目次
はじめに
さて、今回も L. Wittgenstein の Philosophische Untersuchungen をドイツ語原文で楽しんでみましょう。
今日は有名な「家族的類似性」のドイツ語原語が出てくるところを読んでみます。
このあとでは最初にドイツ語原文を記し、そしてそのドイツ語の文法などを私自身で解説し、それから私による直訳を提示し、その後『探究』の三つの邦訳を引用して比較してみます。最後に直訳と意訳について少し検討してみることにします。
『探究』の三つの邦訳と以下です。刊行年順に記します。手頃なサイズ、または最近刊行の翻訳書を利用しています。
・黒田亘編 『ウィトゲンシュタイン・セレクション』、黒田亘訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2000年 (初版1978年)、(「平凡社版」と略記)、
・ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 『哲学探究』、丘沢静也訳、岩波書店、2013年、(「岩波版」と略記)、
・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』、鬼界彰夫訳、講談社、2020年、(「講談社版」と略記)。
それぞれがどのドイツ語底本に依拠しているのかは、『探究』を独文原文で読む最初の回の、これら訳書に対する註をご覧ください。
ドイツ語原文
ドイツ語原文は The Ludwig Wittgenstein Project 提供のヴァージョンを引用致します。URL はここでも『探究』を独文原文で読む最初の回の、ドイツ語原文に対する註を参照してください。
・Ludwig Wittgenstein Philosophische Untersuchungen, hrsg. von G. E. M. Anscombe, R. Rhees, G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein Werkausgabe, Band 1., Suhrkamp Verlag, 1999.
ドイツ語文法事項
denn: 理由を追加的に述べる接続詞。典型的な訳は「というのも〜だから」。
so: so には色々な意味がありますが、ここでの意味は「そのように」というもの。「そのように」とは「今しがた上で述べたように」ということ。様々な類似性が「そのように」重なり交差していることがここで言われているのですが、それはつまり、様々な類似性が「今しがた上で述べたように」重なり交差しているのだと言われているわけです。so はたった二文字のシンプルな語であるため、ついつい見過ごしたり軽く考えてしまいがちですが、ここでは前のセクションとのつながりを付けるとても重要な役割を担わされており、この点が理解できないと、この so を含む denn の文の意味がまったく理解できなくなるので、要注意です。
die zwischen: die は関係代名詞複数1格。先行詞は直前の die verschiedenen Ähnlichkeiten。Wittgenstein は今まで述べてきた類似性を「家族的類似性」と呼ぼうと提案し、その理由を denn 以下で説明しています。denn 以下を訳し上げるようにそのまま直訳すると次のようになります。「というのも、一つの家族の成員間に成り立っている様々な類似性は、そのように重なり交差しているからである」。この訳は平易な言葉から成っていることもあって、決して理解できないとは言えませんが、これではちょっとわかりにくいと思います。わかりやすく開いて意訳すると、例えばこんな感じでしょうか。「というのも、今述べたような形で重なり交差している類似性は、典型的には家族の成員間にこそ最もよく見られるからである」。この意訳のポイントは二つあります。一つは、原則的に前から訳し下していることです。今までのセクションで様々な類似性が提示されていますが、「そのような」類似性は家族の間でこそ最もよく見られる、というのが、話の自然な流れです。これを後ろから前へと訳し上げて直訳すると、「そのような」類似性への言及がうしろに下がってしまい、前方のセクションとの話のつながりが断たれてしまって、話をわかりにくくしてしまいます。二つ目のポイントは、関係文を先行詞に掛けて訳すのではなく、先行詞までをまずひと塊に主部として訳し出し、それから関係文をひと塊に述部として訳し分けていることです。直訳の場合、関係文を先行詞に掛けて訳すことが定石ですが、そうするとその訳は「家族の成員間に見られる類似性は、そのようなものだからである」という感じになります。しかしこれでは問題の類似性を家族的類似性と呼ぶ理由の提示としては少しわかりにくく、直接さやインパクトに欠けます。むしろまず前のセクションとのつながりを意識しながら先行詞までを「今述べたような類似性というものは」という感じで訳し出し、それから関係文を「家族の成員間にこそよく見られるからだ」と訳し終えたほうが話の流れがよく、すっきり理解できます。ポイントを復習しましょう。前から訳し下したほうが理解しやすい場合があること、および関係文を先行詞に掛けて訳す必要は必ずしもなく、先行詞と関係文を二つに切って訳したほうがわかりやすい場合もあること、これです。
Und ich werde: und は、時間の順序を表して「そしてその次に」という意味であるよりも、むしろ「以上の話を踏まえた上で」ぐらいの意味でしょう。類似性を「家族的類似性」と呼ぶことに決め、これを根拠にこのあと「ゲームは家族を成す」と言おうとしているので、und は時間的順序であるよりも根拠を示していると思われます。そして werde ですが、これは未来や推量ではなく意志の表示「〜するつもりである、〜しようと思う」でしょう。
