目次
はじめに
今日も L. Wittgenstein の Philosophische Untersuchungen をドイツ語原文で読んでみましょう。
「家族的類似性」に関するセクションの続きです。
いつものようにまずドイツ語原文を掲げ、その文法事項を私のほうで説明し、次に私による直訳を示し、それから『探究』の三つの邦訳を引用・比較してみます。
邦訳は以下の三つです (刊行年順)。一つ目は文庫サイズの本、あとの二つはハードカバーで出ている最近の翻訳です。
・黒田亘編 『ウィトゲンシュタイン・セレクション』、黒田亘訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2000年 (初版1978年)、(「平凡社版」と略記)、
・ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 『哲学探究』、丘沢静也訳、岩波書店、2013年、(「岩波版」と略記)、
・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』、鬼界彰夫訳、講談社、2020年、(「講談社版」と略記)。
各邦訳が基づくドイツ語底本情報は、『探究』独文読解初回の、各訳書に付された註を参照ください。
ドイツ語原文
ドイツ語原文は例によって The Ludwig Wittgenstein Project のヴァージョンを使用させていただきます。URL の情報も『探究』独文読解初回の、ドイツ語原文に付された註をご覧ください。
・Ludwig Wittgenstein Philosophische Untersuchungen, hrsg. von G. E. M. Anscombe, R. Rhees, G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein Werkausgabe, Band 1., Suhrkamp Verlag, 1999.
ドイツ語文法事項
also: ここではこの語は前提から結論を導く言葉と解されるかもしれません。その場合は「従って、だから」などと訳されますが、この also を含む文は、Wittgenstein の意見に反対している者の発言であり、Wittgenstein の言う通りだとは思っていない者のセリフなので、この人がこの際「だからあなたの言う通り、〜なのですね」などと素直に恭順の意を示すとはちょっと思われません。むしろ当人は Wittgenstein の主張していることなど間違っていると考え、その主張を認めるつもりはなく、「Wittgenstein さん、あなたはなんだかんだ言っているが、とにかく要するに数の概念は〜だと言いたいわけだ」というふうに、ここでのセリフは述べられているのだと思います。その場合、also の訳は今挙げたように「要するに、煎じ詰めると」などになると思います。私は also の訳として、この後者を採用します。間違っていましたらすみません。
jener: この語はこのあとのコロン (:) 以下を指しています。jener という言葉は、ほとんどが言語内照応の言葉で、つまり目の前の何かを指差して「あの〜」などと使うことは非常に少なく、大抵はこの言葉を含む文章の中の何らかの表現を指します。
gleicherweise: この語を含んだ文では、前の文にある「ist für dich erklärt」が省略されています。つまり次の丸括弧内が省略されたものが当該の文です。「Der Begriff des Spiels (ist für dich erklärt) als logische Summe entsprechender Teilbegriffe」。
Dies muß nicht sein.: müßen の否定には四つ意味があります。(1) 禁止: 「〜してはならない」。(2) 不必要: 「〜する必要はない」。(3) 否定の推量: 「〜でないに違いない」。(4) 必然の否定: 「必ずしも〜するとは限らない」。ここでは話の流れから (2) か、または (4) が当てはまると思われます。私はてっきり「そんなことあり得ない」という意味だと誤訳してしまいました。おそらく正しくは「そうである必要はない」、「必ずしもそうであるとは限らない」といったものでしょう。
d.h.: das heißt (つまり) の略。
zur: この zu は意図または目的の意味で使われています。前者ならば「〜として」、後者ならば「〜するために」と訳すとうまくいきます。
aber ich kann es auch: この es は前方の「das Wort »Zahl«」を指します。
