目次
はじめに
この前は L. Wittgenstein の Philosophische Untersuchungen の65節をドイツ語原文で読んでみました。今日はその続きの66節を読んでみましょう。「家族的類似性」という言葉と関係のあるセクションです。
いつものように、次の順で話を進めます。すなわち、1. ドイツ語原文提示、2. 文法事項解説、3. 私訳提示、4. 『探究』既刊三邦訳対比、です。
以下の三つがその既刊邦訳です。刊行年順に並べます。文庫サイズの訳、最近刊行の二つの訳です。
・黒田亘編 『ウィトゲンシュタイン・セレクション』、黒田亘訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2000年 (初版1978年)、(「平凡社版」と略記)、
・ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 『哲学探究』、丘沢静也訳、岩波書店、2013年、(「岩波版」と略記)、
・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』、鬼界彰夫訳、講談社、2020年、(「講談社版」と略記)。
各邦訳のドイツ語底本情報は、このブログの、『探究』を独文原文で読む最初の回を見てください。
ドイツ語原文
ドイツ語原文は例によって The Ludwig Wittgenstein Project 提供のものを使用させていただきます。URL 情報も、この記事のシリーズ最初の回をご覧ください。
・Ludwig Wittgenstein Philosophische Untersuchungen, hrsg. von G. E. M. Anscombe, R. Rhees, G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein Werkausgabe, Band 1., Suhrkamp Verlag, 1999.
ドイツ語文法事項
Betrachte: 不定詞の語幹に -e を付けた2人称単数の命令形。
z.B.: zum Beispiel (たとえば) の略。
einmal: 命令文で使われると、命令の内容を勧誘したり、語気を緩和するために使われ、「ちょっと」と訳されることが多いです。「ちょっと〜してくれ」の「ちょっと」です。もっとくだけると「mal」が使われます。
die wir: die は関係代名詞複数4格。先行詞は直前の die Vorgänge。
»Spiele« nennen: nennen は4格を二つ取る動詞。前の関係代名詞 die と »Spiele« の二つが4格。
Kampfspiele: Kampfspiel の訳語として「競技」を挙げている独和辞典もありますが (『クラウン独和辞典』、第5版)、ここではこの訳語はふさわしくないでしょう。「ボードゲーム、カードゲーム、球技」と来て、同列の概念として単なる「競技」という訳語を並べるのは不釣り合いです。対して、このドイツ語に関し、小学館の『独和大辞典』では、ラグビーやサッカーなどの格闘を伴う団体競技、という感じの説明を与えています。こちらの説明をうまい具合に訳語としてまとめ、簡潔に記せばよいと考えられます。とはいえ、簡潔にまとめるのはなかなか難しいですね。問題の団体競技をラグビーで代表させて「ボードゲーム、カードゲーム、球技、ラグビー」とすれば確かに簡潔ですが、「球技、ラグビー」が並列されているのも奇妙です。ラグビーは球技の一種でしょうから。結局私訳では、簡潔さはあきらめて「皆んなでやるフィジカル・コンタクトの多いゲーム (たとえばラグビーやサッカー)」のように説明を施した訳を記しました。くどい訳ですが、自然な訳であり、内容の明瞭な訳だと思います。もちろん他にもっといい訳があれば、そちらを採用すればいいと思います。
usw.: und so weiter (など) の略。u.s.w. とも略されます。
Sag nicht: これも2人称単数の命令形。厳格には -e を付けて Sage となりますが、普通は口語ではこの -e は脱落します。
Es muß ihnen etwas gemeinsam sein: Es は形式的主語。真主語/意味上の主語は etwas gemeinsam (何か共通したもの)。逐語訳すると、何か共通したものが (etwas gemeinsam) それらに (ihnen) 在ら (sein) ねばならぬ (muß)。
hießen sie nicht ›Spiele‹: heißen は自動詞。主語 (1格) は sie、›Spiele‹ も1格。この文を訳すと「それら (1格) は「ゲーム」(1格) とは呼ばれなかった」。
Denn: 理由を追加して述べる際の接続詞。
wirst du: wirst は推量または未来を表しています。
