Selbstdenken, Part IV.

目次

 

はじめに

Arthur SchopenhauerSelbstdenken (自分で考えるということ) を原文で読む続きです。

使用する原文の出典情報や参考にさせていただく邦訳や、その他の注意事項についてはすべて、以下を読まれる前に Part I をご覧ください。

 

ドイツ語原文

§. 261.

Lesen heißt mit einem fremden Kopfe, statt des eigenen, denken. Nun ist aber dem eigenen Denken, aus welchem allemal ein zusammenhängendes Ganzes, ein, wenn auch nicht streng abgeschlossenes, System sich zu entwickeln trachtet, nichts nachtheiliger, als ein, vermöge beständigen Lesens, zu starker Zufluß fremder Gedanken; weil diese, jeder einem andern Geiste entsprossen, einem andern Systeme angehörend, eine andere Farbe tragend, nie von selbst zu einem Ganzen des Denkens, des Wissens, der Einsicht und Ueberzeugung zusammenfließen, vielmehr eine leise babylonische Sprachverwirrung im Kopfe anrichten und dem Geiste, der sich mit ihnen überfüllt hat, nunmehr alle klare Einsicht benehmen und so ihn beinahe desorganisiren. Dieser Zustand ist an vielen Gelehrten wahrzunehmen und macht, daß sie an gesundem Verstande, richtigem Urtheil und praktischem Takte vielen Ungelehrten nachstehn, welche die von außen, durch Erfahrung, Gespräch und wenige Lektüre ihnen zugekommene geringe Kenntniß stets dem eigenen Denken untergeordnet und einverleibt haben. Eben Dieses nun thut, nach einem größern Maaßstabe, auch der wissenschaftliche Denker. Obgleich er nämlich viele Kenntnisse nöthig hat und daher viel lesen muß; so ist doch sein Geist stark genug, dies Alles zu bewältigen, es zu assimiliren, dem Systeme seiner Gedanken einzuverleiben und es so dem organisch zusammenhängenden Ganzen seiner immer wachsenden, großartigen Einsicht unterzuordnen; wobei sein eigenes Denken, wie der Grundbaß der Orgel, stets Alles beherrscht und nie von fremden Tönen übertäubt wird, wie Dies hingegen der Fall ist in den bloß polyhistorischen Köpfen, in welchen gleichsam Musikfetzen aus allen Tonarten durcheinanderlaufen und der Grundton gar nicht mehr zu finden ist.

 

ドイツ語文法事項

以下の文法事項の説明では、あまりに初歩的と思えることは注記していません。

けれども今回のドイツ語文は細々としたところが多数あるので、文法説明が長くなっています。どうかお許しください。

 

statt des eigenen: 直後に Kopfes が省略されています。

Nun ist aber: 語を並べ替えてこの文の根幹を表せば「Nichts ist dem eigenen Denken nachtheiliger als ein zu starker Zufluß」であり、主語は Nichts、補語は nachtheiliger、動詞は ist です。意味は「自分で考えることにとって、あまりに激しい流入よりも不都合なことはない」となります。

aus welchem ... zu entwickeln trachtet: aus から trachtet までが関係文で、welchem の先行詞はその前の Denken。関係文中の ein zusammenhängendes Ganzes と ein ... System が同格で並んでおり、関係文中の主語になっていて、それらに対する動詞は trachtet。「wenn auch nicht streng abgeschlossenes」は挿入句で ein ... System を修飾していて、wenn auch は認容を表し、「たとえ〜であるとしても」の意味。

ein, vermöge beständigen Lesens, zu starker Zufluß: ein と Zufluß のあいだの表現は Zufluß を修飾しています。vermöge は2格を支配する前置詞で「〜のおかげで、〜の故に」などの意味。zu は比較級になっている形容詞 starker を修飾している副詞でその程度を強調しており「あまりにも〜に」などの意味。