so gebrauchen, daß: この so はうしろの daß 文を指します、あるいはこの so は daß 文と呼応しています。意味は daß 文が述べている内容を「〜」で表せば「〜であるように」とか「〜であるような形で」、「〜するような仕方で」などとなります。
durch eine Grenze abgeschlossen ist: Grenze に不定冠詞 eine が付いています。ということは、この Grenze が抽象的な、数えられないものではなく、具体的な、数えられるものとして捉えられている、ということです。そこでこの訳も単なる「境界」とするよりも「境界線」とするほうがより正確でしょう。
wir ja das Wort: この ja は事実を確認している言葉で、「実際」ぐらいの意味になります。
Wie ist denn: この denn は相手に対し、非難がましい調子を表すもので、疑問文で使われると、しばしば「一体全体〜だと言うのか?」とか「そもそも〜なのか?」といった感じの意味を持ちます。
keines mehr: mehr が否定の言葉とともに使われると「もはや〜ない」の意味になります。
welche ziehen: welche のあとで Grenze が略されています。
Aber dann ist ja: dann は前の話を踏まえて「そうすると」の意味。ja は相手に挑むような気持ちで事実を確認する態度を表し、「(そうすると) 〜 となるね (それでもいいのかい?)」とか「(そうすると) 〜 になるじゃないか (それはおかしいだろ)」みたいな感じのニュアンスを持っています。
das ›Spiel‹, welches wir mit ihm spielen, ist nicht geregelt.: welches は関係代名詞中性4格。先行詞は直前の das ›Spiel‹。ihm も das ›Spiel‹ を指します。「スポーツ名」+ spielen で「(そのスポーツ) をする」の意味。ここの文を逐語訳すると、「我々は wir この語 ihm つまり das ›Spiel‹ で mit 「ゲーム」を das ›Spiel‹ しているが spielen この語 das ›Spiel‹ は規制されて ist ... geregelt いない nicht」。ここでは Wittgenstein に反対している者が Wittgenstein に対し皮肉を言っているのだと思われます。この文では暗に次のようなことがほのめかされているのだと推測されます。「ゲームならルールがあるはずだ。ところで我々は今「ゲーム」という語でゲームをしている。しかし Wittgenstein さん、あなたの主張によれば、この語にルールはないことになる。これはいくらなんでもおかしいじゃないですか?」ここはこのようなニュアンスをそれとなく表した訳にする必要があると思います。
Es ist nicht überall von Regeln begrenzt.: Es は非人称、または穴埋めのために使われているように見えますが、前方の Wort または das ›Spiel‹ を指していると私は解しました。(間違っていましたらすみません。) その場合の訳は以下のようになります。「語というものは/「ゲーム」という語は、どこでもルールによって適用範囲が境界付けられているというわけではない」。今、概念の適用範囲を決める境界がどの語についても確定しているか否かが問題となっているので、begrenzt は「制限される」と訳すのではなく、「境界付けられる」とか「境界が確定されている」などと訳したほうがいいと思います。なお私はここの überall を überhaupt と勘違いし、「至るところ〜とは限らない」と訳すのではなく「まったく〜でない」と誤訳していました。皆さまもお気を付けください。まぁ、こんな間違いをするのは私ぐらいのものでしょうが。
aber es gibt: es gibt + 4格で「(4格) が存在する」。ところでここの aber はどんなニュアンスを持っているのでしょうか。aber は順接を表すこともありますが、ここは普通に逆接を表していると思います。では何に対して逆・反対のことを言っているのでしょう? 直前の文の内容に反対しているのでしょうか? その文の内容は「語はいつでもルールによって境界付けられているというわけではない」というものでした。ということは、aber が直前の文に対し、反対しているなら、その反対のこととは「語はいつでもルールによって境界付けられている」というものであり、aber のあとではこの種のことが述べられているはずです。しかし aber のあとで主張されていることは、そういうことではありません。ゲームでは何から何までルールにより規定されているわけではない、ということが言われています。