zwar ... aber: 「確かに〜であるが、しかしーである」の意味。「〜」を認めつつ「ー」のほうに重点をおいて「ー」を強調する用法。
etwas sehen, was allen gemeinsam wäre: was は etwas の内容を説明している不定関係代名詞。wäre は接続法第二式。なぜ直説法や接続法第一式になっていないのかというと、すべてに共通しているものなどありはしないと著者が考えているから。共通したものの虚構、非存在を匂わしています。
und zwar: 追加して内容を詳述したり、強調したりするための言葉。「しかも、特に、詳しく言えば」など。
eine ganze Reihe: 「eine Reihe von (名詞)」、すなわち「一連の (名詞)」、「いくつもの (名詞)」という言い回しがありますが、「eine ganze Reihe」はこれに類した言い回しで、「たくさんの」という意味です。私訳では Reihe の元々の意味「列」を生かして「次々に」という感じで訳してみました。
Wie gesagt: 慣用句・熟語で「既に述べたように」。おそらく「wie man so gesagt hat」か何かの略。
denk nicht, sondern schau!: denk も schau も命令形2人称単数。厳格にはそれぞれ語尾に -e を取りますが、普通は脱落します。
jener: ここでは「あの」という意味より「前者の」という意味。ボードゲームの話の次にカードゲームの話が来ていますが、そのうちの前者であるボードゲームを指しています。
manches Gemeinsame: manches gemeinsame Ding の Ding などが省略され、gemeinsame が中性名詞化したもの。
vieles geht verloren: vieles のあとで Gemeinsame が略されています。verloren gehen で「失われる、なくなる」。
Sind sie alle ›unterhaltend‹.: 長い註を記します。このセクションの私訳を作っている時、一番悩んだのがこの文の訳でした。この文は倒置文です。なぜ倒置しているのでしょうか。ドイツ語で倒置する場合というのは十通り以上あります。試みにそれらのパターンをすべて挙げてみましょう。次の文献に依拠することにします。桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、453-456ページ。 これによるとそのパターンは次の通りです。(1) 疑問文、(2) Wenn 文の代わり、(3) 命令文、(4) 感嘆文、(5) 接続法文、(6) 挿入文、(7) 副文のあとの主文、(8) 強調のための倒置 (強調文)、(9) 生き生きと表現するための修辞的倒置、(10) 前文の語句との結び付きを明示するために関連語句を前方に置く倒置、(11) 1人称主語を欠いているため倒置しているように見える文。問題の倒置文がこれらのうちの一つに該当するならば、どれに当たるのか、それを確定させるためには、この倒置文と、その前後の文とがどのような内容的つながりを持っているのか、そのことを理解しなければなりません。この問題の文の前では、ボードゲーム、カードゲーム、球技と、順に見ていくと、共通点が現れては消えていく、という話がなされています。そして問題の文が来て、それからこのあとに Vergleiche の命令文が来て、その次にOder で始まる文が来ています。これらはどのように内容上つながっているのでしょうか。ところで命令文のあとに oder で始まる文が来れば、その oder は普通「さもないと」と訳されます。たとえば「急いで出かけろ、さもないと遅刻するぞ」の「さもないと」です。ここの oder もそのように訳すべきでしょうか。しかしそれでは意味が通りません。試しにそのように訳してみるならば「チェスと三目並べを比較せよ。さもないとどんなゲームにも勝敗または競争が共通点としてあることになるのだろうか」となり、これでは意味不明です。それに原文をよく見ると oder の前ではコンマ (,) ではなくプンクト (.) があって、そこで文が終わっており、oder は Oder のように大文字になっていて、ここからまた新たな文が始まっていることがわかります。「さもないと」の oder は普通「... , oder ...」となっていますから、やはり形の上でもこの oder は「さもないと」の oder ではありません。するとこの oder はおそらく「または、それとも、あるいは、もしくは」などの意味を持っているのだろうと推測できます。つまり oder のところで検討されるべき共通点の候補が勝敗または競争に切り替えられている、ということです。ということは、この oder の前までは、別の候補が検討対象として上がっている、ということになります。