Reading Wittgenstein's Philosophische Untersuchungen, Part II: Languege-Game

目次

 

はじめに

前回に続き、L. Wittgenstein の Philosophische Untersuchungen をドイツ語原文で味わってみます。

上記の書『哲学探究』では有名な「言語ゲーム」という言葉が出てきます。今日はその言葉に対応するドイツ語が直接出てくるところを一部読んでみましょう。

なお、今回の話を理解するためには前回の記事を読んでおいたほうがよいです。それを読まないとかなり理解しにくいと思います。少なくとも前回の話のうち、訳文だけでも読んでおいてください。

このあとでは最初にドイツ語原文を記し、そしてそのドイツ語の文法などを私自身で解説し、それから私による直訳を提示し、そのあと『探究』の三つの邦訳を引用して比較してみます。

以下がその三つで、刊行年順に記します。手頃なサイズ、または最近刊行の翻訳書を利用しています。

・黒田亘編  『ウィトゲンシュタイン・セレクション』、黒田亘訳、平凡社ライブラリー平凡社、2000年 (初版1978年)、(「平凡社版」と略記)、

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン  『哲学探究』、丘沢静也訳、岩波書店、2013年、(「岩波版」と略記)、

・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン  『哲学探究』、鬼界彰夫訳、講談社、2020年、(「講談社版」と略記)。

それぞれがどのドイツ語底本に依拠されているのかは、前回のこれら訳書に対する註をご覧ください。

 

ドイツ語原文

ドイツ語原文は The Ludwig Wittgenstein Project 提供のヴァージョンを引用致します。URL は前回のドイツ語原文に対する註を参照してください。

・Ludwig Wittgenstein  Philosophische Untersuchungen, hrsg. von G. E. M. Anscombe, R. Rhees, G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein Werkausgabe, Band 1., Suhrkamp Verlag, 1999.

 

7. In der Praxis des Gebrauchs der Sprache (2) ruft der eine Teil die Wörter, der andere handelt nach ihnen; im Unterricht der Sprache aber wird sich dieser Vorgang finden: Der Lernende benennt die Gegenstände. D.h. er spricht das Wort, wenn der Lehrer auf den Stein zeigt. – Ja, es wird sich hier die noch einfachere Übung finden: der Schüler spricht die Worte nach, die der Lehrer ihm vorsagt –– beides sprachähnliche Vorgänge.

Wir können uns auch denken, daß der ganze Vorgang des Gebrauchs der Worte in (2) eines jener Spiele ist, mittels welcher Kinder ihre Muttersprache erlernen. Ich will diese Spiele »Sprachspiele« nennen, und von einer primitiven Sprache manchmal als einem Sprachspiel reden.

Und man könnte die Vorgänge des Benennens der Steine und des Nachsprechens des vorgesagten Wortes auch Sprachspiele nennen. Denke an manchen Gebrauch, der von Worten in Reigenspielen gemacht wird.

Ich werde auch das Ganze: der Sprache und der Tätigkeiten, mit denen sie verwoben ist, das »Sprachspiel« nennen.

 

ドイツ語文法事項

der eine Teil ... der andere: der eine Teil がこの文の主語、コンマ (,) 以下の文の主語は der andere であり、der andere のあとに Teil が省略されています。Teil は多くの場合、「部分」と訳されますが、ここでのように人を表す場合もあります (当事者の一方、他方などとして)。

aber: aber には順接 (そして) の意味もありますが、大抵は逆接 (しかし) や対比 (それに対し) を意味します。aber が出てくれば、まずは逆接・対比の意味で捉え、それで意味が通らなければ順接ではないかと疑います。ここでは普通に逆接または対比の意味でいいと思います。では何が逆になっており、何が対比されているのでしょうか。このあとを読めばわかりますが、まず aber の前は建築現場での言葉のやり取りが扱われており、aber のあとでは言語についての授業での言葉のやり取りが扱われています。建築現場では、建築家 A が上司であり主であり、助手 B は部下であり従う立場です。A は言葉を発して指示を出し、B は (黙って) その言葉に従い行動します。言語の授業では教える側が Aに相当し主であり、学ぶ側は B に相当し従う立場です。この授業では A が (黙って) 石を示し、B がその石の名を口にします。つまり建築現場では主たる者が言葉を発し、従う助手が (黙って) その言葉を聞きますが、「それに対し」授業では主たる教師が (黙って) 聞いており、従っている生徒が言葉を発します。aber によって、このような逆接・対比が表されていることに注意する必要があるでしょう。

wird: 推量を表す werden.

dieser: dieser Vorgang が主語。では dieser は何を指すでしょうか。私は私訳を作る際、前方にある建築現場の出来事を指すと捉えたのですが、そう解することもできはするものの、後方のコロン (:) 以下の文内容を指すと考えた方がよさそうです。従って、この dieser が前方を指すとすることは誤読、または誤訳と考えられます。

