Reading Kant's Kritik der reinen Vernenft, Part VI

目次

 

はじめに

アプリオリ」、「アポステリオリ」 の区別について、Immanuel KantKritik der reinen Vernenft をドイツ語原文で読んでみる続きです。第ニ版、序論の第一節から引き続き見てみます。

前回同様、このあとは次の流れで話を記します。ドイツ語原文、私による文法解説、私の直訳、岩波文庫純粋理性批判』からの該当箇所引用、既存の仏訳、それに対する私の文法解説、私の直訳、です。

既存の邦訳、仏訳、英訳などをまずは参照することなく、私訳を作りました。それから岩波文庫の訳で誤訳のチェックをしました。おそらく私訳には大過がなかったようなので、私訳は修正せずにそのまま掲げています。

なお、私はドイツ語、フランス語が苦手なので、もしかすると私訳と文法解説に誤りが残っている可能性がないではありません。そのようなことがありましたら、ごめんなさい。注意したのですが、至らないところがあっなら、すみません。それでは原文に移りましょう。

 

ドイツ語原文

Kant の文章は今回も Project Gutenberg から引用します *1

So sagt man von jemand, der das Fundament seines Hauses untergrub: er konnte es a priori wissen, daß es einfallen würde, d. i. er durfte nicht auf die Erfahrung, daß es wirklich einfiele, warten. Allein gänzlich a priori konnte er dieses doch auch nicht wissen. Denn daß die Körper schwer sind, und daher, wenn ihnen die Stütze entzogen wird, fallen, mußte ihm doch zuvor durch Erfahrung bekannt werden.

 Wir werden also im Verfolg unter Erkenntnissen a priori nicht solche verstehen, die von dieser oder jener, sondern die schlechterdings von aller Erfahrung unabhängig stattfinden. Ihnen sind empirische Erkenntnisse, oder solche, die nur a posteriori, d. i. durch Erfahrung, möglich sind, entgegengesetzt. Von den Erkenntnissen a priori heißen aber die jenigen rein, denen gar nichts Empirisches beigemischt ist. So ist z. B. der Satz: eine jede Veränderung hat ihre Ursache, ein Satz a priori, allein nicht rein, weil Veränderung ein Begriff ist, der nur aus der Erfahrung gezogen werden kann.

 

ドイツ語文法事項

So sagt man: sagen の目的語はコロン (:) 以下の文。

er konnte es: es はこのあとの daß 文を指します。

es einfallen würde: こちらの es は前の中性名詞Haus を指します。(同じく中性名詞 das Fundament を指すことも文法上あり得ますが、意味の上からは Haus を指すと解すべきでしょう。) また、würde は werden の接続法第二式ですが、このようになっているのは仮定上のことをのべているため。なお、推測の意味の werden が第二式になる場合と、未来の意味の werden が第二式になる場合がありますが、ここでは意味の上からは後者と解されると思います。

d. i.: das ist (つまり) の略。

er durfte nicht: dürfen の否定は禁止を表わすことが多いと思いますが、ここでは不必要の意味。

auf die Erfahrung, daß es wirklich einfiele, warten: auf 4格 warten で「4格「待つ」。ここの daß 文は Erfahrung の内容を表わしており、es は前の中性名詞 Haus を指します。そして einfiele は接続法第二式ですが、これもやはり仮定上の話をしているので、このようになっています。

daß ... sind, und daher, wenn ... entzogen wird, fallen: この daß 文はこのあとの mußte に対する主語文。sind というように直説法が副文内で使われていて、接続法第一式や第二式が使われていませんが、物体に重さがあることは確固たる事実であり、それ以外にあり得ないので、直説法が使われています。またここの wenn 文は挿入文であり、その entzogen wird は受動態。そして fallen の主語はこの daß 文内の die Körper. fallen が直説法であるのも sind が直説法であるのと同じ理由からです。

mußte: これは確信 (〜 のはずである) ではなく、むしろ必然・必要性 (〜 でなければならない、〜 の必要がある) を意味していると解されます。おそらくですが、確信を意味したければ、通常は過去分詞 + haben/sein + müssen が多く使われるのではないかと思われますので。

durch Erfahrung bekannt werden: この werden は生成の意味 (知るようになる) でしょうか、それとも受け身の意味 (知られる) でしょうか。どちらとも取れると思いますが、その前に durch (〜 によって、〜 を通して) がありますので、後者の受け身の意味を持っていると解するのがよいと思います。細かいことですが、語学的には一度はきちんと細部まで詰めて理解する必要があると思います。そうやって一旦しっかりと理解したあとは忘れてしまえばよく、忘れてしまったあとも、しっかり理解していればまた思い出せるでしょう。原文の微妙なニュアンスを把握できるようになるためにはこのような詰めが必要だと思います。と言いながら、上の werden の理解が誤解、誤読でしたらすみません。謝ります。

