Selbstdenken, Part III.

目次

 

はじめに

Arthur SchopenhauerSelbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読む続きです。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただいた邦訳、その他の注意事項についてはすべて Part I に記してあります。そのため、以下を読まれる前には必ず Part I (の基本情報、注意事項) をご覧ください。

なお、今回引用する文章ではゲーテの言葉が出てくるのですが、この言葉のあとで複数のドイツ語文が脱落しているようです。しかし補うことなくそのまま引用し、のちに記す私訳も脱落箇所を補わず訳しています。

 

ドイツ語原文

§. 260.

Lesen ist ein bloßes Surrogat des eigenen Denkens. Man läßt dabei seine Gedanken von einem Andern am Gängelbande führen. Zudem taugen viele Bücher bloß, zu zeigen, wie viel Irrwege es giebt und wie arg man sich verlaufen könnte, wenn man von ihnen sich leiten ließe. Den aber der Genius leitet, d. h. der selbst denkt, freiwillig denkt, richtig denkt, – der hat die Boussole, den rechten Weg zu finden. – Lesen soll man also nur dann, wann die Quelle der eigenen Gedanken stockt; was auch beim besten Kopfe oft genug der Fall seyn wird. Hingegen die eigenen, urkräftigen Gedanken verscheuchen, um ein Buch zur Hand zu nehmen, ist Sünde wider den heiligen Geist. Man gleicht alsdann Dem, der aus der freien Natur flieht, um ein Herbarium zu besehn, oder um schöne Gegenden im Kupferstiche zu betrachten.

Wenn man auch bisweilen eine Wahrheit, eine Einsicht, die man mit vieler Mühe und langsam durch eigenes Denken und Kombiniren herausgebracht hat, hätte mit Bequemlichkeit in einem Buche ganz fertig vorfinden können; so ist sie doch hundert Mal mehr werth, wenn man sie durch eigenes Denken erlangt hat. Denn nur alsdann tritt sie als integrirender Theil, als lebendiges Glied, ein, in das ganze System unserer Gedanken, steht mit demselben in vollkommenem und festem Zusammenhange, wird mit allen ihren Gründen und Folgen verstanden, trägt die Farbe, den Farbenton, das Gepräge unsrer ganzen Denkweise, ist eben zur rechten Zeit, als das Bedürfniß derselben rege war, gekommen, sitzt daher fest und kann nicht wieder verschwinden. Demnach findet hier Göthe’s Vers,

»Was du ererbt von deinen Vätern hast, Erwirb’ es, um es zu besitzen,«

seine vollkommenste Anwendung, ja, Erklärung.

Hingegen klebt die bloß erlernte Wahrheit uns nur an, wie ein angesetztes Glied, ein falscher Zahn, eine wächserne Nase, oder höchstens wie eine rhinoplastische aus fremdem Fleische. Die durch eigenes Denken erworbene Wahrheit aber gleicht dem natürlichen Gliede: sie allein gehört uns wirklich an. Darauf beruht der Unterschied zwischen dem Denker und dem bloßen Gelehrten. Daher sieht der geistige Erwerb des Selbstdenkers aus, wie ein schönes Gemälde, das lebendig hervortritt, mit richtigem Lichte und Schatten, gehaltenem Ton, vollkommener Harmonie der Farben. Hingegen gleicht der geistige Erwerb des bloßen Gelehrten einer großen Palette, voll bunter Farben, allenfalls systematisch geordnet, aber ohne Harmonie, Zusammenhang und Bedeutung.

 

ドイツ語文法事項

わかりにくい、間違いやすいところだけ、注釈を付します。

 