では何に対して反対しているのでしょう。それはすぐ前の、カッコ » « で括られたセリフに対してでしょう。そのセリフでは「あなたの言う通りなら語を使用する際、ルールがなくなってしまう。語を使ったゲームではルールがないことになる。ルールがないのはおかしい」というようなことが言われていました。反対しているのはこのことでしょう。つまり「ルールがないのはおかしいと言うが、ルールがないのはよくあることである。たとえばテニスでは ... 」という感じのことが aber 以下では述べられていると思われます。加えて言えば、問題の aber は、その直前でセミコロン (;) により区切られており、これはその前後の文が互いに緊密に結びついて半ば一体化していることを表していると考えられるので、aber が反対しているのはこれの直前の文ではなく、直前の文を飛び越えた、カッコ » « で括られたセリフだとわかります。何にせよそうすると、この aber はそのセリフに対する反対を表していることが読者に暗に伝わる訳にするといいでしょう。たとえば「そうは言っても」とか「そうは言うが、そもそもルールがないことなど頻繁にあることは君も認めるだろう、たとえば ... 」という感じの意味を簡潔に示した訳です。簡潔に記すことはちょっと難しいですが。
ja auch: ja は相手も知っている事実の確認のために使われています。例文: Es ist ja heiß.「(ご存じのとおり外は) 暑いですからね (だから私としては出かけたくないのですよ)」。というわけで、この ja は「〜ですよね」ぐらいのニュアンスで訳すといいと思います。auch は当然の事実を表す言葉で「もちろん、当然」という意味です。
dafür z.B.: z.B. は zum Beispiel (たとえば) の略。dafür の da- は z.B. 以下を指しています。そしてこの dafür は前の Regel にかかっています。
werfen: この語は普通「(ボールなどを) 投げる」という意味ですが、先生方の邦訳を見ると皆さん「(ボールを) 打つ」と訳しておられます。テニスでボールを werfen すると言えば、それは普通ボールをラケットで「打つ」ことなのでしょうか? テニスでゲームを始める時、一方の選手がボールを「投げ」上げて、それを相手選手のコートに打ち込むサーブから始まりますが、この投げ上げること、トスすることを、この werfen は表していると私は解しました。間違っていましたらすみません。念のため、小学館の『独和大辞典』第二版と相良先生の『大独和』の werfen の項目をチェックすると、「打つ」に当たりそうな語義や例文は見られませんでした。まぁ「投げる」でも「打つ」でも話の流れには大差ないのですが。
es hat auch Regeln.: この auch も当然の事実を表していて、「事実」とか「もちろん」ぐらいの意味です。
直訳
私による訳は主に直訳調、逐語訳調にしてあります。ドイツ語原文がどのように訳されているのかわかるようにして、ドイツ語を勉強するためです。ただし、ところどころ自然な訳にして、訳註で直訳を示している場合もあります。このように直訳・逐語訳を一応旨としていますが、ドイツ語文法事項の解説の場面や各種邦訳検討の場面では、自然な訳にするにはどんな訳にしたらよいかを述べている時もあります。未熟な説明に終始していると思いますが、よろしければ参考にしてみてください。
なお原文のイタリックは下線で代用しています。
私訳を作るに際しては、各種邦訳を見ず自力で訳し、一通りできたあとで邦訳を拝見させてもらいました。その結果、恒例になりましたが、やはり私のほうで誤訳を少なくとも二つ、やらかしていましたので、この二つは訂正した上で、ここに掲示しています。どこで誤訳していたかはドイツ語文法事項の解説欄で言及しました。
毎度私は誤訳しており、我ながらみっともないことではありますが、人の間違いに学ぶということはよくあることです。勉強していて他の人が間違ったところは、すべてではないものの、しばしば記憶に残り、自分にとって教訓になるものです。皆様のなかには私の間違いから何ほどが学ばれる方もおられると思いますので、恥ずかしい誤訳を公開することも悪いことではないと思います。これは半分本気で、半分言い訳として述べておきます。いずれにせよ誤訳を教えてくださいました先生方のお仕事に感謝致します。大変ありがとうございました。
平凡社版
引用は189-190ページからです。傍点は下線で記します。
この邦訳について、疑問に感じたことを述べてみます。なお、私の抱いた疑問が私の誤解であったり勘違いであったり無理解から来ているものでしたら謝ります。申し訳ございません。
