読書の感想: 三木清さんの最後

以下をカフェでつらつらと拾い読みする。

とても面白い。全部読みたいが、その間もないので所々を拾い読みするにとどめるが、意外に感じたことを一つ記しておく。
佐藤 卓己、『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』、ちくま新書筑摩書房などで8・15の神話が語られたりしていますが、上記奥平先生の著書をめくっていて意外だったのは、8・15でも9・2を過ぎてもまだなお、あの治安維持法が効力を持っていたということです。この法律が明示的に失効を宣言されたのは、どうやら10月4日のGHQによる通牒もってのことのようである*1。それまでは敗戦の日を過ぎても、思想的に問題があると当局がみなした者は、この法をもって逮捕すると公然と言明する大臣もいたほどである*2。戦争が終わってなおもこの法律は生きていて、大臣自らまだこの法律を振り回していたのである。恐ろしい…。私にとってはこれこそが神話に思える。
上記の佐藤先生は、丸山眞男さんが戦後民主主義の原点として8月15日を持ってきたことは、歴史的に不正確であり、神話を作り出していることになると、批判されているのだと思いますが*3、そしてまた8月16日の段階で、丸山さんが戦前からの治安維持法の枠内でものを考えていて、丸山さん自身、8月15日に考え方の大きな転換を経験したわけではないと、丸山さんに対する言行の不一致をとがめられているものと思われるのですが*4、しかしこれまた歴史的事実としては上記奥平先生のご本から、8月16日の段階ではまだ現として治安維持法は存続していたわけだから、その法律の枠内で思考していたと非難されても、それはちょっと酷かもしれません。別に丸山さんの肩を持つわけではないのですが…。
なおちなみにあの哲学者三木清は9月26日に獄死している。どうも治安維持法が戦後もまだ生きていたために、その余波をこうむって亡くなられたようである。ひどい話である。下記は本日における日本語版フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』、「三木清」の項目から引用させていただいたものである。

1945年、治安維持法違反の被疑者を仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、その後に豊多摩刑務所に移された。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、また腎臓病の悪化とともに、体調を崩し、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見された。終戦から一ヶ月余が経過していた。
中嶋健蔵の説によると、疥癬患者の毛布を三木清にあてがった。それで疥癬にかかり、全身掻きむしるような状態になり、26日の朝、看守が回ってみたら、ベッドの下の床に転げ落ちて死んでいた。もしアメリカ軍側がもっと早い段階で、気がついていれば、三木の命は助かったかもしれない。
たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。そもそも三木が獄中にとらわれていたことを親しい友人たちですら知らされないでいたことも、当時の思想弾圧の実態を表している。

*1:奥平、284ページ。

*2:奥平、282-283ページ。

*3:ただし上記の佐藤先生のご本は、そのことを立証しようとされているわけではないようです。

*4:佐藤卓己、「丸山眞男「八・一五革命」説再考」、『丸山眞男 没後10年、民主主義の〈神話〉を超えて』、KAWADE道の手帖シリーズ、河出書房新社、2006年、21ページ。