die ›Spiele‹ bilden eine Familie.: die ›Spiele‹ は複数形です。eine Familie は単数を表しています。eine は不定冠詞ではなく、むしろ「一つの」という意味の数詞でしょう。ここでは前の話を受けて、複数のゲームが、類似性を介して一つの家族として捉えられうることを述べています。たとえばサッカーや野球、水球などの複数のゲームが、ボールを使う点で似ていることから、ひとまとまりに球技と呼ばれる、というようなことです。このためここの文は、できればゲームが複数であることと家族が一つであることを和訳でも示してやりたいものです。
Und ebenso: 文の冒頭に出てくる ebenso は、大体の場合、「上と同様に」の意味です。
bilden z.B. die Zahlenarten eine Familie.: z.B. は zum Beispiel (たとえば) の略。この文を直訳すると「たとえば数の種類は一つの家族を形作る」または数の種類が複数であることを明示して「たとえば複数にわたる数の種類は一つの家族を形作る」。これはなんとなくわかりますが、一読してすぐにすっきりわかるというものではないと思います。原文に Zahlenarten とあるので逐語的に「数の種類」と訳したくなりますが、ここで言われているのは要するに、たとえば有理数や無理数などの複数の種類の数が、実数という一つの家族を成している、というようなことです。今私は「複数の種類の数」と言いました。「複数の数の種類」とは言いませんでした。後者でも理解できなくはないですが、ちよっと不自然であり、普通はあまり言わない言い方であって、理解に一呼吸必要です。前者の言い方「複数の種類の数」 のほうが自然で普通であり、すぐに理解可能です。たとえ原文に Zahlenarten とあっても、この場合「数の種類」とするのではなく、実をとって「種類の数」としたほうがいいと思われます。
Warum nennen wir etwas »Zahl«?: nennen は4格を二つ取る動詞。「(4格) を (4格) と呼ぶ」の意味。etwas と »Zahl« がそれぞれその4格。
Nun: 間投詞、または話のつなぎ言葉。間投詞だとすると「うむ、ふむ、ああ」などの訳が考えられます。話のつなぎ言葉だとすると「そうだな、そうだね」などが考えられます。
etwa: etwa には大体三つの意味があって、それは「約、たとえば、ひょっとして」です。ここではどれに当たるでしょうか。どれも当てはまるように感じられます。nun を「そうだな」と訳すとして、それぞれを当てはめて訳すとこうなります。「そうだな、おおよそのところは」、「そうだな、たとえば」、「そうだな、たぶん」。どれでも整合的ですが、私は二つ目の「たとえば」が一番普通で、よくはまっていると感じます。その次に「おおよそ」がきて、「たぶん」はあまり説得力を感じません。まぁ、どれでも一応筋が通った訳ができるので、この語の訳にあまり神経質になる必要はないかもしれませんが、精密に読む場合には、よく考えて訳さねばならないでしょう。
es: 前にある etwas のこと。これがここの副文の主語で、対して枠構造を成す動詞は hat。
was man: was は前の manchem の内容を説明する不定関係代名詞。man は常に1格。よってこれが出てきたら、これが主語と思えばよいです。
und dadurch: 各先生方による既刊の邦訳をあとでチェックして、私はここで自分が誤訳していることに気付きました。あるいは浅い読みをしていることがわかりました。問題の語句はなんていうこともない言葉から成りますが、注意が必要です。その注意すべきところとは、セミコロン (;) です。私は不注意にもこのセミコロンのところで文が切れていると思い、セミコロンの前とうしろをあまり関係付けずに最初は訳していましたが、ここにセミコロンはないぐらいのつもりでその前後を密接に関わらせつつ訳したほうがいいです。その場合、理由を表す weil の話はセミコロンのところで終わるのではなく、うしろのほうの nennen まで理由の提示が続いている、ということです。ですから次のように訳すのではなく、すなわち「なぜならそれは直接類似しているからである。そしてそれにより間接的に類似していると言えるのである」ではなく、以下のように訳したほうがいいでしょう。つまり「なぜならそれは直接類似しているからであり、そしてそれにより間接的に類似していると言えるからである」 。セミコロンは日本語を母語としている者にとってはついついそのニュアンスを捉え損ねたり、スルーしてしまったりしがちですが、その前後のつながり具合に目を光らせなければ誤読したり、読みが浅くなってしまったりするので気をつけなければなりませんね。なおセミコロンの直後に und や dadurch があることが、前との緊密なつながりを示唆しているように思いますので、この点にもアンテナをはっていればよかったと思います。ちなみに以下で掲げる私の直訳はセミコロン前後を緊密につなげた訳に修正して提示しています。
erhält: erhalten には大まかに言って二つの意味があります。「保つ」と「受け取る」です。後者は「得る」とも言えます。ではここではこの erhalten は「保つ」と「得る」のうち、どちらで訳すのがふさわしいでしょうか。まず、この場面では、何か A が「数」と呼ばれるのはなぜか、という問いが立てられています。そしてその答えとして次のように言われています。すなわち、A が既存の数 B と直接似ているからであり、かつ B と直接似ている数 C があるならば、(三段論法により) A が C とも間接的ながら似ているからである、と。つまり A が B と似ていて、かつB が C と似ているならば、A は C とも似ているからである、ということです。ここで「A は C とも似ている」という結論は三段論法により「得られる」ものです。ところで erhalten は今の結論を「得る」文脈で出てきます。ここを「保つ、保存する」と解することは、あまりそぐわないことでしょう。よってこの場合、erhalten は「得る」か、それに類する語で訳すのがよいと思われます。