念のために記しておきますと、訳者の先生方や私が典拠としたドイツ語原文が、各々微妙に異なっている可能性があります。各自の訳に違ったところがあるのはそのせいかもしれず、私が疑問を抱いたのもそのせいかもしれません。ですので、たとえ疑問点が見つかったとしても、誤訳でも何でもないかもしれませんので、おおらかな気持ちで邦訳を眺めてみましょう。
(1) 「それなら」。also の訳だと思われます。この語はしばしば「だから、従って、それ故」などと訳されますが、ここのセリフを述べている者は、Wittgenstein の主張を素直に認めるつもりなど少しもないと思われるので、「従って〜だとあなたは言うのですね」という感じの態度ではなく、「なんだかんだ言っているが、要するにあなたの言いたいのは〜ということなんだ」という感じの態度でいると考えられますので、also は「従って」の類いではなく「要するに」の類いで訳したほうがいいと思います。この私の意見が間違っていたらすみません。
(2) 「ここまでがゲームで」。この直前に「Wie ist denn der Begriff des Spiels abgeschlossen?」の訳がなければならないのに完全にこのドイツ語文の訳が脱落しているようです。それとも平凡社版の底本であるドイツ語原文には、この文はなかったのかもしれませんが。
(3) 「君が「ゲーム」という語を実際に用いている限りでは」。ここでなぜ「限りでは」という訳語を使うのか、不思議に感じます。原文では単に「wenn」が来ているだけです。ただの普通の wenn 文だと思います。「〜した時」と訳せばよく、特にひねりを入れる必要はないと思います。なのに「限りでは」と訳されているので「一体どういうことだろう?」と考え込んでしまいます。なぜ「限り」と限定を加えなければならないのか、ちょっとよくわかりません。私の想像力が不足しているせいかもしれませんが。
(4) 「でも、それではこの語の適用には規則がないことになる」。原文には「ja」という言葉が含まれていますが、邦訳ではこの言葉のニュアンスが出ていません。出さなくても、まぁわかりますが、それでも訳に反映させればよいように感じます。その場合は相手を見下すように「... 規則がないことになるね」と表現したり、反論するように「... 規則がないことになるじゃないか」と表現することになると思います。
(5) 「この語によって行なう<ゲーム>には、何の規則もないことになる」。ここはドイツ語原文では皮肉を効かせていると思われます。そのため、これが皮肉だ、当てこすりだとわかる訳にする必要があると思います。この邦訳では皮肉が効いているようには感じられないので、もう一工夫ほしいと思います。
岩波版
引用は63-64ページからです。傍点は下線で記します。
疑問点を述べます。
(1) 「だったら」。これはおそらく also の訳。そうだとすると、このように訳すよりも「要するに」とか「つまり」などとしたほうがいいことについては、何度か述べました。詳述は避けます。
(2) 「というのも (Denn)、... できるからだ。つまり ... できるからだ。けれども (aber) また、できるからだ」。ここをこのように訳すのはまずいと私は思います。そもそもこれでは何のことだかよくわからないと思います。Wittgenstein に反対する相手から「あなたは概念を論理和として説明されるのですね」と言われた Wittgenstein は「必ずしもその必要はない」と反論します。「その必要はない」とは何の必要がないというのでしょうか。おそらくですが、次のようなことだと思います。つまり、ここで相手は「論理和」という、どこかしらいかめしく、学術的と感じられる、論理学や数学に属すると思しき言葉を使っていますが、この言葉から喚起されるイメージは、問題とされる概念が、論理学や数学に属する概念のように、何がその概念に当てはまるか否かが明確である、ということです。反対する相手の念頭にある概念は、それに何かが当てはまるか否かがはっきりしていて、明確な境界を持ったものばかりである、ということです。Wittgenstein が「必ずしもその必要はない」と言って反論するのは、どの概念も明確な境界があるとは限らない、ということだと思われます。だからこのあと Wittgenstein はそのことを述べて「というのも、確固とした境界を与えることはできるが、つまり確固とした境界を持つ概念の記号として語を使うこともできるが、しかしそのような境界を持たないものとして使うこともできるからだ」と言っているのだと思います。しかしこれを岩波版のように訳すとわけがわからなくなります。そのように訳してみたものが次です。「というのも、確固とした境界を与えることができるからだが、つまり確固とした境界を持つ概念の記号として語を使うこともできるからだが、しかしそのような境界を持たないものとしても使うことができるからだ」。つまり最初の二つの太字の「から」は不要だということです。これがあるために何のことだかわからない話になってしまっていると思います。
