Selbstdenken, Part I.

目次

 

はじめに

Kafka の Die Verwandlung (変身) をしばらくのあいだ読んできました。文学作品の読解が続きましたので、哲学方面にちょっと戻りたいと思います。

今日からは Arthur SchopenhauerSelbstdenken (自分で考えるということ) を読んでみます。これは哲学そのものというよりも、哲学的エッセイという感じの著作かもしれません。

さて、次のサイトに載っている text を原文として使用させていただきます。

https://aboq.org/schopenhauer/parerga2/selbstdenken.htm.

原文入力の手間が省けて助かります。大変ありがとうございます。

今まで私は当ブログでドイツ語やフランス語を読む際、かなり詳しい文法説明を行い、細かい直訳や逐語訳を付け、なおかつ既刊の邦訳を何種類も掲載してきました。

そのため、毎回話がすごく長くなる傾向がありました。それぞれの話はボリュームがあったので読み応えはあったでしょうが、大変くどいものだったので読まずにスルーしていた方もおられたと思います。

そこで Selbstdenken についてはもう少し軽めに扱いたいと思います。

以下ではドイツ語原文を掲げ、ちょっとだけ文法を解説し、私訳として意訳を提示します。これだけにして、読みやすくしておきます。

私訳作成の際には次の邦訳を参考にさせてもらいました。

・ショウペンハウエル  「思索」、『読書について』、斎藤忍随訳、岩波文庫岩波書店、1983年、

ショーペンハウアー  「自分で考えること」、『随感録』、秋山英夫訳、白水社、1993/2023年、

ショーペンハウアー  「自分の頭で考える」、『読書について』、鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、光文社、2013年。

ただし、いつものように、まずは邦訳を見ずに自力で私訳を作り、そのあとで私が誤訳していないか、確認するために上記邦訳を参照させていただきました。誤訳していた場合には、皆さまの参考に供するため、その旨しかるべきところで注記しています。訳者の先生方にあらかじめ感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

なお、そうは言いましても、私の誤訳ではないものの、先生方と解釈が異なる場合、当方の解釈を優先させたこともあります。生意気なことをしましてすみません。お許しください。

 

ドイツ語原文

以下に掲載するドイツ語と、上の既刊各邦訳が底本にしているドイツ語原文とが、まったく同一物なのかどうか、私は確認を取っておりません。そのため、各自異なったドイツ語を元に翻訳がなされているかもしれず、その結果、各々微妙に訳文がずれていることがあるかもしれません。この点、お含みおきください。

§. 257.

Wie die zahlreichste Bibliothek, wenn ungeordnet, nicht so viel Nutzen schafft, als eine sehr mäßige, aber wohlgeordnete; eben so ist die größte Menge von Kenntnissen, wenn nicht eigenes Denken sie durchgearbeitet hat, viel weniger werth, als eine weit geringere, die aber vielfältig durchdacht worden. Denn erst durch das allseitige Kombiniren Dessen, was man weiß, durch das Vergleichen jeder Wahrheit mit jeder andern, eignet man sein eigenes Wissen sich vollständig an und bekommt es in seine Gewalt. Durchdenken kann man nur was man weiß; daher man etwas lernen soll: aber man weiß auch nur, was man durchdacht hat.

Nun aber kann man sich zwar willkürlich appliciren auf Lesen und Lernen; auf das Denken hingegen eigentlich nicht. Dieses nämlich muß, wie das Feuer durch einen Luftzug, angefacht und unterhalten werden durch irgend ein Interesse am Gegenstande desselben; welches entweder ein rein objektives, oder aber bloß ein subjektives seyn mag. Das letztere ist allein bei unsern persönlichen Angelegenheiten vorhanden; das erstere aber nur für die von Natur denkenden Köpfe, denen das Denken so natürlich ist, wie das Athmen, welche aber sehr selten sind. Daher ist es mit den meisten Gelehrten so wenig.