was wir: was は直前の anderem の内容を説明する不定関係代名詞。
Faser an Faser: そのまま訳せば「繊維と繊維を」といったところでしょう。ただ、an の原義は接触にありますので、A an B と言えば「B に接して A を」というものになります。そのため Faser an Faser も、単に繊維と繊維を並列して置いているのではなく、密に接触させている、という意味合いがあります。
darin, daß: darin の da- は、この後続の daß 文を指します。
wollte: これは意志や欲求を表す wollen であり、意味は「〜するつもりである、〜したいと思う」。ただしその接続法第二式の形をしており、仮定や虚構を述べていて、原文を直訳すれば「しかし誰かが次のように言おうとするならば」。実際に誰かが言っているわけではなく、虚構上のことが述べられています。wollte は直説法過去の形でもありますが、この wollte が含まれる wenn 文のうしろでは接続法第二式の würde が出てきているので、wenn 文が前件で、würde の文が後件である単純な仮定文だとわかります。なおこの wollte はいわゆる「言い張る」の意味の wollen で、接続法ではなく直説法であって、wollte はその過去形のようにも感じられます。ここの文の意味も、ある人が次のことを「言い張ったならば」と解するとピッタリはまります。「言い張る」の意味の wollen は、典型的には主語が事実でないことを言ったりしていると、この wollen の語の使用者が思っていると解される文脈で現れます。そして実際に、当該の文脈はまさにそのような文脈です。従ってこの wollte は「言い張ったならば」と訳すのが妥当だと感じられます。ちなみに、相良守峯監修、『独和中辞典』、研究社、1996年、項目「wollen」、1610ページには例文とともに以下のように書かれています。「[ ]」は辞典原文のものです。「《話者があり得ないと見ている主張;1人称以外で》(... と) 言っている, (... と) 言い張る: Er will [wollte] es nicht getan haben. 彼は自分がそれをしなかったと言っている [言っていた]」。しかしそれでもやはりこの wollte は、単に意志を虚構として表しているだけの接続法第二式でしょう。なぜならここの文は、前件の wenn 文と後件に接続法第二式が現れるシンプルな、教科書的・模範的仮定文と解されるからです。「言い張る」の意味の wollen とするのは深読みのしすぎだと思います。私も最初、「言い張る」の wollen の過去形かと思いましたが、後件に würde がきているので、ここは素直に普通の仮定文と解すべきと思い直しました。ただし、意味合いとしてはある人が「言い張っている」とも言えるので、訳文は普通の接続法第二式で、意味は過去ではなく現在にして「しかし誰かが次のように言い張るならば」としてもよいと思います。なお余談ですが、「言い張る」の wollen は「〜と言われている」の sollen の裏である、または逆に、後者の sollen は前者の wollen の裏である、と言われることがあります (この sollen はいわゆる伝聞の sollen)。ここで「裏」という言葉が使われていますが、この裏という言葉は、伝統的な論理学で使われる裏ではないと思います。私は当初、伝統的論理学で言う裏のことなのか、とも考えたのですが、そう考えるとわけがわからなくなるので、どうもそうではないようです。たとえば「A は B である (または A ならば Bである)」の裏は「A でないものは B でない (A でないならば B でない)」ですが、この図式を当てはめて wollen や sollen の「裏」を考えてもわけがわからないだけで、無意味です。おそらく「裏」と言っているのは比喩であり、wollen では主語が言っている、と言われているのに対し、sollen では主語が言われている、と言っている、ということで、両者はいわば表裏の関係にあるので、一方は他方の「裏」だと表現しているだけなのだろうと思われます。間違っていたらごめんなさい。
Also: この also ですが、普通は定石通り、前提から結論を導くことを示して「それ故、従って、だから」などと訳したくなります。しかしそうすると、なぜこの also の前から also のうしろが出てくるのか、よくわかりません。と言うか、(少なくともそのままでは) also の前からうしろは出てこないと思われます。ということは、この also は結論の導出を示す also ではない、ということです。そこで考えられるのは「要するに、つまり、煎じつめて言えば」という意味の also です。Wittgenstein が様々なものには類似性があるだけで共通性はない、と言うのに対し、これに反論してある者が「このように形作られたものはやはりそれでもどれも共通性があるのだ」と言い張る直前に also は出てきます。Wittgenstein があれこれ共通性がない理由を上げるが、反論する側は「Wittgenstein さん、あなたはあれこれ言うが、共通性はやはりあるんです。「要する」に私が言いたいのは、つまりこういうことなんです」という感じで話は流れているのだろうと解されます。しかも反論している側が言う共通性とは、このすぐあとで言われるように、共通なものの選言、すなわち共通なものの論理的な和のことだ、と言うのです。このような突拍子もない屁理屈を主張しているからには、also の前からうしろの屁理屈が素直に出てくるはずはありません。よってこの場合、also は「従って」ではなく「(なんだかんだ言うが) 要するに」の意味だろうと思います。