(3) 「単語の使い方は規制されていない」。この部分に対応する表現を原文から抜き出すと「die Anwendung des Wortes ist nicht geregelt」となります。この ist 以下を「規制されていない」と訳しても構わないといえば構わないのですが、ちょっと迂遠というか、ストレートにはわかりにくい訳になっていると思います。geregelt は動詞 regeln (規制する、規則によって制限する) の過去分詞であり、regeln は名詞 Regel (ルール) から来ています。今問題となっているのは、語が表す概念がルールによって明確な境界を持つか否かです。そして問題の原文は「語は、使用に際しては、ルールによって規制されない」と述べ、その結果、ルールによって与えられるはずの境界を、その語が表す概念は持たない、と暗に述べられています。このことは岩波版の訳「単語の使い方は規制されていない」で読者に伝わらないとは言いませんが、もっとストレートに「単語の使い方にルールはない」と訳したほうがはっきり、すっきりすると思います。この問題の文の少しあとに「Regeln (ルール)」という言葉が原文に出てくることでもありますし ... 。言い換えると岩波版は「... ist nicht geregelt」 を直訳しすぎている、翻訳調になってしまっている、ということです。
(4) 「単語でやっている『ゲーム』は、規制されていない」。ここは皮肉を効かせているのだと思いますが、そのニュアンスが出ていません。これについては平凡社版でも言いましたから、これ以上は申しません。加えて疑問に感じるのは、「ゲームは規制されていない」という表現です。何だかわかったようなわからないような、ピンとこない言い回しですね。「交通は規制されていない」とか「所内での行動は規制されている」などと言えばわかりますし、自然な言い方だと思うのですが、「ゲームは規制されていない」とはどういうことでしょうか。この訳からは、ゲームを無制限に、時間を気にせずやってよい、というようなことをイメージしてしまいますが、もちろんそういう話ではありません。ここで本来言われていることは「ゲームならルールがあるはずなのに、ゲームにルールがないことになってしまう」ということだと思います。ならば「ゲームなのにルールがない」などなどと訳したほうがいいと思います。
(5) 「あらゆるところがルールで縛られているわけではない」。原文は「Es ist nicht überall von Regeln begrenzt」。Es の解釈は別にして「縛られているわけではない」という訳語について感じたことがあります。これはうまいこなれた訳だと言えそうですが、begrenzt は動詞 begrenzen (制限する、境界を定める) の過去分詞で、境界を意味する名詞 Grenze と関係があり、今の動詞はその受動態の否定形になっています。そこで「制限されていない」とか「縛られていない」と訳せばよさそうに思いますが、現在問題となっているのは概念の適用範囲に境界があるかどうかであるので、境界を彷彿させる訳語のほうがふさわしいと私には感じられます。「縛られていない」はこなれていますが、ちょっと離れすぎていると感じられるのです。まぁ「縛られていない」でもいいんですけれどもね。うまい訳と言えばうまい訳ですし、私の思い付かなかった訳です。
(6) 「テニスでは」。この語で始まる文の先頭に、原文ではカッコ » « で括られたセリフに反対する意味の aber があるのですが、この語の意味またはニュアンスが訳に反映されていないと思います。これも、まぁ反映されていなくても、大して問題ではないんですけれどもね。
講談社版
引用は77-79ページからです。傍点は下線で記します。
ここでも疑問点を述べます。
(1) 「互いに関連する諸概念」。原文は「miteinander verwandten Begriffe」。ここで verwandten をなぜ「関連する」と訳すのか、とても不思議に感じます。この語に「関連する」という意味はもちろんありますが、この語には「似た、類似した」というよく知られた意味があり、訳者の先生も当然ご存じのはずです。今、家族的類似性が話題になっているところでわざわざ「関連する」という訳語を選択し、「類似した」という訳語を避けるのには何か深いわけがあるのでしょうか。Wittgenstein の哲学の専門家である訳者の先生のことですから、実際何か深いわけがあってのことなのかもしれません。そうだとしても、ちょっと深すぎるというか、うがちすぎというか、ここは普通に「似た」などと訳せばいいように思うのですが。あるいはそんなに深いわけがあるのではなく、家族的類似性に関する文脈を脇に置くとすると、たぶん先生にとっては「関連する」のほうが自然な訳であり、基数、有理数、実数などは別に互いに似ているわけではないと考えられて、それで「関連する」という訳語を採用されたのかもしれませんが。