Wir werden: この werden は意思を表わす werden.  意味は「〜するつもりである、〜することにしよう」。決意を述べたり、何ごとかを意図的に断言する際に使われます。

im Verfolg: 事態が推移する中で。

unter Erkenntnissen a priori nicht solche verstehen: unter + 3格 + 4格 + verstehen で「3格を4格と解する」。

solche verstehen, die: solche は名詞化しており複数4格で、関係代名詞複数1格の die の先行詞。

von dieser ... von aller ... unabhängig: von + 3格 + unabhängig で「3格に依存しない」。

Ihnen sind empirische Erkenntnisse ... entgegengesetzt: Ihnen は複数3格。前の方の Erkenntnissen a priori を指します。3格 + 4格 + entgegensetzen で「3格に4格を対置させる」。ここではこの構文が受動態になっています。

solche, die: この solche も名詞化していて複数1格、関係代名詞複数1格の die の先行詞。die とともに枠構造を作る動詞はsind.

nur a posteriori, d. i. durch Erfahrung: nur a posteriori も durch Erfahrung も、どちらも形容詞 möglich にかかる副詞句です。d. i. は das ist の略で「つまり、すなわち」。

die jenigen rein, denen: die jenigen は diejenigen のことで derjenige の複数1格。derjenige は der のいわば強調形。ここではこれが名詞化していて、関係代名詞複数3格の denen の先行詞になっています。これを含む文の構造は「die jenigen heißen rein (それらは、純粋な、と呼ばれる)」です。

gar nichts: まったく〜ない。

Empirisches: 形容詞 empirische が中性名詞化したもので1格。枠構造を成す動詞は ist.

So ist z. B. der Satz: der Satz が主語、ist が動詞、そしてこのあとの ein Satz a priori が補語。

ein Begriff ist, der: der は関係代名詞で男性1格。枠構造を作る動詞は kann で、先行詞は ein Begriff.

gezogen werden kann: ziehen + können の受動態。

 

直訳

たとえば自宅の土台を掘り崩した男について、彼はその家が倒れるであろうことをアプリオリに知ることができたと、すなわち [家の倒壊を認識するのに] 彼はそれが実際に倒れる経験を待つ必要はなかったのだと言われることがある。しかし彼はこのようなこともやはりまったくアプリオリに知ることができたというわけではないのである。というのも、物体には重さがあり、それ故物体から支えが取り外されるならば、それは倒れるということは、やはり前もって経験を通じて彼に知られる必要があったからである。

 それ故我々は、引き続く話の流れの中で、アプリオリな認識ということにより、あれこれの [個々の] 経験ではなく、むしろまったくどんな経験にも依存せず行われる認識を言うことにしよう。この認識に対しては、経験的認識が対置される。あるいはアポステリオリにのみ可能である認識が、つまり経験によってのみ可能である認識が、対置されるのである。しかしアプリオリな認識については、それに経験的なものがまったく混ぜられていないものは「純粋な」と呼ばれる。そういうわけで、たとえば「どの変化一つを取ってみても、それには原因がある」という文はアプリオリな文の一つだが、しかし純粋ではない。なぜなら変化は経験からのみ引き出され得る概念だからである。

 

岩波訳

・カント  『純粋理性批判 (上)』、篠田英雄訳、岩波文庫岩波書店、1961年、58-59ページ。

傍点が施されている部分は下線で代用しています。また白抜きのカギカッコ『 』が使われているところは通常のカギカッコ「 」に代えています。

それだから土台下を掘ったために家を倒壊させた人があると、この人を評判して、彼はこうすれば家が倒れるだろうということをア・プリオリに知り得た筈である、なにも家が実際に倒れるという経験をまつまでもなかったのに、などと言うのである。しかし彼とても、このことを何から何までア・プリオリに知り得る筈はない、— 物体には重さがあるのだから、物体を支えているものが取り除かれれば落っこってくるということを予め知っていなければならないからである。

