読書メモの続き: レヴィナス哲学における「苦しみ」の意味 2

昨日の読書メモの続きを以下に記す。

エリ・ヴィーゼルに関する間奏が一つ入る。

「無関心(indifferent)」になるな。苦しんでいる他者、孤独な他者、助けを呼んでいる他者、の叫びに耳を塞いで、通り過ぎるな。現代では、信仰の反対は無神論ではなくて、無関心である。道徳の反対は不道徳ではなくて、無関心なのである。これが、エリ・ヴィーゼルのメッセージである*1

なるほど、恐らく無関心が悪なのであろう。

苦しみはそれ自体としては無意味である。私の苦しみも、他者の苦しみも。その苦しみの極限には死がある。だから、死こそ極限の無意味である。私の死も、他者の死も。しかし、死ぬ者があげる呻き声が、助けを呼ぶ叫びが、他者を求めるとき、そこに他者の応答が現われるならば、そして、それによって間人間的な対話が生れるならば、この対話が苦しみを一挙に有意味化するのである。苦しみは意味をもつのである。もし、この間人間的な対話を愛と呼べば(愛というこの擦り切れて欲望と区別がつかなくなりつつある言葉を用いることにはいささか気が引けるが)、苦しみは愛を呼び起こす血路として意味を持ちうるのである。/ しかし、私の苦しみが他者の応答を呼び起こすという保証はない。そういう保証がある、と考えることは、レヴィナスのもっとも嫌う我有化、同化の一変種となるだろう*2

最後に出てくる「我有化」、「同化」というのはいかなることなのか、私にはわからない。しかし、やはりその通りだ。そして「愛というこの擦り切れて欲望と区別がつかなくなりつつある言葉を用いることにはいささか気が引ける」と先生はおっしゃるが、「区別がつかなくなりつつある」のではなく、既に区別はつかなくなっていると思います。区別がつかなくなって久しいと思います。しかし、気が引けるだなんておっしゃらないで下さい。確かにそれは愛なのだから。「愛」という言葉を使う以外、何と表現すればよいのか、私にはわからない。


そして最後に註(38)においては以下のように記されている*3

苦しみは、それ自体としては、本来無意味である。この無意味さを救済するために、数千年にわたって繰り返し試みられた弁神論は、二○世紀に頻発した大虐殺や大災害によって、目を刺す明晰さで終焉した。それでは、どのようにして、この無意味な苦しみを救うのか。それは、ただ、どれほど不充分であろうとも、人間が苦しむ他者に救いの手を差し伸べることによってでしかありえない。これが、レヴィナスの解決である。人間と人間との関わりが、無意味な苦しみをわずかに救うのである。レヴィナスは、この、人間を動かす惻隠の情もしくは慈悲の心が神だ、と言っている、と理解してよいだろう。

何てシンプルなんだろう、こんなにシンプルでいいのかと思うぐらいシンプルである。苦しみから人がわずかなりとも救われるのは、誰かに気を遣ってもらうことによってであり、手を差し伸べてもらうことによってである。そしてそこに神はある。それがレヴィナスにとっての神だったのか。


PS. 岩田先生の論文では、この他にレヴィナス存在論が語られている。しかしこれは私には難しすぎる。それでその部分は軽く読み流してスキップした。だが、贖罪思想を背景とするレヴィナスの苦しみと愛に関する話はとてもよくわかる。自分がレヴィナスにこれほど共感できるとは思ってもみなかった。難しい哲学用語からレヴィナスを読み始めるのもいいかもしれないが、このような贖罪思想の角度からアプローチするならば、私のようにレヴィナスに共感する人もたくさん出てくるのではなかろうか。
終わりにあたって、私にとって強く胸打つ言葉を以下に記しておこう。これは代理贖罪の精髄を表しているように思われてならない。強制収容所の中で囚われの身の精神科医が、仲間に向かって絶望的な事態からの精神的な脱却を訴えて最後に語る*4

そしてしめくくりとして、犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことには意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。[…] / わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないころ、天と契約を結んだ。つまり、自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことを欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。

「犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある」。その通りだ。まったくその通りだ。これはまったく愛だ。まったき愛だ。愛以外の何ものでもありえない。そしてこれはレヴィナスの言う苦しみか、あるいは神のことと思われる。私には、そのように思われる。

*1:49ページ。

*2:51ページ。

*3:57ページ。

*4:ヴィクトール・E・フランクル 『夜と霧 新版』、池田香代子訳、みすず書房、2002年、139-140ページ。