洋文献関係

  • Joseph Almog and Paolo Leonardi eds.  Having in Mind: The Philosophy of Keith Donnellan, Oxford University Press, 2012
  • Andrew W. Appel ed.  Alan Turing's Systems of Logic: The Princeton Thesis, Princeton University Press, 2012

Though less well known than his other work, Turing's 1938 Princeton PhD thesis, "Systems of Logic Based on Ordinals," which includes his notion of an oracle machine, has had a lasting influence on computer science and mathematics. This book presents a facsimile of the original typescript of the thesis along with essays by Andrew Appel and Solomon Feferman that explain its still-unfolding significance.

Turing の PhD thesis, "Systems of Logic Based on Ordinals" は、その後 Proceedings of the London Mathmatical Society, vol. 45, 1939 において公刊され、Martin Davis ed., The Undecidable: Basic Papers on Undecidable Propositions, Unsolvable Problems, and Computable Functions, Raven Press Books, 1965/Dover Publication, 2004 と Turing の Collected Works に再録されています。なお、件の PhD thesis と、公刊・再録された version には、少し違いがあります。そのことは、上記 Appel 本の pp. 27-29 で確認できます。また、当日記 2012年5月5日、'Turing’s Princeton Dissertation' という項目もご覧ください。


和文献関係

 Why Did Frege Need Judgement Strokes and Horizontal Strokes in his Grundgesetze der Arithmetik?

この日記項目では、Frege にとって、なぜ判断線が必要とされたのかについて、論理学的な観点から、その答えをいくらか示そうと試みています。また、この日記項目末尾の付論では、Frege にとって、なぜ水平線が必要とされたのか、論理学的観点から、そのことの答えも簡潔に示そうとしています。それらの答えは、以下で言及する Professor Gregory Landini の新刊から教示を受けたものです。そのため、この後に記す私の答えは、目新しいものではありません。ただし、自分なりの問題意識をからめて、個人的見解をかなり多数補って答えを書いています。また、その答えは、Professor Landini の答えと同様、極めて simple なものです。あまりに simple なので、自分でも驚いたぐらいです。しかし simple であるが故に、かえってその答えに自分としては個人的にある程度、納得がいきました。判断線や水平線なるものが、論理学的観点から言って、なぜあるのか、今回初めて結構な程度、納得がいったぐらいです。不充分ではあるものの、一部ながら、私なりにやっと納得がいったという感じです。

(なぜ Frege が、Grundgesetze において、判断線と水平線を必要としたのか、という疑問の答えだけを、取り合えず知りたいという方は、この日記項目の最後に箇条書きして答えを記しています。手早く結論だけを知りたいという方は、そちらをご覧ください。ただし、本論を読まれないと、よくは理解できないかもしれません。私の答えが正しいかどうかを判断するためにも、本論を読まれることを強くお勧め致します。)

なお、以下の答えは、Grundgesetze der Arithmetik の §§1 - 32 に、ほぼそれのみに、基付くものです。今後、Grundgesetze の残りの部分や、Grundgesetze 以外の Frege の著作によって、私の答えを検証してみる必要があります。また、私の答えは、論理学的観点からとでも言える立場より見た場合の答えです。ここでの論理学的観点から見た答えとは、Grundgesetze という system において、判断線や水平線が果たしている役割や、判断線や水平線が置かれている system の特徴から見た答え、というほどのいみです。一方、私は以下で、判断線や水平線が必要とされる哲学的観点から見た答えというものを与えようとしているのではありません。言い換えると、例えば判断線の必要性を、いわゆる言語行為論に関する言葉で説明しようとはしていない、ということです*1。これらのため、下に記した私の答えは、極めて限定的なものであることを、踏まえておいてもらえればと思います。

以下で記していることには、当然のことながら、間違いが含まれていると思います。そこここで出典の情報を記入しているので、必ずその出典先を確認してください。その上で、私の以下の論述が、正しいか、それとも間違っているか、判断してほしいと思います。絶対に私の論述を鵜呑みにしないでください。必ず批判的な姿勢で読むようにしてください。私の話はたぶん間違っているでしょうから、この場であらかじめ、お詫び申し上げます。大変すみません。
この後に続く本日記項目では、まず、多くの space を使って、判断線の必要性について話をします。その後、その話を受けて、日記項目終わりの付論において、水平線の必要性について、手短に話をします。


Grundgesetze der Arithmetik では、名前から名前が作られている


さて Frege は、なぜ判断線 (Urteilstrich) を必要としたのでしょうか。Frege の判断線については、今までも説明が試みられてきました。簡単にはそれは主張 (assertion) という言語行為 (speech act) を行っていることを表す記号です。主張の際には主張する力 (force) を伴うものと説明されています。とはいえ、言語行為についての理論から説明される Frege の判断線は、現代の論理学では、通常、用いられません*2。そのため、現代の標準的な論理学の基本的部分を学んでから、Frege の論理学に接すると、判断線が不要なものと映ります。それがなければならない必然性がよくわかりません。実際に、それなしで現代の標準的論理学は行われているのです。なぜわざわざ Frege は、そんなものを必要としたのでしょうか。
私自身、Frege を学び始めてすぐに、判断線があることを奇妙に思いました。なぜ Frege にとって判断線が必要だったのか、正直に言って、私には今一つ、よくわかりませんでした。そのようなものがあることが不思議に感じられたので、勉強ノートに自分なりの考えをまとめてみたこともあります。しかしそれでも、しっくりきませんでした。それからしばらくの歳月が過ぎました。そして先日、以下の新刊を読み始めたら、非常に興味深いことが書かれていました。

  • Gregory Landini  Frege's Notations: What They Are and How They Mean, Palgrave Macmillan, History of Analytic Philosophy Series, 2012

この本の初めの方で、Frege にとって、文 (Satz / sentence) とは、実は名前 (Name / name) ではない、との趣旨のことが書かれていました*3。これはこれで、極めて挑戦的で驚くべき発言です。真っ向から通説に反する主張だからです*4。そしてそれに加えて次のように書かれていました。

Frege's turnstile sign '' ⊢ '' is a sign of his object-language. Its syntax is indisputable. It attaches to a well-formed term α (open or closed) to form a wff '' ⊢α ''.
This is very important, though it is uniformly missed in the literature on Frege's concept-script. The logical particles of Frege's concept-script are quite different from those of a modern predicate language. The logical particles of modern predicate languages are flanked by wffs to form a wff. Frege's signs are flanked by terms to form terms.*5