Der Lernende: Lernende は、まず動詞 lernen が現在分詞 lernend になり、次にそれが定冠詞に従って形容詞として弱変化 lernende し、最後に l が大文字 L になって名詞化して Lernende となったもの。

D.h.: Das heisst (つまり、すなわち) の略。

es: これは形式的な主語。本来の主語は以下の die noch einfachere Übung. einfachere は比較級であり、noch はその強調。比較級が来ているということは、ある訓練 (ア) と、もっと単純な訓練 (イ) とが比較されているということですが、では (ア) と (イ) はそれぞれ具体的には何でしょうか。(ア) とは直前の文の内容のことであり、つまり目の前のものを見て、それを指す名前を発する訓練を言うのに対し、(イ) はこのあとのコロン (:) 以下のこと、つまり目の前に対応するものがなくても、とりあえず先生の発音に従って、覚えるべき語の発音を繰り返す訓練を言っているのだと考えられます。(ア) は名前の意味を把握しつつ発音する必要がありますが、(イ) では意味を把握せずに、とりあえずただ発音をまねるだけでよいという点で、おそらく (イ) のほうが単純なのだと思われます。ちなみに、私はここでも私訳を作る際、誤読・誤訳していました。

die der Lehrer: die は関係代名詞三人称複数4格。先行詞は die Worte.

beides: 意味は「どちらの 〜 も」。では「どちら」というのは、どれとどれのことでしょうか。先ほどの註で触れた (ア) と (イ) のこととも捉えられますし、そうではなく、建築現場での言葉のやり取りと、授業での言葉のやり取りのこととも捉えられます。どちらなのか、ちょっと私にははっきりしません。とりあえず私訳では、この点について決めつけず、どのようにでも取れるように訳しておきます。

sprachähnliche: これは簡単な言葉ですが、意味していることがよくわかりません。sprachähnliche は Sprache (言語) と - ähnlich (〜 に似た) の合成なので、直訳すれば「言語に似た、言語に類似の」となります。でもこれだけでは何のことか、詳しいところがよくわかりません。そのまま曖昧に訳すか、それとも訳者の側で想像をふくらませて大幅に解釈を入れ込んで訳すか、どちらかになりそうです。これも決めつけず、曖昧なままにして訳しておきます。

eines jener Spiele: ここを省略なしに書き出すと eines Spiel jener Spiele であり、eines Spiel は中性1格で、意味は「一つの遊び」、jener Spiele は複数2格で、意味は直訳すると「遊びたちの」とか「遊びどもの」となります。そして全体としては「遊びたちのうちの一つの遊び」、自然な訳にすると「遊びのうちの一つ」となります。なお jener には特に意味はなく、このあとで関係代名詞 (welcher) が出てきますが、ここでの jener はこのような関係代名詞が後続することを前もって予告する機能を持った言葉で、特に訳出する必要はないものです。

mittels welcher: mittels は2格支配の前置詞 (3格を支配することもあり)。意味は「〜を使って」。welcher は複数2格の関係代名詞。先行詞は Spiele.

will: 意志を表す wollen (〜するつもりだ)、または要求・要望を表す wollen (〜することにする)。これが従えている本動詞は nennen と、ずっとうしろの reden。

diese Spiele »Sprachspiele« nennen: 4格1 + 4格2 nennen で「4格1 を 4格2 と名付ける」。よってここは「これらの遊びを「言葉遊び (言語ゲーム)」と名付ける」となります。

man: man は1格としてしか使われません。よって man と出てくれば、即座にそれが主語であると判断できます。なおこの語は特に訳出する必要はなく、代わりに受け身でその文を訳すと訳が自然になることがよくあります。

könnte: können の接続法第二式。いわゆる外交的接続法。控えめに物事を主張していることを表します。

des Nachsprechens: この語句の直前に die Vorgänge が省略されています。

Denke an: an 4格 denken で「4格について考える」。Denke は (接続法第一式ではなく) 命令法で、2人称単数形。

der: 関係代名詞男性1格。先行詞は Gebrauch。gemacht wird は受動態。der von Worten ... gemacht wird を直訳すれば「その慣習は語によってなされる」となるでしょう。gemacht の不定形 machen はこの場合、「作る、作製する」という意味であるよりもむしろ「する、なす」という意味だと思われます。

Reigenspielen: これがどういう遊びなのか、私には正確にはわかりません。この語は普通「輪舞」と訳されるようです。意味としては簡単には、輪になって踊って遊ぶことみたいです。ここでの文脈に即して私なりに深読みすると、きっと子供たちが手をつないで輪になり、歌いながらぐるぐる回って遊ぶのだろうと想像します。その際、空想ですが、まず誰か一人が何か言葉を掛け声として発します。たとえば「鬼さんこちら」などです。すると、みんながその言葉を「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」などと復唱し、次に隣の子が何か別の言葉、たとえば「熊さんこちら」と唱えると、またみんなでその言葉を「熊さんこちら、手の鳴る方へ」などと復唱する、これをできるだけ続けていき、誰かが掛け声の言葉を思い付けず、言葉に詰まってしまったら、その子の負けで、「わっー」と言いながら輪が解けて、そこからちょっとした罰ゲームが始まるというような、そんなダンスがここで言われているのではないかと、そんなふうに妄想してしまいます。まぁ、そんな妄想はいいとして、要するにここでは言葉を使ったダンスのことを思い浮かべるよう、そのように要請されているということでしょう。

