目次
はじめに
前回は一度休憩が入りました。今回は前々回に引き続き、Immanuel Kant の Kritik der reinen Vernenft の第二版をドイツ語原文で読んでみます。前々回の文章の続きの部分、Einleitung の II の冒頭を見てみましょう。
以下の話の流れは前と同じで、まずドイツ語原文を掲載し、それから文法解説とその直訳を記します。そして岩波文庫の『純粋理性批判』から対応する部分を引用します。
次に既存の仏訳を提示してから、その文法解説と直訳を記します。
ドイツ語、フランス語ともに私は詳しくないので、間違ったところがありましたら、前もってお詫び申し上げます。すみません。お許しいただければと存じます。前置きはこれぐらいにして、さっそく原文を読んでみることにしましょう。
ドイツ語原文
Kant の原文は例により、Project Gutenberg からのものです *1 。
ドイツ語文法事項
sind im Besitze gewisser Erkenntnisse: im Besitz(e) + 2格 + sein で「2格を持っている」。
niemals ohne: これは Litotes. いわゆる二重否定により、強い肯定を表します。ここを直訳すれば「しかじかを欠くことは決してない」ですが、肯定の強調としてはたとえば「しかじかを大いに有する」とでもなります。
solche: この後では Erkenntnisse が省略されています。
Es kommt hier auf ein Merkmal an: これはよく知られた構文、Es kommt auf 4格 an であり、「4格が重要である/問題である、4格次第である」の意味。Es は形式主語。
woran: wo = 関係代名詞 was であり、ここでの意味は「それについて」。「それ」とは ein Merkmal.
ein reines Erkenntnis vom empirischen unterscheiden: empirischen の後で Erkenntnis が省略されています。A von B unterscheiden で「A と B を区別する」。
zwar ..., aber: 呼応表現。「確かに〜ではある。が、しかし—なのである」。zwar のところで一旦一部を認めておいてから、aber 以下で否定したいことを強調して示しています。今回取り上げたドイツ語文の中では、この種の呼応表現がこの後にいくつか出てきており、修辞的効果を高めています。
beschaffen: 形容詞として「〜の状態である」の意味。
es nicht anders sein könne: es は前方の etwas を指します。könne は接続法第一式。間接文内にあるため。ここを直訳すると「それは別様ではあり得ない」となって否定文ですが、肯定文で訳すと「それは必ずそうである」となって要するに必然性を表しているとわかります。
Findet sich ... ein Satz: ein Satz が主語で、その動詞が Findet sich. sich4 finden で存在文となり、「〜がある/いる」。ここでは倒置していますが、それは wenn 文 (もし〜ならば) の代わりであることを表しています。本文ではこの後も wenn 文の代わりとしての倒置文が何度か出てきており、これもまた修辞的効果を高める結果となっています。
erstlich: これは古い言葉で、「まず第一に」の意味。
ein Satz, der: der は関係代名詞で1格。先行詞は ein Satz.
zugleich mit seiner Notwendigkeit: zugleich mit 〜 で「〜とともに」または「〜と同時に」。ここでは時間のことは念頭に置かれていないので「必然性と同時に」と訳すよりも「必然性とともに」と訳すほうがよいでしょう。
gedacht wird: 受動態であることを表しています。
so ist er ein Urteil: so 以下が先の、wenn 文の代わりとしての倒置文 Findet sich ... の、いわゆる帰結文となっています。er は前方の ein Satz を指します。
ist er überdem auch von keinem abgeleitet: これも wenn 文の代わりとしての倒置文。er は ein Satz を指し、überdem は古い言葉で、「その上」の意味。ist ... von keinem abgeleitet は受動態であることを表しており、von は「〜により」ではなく「〜から」の意味で、keinem の後に Satz が省略されています。
als der selbst wiederum als ein notwendiger Satz: 最初の als について言えば、als は否定語とともにあると「〜以外には—ない」の意味を持ちます。ここでの否定語とは前の keinem. 二つ目の als は「〜として」の意味。なお、最初の als について、私は誤訳していて、それを「〜である時」と訳していました。なぜ誤訳したか、少し長くなりますが説明してみます。最初の als を否定語とともにある als と捉えるならば、次のような感じの訳になるでしょう。すなわち「必然的な、アプリオリな文は、それ自身再び必然的である文以外から導かれていない場合、完全にアプリオリである」と。これはつまり、完全にアプリオリな文は、別のアプリオリな文に、証明や論証の点で、依存している、ということになります。今の訳を訳し直せば「必然的な、アプリオリな文は、それ自身再び必然的である文だけから導かれている場合、完全にアプリオリである」という感じになります。しかし私は「完全に」アプリオリな文が、完全であるにもかかわらず、他の文に依存しているとするのは奇妙なことだと思いました。必然的な文から導かれている必然的な文は、それ自身のみで必然的である文より、ずっと「完全」である、というのは、何だか解せないと感じたのです。それが「完全」ならば、何ものにも依存せず、それ自身で端的に必然的でアプリオリなはずだ、と思ったのです。だから最初の als を否定語とともにある als と解釈するのは間違っていると考えました。では、どう解釈すればいいのか、私にはよくわかりませんでした。いろいろ考えた末、「〜の時、〜である場合」と解する以外に何とか当てはまる解釈が思い浮かびませんでした。実際、参考までに仏訳を参照してみると、この部分は否定語とともにある als とは解釈されていませんでした (仏訳ではそっけなく関係代名詞で処理されていました)。しかし岩波文庫の訳や平凡社ライブラリー版、それに Norman Kemp Smith の英訳を見ると、ここは否定語とともにある als として解釈されていました。岩波、平凡、Smith の三者が三者とも、ここを否定語とともにある als と解しているからには、なぜ「完全」に必然的でアプリオリな文が、それにもかかわらず、他の必然的な文に依存しているのか、ちょっとよくわかりませんが、ここでの als をそれ以外で訳すのは誤訳なのだろうと思います。Kant 哲学ではそれが正解なのかな? 以上のようなわけで、私はここを誤訳していました。最初の als を否定語とともにある als と捉えるのが文法的には正しいようです。とは言え、内容的には腑に落ちないところが残ったままなんですけれども ... 。