ではこの前の「比較せよ」という命令文は、話の流れの中で、どんな役割を持っているのでしょうか。もしも問題の sind の倒置文が (なぜ疑問符を欠いているのか、意図的なのか、それとも単なる脱落なのか、わかりませんが) 疑問文ならば、次のように訳せます。すなわち「それらのゲームはみな娯楽なのか。チェスと三目並べを比較せよ」。しかしこの二つの疑問文と命令文との間には、どんなつながりがあるのでしょうか。「娯楽なのか」と聞かれてチェスと三目並べを比べれば、ゲームがみな娯楽か否かの答えが出るのでしょうか。出ないように思われます。そこで私は問題の倒置文は疑問文ではないと考えました。では他に、上に挙げた十種類以上のパターンのうち、この倒置文はどれに該当するのでしょうか。私は一つ一つしらみつぶしに検討してみたのですが、どれも確信が持てません。強いて言えば (8) の強調文ではなかろうか、と思いました。ドイツ語では強調したい語句を頭に持ってくることがありますが、ここでは英語で言う be 動詞の sind を強調したいために、それが先頭に来ているのではなかろうか、と。英語では繋辞である be 動詞を強調するために、よく太字になっていることがありますが、ここでは sind を頭に出して「〜はーなのだ」というように強調しているというわけです。この倒置文の前ではいろいろな共通点が現れる一方で、消えて行くものも多いと述べられています。しかし、そうは言っても、ボードゲーム、カードゲーム、球技に共通しているのは娯楽なのだと考えられます。だからこの倒置文で「とは言え、これらのゲームみんなに共通しているのは娯楽なのだ」と娯楽の共通性を強調し、「その証拠に、たとえばチェスと三目並べを比較してみろ」と、命令文で検討を促して、難易度に差はあれ、チェスも三目並べも元々娯楽として行われているはずだ、と言っているのだと思われます。そしてそれからそれでもやはりさまざまなゲームの共通点は他にあり、もしかすると勝敗や競争こそが共通点なのだろうか、と共通点の候補を代えて話を続けているように読めます。この私の解釈は正しいでしょうか。私は、本音を言うと、あまり自信がありません。これ以外にもっともな解釈は考えられない、とまでは言えません。もっともらしい解釈をひねり出すことを断念し、確かに問題の倒置文が疑問文である可能性は高いので、これを疑問文とみて、あとの命令文と oder の疑問文を機械的に直訳するのは簡単です。しかしそれでは前後の脈絡を考えず、機械翻訳のように、安易に翻訳していると言わざるを得ません。そこで私は内容を考えつつ、問題の倒置文を強調文として訳してみたのですが、ひょっとすると間違いかもしれません。ちなみに、このあと見るように、平凡社版、岩波版、講談社版はすべて例の倒置文を疑問文と考えています。これらの訳のように、本当は強調文ではなく疑問文なのかもしれません。けれとも私訳では一応私の解釈で訳してあります。誤訳していましたらすみません。ごめんなさい。
Vergleiche Schach mit dem Mühlfahren.: 「A mit B vergleichen」で「A を B と比較する」。Vergleiche は命令形2人称単数。Mühlfahren ですが、これはたぶん三目並べの類いだと思います。
gibt es: 「es gibt + 4格」で「(4格) が存在する」。
der Spielenden: 動詞 spielen の現在分詞 spielend か形容詞として弱変化をし spielenden、名詞化したもの Spielenden で、複数2格。しかしなぜ Spielenden ではなく Spieler (複数形) を使わないのか、私にはちょっとわかりません。
welche Rolle ... spielen: 「eine Rolle spielen」で「役割を果たす」。
Geschick und Glück: ここでも長い註を記します。この語句の訳にも私は悩みました。「なに? なんのことはない、「技能と運」のことじゃないか。何を悩む必要があるというのか」と思われるでしょう。ゲームの話をしているので、Geschick は「技能、巧みさ、器用さ」のことでしょうし、Glück は「幸運とか運」のことでしょうから「技能と運」 とでも訳せば済むことのように考えられます。しかし私は「何か変だな」と感じてしまいました。ゲームの話の最中とはいえ、「技能」と「運」とは、かなりかけ離れた概念のように思われます。ずいぶん変わった組み合わせのように感じられます。Geschick を「技能」と解して、このあとを読むと「チェスの技能とテニスの技能の何と異なっていることよ」と書かれています。チェスとテニスの技能では、それは異なっているに決まっています。一方はほとんど頭脳プレーであるのにたいし、他方は頭脳プラス身体の激しい動きを伴うプレーなのですから。