 

ドイツ語文法事項

私による文法解説を添えておきます。くどくなるので、読者にとってたぶんわかりにくいと思われるところだけ、あるいは気をつけたほうがよいと考えられるところだけ、解説を付けておきます。初歩的なことの大部分は記しません。

 

Wie die zahlreichste Bibliothek: この wie は強意の認容のことで「どんなに〜でも」という意味。Wie がこの意味の時は定動詞後置になります。その定動詞は schafft で、後置になっていないように見えますが、それは als eine sehr ... が枠外に置かれているためです。ちなみに die zahlreichste は最上級は最上級でも絶対最上級。このあとに出てくる die größte Menge も同様です。

wenn ungeordnet: これは「wenn sie ungeordnet ist」の略。この ist は sei でもよさそうですが、これと同種の表現がこのあとに出ていて、そこでは「wenn nicht ... durchgearbeitet hat」となっていて、hat が使われているので、略されているのは直説法の ist だと解するのが妥当でしょう。

eine weit geringere, die aber vielfältig durchdacht worden: geringere のあとで Menge von Kenntnissen が省略されています。そして die は関係代名詞複数1格で、先行詞は Kenntnisse。さらに、worden のあとで sind が省略されています。

Kombiniren Dessen, was man weiß: Dessen は指示代名詞中性2格で、直後の不定関係代名詞 was の先行詞になっています。Dessen 以下を直訳すると「人が知っていることのその」。Kombiniren は直訳すると「組み合わせ」なので、これら全部を合わせて直訳すると「人が知っていることのその組み合わせ」。ただし Kombiniren には「推論」の意味もあり、ここでは「推論」という訳語を使った方が適切なので、もう一度直訳し直すとここは「人が知っていることのその推論」となります。なお、前提となる文をいくつか「組み合わせる」と結論が出てくるのが推論なので、そのようなわけから Kombiniren には「推論」の意味もあるのだろうと推測します。

Durchdenken kann man nur was man weiß; ( ... ) aber man weiß auch nur, was man durchdacht hat.: この二つの文は対比が効いていて印象的ですが、論理的に考えると、私にはどうもよくわかりません。直訳すると以下になります。「考え抜くことができるのは知っていることだけである。しかしまた知っているのは考え抜いたことだけなのだ」。ここではたぶん次のようなことが言われているのではないかと私は推測します。つまり「考え抜くことができるためにはその前に、何事かを知っていなければならない。しかし何事かを知るためにはその前に、その何事かについて考え抜くことができていなければならない。すなわち考え抜く前に知識が必要なのだが、しかし知識を得る前には考え抜くことが必要なのだ」。これは「ニワトリが先か、卵が先か」というような感じの話ではないかと思うのですが、さてどうでしょうか。

daher man etwas lernen soll:: 私はこの文を当初、誤訳していたようです。etwas の実質的な内容はコーロン以下の文で述べられているのだろうと私は解したのですが、三つの既刊邦訳を見るとどれも私のような深読みはせず単に「それゆえ人は何事かを学ばねばならない」という意味合いで訳されていました。ここから次のように解釈できます。知るためには考え抜かねばならないが、考え抜くためには、その考え抜こうとしていることについて、何ほどかでも知っている必要があるので、「それゆえ人は何事かを学び、事前にいくらかでも知っておかなければならない」。そこでこのような趣旨で私訳を修正してここに提示しておきました。

sich ... appliciren auf Lesen und Lernen: 「4格 + auf 3格 + appliciren/applizieren」で「(4格) を (3格) に適用する」。特にこの4格に sich の4格を使うと「(3格) に努める、熱心に (3格) する」。「Lesen und Lernen」は二語一想と私は判断し、そのつもりで私訳を作りました。間違っていましたらすみません。

Gegenstande desselben: 「名詞 + derselben」とあれば、desselben のあとに既出の名詞が省略されていて、「その (既出名詞) の (名詞)」と訳されます。ここで省略されているのは中性単数名詞 Denken です。そうするとこの部分の直訳は「その思考の対象」となります。

welches entweder: welches は関係代名詞中性1格ですが、私はこの先行詞を誤読していました。私はてっきりこの先行詞は省略されている Denken だと思ったのですが、既刊邦訳はいずれも Interesse を先行詞と解しており、考えてみればその通りなので、その線で私の訳は修正しておきました。ご教示をありがとうございます。