werde: 意志を表す werden. 未来や推量を表す werden と捉える向きもあるかもしれませんが、文脈から言ってまず明らかに推量ではありませんでしょうし、未来なら普通は本動詞の現在形で表されると思います。よって意志を表していると取るのが妥当でしょう。

das Ganze: der Sprache und der Tätigkeiten: das Ganze は形容詞 ganz が中性4格の定冠詞を伴い、中性名詞化したもの。次に、そのあとに来るコロン (:) に注意が必要です。このコロンの前後で文がまったく切断されているような印象を一瞬受けますが、そうではなく、コロンのあとの二つの der がコロンの前の das Ganze に掛かっています。つまりここでは das Ganze der Sprache および das Ganze der Tätigkeiten と読まなければならないというわけです。私たちが慣れ親しんでいる英語では、たぶんこのようなことはまずないと思うのですが (実はよくあることでしたらすみません)、ドイツ語ではコロンで切れずにコロンをまたいで語句が修飾されたりすることが時々ありますので要注意です。

mit denen sie verwoben ist: denen は関係代名詞で複数3格。先行詞は、前方を見ると複数名詞は Tätigkeiten しかないことから、Tätigkeiten だとわかります。また sie ですが、これは女性単数1格か、または複数1格かのどちらかですが、このあとに対応する動詞として単数の ist が出てくるので、sie は女性単数1格だとわかります。そうするとこれは前方の女性単数名詞 Sprache を指しているとわかります。

 

直訳/私訳

語学に資することを第一とするため、訳文は直訳調を主とします。とは言え、あまりガチガチになりすぎるようでしたら、その調子を緩め、補足を入れたりすることがあるかもしれません。また、原文のイタリックは下線で代用します。なお、直訳が翻訳には最もふさわしいと私が考えているわけではありません。単に語学の勉強のために、便宜的、一時的に、そうしているにすぎません。

例により、まずは既刊の邦訳を見ずに自力で訳し、そのあとで誤訳していないか、既訳で確認しました。するとこれまた例により、私が誤訳しているところがありましたので、訂正した私訳を以下提示します。訳者の先生方には助けられました。誠にありがとうございます。

 

7. [セクション] (2) の言語を使用する実際の場面では、一方が語を口にし、他方がその語に従って行動する。しかし言語 [外国語?] の授業では、次のようなことが見られるだろう。たとえば、そこでは学んでいる者は、ものの名前を言う。つまり教える者が石を指すと、学んでいる者は、その [石に対応する] 語を言うのである。– 確かにここでは [= このような授業では、次のごとき] もっと単純な訓練も見られるだろう。すなわち生徒は、教える者が言ってみせてくれた語に従って [たとえば単なる発音練習として] その語を言うのである。–– どちらも類似した言語的プロセスである [どちらの出来事も言語的には似た出来事である (?)]。

また我々は次のように考えることもできる。つまり、(2) において語を使用するプロセスの全体は遊びのうちの一つなのであり、この遊びを手段として子供たちは自分たちの母語を習得するのである、と。私はこれらの遊びを「言語ゲーム」[= 言葉遊び] と名付けることにし、そして素朴な言語も時々言語ゲームとして語ることにする。

そしてまた [建築現場で石を運んだりせず、ただ] 石に名前を付けることや、言ってもらった語を復唱すること [だけで] も言語ゲームと名付けることができよう。輪になって踊って遊ぶ時、[歌を歌うが] その際の語の使用例をいくつか考えてみよ。

また、言語はいくつもの行為によって織り上げられているが、私はそのような言語と行為の全体も「言語ゲーム」と名付けることにする。

 

平凡社

171ページから引用します。傍点は下線で代用します。

 第二節の言語を実際に用いるとき、一方は語を叫び、相手はその語に応じて行動する。しかしこの言語が教えられるときには、次のような過程が見られるであろう。教えられる者は対象の名を言う。すなわち教師が石を指差したら、彼は相当する語を発音するのである。さらに、教師が言ってみせた語を生徒があとからなぞって発音するという、もっと簡単な練習もあることだろう。いずれも言語に類似した過程である。

 我々はまた第二節における語の使用の全過程を、子供がそれを通じて母国語を学びとるゲームの一つだと考えることができよう。私はこうしたゲームを「言語ゲーム」と呼び、原始的な言語について語るとき、しばしばこれを一つの言語ゲームと見なすであろう。

 すると、石を名指したり、言われた通りに語の発音を繰り返すような過程もまた言語ゲームと呼ぶことができるであろう。円陣ゲームで用いられる語のさまざまな用例を考えてみよ。

 私はまた、言語と、言語が織りこまれた諸活動との総体をも言語ゲームと呼ぶ。(『哲学探究』一部七節)

