読書のまとめ: Bedeutung, Value and Truth-Value 続編

  • Gottfried Gabriel  “Fregean connection: Bedeutung, Value and Truth-Value”, in C. Wright, ed., Frege: Tradition & Influence, Basil Blackwell, 1984

この文章を以下にまとめる。4月27日の日記の再録と、後半部分の書き直しである。

このGabrielさんの文章で取り上げられている論題とは、なぜFregeは文のBedeutungを真理値Wahrheitswertとしたのか、ということである。そもそもこのような問いを発するのは、通常私たちにとって文のBedeutungを真理値とすることに違和感を感じるからだと思われる。しかしGabrielさんの報告によると、Fregeにとってはそれほどでもなかったのかもしれないようである。‘Bedeutung’のドイツ語のいみと、Fregeの受けた哲学教育(新カント派系統のドイツ哲学の学習)を考慮してみると、Fregeが文のBedeutungを真理値と結びつけた行いに、ある種の筋道を付けることができるかもしれないとのことである。

Gabrielさんによると、そもそもドイツ語の‘Bedeutung’にはimportanceといういみがあるとの指摘がTugendhatさんによってなされており、この含みをFregeの‘Bedeutung’の訳語に反映させるべきだとTugendhatさんが提案されたとのことですが*1、文の部分表現のBedeutungへのこの提案は納得がいくものの、文自身のBedeutungに対しては、Tugendhatさんの提案による説明はうまくいかないと、Gabrielさんは反論しています。その理由は、文の部分表現のBedeutungはその部分表現が含まれる文の真理値への寄与として説明されますが、その文自身のBedeutungは、何に対する寄与として説明されるか、それがわからない、というものです。

ところでGabrielさんによると、Fregeの‘Bedeutung’のいみには、technicalなものとnon-technicalなものがあるそうです。前者は私たちが普通思い浮かべるものです。例えば「我々の関数[=概念]の値は真理値である」というように、数学の関数になぞらえて理解しているものです。

これに対し、non-technicalなものは例えば「思想の一部分のBedeutungが失われると我々が解するや否や、自分たちにとり、思想は価値を失う」とか「真理を目指そうとすることこそが、我々をして意義からBedeutung[=真理値]へと向かわしめるのである」という時に理解しているBedeutungがnon-technicalなそれのようです。

このnon-technicalな、真理値といういみでのBedeutungはGabrielさんによると、価値論の脈絡の中で考えられているとのことです。もともと「真理値」という言葉はFregeが最初に使ったのではなく、新カント派のWindelbandだそうで、両人ともLotzeのもとで哲学を勉強しています。そしてこのLotzeは真理と非真理(Unwahrheit)を区別して‘value-difference(Wertunterschied)’と言っているらしい。ここから、価値に関する区別として真理が考えられているので、真とか偽とかの真理に関する区別は真理の価値に関する区別だと考えられます。つまり真理値とは真理の価値、truth-value, Wahrheitswertというわけです。

そもそもドイツ語のBedeutungにはmeaningのいみもあれば、importanceやWert(value)のいみもあり、新カント派系統の価値論の圏内にいたと思われるFregeはBedeutungのimportanceやWertの側面を強調するようにして文のBedeutungをtruth-valueとしたのかもしれません。

ところで価値や重要性は、通常は何かに関連して、あるいは何かと相対的に価値があったりなかったり、重要であったりなかったりします。そうするとFregeにとって文は真理という価値を持ちますが、何に関連して持つのでしょうか? それはその文が学問上の文かどうかに関連して価値を持つとのことです。つまり、ある文が学問上の文であるならば、真や偽などの真理に関する価値を持つというのがFregeの考えだったようです。言い換えると、文が真理の価値を持つのは、真や偽などを問題とする学問上の文である場合、またその可能性の圏内にある文である場合に限る、ということのようです。このような学問上の価値を有する可能性のある文は、FregeにとってBedeutungを持つということになります。すなわち、文がBedeutungを持つ ⇔ 文が真または偽を持ち得る、ということです。

6段落ほど前にGabrielさんによるTugendhatさんへの批判を次のように記しました。

文の部分表現のBedeutungはその部分表現が含まれる文の真理値への寄与として説明されますが、その文自身のBedeutungは、何に対する寄与として説明されるか、それがわからない

今やGabrielさんによると、この「わからない」という疑念が解消されます。彼によりますと、文自身のBedeutungが何に対する寄与として説明されるのかというと、それは学問上の目的に対する寄与として文のBedeutungが説明されます。この時、文のBedeutungは学問上の目的に対し価値を有するものとして寄与するというわけです。

