読書メモ: Peter Hylton “The Theory of Descriptions”

次を読んで大変面白く感じたので、そのことを記しておく。

  • Peter Hylton  “The Theory of Descriptions”, in: N. Griffin ed., The Cambridge Companion to Bertrand Russell, Cambridge University Press, 2003

これ*1を読んで意外に感じたことが二つある。
一つは、6月6日の日記に記したCartwright論文でも述べられていたが、Russellの記述の理論はthe present king of Franceのような、ありもしないものを拒否するために考えられたものだと何となく思っていたが、どうやらそうではないらしいという指摘があること*2
二つ目として、Russellが“On Denoting”でやったことは、記述句の分析のみならず、記述句をその一部として含むdenoting phrasesを量化の装置を用いて、denoting phrasesが含まれない同一性を伴う一階の述語論理の論理式に書き換えてやることだ、と言われるのが普通だと思われるが*3、確かに結果的にはその通りだし、現代的観点から見るならばそう見ることに多くの利点があることは明白なのだが、Russellが“On Denoting”を書いていた時の彼の意図としてはそうではなかったらしいということ、
以上の二つである。今回はこの二つ目のみをもう少し以下に記す。


註3に記した飯田先生の文章を読んで、またそこで先生が依拠されているKaplanさんの記述理論の解説論文を読んで、Russellが“On Denoting”でやったことは、記述句の分析のみならず、記述句をその一部として含むdenoting phrasesを量化の装置を用いて、denoting phrasesが含まれない同一性を伴う一階の述語論理の論理式に書き換えてやることだ、と思っていた。しかしRussellは“On Denoting”で文字通り、この通りのことを意図して“On Denoting”を書いていたわけではない、というのが、上記Hylton論文で主張されていることである。確かに結果的にはdenoting phrasesを論理式に書き換えていることにはなっている。しかしそれが最終的な当時のRussellの狙いなのではなく、彼が目指していたことはもっと別のことにあったのだ、というのである。つまり現代の観点から理論的に再構成するならば“On Denoting”でやっているのは、denoting phrasesの論理式への書き換えである。だが実証的に歴史的観点から調べてみると、それはRussellのやりたかったことではない。これは例えば東京から京都に行きたい人がいて、実際に東京から京都に向かっているところをつかまえて、「あなたは上海に向かっている」というようなものである。確かに結果的には上海に向かっている。しかし行きたいと意図しているのは京都なのである。いずれにせよdenoting phrasesの論理式への書き換えとして“On Denoting”を読むことは、ひょっとするとアナクロニズムのそしりを免れないかもしれない。もう少し上記Hylton論文をかいつまんで略述してみる。


Hylton論文  Section II Russellian Background
Russellの基本的前提

    • 観念論の拒否

The Principles of Mathematics(PsM)を書いている際のRussellはHegel的な絶対的観念論に嫌悪感を持っていた。Hyltonさんの考えによると、この種の観念論の特徴は、何かしら主観的な概念枠とでも言うものを通して外界を知り、また外界について語る。Russellによると、このように何かを媒介にして語るのではなく、直接に外界のものを語ることによってこそ客観的に知識を述べることができるのであり、無媒介にでなければ主観的迷妄に陥ると感じていたようである。

    • Direct Realismの主張

Russellによると文は命題(proposition)を表し、命題には元の文が語っている対象がそのまま含まれるという。例えば「モンブランは4000メートル級の山である。」という文は、モンブランは4000メートル級の山であること、とでもいう命題を表し、この命題は心的でも物理的なものでもなく抽象的なもので、このような命題は主語の位置を占めるところにあの巨大なモンブランそのものが含まれるとする。件の文の主語「モンブラン」がモンブランの概念とでも言うべきものを表し、それが命題中の構成要素となっていて、そしてこのモンブランの概念があの巨大なモンブラン本体を指すなり表すなりしている、というのではない。「モンブラン」という言葉とモンブラン本体の間に何かが媒介されるのではない。その言葉は直接モンブラン本体に関係していて、その本体自身は命題中に含まれるというのである。このような実在論をHyltonさんは‘Direct Realism’と呼んでいる。そしてこのような実在論をもって言葉のいみについてRussellが考えたところによると、通常は存在しないものの名前であるとされる惑星「バルカン」や、神話に登場するものに関する言葉「ペガサス」にも、それに対応するものが何らかの形で在るとして、非常に多くの存在者を含むMeinong的な存在論を受け入れるのである。


