Selbstdenken, Part II.

目次

 

はじめに

Arthur SchopenhauerSelbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読む続きです。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただいた邦訳や、その他の注意事項についてはすべて Part I に記してあります。そのため、以下を読まれる前には必ず Part I (の基本情報、注意事項) をご覧ください。

 

ドイツ語原文

私訳を作ったあと各種邦訳を見て、私が誤訳していないかどうか確認していた時に気がついたのですが、今回引用した以下のドイツ語文には §. 258 の終わりあたりで一部文章の脱落があるようです。しかし脱落したまま引用し、私訳もそのまま以下のドイツ語文から訳しています。

 

§. 258.

Die Verschiedenheit zwischen der Wirkung, welche das Selbstdenken, und der, welche das Lesen auf den Geist hat, ist unglaublich groß; daher sie die ursprüngliche Verschiedenheit der Köpfe, vermöge welcher man zum Einen, oder zum Andern getrieben wird, noch immerfort vergrößert. Das Lesen nämlich zwingt dem Geiste Gedanken auf, die der Richtung und Stimmung, welche er für den Augenblick hat, so fremd und heterogen sind, wie das Petschaft dem Lack, welchem es sein Siegel aufdrückt. Der Geist erleidet dabei totalen Zwang von außen, jetzt Dies, oder Jenes zu denken, wozu er soeben gar keinen Trieb, noch Stimmung hat. – Hingegen beim Selbstdenken folgt er seinem selbsteigenen Triebe, wie diesen für den Augenblick entweder die äußere Umgebung, oder irgend eine Erinnerung näher bestimmt hat. Die anschauliche Umgebung nämlich dringt dem Geiste nicht einen bestimmten Gedanken auf, wie das Lesen; sondern giebt ihm bloß Stoff und Anlaß zu denken was seiner Natur und gegenwärtigen Stimmung gemäß ist. – Daher nun nimmt das viele Lesen dem Geiste alle Elasticität; wie ein fortdauernd drückendes Gewicht sie einer Springfeder nimmt. Dies ist der Grund, warum die Gelehrsamkeit die meisten Menschen noch geistloser und einfältiger macht, als sie schon von Natur sind.

 

§. 259.

Im Grunde haben nur die eigenen Grundgedanken Wahrheit und Leben: denn nur sie versteht man recht eigentlich und ganz. Fremde, gelesene Gedanken sind die Ueberbleibsel eines fremden Mahles, die abgelegten Kleider eines fremden Gastes.

Zum eigenen, in uns aufsteigenden Gedanken verhält der fremde, gelesene, sich wie der Abdruck einer Pflanze der Vorwelt im Stein zur blühenden Pflanze des Frühlings.

 

ドイツ語文法事項

わかりにくい、間違いやすいところだけ、コメントを入れます。

der Wirkung, ... auf den Geist hat: eine Wirkung auf 〜 haben で「〜に影響を与える」。ここの部分には省略が多々あります。省略せずに書くと次のようになります。der Wirkung, welche das Selbstdenken auf den Geist hat und der Wirkung, welche das Lesen auf den Geist hat.

daher sie ... : この文はわかりにくいかもしれません。私にはわかりにくかったです。まず、sie が主語で Wirkung を指します。die ursprüngliche ... Köpfe が4格です。動詞は文末の vergrößert です。vermöge は前置詞で2格を取り、welcher はその2格の関係代名詞で先行詞は die ursprüngliche Verschiedenheit です。zum Einen, oder zum Andern は気をつけなければなりません。一見「任意のあること、または別のこと」のように見えますが、zum のところで定冠詞 dem が隠れていることに要注意です。そのため任意のことが言われているのではなく、「そのうちの一方または他方」を意味し、これは文脈から言って「一方の自分で考えること、または他方の読書」のことを表します。なお、vermöge は動詞 vermögen のように見え、その接続法第一式のように感じられます。私は当初なぜ文中第二位の位置でもないここで vermögen が出てくるのか、しかもなぜその接続法第一式が使われているのか、首をひねりました。ここでは要望の類いを意味しているはずはないので、接続法第一式であるのは ich denke, dass などの何らかの主文が省略された間接文だからか、とも考えたのですが、その種の主文がここで省略されているというのも妙な気がしました。それになぜ vermöge のあとに関係代名詞が来ているのか、関係代名詞なのに直前にコンマがないのはなぜかと考え込んでしまいました。しかし vermögen の接続法第一式がここで使われているのだとすると、このあとのほうに出てくるのは zu 不定詞のはずなのにそれがなく、仮にただの不定詞が出てくるのだとしても文末の vergrößert が不定形になっていないことに気がつかねばなりません。私はそれに気がつかず、観念して辞書を開き vermögen を見ると、そのすぐ上の項目に vermöge とあって前置詞と書いてあり、「そう言えばそんなのもあったっけな」と合点がいき、ようやく疑問が氷解しました。ただし、一つだけまだ疑問が残っており、それはなぜ定動詞の vergrößert が文中の第二位ではなく文末にあるのか、という点です。文頭の daher が接続詞だとすると納得できるのですが、daher は副詞なので、なぜ定動詞が文末にあるのか、よくわかりません。推測ですが、この文が書かれた当時は daher は接続詞としても使われていたのか、それともそうではなく、Schopenhauer が接続詞と誤解して定動詞を文末に思わず置いてしまったのか、そのどちらかではないかと想像するのですが。何にせよ間違っていましたらすみません。

