Memo: J. Bentham on Industrial Revolution

先日、ある先生から「J. BenthamのUtilitarianismと産業革命の関係は如何?」と問われる。もちろん答えられない。
今日入手した文献のBenthamの項目を見ていると、その関係の如何が簡略ながら素描されている。
入手した文献を置いてきてしまったので、その関係の如何を思い出しながら、勝手に大雑把に敷衍しつつ以下に記しておこう。


Benthamが生きていた頃が産業革命の時代であり、彼が亡くなった頃に産業革命も終わりを迎える。
彼は自然法に反対し、実定法に法を限定しようとした。自然法は、恐らく明文化されていなかっただろうから、判然としたものではなく、一方実定法は明文化されていて、明確である。このように判明な実定法こそ法とすることで、人は何が法に適っており、何が法に適っていないかを、明瞭に判断することができ、そのもとで多くの場合適法な行為を取ろうとするだろう。こうすることで人は人の行動を予測し計算することが容易にできるようになる。
ところで複式簿記の発明は、経済活動の面において、取り分け資金調達・運用の面において、資金の流れを計算し、予測できるようにした点で、画期的であり、このいみで複式簿記は近代的な資本主義を用意したと言えるとは、Max Weberの見解であったと思う*1
さて、近代の資本主義市場において重要なのは、以上に見られる人と資金の予測可能性・計算可能性を取り付けてやることである。人と資金の予測可能性・計算可能性を取り付けてやることで、資本主義市場社会は全面展開を可能にするのであろう。
こうして人の法的な側面で、予測可能性・計算可能性を取り付けてやる作業を果たしたのが、J. Benthamの法思想であり、人の経済的な側面で、予測可能性・計算可能性を取り付けてやる作業を果たしたのが、複式簿記の採用であったと言えるのかもしれない。Benthamが「快楽の計算」と言う時の「計算」は先ほどから述べている「計算可能性」の「計算」と無関係ではないのかもしれない。そしてこのような快楽の計算を柱とするのが彼のUtilitarianismであった。
なおこの複式簿記がEnglandで採用され始めるのは、産業革命が終わった頃からだと言われている*2。このことと類比的に、法を実定法に限定するというスタンスがEnglandで多数を占め始めるのも、もしかするとBenthamが亡くなってからのことなのかもしれない。


以上、思い出しながらの記述である。極めて図式的な概略である。正しいかどうかは定かではない。大体私は法学に無知である。また上記の複式簿記うんぬんというところは、本日の入手文献にはまったく描かれていない。Weberを読んだ記憶に頼って補足してみたものである。
また先生にお会いしたら、この宿題に上記の通りご回答申し上げてみよう。

*1:マックス・ヴェーバー、『宗教社会学論選』、大塚久雄、生松敬三訳、みすず書房、1972年、の巻頭の論文中での発言に見られたと記憶する。今は面倒なので、確認をpassする。

*2:友岡賛、『歴史にふれる会計学』、有斐閣アルマBasic シリーズ、有斐閣、1996年、に書いてあったと記憶している。この本も訳あって今手元にない。