 

この訳文に対し、私が気が付いたところを記します。感心させられたところは省略し、疑問に感じられたところだけ記します。細かいことを言う場合もあるかもしれません。それは語学のためにそうしているのであって、それ以外ではありません。読む力をつけるためには、力が身につくまでの期間、細部にまで注意して、一語もおろそかにせず、ひたすら徹底的に読み抜くことが必要だと思います。そのため、以下で細かいことをうるさく言っているとしても、それは語学のためにそうしているのだと解し、どうかご理解くださいますようよろしくお願い申し上げます。

ちなみに、今回私が前方で掲げたドイツ語原文とまったく同じ原文から訳者の先生方は訳出されているのか、私にはわかりません。多分わずかずつ違った原文を各自底本にしている可能性があります。そのため、各自わずかずつ違った訳文になっている可能性があります。このことは忘れないでください。余計な誤解や、わだかまりが生じるといけませんので。

 

(1) それでは一つ目の疑問点です。平凡社版では「教えられる者は対象の名を言う」となっているところがあります。これに対応するドイツ語原文は「Der Lernende benennt die Gegenstände」です。見られるように benennt がイタリックで強調されています。しかしその訳語「名を言う」がプレーンのままで、強調を示すような工夫が何も施されていません。平凡社版の底本では benennt は正体のままだったのでしょうか? そうだったのかもしれません。

(2) 原文では第一段落に二つのダーシ(-) がありますが、和訳ではまったくありません。底本にはなかったのかもしれません。あるいは、底本にはあったものの、その機能や意味合いを訳文内に溶け込ませておられるのかもしれません。はっきりしたことはわかりませんが。

(3) 「母国語」という訳語が見られます。対するドイツ語は「Muttersprache」です。これは「母語」と訳したほうがいいと思います。日本語を操る日本人の多くにとっては「母国語 = 母語」でしょうが、いわゆる多民族国家においてはしばしば「母国語 ≠ 母語」です。たとえばアメリカ合衆国ではアメリカ英語を母語とせず、スペイン語などを母語とするアメリカ人が多数おられることと思います。とは言え、それではドイツ語の「eine fremde Sprache」は「外国語」と訳していいのか、という問題が起こります。微妙ですね。まぁ、この後者の問題は今はさておき、何にせよ「Muttersprache」は「母語」と訳すほうが適切でしょうね。

(4) 引用文の中ほどで、「「言語ゲーム」」と訳されているところがあります。原語は「»Sprachspiele«」です。原語では日本語や英語としては特殊な括弧 » « が使われているとともに、さらにイタリックにもなっていて、二重の操作が施されています。しかしこの訳語はただ一つの操作、鉤括弧「 」が施されているだけです。もう一工夫がないのはなぜなんだろう?

(5) これは疑問というほどのものではないのですが、「Sprachspiele」が「言語ゲーム」と訳されている点に関わります。「Sprachspiele」または「Sprachspiel」は、何も考えずにそのまま素直に訳せば、たぶん「言葉遊び」となるところでしょう。しかしこれだと、しりとりのようなものや、アナグラム、言葉についての謎々やとんちのようなものを、かつそれだけを思い浮かべてしまいます。おそらくそれらのものも Sprachspiele に該当するのでしょうが、それに収まらない事柄も『探究』では Sprachspiele により言及されていますので、このドイツ語を「言葉遊び」と訳すのは適当ではありません。そこでこのドイツ語の英語訳「languege game」をおそらく参考にして、日本語では当該のドイツ語を「言語ゲーム」と訳しているのではないかと想像します。しかしそうすると、通常ゲームとは見なされないようなことも本書では Sprachspiele と呼ばれているので、「ゲーム」という言葉を使って Sprachspiele を「言語ゲーム」と訳すのが適当かどうかが問題となります。たぶん一番ましなのは件のドイツ語を「言語プレイ」とか「言語行動」、「言語行為」と訳すことではないかと思われます。でも、まぁ、「言語ゲーム」という訳語がもう定着してしまっているので、今さらどうしょうもないことですね。「ゲーム」でも大体 OK なので、まぁいいんですが、原語を参照すると、一応ニュアンスとしては「遊び」だとか「プレイ」のほうがしっくりくるかもしれないことを、ここに記しておきます。

(6) 引用文の最後で「言語ゲーム」と、鉤括弧なしでプレーンに訳されているところがあります。これに対するドイツ語は括弧付きで「»Sprachspiel«」となっています。和訳では原語が括弧に括られていることが反映されていません。底本には括弧はなかったのかもしれません。

