入手文献: 岩田靖夫、『神の痕跡 ― ハイデガーとレヴィナス ― 』

存在への問い,西欧形而上学を導いたこの根本的な経験は,果たして〈他者〉と出会う場をひらくだろうか.ギリシア悲劇から,ハイデガーの存在,レヴィナスの神まで,新しい倫理を開く〈問いの道〉を求めた思索の記録.


132-136ページに昨日の忘恩に関する話が語られている。胸震えるものがある。一部引用しておく。135ページ参照。

[善をなすという]その業が自己の勝利を体験しようと性急に直接の報酬を求めたならば、その絶対的な善意を失うであろう。[自己から他者へと到る]一方通行の運動が相互性へと逆転するであろう。[…] だから[そうならないためには]、一方方向への行為とは忍耐の中でのみ可能になる。その忍耐とは、極限にまで押しつめれば、行為者にとって断念を意味するのである。すなわち、[…] 自分の行為の結末の同時代者であることを断念することである。

なんときついことか! 断念とは! 自らのなし得た善意の結果を見届けずして死なねばならないこともあり得るということ。いや、本来的に結果を見届けることは禁じられているのだ。そのもとに人は善行をなさねばならないとは!
ここで私の好きな言葉を続けて引用しておこう。これはここで引用するにふさわしい言葉だ。

犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある*1

その通りだ。これら二つの引用文に流れる精神は同じ一つの源から流れ出している。それは、無償の愛だ。見返りを求めず、不利益を厭わない、まったき愛だ。で、お前はその愛に値する男か? このような愛を生き抜き、貫き通せる男のなかの男なのか? お前が愛する人の前に立った時、誰かがお前を見ているであろう。その女の愛に値する男であるか、そのことを審問するべく誰かがお前のことを見ているであろう…。

*1:ヴィクトール・E・フランクル 『夜と霧 新版』、池田香代子訳、みすず書房、2002年、139ページ。