die Disjunktion aller dieser Gemeinsamkeiten: 二つのことを述べます。(1) Disjunktion というのは論理学の初歩を学んだことのある人ならすぐに何のことかわかると思いますが、学んだことがないと何だかよくわからないと思います。ここで言われていることは次のようなことです。どんなものについても、それらすべてに共通することを指摘することができます。赤い郵便ポストや赤いリンゴ、人間の赤い血は、「郵便ポストは赤い」、「リンゴは赤い」、「人間の血は赤い」と言うことができ、各文の述語に「赤い」という言葉があることから、郵便ポスト、リンゴ、血の共通性は赤いということだ、と指摘できます。それ故、まるで関連がないと思われるもの、たとえば、こうもり傘、ミシン、手術台にも共通性を指摘できます。確かに、これらはどれも物であり、特に人工物であり、産業製品という点で共通だ、とか、最も広い意味で「もの」だ、とも言えますが、以下のようなやり方でトリッキーな共通性も指摘できるのです。複数の主語すべてに何かが共通しているならば、どの主語にもそれに共通している事柄を一つの同じ述語にして当てはめることができます。郵便ポスト、リンゴ、血に赤さが共通しているならば、赤いということを述語にして、郵便ポスト、リンゴ、血に当てはめた文は正しい文になるはずであり、実際にそうやって作られる文「郵便ポストは赤い」などなどは正しいものでした。さて、こうもり傘、ミシン、手術台にもこうやって共通性を指摘できます。 どんな述語を考えればいいかと言うと、こうもり傘、ミシン、手術台という言葉を「または」で結んだ述語「こうもり傘またはミシンまたは手術台」を考えればよいことがわかります (「または」で結んだ表現は選言とか和と呼ばれます)。すると「こうもり傘は、こうもり傘またはミシンまたは手術台である」は正しいことを述べた文であり、「ミシンは、こうもり傘またはミシンまたは手術台である」もそうであり、「手術台は、こうもり傘またはミシンまたは手術台である」もそうです。こうして、無関係にも思えるどんなものについてもそれらの選言を作ればそれがそのままそれらのものの共通性だと自動的に言えることになります。こういうことがここの Disjunktion で言われていることです。ちなみに、ここの部分を読んで、私は「Quine 先生もどこかでこの種の話をしていたな、先生の論理学の教科書だったっけ、忘れちゃったけど」と思ったのですが、先生が確かにそう言っていたとすると、それは Wittgenstein のここの文を読んで思い付いたのでしょうか、それとも Quine, Wittgenstein 双方の師である Russell から教えられたのかな、あるいはそれぞれが一人で思い付いたことなのだろうか。簡単な話なので、最後の選択肢が一番あり得そうに思いますが。(2) 以上が正しいとすると、「aller dieser Gemeinsamkeiten」は「これらすべての共通性/共通点」と訳していいものか、疑問に感じます。「すべての共通性」とか「共通点のすべて」などと言えば、通常、複数の共通性が想定されていることになります。今の文脈では、複数のものに対し、それらすべてに共通する共通点が一つでもあるかどうかが問題となっていると思われるのですが、そのようななかで、いきなり当然のごとく共通点が既に複数あることになっていて、それらすべての選言・和が主張されているというのは奇妙です。なのでここで Wittgenstein 言いたかったことは「die Disjunktion aller dieser Gemeinsamkeiten」ではなく「die Disjunktion aller dieser Gebilden」のことであっただろうと思います。そうでないと筋が通らないですし、こう考えると筋が通ると思います。そこで私訳では「それはつまりこれら共通性 [が問われているもの] すべての選言 [= 和] なのだ」のようにカッコ [ ] を使ってそのことがわかるように補足「が問われているもの」を入れて訳してみました。私のこの解釈は間違っているかもしれませんが、たぶん正しいであろうと推測し、このような一歩踏み込んだ訳文を記してみました。
könnte: 一見、外交的接続法のようにも見えますが、そうではなく、単に仮定・虚構を述べる接続法第二式でしょう。先ほど wenn 文を前件とし、würde を後件に含む仮定文が出てきましたが、その続きという感じでこの könnte の文がきているので、前件が省略された、もしくは「もしかすると」という意味が暗に含まれている仮定文の後件であると、この könnte の文を考えることができます。そうするとこの文は婉曲的に丁寧に話を伝えようとする外交的接続法の文ではなく、(また実際にここでわざわざ婉曲的に言う必要もないのですから) 仮定・虚構の話を述べているのであり、開いた訳としては「同様に想像してみるに、もしかすると次のように言う人もいるかもしれない」という感じになると思われます。
es läuft ein Etwas: es は ein Etwas を指します。あるいは ein Etwas がうしろに下がった結果、空所ができ、その place holder として es が当てられています。ドイツ語では不定性の高い言葉がいきなり先頭に立つことを嫌うので、不定性そのものを表しているとも言える ein Etwas がうしろに回され、その穴埋めに es がはめ込まれているというわけです。