(7) 「言語が織りこまれた諸活動との総体」は、原文では「das Ganze: [...] der Tätigkeiten, mit denen sie verwoben ist」になっています。ちなみに sie = Sprache です。平凡社版の訳だと、諸活動に言語が織りこまれている、と解せられます。しかし原文の意味は「(言語は諸活動によって織り上げられているのだが、そのように) 言語を織り上げている諸活動の全体」です。諸活動に言語が織り込まれているのではなく、その逆に、言語に諸活動が織り込まれている、ということです。原文の意味では、いわば、言語が主で諸活動が従です。その逆ではありません。すごく細かいことを言ってすみません。一応語学的にはそういうことですし、Wittgenstein の『探究』での狙いも、言語は事実をただ写し取る透明な媒体にすぎない、というのではなく、言語はしばしば活動を伴い、それ自体が一つの活動と見なしうることを主張することにあったでしょうから、活動に言語が伴っていると解される平凡社訳ではなく、言語に活動が伴っていると解し得る訳を与えるほうが、より Wittgenstein の意図に沿ったものとなると思います。

(8) 邦訳の最後の最後で「呼ぶ」とだけ訳されており、原文にある「werde」は特に訳されてはいません。別にそれでまったく構わないと言えば構いませんし、もしも万が一、万が一にですが、私が仮に翻訳することになっても、いちいち叙法的意味を持った助動詞・法動詞の類いまで絶えず意味をすくい上げて訳出することは私もないかもしれません。しかし一応「werde」が訳されていないことを、ここに記しておきます。この「werde」は、未来でもなければ未来に対する推量でもなく、意志や要望を意味していると思いますので、そうすると「werde」まで訳すと「私は 〜 するつもりである、〜 することにする、〜 したい」などとなるでしょう。

 

岩波版

12ページから引用します。傍点は下線で代用します。

7 言語 2 を実際に使うとき、一方が単語を叫び、他方がその単語にしたがって行動する。ところが言葉のレッスンでは、つぎのようなプロセスが見られるだろう。生徒がモノ (対象) の名前を言う。つまり先生が石を指さしたとき、その単語を言うのだ。- たしかにこの場合、もっと簡単な練習もあるだろう。先生が先に言った言葉を、生徒が後から言うのだ。-- どちらも、言語に似たプロセスである。

 こんなふうにも考えることができる。2 で言葉を使うプロセス全体は、子どもが母語を習得するときやっているゲームの、一つなのだ。そのようなゲームを私は「言語ゲーム」と呼ぶことにする。ときにはプリミティブ言語のことも言語ゲームとみなすつもりだ。

 それから、石を名前で呼ぶプロセスや、先に言われた単語を後から言うプロセスも、言語ゲームと呼ぶことができるかもしれない。「輪になって踊ろ」ゲームでは、ときどき言葉が使われるが、そのことも考えてみよう。

 言語だけでなく、言語にまつわる行動もひっくるめて、その全体を、私は「言語ゲーム」と呼ぶことにする。

 

気が付いたことを述べます。

(1) 「どちらも、言語に似たプロセスである」と訳にあります。もともとドイツ語原文の意味がはっきりしないので仕方がないのですが、やはりこの訳は、「どういうことなんだろう?」と、読者を悩ますでしょう。呼びかけに応じて石を運んだりする出来事と、石を指差して語を発音する出来事が、ともに文字通りそれぞれ言語に似ていると解釈してよいのか、それとも、もう少し穏当に、今の二つの出来事は、言語の運用面からすると互いに似たところがあると解釈していいのか、もしくはまた別の解釈があるのか、読者は首をひねることになります。まぁ、これは Wittgenstein の書き方に問題があると思うのですが。

(2) 「プリミティブ言語」という訳語が出ていますが、これもまた読者は「なんなんだろう?」と思ってしまいます。こちらも原文からしてはっきりしないので、Wittgenstein が悪いといえば悪いのですが、丘沢先生の訳文は全体的にとてもわかりやすくていいのに、このあたりの訳語は困惑してしまいますね。きっと先生もそのことは承知の上で、やむを得ずこのように訳しておられるのでしょうが。

(3) 「石を名前で呼ぶプロセス」。この訳を読むと、石を名前で呼ぶ時は、何段階かのステップがあり、その各ステップの連なりのことがここで言われているのだろうと感じます。たとえば、まず石という物体を視認・触知するステップ、腕を上げ、指を石に向け、照準を合わせるステップ、石に対応する日本語の単語を脳内で探索するステップ、探索し終え、該当する単語を発見したら、それを発話するステップなどです。これはこれで間違いではないのでしょうが、たぶんこういうことを Wittgenstein はここで言いたいのではないのだろうと思います。だとすると、今述べたようなステップを空想させてしまうような訳をするのではなく、たんに「石を名前で呼ぶこと」とでも訳したほうがいいような気がするのですが、どうでしょう?