Tugendhatさんはドイツ語の‘Bedeutung’にはimportanceといういみがあると指摘しました。Gabrielさんはそれにとどまらず、‘Bedeutung’にはWertといういみもあり、これらimportanceとWertとがあいまって、Lotze由来の新カント派系価値論に強化されながら真理の価値といういみでのtruth-valueに結実し、学問上の目的に資するという点で文のBedeutungはtruth-valueを持つとFregeは考えていたのだ、と推論したものと思われます。

以上が大変大まかなGabrielさんの文章のまとめ・再構成です。
この後に以上の話から私が空想したことを少し書き記す。

仮に以上のGabrielさんの主張が正しいとします。
さて私にとって真理値とは何となく数値を連想させるものでした。理系の論理学の教科書をひも解けばしばしば真理値を‘1’とか‘0’と表していますが、漠然とながら「真理値」という言葉から数値を思うことがありました。しかし上記のGabrielさんの話を読むと、真理値とは真理の値(あたい)というよりも、真理の価値のことと深い関係があるということで、真理値を数値と見なすことは、本来関係ないことか、副次的にしか関係のないことのように思われてきました。むしろ真理値とは数値や数量ではなく、量の反対とも目される質と捉える方がよいのかもしれないとも思われます。つまり真理値とは本来何らかの量ではなく質のことであると推測できるかもしれません。
そこで実際Fregeは真理値をどう表現していたかを調べてみるとよいかもしれません。彼は真理値を‘1’とか‘0’と表していたであろうか? 『概念記法』と『基本法則』の初めの方の記号の説明部分をちらっと眺めてみると、どうも真理値を‘1’とか‘0’と数字で表してはいないように見える。SB論文の文のBedeutungを説明する段でも同様であったと思う。また、そもそも記号や言葉を多義的に使用することをかなり嫌っているFregeが‘1+1=2’の‘1’と真理値の真とを同じ‘1’というように混乱を助長しかねない表現で表したとは考えにくいので、ここから予想されることは、Fregeは真理値を数字で表したことはなかったであろう、ということである。つまり彼にとって真理値は数量的なものではないし、数量的なものを連想させるものでもなかった可能性がある。
そうするとあえて言うならば、あえてではあるが、真理値は量的なものと捉えられるのではなく、どちらかといえばだが、質的なものと捉えられるかもしれない。そのように強引に考えることに、微かな根拠がまったくないとも言えないかもしれない。というのは、Fregeが影響を受けたKantの『純理』の判断表を見ると、質ということで判断の質というものが取り上げられていて、それは判断が肯定されることや否定されることとされており、これら判断の肯定/否定の組み合わせパターンについてはFregeの『概念記法』の初めの記号の説明のところで掲げられており、また上記Gabrielさんの文脈で言えば、判断の肯定や否定は文の真偽のことであるから、真理値は、Kantでいえば判断の質のことである、となる。つまり判断の質は真理値と深い関係にあるようである。もしかしてもしかすると、Fregeの真理値は、真理の量的な値(あたい)ではなく、真理の質的な価値であり、このような含みの淵源はKant判断表の判断の質に遡るのかもしれません。ちなみにKantにとって判断の量とは、全称判断や特称判断などのことのようである。
なお軽くだが、真理値を‘1’とか‘0’と数量的に最初に表したのは誰なのか、調べてみるもよくわからない。Wittgensteinの『論考』(1918年)は真理表が出てくることで有名だが、そこでは真理値を数字では表していないように見える。1921年のE.Postの例の命題論理の完全性論文も確か真理表が出てくる初期の文献として知られていると思われるが、ここでも数字では表記されていないようである。ただしPostはここで多値論理の真理表も掲げていて、こちらでは変項が使われており、ここに数が代入されるものと考えることができるとすれば、真理値を実質的には数字で表しているとも解せるのかもしれないが、詳細はこのPost論文をよく読んでいないのでわからない。また真理表を考えた先駆者としてはC.S.Peirceが知られているが、彼がどのように真理表を表し、真理値を表現していたかは、まだ調べていない。さらに1929年に出たLukasiewiczの有名な論理学の教科書では、邦訳を見るとはっきりと真理値が数字で表してある例を見ることができる。ちなみに論理記号の初出情報をしばしば伝えてくれる便利な本としてChurchのLogicの教科書があるが、そこを見てもどうやら真理値を数字として表すことは便利であるとは述べてあるものの、その初出は記されていないようである。いずれにしても予想されることは、真理値を数字で表す流儀は論理代数派がuniversalなクラスを‘1’と表したりnull classを‘0’と表したりすることに由来するであろうから、この論理代数派の系統を調べてゆけば最初に真理値を数字で表した人にたどり着けるのではないかと推測される。少なくとも個人的にはそう感じる次第である…。