durch den ganzen Faden: 直訳すれば「すべての糸を通じて」または「糸全体を通じて」。これで何のことかは一応わかりますが、少し不自然に感じます。「すべての糸」と言うと「何本もの糸がたくさんあって、それら全部が」という意味かと思ってしまいますが、ここでは一本の糸しか問題になっていないので「すべての糸」と訳すのは不適切です。また「糸全体」と言うと、糸もサッカーボールや東京都のように広がりがあるものかと思ってしまいますが、糸は、広がりがないとは言いませんが、普通広がりがあるものとは捉えられていませんので、「糸」と「全体」を組み合わせて表現するのはどこかちぐはくです。ここでは一本の糸の端から端までが言われており、それを「ganz」という言葉で表しているのですから文字通り「糸の端から端まで」と訳すか、または「糸の両端にわたって」などと訳すのがよいと思います。
直訳/私訳
私訳は基本的に直訳調、翻訳調で訳します。語学に資することを優先させるためです。大学入試の英文和訳問題解答のような感じで訳文を提示します。ただし、すべてを直訳調にするのではなく、ところどころ自然な訳にしたり、訳を補ったりしているところもあります。なお原文のイタリックは下線で記しています。
いつものように、最初は既刊の邦訳を参照せず、自分の力だけで訳し、そのあと誤訳がないか、既刊邦訳でチェックしました。その結果、一つ誤訳と思しき箇所がありました。それはセミコロンの解釈を誤ったところです。私はセミコロンを軽く考え、それをよく考慮せず、そこで一旦文が切れる、話が切れるように私訳では訳したのですが、諸先生方の既訳を拝見すると、セミコロンの前後の文が緊密に結び付いているものとして訳出されていました。ここでは先生方の解釈が正しくふさわしいものです。そこでこの点を訂正し、他はそのまま掲載しました。既訳からは教えられるところがありました。邦訳者の先生方にお礼申し上げます。誠にありがとうございました。
平凡社版
188-189ページから引用します。傍点は下線に直しています。
以下では各既刊邦訳について、気が付いたことを述べてみます。
なお、既刊邦訳が基づいている底本のドイツ語原文がみなそれぞれ異なっているかもしれず、そのため各々の訳文が少しずつ違っている可能性があります。この点、銘記の上、以下の話をお読みいただければと存じます。
(1) 「同じように」。so の訳。これについて、気にかかることがあります。この「同じように」という訳語が、訳文のうち、うしろのほうに配されているため、訳文を読む際、前のセクションとのつながりを付けにくく、「同じように」と言われても何と「同じよう」なのか、把握しづらい気がします。長い文ではないので、言わんとしていることをとりあえず把握することはできますが、家族の間でよく見られる類似性の例をいくつも挙げたあとで「同じように」とくるので、その間、迂回・介入があり、間延びした感じを覚えます。そのようなわけで、この訳語は前方に配したほうがいいように思います。平凡社版のここの訳では、後方の関係文から前方の主文に向けて訳し上げられているため、話の流れがいわば逆流しています。原文では「同じような類似性が家族間に最もよく見られるからだ」というように、既出の内容と同内容の事柄が前方の「同じような云々」に現れているのに対し、訳文では「家族間に最もよく見られるのが同じような類似性だからだ」というように、まだ現れたことのない事柄である「家族間に云々」が先に出てきています。原文の情報の流れ通りに訳し下す訳文ではなく、その流れに逆らう訳文になっているため、原文を読むと頭から順番にスルッと理解できるところが訳文では流れがスムーズではなく、理解するのもスムーズではなくなっています。これは誤訳だとかいうようなことではなく、翻訳調、直訳調を脱して、スルリと読み下せる自然な和訳にするためには、もう一工夫必要ではないでしょうか、という提言をここで私はしているということです。(とはいえ、私自身のこのブログでの書き方は読みにくいものになっているかも知れず、人のことは言えないのですが。)
(2) 「「ゲーム」は一家族をなす」。この訳文は一応理解はできるものの、ちょっとピンと来ないところがあると思います。読者のために、これも一工夫が必要だと考えられます。工夫すべきところは「ゲーム」という言葉です。これは原文では複数形 die ›Spiele‹ になっており、複数のゲームが一つの家族を成す、特に共通性に基づいてではなく、類似性に基づいて、色々なゲームが一家族を成す、と言われており、この点を読者に伝えるために、単複どちらなのかはっきりしない、単なる「ゲーム」一語ではなく、これが複数形であることを示す言葉を補って訳してやる必要があると思います。
(3) 「数の種類も一家族をなしている」。上のドイツ語文法事項の解説でも述べましたが、「数の種類」と訳しても別に構わないと言えば構わないですが、翻訳調であり、逐語訳的になってしまっています。ちょっとピンと来ないところがあります。ここで言われているのは要するに、正の数や負の数などの色々な種類の数も、類似性を通して一家族を成す、ということなのですから、「数の種類」ではなく「いくつもの種類の数」とか「複数の種類の数」とか「あれこれと種類のある数」などなどと訳したほうがいいと思います。
(4) 「だからこれらすべての構成物には」。「だから」は、原文では「Also」。上記、ドイツ語文法事項の解説で既に述べましたが、「だから」と言われても、なぜ「だから」と言えるのか、よくわからないと思います。「だから」と訳せば、「だから」の前のことを前提にして「だから」のうしろのことが結論として出てくることになりますが、どうやったら前からうしろが出てくるのか不明です。あるいは私には不明でも皆さんには自明なことで、なぜそのように出てくるのか、明晰判明なのかもしれませんが。ここは also を「だから」ではなく、「(それでも私が言いたいのは) 要するに、つまり、煎じ詰めれば」みたいな感じで訳したほうがいいと思います。
