Knowledge by Acquaintance and Knowledge by Description

2008年3月1日の日記で

  • Ray Perkins, Jr.  “Why “On Denoting”? ”, in: Russell: the Journal of Bertrand Russell Studies, vol. 27, issue 1, 2007

を読んだ結果として、the theory of descriptions は propositional functions の理論である可能性があることが言われていた。そしてpropositional functions は Russell にとり、見知りの対象であるらしいと述べた。


さてそういう訳で、上記の論文が収録されている Journal に、次のような論文も収録されていることから

  • Russell Wahl  ““On Denoting” and the Principle of Acquaintance”

今度はこの論文を読もうかなと思った。しかしその前に見知りによる知識と記述による知識を確認しておく必要がある。


そこで見知りによる知識と記述による知識が何であるかを

の「第五章 見知りによる知識と記述による知識」を元に、以下で箇条書きに近い形でまとめてみた*2

英語原典としては電子テキストである

  • Bertrand Russell  The Problems of Philosophy, Home University Library, 1912, Oxford University Press paperback, 1959, reprinted, 1971-2, edited in hypertext by Andrew Chrucky, 1998

を拝見させていただいた。なお以下のまとめには、一部私自身の補足も含んでいる。


見知りによる知識

S が O を見知る: S is acquainted with O, S has acquaintance with O.
S が O を見知るとは、S が O を、推論または判断を介することなく、直接余すところなく完全に知ることである。
S が O を、推論 [inference] または判断 [knowledge of truths] を介することなく、直接 [directly, immediately] 余すところなく完全に [perfectly and completely] 知る [aware, conscious, know]。


見知りの対象
見知りの対象には、感覚与件、記憶、内省、自分自身、普遍がある。

    1. 感覚与件 sense-data: 机の色、形、堅さ、滑らかさ。
    2. 記憶 memory: 思い出されているもの [what I remember]。
    3. 内省 introspection: 太陽を見ている時に、太陽を見ていることを思うならば、その太陽を見ていることを思っていること [my seeing the sun]。その他に、空腹を感じていること [my desiring food]、喜びを感じていること、痛みを感じていること、一般に私の心の中で起こっていること [the events which happen in my mind] を感じること、すなわち自意識 [self-consciousness] 一般。
    4. 自分自身 my bare self: 思考や感情を持つ私 [I]。
    5. 普遍 universals: 白さ [whiteness]、違い [diversity]、兄弟関係 [brotherhood] のような一般観念 [general ideas]。

1. 〜 4. はそれぞれ特殊者 [particulars] であるが、5. は一般者 [universals] である。
また、4. の自分自身が見知りの対象であるというのは、蓋然的にしか言えない。


記述による知識: 確定記述 [definite description] による知識

S が O を記述によって知る: S knows O by description.
S が O を記述によって知るとは、S が O を the so-and-so として知ることである。
S knows O by description: As regards O, S knows that it is the so-and-so.

そして S が O を記述 the so-and-so によって知っている時、O は so-and-so という性質 [property] を持っており、かつその他にその性質を持つものはない、ということをいみしている。

記述の例: the first Chancellor of the German Empire, the founder of the Roman Empire, the man who was assassinated on the Ides of March, the man with the iron mask.
1番目の記述は Bismarck を表わし、2番目と3番目の記述は Julius Caesar を表わす。4番目の記述は Louis XIV 治下の La Bastille にマスク/ベールを付けて収監されていた、しばしば文学作品にも翻案されることになる、ある国事犯を表わす。


記述の対象
Bismarck, Julius Caesar など。
例えば、記述 ‘the first Chancellor of the German Empire’の対象は Bismarck である。また記述 ‘the founder of the Roman Empire’の対象は Julius Caesar である。記述 ‘the man with the iron mask’ならば、その対象は Louis XIV 治下の La Bastille にマスク/ベールを付けて収監されていた、しばしば文学作品にも翻案されることになる、ある国事犯である。


一般に、記述によって何かを知っている時、見知りによってはそれを知っていないのが通例である。21世紀の我々にとって、Bismarck も Julius Caesar も、例の国事犯も、記述によって知りはするが、見知りによって知ることはない。
そして記述によって見知っているのは、通例、その記述句を構成している語句の表わす特殊者や普遍者のみである。例えば記述句‘the man who wrote Botchan’で我々が見知っているのは、『坊ちゃん』という特定の小説である特殊者であり、人という普遍者や「 が を書いた」が表わす普遍者であったりするものと考えられる。その一方で夏目漱石本人を見知る者はもはやいない。


以上のまとめに対し、誤字・脱字・誤解・無理解が見られるかもしれません。その点を正していくことについては今後の課題と致します。

*1:中村先生訳を選んだのは、中村先生訳に以前から親しんでいたためです。他の訳書を選ばなかったことについては、特に他意はございません。

*2:Russell 自身による見知りに関する理解は、時期を追って変化している。今回は The Problems of Philosophy における Russell の理解をまとめている。彼のこの理解の変化については、土屋純一、「見知りによる知識」、『金沢大学文学部論集 行動科学科篇』、第3巻、1983 を参照。