(4) 「言語だけでなく、言語にまつわる行動もひっくるめて」。こなれていて自然な感じのする訳ですね。ただ「言語にまつわる行動」というのがわかるようでいて、わかりにくく感じられます。「「まつわる」とはこの場合、どういうことなんだろう?」と考え込んでしまいます。何か言葉に「まつわる」逸話のようなことが連想され、それと行動とがどう関係するのだろうと思ってしまいます。ここでの原文を、関係文であることを無視して平叙文に直して直訳すれば「言語は諸行為によって織られている」となります。開いて訳せば「言語は行為を伴うことがある」、「言葉には行為が結び付いている」、「言葉を使った行為がある」、さらにもっと大きく開けば「言語とは、その中のある言葉と別の言葉とが、行為を媒介することによって結び付き、成り立っている全体のことである」などなどとなるかもしれません。しかしこの種のことを一言で表し訳そうとすれば、「まつわる」という言葉が便利なのかもしれませんが、どうしても多少比喩的に訳さざるをえず、かえってピンとこない訳になっている気がします。

 

講談社

25-26ページから引用します。傍点は下線で代用し、訳注は省きます。

7 言語 (2) の実践では一方が語を叫び、他方はそれに応じて行動する。だが言語を教える過程では、教わる者が対象の名を言うということが起きる。すなわち教師が石材を指差すと、生徒がその語を言うのである。- そればかりか、そこではさらに簡単な練習も見られる、つまり教師が生徒に手本として語を言い、生徒がそれを繰り返す -- これらはどちらも言葉を話すのに似た過程である。

 さらに (2) の語の使用過程の全体が、子供が母語を習得する際に行うゲームの一つだと想像することもできる。私はそれらのゲームを「言語ゲーム」と呼びたい。そして時としては、原初的な言語についても言語ゲームとして語りたい。

 そして石材の名を呼ぶ過程や、手本の語を繰り返す過程もまた言語ゲームと呼べるかもしれない。輪舞ゲームでなされるいくつかの言葉の使用について考えよ。

 私はまた、言葉と、それと織り合わされている活動の総体も「言語ゲーム」と呼ぶだろう。

 

(1) この邦訳では dieser (「次のこと」) を訳さず、その代わり、これが指している事柄「教わる者が対象の名を言うということ」を直接和訳の主部に立てています。一見それでもいいように思いますが、それならば dieser が dieser というように強調されていることを訳文でも示す必要があります。しかしそのような工夫は何もなされていないように見えます。あるいは、もしかすると dieser が指している事柄を主部として前方に繰り出して最初に立てることそれ自体が強調としての処置なのであると、そのように解されているのかもしれませんが。なお、講談社版の底本では dieser がイタリックではなく、ひょっとすると正体なのかもしれません。

(2) es wird の wird が訳されていません。これは推量の werden だと思われます。別に訳さなくても文意は取れますが。

(3) 「これらはどちらも言葉を話すのに似た過程である」。少し意訳して、読者の理解に資するよう苦心されています。ただこのような意訳に反対し、また別の意訳を提案する方もおられるだろうと思います。ここは意訳するとしても、いくつかの競合する訳があり得るでしょうね。

(4) 「私は ... 呼ぶだろう」。これは「Ich werde」の訳。ここの原文では、著者が何を「Sprachspiel」と呼ぶつもりなのか、「Sprachspiel」とは何なのかを著者が定めようとしているところです。したがってここの「werde」は著者の意志や意図を表していると取るべきだと思います。訳文の「呼ぶだろう」は少しこの意味合いが弱いように感じられます。あたかも未来を暗示しているかのような意味に取れてしまいます。ここははっきりと「呼ぶつもりである」としたほうがよりよく感じられます。

 

以上の邦訳の比較から、思うところを一つ。以前に私は柴田元幸先生の『翻訳教室』(朝日文庫) をちらほら拾い読みしたことがありますが、この本では柴田先生と学生さんたちが現代のアメリカ文学の一節を英語原文で読み、翻訳を施して、その訳文を互いに検討し合うというようなことが行われています。それを見ていると、原文のすごく細かいニュアンスまでくまなくすくいとり、訳文に反映させつつ、自然な日本語になるよう皆さんとても努力されているのがわかります。というか、むしろ「すごく微妙なところまで気を使っているなぁ〜、細かいなぁ〜」と私は感じてしまいました。これは決してネガティブに言っているのではなく、感心、感服して言っているのです。勘違いしないでくださいね。このような柴田先生たちの努力を見ると、ドイツ語 (やフランス語) の叙法的な意味の助動詞をしばしば邦訳に反映させることなくスルーしている翻訳文は、(英語の先生ですが) 柴田先生からダメ出しをくらいそうに感じます。そのような翻訳文は、よく言えば肩の力が抜けた、一語一語偏執的に逐語訳するような視野狭窄に囚われていない、こなれた達意の訳文ということになるのでしょうが、悪く言えば「もうちょっと訳し取ろうよ、不正確とは言わないまでも、精密とは言い難いよ」と言われてしまいそうです、いささか酷な言い方ですが。まぁ、柴田米文学教室とは違って『探究』は文学ではなく哲学なんだから、あまり細かいことを言うなよ、とお叱りを受けそうだな、ごめんなさい *1 。何にせよ、叙法的意味の助動詞は、それを訳すとどうしても誰が読んでも不自然に感じられる邦訳しかできない場合には、文意が取れなくなったり文意が歪曲されたりしない限り、無理矢理訳出しなくてもいいだろうと個人的には思います。しかしその助動詞を訳してもまったく自然な訳文が容易に作り出せるのならば、訳出すればいいだろうと思います。ただし、容易に自然な訳文ができる場合でも、訳文のリズムや勢いや全体的な文体の問題から、あえて訳出しないということはあるかもしれませんが *2 。(このことに関して、この記事の最後に「追記」があります。よろしければご覧ください。)