(5) 「これらすべての共通性の選言」。「選言」は Disjunktion の訳。これもまた既に触れましたが、確かに「選言」という訳は正しい。確かに正しいですが、ちょっと正しすぎるといいますか、直訳すぎるように感じます。論理学の初歩を知っている人にとっては何となくわかりますが、知らない人にはまったくわからないと思います。唐突にムズカシイ漢字二字からなる語が出てきて「?」という感じだと思います。ここは開いた訳を取って、説明を加えたような訳にするか、あるいは少なくとも「選言」ではなく「和」という訳語にすべきだと思います。まぁ「和」でもわかりにくいかもしれませんが。少し不親切というか、ぶっきらぼうになってしまっていて残念です。
(6) 「糸全体」。これもまた上で既に述べたことですが、「糸の全体」というのはちょっと不自然に感じます。一般に、広がりがないと思われているものに「しかじか全体」と表せば、広がりがあるものかと思ってしまい、引っかかりを覚えてしまいます。原文の ganz に引きずられて翻訳調に陥っているのではないかと思えてしまいます。ここは「糸の端から端まで」とか「糸の両端のあいだをずっと」などと訳してやればいいのではないでしょうか。
岩波版
62-63ページから引用します。傍点は下線に直しています。
ここでも気が付いたことを述べます。
(1) 「『ゲーム』はひとつの家族をつくっている」 。平凡社版でも述べましたが「ゲーム」が複数であることを示唆する訳にしたほうがいいと思います。
(2) 「さまざまな数の種類もひとつの家族をつくっている」。これも平凡社版で言いましたが、「数の種類」と訳すよりも「種類の数」と訳したほうがいいと思います。
(3) 「だったら、そうやってつくられたものには」。平凡社版でも言及しましたが、「だったら」は、理解困難だと感じます。むしろ「要するに」とか「でも結局〜となりますよね」などとしたほうがいいのではないでしょうか。
(4) 「選言」。これも述べたことですので、論及を省きます。
(5) 「糸全体」。これも同様に省略します。
ちなみに岩波版では平凡社版とは違い、初めのほうの so の訳を訳文の冒頭に置き、前のセクションと話がつながるよう配慮されています。その結果、問題の訳文の訳も、うしろから訳し上げるのではなく、話の流れに沿って、前から訳し下しており、とても自然な訳になっていて、いいですね。
講談社版
76-77ページから引用します。
やはり気が付いたことを述べます。
(1) 「そのように重なり、交差しているからだ」。これも平凡社版と同様、「そのように」がこの訳文中のうしろのほうに置かれているので、前のセクションとのつながりがはっきりしません。「そのように」と言われてもどのようになのか、読者には直ちには判然としません。この言葉はやはり前のほうに配する必要があると思います。
(2) 「そのように呼ばれている」。「そのように」は「so」の訳。原文ではイタリックですが、邦訳では「そのように」がカッコもなく、プレーンなままになっています。
(3) 「間接的な類似性を保っている」。「保っている」は「erhält」の訳。あるもの A が「数」と呼ばれるのは、それが数 B と直接似ているからであり(A 〜 B)、B が数 C と直接似ていれば (B 〜 C)、A は C と間接的に似ることになると言えます (A 〜 C)。「間接的な類似性を保っている」 とはこの「間接的に似ることになる」ということです。「似ることになる」ことや「類似性を得る」ことを「類似性を保っている、保持している」と訳してもよいのですし、正しい訳とも言えますが、erhalten には「受け取る」とか「得る」という意味も主要な意味としてありますので、こちらの「得る」という訳語のほうがしっくりくると思います。
(4) 「だからそれらに共通するものが」。この「だから」については既に述べました。これ以上、この言葉について話をすることはやめておきます。
(5) 「糸全体」。「全体」についても同様にやめておきます。
(6) 「繊維の切れ目のない重なり合いだ」。「切れ目のない」は「lückenlose」の訳。このセクションのなかの直前の段落で、多くの繊維が互いに重なり絡み合うことで糸が強くなっている、という話がなされたあとで、「繊維の Lücke のない重なり合い」が言われています。すると繊維が「切れてほつれていることのない」重なりがここで言われていると解するよりも、繊維が「隙間なく緊密に」重なり絡み合っていることが言われていると解するのが自然だと思われるのですが、いかがでしょうか。Lücke の意味は「隙間、空所」です。「切れ目」という意味もあると思いますが、ここは普通に、繊維と繊維が隙間なくタイトにきつく締め上げられていて緩みがない、と解釈するほうが自然だと思うのですが。
なお、講談社版でよかったのは「様々な「ゲーム」は一つの家族を形成している」というところで、そのままでは単複不明の「ゲーム」という言葉を「様々な「ゲーム」」というふうに、ゲームが複数あることを明示した訳にしている点でした。
また「数の種類」という若干不自然な訳になりがちな部分を「様々な種類の数も、一つの家族を形成している」というように「種類の数」と改めて、ごく自然な表現にしているところもよかったです。
さらに「選言」という、唐突でぶっきらぼうな直訳を避け、「それらの様々な共通性すべてを「または」でつないだ全体だ」のように、「「または」でつないだ全体だ」と開いて訳しているところもすごくよかったです。
直訳が不正確な時、意訳が正確な時
