Is Sovereignty Nishida's Absolute Nothingness?

今日もちょっと一服するため、少し前に読んだ本の感想を記します。その本とは次です。

 

嘉戸一将  『法の近代 権力と暴力をわかつもの』、岩波新書岩波書店、2023年。

 

嘉戸先生のこのご高著は大変重要な話題を扱っておられたので、私はさっそく購入させていただき、拝読させてもらいました。

完読して今思うのは、本書の内容についてとても面白く感じられたものの、新書のわりには非常に難解で、正直に言ってほとんど理解できませんでした。そのわけは、私に予備知識が備わっていなかったことと、私の頭がよくなかったためだと思います。

しかし、僭越ながら、それだけでもないように感じられました。先生の論述スタイルが、うまくその効果を発揮できていないように見えました。先生の強力な思考が先走りすぎて、該博な知識が思考の流れの中であふれ出し、私のような凡人には捉えられない論述スタイルを生み出しているように思われました。つまり、もっと簡にして要を得た、説得力のある論述が先生には可能だと感じられるのですが、不幸にもそうなっていないように思われました。

その結果、私は先生の、いわゆる〈絶対無〉主権論に困惑し、疑念を抱いてしまいました。その疑念を示唆する話を、先生の文章を引用しつつ、以下に記してみたいと思います。

なお、私は今回取り上げる本が論じている憲法史や法制史、それにそもそも法学にまったく無知です。生意気にも勉強していない分野の事柄について口出しすることになり、見当違いなことを口走るかもしれませんが、わけのわかっていない者の未熟な話としてどうかお見逃しください。

また、私は先生の文章については今回の岩波新書の文しか読んだことがありません。先生のその他のご高著やご論文等はまったく手に取ったことがありません。このことを前もって皆様にお伝えしておきたいと思います。不勉強を改めて、先生による他の論考を拝見すれば、岩波新書の論述もちゃんと理解できるかもしれませんが、今日は岩波新書だけを典拠にして話を進めさせてもらいます。

このあとでは、最初に先生の文をいくつか引き、それから先生の文に基づいて私の作った拙い話を記します。

引用文中においては、便宜上、原文中の太字による強調は正体に直し、傍点は下線で代用します。角カッコ [ ] に入れられている言葉は私による補足です。私が理解した範囲内で補足してみました。先生の論述は難しかったので、もしかするとこの補足は私の誤解、無理解を示しているかもしれません。そのようでしたら謝ります。すみません。ではさっそく先生の文章を引きます。194-196, 198-199ページからです。

 

〈絶対無〉とは、哲学のいわゆる「京都学派」が練り上げた概念であり、「有即無、無即有」などの仏教的観念を哲学的に表現したものである。例えば、その提唱者である西田幾多郎は、〈絶対無〉を「絶対他者」や「絶対的一者」、「絶対唯一者」などとも呼んでいるように、西田の国家論においては主権を意味している (拙著『西田幾多郎と国家への問い』参照)。

 

 〈絶対無〉として表象される主権とは何か。何者でもない〈無〉だ。主権に関する言説は、歴史的に見れば、それが一神教的な神の至高性に由来し、そしてまずはその神に教皇が、君主が、自然 (自然法の「自然」だ) が、あるいは人民、国民が取って代わってきたように、主権の場所を埋めるようにして、さまざまなフィクション (擬制) が主権の場所を〈有〉なるものとして演出してきた。それらが消費され尽くした歴史の末端にあって、結局、主権の場所が空虚だったと、つまり〈無〉だったと [西田は] 発見したのである。

 

ここで引用者による長めの補足を入れます。ドイツでは、カール・シュミットが、強大な、決断者としての主権者像を描いたものの、そのナチス・ドイツは崩壊し、日本では、主権を有する天皇が、理性に基づいて国を治めるとされたものの、その神国日本は大敗を喫し、この結果のためなのか、主権のありかとそのあるべき姿を論じることが、つまり主権論が、疎んじられるようになったようです。そして先生は以下のように続けられます。

 

 たとえ主権論が厄介払いされようとも、それ [主権] が法の正統性を構成してきた限り、法秩序の存立を支えてきた [主権の] 歴史を、もう一度、問う必要があるだろう。主権を主権に還元することなく、言い換えれば、虚無の露呈を隠蔽することなく、それとして引き受けつつ、理性を作動させる機能と権力に限界を定める条件として [主権を] 歴史的に問うことが、この困難な時代に生きる私たちの課題ではないだろうか。

 

 [主権は] 私たちが得たと思えば、自らが体現する=主権者となることで消失する [...]。その消失、すなわち〈無〉は私たち自身の〈無〉として現出し [...]、しかし、この〈無〉は鏡のようにして至高性=主権を映し出す [...]。これが主権論の論理であり、ちょうど [禅の] 「十牛図」について「無の作 (はたら) き」が語られるように (上田閑照「自己の現象学」)、主権とは実体のあるものではなく、機能としてあるのだ。