けれどもよく考えてみると、技能はゲームをコントロールする側面を表し、運はゲームでコントロールできない側面を表していて、コントロールできる/できないという点で、技能と運は対照をなす、関連した概念だとも捉えられます。以上のように、必ずしも技能と運はかけ離れていないとも考えられますが、それでもやはり「なんだか変だ」と私には思われて、改めて Geschick の意味を思い返してみると、もう一つその単語の主要な意味に「運命」があるのに気が付きました。これなら Glück と近い意味になります。ということは Geschick und Glück は、いわゆる二語一想のことではないのか、と思い至りました。二語一想とはドイツ語で、元々あった「形容詞 + 名詞」という表現の形容詞を名詞化し、もう一つの名詞と und で結び付けたもの、または元からある二つの名詞を und で結び付けたものを言い、二つの名詞が表す、それぞれ異なった概念を複合的に印象深く提示する修辞的な手法です。たとえば「Wesen und Weben」などがそうで、これは一語のごとく「生活の営み」などと訳されます。二語一想では二つの名詞を一つずつ訳し、それを「と」で結び付けるということは普通せず、一語のように一まとめに訳します。そして「Wesen und Weben」を見ると語頭 W と語尾 n がそれぞれ韻を踏んでいることがわかります。二語一想はどれも語頭と語尾で韻を踏むとは限りませんが、韻を踏むことがよくあります。翻って「Geschick und Glück」を見ると、語頭で G、語尾で k と、こちらもそれぞれで韻を踏んでいることがわかります。とすると、やはり Geschick und Glück は二語一想で、一語のごとく圧縮して単に「運」と訳すか、あるいは、Glück は幸運の意味があり、Geschick にはおそらく「宿命」みたいな語感があるので、その二語一想を「幸運・不運」みたいに訳すとよいかもしれないと思われます。この場合、このあとの文は「チェスで運の果たす役割とテニスで運の果たす役割の、何と異なることよ」と訳されます。これならまだましかもしれません。チェスは室内で行われるのに対し、テニスは屋外でもしばしば行われ、その時は天候が試合の行方に大きく作用します。また、チェスの対戦で駒や盤の材質が対戦の行方を左右することは、たぶんあまりないでしょうが、テニスでは芝のコートかクレイコートかによって、ずいぶん試合の結果は違ってくるでしょうし、それぞれの選手がどんな材質のラケットを使っているか、ガットの張り方はどうか、ボールの重さは、などによってもまた大きく違ってくるでしょう。観客の反応も選手の心理に強く影響を与えます。テニスでは、まわりの環境の違いがそれぞれの選手に幸運をもたらしたり、不運をもたらしたりする不確定要素が、チェスにくらべ、多いと思われるのです。ちなみに、平凡社版、岩波版、講談社版のいずれもこの問題の語句を二語一想とは解さず、「技能と運」という感じで訳しています。しかし私訳では私の解釈で訳してみました。これも間違っているかもしれません。そうでしたら謝ります。ごめんなさい。深読みしすぎたかもしれないと危惧しています。
Und wie verschieden ist ... Geschick im Tennisspiel.: これは、感嘆符はありませんが、感嘆文でしょう。「そしてチェスにおける運の果たす役割とテニス における運の果たす役割の、何と異なっていることよ」みたいな感じの訳になります。この他に、これとよく似た形の感嘆文の例を一つ、記しておきます。これも感嘆符はありません。Und wie wert wurden mir die Briefmarken (そして私にとってそれらの切手が何と貴重になったことよ).
wie viele der anderen Charakterzüge sind verschwunden!: これも感嘆文です。これには感嘆符が付いているので、感嘆文だと誰にでもわかりますね。なお「viele der anderen Charakterzüge」の「viele」のあとには「Charakterzüge」が省略されていて、ここを細かく逐語訳すると「他の特徴たちのうちの、何と多くの特徴が」となります。
Ähnlichkeiten auftauchen und verschwinden sehen: sehen の主語は何でしょうか。一見 Ähnlichkeiten (類似性) のように見えます。この語は複数形であり、そうすると sehen は3人称複数形と解し得ます。しかし意味の上で、類似性がその眼でもって何かを見ることはあり得ませんし、構文上でも、Ähnlichkeiten が主語だとすると、auftauchen und verschwinden する語が見当たらなくなります。そこで前文を振り返ってみると、そこに「können wir」があるのがわかります。つまりこの wir が主語で、sehen は3人称複数ではなく、助動詞 können に従う動詞の不定形なわけですね。