so ist er schlechterdings: これ以下は、ist er überdem ... という wenn 文の代用文に対する帰結文。
wahre oder strenge: wahre と strenge, それにこのあとの angenommene と komparative は、すべて後方の Allgemeinheit にかかっています。
niemals: このあとに出てくる sondern と呼応しています。「決して〜ではなく、むしろ—」の意味。
so daß: 「その結果、そのため」。結果・理由を表しています。
es eigentlich heißen muß: es はうしろのコロン (:) 以下の文を指しています。ここで heißen は、英語で言う SVOC 構文を成しており、O が es で、C が eigentlich に当たります。
dieser oder jener Regel: 直訳すれば「この法則またはあの法則」、「この、またはあの法則」。法則について、これかあれかが選び出され、その特定の法則について、今までに例外がないことが、ここでは言われているものと思われます。それに対し、原文が dieser und jener となっていれば「この法則もあの法則も」の意味であり、それはつまりどの法則についても例外はない、法則全部に例外はない、ということになると思われます。
Wird also ein Urteil: 倒置文になっていますが、これもまた wenn 文の代わり。Wird はあとの gedacht とともに受動態を構成しています。
in strengen Allgemeinheit: in は状態を表していると解されます。特に訳出には及ばない言葉です。あるいはこの in は同一性を表す in かもしれません。いずれにせよ訳出に及ばない点は変わりありません。
d. i.: das ist (つまり) の略。
so, daß: これも「その結果、そのため」。so daß の so と daß の間にコンマ (,) が入っていますが、結果・理由の so daß に同じ。so, daß が結果・理由を表している例文は、小学館の『独和大辞典』、488ページ、項目 'daß' の III, 1, a) にあります。
gar keine: 全否定「まったく〜でない」。
verstattet wird: verstattet は verstatten の過去分詞。verstatten は古い言葉で、「認める、許す」。この過去分詞と wird で受動態を構成しています。
so ist es nicht: これ以下は、前方の「Wird also ein Urteil ... 」に始まる wenn 文の代用文に対する帰結文。es は前の ein Urteil を指しており、ist はうしろの abgeleitet とともに受動態を成しています。nicht はこのあとの sondern と呼応しており、「〜ではなく、むしろ—」の意味。
なお、以上を振り返ってみると、ここでは Kant が修辞的効果を狙った言い方を多用していることがわかります。つまり呼応表現を連発していることが見て取れます。たとえば (1) zwar ... aber, (2) niemals ... sondern, (3) nicht ... sondern です。また (4) erstlich ... Zweitens です。それに wenn 文の代用文としての倒置文も繰り返し用いられています。(5) Findet sich ... , so, (6) ist er ... , so, (7) Wird also ... , so. なかなか面白く、興味深いですね。
直訳
私による直訳、逐語訳を記します。語学に資するため、読みやすさや日本語としての自然さは二の次にしています。
岩波訳
最もよく読まれているであろう岩波文庫訳を掲げます。
・カント 『純粋理性批判 (上)』、篠田英雄訳、岩波文庫、岩波書店、1961年、59-60ページ。
邦訳原文にある白抜きのカギ括弧『 』はプレーンなカギ括弧「 」 に、傍点は下線に改めています。括弧〔 〕は岩波訳にあるものです。
フランス語訳
仏訳も例により Wikisource France の、
・ Kant Critique de la raison pure, traduction par Jules Barni, Édition Germer-Baillière, 1869 *3 ,
から引用します。
フランス語文法事項
sommes en possession de certaines connaissances: 「être en possession de + 名詞」で「名詞を所有している」。
le sens commun: 「常識」の意味。
n’en est jamais dépourvu: 「ne ... jamais」で「決して〜ない」。「dépourvu de + 名詞」で「名詞を欠く」。en はこの「de + 名詞」の代わり。
Il importe ici d’avoir: 「Il importe de + 不定詞」で「〜することか重要である」。
nous permette de distinguer: 「permettre 人 de 不定詞」で「人に〜することを許す、可能ならしめる」。
distinguer ... une connaissance pure d’une connaissance: 「distinguer A de B」で「A と B を区別する」。
nous enseigne bien qu’: 「enseigner à 人 que 直説法」で「人に〜であることを教える」。
bien ... , mais: 「確かに〜であるが、しかし」。
une chose est ceci ou cela: 直訳すると「物事がこれまたはあれである」。少し砕くと「物事がこれなりあれなりである」。意訳すれば「物事がしかじかである」となると思います。
en premier lieu: 最初に。
il se trouve une proposition: 「il se trouve + 名詞」で「名詞がある、いる」。il は非人称の il.
