今日、次の本をひも解くと、大変興味深いことが書かれている。ちょっと意外な感じがして驚いた。
- 三上章 『日本語の論理 −ハとガ』、三上章著作集、くろしお出版、1963年
西洋系統の哲学の勉強をしていると繋辞(copula)の話が出てくる。例えば
-
- Plato is a man.
という文がある時、「copulaは何か?」と聞かれれば、その種の哲学を勉強している者のまず誰もが「‘is’ だ」と答えるだろう。
私もそうである。
そして
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- プラトンは人間である。
という日本語文がある時、「この文の繋辞は何か?」と聞かれれば、「『である』だ」と答えるか、あるいは「『 は である』だ」と答えるだろうと思う。私は「『 は である』が、その繋辞だ」と答えるだろう。
これは私だけのことではないようである。
例えば「存在」という語の翻訳事情を報告されている以下の文章
では、
-
- 私は少年である。
- 人間は動物である。
の「である」が繋辞であると述べられている*1。
またcopulaに強いご関心をお持ちである哲学者の藁谷先生の以下の論文では、
次のようにある*2。
因みに日本語では繋辞は「である」の一種類しかない。
以上いずれにせよ、
-
- プラトンは人間である。
の「である」か「 は である」が繋辞であろうと、私は特に考えもせず、そう思ってきた。
しかし今日、この項目の最初に上げた三上さんの本を見ると、自分としては意外なことに、「プラトンは人間である。」という例文に関して言うと、この文の「は」のみが繋辞だ、というのである。「である」は繋辞ではないのである*3。
例えば
-
- 花は紅。
という文があるが、このような例から、「は」が繋辞の機能を果たしていると考えられるようである。
「である」がなくても、「は」が繋辞の役割を果たしている。
実際、上記の柳父さんの文章を読むと、「である」はオランダ語の‘is’に相当する語の翻訳だそうである。‘is’に相当するオランダ語のcopulaに対し、一対一に対応する日本語をあてがうことを考えた場合、「である」という当時あまり使われていなかった日本語を持ってきた、とのことである*4。
つまり、西欧語のcopulaに相当する語に日本人が出会ってから、「である」をそのcopulaの訳語とし、それからその後この「である」が日本語での繋辞だ、と思われるようになったみたいである。いわば「である」は、be動詞の対応語・翻訳語としてわざわざ作られた/持ってこられたわけである。元々なくて済んでいたところにわざわざ持ってこられた、というわけになる。
だが実情は次のごとくかもしれない。まず‘Plato is a man.’の‘is’に対応する訳語として「である」が作られた。そしてこの‘is’がcopulaとして振る舞っているなら、その訳語である「である」もcopulaとして振る舞うはずだと思われた。だが実際の機能を見れば、「プラトンは人間である。」の「は」がcopulaとして振る舞っている、というわけである。
だから「である」がなかった時代では、「は」だけで済んでいたのであり、「は」が繋辞の役割を果たしていたのであろう。
もしもであるが、もしも以上の通りだとするならば、元来の日本語においては繋辞に相当する語は、「プラトンは人間である。」という例文の場合、「は」がそうであって、「である」ではない、ということになるのかもしれない。
PS.
ただし以上の話に関しては、調べてみると、国語学界、日本語学界においては、充分な総意がないのではないかと思われる。「は」だけが繋辞だ、という説に同意する人もしない人もいるようである。だから少なくとも三上説によれば「は」のみが繋辞だ、ということになる。
いずれにしても、充分検討せずに「である」が繋辞だ、とすることは、あるいはかなり安易なことなのかもしれないと感じられる*5。