die einander: この die は関係代名詞複数1格で、先行詞はすぐ前の Ähnlichkeiten。
Ähnlichkeiten im Großen und Kleinen.: ゲーム同士の類似性が互いに網の目のように編み込まれているという比喩的な文脈で「Ähnlichkeiten im Großen und Kleinen」と、追記するように類似性に対し、説明が加えられています。網の目という比喩に基づけば、大きかったり小さかったり (im Großen und Kleinen) するのは、網の目のサイズであり、そして網の目のサイズが大きい場合には、ゲームのある特徴が互いに大まかにしか似ておらず、小さい場合には細かいところまで似ている、ということを言っているのだろうと思われます。たとえばラグビーとアメリカン・フットボールと野球を比べてみた場合、ボールの扱い方に関し、ラグビーとアメフトは、野球に比べ、網の目のサイズは小さく、それ故互いに緊密に編み込まれていると言えるのに対し、ラグビーと野球とでは、網の目のサイズは大きく、それ故互いに緩くしか編み込まれていないと言えるでしょう。ところで他でも「Großen und Kleinen」という言い回しを見かけることがありますが、その際の意味は「老いも若きも」であることが多いです。そして「老いも若きも」と言うことで言われているのは要するに「誰もかれも」ということです。その関連からすると「Ähnlichkeiten im Großen und Kleinen」は「大きい類似性や小さく類似性」などのように訳すのではなく「ありとあらゆる類似性」と訳すのが自然でしょう。そしてこの「Ähnlichkeiten im ... 」 という語句は、ここで単独で現れていますが、前方の「ein kompliziertes Netz von」に接続していると考えるべきでしょう。これらのことを踏まえた上で、この語句は訳すといいと思います。
直訳/私訳
以下に記す私訳では、大学入試の英文和訳の解答に類する、直訳・逐語訳的な訳文スタイルを採用します。ただし、どの文も完全に直訳・逐語訳しているとは限らず、時には自然な日本語の文で訳している場合もあります。
商業翻訳の訳文では、今では直訳調の訳は好まれません。その訳文では、原文の文法構造を離れることがよくあるようです。また原文の一語一語全部を日本語で訳し出す原則からも離れたり、原文の同じ一語にはいつも同じ日本語の単語で訳し通すという原則からもよく離れることがあるようです。その代わり、その文の言わんとしているところをよく汲み取った、より自然な日本語で訳する傾向が商業翻訳では強まってきていると思います。
ただ、この場では、語学という目的を優先させるため、あえて時には不自然になる直訳を採用します。そこでは、原文を細かく味読することや、原文の著者の意図が、原文の細部にどのように現れているのかを、捉えようと努めているのです。この点、どうかご承知おきください。
なお、原文にあるイタリックは基本的に下線で代用しています。また、私訳では補足を括弧 [ ] と ( ) で補ったところがあります。
私訳を作成するに際しては、既刊の邦訳を参照せず、自らの力で訳してみました。私訳ができたあと、既刊邦訳に目を通し、誤訳がないか、確認しました。するといつものように私の訳に誤りがありました。その点については既に上のドイツ語文法事項解説の部分で触れました。ただし、もしかするとそれは誤訳ではなく、解釈の相違と捉えられるかもしれませんが。具体的には sind から始まる倒置文の訳と Geschick und Glück の訳です。
誤訳にしろ解釈の相違にしろ、先生方の訳例には教えられるところがありました。ここに感謝の気持ちを記しておきます。ありがとうございました。
平凡社版
186-187ページから引用します。傍点は下線で代用します。カッコ〔 〕と〈 〉は訳書にあるものです。
大学入試の英文和訳問題の解答をチェックするようなつもりで邦訳を確認してみます。商業翻訳の訳文としては問題のないところでも、昔風の直訳・逐語訳を是とする方針から見た時、気が付くことを記します。翻訳の良し悪しを問うているのではありません。私にそのようなことをする力はありません。この点、銘記願います。
なお、毎回述べていますが、今回上で掲げたドイツ語原文と一字一句同じ原文を元に各先生方は訳文を作られたのか、私は知りません。たぶん各々少しずつ異なる独文を元に翻訳されているのだと推測します。そのため、各自の訳が異なっている可能性があります。このこともまた銘記しておいてください。