weil: 理由を表すこの weil の文は desorganisirenまで続いています。この文の主語は diese で、これは前の複数名詞 Gedanken を指します。対する動詞は zusammenfließen です。jeder は diese の言い換えだと思われ、名詞化して男性1格になっていると考えられます。この jeder を次の三つの分詞句が修飾しています。つまり「einem andern Geiste entsprossen (他の精神に由来する)」と「einem andern Systeme angehörend (他の体系に属する)」と「eine andere Farbe tragend (他の色を帯びている)」です。ここの二つの「einem andern」はともに3格、「eine andere」は4格で、entsprossen は過去分詞、angehörend と tragend は現在分詞で、どれも直前の名詞にかかっており、分詞がうしろから前の名詞にかかる時は格変化語尾を付けません。

des Denkens, des Wissens, der Einsicht und Ueberzeugung: これら三つの句はどれも2格で同格で並んでおり、前の einem Ganzen にすべてかかっています。

vielmehr: このあとの主語は省略されていて、weil の文の主語である diese と同じです。対する動詞は anrichten と benehmen と desorganisiren の三つです。

der sich mit ihnen überfüllt hat: der は関係代名詞男性1格。先行詞は直前の Geiste。ihnen は先ほどからの diese (= 他人の考え)。

benehmen: これは「(3格) から (4格) を奪う」の意味。学習独和辞典の中には、分厚い辞典であってもこの意味が載っていないことがあるので注意。(三修社の『アクセス独和辞典 第4版』には載っていません。) ここの3格は dem Geiste、4格は alle klare Einsicht。

ihn beinahe desorganisiren: ihn は前の dem Geiste を指します。副詞の beinahe は前の代名詞 ihn にかかっているのではなく、うしろの動詞 desorganisiren にかかっているので、そのことがわかるように訳す必要があります。つまりたとえば何も考えずに「その精神をほとんど破壊する」と訳すと「その精神の大部分を破壊する」と誤読されかねないので、「その精神を危うく破壊しかねない」などなどと訳さねばなりません。

Dieser Zustand ist an vielen Gelehrten wahrzunehmen: an は、ある特徴の担い手を表しています。 その特徴とは Dieser Zustand であり、担い手は vielen Gelehrten です。つまり Dieser Zustand という特徴を vielen Gelehrten が持っているということです。ist ... wahrzunehmen は zu 不定詞 + sein 動詞を wahrnehmen に適用したものであり、wahrnehmen の受動的可能を意味します。以上をまとめて直訳すると「このような事態は多くの物知り/学識者に見られ得る」となります。

macht, daß sie: macht の主語は Dieser Zustand。macht の意味はたぶん daß 以下のことを「引き起こす」とか「もたらす」というものではないかと推測するのですが、私には確信が持てません。間違っていたらすみません。sie は1格で vielen Gelehrten を指しており、対する動詞は nachstehn で、この動詞の意味は「(1格) は (3格) に劣る」です。ここでの3格は vielen Ungelehrten です。

an gesundem Verstande, richtigem Urtheil und praktischem Takte: an 以下に三つの同格名詞句が3格で並列されています。an はいわゆる見地の an で、「〜の点で」の意味。

welche: 関係代名詞複数1格。先行詞は vielen Ungelehrten。対する動詞は untergeordnet und einverleibt haben。

die von außen, ... geringe Kenntniß: die von außen, ... geringe が Kenntniß にかかる冠飾句。Erfahrung, Gespräch und wenige Lektüre は、またしても同格名詞三つの並列。ihnen は複数3格で vielen Ungelehrten を指しています。ここを逐語訳すると「外から von außen 経験と会話と少しの読書 Erfahrung, Gespräch und wenige Lektüre によって durch 彼ら無学の者たちに ihnen 与えられた zugekommene わずかな geringe 知識 die ... Kenntniß」という感じになります。そしてこの「die von außen, ... geringe Kenntniß」全体が関係文中で4格になっています。