 そこでこれから先き我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味するということにしよう。かかるア・プリオリな認識に対立するのが、経験的認識である。経験的認識は、ア・ポステリオリにのみ、換言すれば、経験によってのみ可能な認識である。そしてア・プリオリな認識のうちで、経験的なものをいっさい [ママ] 含まない認識を純粋認識というのである。それだから例えば、「およそ変化はすべてその原因をもつ」という命題は、ア・プリオリな命題ではあるが、しかし純粋ではない、「変化」という概念は、経験からのみ引き出され得るものだからである。

 

フランス語訳

仏訳は Wikisource France,

Kant Critique de la raison pure, Traduction par Jules Barni, Édition Germer-Baillière, 1869 *2 ,

から引用します。

Ainsi, de quelqu’un qui aurait miné les fondements de sa maison, on dirait qu’il devait savoir à priori qu’elle s’écroulerait, c’est-à-dire qu’il n’avait pas besoin d’attendre l’expérience de sa chute réelle. Et pourtant il ne pouvait pas non plus le savoir tout à fait à priori ; car il n’y a que l’expérience qui ait pu lui apprendre que les corps sont pesants, et qu’ils tombent lorsqu’on leur enlève leurs soutiens.

Sous le nom de connaissances à priori, nous n’entendrons donc pas celles qui sont indépendantes de telle ou telle expérience, mais celles qui ne dépendent absolument d’aucune expérience. À ces connaissances sont opposées les connaissances empiriques, ou celles qui ne sont possibles qu’à posteriori, c’est-à-dire par le moyen de l’expérience. Parmi les connaissances à priori, celles-là s’appellent pures, qui ne contiennent aucun mélange empirique. Ainsi, par exemple, cette proposition : tout changement a une cause, est une proposition à priori, mais non pas pure, parce que l’idée du changement ne peut venir que de l’expérience.

 

フランス語文法事項

de quelqu’un: この de は「〜 について」の意味の de.

aurait miné: 条件法過去。仮定上の、過去のことを述べているので条件法過去が使われています。このように、関係節のなかで条件法が使われて、仮定が表現されることがあります。

on dirait: 条件法現在。これも仮定上の、現在のことが述べられているので使われていると考えられます。

il devait savoir: devait は半過去。しかしなぜここで複合過去や単純過去ではなく半過去が使われているのか、私は確信を持った説明をすることができません。従って以下の説明は単なる推測であり、間違っている可能性があります。それでも一応私が思っているところを記してみましょう。前もって、間違っていた場合ために、ここでお詫びを述べておきます。さて、半過去をかなり詳しく解説している次の本を繙読してみました。井元秀剛、『中級フランス語 時制の謎を解く』、白水社、2017年。この本は一度、全部を通して読んでおり、今回もあちこちのページを開いて検討しましたが、特に、23, 28課 (と31課) を参考にしました。ただしそこを参考にしたのは的外れだったかもしれず、また井元先生も、私が以下に述べる説明に同意してくれるかどうか、明らかではないことを、言い添えておきます。では説明を始めますが、まずここでの半過去は時制の一致とは関係のない半過去だと考えます。その上で、もしもここでの半過去が時制的用法として使われているとするならば、それは、ある人が自宅の土台を掘るという状況下において、「知っているはずだった/知っていたはずである」という状態が、その状況下のいつから始まり、いつ終わったか、はっきりするようなものではないから半過去が使われているのだと思われます。半過去は、ある状況において、いつ始まったとも、いつ終わるとも判然としていない出来事を記述するものです。他方、それがはっきりしていて、いつからいつまでと本文中で明記されている場合は、複合過去か単純過去が使われます。また、ここでの半過去が叙法的用法として使われているとするならば、それは、問題の状況が現実とは違うということを示すためだからだと思われます。この用法は仮定を置くための「si + 半過去 (もしも〜ならば)」の半過去と同種か類似の用法で、仮定や架空の話をしていることを示すためのものであり、自宅の土台を掘り崩すという架空の人物について話がなされているので、そのためにここでは半過去が使われているのではないかと思われます。以上のように私は推測しますが、もしかすると私のこの考えは間違っているかもしれません。そのようでしたら再度お詫び致します。

s’écroulerait: 条件法現在。これはいわゆる過去未来として使われていると思います。彼は自宅が倒れる前に、つまり過去に、これから自宅が倒れるであろうことを知ったのであり、自宅倒壊の到来予測の時点から、近未来の倒壊という事態を表わすために、ここでは条件法現在が使われているのだろうと考えられます。

il n’avait pas besoin d’attendre: avait は半過去。なぜここで半過去が使われているのか、その理由は、先ほどの il devait savoir における devait と同じ理由からだと推測します。間違っていたらごめんなさい。なお、avoir besoin de + 不定詞は「〜 することを必要とする」。