Man läßt ... : この文を直訳すると大体以下になります。「人は Man その時 dabei 彼の考えを seine Gedanken 赤ちゃん用歩行ひもを付けられて am Gängelbande 他人の考えによって von einem Andern 導かれるのに führen 任せているのである läßt」。

taugen viele Bücher bloß, zu zeigen: この文の主語は viele Bücher。「zu 3格 taugen」は「(3格) に役立つ、適している」なのですが、しかし「zu 不定詞 taugen」 を「〜するのに役立つ、適している」という意味とする用法が、小学館と相良先生の大型独和辞典を含め、いくつかの独和辞典には載っていません。けれどもここの文では「zu 不定詞 taugen」 は「〜するのに役立つ、適している」という意味以外には考えられませんので、ここの部分はそのような意味に解しておきます。今回参照した既刊邦訳も三種類とも同じように解しています。

wie arg man ... , wenn man ... : これらの man は具体的には誰を指しているのでしょうか。私は当初、前者の man は著者、後者は読者かと思いましたが、私訳作成後、三つの既刊邦訳を参照してみると、どちらの man も、著者と読者双方を含む人一般を指すようだとわかりました。そこで私訳では双方を含んだ人一般のつもりで訳しています。

wenn man von ihnen sich leiten ließe: 「sich4 von 3格 leiten lassen」は「(3格) に左右される」などの意味を持つ熟語・構文として扱われることもありますが、直訳しても意味が取れます。ここをそうしてみると「人が man それら多くの本に ihnen よって von 自らを sich 導くに leiten 任せる ließe ならば wenn」。

Den aber der Genius leitet: この文の主語は der Genius で 4格は Den。この Den は人一般を指します。また、Genius は「守護神、創造的精神、天才」などの意味があるようです。私は der Genius が具体的には誰を指しているのかと考えた時、それは本の著者、才能ある著者のことだと思ったのですが、三つの既刊邦訳を見ると自分が誤読していることに気が付きました。der Genius は、一部の人々が持っている優れた精神のことを表しているようです。

d. h. der: der は関係代名詞男性1格で先行詞は Den。このあとの der hat の der も同様です。

was auch beim ... wird: was auch と来たらただちに「すわ、認容文か?」と思ってしまいますが、ここはそうではなく、auch は普通の意味の「〜もまた」であり、うしろの beim の句にかかって「〜の場合もまた」のこと。was は直前の文の内容を表しています。wird は未来ではなく推量の意。

die eigenen, ... Gedanken verscheuchen: これがこの文の主語。つまり不定詞句が主語になっています。die eigenen, ... Gedanken は不定詞 verscheuchen に対する4格です。

um ein Buch zur Hand zu nehmen: 「um ... zu 不定詞」とあれば、多くの場合、「〜するために」という目的の意味であり、ここでもその意味と解しても構わないでしょうが、「um ... zu 不定詞」 には結果の意味「その結果、〜する」もあります。ここでは前者よりも後者の意味の方が自然だと感じられるので、私は後者の意味で訳しました。光文社版も後者の意味を採用しています (岩波文庫版、白水社版は前者を採用)。このあとの「um ... zu besehn」 と「um ... zu betrachten」も同様です。

der freien Natur: これを「自由な自然」とか「無料の自然」と訳すと変です。このような変な訳になると気づいたら、すぐさま解釈を変更しなければなりません。実際、このような文脈の frei には「屋外の、野外の」という意味があります。そこで問題の語句を「屋外の自然、野外の自然」と訳せばまともな訳になることがわかります。これでうまくいきます。

Wenn man auch: こちらの wenn ... auch は認容文で「たとえ〜だとしても」の意味。

eine Wahrheit, eine Einsicht, die man: eine Wahrheit, eine Einsicht は名詞が同格で二つ並んでいるのだと思われます。die は関係代名詞女性単数4格。単数であるのは、この関係文の枠構造を作る動詞が単数を表す hat であることからわかります。ではこの関係代名詞の先行詞はどれでしょうか。eine Wahrheit か eine Einsicht のどちらかか、その両方を一まとめに捉えたもののいずれかであると考えられます。しかし正確にはそのどれであるとも特定できないと思います。けれども、まぁ、eine Wahrheit と解するのが普通であり無難でしょうね。