Eben Dieses: この Dieses は一見1格かと思えますが4格です。なぜならこのあと読み進んで行くと、der wissenschaftliche Denker が出てきて、これは明らかに1格であり、1格以外ではあり得ません。とするならば、この1格名詞句が出てきたところで初めの Dieses は1格ではなく4格だ、と判断を切り替えなければなりません。

viele Kenntnisse nöthig hat: 4格 + nöthig haben で「(4格) を必要とする」。

so ist doch sein Geist stark genug, dies Alles zu bewältigen, ... unterzuordnen: ここは次の構文が使われています。それは「S ist 形容詞 genug, zu 不定詞」で、次のように訳されます。つまり (1)「S は〜できるほど十分に (形容詞) である」、または (2)「S は十分に (形容詞) なので〜できる」です。問題の so ist doch sein Geist stark genug を (2) のパターンで逐語訳すると「その場合でも、彼の精神はやはり十分強いので」となります。ところで「やはり」とは何が「やはり」なのでしょうか? doch の基本的役割は、肯定文が否定されそうになった時、肯定に引き戻すことにあります。具体的にここでの文脈を利用して言うと、学識を持った考える人でも大量に読書をすると、思考を健全な状態に「保てない」ことになりそうですが、さすがはしっかり考えることのできる人だけあって、強靭な精神力により「やっぱり」思考を健全な状態に「保てる」のだ、ということです。「保てる」という肯定が「保てない」に否定されそうなところを「やっぱり」「保てる」のだ、と肯定に引き戻すニュアンスを出すのが doch の役割です。私訳ではこのことが読者にちゃんと伝わるようかなり「開いて」訳しています。閑話休題。「S ist 形容詞 genug, zu 不定詞」の話に帰って、原文中、この zu 不定詞は四つあり、dies Alles zu bewältigen と es zu assimiliren と einzuverleiben、それに es ... unterzuordnen です。dies Alles は viele Kenntnisse のことであり、このあと zu 不定詞に付いて出てくる二つの es も、ともに同じことを指しています。また、dem Systeme seiner Gedanken の seiner Gedanken は前の dem Systeme にかかる2格であり、dem organisch ... Ganzen seiner immer ... Einsicht の seiner ... Einsicht も2格で、前の dem ... Ganzen にかかっています。

wobei: 関係副詞 (その際)。この関係副詞文での主語は sein eigenes Denken、対する動詞は beherrscht と受動態の übertäubt wird。beherrscht の 目的語は Alles です。

wie Dies hingegen der Fall ist in ... : 「der Fall sein (1格)」で「(1格) が当てはまる」。正直に言うと、これとは別に、ここでの wie が私には今ひとつよくわかりません。深く考えなければこれはよくある従属接続詞の用法で、意味も「〜であるように」となるように思われます。その場合ここを直訳すると「それに対し、このことが ... において当てはまるように」みたいな感じになるでしょう。しかしそうすると、この副文に対する主文がないように思われます。つまり副文「かくかくがしかじかであるように」と来たら主文「まるまるもぺけぺけである」などが続くと予想されますが、その主文がないように見えます。その代わりにこの副文の後には関係文が続いているだけです。そのためこの副文の意味がうしろの関係文にうまく接続しないように感じられます。そこでこの wie の意味を「〜であるように」と素朴に解するのではなく、この wie の前におそらく etwas が省略されているのではないかと私は推測しました。実際にこのような用法があります。「wie + 名詞」が「etwas wie + 名詞 (何か (名詞) のようなもの)」の略の場合があることは、相良守峯先生監修、『独和中辞典』、研究社、1996年、1591ページの項目「wie」の (II), 接続詞の意義4を参照ください。そのようなわけで wie Dies の前に etwas を補って直訳すると「それに対し、何かこのようなことが ... に当てはまる」となります。これで話がすんなり通ります。ただし、私のこの推測が間違っでいましたらすみません。ごめんなさい。ちなみに「このようなこと」とは「自分の考えが他の音によって圧倒され、かき消されてしまうこと」です。自分で考える人はこのようなことはないのですが、単なる物知りの頭の中ではこのようなことが起こってしまっているということです。

in welchen: welchen は関係代名詞で、先行詞は前の den bloß polyhistorischen Köpfen の Köpfen。この関係文中の主語は二つあり、一つ目は Musikfetzen で、対する動詞は durcheinanderlaufen、二つ目は der Grundton で、対する動詞は zu finden ist の zu 不定詞 sein 動詞。この zu 不定詞 sein の意味は受動的可能で「〜され得る」。