さらに Professor Landini は、以下のように言い切っています。

All and only terms can flank the stroke signs of Frege's formal language.*6

Frege の Grundgezetze における言語 Begriffsschrift に関しては、その形成規則 (formation rules) は式 (formula) から式が作られるのではなく、あるいは文から文が作られるのではなく、term から term が、言い換えれば、名前から名前が作られるのだ、と言うのです。そうやってできた名前に判断線を前置してやると、それ全体で文となるのだ、と言うのです。これは個人的に極めて示唆的な発言です。Professor Landini によると、判断線とは、syntactical には、名前から文を作る装置なのです。


Frege の Grundgezetze における言語 Begriffsschrift の形成規則が書かれていたのは、同書の §30 です。ここには当該言語について、独特な形成規則が書かれていることでよく知られています。それでは、その section において書かれている形成規則は、式から式を作る規則だったでしょうか、それとも名前から名前を作る規則だったでしょうか。私は漠然と、前者だと思っていました。現代の初等論理学において、形成規則と言えば、式から式を作る規則です。これは命題論理を学び始めるとすぐに出てくる規則で、誰もが知っている規則です。p と q が式ならば、p∧q も式である、というような規則です。これは式から式を作っています。私はてっきり同種のことが §30 にも書かれているものと思い込んでいました。しかし今回この section を改めて確認してみると、ここで書かれているのは、式から式への規則ではなく、名前から名前を作る規則なのです。今になってやっと気が付くというのは、かなりひどいことだが、仕方がない。実際この section の表題は 'Zwei Weisen, einen Namen zu bilden' なのです!
名前を形成する二つの方法とは、充当 (Ausfüllung) による方法と除去 (Ausschluss) による方法です。前者については、例えば、'x + 2' の 'x' に '2' を充当して '2 + 2' を得るような方法です。後者の方法は、'2 + 2' から、例えばその最初の '2' を除去して除去されたところに 'x' を置いて 'x + 2' を得るような方法です。このような方法を解説している §30 の最後に Frege は次のように書いています。

Alle rechtmässig gebildeten Namen sind so gebildet*7.
適正に形成される名前はすべてこのようにして形成されるのである*8

では、どのような名前にこれらの規則を適用するのでしょうか。

Frege は、Grundgesetze において、原初的な名前を九つ上げています*9。そのうち八つは関数名 (Functionsname) であり、一つは固有名 (Eigenname) です。これらの名前は、原初的な名前ですから、いわばこれ以上分解することのできない最も単純な名前だと思われます。論理的には最初の段階で、原初的であるこれら九つの名前に先ほど述べた Frege 独自の形成規則を二つ、適用して行き、次々とより複雑な名前を作って行くのです。それではこれらの名前に Frege の形成規則を適用すれば、本当に文や式ではなく名前ができるのでしょうか。Frege はこの点について、実際どのように考えていたのでしょうか。まず九つの名前を具体的に上げてみよう。それらは次の通りです。

    1. 水平線 (Waargerechtstrich) '−ξ'
    2. 否定線 (Verneinungstrich) '┬ ξ'
    3. 記述関数 (discriptive function) '\ ξ'
    4. 条件線 (Bedingungstrich) '−( −ξ → −ζ )' *10
    5. 等号 (Gleichheitszeichen) 'ξ = ζ'
    6. 普遍量化 (Allgemeinheit) '−∀a −φ ( a )' *11
    7. 値域 (Werthverlauf) ' 'ε φ (ε)'
    8. 第三階関数 (Function dritter Stufe) '−∀f − μβ ( f ( β ) )' *12
    9. 真理値名 (Name von Wahrheitswerth) 'Δ'*13

これら九つの記号は全部名前です。式や文ではありません。最初の八つは関数の名前、最後の一つは真理値の名前です。これら原初的な名前それぞれに Frege の形成規則を適用した結果も、名前になるのでしょうか。Grundgesetze において Frege は現にどう考えていたのか、順番に確認してみました。


1. 水平線 '−ξ'
水平線 '−ξ' について、Grundgesetze, SS. 10, 7, 『算術の基本法則』、59, 53-54ページを見ると、'ξ' には、名前が入り、それを 'Γ' とすると、できた結果である '−Γ' も、名前であると結論できます。ちなみにFrege にとり、例えば '2^{\scriptsize2} = 4' は名前です! 文や式ではありません! そして水平線を伴った '−2^{\scriptsize2} = 4' も名前です! もちろん '−2^{\scriptsize2} = 4' のなかの '2^{\scriptsize2} = 4' も名前です! 文や式ではありません! Grundgesetze, SS. 7, 10, 『算術の基本法則』、53-54, 59ページ。*14


2. 否定線 '┬ ξ'
否定線 '┬ ξ' について、Grundgesetze, SS. 10-11, 『算術の基本法則』、60-61ページを見ると、'ξ' には、名前が入り、それを 'Γ' とすると、できた結果である '┬ Γ' も、名前と考えられていることが見て取れます。


3. 記述関数 '\ ξ'
'\ ξ' について、Grundgesetze, SS. 16, 19, 50, 『算術の基本法則』、69, 78, 141ページを合わせて見ると、'ξ' には、名前が入り、それを 'Γ' とすると、できた結果である '\ Γ' も、名前と考えられています。


4. 条件線 '−( −ξ → −ζ )'
条件線 '−( −ξ → −ζ )' について、Grundgesetze, SS. 23-24, 21, 『算術の基本法則』、86, 82ページを見ると、'ξ' と 'ζ' には、名前が入り、それを 'Γ' と 'Σ' とすると、できた結果である '−( −Γ → −Σ )' も、名前であると考えられています。ちなみに Frege にとって、例えば '−( −(3 > 2) → − (3^{\scriptsize2} > 2) )' は名前です! 式や文ではありません! この表現のなかの '3 > 2' も '3^{\scriptsize2} > 2' も、式や文ではありません! 名前です! Grundgesetze, S. 23, 『算術の基本法則』、86ページ。


5. 等号 'ξ = ζ'
等号 'ξ = ζ' について、Grundgesetze, SS. 7, 16, 『算術の基本法則』、53-54, 69ページを見ると、'ξ' と 'ζ' には、名前が入り、それを 'Γ' と 'Σ' とすると、できた結果である 'Γ = Σ' も、名前と考えられています。


6. 普遍量化 '−∀a −φ ( a )'
普遍量化 '−∀a −φ ( a )' について、Grundgesetze, SS. 36, 43, 『算術の基本法則』、118, 129ページを見ると、'φ' には、名前が入り、それを 'Φ' とすると、できた結果である '−∀a −Φ ( a )' も名前と考えられています。 なお Frege にとって、例えば '−∀a −( a = a )' は名前です! 現在、この表現は通常 '∀a ( a = a )' あるいは '∀x ( x = x )' と書かれますが、これに相当する Frege の表現 '−∀a −( a = a )' は、文や式ではなく、名前です! 真理値真 (Wahre) の固有名です! Grundgesetze, S. 43, 『算術の基本法則』、129ページ。 また Grundgesetze, S. 36, 『算術の基本法則』、118ページ も参照。