(1) 「競技」。原文では「Kampfspiele」。このドイツ語に対する訳語として「競技」を挙げている独和辞典もありますが (『クラウン独和辞典』第5版)、小学館の『独和大辞典』を見ると、ラグビーやサッカーのような、格闘を伴う集団的な競技のこととしています。平凡社版の訳文では「盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技」のように「盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯」と「競技」が並列されていますが、これは何だか変に感じます。「コーヒー、紅茶、飲み物」とか「日本、アメリカ、国」みたいな感じで、変です。下位にある概念と、それを含む上位の概念が並列されているような感じがして、奇妙です。たとえばですが「激しい身体接触を伴う団体競技」などと訳すといいと思われます。
(2) 「一向に見えなくても」。原文は「zwar nicht etwas sehen」。ここを平凡社版は「一向に〜ない」というように全否定の意味で訳しています。しかしここの zwar は後続の aber に呼応していて、「確かに〜だが、しかし」とか「なるほど〜だけれど、でも」という意味を持っているのだと思います。ひょっとして平凡社版はこの「zwar nicht」を、全否定である「gar nicht」と取り違えたのではないでしょうか。しかし私のほうが間違っていましたら謝ります。すみません。
(3) 「しかもその全系列が見える」。原文の一部は「und zwar eine ganze Reihe」。ganz の意味は「すべての」だからこのように訳されているのでしょうが、この「eine ganze Reihe」は「すべての列」ではなく、単に「たくさんの」という意味の言葉です。常識的に考えて、たとえばサッカーと野球の類似点のすべてや全系列があなたに見えますでしょうか。多数の類似点を指摘することはできても、ありとあらゆる類似点を全部枚挙することは、いくらなんでも無理でしょう。ということは、ここで言われているのは全部の類似点ではなく、多くの類似点のことだろうと察しが付きます。そして現に元々「eine ganze Reihe」には「たくさんの」というポピュラーな意味があるのですから、そちらで訳すほうが適当でしょう。
(4) 「これらすべてが「娯楽」なのか」。これについては文法事項解説のところで述べましたので割愛します。岩波版も講談社版も、ここを同じく疑問文として訳出しています。以下で岩波版と講談社版の疑問点を挙げる際にも、この疑問文についてはこれ以上触れず、割愛します。なお「「娯楽」」は原文でカッコ付きかつイタリックなので「「娯楽」」 のように下線 (傍点) が必要です。
(5) 「技倆と運」。これについても (4) と同様の理由で割愛します。岩波版も講談社版も同様に訳しています。以下ではこれについても触れず割愛します。
(6) 「大まかな類似性も見れば、こまかな類似性も見るのである」。これは私にはちょっと生硬な表現に感じられます。特に「細かな類似性も見る」と言われて、一瞬「細かな類似性って、それはどういうこと?」と考えてしまいました。要するに「大まかに似ていることもあれば、細かいところまで似ていることもある」と言いたいのだと思います。または「よく似ている特徴を見かけることもあれば、あまり似ていない特徴を見かけることもある」と言いたいのでしょう。このように言われると何のことかすぐにわかりますが、平凡社版のここの訳は、ちょっと翻訳調だと思われます。
岩波版
61-62ページから引用します。傍点は下線にしてあります。「(ミューレ)」は訳書ではふりがなです。
ここでも気が付いたことを述べます。岩波版では文法に関することではなく、訳語の選択に関して気になることがいくつかあります。
(1) 「「ゲーム」と呼ばれるプロセス」。「プロセス」の原文は「die Vorgänge」。前の回でも言いましたが、「ゲームという出来事、事柄」などならわかりますが、「ゲームというプロセス」は、ほとんどの人が首をひねると思います。野球なら1回の表から始まり、通常9回まで段階的に試合が進んでいくということだろうかと思いますし、サッカーなら点が入ったら、そのあと各チームが自陣に戻り、それからセンターサークルでボールを蹴って、試合がリスタートするというような、段階を踏むことかと思ってしまいます。しかしそういうことがここで問題となっているわけではまったくありませんので「プロセス」という訳語は再検討が必要と思われます。