(2) 「概念の名として」。「名」は「Bezeichnung」の訳。私は Wittgenstein の哲学の専門家ではないのでよく知らないのですが、概念を表す言語表現は、Wittgenstein にとり、名、名前、名称と言っていいのでしょうか。Wittgenstein は、名前とは何か、述語とは何か、文とは何か、それらの違いは如何などなどを細かくしつこく検討していたと思うのですが、「Bezeichnung」に名前の意味はあるものの、Wittgenstein の著作中で、概念の Bezeichnung をよく考えず、不用意に「名前」と訳してしまったらまずいかもしれないと思い、私はこのドイツ語をニュートラルに「記号」と訳してみたのですが、「名」で大丈夫なのでしょうか。大丈夫ならいいんですけれど。
(3) 「その言葉を用いて我々が行っている「ゲーム」は規則立っていないことになる」。既に何度か申し上げましたが、これでは皮肉が効いた訳になっていないと思います。それに「「ゲーム」は規則立っていない」という表現も「ゲームが規則立っているとか規則立ってないとか、それはどういうことなんだろうか?」と思ってしまいます。ちょっと見かけない言い回しですね。明らかに翻訳調になってしまっています。「「ゲーム」は規則立っていない」 とは不自然な言い方ですが、「たぶん「ゲーム」にはルールがないとか、それはルールによってきちんと規定されていないとか、そういうことなんだろうな」とおそらく正しく推測できるでしょうが、ニ、三度読み返してしまいます。まぁ、私の訳も繰り返し読み返さないとわからない言い回しがところどころ出ていたかもしれませんので、あまり人のことは言えませんが。
(4) 「それはあらゆる点について規則によって決められているわけではない」。既に前にも述べましたが、ここの「決められている」の原語は「begrenzt」で、境界に関連する語であり、境界のあるなしが今問題となっているので、直球で「決められている」とするのではなく、境界という意味が示唆されるような訳が望ましいと私には思えます。まぁ「決められる」でいいんですけれど。私の話は細かすぎるかもしれませんね。(でも、正確、精密に原文を読み込み、最大限、その意味を日本語ですくい上げ翻訳するには、当然これぐらいは細かく読み込まなければならないと、そのようにも思います。)
(5) 「どれだけの高さまでならボールを上に打ってもよいか」。「打って」の訳は別にして、「どれだけ高く」とは訳されているものの、「どれだけ強く (stark)」の stark の訳が抜けています。あるいは講談社版の原典には stark はなかったのかもしれませんが。
終わりに
これで終わります。私の話に誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いなどがあったかもしれません。言及したものの他にも誤訳や悪訳があったかもしれません。そのようでしたらお詫び致します。すみません。訳者の先生方の訳文からは今回も勉強させてもらいました。ありがとうございます。
私が稚拙な誤訳を繰り返していることに自分でも少々あきれております。でも、まぁ、諦めずにやり続けるしかないですね。語学で力を付けるのには長大な時間がかかりますが、それは仕方のないことです。一方語学を怠って力を落とすのは、アッという間ですからね。坂道を転げ落ちるように、すぐさますっかり忘れてしまいます。そう言えば確かにいろいろと忘れているな。何を忘れてしまったかは聞かないでください。そもそもよく思い出せないので。それではまた。
*1:ここをもっと直訳すると以下のようになります。「要するに君にとって数の概念はそのように、次のそれぞれ互いに類似した諸概念である基数、有理数、実数などの論理的和として説明され、そして同様にしてゲームの概念も一致するところのある部分概念たちの論理的和としてそうされるのだ」。
*2:ここをもっと直訳すると「概念の外延が一本の境界線によって閉じられることなく」となります。
*3:普通に直訳すると「君はどれか線を引くことはできる」となります。
*4:この丸括弧内を直訳すれば、以下のようになります。「(しかし君が「ゲーム」という語を使った時、そのことが君を煩わせたことはいまだ決してない。)」
*5:このセリフを直訳すると、以下のようになります。「しかしそうするとその語の使用は規制されないことになるね。つまり我々がそれでもってゲームをしている「ゲーム」は規制されない」。