 

意訳

私訳として意訳を掲げます。

必要とあれば、原文に対応する語がなくても、補足を入れて訳しています。自然な日本語、一読してわかる日本語にするために、許容範囲内と考えられる限りで、表現を加味しているところがあります。

逆に、原文に出ているすべての語の意味をすくい上げて全部訳出するということもしていません。自然な日本語にならなければ、細かな語は訳すのを省いています。

ただし述べられていることの核だけは必ず訳し出したつもりです。その上で、できるだけ自然な日本語、一読して意味が読み取れる日本語になるよう試みました。試みはしましたが、うまくいったという自信はありません。読者の皆さまのご寛恕を請う次第です。

 

§. 257.

どれほど多く蔵書を持っていても、整理整頓されていなければ、少ないながらもよく整理された蔵書ほどには役に立たない。同様に、極めて多くの知識を持っていても、自分でそれらをよくよく考えてみたことがないならば、ずっと少ないながらも色々と考え抜かれた知識ほどには価値はない。というのも、知っていることをあらゆる面から考えてみて初めて、つまり、あらゆる真理を他のあらゆる真理と比べてみて初めて、人は完全に自分のものとして知識をものにできるからであり、それを自分の支配下に置くことができるからである。考え抜くことができるのは知っていることだけである。したがって考え抜くことができるためには物事を学び、知っていなければならない。しかし知っていると言えるのは考え抜いたことだけなのだ。

さて、漫然と本を読んで学ぶことなら確かにできる。だがそれに対して、考えるということは実際そういうわけにはいかない。というのも、火は空気を送ることによって燃え上がり燃え続けることができるように、考えるということも、考えようとしていることについて何か関心を持つことによってかき立てられ養われねばならないからである。この関心というものは、まったく客観的なものか、それとも単に主観的なものか、どちらかだろう。主観的な関心というのは、我々個人の興味の範囲内にしかないものである。しかし客観的な関心というのは、もともとおのずから考えようとする頭脳のためだけにあるものであり、そのような頭脳にとって考えることというのは息をするように自然なことなのだが、しかしそのような頭脳はほとんどない。そういうわけで大抵の学者の中にもそのような頭脳の持ち主は大変少ないのである。

 

感想

ごくごく手短に、三種類の既刊邦訳について、感じたことを述べます。

白水社版と光文社版に比べ、岩波文庫版はかなり自由闊達な訳文になっていると一読して感じます。原文の構造から大幅に離れ、その言わんとしていることをまとめ直して日本語にした、という雰囲気です。原文を一旦消化して原文の構造は忘れ、内容に沿って自然な日本語にした、とも思えます。私にとってはあまりに自由自在な訳文なので、ここまでやっていいのか、と不安になるぐらいです。この場ではその訳文を掲載しませんが、安価でもあり、現在も入手可能な文庫本ですから、読者の方は一度岩波文庫版の訳文と原文を突き合わせてみるといいかもしれません。

私はすぐ誤訳してしまいますし、また誤訳するのが怖いので、意訳といえども比較的原文に密着した訳を作ってしまいますが、岩波文庫版の訳などを見ると、「こんなふうに天翔けるが如く訳せればいいなぁ」と感じてしまいます。なんにせよ既刊邦訳は勉強になりました。ありがとうございます。

 

終わりに

今日はこれで終わります。今回は話を短くすまそうとしたのですが、ところどころ記述が長くなったところもありました。しかし今の私にはこれが限界です。これ以上は切り詰められそうにありません。これでも長く感じるようでしたら読者の皆さまにお詫び致します。

また、いつものように誤字や脱字、誤解や無理解や勘違いなどがあったことと思います。私訳にも誤訳や悪訳や拙劣な部分があったと思います。これらにもお詫びしなければなりません。大変すみません。何卒お許しください。