Memo: A Chronology of Frege's Nachlass

  • Kai F. Wehmeier and Hans-Christoph Schmidt am Busch  “The Quest for Frege's Nachlass”, in: M. Beaney and E. Reck, ed., Gottlob Frege, Critical Assessments of Leading Philosophers Series, Vol. 1, Frege's Philosophy in Context, Routledge, 2005

この論文を読んで、FregeのNachlassを巡る出来事をここにメモしておく。
このメモは私的な暫定的メモである。
以下の年表中の記述がすべて事実だ、というわけではまったくない。年表中の記述に関しては、論文著者たちにより、否定されている事柄も含まれる。
また、きちんと校閲・校正をしていない。
内的整合性にも欠けるところがあるかもしれない。
そして何よりも私にしかわからない書き方になっているかもしれない。
ただ、上記論文を読みながらであれば、幾分了解可能になるかもしれない*1

    • 1936年2月15日、Alfred FregeはNachlassをMunster大図書館に移すことに同意する手紙を書く。
    • 1936年3月2日、了承したとの返事が図書館から返信される。
    • 1936年3月、ScholzはNachlass出版資金、および出版の作業のための人件費の助成を申し出る。
    • 1936年4月、Scholzは教え子にFregeの書簡をタイプ打ちさせ、完成させる。
    • 1936年6月、Nachlass出版のための作業が始まる。
    • 1936年中にNachlass出版作業が完了したか、中断したものと推測される。
    • 1943年6月11日、Fregeの文書が入ったfolderが防空壕に退避させられる。
    • 1943年10月10日、Scholzの研究室が空襲で破壊される。Fregeの原稿が保管されていた防空壕が空襲で崩壊する。原稿はその後救い出される。
    • 1943年10月以降、Scholzの文書によれば、Fregeのoriginalの文書はMunster大図書館に移された。
    • 1944年11月初旬から1945年3月15日までは、少なく見積もっても、the former head of the manuscript department Dr. Heinrich Jansenは病気療養休暇でMunsterを不在にしていた。
    • 1944年から45年にかけての冬、Munster大図書館、Munster大行政部は、Munsterから100キロほど離れたSalzuflenに疎開する。このとき、図書館蔵書の実質的部分も疎開させられる。
    • 1945年3月15日以降、Heinrich JansenはSalzuflenのMunster大図書館で仕事を再開したと思われる。
    • 1945年3月25日、Munster大学図書館のFrege Nachlass、空襲で焼失?
    • 1946年12月12日、ScholzはMunster大図書館director Dr. Christoph WeberにFregeのNachlassに関し手紙を書いている。この頃WeberからNachlassの状態について手紙で報告を受けているようである。
    • 1961年2月2日付け、Heinrich Jansenからthe then head of the manuscript department Dr. Steffensへの手紙が近年発見される。そこにはこうある。NachlassはScholzによりMunster大図書館に1941年頃移管された。それまでは[?]MelcherstrasseにあるScholzの自宅にNachlassは保管されていたが、Munsterへの空襲が始まり、Nachlassへ危険が及ぶと判断されたためである。Nachlassは図書館文書部書庫でいくつかの黒い段ボール箱に入れられていた。1943年頃、黒段ボール箱達は安全な場所へ移されて、1946年夏、Munster大図書館に無傷のまま戻された。Nachlassは退避させられなかったので、1945年3月25日日曜日の爆撃ですべて焼失した。
    • 1961年2月15日付け、Munster大図書館director Dr. BauhuisからFrege Nachlass editor Hans Hermesへの手紙が、1945年3月25日のFrege Nachlass焼失情報の従来における根拠である。その手紙において、Heinrich Jansenの話として、1941年頃、Scholzの手により、NachlassはMunster大図書館に移管された、1945年3月25日日曜日、空襲によりNachlassは焼失した、とある。

*1:なお、FregeのNachlassについて、それを刊行された書物を指すイタッリク体では、以下の年表中、表わさないことにする。というのも、件の論文中で、あるいはまたH. Scholz自身がFregeの遺稿ということで、正確には何を指していたのかが、判然としておらず、だからこそ、Fregeの遺稿は残存しているのではないか、という件の論文の論点が立てられているのであって、元からFregeの‘Nachlass’のいみがあいまいなのであり、これが明瞭であれば問題の論文も書かれはしなかった。そのようなわけで、論点の本格的な究明の前には、‘Nachlass’のいみを不分明なまま置いておく他はないものと思われる。よって年表中、‘Nachlass’は斜体で表わさなかった。加えて年表中には「文書」だとか「原稿」などの言葉も見られるが、これらも正確には何をいみしているのかはわからない。