Hylton論文  Section III Difficulties of Direct Realism
不思議なことにdirect realismは巨大な存在論を伴ってくるのだが、それは特にRussellの意に介するところではなかったようである。Hegel主義に反対するあまり、Hegel主義者が存在しないと言うものなら何でも存在すると言いたい気持ちであったため、Russellは法外な存在の宇宙にも安住できたようである。しかし「バルカン」や「ペガサス」には何か対応してくるものがあると肯定できても、文「すべての自然数は偶数か奇数である。」の中の「すべての自然数」のような無限のものに関わってくる言葉には、それがそのままその文が表す命題中に生のままいきなり現れてくるとはRussellには考えられなかったらしい。無制限なすべて、というものを直接語ることはできるのか? そもそもRussellはPsMで、観念論者とは反対に、数学が客観的な知識から成ることを立証したかった。そして数学ではあからさまに無限にコミットしている。ところでRussellによると客観的に知識を語るには、対象に直接言及できなければならない。したがって数学の客観性を明らかにするには無限について直接語れなければならない。だがRussellには「すべての自然数」のような言葉にはdirect realismに基付く意味論はそのままでは当てはまらず、迂回する作戦を考えなければならないとした。


Hylton論文  Section IV The Theory of Denoting Concepts
「すべての」というような言葉のいみについては、direct realismに基付く意味論はそのままでは当てはまらないので迂回作戦を取らなければならない。そのためdirect realismに基付く意味論に例外事項を設け、一部direct realismに基付かない意味論をRussellは考える。それは1903年PsMが出版される前の1900年か1901年から1905年に“On Denoting”を出す前までのことである。その迂回作戦とは、Frege的に言葉のいみにSinn/Bedeutungを区別するのと似たような感じで、言葉のいみにdenoting conceptとdenotationを区別するのである。Sinnにdenoteing conceptが対応し、Bedeutungにdenotationが対応する。そしてこのような迂回作戦が適用されるのがdenoting conceptをいみに持つdenoting phrasesで、この作戦により無限に関する「すべての」だとか虚構名「バルカン」や「ペガサス」、それに当てはまるもののない記述句「現在のフランス国王the present king of France」に対処できると考えたようである。Hyltonさんは言葉のいみにdenoting conceptとdenotationを区別するRussellの意味論を‘The Theory of Denoting Concepts’と呼んでいる。
ところでこのThe Theory of Denoting Conceptsによれば、虚構名「バルカン」や「ペガサス」、「現在のフランス国王the present king of France」に対処できた。それによると「バルカン」は、Frege的にdenoting conceptはあっても、denotationはなく、denotationはなくともdenoting conceptはあるのでいみはある、ということになる。ここからPsMの頃のように、無理やり「バルカンは何らかの形で存在する」と言わなくても済むようになり、Meinong的な巨大な存在の宇宙を抱え込まなくてもよいようになる。Russellはこのことを“On Denoting”でいわゆる記述の理論を考え出す前にはっきりと理解していたのである。


