入手文献: 岩田靖夫、『三人の求道者 ソクラテス・一遍・レヴィナス』

《神または超越の探求》をテーマに、古代ギリシア、中世鎌倉仏教、そして現代ユダヤ思想を経巡る、哲学者の思索。初めに、徹底的理性主義者と見られがちなソクラテスの神の問題を論じ、無知の知の根本的な意味をたずねる。次に中世日本において「南無阿弥陀仏」と唱えれば悪人でも救われると説いた一遍上人の歩みをたどり、教えの根底にある自他不二の境地を考察。第三に、苦しみの意味を他者との交わりから探究したレヴィナスの難解な思想を読みとく。諦めることなく真理を追求し続けることの意義をといた明快な講演。

新刊。レヴィナスの章に興味がある。この章は

の元となった講演。『哲学雑誌』の最新号がレヴィナス特集だけどそこでの岩田先生のレヴィナス論を拾い読みしても、深い印象に襲われる。身体が本当にしびれる。今日購入した上記の本のレヴィナスの章で印象深い言葉を以下に記しておく。

存在の世界は、無意味に埋め尽くされているのです。どこもかしこも無意味に埋め尽くされている。[…] レヴィナスに言わせると、無意味な存在に意味を与えるために人間はこの世に送られてきたのです。無意味な存在に意味を与えるとは、善を吹き込む、ということです。つまり、善は存在の世界にはないのです。[…] では、善はどういうふうにこの世界に関わってくるのかというと、人間の行為として、あるいは、究極のところは、人間の他者への関わりとして、この世へ到来するのです。これがレヴィナスの思想のたぶん結論だと思います。*1

実感としてわかる気がする。きっとその通りだという気がする。

神は、私を唯一の者、特別な者、かけがえのない者、として世界から引き抜くために、私に災いを下す。*2

すごい言葉である。強靭な言葉だ。私に対する災いが、私の人生に意味を与える。私に対する災いを、それがもしどうしても避けがたいものならば、運命として引き受け耐え忍ぶこと。そこで人は本当に立派な存在となる。高貴な存在となる。そこにおいて人は自らの使命を見出す。可能ならば、自らに対する災いが生ぜしめる苦悩を他の人の身代わりとして引き受けること。そのことができたならば、きっと救われるだろう。私もその他の人も。赦されるなら、愛する人のために私を殺して下さい。私はそのように死にたいとさえ思う。その死はすばらしく意味のあるものとなるだろう。私にとっても私の愛する人にとっても。
お酒を飲んで少し酔ってます。しかし分析系の哲学に親しんでいる自分が、これほどまでにレヴィナス=岩田先生の文章に魅かれるとは思いもしなかったな。

*1:岩田、120ページ。

*2:岩田、131ページ。