今日の話を終える前に、各既刊邦訳で気になったところを再度振り返ってみたいと思います。so の訳に関してです。ちょっと長い話になります。
今回引用したドイツ語文のうち、冒頭の一番目と二番目の文をどう日本語に訳すか、特に二番目の文のほぼ初めにある so をどう訳すか、それが場合によっては問題になります。冒頭一、ニ番目の文を再度引用してみましょう。
昔から推奨されてきたと思われる訳し方で直訳してみましょう。ニ番目の文のほぼ冒頭にある so (そのように) が訳文中ではどこに現れるか、それに注意しながら読んでみてください。
最初に述べましたように、so はニ番目の文のほぼ冒頭にありましたが、訳文ではかなりうしろのほうに下がっています。
この文の主部は「die verschiedenen Ähnlichkeiten (様々な類似性)」であり、原文ではこれに関係文がうしろから付いていて、それからその関係文のあとに類似性の具体例が複数挙げられています。しかし日本語に訳す場合は先に関係文を訳し、それから類似性の具体例を訳し、そのあとにそれらを「様々な類似性」の頭にかぶせることになります。
また原文の述部は「so übergreifen und kreuzen sich (そのように重なり交差している)」であって、原文ではこれが主部の前に来ています。
このようなドイツ語文を和訳する時、普通に訳せば「(主部) が (述部) する」と書くことになります。その結果が上に挙げた直訳例です。この直訳は若干調子が「硬い」ですが、学校文法に基づく「英文和訳問題」の解答としてなら、まずまずよい点数をもらえることと思います。
しかしこの直訳の、特に第二文を読まれた方はお気付きになったと思いますが、so の訳「そのように」が原文とは異なり、かなりうしろのほうに配されており、「そのように」という言葉でで指示されている、前のセクションの事柄もしくは表現から、ずいぶん遠くに隔てられてしまっています。そのため、「そのように」で何が指示されていたのか、思い出すのが少しばかり難しくなっています。
問題の第二文は、それだけ取り出して上のように直訳するならば、さして咎められるようなところはないと思います。しかしその文が第一文や、それより前のセクションの続きであることを考えると、「そのように」という言葉がうしろのほうに下がってしまっている訳は適切な訳だとは言えないと思われます。
たった一つの英文や独文を直訳するぶんには、その訳文が日本語として自然な言い回しや語彙から成るならば、それで問題はないと思います。けれども、私たちが発話したり書き付けたりしている文はしばしば複数の文を連ねて提示されます。その時、各々の文は互いに無関係に並べられるのではなく、あとの文は前の文を受けて、前の文で語られた話の流れを考慮して、述べられます。従って連なっている文を訳す時は、単に各文のみを見て訳すのではなく、前の文とのつながりを考えながら訳さないと、あとの文がきちんと前の文の話を受け止めていない訳になる可能性があります。前の文から続く話の流れを自然に受け止めた訳にはならない可能性があります。
一般に、あとの文は、その文の前半で前の文の話を受け止めます。その文の前半で既知である前の文の情報が記され言及されます。そしてその後半で、前の文にはない未知の情報が付け加えられます。
別の言い方をすると、あとの文の前半は既知の情報が記されているゆえ、あまり重要でなく、あとの文の後半は新情報が出てくるゆえ、より重要になります。
英語で例文を挙げてみましょう。次の文献から引用させていただきます。(以下の私の文章では、この本の第5章をたびたび参照させてもらいました。)
・ 北村一真 『英文読解を極める 「上級者の思考」を手に入れる5つのステップ』、NHK 出版新書、NHK 出版、2023年、「第5章 英語を読む、日本語に訳す」、210-213ページ。
普通に直訳すると以下になります。
上の英文は二つの文が連なってできています。二つ目の文は一つ目を受けています。つまり二つ目の文は一つ目の文の内容をその前半の、特に so の部分で受けており、so は既知である前の文の内容の繰り返しにすぎません。そして二つ目の文の後半 because 以下で未知の情報が付け加えられています。
別の言い方をすると、二つ目の文の前半 I think so はあまり重要な情報ではありません。この語句は軽く言い添えられている感じです。この語句よりも重要なのは because 以下の後半です。二つ目の文で最も言いたいことはここに書かれています。
以上のように、文が連なっている時、あとの文はしばしばその前半で前の文の話を受け、前半にあまり重要でない既知の情報がよく来ます。そしてあとの文の後半で未知の情報が出され、ここに重点が置かれます。
単独の文を前後を考慮せず直訳する限り、その訳文が自然な言い回しや語彙を使っていれば、話の流れを気にする必要もなく、「英文和訳問題」の模範的な解答ができあがります。しかし複数の文の連なりの中で各文を訳す場合には、各文を単独の文のつもりで直訳すると、言い回しや語彙が自然でも、話の流れが不自然になることがあるのです。ぎこちなくなることがあるのです。もっとはっきり言えば、話の流れを考慮していない、話の流れがわかっていない、話の流れに合っていない訳文になってしまっているという点で、それは不正確な訳である、正しい訳ではない、と言えるのです。
上の英文の和訳に関しては、ほとんど違和感も不自然さも感じないでしょう。それは because 節が短く単純だからです。しかしこの節が長く複雑であれば話は違ってきます。「私は彼がかくかくでしかじかであり、まるまるの場合にはペケペケであり、うんぬんの場合にはかんぬんであって、(...) というわけだから、そう思う」となっていると、さすがにこれは不自然で、いかにもバランスを欠いています。たとえ「英文和訳」的には正解でも、売り物としての翻訳文的には間違いであり、クレームを誘発しそうです。