Gedanken auf, die der Richtung und Stimmung, welche er: die は複数1格で先行詞は Gedanken、この Gedanken は男性弱変化名詞ではないものの、それに準ずる名詞で複数4格、der は女性3格で「〜にとって」という主体を明示する意味、welche は関係代名詞女性4格または複数4格で先行詞は Richtung und Stimmung、er は Geist を指します。

wie das Petschaft dem Lack, welchem es sein Siegel aufdrückt: これは中世ヨーロッパによくあった、封蝋に印鑑で印を押して封をすることを言っています。補足しながら直訳すると「印鑑が、そのしるしを蝋に押し付ける、その蝋とは異質でよそよそしいように」。es は das Petschaft を指し、welchem の先行詞は Lack になっています。

jetzt Dies, oder Jenes zu denken: この zu 不定詞は前の Zwang にかかる形容詞的用法。直訳すると「その時点でこれやあれやを考えるよう (強制すること)」。

wozu er soeben gar keinen Trieb, noch Stimmung hat: wozu は前置詞 zu と関係代名詞の結合形で、そのwo- の先行詞は Dies, oder Jenes であり、「これやあれやについては」、「これやあれやに対し」の意味。keinen Trieb と Stimmung は同格。

Triebe, wie diesen ... entweder ..., oder ... näher bestimmt hat: 関係文はそのうちに何らかの語句を欠く不完全な文をしており、wie 以下の文は完全な文の形をしているのですが、この wie は関係代名詞の一種と考えられます。この種の関係代名詞はそれ以下の文に1格か4格の代名詞を含んでいるのが特徴で、それに当たるのが diesenであり、これは指示代名詞男性4格で、前の Triebe を指します。このような wie を個人的に「擬似関係代名詞」と呼んでいます。なお wie 以下の文の主語は entweder ..., oder ... で、näher は直前の名詞 Erinnerung にかかる形容詞。形容詞なのに näher に格語尾が付いていないのは、形容詞が後ろから名詞にかかる場合にはそれが付かないためです。

bloß Stoff und Anlaß zu denken was ... ist: 私はここを誤訳してしまいました。was ... ist の was が何なのか理解できず、直前にコンマはないものの、前方の語句の内容を指す関係代名詞だと無理やり解したのですが間違いでした。私はこう誤訳しました。「考えるべき素材と機会にすぎず、それら素材と機会は ... なものなのである」。これは誤読です。ここの原文を次のように標準的な形に書き直すと正しい解釈がすぐ出てきます。bloß Stoff und Anlaß, was ... ist zu denken. これならこの zu 不定詞は Stoff und Anlaßにかかる形容詞的用法だとすぐわかりますね。意味は「... であることを考えるための単なる素材と機会」です。was 以下が後ろに回っているんですね。ただこれだけで誤訳してしまうドイツ語は本当に難しいです。

das viele Lesen dem Geiste: この dem Geiste は典型的な奪格としての3格で、意味は「その精神から」。このあとに出てくる einer Springfeder も奪格としての3格で「バネから」の意味。

als sie schon von Natur sind: sie が1格で die meisten Menschen を指し、いわゆる補語がここでは省略されていて、それは geistlos und einfältig だと考えられます。直訳すると「大抵の人々が元々既に意見を持たず単純であることよりもさらに」みたいな感じです。

Zum eigenen, in uns ... : ここではたまに見かける構文が使われており、それは「sich4 zu 3格 wie 〜 verhalten (1格)」であって、意味は「1格が3格に対して持つ関係は、〜 における関係と等しい」、「1格と3格とは 〜 のようなものである」です。ここでその1格とは「der fremde, gelesene」であり、3格とは「(de)m eigenen, in uns aufsteigenden Gedanken」です。なお、今言及した1格のあとには Gedanke が省略されています。そのことは、前で「Fremde, gelesene Gedanken sind die Ueberbleibsel ... 」とあったことからわかります。「Zum eigenen, in uns ... 」の文を直訳すると次のようになります。「我々の心の内に湧き上がってくる自分の考えに対する、読書で得られる他人の考えの関係は、石に残った太古の植物の痕跡の、春の花咲く植物の関係に等しい」。

 

意訳

自然な日本語になることを最優先にして訳しています。

 

§.258.