 

ちなみに、嘉戸先生の今回の本の中では、〈絶対無〉のごく簡単な説明はあっても、この難解な概念について、詳しい説明はないように感じられました。また、なぜ主権なるものが〈絶対無〉であるのか、十分な根拠が示されていないように見えました。もしかすると、先生の他の著書かまたは西田さんの論考で、主権が〈絶対無〉であることのきちんとした論証がなされているのかもしれません。

 

次は、以上の先生の論述に基づいて私が作った話です。稚拙なものですが、お許しください。

足し算、たとえば「何かに1を足す」という操作は関数の一種である。それは x + 1 = y と表すことができ、関数をさらに一般的に表せば y = f(x) と書ける。

歴史上、関数 y = f(x) の x の場所には、まず1以上の自然数が置かれた。それからその場所にはおそらく0が置かれ、次には負の数が、つまり整数が、それから分数、すなわち有理数が置かれ、さらには無理数が、つまり実数が置かれるようになり、その後、複素数がその場所を埋めるようになった。さらにまた別の数にも取って代わられるようになる。

関数に関する言説は、歴史的に見れば、それが自然な人間の数えることに由来し、まずは1以上の自然数に整数が、有理数が、無理数が、つまり実数 (有理数無理数を合わせたものだ) が、あるいは複素数が取って代わってきたように、関数の x の場所を埋めるようにして、さまざまなフィクション (擬制) とも思える数が x の場所を〈有〉なるものとして演出してきた。それらが消費され尽くした歴史の末端にあって、結局、x の場所が空虚だったと、つまり〈無〉だったと数学者は発見したのである。要するに、関数とは〈絶対無〉のことだったのである。

これが関数論の論理であり、ちょうど [禅の] 「十牛図」について「無の作 (はたら) き」が語られるように、関数とは実体のあるものではなく、機能としてあるのだ。

 

繰り返しますが、先生の論述中では、〈絶対無〉の詳しい説明がないようであり、かつ主権が〈絶対無〉であることの論証が十分に与えられていないようであることを念頭に置いて、引用した先生の文章と、それとパラレルになっている私の文章を読み比べていただき、そこから何を感じるか、考えてもらえればと存じます。

 

二つ補足を入れさせてもらいます。

(1) 主権の場所を、神が、教皇が、君主が、自然が、人民、国民が埋めてきたから主権の場所は空虚だとのことですが、論理的にはこれとはまったく反対のことも言えるだろうと思います。主権の場所がそれだけ多くのものによって埋められてきたのなら、そこは空虚なのではなく、ありとあらゆるものが埋まっている充満した場所だとも考えられます。だとすると、主権とは〈絶対無〉なのではなく〈絶対有〉とでも言えるでしょう。このように、主権の場所が無ではなく、充満しているのなら、西田哲学の〈絶対無〉ではなく、アーサー・ラブジョイの「充満の原理」によって主権を分析することが適当でしょう。(これはもちろん冗談ですが ... 。)

(2) 駒村圭吾先生著『主権者を疑う』(ちくま新書 2023年 278-280頁) によると、嘉戸先生は、先生の他の著書で、主権の概念は合理的理解を超えているという趣旨のことを述べておられるようです。本当に合理的理解を超えているのかどうか、慎重な検討が必要ですが、仮に合理的理解を超えているとするならば、それを主権「論」として研究してみてもあまり意味はないと思われます。というのも、理論的な研究は研究対象に関する合理的理解の試みなのですから。せいぜいどうして人は理解を超えた主権なるものを信じるのか、という心理学的研究を試みるか、あるいは主権なるものを信じることで生じる人間関係の変化を社会学的または政治学的に研究してみることでしょう。

 

それにしても上に述べたような話をしていると「私は嫌な人間だな」と少し感じないでもありません。先日、いわゆる大陸系の哲学の先生方が、同じく大陸系の哲学の先生のお仕事について、論評している文章を何気なくパラパラと眺めていたのですが、その時思ったのは「皆さん、よい意味でとても鷹揚で寛大だなぁ」ということでした。それは一種の献呈論文集 (Festschrift) のようなものでしたから、他の先生の仕事について、ある程度寛容な態度で書かれていても不思議ではないのですが、それにしても皆さんひろい心の持ち主ばかりで、それに比べて今回のような話をしている私はとても心の狭い人間のように思えます。まぁ、実際にそうなのかもしれませんが。分析系の哲学は、優しい気持ちを持ちながら、それでも相手のかたの考えの問題点を積極的に指摘することが、ある程度本務となっていると、そんなふうにも感じるんですけどね。

 

これで終わります。私の疑念は誤解に基づいているのかもしれません。また、出すぎたまねをしているようでしたらごめんなさい。嘉戸先生にお詫び致します。私による、数ある誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字、衍字の類いに関しても、申し訳なく思います。どうかお許しください。