでいるようだ、と感じられます。

『論考』で提示されていた言語観では、一人の人間が身の回りの世界を言語でもって描写することが、言語の役割と考えられていたように思われます。特にその言語は日本語や英語のような自然言語ではなく、特定の言語に依らない、おそらくあらゆる言語に共通していると推測される理論的な理想言語とでも呼べるものでした。

さらに踏み込むと、『論考』の言語は、世界を描写する言語が世界自身の在り方を決定している、とするような言語だったと思われます。世界の有り様をただ写し取るのではなく、むしろその逆に、理想言語の持つ構造や特徴が世界の有り様を形作っているのである、とするのです。

おおよそこのような、世界が言語を決定するのではなく、それを転倒させた、言語が世界を決定するのである、とする言語の見方を、飯田隆先生は、たぶん Kant にちなんで「超越論的言語観」と呼んでおられるようです。

これに対し、今回読んでみたような『探究』の言語観では、独我的な一人の人間が世界を描写するだけ、とする言語観ではなく、複数のプレーヤーが日常の自然言語によって互いに何かをするという点が顕著に見えると思います。雑然として騒がしく卑近な日常生活の中で、人々がお互いに言葉を取り交わしている様子が感じられます *3

ただし、今回挙げられた言語ゲームの事例を見ると、必ずしも複数のプレーヤーが参加するゲームではなく、『論考』の頃と同様の、単独のプレーヤーが特に他人を意識せずに、言葉で身の回りの物事を描写する例も挙げられており (観察による物の説明など)、単独のプレーヤーしかいなくても言語ゲームは成り立つみたいです。

また言語ゲームは言語を使って何かをすることのようにも見えますが、言語ゲームの一事例としての命令は必ずしも言葉を必要としないと思われます。無言のまま、視線を振ったり、拳を机に叩きつけたりして、命令することも可能です。あるいは言語ゲームの一事例としての劇の上演のうち、無言で行うパントマイムもあります *4

以上の観察が正しいとすると、プレーヤーが単独か複数か、言葉を使って行うかどうかは言語ゲームの成立に関わらないように思われます。

言語ゲームにとり、プレーヤーの単複は問題ではないとすると、また言葉を通じて何かを行うことは問題ではないとすると、『探究』時の言語ゲームによる言語観とはどのようなものになるのでしょうか?

プレーヤーの単複も、言葉の有無も関係ないとすると、言語ゲームの特徴がいわば拡散し、一言で特徴付けることのできる言語ゲームの本質的条件があるのか否か、はっきりしなくなるように思われます。

そこで、言語ゲームに共通する本質とは何か、という疑問に対し、答えを求めて、次回以降、さらに『探究』のドイツ語を読んで行きたいと思います。

 

終わりに

今日はこれで終わります。本日の話の中で、誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いなどなどがありましたらすみません。誤訳や悪訳に対しても、お詫び申し上げます。訳者の先生方にも僭越なことをしましてすみません。しかし先生方からはいろいろ教えられました。誠にありがとうございました。

 

*1:これは少し「開いた」訳文であり、もっと直訳すると次のような感じになります。「我々が「名称」、「語」、「文」と呼んでいるもののすべての変化には無数に異なる種類があるのである」。

*2:これも少し「開いた」訳であって、もっと直訳すると以下のようになります。「その大よそのイメージを、数学の変化が我々に供与可能とするのである」。

*3:そして『探究』では『論考』時の超越論的言語観が背景に退き、あるいはその言語観が放棄され、形而上学的な「世界の有り様がどうしたこうした」という高踏的な立場からの話は雲散霧消したかのようであり、代わりに日常言語の観察に力点が置かれるようになった、と感じられます。

*4:もしかすると Wittgenstein は言葉を使った命令や演劇だけを言語ゲームと見なしているのでしょうか? 無言の命令やパントマイムについては例外として、Wittgenstein は言語ゲームに含めていないのでしょうか? 私にはちょっとわかりませんが。