先の英文の二つ目の文とその直訳は次のものでした。
「I think so」の部分は既知で軽く重要ではありませんでした。because 以下が未知で重みがあり重要なのでした。直前に掲げられている和訳は、前の文とのつながりを無視した訳になっていると言えます。またそのため調子や流れの悪い訳になっているとも言えます。そこで前とのつながりを意識し、調子や話の流れを訳に反映させ、原文に忠実で正確な訳にするならば、おそらく次のような感じになるでしょう。候補を複数挙げてみます。
最後の候補は I think so の訳を省いています。発話者が前文の内容に同意していることは、特にその内容に反論していないことからわかるので、I think so の訳は言うまでもないこととして省いているのです。
一つ一つの英文、独文を直訳している限りでは、前の文との関連を考慮しないまま「英文和訳問題」の模範解答のように訳しても不都合はないかもしれません。しかし文の連なりを意識して前の文との関連に配慮しなければ、「英文和訳問題」の模範解答のような訳をすると、たとえその文だけを見れば、原文の構造に忠実な訳ができていても、文の連なりからくる話の流れには忠実でない、不正確な訳ができあがることがあるのです。
さて、以上の分析を踏まえて、今回の Wittgenstein のドイツ語の既刊邦訳を振り返ってみましょう。すると思い出されるのは、平凡社版と講談社版の邦訳では so の訳が原文の流れに反してうしろのほうに下がっているのでした。これはあるいは学校文法としては問題がなく、忠実な訳かもしれません。しかし現実の原文の調子や流れにそぐわない訳だと言えます。今問題にしている独文は、so 以下がそれほど長くもなければ複雑でもないので、「英文和訳問題」の模範解答のような訳をしても一読しただけで内容を読み取れますし、その結果、そう訳して咎められることもないでしょうが、so 以下が長く複雑な構造をしていれば、学校文法通りに訳すとたちまち誤訳、悪訳、不正確な訳だとして問題視されることになるでしょう。
ここで教訓を記しておきましょう。
単独の文を「単文」と呼び、複数の文の連なりを「複文」と呼ぶとするならば、単文では直訳で正確でも、複文だと不正確になることがある、ということです。
いつでもどこでも直訳が正確だ、というわけではなく、原文の構造から離れた意訳がかえって正確なこともある、ということです。
原文の単文の構造を正確に引き写した和訳でありながら不正確な訳になっている場合があり、正確を期すためには複文であることを意識し、原文の構造をあえて無視した意訳のほうが実は正確なことがある、ということです。
教訓を終わります。
既にお気づきのかたもおられるかもしれませんが、このセクションで私が述べていたのはいわゆる「情報構造 (information structure)」の話です。と言っても、私自身は情報構造についてはほとんど無知で、詳しいことは何も知らないのですが、いずれにせよこのセクションの話について、詳細を知りたいかたは言語学、英語学、翻訳理論の分野における「情報構造」というキーワードで調べてみてください。ごくごく簡単には先ほど挙げた北村先生のご高著の第5章をご覧ください。
情報構造だ、なんだかんだと言っていますが、私自身は今まで情報構造に十分配慮せず訳して来ました。なので、もし自分の訳を振り返ってみるならば、きっと至らないところがいっぱいあるだろうと思います。それを思うと恐ろしくて振り返る気にもなりません。今後はもうちょっと前の文との関連や、訳し上げるのではなく訳しおろすことを十分考慮したいと考えています。
終わりに
これで終わります。なんか生意気ばかり言っているようですみません。細かいことばかりで、うるさく思われたかもしれませんね。勉強ですので、細かいことにも多少こだわる必要があると思うんです。ごめんなさい。そしていつものように誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いなどなどがありましたら謝ります。誤訳、悪訳もあったかもしれません。いや、あったことでしょう。これについてもお詫び申し上げます。どうかお許しください。
*1:これは比較的自然な訳です。若干直訳調で訳すと次のようになります。「これらの類似性は「家族的類似性」という語以外では、最もうまく特徴付けることはできない」。もっと直訳すると以下になります。「私はこれらの類似性を、語「家族的類似性」によるよりも、よりよく特徴付けることはできない」。
*2:これも比較的自然な訳です。若干直訳調では次のようになります。「というのも、上と同様に様々な類似性が重なり交差しているのが一家族の成員間に成り立っているそれだからである」。もっと直訳すると以下になります。「というのも、一家族の成員間に成立している様々な類似性は、そのように重なり交差しているからである」。
*3:ここで言われていることを簡潔に記します。「ドイツ語文法事項」の解説でも簡単に触れましたが、「その何かあるもの」を A とし、「これまでに数と呼ばれてきたもの」を B とし、「我々が同じく数と呼んでいるもの」を C とすると、A が B と直接似ており、かつ B が C と直接似ているならば、A は C と間接的に似ていることになります。このように、A は直接 B に似ており、しかも間接的ながら C にも似ていて、B も C も「数」と呼ばれるならば、A も「数」と呼ばれてしかるべきだろう、ということです。A が B に似ていることを「A 〜 B」と書き、「かつ」を 「&」、「ならば」を「→」と書けば、今の話はもっと簡潔に書けます。「(A 〜 B & B 〜 C) → A 〜 C」。
*4:直訳調で訳すと「何かが共通しているのである」となります。