 

セクション 7 の構成について

これで終わりにする前に、今回取り上げたセクション 7 の構成について、ドイツ語原文から比較的容易に取り出せる、そのセクション内の流れに関し、注意を促したいと思います。

 

このセクション 7 は四つの段落から成ります。上から順番に第一、ニ、三、四段落と呼ぶことにしますと、第一段落に対し、それ以降の段落はどのような関係にあると言えるでしょうか? ドイツ語原文を読んでいると、その関係に割と容易に気が付くことができます。

まず第一段落では、主従関係にあると考えられる建築者の親方とその助手のうち、主人である親方が語を口にし、それに応じて従者である助手が石を運ぶ行動を起こすことが言われますが、そこではまた、これとは逆に (aber)、語学教室では主従関係にあると考えられる教師と生徒のうち、主人である教師が石を示す行動を起こし、それに応じて従者である生徒が語を口にする事例が述べられています。そしてこれら二つの事例が (何らかの点で) 似ていることが指摘されています。

それから第二段落を見ると、冒頭あたりに auch という言葉が出ているのがわかります。これは通常「また」とか「同様に」などと訳されますので「第二段落は第一段落と似たようなことが述べられているのだな、前段を何か言い換えようとしているのだな」と気が付きます。何が言い換えられているのかというと、先の二つの類似の事例を一まとめにして「言語ゲーム」と呼べるということが言われています。二つの事例は互いに逆の関係にあるとも捉えられますが、どちらも似ているので「全体」として「言語ゲーム」と呼べると言われています。つまりここでは、二つともをまとめた「全体」を「言語ゲーム」と言っているのです。

次に第三段落に移ると、少し進んだ先にここでもまた auch が出てきているのがわかります。するとこの段落でも言い換えの類いが施されていると推測できます。ではここでは何が言われているのかというと、語学教室での先生と生徒のさまざまなやり取りのうち、そのやり取りの「一部」である石の名を呼ぶことだけや名前を反復することだけでも「言語ゲーム」と呼べることが言われています。つまりここでは、言語ゲーム全体のうち、その「一部分」も言語ゲームであると言っているのです。

最後に第四段落に来ると、やはり冒頭に auch があるのがわかります。ではどんな言い換えが言われているのかというと、おそらくドイツ語ならドイツ語、日本語なら日本語という自然言語と、その言語に含まれている表現同士を織り合わせている行為の組という「更なる全体」をも「言語ゲーム」と呼べることが言われています。つまりここでは、建築現場の言語使用や語学教室での言語使用だけでなく、それをも包括した「更なる全体」としての「自然言語 + 行為」も言語ゲームなのだ、と言われているのです。

こうしてセクション 7 全体の流れが、ドイツ語原文を読んでいると、そこに見られる auch 一語の繰り返しにより、理解できます。

まとめておきますと、まず第一段落で、逆関係にある建築現場と語学教室での言語使用を、類似した一定規模の全体として提示したあと、第二段落でその全体を「言語ゲーム」という名前で呼び、かつまたその名でまとめ上げ、第三段落で全体の一部も「言語ゲーム」と呼べることを言い、最後の第四段落で、更に大きな全体をも言語ゲームなのだ、と指摘しているのです。定式化するなら「一定の全体 → 全体 → 部分 → 更なる全体」です。これが auch の繰り返しにより、読者に示唆されているのです。

そこでずっと上に私が掲げた直訳では、セクション 7 が各段落ごとに言い換えを施した流れを持っていることを示唆するために、私訳では auch に対し不器用に「また」という同じ単語を繰り返し用い、しかもそれをできるだけ各段落の始めのほうに配置して注意を喚起するよう試みました。この処置でセクション 7 の流れに気が付いてもらえたかどうかわかりませんが、とにかく気が付いてもらえるよう努めてみたつもりです。成功していればいいのですが。

 

というわけで、セクション 7 の流れは把握できましたでしょうか? auch という初級の単語一つの反復から、邦訳で読むよりも容易に話の筋が読み取れるというのは、原文を読む際の効用の一つですね。

 

終わりに

以上で終わります。ここまでに誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いなどなどがありましたら申し訳ありません。誤訳や悪訳もあったろうと思います。今後、気を付けるようにし、また勉強し直します。訳者の先生方のお仕事からは多くを学びました。改めて感謝致します。ありがとうございました。

 

追記

最近読んでいた文章で、柴田元幸先生を含む、英米文学関係の先生方の、翻訳に対する細やかさを伝える話がありましたので紹介しましょう。その文章とは次です。

・藤井光  「翻訳しながら、真似しながら」、『英語教育』、2024年2月号、特集「訳」再考、大修館書店、2024年。

藤井先生は、ある英語の小説の出だしの一文

At dusk they pour from the sky.