Hylton論文  Section V The Theory of Descriptions in Russellian Context
いわゆる記述の理論はMeinong的な存在のスラム街を一掃するために、Russellによって開発・採用されたと考えられているかもしれない。しかしスラム街の清掃は彼のThe Theory of Denoting Conceptsで用が足りる。そしてそのことにRussellは自覚的であった。こうしていわゆる記述の理論が開発・採用されたのは存在論のjungleを一掃するためである、とは無頓着に言えなくなる。ではどのような理由から開発・採用されたのか? 四つの候補が考えられる。そしてHyltonさん自身は四番目の候補を強く推す。
1. 記述句を論理学的に処理して、論証に現れる記述句を二値的な古典論理の中で真理値ギャップを伴うことなくシンプルに操作可能なものとするため。
2. いわゆる‘Gray's Elegy Argument’によると、denoting conceptという概念には不合理なところがある。denotationとしてdenoting conceptそのものを取った文を考えてみた場合、denoting conceptついて語ろうとしてもそう語った途端それはdenoting conceptについて語っているのではなくdenotationについて語っていることになる。これを避けるためにはdenoting conceptをdenoteする別のdenoting conceptについて語らねばならず、しかしこの別のdenoting conceptについて語ろうとすれば、さらにまた別のdenoting conceptについて語らなければならなくなり、無限背進に陥って行く。こうしてこのような不合理なdenoting conceptの理論は廃棄されねばならず、その後を受け継ぐことができるのが記述の理論である。
3. 元々The Theory of Denoting Conceptsで対処したかった問題は「すべての」というような言葉に見られる無限、あるいは一般性である。「すべての」というような言葉が出てくる文のいみに対応しなけらばならなかった。ところで「すべての」というような量化の表現が一つだけ出てくる文はいいが、複数出てくる多重量化文になるとThe Theory of Denoting Conceptsではそのままだと対処できない。複数出てくる「すべての」という言葉がそれぞれどのような相互関係にあるのか、indexなどを付けないとわからないのだが、そのような装置はThe Theory of Denoting Conceptsには備わっていなかった。このような難点に対処するのが記述の理論である。
4. 上記「Hylton論文 Section II」においても述べたが、Russellの基本的な態度は、客観的に知識を語れるためには、語ろうとしている当のものについて直接語れなくてはならない、というものであった。さもなければ主観的迷妄に陥ると感じていたのである。ところでThe Theory of Denoting Conceptsによるdenoting phrasesの説明では「現在のフランス国王the present king of France」のようにdenotationがない場合、語れるのはせいぜい「現在のフランス国王the present king of France」のdenoting conceptまでである。だがしかし、それもGray's Elegy Argumentにより不可能とされた。したがって「現在のフランス国王the present king of Franceは存在しない」と客観的に知識を語っていると見える際にも本当のところは何についても語っていないので、それは客観的知識になっていないということになる。このことは実は「現在のイングランド国王the present king of England」というdenoting phrasesについても同様である。というのはこの記述句はある個人について語っているように見えるかもしれないが、The Theory of Denoting Conceptsによりdenoting conceptを介してdenotationをdenoteしながらある個人について語っているように見えたとしても、記述句と、その記述句が語ろうとしているものの間にdenoting conceptを介在させることは、語ろうとしているものを直接語っていることにはならないからである。それにまたdenoteするということは実際のところいかなることなのか、Russell本人にとってもよくわからないと言うのである*4。以上から、direct realismによる意味論を全面的に回復し、denotingというような説明しがたい意味論的関係を一掃すること、そのために開発・導入されたのがRussellのいわゆる記述の理論なのである。