Denn: 追加の理由を表すこの Denn の文は若干長く、verschwinden まで続いています。つまりここまで追加の理由が複数個に渡り述べられているわけです。この文の主語は sie であり、これは対する動詞が単数であることから女性単数だとわかります。この人称代名詞が何を指しているのかというと、これも普通は eine Wahrheit と解されるでしょう。若干長いこの文では次の動詞が出てきます。つまり tritt ... ein, steht, wird, trägt, ist, sitzt ... fest, kann の7つですが、これら全部の主語は先ほど述べた sie であり、最初の動詞 tritt ... ein 以外ではこの sie は省略されています。

als integrirender Theil, als lebendiges Glied: ここでも同格の語句が二つ並列されています。

demselben: このあとで System が省略されているか、またはこれ自身が名詞化し、System を指しています。

die Farbe, den Farbenton, das Gepräge unsrer ganzen Denkweise: ここでも名詞が同格で三つ並んでいます。そしてそれら三つ各々に2格の unsrer ganzen Denkweise がかかっています。三つそれぞれにこの2格がかかっていることは、これらどの名詞にも定冠詞が付いていることからわかります。

derselben: これもこのあとで Wahrheit が省略されているか、またはこれ自身が名詞化し、Wahrheit を指しています。

Anwendung, ja, Erklärung: これもまた同格名詞が並列されています。

ein angesetztes Glied, ein falscher Zahn, eine wächserne Nase: 三つの名詞句が同格で並んでいます。これらのあとに出てくる eine rhinoplastische aus fremdem Fleische も先の三つと同格と考えられます。

eine rhinoplastische: この直後に Nase が省略されています。

das lebendig hervortritt: das は関係代名詞中性1格。先行詞は Gemälde 。

mit richtigem ... Schatten, gehaltenem Ton, vollkommener Harmonie ... : mit のあとにそれぞれ形容詞を冠しながら名詞の類いが三つ、同格の3格で並列されています。詳しく言うと、形容詞 richtigem と名詞句 Lichte und Schatten、形容詞 gehaltenem と名詞 Ton、形容詞 vollkommener と名詞 Harmonie で、これらすべては mit の支配下にあります。

gleicht der geistige Erwerb des bloßen Gelehrten einer großen Palette: この文の主語は「der geistige Erwerb des bloßen Gelehrten」で、2格の「des bloßen Gelehrten」が1格の「der geistige Erwerb」にかかっています。動詞は gleicht であり、これは3格を従え、「(1格) は (3格) に似ている」という意味を持ちます。その3格は「einer großen Palette」です。

voll bunter Farben: 「voll + 形容詞 + 名詞」の場合、この voll 以下は通常2格です。問題の「bunter Farben」は複数2格です。

ohne Harmonie, Zusammenhang und Bedeutung: 指摘するまでもないでしょうが、ohne 以下の三つの名詞は同格で並べられています。ところで今回の引用文を読んでいて感じるのは「Schopenhauer 先生って、同格で名詞を列挙するの、好きだなぁ」ということです。手法としてはシンプルですが、意味の点では事柄の複雑さや多様性を幾分伝えることができ、簡単なやり方で複雑なことを伝える典型的な方法だと思います。

 

意訳

以下は私訳です。まずは既訳を見ず自力で訳し、その後、既刊邦訳を三種類参照して、私訳に誤訳がないか確認しました。その結果、誤訳が二箇所あったので、それは修正して提示しています。それ以外は修正していません。(私は初めの方の man と Genius について誤訳していました。これについては上の文法事項解説で述べています。)

なお、私訳は自然な日本語になることを最優先にして訳しています。そのため、原文にない言葉を補ったり、原文にある言葉でも、本旨に直接関与しないと判断されたものは訳出しなかったことがあります。このように、足したり引いたりしていますが、原文内容の主線からは外れないようにしたつもりです。

ちなみに、言うまでもないことですが、私の訳がベストであるというわけではありません。当たり前です。参考程度の訳、試訳にすぎません。

 

§.260.

読書とは自分で考える代わりに他人に考えてもらうことにすぎない。読書している時、人は自分の考えを他人に引き回されるのに任せているのである。その上、多くの本が唯一役立つのは、本に指南を請うた時、いかに多くの間違った道があり、それ故、いかに人は道に迷いやすいのか、ということを本が教えてくれるという点だけでしかない。しかし優れた精神によって指南される者は、つまり自分自身で、自発的に、ちゃんと考える者は ー 正しいルートを見つけることのできるコンパスを持っているのだ。ー 従って、読書することを求められるのは、自分の考えが湧き上がらなくなり、思考の泉が枯れた時に限るのである。こういうことは極めて優秀な頭脳の持ち主でも頻繁に起こることであろう。これとは反対に、根本にある力でもって自分で考えることを避けて本を手に取ることは、神聖なる精神に対する犯罪である。そんなことをする人は、野外の自然から逃避して植物の標本とにらめっこする人や銅版画に描かれた可愛らしい風景に目を凝らす人にそっくりだ。

