読書

昨日Cafeで

  • 坂部恵  「カントの生涯」、有福孝岳他著、『カント全集 別巻 カント哲学案内』、岩波書店、2006年

や同書のそこここを拾い読む。また以下も同様。

  • “From Frege and Russell to Carnap: Logic and Logicism in the 1920s”, in S. Awodey and C. Klein, eds., Carnap Brought Home: The View from Jena, Chicago, Open Court, 2004

この論文の註8とこの註が付された本文の箇所では面白い話が書かれている。これは既にRussell研究者にはよく知られたことなのかもしれませんが、その部分を読むと大体以下の様である。
CarnapはRussellのPrincipiaに興味を持ち、勉強しようと思ったが本が手に入らないのでRussellに手紙を書いて本がほしいと訴えた。Russellは親切にも本を入手しようとしたがかなわない。そこでRussellはPrincipiaを自分で要約してあげて35ページにも及ぶ手紙を無名時代のCarnapへ代わりに送ってあげたという。この手紙はPittsのCarnap文庫に収められているようである。長大なPrincipiaをRussell本人が手短に説明しているということで、大変貴重であり、ぜひ読んでみたい。


今日はcafeで

  • 有福孝岳  「書簡に見る『純粋理性批判』(ならびに「批判哲学」)成立史」、有福孝岳他著、『カント全集 別巻 カント哲学案内』、岩波書店、2006年

を読む。また以下も書き込みを入れながら半分ぐらい読む。

  • Goran Sundholm “A Century of Inference: 1837-1936”, in: P. Gärdenfors, J. Wolenski, K. Kijania-Placek eds., In the Scope of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Volume Two of the 11th International Congress of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Cracow, August 1999, Springer, Synthese Library, vol. 316, 2003

 分析哲学とは何か?(美濃先生・田辺先生)

先日、次の文献を読んだが、この文献の前半部分の分析哲学の特徴づけに関して、感想 and メモ書きを記す。

  • 美濃正  「カントと分析哲学」、有福孝岳他著、『カント全集 別巻 カント哲学案内』、岩波書店、2006年

美濃先生はカントと分析哲学の関係を考察されるにあたって分析哲学とは何かをお考えになられています。その哲学が何であるかを充分に明らかにすることはできないと、半ばあきらめ気味に語られてもいます。しかし4つの特徴を記しておられます*1。簡潔に書き出すならば

    1. 科学の経験的事実を尊重
    2. 論理的に厳密、明確
    3. 問題をよく共有し合っている
    4. 活発な相互批判。

この中で先生が特に強調・尊重されているように見えるのは、2つ目の明確さです。「分析哲学」と呼ばれる哲学は明確さの点で他の哲学よりも抜きん出ているとのことです*2。しかし率直に言いまして、逆説的でかつ皮肉な感じではありますが、そもそも明確であるとは如何なることなのか、それが明確ではない気がします。意地悪な言い方かもしれません。すみません。しかしいずれにせよ私見では、何が明確であり何が明確でないかはおそらく自明ではないと思われます。ですから単に分析哲学は取り分け明確な哲学だといわれましても、何となくその通りとは思いますが、よく考えてみると色々問題が出てくるのではないかと推測され、説得力にかなり欠けると思われます*3
一方、先生は上の4つに加えて、現在の分析哲学に見られる例外的な特徴として、その哲学が英語圏の大学を中心として教育・研究の態勢が整い、研究成果の産出と自らの再生産が史上かつてないほど安定的かつグローバルに展開していることを上げておられます*4。このグローバル化の指摘には、「なるほど、そういわれればそうだ」と今さらながら気付かされました。半世紀ぐらい前と比べると、別に半世紀前は生きていないので覚えてはいませんが、圧倒的に世界に分析哲学が広まっているという感じはします。これは確かに史上初めてのことだと思います*5。ちなみに職業的哲学者の数も、おそらく史上最も多い数に上っているのではないでしょうか。なるほどね、すごい時代なのかもしれません*6
さて先生の文を読んでいまして、また先日本屋さんの店頭で本を見ていて気が付いたことがありました。次の新刊の序文を読んでいましたら、

いわゆるフランス現代思想の特徴が列挙されていました。

    1. アクチュアリティー(actuality): 普段の生活、社会、政治における現在の問題を追究
    2. 脱領域性(extraterritoriality): 哲学から精神分析、芸術理論から社会学、システム論から都市論などなど、少なくとも複数の学問領域を横断して問題を検討
    3. ラディカリズム(radicalism): 「根源的、根底的、徹底的にその問題を問うという姿勢」、「懐疑的であったり、過剰に挑戦的であったり、秩序転覆的であったりする傾向」
    4. 論争的性格(polemic): 「対立する「争点」が存在し、多くの場合論争がおこなわれ、批判と反批判がなされる」