 

意訳

自然な日本語になることを最優先にし、一読しただけで意味が取れることを常に意識して、原文が極力透けて見えないように訳しました。

そのため、すべての語の意味を訳文にすくい上げることは断念しています。それに一発で話の内容が読者の頭に入るようにするため、原文には現れていない表現を訳文に加えていることもあります。また、本来なら訳注に回すべきことも訳文中に繰り込んでいることがあります。

このように「足したり引いたり」していますが、それでも著者の言わんとしていることからは決して離れないようにしたつもりです。ここでの「足し引き」は以上のような意図があってのこととお考えください。

なお、自力でこの私訳を作ったあと、既刊邦訳三つを参照して自分に誤訳がないか調べてみたのですが、たぶん大過はないようなので、一切私訳に手を加えずに提示致します。それでも誤訳が残っていましたらすみません。

ちなみに今回のドイツ語文には音楽の話が出てくるのですが、私は音楽の楽理的な側面に疎いため、そのあたりで誤訳している可能性があります。が、まぁ、その楽理的な部分は大体の訳と捉えてもらえると助かります。

 

§. 261.

読書とは自分の頭で考える代わりに他人の頭で考えてもらうことを意味する。自分で考えるならば、個々の考え同士が互いに関連し合っていつも努めて全体的にまとまろうとしてくるものであり、たとえきちんとまとまっているわけではないとしても、自分の考えが一つの体系として成長してくるものである。しかしひっきりなしに読書ばかりしていると、他人の考えがあまりにも激しく流れ込んでくることになり、自分で考えることにとってはこれほどまずいことはない。というのもそれは次の理由からである。他人の考えは、どれも他人の精神から来たものであり、他人の考えの体系に属しているものであり、他人の色を帯びているものであって、自分の考えや知識の全体に、あるいは自分のなした認識や確信した内容の全体に、決してひとりでに溶け込んでくれるものではないのであって、むしろ他人の考えは、旧約聖書創世記が描くバベルの塔倒壊後のような言語的混乱を頭の中で音もなく引き起こし、他人の考えで満ちあふれた精神から今や明晰な認識のすべてを奪い取ってしまい、そのため自分の精神をほとんど破壊せんばかりとなるからまずいのである。このようなことは多くの物知りに見られることであり、この結果彼らは、健全に知性を働かせ、正しく判断し、効果的に機転を効かすという点で、物知りでない、学のない人からも劣ることになる。というのも学のない人は、自分の周りの経験により、会話により、また少しばかりの読書によって、自分たちに与えられたわずかな知識を常に自分自身の考えに包摂し組み込んで来たからである。ところでこれとちょうど同じことを、学識を持った考える人もまた、より徹底的な形で行なっているのである。つまりこの人は多くの知識を必要とし、そのためたくさん本を読まねばならないのだが、そうすると読書の弊害を被りそうなもののやはりそのようなこともなく、彼の精神は十分に力強いため、すべての知識を平らげ、吸収同化し、自らの考えの体系に組み込むことができるのである。また、彼の中では優れた認識の体系が常に成長しており、組織的に関連付けられたこの体系全体に、読書で得られた知識をすっかり包摂することができるほど彼の精神は強力なのである。このようにして知識を取り込む際、彼は自分で考えることで、パイプオルガンが奏でる三和音の最低音、つまり根音バスのごとく、常にすべてを支配し、他の音によって決して圧倒されてしまうことはないのだが、一方これとは反対に、単なる物知りの頭は圧倒されてしまい、長調やら短調やらのあらゆる調性からなっているいわば音楽の断片がその頭の中では入り乱れて駆け回り、もはや根音を見つけ出すこともまったくできないのである。