7. 値域 ' 'ε φ (ε)'
値域 ' 'ε φ (ε)' について、Grundgesetze, S. 15, 『算術の基本法則』、68-69ページを見ると、'φ' には、名前が入り、それを 'Φ' とすると、できた結果である ' 'ε Φ (ε)' も名前と考えられています。


8. 第三階関数 '−∀f − μβ ( f ( β ) )'
第三階関数 '−∀f − μβ ( f ( β ) )' について、Grundgesetze, SS. 41, 49, 『算術の基本法則』、126-127, 139ページを見て検討するならば、'f' には第二階関数の名前が入り、それを '−∀a −φ ( a )' とすると、できた結果である '−∀f −∀a − f ( a )' も名前と考えられています。


9. 真理値名 'Δ'
真理値名が充当されるのは、1. から 8. のうち、1. から 5. の 'ξ' and/or 'ζ' の場所です。その結果が名前であることは、既に上に記しました。そして、今、真理値名 'Δ' は、原初的な名前と仮定しています。これはつまり、'Δ' から除去できる名前がもはや含まれていないことをいみします。したがって、原初的な真理値名 'Δ' には、除去の規則は適用できません。


Frege は、上記の 1. - 8. について、そこで述べたように、どれも名前から名前ができるとは、あまり明示的には記していません。私が見たところ、文脈から、1. - 8. について、いずれも名前から名前が作れると、Frege は考えていたものと思われます*15

上記のように、細かく場合分けして、名前から名前ができる様を確認しましたが、実は、水平線 '−ξ' の 'ξ' に、名前が入り、それを 'Γ' とすると、できた結果である '−Γ' も名前であることを認めさえすれば、否定線、条件線、普遍量化、第三階関数は、すべてそこに水平線を含んでいるので、いわば自動的にそれらから充当によって形成される結果は、名前となります。念のために言うと、否定線に見える横の線は水平線です*16。条件線に見える三つの横の線は水平線です*17。普遍量化に見える二つの横の線も水平線です*18。第三階関数の二つの横の線も同様です。

このようにして、Grundgesetze においては、原初的な九つの名前から、名前を操作する二つの形成規則により、できる結果もすべて名前であると考えられます。私が今回確認してみた限りでは、Professor Landini の主張、'Frege's signs are flanked by terms to form terms. […] All and only terms can flank the stroke signs of Frege's formal language' は、実際その通りであると感じられます。

ところで判断線 '|' は、すべて水平線 '−' に前置するようにして書き付けられます。例えば 'Γ' を、何らかの名前であるとすると、'⊢ Γ' のようにです。'| Γ' のように、水平線抜きの、判断線単独の出現ということはありません。判断線が出てくる時は、必ず水平線をそのすぐ後ろに伴います。そして水平線もそれ単独で出てくることはありません。水平線が出てくる時は、'−ξ' のように、argument の名前が入る場所を示す 'ξ' を伴うか、何らかの名前 'Γ' を伴って '−Γ' のように出てくるか、です。水平線単独で、'−' のみが書き付けられているということはありません。したがって判断線 '|' は、'−ξ' か '−Γ' のような表現に前置されます。しかも判断線は、判断線以下の表現 '−ξ' か '−Γ' が、真であることを主張するものです*19。そして '−ξ' か '−Γ' のうち、真であり得るのは、後者のみです。前者は水平線という関数の名前で、Frege によると、関数の名前は真でも偽でもありません。一方後者の '−Γ' は、これ全体で名前、特に固有名ですから、Frege によると、真であり得ます*20。よって、判断線は、書き付けられる場合には、水平線を持った固有名、例えば '−Γ' に前置されます。つまり、判断線は、真理値の名前に前置されるのであり、その結果は、Frege によると、文 (Satz) なのです*21。判断線を含んだ '⊢ Γ' これ全体で一つの文なのです。Professor Landini は、次のように述べていました。'[Frege's turnstile sign] attaches to a well-formed term α (open or closed) to form a wff '' ⊢α.' この発言は、今回私が確認した限りでは、正しいものと思われます。

こうして、判断線は、Grundgesetze において、名前に前置されていることがわかりました。そして、判断線が加えられてできた表現は、Frege にとり、判断線も含めて文とされていることがわかりました。とはいえ、なぜ判断線が必要なのでしょうか。判断線は、名前に付けられて、文を作っていることはわかりました。しかし、判断線が必要となってくる必然性が、今一つ、わからないかもしれません。そこで Frege の論述に基付きながら*22、別の角度から、判断線が持ち出される話の流れを、以下に述べてみようと思います。


なぜ式は名前なのか


さて、次のように書かれているとしましょう。

  2

ここでは何かが主張されているでしょうか。おそらくほとんどの人が、ここでは何も主張されていないと答えるでしょう。ここではただ '2' と書かれているだけであり、これは数の 2 を表していると多くの人が考えるでしょう。'2' とは、言ってみれば、数 2 の名前でしょう。

では、次のように書かれていたら、どうでしょうか。

  2^{\scriptsize2}

ここでは何かが主張されているでしょうか。多くの人が何も主張されてはいないと答えるでしょう。ただ単に '2^{\scriptsize2}' と書かれているだけで、これは数の 4 を表していると人々は考えるでしょう。'2^{\scriptsize2}' とは、言ってみれば、数 4 の名前の一種でしょう。

それでは、次のように書かれていたら、どうでしょうか。

  x^{\scriptsize2}

これは何かを主張しているでしょうか。やはり、ここでも何も主張されてはいないと人は答えるでしょう。これは単に 'x^{\scriptsize2}' と書いてあるだけで、自乗という関数を表していると人は言うでしょう。'x^{\scriptsize2}' とは、自乗という関数の名前でしょう。

ところで関数 (function) とは、何らかの数を入力すると、それに対応してある定まった一つの数を出力する操作や法則のことを言いました。ここでは入力するものも、出力の結果、出てくるものも、ともに何らかの数ですが、これを数に限らないことにして、関数の概念を一般化すれば、任意のものの集合に含まれる元を、任意のものの集合に含まれる一つの元へと対応させる法則と考えることができ、このように一般化して考えられた関数を、しばしば写像 (mapping) と呼びます。