ne puisse concevoir que: 「ne ... que 〜」で「〜しか ... でない」。
de plus: その上。
dérive elle-même d’aucune autre proposition: 「A dériver de B」で「A が B から出てくる」。
à son tour: 直訳すれば「その番に」。砕いて訳せば「今度はそれが」。原文で述べられているのは次のような感じのことです。すなわち「もしも必然的な文 A が他の何らかの文 B で、「今度はその B が」また必然的であるという、そういう文 B からは出てこないならば」ということです。
En second lieu: 次に。
donne ... à ses jugements une universalité: 「donner A à B」で「A を B に与える」。
si bien que: その結果、〜である。
tout revient à dire que: 「Cela revient à dire que 〜」という言い回しがあり、これは「つまり〜ということになる」という意味を持っています。ここの原文では「Cela」が「tout」になっていますが、おそらく意味は類似のものであろうと思われます。すなわち「いずれにしても〜ということになる」。
d’exception à telle ou telle règle: この de は何でしょうか? それは不定冠詞 une が de に変形したものです。une exception が n’avons point trouvé という否定文の直接目的語になっているからです。tel ou tel は「あれこれの」。
conçoit un jugement comme rigoureusement universel: 「concevoir A comme B」という構文ですが これは「conridérer/regarder A comme B (A を B と見なす)」と類似の表現だと思います。
c’est-à-dire: つまり。
comme repoussant toute exception: この comme は「concevoir A comme B」 の comme。repoussant は repousser (押しやる、拒絶する) の現在分詞で、ここでは形容詞として働いています。そこで、この部分の意味は「あらゆる例外を排除しているとして」。
c’est que: これは c’est parce que (それは〜だからである) に同じ。
mais que: この que は前方の c’est que の que、つまり c’est parce que の que です。
直訳
以下の私による直訳は、ここでも語学に資するためのものであって、読みやすさ、自然さは二の次にしています。
今日は以上で終わります。いつものように誤解や勘違い、無理解や無知蒙昧な点が残っていましたらすみません。誤訳や悪訳もあったことでしょう。誤字や脱字、衍字も残っているかもしれません。それらすべてについて、ここでお詫び申し上げます。
*1:https://www.projekt-gutenberg.org/kant/krvb/krvb004.html. 2023年6月閲覧。
*2:引用者註: ドイツ語原文では「dieser oder jener Regel」。ガチガチの直訳をすれば「この、またはあの法則」、あるいは「この法則またはあの法則」。ここで言われているのは、どれか法則を一つ取り上げて、それについて例外がない、ということだと思われます。決して、ありとあらゆる法則を取り上げて、それらの法則すべてに例外はない、この世の法則全部に例外はない、ということではないと思います。この後者の可能性は、いくらなんでも強すぎます。ないしは、この可能性を少し制限して、私たちがこれまでに取り上げた法則、そのような法則に限り、それらにはどれ一つとして例外はなかった、と解しても、ちょっと強いと思います。ここで言われているのは、単に何か一つの法則を念頭に置いて、それについて今まで例外はなかった、ということだろうと思います。論理学に関係してくる言い方をすれば、all に対する some がここでは言われているのだと思います。これに対して岩波訳のこの部分の訳は「どの法則にも」となっていて、これでは some に対する all が言われていることになり、誤解を招きやすいと考えられます。ちなみに平凡社ライブラリー版はここを直訳調で「あれこれの規則」としています (上巻、83-84頁)。
*3:https://fr.m.wikisource.org/wiki/Critique_de_la_raison_pure_(trad._Barni)/Tome_I/Introduction/II. 2023年6月閲覧。
*4:訳註: 仏訳原文をそのまま訳せば、ここでのように「必然的判断という価値を持った命題から引き出されていなければ」となりますが、この仏訳はドイツ語原文の keinem ..., als 〜 (〜以外からは ... でない) を見落としており、見落とさずに正しく訳せば「必然的判断という価値を持った命題以外からは引き出されていなければ」または「必然的判断という価値を持った命題からしか引き出されていなければ」となります。仏訳はドイツ語原文の意味とはまるで正反対の意味になってしまっています。