(2) 「ボードゲーム、カードゲーム、ボールゲーム、ラグビー」。これは仕方がないし、私にもよい代案が思い浮かばないので、言いたくはないのですが、まず、「ボールゲーム」という言葉は、言うことは言いますが、ちょっとあまり言わないと感じられ、読んでいて若干引っかかりを覚えます。各訳語の後半を「ゲーム」で統一したかったためそう訳されたのだと思いますし、気持ちはよくわかりますが、少し翻訳調になっていると感じます。また、「ラグビー」という言葉は、唐突に出てきて、私はかなり驚きました。「なんだ、なんだ、いきなり。どうしてこれだけが具体的なゲームの名前なんだ?」とびっくりし、もう一度ここを読み直してしまいました。これもやむを得ないことで、原文が「ラグビーやサッカーのような格闘を伴う集団的な競技」というところから、これでは訳が長すぎるので、代表して「ラグビー」と簡潔に訳した結果なのだとはわかるのですが、急に種類の異なる概念が出てきて困惑してしまいます。簡にして要を得ているという点で賢明な訳語選択と思う一方、それでもやはりうまくはまっていないとも思われ、難しいところです。しかしこれはどうしようもないことですね。
(3) 「類似点や親戚関係」。これもやむを得ないことなのですが、ゲームの「親戚関係」というのは、どうにもなじまない、しっくりこない表現ですね。これはここで読者に「家族的類似性」を連想してもらう必要から「Verwandtschaften」を「類縁性」などではなく「親戚関係」と訳しているわけですし、私もこのドイツ語をそう訳したこともあるので、人のことは言えないのですが、でもやはり何だか不自然であることは否めません。これもどうしようもないことですね。
(4) 「スケールの大きな類似性もあれば、細部についての類似性もある」。ここで気にかかるのは「ちょっと大げさな言い方だな」ということです。間違った訳ではないでしょうが、ずいぶん大仰な物言いだと感じます。ここで言われているのは、ゲーム同士の間で、よく似た特徴が見られたり、あまり似ていない特徴が見られたりすることでしょう。ラグビーとアメフトでは、ボールの扱い方はよく似ています。どちらもボールを持って走りながら、そのボールを奪い合うというゲームですから。他方、ラグビーとアメフトの二つと、野球とではボールの扱い方はあまり似ていません。このように、ここではこの種の類似性が言われているので、ことさら「スケールの大きな云々」と言うとひどく「大規模な」話をしているようの聞こえてしまいます。また、さらに言えば「大きい類似性と小さい類似性」ということで、ありとあらゆる類似性が語られているわけですから、ここの訳はシンプルに「よく似た類似性もあればあまり似ていない類似性もある」とか「ありとあらゆる類似性を見ているのだ」などとすればいいように思われます。
講談社版
75-76ページから引用します。傍点は下線に直し、訳注は省きます。
やはり気が付いたことを述べます。
(1) 「君が見るのは ... 何かではなく、... だからだ」。ここの原文では zwar ... aber (確かに/なるほど〜だが、しかし) が使われています。けれども訳文にはこの語句の意味合いが反映されていません。あるいは、あまり反映されていません。たとえそうだとしても、別に話の流れに差し障りがあるわけではありませんが。
(2) 「そしてチェスの技能とテニスの技能がどれだけ違っているかを見よ」。原文は「Und wie verschieden ist Geschick im Schachspiel und Geschick im Tennisspiel」です。ポイントは訳文末に「〜を見よ」という言葉が付いていることです。この原文の前で「Schau, welche Rolle ... (いかなる役割を果たしているかを見よ)」という文が来ており、その流れで講談社版は「どれだけ違っているかを見よ」と訳されているのだと思います。これはつまり Schau が welche Rolle だけでなく、wie verschieden にもかかっていると解しておられるということです。しかしそうならば「Schau, welche Rolle ... spielen.」の文末はプンクト (.) ではなくコンマ (,) にして、「Und」を小文字で始めるか、あるいは「Und」を省き、直接 wie を接続するのが普通だと思います (その場合、wie verschieden 以下の動詞 ist は文末に後置されるか、あるいはそれがアンバランスと感じられる場合には正置されます)。私訳、平凡社版、岩波版はみな「〜を見よ」という言葉を付けずに、問題の原文を、独立した単なる感嘆文と見なしています。というわけで、私見では、問題の文は間接疑問文ではなく、独立した感嘆文だと考えます。ちなみにこの文は感嘆文なのに感嘆符が付いていません。しかしドイツ語文ではこのようなことがこの他にもあります。他の事例については、この文に付したドイツ語文法事項解説の説明をご覧ください。
(3) 「大規模な類似性と小規模な類似性を我々は見る」。これも平凡社版、岩波版と同様に、ちょっと大げさな表現に見えてしまいます。しかも私たち日本語を母語とする者は「大規模な類似性と小規模な類似性」という言い方はまずしないでしょう。かなり不自然な言い方に感じられます。哲学を嫌い、哲学的物言いを嫌った Wittgenstein なら、このような大仰な言い方は嫌ったでしょうし、仮に彼が日本語をある程度習得し、日本語母語話者の助けを借りて日本語で『探究』を書くか、日本語に『探究』を翻訳したならば、このように不自然な、日常的に使わないような言い方はしなかったでしょうし、このように翻訳されたら怒ったかもしれません。とても翻訳調になってしまっている訳だと感じられます。