大体このようなところです。これと分析哲学の特徴を比べてみると面白いかもしれません。つまり分析哲学とは何かではなく、分析哲学とは何でないか、から見てみようというわけです。すると確かに上記のラディカリズムが過剰にシニカルに懐疑的で挑発的であるとか、論争的性格が悪い意味でpolemicalであるということならば、上の4つの特徴はおそらくいずれもおおよそのところ分析哲学には当てはまらない特徴であろうと思われます。
分析哲学は直接的には普段の生活、社会、政治に関して新たなる世界観・未来像に類するものを提示して具体的に処方箋を書き出してやるということをしないと思います*7。また分析哲学は科学を哲学したり数学を哲学することはありますが、華やかなまでに意外な理論と別な意外な理論をぶつけてみるということをしないと思います。また感情的に懐疑的であったり、感情的に挑発したりも、普通は分析哲学はしないものと思われます。さらにその意味でスキャンダラスなゴシップ・ネタになりそうなぐらいにpolemicalになるということも、舞台裏は別として、分析哲学ではあまり見られないことかと思われます。
分析哲学の特徴づけとして、個人的に面白そうかもしれないと思うのは、社会学的観点から特徴付けてみることです。つまり私の念頭にあるのは例えばフランスの現代思想の読者層と分析哲学の読者層の違いです。前者はおそらくフランスでは特に言葉の本来の意味での知識人とその予備軍である学生・高校などの教師を主な読者層に想定して本などが書かれ、売られているのではないかと推測します*8。ここでは大学の専門的な研究者は二の次とされているわけです。それに対し分析哲学の主な読者層は、多分英米でも日本でも大学の研究者と哲学の院生・学生のみを対象とし、それ以外の人々はあまり念頭に置くことなく本などが書かれ売られているのではないでしょうか*9。これはあるいは上記のアクチュアリティーの有無からくる結果なのかもしれません。いずれにしてももしもこのような違いもあるとするのなら、何だが面白い違いだなとは、私個人は思いました。あまりこういう方向からの分析哲学の特徴づけは見たことがないので興味深いと感じます。実はこういう角度からの観察は既に充分あって私が知らないだけなのかもしれませんが…。
しかし長くなったな、まだちょっと言い足りないけどもう寝ます。おやすみなさい。

*1:美濃、121〜122ページ。

*2:美濃、131〜132ページの註3を参照。

*3:分析哲学とその明確さに関しては次の文献が大変参考になりました。長谷川吉昌、「現代論理学の誕生と哲学の変容」、『思想』、岩波書店、2003年第10号。この論文には非常に教えられるところがありました。とても面白かったです。また分析哲学とは何かについて、以下の論文も大変参考になりました。ダグフィン・フェレスダール、「分析哲学 −なにが分析哲学か、なぜ分析哲学か−」、ハンス-ヨハン・グロック編、『分析哲学の生成』、吉田謙二、新茂之、溝口隆一訳、晃洋書房、2003年 (原書1997年) 。これもとても面白かった印象があります。

*4:美濃、122〜123ページ。

*5:個人的に、分析哲学グローバル化に関してよく覚えているのは、TarskiのIntroduction … 云々という有名なlogicの入門書が、JSLのTarskiのBibliographyを見ていると、グルジア語訳されているのを見つけた時です。これはlogicの入門書ですから厳密には分析哲学そのものとはいえませんが、その密接な隣接領域と、その密接な隣接領域の人物になる文献として、グルジアにもlogicとそれに関連する分析哲学に興味を持っている人がいるかもしれないということの発見は、ちょっとした驚きでした。すごいことになったもんだと思いました。まぁグルジアの人からすれば極東の島国の人間が分析哲学に興味を持っていることの方が驚きだと言われるかもしれませんが…。

*6:備忘録: この間、次の新刊を読んでいたら、ちょっとしたことを教えられる。J.W.ハイジック編、『日本哲学の国際性 海外における受容と展望』、世界思想社、2006年。今やアメリカでは分析哲学が主流ですが、そうなったのは第二次世界大戦後と思われますけれども、そうなった社会的・政治的原因があるようです。それはマッカーシズムです。この狂乱の時代に、社会哲学や政治哲学の研究者は、特にマルクス主義系の人ならばなおさらでしたでしょうが、その胡散臭さ・危険性をとがめられ、無理に辞任に追い込まれ、研究職への就職の際も拒絶されたそうです。それに対し分析系の哲学は政治的にニュートラルで安全であろうと見なされ、積極的に雇用されたようです。このような外的な原因も北米アメリカの分析哲学主流化に力を貸していたようです。

*7:間接的には社会問題や政治の問題に分析哲学者・分析系の学生が強く関与するということはあるようです。ですから分析哲学は社会問題・政治的問題とまったく関係を持たない・考えない哲学とは言い切れないものがあると考えられます。次を参照。石黒ひで、「ウィトゲンシュタインを読む」、『現代思想』、1998年、1月号。特に36〜39ページ。

*8:北代美和子、「フランスの哲学文化2/出版社」、『理想』、645号、1990年参照。

*9:これはもちろん程度の問題です。経済的文化的に階層間格差が少ないと思われる、あるいは思われてきた日本では、英米よりは一般の市民を念頭に置かれながら本が書かれ売られているのかもしれません。