そこで、入力されるものも出力されるものも、数に限らないとして、関数を一般化した写像というものがあり得るとしたときに、次のような表現が書かれていたとしましょう。

  x^{\scriptsize2} = 4

この x に、数の 2 または −2 を入力すると、その結果は正しいと人は考えるでしょう。一方、2 または −2 以外のものを入力すると、その結果は正しくない、間違っていると人は考えるでしょう。そこでこの表現 'x^{\scriptsize2} = 4' は、'2' または '−2' を 'x' に代入すると正しいことが出てくるが、それら以外のものを代入すると、間違ったことが出てくる写像を表していると、捉えることができるでしょう。今述べた「正しいこと」を手短に「真」と言い、「間違ったこと」を「偽 (Falsche)」と言い、これら真と偽を「真理値」と称することにすれば*23、'x^{\scriptsize2} = 4' が表しているのは、2 または −2 を入力すると真理値真を出力し、2 または −2 以外のものを入力すると真理値偽を出力するような写像のことです。

さて、少し前に述べた、

  x^{\scriptsize2}

は、何かを主張していたでしょうか。答えは、何も主張していない、というものでした。これは自乗という関数を表している名前なのでした。では、

  x^{\scriptsize2} = 4

は、どうでしょうか。これもある種の関数、詳しく言えば、関数を一般化したある種の写像を表しているのでした。関数の名前である 'x^{\scriptsize2}' が何も主張していないとするならば、写像の名前である 'x^{\scriptsize2} = 4' も何も主張していないはずです。

ところで、関数

  x^{\scriptsize2}

の x に 2 を代入した

  2^{\scriptsize2}

は、4 の名前の一種なのでした。'2^{\scriptsize2}' は、4 を表しているだけで、何も主張していないのでした。それでは写像

  x^{\scriptsize2} = 4

の x に 2 を代入した

  2^{\scriptsize2} = 4

は、何かを主張しているでしょうか。関数

  x^{\scriptsize2}

の x に 2 を代入した

  2^{\scriptsize2}

は、ただの 4 の名前で、何も主張していないのでした。だったら、写像

  x^{\scriptsize2} = 4

の x に 2 を代入した

  2^{\scriptsize2} = 4

も、単に真理値真の名前であるだけで、何も主張していないはずです。

  2^{\scriptsize2}

は、見るからにただの名前です。明らかに何も主張をしていません。一方、

  2^{\scriptsize2} = 4

は、見るからにただの名前だ、という訳ではありません。明らかに何も主張していない、というようには見えません。しかし今までの話からするならば、

  2^{\scriptsize2} = 4

も、ただの真の名前にしか過ぎないのであり、真という何らかのものの名前でしかないのだから、そうは見えなくとも何も主張してはいないのです。


しかし、名前に相当する

  2^{\scriptsize2} = 4

は、一見すると名前ではなく、文または式にしか見えません。これが名前であることを一見してわからせるためには、どのようにすればよいでしょうか。

それをわからせる記号が、水平線 '−' です*24。これは先ほど話をした写像の一種で、真理値真を入力すると真理値真を出力し、真理値真以外を入力すると真理値偽を出力する写像です。そして syntactical には、以前に論じた通り、名前から名前が作られる写像の名前です。具体例をもって述べると、'−ξ' の 'ξ' に名前 'Δ' を代入してやれば、表現 '−Δ' ができて、これ全体も名前です。

水平線は、syntactical には、名前に前置できます。名前であれば、何であれ水平線を前置することが可能です*25。ただし、それは通常は真理値の名前に前置されます。したがって、例えば個人の名前に前置されることは、普通はありません。しかしいずれにせよ、何かが名前であれば、syntactical には水平線を前置してよく、水平線を前置されているものは、名前のはずです。よって、一見名前には見えないが、それでも名前であるというものには水平線を前置してよく、こうして水平線を前置されていれば、前置された表現は名前だとわかるのです。

ところで、例えば

  2^{\scriptsize2}

が 4 の名前であることを、私たちは

  2^{\scriptsize2} = 4

と書きます。そして、今までの話から、

  2^{\scriptsize2} = 4

が真理値の名前だとすると、この '2^{\scriptsize2} = 4' には、水平線を前置して次のように書けます。すなわち

  − 2^{\scriptsize2} = 4

これは全体で、真理値真か偽の名前です。取り分けこれは真理値真の名前です。

  2^{\scriptsize2}

が 4 の名前であることを、私たちは

  2^{\scriptsize2} = 4

と書きましたが、それでは

  − 2^{\scriptsize2} = 4

が、真理値真の名前であることを、どのように書けばよいでしょうか。水平線を前置されているだけでは、水平線を含んだ '− 2^{\scriptsize2} = 4' が真理値の名前とわかるだけで、それが真または偽の、どちらの名前かはまだ記されていません。そこでそれが真理値真の名前であることを表すのが、判断線 '|' なのです*26。この記号は、それが付される場合、水平線に前置されます。したがって、

  − 2^{\scriptsize2} = 4

が、真理値偽の名前ではなく、真理値真の名前であると言いたい場合は、次のように書きます。

  ⊢ 2^{\scriptsize2} = 4

これは

  − 2^{\scriptsize2} = 4

が、真理値真の名前であることを主張しています。したがって、

  ⊢ 2^{\scriptsize2} = 4

は、全体で一つの文、あるいは一つの式なのです*27


Frege は、関数の概念を一般化し、いかにも関数らしい関数から、当時としては一般に、関数らしからぬものも関数だと考えました*28。例えば、x^{\scriptsize2} はいかにも関数らしい関数です。しかし Frege はこのような関数の典型例にとどまることをやめ、例えば x^{\scriptsize2} = 4 のようなものも、関数の一種と考えました。つまり、現在私たちが言う開いた式 (open formula / open sentence) の類いを関数の名前とみなし、定義域と値域 (range) も数の集合に限定せず、任意のものの集合としました。こうすると任意の開いた式は、その argument の場所に、ものを表す名前を代入してやると、現在私たちの言う閉じた式 (closed formula / closed sentence) の類いができて、これは結果として関数値 / 従属変数を表すから、この閉じた式の類いは関数値 / 従属変数の名前とみなせることになります。つまり、関数の概念を一般化してやった結果、閉じた式の類いも、式や文とみなす前に、まずは名前とみなし得ると Frege は考えたのです。

Frege は、私たちが一見文や式とみなす表現を、まずは真理値の名前と考えました。Grundgesetze の syntax を確認するならば、最初に式や文があって、それからそれらの式や文から、新たな式や文を作るという手順を踏むのではなく、論理的には、まずもってあるのは名前なのであり、それからそれらの名前を使って、新たに複雑な名前を作り出していくという手順を踏んでいます。初めに名前ありき (In the beginning was the name)、なのです。まずは何より、名前あれ (Let there be names)、なのです。初めに名前があった、名前だけがあった、のです。はっきりと割り切って言ってしまえば、それ以外はすべて名前から派生したものにすぎない、ということです。文も名前から、いわば派生したものなのです。名前に判断線を付すことによって、文は出てくるのです。