偶感
一つ、感じたことを記します。
原文末尾の「Ähnlichkeiten im Großen und Kleinen」に対する平凡社版、岩波版、講談社版の訳を見ていて思うことがあります。『論考』では論理学の言語のような理想言語、形式言語をモデルに言語論を展開していました。このことを疑問に思った Wittgenstein は『探究』では、日常言語、自然言語をモデルに言語論を展開することへと言語観を切り替え、日常言語、自然言語を範にとった言語論を提唱、推進します。日常的でない言い方や日常から離れた専門用語に基づく言語論を否定し、普段のものの言い方の背後で働いている論理を捉えようとしたのが『探究』だったのだろうと思います。その『探究』を、非日常的で不自然な日本語に翻訳することは、『探究』の精神に反するように思われます。
講談社版は現時点での『探究』邦訳書の決定版だと思います。これ以上、新たな邦訳は『探究』に関しては不要と感じられるかもしれません。それでもまた新たな邦訳書を出す意義は、まだ残っているかもしれません。その新たな邦訳書で追求すべきは日常の言葉に徹した邦訳です。初めから日本語で書かれていたのではないか、と思わせる邦訳です。翻訳臭をまったく感じさせない邦訳です。原文が透けて見えない邦訳です。学術書としての『探究』ではなく、一般教養書としての『探究』です。あるいは哲学書のつもりで訳すのではなく、たとえば文学書、文芸書のつもりで訳すのです。世紀末ウィーンからやって来た男なら、それを望むでしょう。
外国語の小説を邦訳する場合には、今では自然な日本語、翻訳臭のない日本語に訳すことがよい、とされるようになってきました。ある種の哲学書でも、このようなスタイルが望まれると思います。それこそ『探究』がそんなスタイルにぴったりの書籍です。『探究』は学問するための書物でしょうか? 研究するための書物でしょうか? そうではないでしょう。『探究』で学問したり研究したりすることは『探究』の精神に反すると私は思います。Wittgenstein も『探究』で学術的研究をしてもらいたいなどとは考えていなかったはずです。『探究』でそんなことされたら彼は怒り狂ったかもしれません。
岩波版の邦訳は、自然な日本語で書かれており、日本語の日常的な言葉遣いを徹底している、という書評もあります *1 。私もこの点にある程度同意致しますが、それでもまだまだ不自然なところが残っている訳だと思います (生意気言ってすみません)。英語の文学書などを日本語に翻訳した邦訳文の翻訳批評がたくさんありますが、それを読むと、それこそ実に徹底した検討がなされていることに圧倒されてしまいます。非常にレベルが高く、ちょっとでも不自然だとやり玉に上げられそうです。このように完璧主義的な英日翻訳批評から見れば、『探究』の邦訳は、自然な日本語としては依然として再考の余地が多くあるように思います。やはり『探究』の新たな邦訳が今もって必要かもしれません。原文の、その言わんとするところを、何より優先的に汲み取った邦訳、原文内の各語と訳語との一対一対応に拘泥しない邦訳、名詞は名詞で、形容詞は形容詞で訳すというような、硬直した翻訳方針を捨て、自由に品詞転換を遂行した邦訳、これまでの『探究』邦訳書は主に研究向けの学術書と捉え、『探究』で勉強することはこれらの邦訳書に任せ、研究者の顔色をうかがわず、ものを考えること、これだけを考慮した、これだけに特化した、そんな邦訳です。これこそが真の『探究』かもしれません。これこそが「来たるべき『探究』」かもしれません。Wittgenstein ならきっと歓迎するでしょう。
以上、分不相応なことを言いまして、すみません。実際「じゃあ、お前がそんなふうに訳してみろ」と言われたら「できません」としか答えられません。『探究』は現代の古典だと思いますが、古典というものにはいろいろな翻訳ヴァージョンがあってもいいと思います。教養書としての『探究』邦訳、誰かやってくれませんか。学術書ではなく教養書として、真の意味での哲学する書物として『探究』を訳すなら、平凡社版、岩波版、講談社版などなどの訳者の先生方からも、お許しいただけるように思えるのですが、だめかなぁ。
終わりに
これで終わります。誤字や脱字、誤解や無理解や勘違いがありましたらすみません。私による誤訳や悪訳にもお詫び申し上げます。訳者の先生方の翻訳には学ぶところが多くありました。勉強になりました。誠にありがとうございました。
*1:古田徹也、[岩波版『探究』邦訳書評]、『科学哲学』、第47巻、第2号、2014年、108-109ページ。