最後に。
飯田先生はご高著『言語哲学大全I 論理と言語』、勁草書房、1987年*5、のRussellの記述理論を説明される段において、この記述の理論は20世紀の言語哲学を語る上で欠かすことができず、この理論が載っている論文“On Denoting”が多くのアンソロジーに収録されて言語哲学を学ぶ学生の必読文献になってはいるが、「それだけに不思議なことは、この論文が何を問題としているのかが未だよく理解されていないことである。第一、この論文のタイトル自体が、多くの場合、無視されている。この論文でのラッセルの主要な関心事は、単に、定冠詞で始まる単数形の名詞句(「確定記述definite description」と後に呼ばれることになる)の処理にあるのではない。」と述べておられます*6
またこうも述べておられます。「たしかに、頁数だけを見るならば、「表示について」のほぼ八割は、確定記述句の問題にあてられている。だが、この論文において、確定記述句の問題に先立って、「all F」、「some F」、「an F」といった全称や存在の表現である表示句を含む文の分析が提示されていることを忘れてはならない。この論文の表題が示す通り、ここでラッセルが提出しているものは、表示denotingについての理論なのである。したがって、確定記述句についてラッセルがここで述べている事柄は、いずれも、この表示の理論全体というコンテキストを念頭に置いて解釈されるべきものである。/「表示について」の初めの部分で提示されている、全称や存在の表現である表示句の分析は、フレーゲによる量化の分析と基本的に異ならない。[…]」*7
私たちは先生のおっしゃる通り、タイトルを無視してはならない。“On the Theory of Definite Descriptions”ではなく“On Denoting”である。また先生がおっしゃる通り、「ここでラッセルが提出しているものは、表示denotingについての理論なのである。」
しかし先ほどからのHyltonさんの主張を聴いてくるならば、“On Denoting”に対する理解は先生の理解とは少々違ってくるかもしれない。というのはHyltonさんの説明によると、Russellが“On Denoting”でやろうとしていたことは、the Theory of Definite Descriptionsを作ろうとしているだけではなく、そもそもdenotingについてのものなのであり、しかもそのdenotingをRussellがどうしようとしていたかというと、それを量化装置で分析し、論理学の言語へと翻訳してみせるということよりも、そのようなdenotingという意味論的関係を消去してしまおうとしていた、そのために量化の装置で分析し、翻訳していたのだ、ということになる。「ここでラッセルが提出しているものは、表示denotingについての理論なのである」のは確かだが、その心はそのようなdenotingを廃棄してしまおうとしていた、ということになる。確定記述句のみではない、不確定な記述句や、量化表現をも分析の対象として含むのはもちろんであるが、Russellの真意としては、どのような語句が問題なのか、なのではなく、denoting conceptとdenotationの間に介在してくるdenotingという関係が問題視されるべきだったのである。だから“On Denoting”という表題を持つのである。
以上がHyltonさんの解説論文から言えることであろうと思われる。ただしもちろんHyltonさんの主張が正しければの話である。さらにもちろん私がHyltonさんや飯田先生を誤読・誤解していなければの話しである。もしもそのような誤りを犯してしまっているようならば、この場を借りて謝罪致します。申し訳ございません。いずれにせよ以上の話はきちんと検討してみなければなりません。なお、夜中にざぁーっと書き下したので、誤字・脱字があるかもしれません。お許し下さい。

*1:この論文は最近出た次の論文集にも再録されている。Peter Hylton Propositions, Functions, and Analysis: Selected Essays on Russell's Philosophy, Oxford University Press, 2005.

*2:Hylton, pp. 218-219. 6月6日の日記にこのことに関する極めて簡単なメモを記している。

*3:例えば、飯田隆 『言語哲学大全I 論理と言語』、勁草書房、1987年、151ページ、および170-178ページ。151ページにはこうある。「つまり、そこ[“On Denoting”]で提示されているのは、量化の分析に他ならない。」 また176-177ページにはこうある。「結局のところ、表示[denoting]に関する新理論を提示している「表示について[“On Denoting”]」の冒頭でラッセルが行っていることは、ある種の文を、量化理論の言語へと翻訳するための手続きを与えていることである、と言ってよい。だが、ラッセルによる量化理論のこうした「再発見」は、命題の分析ということに関してのラッセルの態度に対して、ほとんど革命的とも言ってよい変化をもたらした。/その変化の最大のものは、文の「表層的構造」が、その論理形式と必ずしも一致しないという洞察である。[…]そこ[“On Denoting”]での表示の理論を支配している原則は、まさに、こうした[文の表層的構造が、その論理形式と一致しないという]文法的単位と意味論的単位の同一視の否定である。」

*4:考えてみれば、これらのことに相当するFregeのSinnとBedeutungの間の認識論的関係もよくわからないような気がする。「SinnとはBedeutungの与えられ方だ」と言われても、認識論を本格的に極めた人からすればおそらく素朴に過ぎて、何ら説明になっていないと言われるだけではなかろうか。ここから考えてもdenoting conceptがdenotationをdenoteすると言われても、それだけならば説明に一段と余計な要素が入り込むだけで、逆に解決からは遠ざかっているとの批判が出てくるかもしれない。

*5:註3参照。

*6:飯田、150ページ。

*7:飯田、170ページ。