 

訳文比較

自分で私訳を作ったあと、私が誤訳していないか確認するために、既刊の邦訳三種類を見てみましたら、「おや、どういうことだろう?」と感じる翻訳文に出会いました。そこでまずその翻訳文の元となったと思われる原文を掲げ、次に「おや」と思ったその翻訳文を引用してみます。そしてその文についてコメントし、そのあと、残り二種類の既刊邦訳の当該部分を引用し、最後に私訳を掲げてみます。これにより、それぞれの訳文の違いが、若干ながら、わかると思います。

 

問題の文の前後を含めつつ原文を引用してみます。

Obgleich er nämlich viele Kenntnisse nöthig hat und daher viel lesen muß; so ist doch sein Geist stark genug, dies Alles zu bewältigen, es zu assimiliren, dem Systeme seiner Gedanken einzuverleiben und es so dem organisch zusammenhängenden Ganzen seiner immer wachsenden, großartigen Einsicht unterzuordnen;

途中まで直訳気味に訳してみると、「つまり彼は多くの知識を必要とし、そのためたくさん本を読まねばならないのだが、その場合でもやはり彼の精神は十分強靭で、これら本の知識をすべて平らげ、それを同化吸収し、それを彼の持つ思想の体系に組み込むことができるのであり、そして ... 」などとなります。これは上記引用文中の ... seiner Gedanken einzuverleiben und までを訳したものです。

さて、注目したいのは、そのあとの部分、つまり「es so dem organisch zusammenhängenden Ganzen seiner immer wachsenden, großartigen Einsicht unterzuordnen」です。

この部分の邦訳を光文社古典新訳文庫から引用してみます。私はこの邦訳に対し「おや?」と感じました。15ページから引きます。

有機的に関連づけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる

ここで問題の原文を構文解析してみましょう。まず es は4格です。4格はしばしば「~を」などと訳されます。そこで es をそのように訳すと「それを」となります。次に dem organisch zusammenhängenden Ganzen は3格です。3格はしばしば「~に」と訳されます。そこでこの dem ... Ganzen をそのように訳すと「有機的に関連している全体に」となります。次に seiner immer wachsenden, großartigen Einsicht は2格で、その前の名詞 Ganzen にかかっています。2格はしばしば「~の」と訳されます。そこでこの seiner ... Einsicht をそのように訳すと「彼の絶えず成長するすばらしい洞察の」などとなります。そしてこの2格の訳を Ganzen にかけて表現すると以下のようになります。「彼の絶えず成長するすばらしい洞察の、有機的に関連している全体に」。ここで言われているのは、次のことです。すなわち、彼の洞察は絶えず成長しているすばらしいものであって、しかもこの洞察は、有機的に関連し合いながら全体を形成している、ということです。そして最後の動詞の zu 不定詞 unterzuordnen の意味は「(4格) を (3格) に従属させること」です。以上の4格、3格、2格、動詞の zu 不定詞をまとめて直訳するとこうなります。

それを、彼の絶えず成長するすばらしい洞察の、有機的に関連している全体に、従属させること

この文の内容を簡単に説明しておきます。ここでの「それ」とは読書で得た知識のことです。また「洞察」の原語は 'Einsicht' であり、この語は広義には「知ること」、「認識」のことです。「有機的に関連している全体」とは、持っている複数の知識が互いにいわば構造化され、階層化され、それがまとまって全体を成している、というようなことです。