を、最初は

夕暮どきに、それは空から大量に降ってくる。

と訳されました。「それ」とは、空襲前に街に降ってくる退避を呼びかけるビラのことです。そしてその後、他の翻訳者の訳例を参考にして、

それは、夕暮れどきに、空から大量に降ってくる。

と先生は直されました。主語を頭に出し、コンマ (、) を一つ増やしただけです。ただこれだけですが、こうすることにより、少しずつ情景が浮かび上がってくるように工夫されているのです *3

こんな細かな工夫を凝らしておられるなんて驚きです。繊細ですね。さらに驚くべきことがあります。藤井先生の修正された訳文を柴田元幸先生が見て、次のようなことを指摘されたそうです。

件の訳文は二つのコンマにより、三つの部分に分かれています。最初が一番短く小さくて、次が少し長くなって若干大きくなり、最後が一番長く一番大きい感じがします。この訳文が載っている翻訳書は縦書きなのだそうですが、そのことにより、最初は空の遠くに小さく見えたビラのまとまりが、段々大きく見えてきて、最後にはバラけて大量に降り注ぐ様が表れている、と *4

この指摘に藤井先生はびっくりされたそうです。そこまでは考えていなかったそうで、柴田先生は訳文の読者に与える効果をそこまで読み取っていたそうなんですね。すごいなぁ。そこまで細かく訳文を見てるんだ。すごすぎる。

これほどまで英米文学の先生方は原文を読み込み、訳文にすくい取ろうとされているのです。哲学の文章を訳す時も、これほどまでこだわる必要はそんなにないとは思いますが、それでもある程度見習わなければならないと感じます。叙法的意味の助動詞を訳すことに、訳文上も訳者の労力の点でも、あまり負担がないようならば、ちゃんと助動詞も訳し取ったほうがやはり望ましいでしょうね。

 

とはいえ、訳者の先生がいつでも自分の思う訳文を採用して出版することができるかというと、そうともいえない場合があり得ます。まったくの自費出版でもない限り、商業出版の場合、編集者や出版社の言い分が優先され、訳者の先生が反対してもそれが通らず、しぶしぶ不本意な訳のまま刊行されてしまうこともあるようです。最近斜め読みさせてもらった次の本では、

・片岡真伊  『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題 文化の架橋者たちがみた「あいだ」』、中公選書、中央公論新社、2024年、

川端、谷崎、三島らの小説を英訳して刊行する際の、訳者たちと出版社 Knopf とのやり取りが検討されています。それによると訳者は編集サイドからのさまざまな介入に苦しめられ、訳者がそれに抵抗する話が、両者を行き来する残された手紙の分析から明らかになっています。たとえば、読み込みの浅い編集者が読み込みの深い訳者の訳文に修正を迫り、訳者が抵抗する、というような話です。このような抵抗がいつも功を奏するとは限らないので、訳者の思い通りの訳文が採用されず、訳者にとり納得のいかない翻訳が出版されることもあったみたいです。

Wittgenstein のドイツ語を日本語にして商業出版する場合にも、このような、訳者に対する足かせが、大なり小なり、かせられることはあり得るでしょうから、読者の側から見て「この訳文はよくない、けしからん訳者だ」と憤慨しても、それは訳者の責任ではなく、編集サイドの責任だったりすることもあるかもしれません。というわけで、よろしくない訳文を見かけても、訳者の先生お一人を一方的に責めるのではなく、「何か事情があったのかもしれないな」と寛大な心で推察してあげることも必要かもしれませんね。

 

*1:それでも抗弁すれば、Wien の文化から出てきた Wittgenstein の哲学は論証一本槍の分析哲学ではなく、Nietzsche に一脈通じる文学的哲学/哲学的文学の一種なのだから、文学を訳すのとほぼ同様に、細部に渡ってまでも訳し取ったほうがいい、という意見もあるでしょうね。

*2:ドイツ語の助動詞の訳出に関する問題と、さらにはその問題が日本の文化と歴史にも深く絡んでいるという指摘は次にあります。鈴木直、『輸入学問の功罪 - この翻訳わかりますか?』、ちくま新書筑摩書房、2007年、221-227ページ。この本全体がドイツ語の哲学書や社会科学の原書を日本語に逐語訳してきたことに伴う文化的問題を詳しく扱っています。

*3:そしてまた、これは藤井先生は述べておられませんが、少しずつ情景が浮かび上がってくるとともに、この小説冒頭の一文により、徐々に話が始まっていく様子を表すこともできていると思います。

*4:これも藤井先生、柴田先生ともに述べてはおられませんが、訳文を見ると、最初は漢字がなく、次は漢字が少し出てきて、最後は一番漢字が多く出ています。これにより、最初はビラがパラパラとしか見えていなかったものが、段々数を増やし、最後には大量に圧迫感をもって辺りに降ってくる様子が見て取れると思います。