自分で考えることと読書が精神に与える影響は、信じられないほど大きく異なる。それゆえ、生来自分で考えることを好んでする人と読書を好んでする人の頭の違いはますます絶えず開いていくのである。つまり読書というのは、その時に抱いている気分や傾向にとって異質でよそよそしいことを考えるよう精神に強制するものなのであり、それは印鑑でそれとは異質な蝋 (ろう) に封印のしるしを付けるようなものであって、その際まったく気の進まない、乗り気になれないことについて、あれこれ考えるよう外からすっかり強制することなのである。ー これに対して自分で考える場合には自分自身が持っている欲求に従っており、この欲求はその時の身の回りの出来事か、つい最近の何らかの記憶から出てきたものである。つまり目にしている回りの出来事はある一つの特定のことを考えるよう、読書が強いるようには、精神に強いるものではなく、むしろその人の本性とその時の気分に合ったことを考えるための素材ときっかけを提供するだけなのである。ー それゆえたくさん読書すると精神から [いろいろと考えを深めていく] 柔軟性が一切奪われてしまうのである。それは絶えず重しをかけて抑えつけておくとバネから柔軟な反発力が奪われてしまうようにである。こういうわけで元々意見のない単純な大抵の人たちは、[読書により] 物知りになろうとしてますます自分の考えのない単細胞な人になっていくのである。

 

§.259.

つまるところ、自分で根本的に考えたことだけが自分にとって生きたものとなり真実となるのである。というのも、そもそもそれしか正しく完全には理解することができないからである。読書で得られる他人の考えは他人の食事の食べ残しであり、他のお客が脱ぎ捨てていった服なのだ。

我々の心の内に湧き上がってくる自分の考えと、読書で得られる他人の考えとは、まるで異なる。それは、春に花咲く植物が化石と化した太古の植物とまるで異なるのと同様である。

 

訳文比較

今回扱ったドイツ語文のうち最後の文は、参照した三つの邦訳および私訳の間で各々少しずつ違っているので、読み比べると面白いかもしれません。そこで参考までにそれらをすべて以下に引用して並べてみましょう。

 

原文は次でした。

Zum eigenen, in uns aufsteigenden Gedanken verhält der fremde, gelesene, sich wie der Abdruck einer Pflanze der Vorwelt im Stein zur blühenden Pflanze des Frühlings.

 

最初は白水社版です。64ページから引用します。

書物から読みとった他人の思想が、われわれの胸のうちにわいてくる自分自身の思想に対する関係は、化石に残された太古の植物の痕跡が、満開の花をつけた春の植物に対するのと同じである。

 

次に私訳です。ちなみに私訳は他の訳をまったく見ずに訳し、訳したあとも他の訳を参考に手を加えるということをまったくしていません。

我々の心の内に湧き上がってくる自分の考えと、読書で得られる他人の考えとは、まるで異なる。それは、春に花咲く植物が化石と化した太古の植物とまるで異なるのと同様である。

 

今度は光文社古典新訳文庫版です。11ページから引用します。

私たち自身の内部からあふれ出る考えを、いわば咲き誇る春の花とすれば、本から読みとった他人の考えは、化石に痕 (あと) をとどめる太古の植物のようなものだ。

 

最後に岩波文庫版です。8ページから引用します。

我々自身の精神の中にもえいでる思想はいわば花盛りの春の花であり、それに比べれば他人の本から読みとった思想は石にその痕 (あと) をとどめる太古の花のようなものである。

 

それぞれちょっとずつ違いますね。たぶん白水社版が一番原文から離れずにいるように感じます。それに対して岩波版が相対的に言って一番離れているかなと感じます。そしてこの岩波版に近いのが光文社版のように思います。私訳は補足が含まれていますが、光文社版よりは原文に近く、白水社版よりは遠い気がします。

このように見ると、この箇所について原文からの遠近は次のようになるのではないかなと個人的には感じます。すなわち

原文 < 白水社版 < 私訳 < 光文社版 < 岩波版

です。皆さまはどのようにお感じになられたでしょうか?

なお、この遠近関係は各翻訳の良し悪しや、原文に対する訳の正確さを私は言っているのではありません。念のため、言い添えておきます。

 

終わりに

今日は以上です。いつものように誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いがあったかもしれません。誤訳、悪訳、拙劣な訳もあったことだと思います。これらすべての不備にお詫び申し上げます。どうかお許しください。