ところで、論理学や数学には、論証や証明が不可欠です。そして論証や証明は、文によってなされます。したがって論理学や数学には、文が不可欠です。また、論理学や数学を分析するには論証が不可欠です。論証は文からなるのでした。したがって論理学や数学を分析するには、文が不可欠です。翻ってみるに、Grundgesetze における Frege の言語 Begriffsschrift は、論理的に名前から始まるのでした。九つの名前から、名前を操作する形成規則を二つ使って、次々と名前が作られていくのでした。もしもこれだけであれば、できあがるのは名前ばかりです。名前しかできません。しかし、論理学を展開し、論理学と数学の分析を試みようとした Frege にとっては、もちろん名前だけで事足りる訳ではありません。今しがた述べたように、文が必要です。文を提示しなければなりません。任意の名前と水平線だけでは、名前しかできず、何らの主張も行えないし、何らの文も分析できません。名前だけしかなかった世界に、文を作り出し、文の分析を行うために、持ち出されてきたのが、判断線なのです。名前しかなかったところに、文を生み出す必要性に駆られて導入されているのが、判断線だったのです。


終わりに


判断線の必要性に対する、以上の説明が、大筋ながら正しいとすると、何か大がかりな理論で判断線の正当化を図らなくとも、その論理学上の基本的な部分に関しては、ごく simple に説明できることがわかります。判断線を正当化するのに、言語行為論を持ってくることは必要です。Intuitionistic Type Theory を持ち出してくるのも、それはそれで構いはしないと思います*29。しかし、単に Grundgesetze の syntax を見れば、今まで述べてきたように、論理学の system における判断線の役割と必要性については、基本的に simple に minimal に説明できるのではないでしょうか。
ただし、このような説明で、すべてが尽きていると言いたい訳ではまったくありません。実際 Frege は、彼のいわゆる哲学的な諸論文で、判断線をいわば哲学的に説明しているので、このような哲学的説明を考慮する必要があります。そこで、この種の諸論文での判断線の説明に、言語行為論を援用することは有用と思われます。ただし、それでもやはり望まれるのは、判断線の哲学的説明と、論理学的で形式的な説明の両方だと思います。今まではあまりに前者の哲学的な説明に着目し過ぎていたのだと思います。ちなみに、Frege にとって判断線が必要とされる、いわゆる哲学的な理由の一つは、私たちが思想 (Gedanke) を真と認めることができる一方で、それを真とは認めず、真偽不定のまま把握したり表明したりすることができるという事実のうちにあります。条件文の前件と後件をなす文や、疑問文などについて考えてみてください。思想を真と認めたり、あるいは認めなかったりするという、この相違は、私たちの言語活動において本質的であるが故に、無視することができません。例えば条件文の使用は、この相違に依存しています。したがって、この相違を明示しなければなりません。そこで、思想を真と認めている場合には判断線を付け、真であることを、当座のところ、不問に付している場合には、判断線を付けないとすることで、今述べている相違を明示するのです。いわば哲学的にはこのような点から、Frege は判断線を必要としたのです*30


今回述べてきた話を、大まかに、極めて大まかに、まとめてみましょう。

論理学的観点から言って、Frege の判断線は、なぜ必要だったのでしょうか。それは Grundgesetze においては、論理的に名前からすべてが始まるように作られているからです。まずは名前があって、これらの名前に対し、名前に作用する形成規則を使って、次々と複雑な名前が作られていきますが、こうやってできるのは、すべて名前です。これでは文が出てくる余地がありません。そこに文を生み出す装置として考え出されたのが、判断線なのです。

ではなぜ初めに名前しかないのでしょうか。個人的な推測を述べますと、それは Frege が関数の概念を一般化したためだろうと思います。Frege の論理学では、伝統的論理学と違って、名辞と繋辞を使って組み立てたものが文になり、このような文で論証を構成するというような、bottom up 型の perspective を取るのではなく、その逆に、top down 型の perspective を取っていたことは、本人も認めていて*31、一般にもよく知られています。彼の出発点は、主語や述語などの名辞ではなく、文でした、文の真理でした。(より正確には、文の思想の真理性です*32。) 文の真理性を問うに当たってなされるべきは、文の構造の分析でしょう。Frege は、おそらく日常の文に基付いてではなく、数式を基本として、思想の真理性を表した表現の構造の分析を行ったであろうと考えられるので、数式の分析に伝統的論理学に沿った主語、繋辞、述語による分析は適当ではないと思い、代わりに argument と関数による分析を思い付き、採用したのではないかと推測されます。この新たな分析方法により、Frege は、文を n 個の名前と、n 座の残りの部分に分解し、そして n 座の残りの部分を関数表現の一種、写像表現の一種とみなし得るとしたのです。こうすると、閉じた式としての文は、文であることをやめ、関数値の名前となります。Frege は、この方針を全面化し、深化させ、文をまずは名前として設定し、この名前から、いわば派生させる形で文を生み出し捉え返したのです。いささか逆説的ながら、文の真理を出発点として取ることによって、Grundgesetze では、論理的に文から始めるのではなく、文を名前にいわば逆転させて、名前から文を作って行くという戦略を取ったのです。このため Frege は、一般に考えられているように、文を名前とみなしたのではなく、実のところ、名前を文とみなしたのです、名前に判断線を付けて文としたのです*33
私たちは、Frege の Grundgesetze を読む際に、「論理学は文や式から始まるものだ」という観念に、あまりにも固執し過ぎているのかもしれません。命題論理から学ぶせいなのか、論理学は式から式が組み立てられているというつもりで、Grundgesetze も読んでしまっているのかもしれません。そして '2 + 2 = 4' というような表現は数式であると、子供のころから教えられ、そのようなものとして慣れ親しんでいるので、等号を含んだような表現が出てきたら、まったく無意識に、完全に自動的に、それをすぐさま式であるとみなしてしまうのでしょう。この私もそうです。だから Grundgesetze を読んでいるとき、等号を含んだような表現が出てきたら、まったく無自覚にすべて式だと思いながら読んでしまっているのでしょう。この私もそうでした。しかし今回私が確認したところでは、 '2 + 2 = 4' というような表現が Grundgesetze に出てくるとするならば、それは式や文ではなく、名前です。この種の表現は、Grundgesetze においては、すべて名前なのです。