今述べたことを具体例を使って説明しましょう。西洋の哲学を学んだ方なら Kant の認識論を大体ではあれご存じでしょう。さて Kant の認識論を本を読んで学ぶ時、感性や悟性や理性、物自体や現象、アプリオリな判断やアポステリオリな判断などについて知ることになります。私たちはこれらのことを単にばらばらに知るのではなく、それぞれが互いにどのように関係しているのか、何が上位の概念で、何が同位・同等の概念で、何が下位の概念か、何が原因で何が結果として出てくるのか等々を理解しながら学びます。こうやっておおよそのところを理解できたなら、これらのことが頭の中でいわば構造化、階層化され、ある程度まとまりをもった全体を成していると言えるでしょう。先に述べた「彼が持っている複数の知識が互いに構造化され、階層化され、それがまとまって全体を成している」こととは、概略以上のようなことを述べています。

さて先ほど掲げた引用文のうち、「それを、彼の絶えず成長するすばらしい洞察の、有機的に関連している全体に」までを具体的に説明しました。引用文の残り「従属させること」の説明がまだですのでこれを説明しますと、ここでの「従属させる」とは、読書で得た知識を今しがた説明した知識全体のどこかに組み込んで位置付けることを言います。たとえば Kant の認識論で、新たに「自我の統覚」という言葉に出会った時、私たちはこの言葉を Kant の認識論という自分の知識全体の中にうまく組み込もうとし、それができたならば、自分の知識全体がさらに成長し拡大したことになります。

以上をまとめて問題の文を簡単に言い直すと、「読書で得た知識を、絶えず拡大しているすぐれた認識の、構造化された全体に、組み込み位置付けること」となります。

長い説明が続きましたが、ようやく光文社古典新訳文庫に戻ってくることができます。その訳を振り返ってみましょう。それはこうでした。「有機的に関連づけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる」。これを簡略的に言うと「全体を洞察に従属させる」となります。先ほどの構文解析による訳「それを洞察の全体に従属させること」とはずいぶん違いますね。どう違うのでしょうか? 光文社古典新訳文庫版では dem organisch zusammenhängenden Ganzen を3格ではなく4格と捉えているようです。しかもこの dem organisch ... の前には4格の es があるのですが、そうすると4格が二つもあることになり、これは変だと普通すぐ気が付くはずなのに、気付かずにスルーしまっているようです。それに同版では seiner immer wachsenden, großartigen Einsicht を2格ではなく3格と捉えているようです。私はこれらの点に「おや?」と思ったのです。

しかし光文社古典新訳文庫のこの部分の訳を読むと、何となく意味が通るような、何だかわかったような気になってしまうので、この訳を読んでいるだけでは「おや?」とはなかなか思わないかもしれません。

繰り返しますが、その訳はこうでした。「有機的に関連づけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる」。このうちの前半「有機的に関連づけた全体」とはある人が持つ考えや思想の全体のことだと思われます。そしてそれを「増大する壮大な洞察」に、換言すれば「拡大するすぐれた認識」に、いわば組み込むことができる、これがこの訳文でおおよそ言われていることと解せます。それはたとえば、Kant の認識論ついて自分が持っているまとまった考えを、常に拡大しつつある認識の体系に、私は組み込むことができる、などということです。このように光文社版の当該箇所を解釈できるなら、それほど引っかかりを覚えることなくわかった気になれそうであり、その結果、原文の構文解析に失敗していることに気づかず通りすぎてしまいそうです。

と、まぁ、このように述べましたものの、しかしもしかすると私の構文解析の方が間違っており、光文社古典新訳文庫版のように理解するのが正しいのかもしれません。そのようでしたらすみません。謝ります。ごめんなさい。長い説明でしたね。というのもセンシティブな話なので誤解を招かないよう注意したためです。どうかお許しください。

 

ところで問題の原文について、白水社版はどう訳しているのでしょうか。それでは白水社版の67-68ページから引きます。[ ] は引用者による補足です。

[それを] たえずひろがってゆく壮大な洞察の有機的連関をもった全体に従わせることができるのである。

これを簡略に言うと「[それを] 洞察の全体に従わせること」となり、これは先ほどの構文解析の分析結果と一致しますね。割と直訳に近いです。白水社版はここに見られるように、比較的原文から離れない訳をいつも心がけているように見えます。ただしその分、しばしば訳が硬く、翻訳調の雰囲気を醸し出していますが。