多大な労力と時間をかけて自分で考え推論することにより引き出してきた真理や洞察が、もう既にすっかりわかり切ったものとして一冊の本の中に楽々と見出すことが時折できるとしても、自分で考えて得たもののほうがやはり100倍以上の価値がある。というのも、そうやって考え出した時にのみ、真理は我々が持っている考えの体系全体に、不可欠な一部として、また生きた構成要素として、組み込まれるのであり、その体系と完全かつ強固に関連付けられるからである。またその時にのみ、真理はそのあらゆる根拠と帰結とともに理解されるのであり、我々の考え方すべての特徴を刻印されるとともに、その考え方からくる精彩に富んだ色調を帯びるからである。さらにまた、そうやって考え出した真理は、それが必要とされたちょうどその時に得られたものであるが故に、しっかりと頭に入り二度と消え去ることはないために大変価値があるのである。こういうわけでここにゲーテの次の詩の、この上なく完璧な具体例が、そう、その詩の内実を説明する実例が、見られるのである。すなわち

「君が先祖から受け取ったものを手にしておくためには、それを身に付けねばならぬ」。

これとは反対に、単なるお勉強で得た真理は我々に表面的にくっついているだけのものでしかない。それは義肢や義歯、蠟製の鼻のようなものであり、あるいはせいぜい他人の身体から持ってきて整形した鼻といったところである。しかし自分で考えて身に付けた真理は元からある四肢に似ており、これだけが本来我々のものなのである。このことを基に、考える者と単なる物知りとは区別されるのだ。こうして自分で考える者が精神的に得たものは美しい絵画のように見えるのである。その絵は我々の前で生き生きとした姿を現しており、真に迫る光と影、そして落ち着いた色合いを持っていて、完璧に調和した色をしているのだ。これに対し、単なる物知りが精神的に手にしているものは大きなパレットに似ている。そこには様々な色の絵の具がいっぱい載っていて、時にはまとまりを伴って並べられていることもあるものの、しかし調和も十分に取れておらず、関連付けも不十分で、大して意味もないのである。

ちなみにここでは鼻の話が出てきますが、たぶん戦争や決闘で鼻を削がれてしまう人が時におられたのだと推測します。それで蠟製や真鍮性の鼻が作られ、装着している方がいらっしゃったのだと思います。そういうことを念頭において鼻の話は書かれているのでしょう。

また、このドイツ語文が書かれた当時はまだ臓器等の移植手術は行われていなかったみたいなので、他人の鼻を移植して整形すると読める上の話は空想上のものだと思われます。

 

終わりに

最後にちょっとだけ感想を。

参照した既刊邦訳のうち、岩波文庫版はそれにしても自由自在な訳で、こう言ってはなんですが、良い意味でも悪い意味でも感心してしまいます。

良い意味で言うと、ドイツ語文の内容を理解し、自家薬籠中の物にしてから自然な日本語に翻案しているところがあると感じられます。ドイツ語の原文が透けて見えるようなことのない、まともな日本語にしようと訳者の先生が努めておられる様子が見て取れます。

一方、きつい言い方をすると、天翔けるがごとき訳文で、ちょっと原文から離れすぎの気味がなきにしもあらずというところです。生意気なことを言ってすみません。

随分前にこの岩波文庫は読んだことがあるのですが、こんなにも自由奔放な訳だったんですね。Selbstdenken は厳格に哲学的論証を繰り出す文章から成っているわけではなく、エッセイ、随筆の一種でしょうから、原文から離れた訳も大いにありでしょうし、私訳もそうしているので、別に非難しているわけではありません。念のため。

 

本日は以上です。私がなした誤字、脱字、誤解、無理解、勘違いについて、お詫びせねばなりません。気を付けているのですが、時々やってしまいます。誤訳、悪訳、拙劣な訳も時々、あるいはしばしばやってしまいます。どうもすみません。重ねてお詫び致します。