付論: なぜ水平線が必要なのか


今まで判断線が必要とされる理由を述べてきましたが、最後に、判断線があるところ、常に相伴って現れる水平線の必要性がどこにあるのかを、記してみましょう。ここまで述べてきた判断線の必要性に関する話を踏まえるならば、なぜ Grundgesetze において、Frege は水平線を必要としたのか、その答えを非常に simple に与えることができると思います。なお、この付論は、上記本論の延長線上に書かれていますので、上記本論で参照を促した註を、再びここでも注記するということは避けました。例えば、以下では「判断線は真理値真の名前に付される」という文章が出てきます。これを裏付ける Frege の文献情報は、既に上記本論で注記しています。この場合、この付論では、それを再び注記することは省きました。付論の内容から言っても、文献上の裏を取るためにも、上記本論を読まれてから、この付論を読まれることをお勧め致します。

さて、改めて問いますが、Frege は Grundgesetze において、なぜ水平線を必要としたのでしょうか。その答えを判断線との関係から与えてみましょう。そしてすぐ次に答えを与えてしまい、その後に簡単な説明を続けることにします。

そもそも、何かに判断線を付すには、それが真理値の名前であることが必要です。判断線は真理値真の名前に付されるものだからです。したがって少なくとも、判断線が付されるためには、何であれ真理値の名前が必要なのです。そしてそれを用意し供給するのが水平線なのです。
判断線は、その記号の右側にある名前が真理値真を意味している (bedeuten) ことを主張するものです。そのため、判断線をある名前に付すには、その名前が真理値を意味し、しかも真理値のうちの真を意味している必要があります。名前は、どんな名前であれ、すべて真理値を意味しているのかというと、そんなことはありません。多くの名前は真理値を意味していません。したがって、名前に判断線を付す際には、その名前が少なくとも真理値の名前である必要があります。何にしろ、真理値の名前でなければ判断線を付すことはできません。繰り返しますが、判断線は、その右にある名前が真理値を意味し、かつそのうちの真を意味することを主張するものだからです。世の中の名前は、そのほとんどが真理値を意味していないでしょう。これに対し、どんな名前が提示されても、それが意味 (Bedeutung) を持つ限り、その名前を真理値の名前に変換する写像があります。それが水平線という写像です。水平線が必要なのは、真理値の名前が必要だからです。
今、'−x' を水平線という写像の名前とし、'N' を何らかの意味を持った名前とします。'N' は、必ずしも真理値の名前とは限りません。この時、先の水平線写像の名前の 'x' に 'N' を置いた '−N' は、これで真理値の名前となります。これは真理値真の名前なのか偽の名前なのか、その点はわかりません。しかし、真にしろ偽にしろ、'−N' は真理値の名前となっています。というのも周知の通り、水平線という写像は、真理値真を入力すれば真理値真を返し、真理値真以外を入力すれば真理値偽を返すものであるため、言ってみれば何を入れても真理値が出てくる写像となっているからです。ですから N が何であれ、これを水平線写像に入れてやれば、真にしろ偽にしろ、どちらかの真理値が返ってくることがわかります。そのため '−N' は真理値の名前であることがわかります。これにより、どんな名前であっても、それが意味を持った名前があれば、それを真理値の名前に変えてやる手段を得ることができました。それが水平線という写像なのです。こうして水平線と何らかの名前があれば、その両者の組み合わせが真理値真を意味している場合、判断線を付すことができます。


水平線が必要なのは、真理値の名前が必要だからだ、ということを、もう少し補足しながら説明してみましょう。
今、判断線も水平線もない名前 'Nn' を考えてみます。そしてこの名前を使って、次のような論証風の表現 (#) を見てみます。 ' / ' は「故に」と読みます。


(#)  N1, N2 / N3


この論証もどきにおいて、'N1', 'N2', 'N3' は、どれも何らかのものの名前です。論証は文からなるのであって、名前からなるのではないので、この (#) は論証ではなく、論証もどきです。'N1', 'N2', 'N3' は、真理値の名前とは限りません。仮にこの論証もどき (#) の各 'N1', 'N2', 'N3' それぞれに判断線 '|' を付して本物の論証にしてみましょう。次がそれです。


(*)  |N1, |N2 / |N3


(*) の '|N1', '|N2', '|N3' は、それぞれ判断線が付いているので、名前ではなく文です。判断線が付くと、それは文になるのでした。したがって'|N1', '|N2', '|N3' はどれも文です。しかし '|N1', '|N2', '|N3' の各 N1, N2, N3 が、いつも真理値であるとは限りません。よって、(*) の各 N1, N2, N3 が真理値でない場合、それに判断線を付して '|N1', '|N2', '|N3' とはできません。なぜなら真理値ではないものについて、それは真理値真であるとは言えないからです。
こうして、(#) の N1, N2, N3 も、(*) の N1, N2, N3 も、その名前に判断線を付すにしろ、付さないにしろ、前提がすべて真の時、結論も真となる、という論証の妥当性の基準を適用して、(#) と (*) が妥当であるか否かを一般には評価できません。そこでこの評価を可能にすべく、'N1', 'N2', 'N3' や '|N1', '|N2', '|N3' から真理値の名前を作るために、水平線なるものを利用するのです。
まず、何らかのものの名前の組み合わせでしかない (#) に、水平線を持ち込むと


(%)  −N1, −N2 / −N3


となります。これで (%) の二つの前提と結論は、真であれ偽であれ、いずれにせよそれぞれ真理値を意味している名前とになります。しかし、前提の二つの名前が、このままでは真理値のうち、真を意味しているのか、偽を意味しているのか、どちらなのかはわかりません。それにこれら二つの前提は、文ではなくただの名前にしかすぎません。そこで二つの前提を文に変換し、それらがともに真であることを示すのに用いられるのが判断線なのです。こうして最終的に次のようになります。


(%%)  ⊢ N1, ⊢ N2 / ⊢ N3


この (%%) における二つの前提は、真であることを主張している文です。(%%) を具体的に以下のようにしてみましょう。


(%%%)  ⊢ ( −p → −q ), ⊢ p / ⊢ q


この論証の二番目の前提における '−p' は、'⊢ p' とされているので、真です。この時、一番目の前提における '−q' は、真とせざるを得ません。理由はこうです。一番目の前提は判断線を付されているので、一番目の前提 '−( −p → −q )' は真です。二番目の前提も真なので、この時、一番目の前提における '−q' に残された可能性は、真しかないからです*34。すると今の論証 (%%%) の結論部分 '−q' も真です。よって (%%%) の結論に見られるごとく、⊢ q と結論することは正しいこととなります。したがって、確かに (%%%) は、妥当な論証だと評価できます。