 

岩波文庫版ではどうでしょうか。その12ページから引いてみましょう。

つまりその精神はたえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料 [= 知識] をおくことができるのである。

これは結構自由な訳に感じられます。これを簡略に言うことは難しいですが、あえて言ってみると「それを洞察に従わせること」という感じになると思われます。これは光文社古典新訳文庫版にちょっと近いところがありますね。しかし「全体」はどこに行ったのだろう? 以前にも何度か指摘しましたが、岩波文庫版は文の内容を自家薬籠中の物とし、それからそれと同等の内容を達意の日本語で表現する傾向にあります。ただし訳がこなれすぎていることもあり、大胆すぎるように感じることもあるのですが。

 

最後に私訳です。

また、彼の中では優れた認識の体系が常に成長しており、組織的に関連付けられたこの体系全体に、読書で得られた知識をすっかり包摂することができる

ここの元々の直訳はこうでした。「それを、彼の絶えず成長するすばらしい洞察の、有機的に関連している全体に、従属させること」。これで十分わかりますが、少し生硬であり、翻訳調になっています。私はその点を改善するために、この直訳の前半と後半、表現「洞察の」の前後で一旦文を切り、それぞれを独立した文にして、それからそれぞれの意味内容を敷衍して訳してみたのです。こうすると翻訳臭さが減り、またここで言われていることもすんなり頭に入ってくると思いますが、どうでしょう?

 

以上を振り返ってみると、白水社版は原文に近い直訳調であり、岩波文庫版は原文から結構飛翔した意訳が多いのに対し、光文社古典新訳文庫版はどう位置付けられるでしょうか? 今回私はこの版の問題の箇所に疑問を抱きましたが、実は古典新訳文庫版は全体的に言って一番バランスの取れた訳になっていることが多いと個人的には感じます。(生意気なことを言ってすみません。) ガチガチの直訳にならず、意訳しすぎて空高く舞い上がっていることもなく、その中間を上手に切り抜けて、自然で読みやすい訳になっていることが多いと思います。今回の問題の箇所は同版には珍しいことに勇み足になっているように見えます。というわけで、古典新訳文庫版をお持ちの方は、今回の件に関してはそんなに気にしなくていいと思います。

 

それでは今回の私訳は直訳と意訳のグラデーションの間のどこに位置付けられるでしょうか? それは明らかに意訳でしょうね。ただし原文の内容自体からは離れないようにしたつもりではありますが。でもそれがうまくいっているかどうかは読者の判断にお任せします。

 

最後に、今回の既刊邦訳と私訳の計四つを、そのグラデーションに従って一つの不等式に表すとどうなるでしょうか? まず白水社版が最も原文に近いように感じられます。これに対し、岩波版かまたは私訳が相対的に最も原文の構造から離れているように思われます。そして光文社版はグラデーションの中間に位置すると感じられます。ではそれを式にしてみましょう。

原文 < 白水社版 < 光文社版< 岩波版 < 私訳

または

原文 < 白水社版 < 光文社版< 私訳 < 岩波版

私はこのように判断しました。皆さまのうち、先述の既刊邦訳をお持ちの方はお時間があるときにでもご自身で比較し、皆さまなりの判断を下してみてください。

ちなみに、この不等式はそれぞれの翻訳の良し悪し、正確、不正確を表しているものではありません。この点、ご銘記願います。

 

終わりに

これで終わります。今日も説明が長くなりましてすみません。短くしようと努めているのですが、意を尽くそうとするため、どうしても長くなってしまいます。ごめんなさい。また誤字、脱字、誤解、無理解、勘違い、誤訳、悪訳、拙劣な部分があるだろうことについてもお詫び致します。何卒お許しください。