日々ベストを尽くすこと: ヴィクトール・E・フランクル

某先生が突然お亡くなりになる。とてもびっくりする。
数日前も歩いておられるのをお見かけした。普通に歩いていらっしゃった。
いつもテンション高めのきびきびとされた明るい元気な先生でした。
日本人の平均寿命の半分にも達しておられず、若手でこれからの先生だった。
私自身はあまり深くお付き合いさせていただいていなかったが、いつもとても気持ちよく接してもらっていた。
急に倒れられたそうである。
まったく信じられない。
本当に人間の運命はわからない。
残された者は日々ベストを尽くさねばならない。


日々ベストを尽くすということは、どのようなことだろうか?
私は以下のようなことだと考えている。
V. フランクルさんの本から引用する*1

[自分の人生を放棄した] このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。[強制]収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。被収容者として過ごす時間がもたらす過酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。その可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人びとだった。しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。ごくふつうのありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。しかしそのほかの者たち、並みの人間であるわたしたち、凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。


「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」


これは、こう言い替えられるだろう。


強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」


けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

私達は確かに未来を信じて生きている。
今後きっといいことがあると信じて生きている。
だからその時になって自分の真価が発揮されるのだろうと思ってしまう。
しかしいつか真価が発揮されると思っているようではもう遅い。
今が本番なのである。今すぐできうる限りの力を振り絞らなければならない。
確かな未来がやってきて、それから自分の真価が発揮されるのではなく、
日々小さな真価をこつこつ発揮し続けた結果、確かな未来がやってくるのである。
そうでなければ確かな未来などやってこない。
きついけれども、これがこの世の真実なのだろう。


先生のご冥福をお祈り致します。

*1:ヴィクトール・E・フランクル、『夜と霧 新版』、池田香代子訳、みすず書房、2002年、121-23ページ。