以上のようにして、水平線という写像により、真理値の名前を供給することで、それがない場合には不可能な、論証の妥当性の評価が可能となります。論証が正しいか否かは、その論証の前提をすべて真とした時、結論も必ず真となるか否かを見ればよいのでした。ところで Frege は Grundgesetze において、論証は論理的には名前から作られるとしたのでした。したがって Frege の Grundgesetze において、論証の妥当性を評価するためには、論証の前提を構成している各名前が真の時、結論の名前も必ず真となるか否かを見ればよいことになります。さて一般に、直説法の動詞を持った平叙文 (declarative sentence) で、不明瞭なところのない文であれば、原則的に論証の前提や結論を構成してよく、それらの文からなる前提がすべて真の時、結論も真となるかを見ることによって、その論証の妥当性は評価されるのでした。同様に Frege の Grundgesetze の場合、意味を持つ名前であれば、原則的に論証の前提や結論を構成してよく、意味を持った名前のうち、ある名前は論証を構成してよく、別の名前は論証を構成してはならない、というような名前に対する差別は、論理的に存在しないように思われます。つまり任意の名前が論証の構成要素の名前の候補として開かれているということです。この時、もしも任意の名前を真理値の名前に変換する写像がなければ、意味を持つどのような名前も論証を構成することができるという可能性が否定されてしまいます。これに対し、この可能性を保証するのが水平線なのです*35
なぜ Grundgesetze において、Frege は論証もしくは証明を展開する際に、通常は、名前に前置された水平線に、判断線をいつも付しているのか*36、つまり、なぜ (%%) 型や (%%%) 型の論証や証明をいつも Frege は展開するのか。なぜ彼は 通常は、判断線のない、水平線だけの論証を展開しないのか*37、つまり、なぜ (%) 型の論証を展開しないのか。さらには、なぜ彼は判断線しかない論証や、判断線も水平線もない論証を展開しないのか、つまり、なぜ (*) 型や (#) 型の論証を展開しないのか。その理由の一端が、上記の話により、おわかりいただけるのではないかと思います*38


最後の最後に、なぜ Frege は、Grundgesetze において、判断線と水平線を必要としたのか、という疑問に対し、その答えをごくごく簡潔に箇条書きにして終わります。

    • なぜ Frege は、Grundgesetze において、判断線と必要としたのか?

Grundgesezte において、判断線は名前から文を作り出すものでした。そして Grundgesetze では、論理的に名前から始まりました。そこでの充当と除去の規則は名前を操作する形成規則で、この規則を名前に適用すると、複雑な名前が次々できました。しかしできた結果は名前ばかりですので、文を作り出す必要が出てきました。こうして文を作り出す必要性から、判断線が必要となったのです。*39

    • なぜ Frege は、Grundgesetze において、水平線を必要としたのか?

Grundgesezte において、論証や証明は、まずは論理的に言って名前から構成されているのでした。これらの名前に判断線を付せば、それらの名前は文となり、正しく論証や証明が構成されることになります。しかし、論証や証明の構成要素である名前が、いつも真理値の名前であるとは限りません。ところで論証や証明の妥当性は、その論証なり証明なりを構成している文の真理値に着目して評価されます。もしも、Grundgesezte における論証や証明の構成要素である名前が、真理値の名前でない場合があるとすれば、その論証なり証明なりの妥当性を評価することができなくなります。そこで、いかなる名前がきた場合でも、その名前が意味 (Bedeutung) を持つ限り、いつでも真理値の名前とすることができるよう、任意の名前に対し、真理値の名前を供給する手段として用意されたのが水平線なのです。*40


以上の論述には、誤解や無理解や、激しい勘違いや、まったくの間違いなどが含まれていると思います。ほとんどの部分が不充分な記述となっていると思います。誤字や脱字等も含まれていると思います。ここでそのことに対し、改めてお詫びを致します。申し訳ございません。勉強し直します。

*1:判断線の必要性を、言語行為論に関する言葉で説明するべきではないとか、そのような説明は不要であるとか、無駄であるとか、そのようなことが言いたいのではありません。言語行為論的な言葉づかいで説明することは、実際に必要なことです。

*2:ここで「通常、用いられない」と言ったのは、判断線に相当するものを使用している論理学が、現代において、存在すると言われることもあるからです。次の論文を参照。岡本賢吾、「「命題」・「構成」・「判断」の論理哲学 フレーゲ/ウィトゲンシュタインの「概念記法」をどう見るか」、『思想』、岩波書店、no. 954, 2003年、10月号。これは次に再録されています。日本科学哲学会編、野本和幸責任編集、『分析哲学の誕生 フレーゲラッセル』、科学哲学の展開 1、勁草書房、2008年。

*3:See, e.g., Landini, p. 13.

*4:この点について、簡単ながら、話をまとめた短い文章を書いた。後日この日記上に up するかもしれない。しないかもしれませんが…。

*5:Landini, p. 34.

*6:Landini, p. 34.

*7:G. Frege, Grundgesetze der Arithmetik I/II, Neuauflage mit Corrigenda von Christian Thiel, Reihe: OLMS Paperbacks, Bd. 32, Hildesheim, Olms, 1998, S. 48.

*8:G. フレーゲ、『算術の基本法則』、フレーゲ著作集 3, 野本和幸編、野本和幸、横田榮一、金子洋之訳、勁草書房、2000年、137ページ。

*9:Frege, Grundgesetze, §31, S. 48, 『算術の基本法則』、138ページ。

*10:条件線は、特に Frege 独特の記号で、それをここでは再現できません。代わりに現代流の近似的な記号を利用しています。なお、三つの横棒は、いずれも水平線です。

*11:普遍量化を表す記号も、特に Frege 独特の記号で、それをここでは再現できないため、代わりに現代流の近似的な記号を利用しています。なお、二つの横棒は、どちらも水平線です。

*12:第三階関数を表す記号も、ここで再現できないので、現代の近似的な記号を流用しています。こちらの二つの横棒も水平線です。

*13:ここで Frege は、真理値名の具体例を上げていません。代わりに仮のものとして 'Δ' を上げておきました。

*14:'2^{\scriptsize2} = 4' が、なぜ名前とみなし得るのかについては、この日記項目後半にある「なぜ式は名前なのか」において、わかりやすい説明を与えています。

*15:目につくように明確に、「名前から名前が作られるのだ」とは、あまり明示的に記していないからこそ、今までここで提示しているような Grundgesetze における syntax の特徴に、ほとんど気付かれてこなかったのでしょう。

*16:Grundgesetze, S. 10, 『算術の基本法則』、60ページ。

*17:Grundgesetze, S. 20, 『算術の基本法則』、80ページ。

*18:Grundgesetze, S. 14, 『算術の基本法則』、66ページ。

*19:Grundgesetze, SS. 9-11, 『算術の基本法則』、57-61ページなどなど。

*20:Grundgesetze, SS. 7, 43, 『算術の基本法則』、54, 129-130ページ。なお、'−Γ' が名前であることは、既に上で説明しました。

*21:Grundgesetze, SS. 9, 20-21, 23-26, 30, 44, 『算術の基本法則』、58, 80-81, 86-87, 89, 93, 104, 131ページなどなど。この他にもまだ該当する事柄が記された page があるが、切りがないのでこれ以上参照個所を記すことはやめておきます。なお、Landini, pp. 35-36 も参照。ただしこの 35 page と 36 page にある Frege の概念記法言語による表現には、誤植が含まれています。35 page では、不等号の一部が間違って逆向きに印刷されており、36 page では、不必要な否定線が一部間違って書き加えられています。

*22:Frege, Grundgesetze, §§2, 5.