Et pourtant: 逆接の強調。「しかしながら」。

il ne pouvait pas non plus:  pouvait は半過去。これも先の devait と同じ理由で半過去なのだろうと推測します。間違っていたらすみません。そして、ne 〜 pas non plus は、肯定の aussi 「〜 でもある」の否定形で「〜 でもない」。

il n’y a que l’expérience: il y a 〜 (〜 が存在する、〜 がある) に対する限定的否定 ne 〜 que — (— しか 〜 ない) であり、il n’y a que 〜 で「〜 しか存在しない、〜 しかない」。

ait pu: 接続法過去。想像の上で、完了した事態を表わしています。

entendrons: 単純未来。意思を表わします。つまり「〜することにしよう、〜するつもりだ」。

celles qui sont: celles は前方の connaissances の代わり。このあとの celles qui ne の celles も同様。

dépendent absolument d’aucune expérience: dépendre de 〜 で「〜に依存している」。

À ces connaissances sont opposées: opposer A à B で「A に B を対置する、対立、対抗させる」。ここではこの構文が受動態になっています。

celles qui ne sont: この celles も connaissances の代わり。

ne sont possibles qu’: ne 〜 que — で「— しか 〜 ない」。

par le moyen de l’expérience: par le moyen de 〜 で「〜 を用いて、〜 によって」。

Parmi les connaissances à priori: 普通、三つ以上のものの間の関係を問題にする時には parmi を使い、二つのものの間については entre を使います。

celles-là s’appellent, qui: celui-là + 関係代名詞で「〜 であるそれ」。「それ」とは la connaissance à priori. なお、二つのものが言及されている時、前者については celui-là で、後者については celui-ci で指示することがありますが、ここでは celles-là は「前者」の意味ではありません。また、A s’appeler B で「A は B と呼ばれる」。

parce que: 「なぜなら 〜 だから」。一般に、聞き手・読み手にとって未知の理由を述べる時に使います。既知の理由を述べる時は puisque (というのも 〜 なのだから) を使います。

ne peut venir que de l’expérience: 

ne 〜 que — はすでに説明しましたが、「— しか 〜 ない」。venir de 〜 で「〜 に由来する、〜 から出てくる、生まれる」。

 

直訳

たとえば、自宅の土台を削ったことのある男がいるとするならば、我々はこの男について、彼は自宅が倒れるであろうことをアプリオリに知っていたはずであると言うだろう。つまり [そのことを知るのに] 彼は自宅が実際に倒壊するという経験を待つ必要はなかったのであると言うだろう。しかしそれでも彼はそのことをまったくアプリオリに知ることができたということでもまたないのである。というのも、物体には重さがあり、物体からその支えを取り除くとそれは倒れるということを彼に教えることができたのは、経験しかないからである。

それ故アプリオリな認識の名のもとに、我々はこれこれの経験から独立している認識を理解するのではなく、むしろいかなる経験にも「まったく」依存していない認識を理解することにしよう。この認識には経験的認識が対置される。あるいはアポステリオリにしか可能ではない認識が、つまり経験的手段によってしか可能でない認識が対置される。アプリオリな認識たちのうちで、何らの経験的な混合物も含んではいないものは「純粋な」と呼ばれる。そういうわけでたとえば、すべての変化には原因がある、というこの命題はアプリオリな命題であるが、純粋ではない。なぜなら変化という観念は経験からしか由来し得ないからである。

 

これで終わります。誤解、無理解、勘違い、無知蒙昧、意味不明なところがありましたらごめんなさい。誤訳、悪訳、拙劣な訳になっているところもあったかもしれません。誤字、脱字、衍字の類いにもお詫び致します。すみません。

 

*1:https://www.projekt-gutenberg.org/kant/krvb/krvb003.html. 2023年4月閲覧。

*2:https://fr.m.wikisource.org/wiki/Critique_de_la_raison_pure_(trad._Barni)/Tome_I/Introduction/I.. 2023年4月閲覧。