*23:Frege 自身は真理値をこのように説明しているのではありません。話をわかりやすくするために、私の方でこのような説明を行っています。このような説明によって、以下での論述に差し障りが出てくることはないので、今仮に、このような説明を与えています。

*24:Frege は、「ある表現が名前であることをわからせるために、その表現に水平線を付けるのだ、水平線はそのためにあるのだ」とは述べていません。ただ、Frege が Grundgesetze でやっていることを見ると、実質的にそのように解することができる、ということです。結果的にそうなっている、ということです。これは、水平線が、事実上そのように理解できるという私の考えを表しています。Frege が実際に水平線について、これと同じことを述べているということではありません。

*25:どのような名前にも、水平線を前置してよいとは、Frege は明言していません。しかし、Grundgesetze を見ると、事実上、それは許されます。Grundgesetze においては、ありとあらゆる名前に水平線が前置されているという訳ではありませんが、水平線を名前に前置することは、まったく well-formd です。逆に、水平線を Satz に前置することは、まったく ''ill-formed'' です。

*26:Grundgesetze, SS. 9, 11, 23-24, 『算術の基本法則』、57-58, 60-61, 86ページ。

*27:ここまでの、この section 「なぜ式は名前なのか」の論述については、Grundgesetze, SS. 6-7, 『算術の基本法則』、53-54ページ、さらには、G. Frege, ''Function und Begriff,'' in: Kleine Schriften, Zweite Auflage, Herausgegeben und mit Nachbemerkungen zur Neuauflage versehen von Ignacio Angelelli, Georg Olms, 1990, SS. 131-132, 「関数と概念」、野本和幸訳、黒田亘、野本和幸編、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、25-26ページを参照。

*28:以下、この paragraph については、See Frege, Grundgesetze, §§1-2.

*29:岡本、「「命題」・「構成」・「判断」の論理哲学」を参照。

*30:この paragraph の後半部分の、思想を把握することと、把握した思想を真と認め、そのことを主張することの違いについては、G. フレーゲ、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、黒田亘、野本和幸編、勁草書房、1999年 に収録された様々な論考で、たびたび表明されています。逐一全部該当箇所を上げるのは煩雑なので、ただ一ヶ所だけ上げると、G. Frege, ''Der Gedanke,'' in: Kleine Schriften, SS. 346-347, 「思想」、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、208-210ページ。

*31:Gottlob Frege, ''Aufzeichnungen für Ludwig Darmstaedter,'' in: Nachgelassene Schriften, Hrsg. von H. Hermes, F. Kambartel, F. Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, S. 273, 「ダルムシュテッターへの手記」、野本和幸訳、黒田亘、野本和幸編、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、263ページ。

*32:vgl. a. a. O.

*33:少なくとも、Grundgesetze においては、そうだったと考えられます。この paragraph については、G. Frege, ''Function und Begriff,'' in: Kleine Schriften, SS. 131-137, 「関数と概念」、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、25-34ページも、ぜひ参照してください。

*34:Grundgesetze, S. 20, 『算術の基本法則』、79ページ。

*35:水平線を導入した簡単ないきさつについては、G. Frege, ''Function und Begriff,'' in: Kleine Schriften, S. 136, 「関数と概念」、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、32-33ページも、少しばかり参考になるかもしれません。

*36:ここで、「通常は」と述べたのは、例外があるからです。判断線を付さずに水平線とその argument の名前だけで論証を展開している例外的な場面が Grundgesetze にあるからです。それは Grundgesetze, 第2巻の後書きで、Russell Paradox を分析している場面です。Grundgesetze, SS. 256-258, 『算術の基本法則』、407-413ページなどを参照。 このような例外があることは、Landini, pp. 32-33 において教えられました。

*37:ここで「通常は」と述べている理由については、直前の註を参照下さい。

*38:Professor Landini の教示に基付く、判断線と水平線の私による説明は、とても簡単なものに感じられます。いわゆるもっと深い説明に触れたい方は、今までも何度か言及してきました次の文献をご覧になられるのがよいかもしれません。岡本賢吾、「「命題」・「構成」・「判断」の論理哲学」、一 ~ 三節。この岡本先生の論文では、1879年の Begriffsschrift に定位して、その判断線と内容線 (Inhaltsstrich) の話をされています。岡本先生の話は私の話とはまったく異なります。先生は 1879年における Frege の判断線と内容線を、現代の Intuitionistic Type Theory によって正当化しています。そのため、Frege に内在的な正当化ではなく、しかも大がかりな理論を持ち出しての正当化です。先生による正当化は、深く、射程の長い洞察を含んでいると思われます。極めて興味深く刺激的で、非常にためになります。先生のお話からは多くのことを学び取れると思いますので、今後も熟読玩味していきたいと思います。しかしながら、判断線と内容線の先生による正当化は、Frege に外在的なものであり、道具立てが大がかりに過ぎるように個人的には感じられます。Frege に内在的に考えるならば、Professor Landini の教示に基付き、唖然とするほど simple に、Begriffsschrift ではなく Grundgesetze においてのものですが、その判断線と水平線の基本的機能、基本的特徴に限っては、説明ができるのではないでしょうか、というのが、僭越ながら私個人の見立てです。私の見立てが間違っていましたら、すみません。謝ります。

*39:Grundgesetze において、判断線を必要とした理由や動機を、ここでのように明示的に Frege が述べている、というのではありません。Grundgesetze を見てみると、事実上、そのように結論できる、ということです。

*40:Grundgesetze において、水平線を必要とした理由や動機を、ここで記したような形で Frege が明示的に述べている、と言いたいのではありません。Grundgesetze を見てみるならば、事実上、そのように結論できる、ということです。